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平成ポケノベ文合せ2013 〜春の陣〜【終了】
日時: 2013/03/21 22:59
名前: 管理者

こちらは「平成ポケノベ文合せ2013 〜春の陣〜」投稿会場となります。

参加ルール( http://pokenovel.moo.jp/f_awase/rule.html )を遵守の上でご参加ください。


◆日程

テーマ発表 2013年03月21日(木)
投稿期間 2013年03月21日(木)〜2013年04月14日(日) 23:59
投票期間 2012年04月15日(月)〜2012年04月28日(日) 23:59
結果発表 2013年04月29日(月)20:00

日程は運営等の都合により若干の前後が生じる場合がございますので、どうぞご了承ください。
また今回は前回までと比べ、各日程が短めに設定されております。


◆テーマ

テーマA 「ガラス」(一次創作可)

窓を始めとして、電灯や器、アンティークなどなど身近にあふれるガラス。ガラス工芸は美しけれど乱暴に扱えば儚く砕け散ってしまう……。誰だってガラスコップの一個や二個くらい割ったことあるでしょう?


テーマB 「旗」(ポケモン二次創作のみ)

旗とは志を等しくするものが、集まるための象徴(シンボル)……。今こそあなたの意志を旗に載せて掲げ、思いのたけを旗の元へ!


◆目次

>>1
【A】オブジェクト・シンドローム

>>2
【A】ガラスのとりかご

>>3
【A】ガラスの器

>>4
【B】星降りの誓い旗

>>5
【B】神速の旗

>>6
【B】I wanna be the HERO !!!

>>7
【A】ガラス色の終末

>>8
【A】Fake

>>9
【A】灰かぶり

>>10
【A】タマムシブルース2013

>>11
【B】氷雨に声が届くまで

>>12
【B】零

>>13
【B】敗者

>>14
【A】あの空を目指して

>>15
【A】ガラスを割る反発。それを防ぐ葛藤。

>>16
【A】ガラス職人

>>17
【B】もりのはた おやのはた

>>18
【B】すてぃーるふらっぐ

>>19
【A】そこはまるでヨスガのようで

>>20
【B】表すは穏やかな海

>>21
結果発表

>>22
総評
メンテ

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オブジェクト・シンドローム ( No.1 )
日時: 2013/04/12 20:15
名前: 水雲



 テーマA:ガラス


<!DOCTYPE html PUBLIC "-//W3C//DTD HTML 4.01 Transitional//EN">
<html lang="ja">

<head>
<theme>A-Glass</theme>
<title>Object Syndrome</title>
</head>

<body bgworld="MND" author="Rotom-MND">

<ul>
<li>テーマ</li>
<li> A </li>
<li>ガラス</li>
</ul>


 ああ、いきなりどうも失礼した。私的な記録として残すための、ただの定義付けだ。どうか気にしないでいただきたい。
 それでは、どこから始めようか。
 そう。
 最初に打ち明けておくと、私は0378に恋していた。


 時が6を示し、分が0を示す。
 そうすれば、さあどうだろう、体内時計がサスペンドを自動的に解除し、起動回路をキックされ、私は勝手に目を覚ましたではないか。私のメインシステムが『休眠モード』から『活動モード』へと変更される。サブシステムのテストラン。休んでいる最中に体内へたまっていたノイズをスキャニングし、キャッシュをみじん切りにしてパケット化、さっさとこの世から抹消する。人間は朝食を摂ることで一日を始めるようだが、私の場合は一体どういう言葉をあてはめるのが適切なのだろう。それは図書館を調べてもわからない。
 情報インフラが発達したこのご時世、人間にも昼夜などおよそ関係なくなったようで、私が寝ている間にも複数のモノたちがここへ届けられる。「モノを引き出したい」という人間からの要求信号があった場合、私は夜中だろうが問答無用で叩き起こされるのだが、今日は珍しく「モノを預けたい」との要求信号しかなかったようだ。単純な預け入れだけであれば、略式エントリーのプロセスに任せているだけでいい。私がリアルタイムでしゃしゃり出る必要もないので、久しぶりに朝の六時まで休むことができた。
 よし、仕事を始めよう。
 マザーCOMへリクエストを送り、私は新しく入ってきたモノたちのリストを受け取り、まずは新入りのそれらを広場へと呼び出す。早朝に決められた私のルーチンワークだ。
 早速、私は広場へと向かった。
 Rotom : < おはようございます。初めまして、ここ電脳世界-MNDでは、わたしが管理者です。パーソナルネームはRotom-MND、分類ナンバーはΣ-109375。えらく長ったらしいので、気軽にRotomと呼んでください。御用の時にヘッダーに添える名前もそれで結構です。あなたたちの主人に現実世界へ引き出される時までは、わたしが責任を持って管理いたします。ああまだ動かないでください。心配はいりません、大丈夫ですよ。それぞれの友達のところへ、きちんとこちらで誘導しますから。 > : end
 モノたちは少しばかり戸惑っている。住み慣れない世界、モノを相手に堂々と話しかけてくる存在。まあ無理もなかろう。
 私は改めてひとつひとつにチャンネルを合わせて挨拶しながら、不具合がないかを確かめる。ここへ送られた際にオートで割り当てられたパーソナルタグを上書きし、お互いが呼びやすい数字をセットする。マザーCOMのプロセス領域のどこかに不備があるらしい。ここへ来る際にかなりの頻度で文字が化ける仕様は、どうも未だ改善できていないようだ。文字コードの海から探さねばならないほどのすさまじい記号で名付けられる輩も、決して少なくはない。
『ねえねえ』
 突然のコネクション。
 無視した。
 こちらの処理が先だからだ。バックグラウンドでは、「聞こえた」との応答信号が向こうへエコーバックされるはずだ。
 Rotom : < えっと、はい、これで結構です。今日からはここがあなたたちの家となります。主人に呼び出される時までは、その数字があなたたちの呼び名です。6065、0189、1077、よろしくお願いしますね。基本的には自由に行動してくださって結構です。が、ひとつだけ注意事項があります。ここ電脳世界-MNDの領域外、そうですね、近所で言えばPorygon-RIZの管理する電脳世界-RIZなどへは行かないこと。いるんですよ、たまに。本来なら動くことを嫌うモノのはずなのに。あそことは規格が異なっているため、最悪の場合、あなたがたのパーソナルデータが破壊され、わたしたちや主人たち永遠に見つけてもらえなくなります。 > : end
 脅すことは別に趣味ではないのだが、こうして反応を調べることも私にとっては重要だ。素直なモノには信頼を寄せ、不満を漏らすモノには要注意とマークしておく。モノとしての本分を了解しているのか、今回は全員聞き分けがよく、あっさりと了承してくれて助かった。ヒマワキの木で造られた椅子である6065、カイオーガのピンナップポスターである0189、シェイミ色をした絨毯マットである1077。今日の新入りはこの三つ。『お元気で』との旨をフッターに添え、私は主人のモノたちがたむろしている場所へと各々転送した。
 さて。
 先ほど送り返した応答信号のログを自分で探り直し、私はステイタスに目を通す。パーソナルタグは――
 案の定だった。
 苦笑する。いくらかおかしそうな語気を込めて、正式なレスポンスを飛ばす。
 Rotom : < やはりあなたでしたか。 > : end
 再びのコネクション。
 すると、一体のモノがアバターの姿を借りて広場へ現れた。
『おはよう。ねえ、あたしの声、聞こえてたんでしょ。なんでさっきは無視したの』
 Rotom : < 仕事がありましたから。というより、まだ残っていますよ。 > : end
『休憩しなくていいの?』
 Rotom : < 今し方始めたところですって。電気を食べていればいいだけの話ですから、ここの世界で休憩だなんて、もともとはいらないのですよ。 > : end
 つまんないの、とだけ言い残し、モノはすぐに行方をくらました。
 あのモノこそが、パーソナルタグ0378。現実世界での正式名称「ガラスのオブジェ」だった。


 詳しく話せば長くなる。
 私が「モノ」と対話できるようになったのも、それほど最近の話ではなくなってしまった。モノたちの配置が昨日と比べて若干変わっているのも、私の気のせいではなかったのだ。
 自分で言うのも何だが、ロトムである私はまだ若い。だから、寿命が来てしまったという自覚はない。とするとつまり、私が「生物」ならぬ「静物」としての感覚を徐々に得ていってしまったのではなかろうか、と考えている。そんな私を異常だと客観的にとらえるのも、まあ妥当な判断であろう。しかし、自身にシステムリカバリをかけるつもりもさらさら無いということは、ここで明言しておこうか。電脳世界-RIZのポリゴン――私よりずっと年配だが――も、とっくの昔からモノたちと対話できる力を獲得していたらしい。他の管理者のことまでは知りかねる。
 電脳世界-MNDへ閉じこめられてからの八年間、他の管理者たちと同様、私はずっとモノたちの管理を担っている。ファイルの整理をし、こちらの縄張りへ迷い込んだコマンドに回れ右の信号を送り、暇さえできればモノたちと他愛ない雑談を交わし、そうして私は一日をここで過ごしている。
 現実世界、時の移ろいでモノはホコリをかぶる。
 それと同じだ。
 電脳世界、時の移ろいでモノはノイズにまみれる。
 誰かが定期的に掃除をしてやらねば、いつかはデリケートなデータをノイズに埋め尽くされてしまい、半永久的に見つけてもらえないまま、電脳世界の蒸気に蒸され続けることとなる。
 お局であるマザーCOMからの信号と命令が跋扈するこの世界。外部アクセスによる人間とのフロントエンド。天文学的なまでの電気と数学によってここは成り立っている。高科学文明である今日(こんにち)を鑑みると、マザーCOMは処理能力の精度に欠けるポンコツババアで、しかし思ったよりもずっと秩序めいていた。
 かく言う私も馬鹿が伝染った。荒んだこころはいつか平穏を取り戻すものらしく、人間たちの童心につきあうのもそれほど悪い話ではないと思うようになってしまった。人間は大地のどこかへちょっとした小部屋を作り、モノを好きなように配置し、自分だけの秘密基地を作り上げる。手に余るほどのモノはコンピュータを経由して電子化し、私が預かり、引き出される時まで管理するのだった。人間たちの秘密基地を己の牙城と呼ぶのならば、差し詰めこの電脳世界-MNDが私の城であった。


 ――おい、聞こえてんのか。返事くらいしろよ。
 最初に言葉を交わした相手は、そう、パーソナルタグだけは忘れもしない。0098だ。当初はバグだとばかり思い込み、交信記録の大半を処分してしまったため、残念なことに、データの残滓から想像しうる姿形はもうほとんど憶えていない。0098は果たして椅子だったのか、机だったのか。はたまた皿だったのか、コップだったのか。わずかに残った断片化ファイルだけでも生かしておこうと思って、厳重なロックをかけておいたはずなのに、知らぬ間にパケット化し、電脳世界の海へと還してしまったようだ。0098と初めて言葉で接触したその瞬間から動き続けている記念時計は、ゆうに200メガのセカンドを越える。七年を過ぎた今もなお、情けないことに私は後悔し続けている。
 もちろん、当時の私は衝撃のあまり言葉を失っていた。
 ――驚いた、って、はあ? アホ言え。あのな、おれたちにもはっきりとした意思が存在するんだ。電気(メシ)食って動いている中途半端なやつらなんか特に顕著だろ。微細な電位ひとつひとつに小さな意識を存在させて、人間と直に接するんだ。虫の居所が悪ぃ時にはイタズラして、逆に良い時にはプロセスを早めてやる。ここと向こうを行き来できる、どっちつかずのおまえにならわかるはずだろ。おれたちは現実世界で言葉を持てないから、そうやって人間への意思を己の形で表す。それだけだ。おれたちは、ずっとそうして、あらゆる所から、人間やポケモンを見守ってきたんだよ。
 乱れに乱れた有意信号から察するに、結構ぶっきらぼうでがさつな野郎だった。それは一応憶えている。現実世界では口の聞けぬ物体だけに、電脳世界にて有意信号を扱うのは難しいらしかった。0098は、この他にもまとまりのないぐちゃぐちゃな言葉をたくさんよこしてくれた。それらを、意味を成さない文字の羅列として、マザーCOMが私の記憶領域から消去してしまうのも、今にして思えば仕方のない話だった。
 ――おまえのような生き物は、自分から何かをすることでやっと己の存在価値を示す。はっ、つくづく嘆かわしい。だがな、おれたちは違う。それこそ根本的にだ。静に徹することで真価を発揮する。人間に必要とされる時こそ、されるがままに黙って役割をこなす。他の物体を支え、守り、しかし外力の入らぬ限りは決して自分から動かない。それがおれたちの鉄則であり、掟であり、唯一無二の目的だ。そういう意味では、現実世界の重力ってのは永遠の宿敵でもあるし、恋人でもあるのさ。
 確かに高圧的な態度が0098の特徴であったが、不思議と憎めなかった。
 まるで、自分がモノであることを誇りにしているかのような口振りだった。
 いや、実際に0098は誇りにしていた。
 0098だけではない。0098を初めとするモノたちは次々とそんなことを口にしていた。
 私には納得できなかった。理屈は理解できても、感覚では納得できなかった。今でもその気持ちは変わらない。
 生きる者の性であろう。当然だが私は全ての活動が停まる死期を恐れている。0098たちの理論に真っ向からぶつかる考えだ。みずから動き、物事を成し遂げ、世界の一部に変化をもたらす。それが生きることだと信じてやまない。この電脳世界での服役は、身動きの取れない狭っ苦しいところでじっと過ごすよりかは、よっぽど精神衛生上いいものだった。
 けれど、モノたちは違う。どこであろうといつであろうと、動かないことによって生の全てを主張する。必要とされる時にだけ存在を表し、しかし能動的にはならず、生き物のそばにいる。年を経て朽ち果て、スクラップにされる最期の瞬間だろうと断じて動かず、静かに散っていく。それが、モノたちの華々しい生き様だった。モノの誰しもがそのような考えを根幹に携えているため、善悪をふらふらする人間たちや私よりも、ある意味ではずっと上等な生き方なのかもしれない。
 相容れぬ者とモノが別次元で共存している電脳世界。一言で済ますとなれば――図書館の言葉を借りよう、まさに呉越同舟だった。


 午前中の見回りと掃除を済ませ、広場に誰もいないことを再三とチェック。はやる気持ちを抑えつつ、マザーCOMと繋がっている母線を最低限に絞り、バックグラウンドでアクセサーを立ち上げ、0378へのコネクションを再度図る。
 いよいよ、密会を始めたいと思う。
 Rotom : < 終わりましたよ。 > : end
 さっきよりも反応が早かった。遅いよう、という悪態を第一声に、しかし嬉しそうに0378がやってきた。
 0378はいたずらっぽく笑って、
『やっぱり早くあたしを見たかったんでしょ』
 Rotom : < ええ。 > : end
 あえて否定するほどでもなかったので、私はあっさりと白状する。お互い様なところもあるだろう。
 最近の日課だ。仕事合間の休憩と称し、また品質管理と称し、0378の正体をスキャニングで「見る」ことは、私の密かな愉しみとなりつつあった。普段は簡素なアバターしか与えられていないため、本来の姿を確認するには特殊なやり口を必要とする。「目の前にいるアバター」と「保管されたステイタス」を照合させ、「ここへエントリーした時の形状」を図書館に検索させる。
 X。
 Y。
 Z。
 メインメモリをふんだんに使い、あくまでも三次元的に、私は0378をその場で擬似視覚する。
 青々としたガラスで全身を表す0378は本当に綺麗だった。小枝に休む鳥を思わせる滑らかなシルエット。ミルクを薄く塗ったような光沢。精緻な施しがなされた主翼は角度によって反射を変え、内側から幾層もの光をきらびやかに発散させている。首の角度は空。その先の見つめているものが何なのかを訊ねても、0378は内緒だと言って適当にはぐらかす。
 名誉ある品なのだと0378はいつも自慢気だった。ロトムである私は人間で言うポケモンに属されるのだが、そのポケモンコンテストに0378の主人は優勝を連ね、何の因果かホウエン地方のミナモ美術館から贈呈されたそうだ。言われてみれば、なるほど、どこの美術館に飾ってもこのアーティファクトはさまになるだろう。主人が秘密基地でお客を驚かせるのにはもってこいだ。
 変わらぬ日常の中、モノたちの本来の姿を確認するのは、私にとって非常に豪奢な行いである。人間に芸術のこころがあるように、私のシステムにもそれがランダム制御的に備わってある。
 つまるところ、お互いの、こころの慰めだった。
 人間に相手してもらえないモノたちを、私が代わりとなって鑑賞する。私はこれをつまらないなどと考えたことは一度もないし、私に見られることを不服だと告げるモノもいなかった。これまで、数千点に及ぶモノたちを視覚して目を肥やしてきたつもりだが、0378は群を抜いて美貌に満ち溢れていた。0098たちと同じく、0378もこうして私や人間に見られることを喜びにしている節が随所に見受けられた。
 私はふと、不毛な質問を投げかけてみる。
 Rotom : < 見られていて緊張するとか、動けなくてつらいとか、そういうことは思わないのですか。 > : end
 0378はさも不思議そうに、
『どうして? 人間があたしを見ることで感性を動かしてくれる。それが「置物」であるあたしの本来の役目だもん。秘密基地に置いてもらって、自分から何もしなくても、誰かの目に止めてもらう。手入れしてもらう。そしていつか壊れて捨てられる。最ッ高の至福だよ。いい? 単純に「素晴らしい!」とか「泣いちゃった!」とか、そんなことを思うだけが感動じゃないの。正負の感情どちらであれ、こころを強く動かす。それが感動ってもの。人間の言う「薄気味悪い絵」をそのまま「薄気味悪いなあ」と言ってもらったり、「考えされられるなあ」とか言ってもらったりするのが、その子にとって一番嬉しいことなの』
 そういうもの、なのだろうか。モノと対話できる能力を得てしまったとは言え、所詮私は生き物だ。0378の依拠する本質には到底辿りつけそうにない。壊れて捨てられることの、果たして何が満足なのだろう。
『あたしからも質問。前から訊きたかったんだけど、いい?』
 Rotom : < はあ。 > : end
 0378の姿に見とれて生返事となるが、まあどうせあの事だろう。出会う回数がとりわけ多かったはずなのに、今まで0378に訊かれなかったのがかえって不思議なくらいだ。
『きみはなんでずっとこっちの世界にいるの? 毎日毎日飽きもせずにあたしたちの相手をしてくれるのはどうして? 仕事だから? それとも単なる暇つぶし?』
 ほら来た。
 0378だけに限った話ではない。40時間もすれば、私は新入りのモノたちからこのことを訊かれる。必ず訊かれる。
 だから、いつものように返した。
 Rotom : < 昔、調子に乗っていた頃がありましてね。現実世界や電脳世界であくどい事を散々やらかしたのですよ。とっつかまって、今も刑罰を受けている最中なのです。 > : end
 0378はしばらく黙ったあと、
『うっそだあ。昔はワルだったって、なんだか人間くさくて説得力なさすぎ。武勇伝を語るつもりなら、聞き上手の0874を呼ぼうか?』
 ほら来た。
 0378だけに限った話ではない。二秒もすれば、私は新入りのモノたちからこう言われる。必ず言われる。
 だから、いつものように返した。
 Rotom : < 本当ですって。あなたたちには見えていないだけで、実際わたしには二つの強い制約がかけられているんです。時限式ロックで電脳世界-MNDに縛られ、かれこれ八年となりました。仮に自力で手錠を外して外に出られたとしても、三分とたたないうちに自爆プロセスがどかん。だからもうしばらくは、こっちの世界に居座りっぱなしなのですよ。 > : end
『うそ』
 0378は、今度は早めに打ち消してきた。
『あたし知ってるもん。きみはすごいって。さっきの話が本当でも、そんな時限式ロックとか自爆システムなんか、あっという間に解除できるはずでしょ。あたしたちを大切にしてくれている手際の良さからわかるもん。できるのにしないってことは、何か別の目的があるんでしょ。あたしたちとは違って、きみは黙って過ごすことに喜びを感じるモノなんかじゃない。現実世界で暮らすことが、本来の生き方のはず』
 つくづく返答に困った。
 この時はまだ、私は私自身の気持ちに気づいていなかったからだ。


 それから、凶悪なバグも特に起こらず、強いて言うならマザーCOMの息遣いがうるさいくらいで、穏やかな二日が過ぎた。
 かれこれ、0378と出会ってからちょうど一週間目だった。
 来るべき時が、来た。
 ここは出会いと別れが最初から決定された世界だ。覚悟ならいくらでもしていたが、いくらでもし足りなかった。
 いつものように0378を見つめ、おしゃべりしていた時だ。とある引き出しの要求信号が私に届いた。指名されたモノたちを現実世界へと送り返す作業任務だ。宛名一覧を読み、内心で溜息をつく。
 Rotom : < あなたの主人から、あなた宛です。どうやら新しい秘密基地の場所が見つかったみたいですね。 > : end
 そっか、と0378はにべもなくつぶやく。その淡白さが嬉しくもあったし、つらくもあった。
『これでお別れだね。短い間だったけど、楽しかった。あの人の代わりにあたしを見てくれてありがとう』
 そこで三秒という長い間を置いて、
『誰かがここを去るのを見送るのって、やっぱり寂しい?』
 Rotom : < まさか。モノにいちいち情を持って別れを惜しんでいては、やってられません。今日を限りにあなたの単独ショーに付き合わなくて済むのだと思うと清々しますよ。メモリが軽くなります。 > : end
『なにそれ。きみさあ、最後くらい優しい言葉で飾れないの?』
 胸のふさがるような思いは、何故か意図せぬ言葉を私に選ばせていた。
 嫌われ者として最後を締めくくり、宙ぶらりんの未練を断ち切りたかったのかもしれない。
 私などに見られるより、人間たちに見られることが0378にとっても本望だと、よく知っていたからだ。
 ということで、荷造りが始まった。私は宛名を読み上げ、0378以外のモノたちも呼び寄せた。0378、0379、0380、0381、0382、この五点が今から現実世界に戻る。図書館のファイルを凍結させ、引き出しの際の最終プロセスを済ませる。モノたちに説明することも特に無いし、モノたちも早く主人に会いたいだろうしということで、早々に締めくくった。
『じゃあ、さようなら。元気でね』
 Rotom : < はい。 > : end
 一応のお約束として、『お元気で』との旨をフッターに添えようとした。
 半秒だけ考え、途中でキャンセルした。
 送信相手を選び直し、チャンネルを0378以外のモノたちに限定し、『お元気で』と一斉送信した。
 これまで蓄積してきた記録の箱をひっくり返し、その隙間すきまからにじみ出ている想いを言葉に換え、私は0378だけに送信した。
 Rotom : < ホコリの世界へさようなら、いつまでもお元気で。現実世界の気温があなたを優しく祝福しますよう、電脳世界の片隅からお祈りします。どこまでもクリアで強いこころを持った、あなたはまさにガラスの雛形でした。壮麗で、立派で、本当に美しい方でした。たとえ、今後どれほど魅力的なモノがここへ現れたとしても、あなたと過ごした600キロセカンドを、わたしは一生忘れないでしょう。 > : end
 それ以上は、続けられなかった。
 この期に及んでも、私は私に嘘をつき、最後まで本音を言わせずにいたのだ。
[ <Administrator Rotom-MND> : <Transfer> Cyber World MND <Include> <File 0378> <File 0379> <File 0380> <File 0381> <File 0382> Real World BATE102 : <Ready> : <sec 10.0> ]
 五つのモノたちをまとめてカタパルトに搭載。私は、0378たちを、主人のもとへと転送した。


 その百二十秒後だった。
 0378の、現実世界での姿を考慮すれば、いずれはそうなるだろうと思わなくも無かったはずなのだ。
 何かが砕ける鋭い音と人間の悲鳴が、ノートパソコンのマイクを経由してこんなところにまで届いてきた。
 音に反射した私は、即座にノートパソコンのウェブカメラに電気を通して現実世界を覗く。
 見えてしまった。
 強烈に後悔した。
 私の思考回路に、亀裂のようなものが走った。
 沸騰する勢いで電圧(けつあつ)が上昇した。
 私を制限する光学神経系プロテクトを、全部殺した。無意識だった。
 八年前に封印した現実プログラムのホットスタート。時限式ロックにブルートフォース、強制解除。ゴーストマシンを私の代わりに置いて、マザーCOMからの接続を遮断。最悪の順番で、いっぺんに実行した。脱獄対策の自爆プロセスもパージしたかったが、不可能だった。かつてのどす黒い思惑が、純潔だった神経繊維のあちこちに侵入し、不良システムが八年ぶりに私の中で蘇ったからだ。体内で暴れる乱雑な衝動に振り回され、図書館強盗をし、データをひったくり、誰かの掃除機である9945の名を叫んだ。事情を説明しないまま、問答無用で拉致った。
 カタパルトに乗り込んで待機するも、転送のロード時間が死ぬほど苛立たしい。
[ <Administrator Rotom-MND> : <Transfer> Cyber World MND <Include> <Administrator Rotom-MND> <File 9945> Real World BATE102 : <Ready> : <sec 5.0> ]
 エサを待ちわびたケダモノのごとき獰猛さで、私は八年ぶりに現実世界へと飛び出した。
 一秒、
 0378が、転倒によって上半身を壊されていた。
 二秒、
 0378の主人が、へたり込んで呆然としていた。
 三秒、
 その他の0379、0380、0381、0382は、全員無事だった。
 四秒、
 私は9945にまたがり、自身が電源となって9945のトルクに火を入れた。
 五秒、
 9945を掃除機として働かせ、壊れた0378の回収にあたった。
 六秒、
 0378の破片が、次々と9945の腹に収まっていく。ガラガラとした甲高い音が私の狂気を煽る。
 七秒、
 うっかり0378の破片を触ろうとした主人を、私は慌てて突き飛ばした。
 八秒、
 突如のめまい。
 自爆プロセスが警告信号を発してきた。三十秒もたたないうちから、私の不良システムが異常をきたし始めた。
 頭痛をこらえつつ秘密基地内を駆けまわり、0378の破片を全て9945に食わせきった。画面も割れよの勢いでノートパソコンのモニタを蹴り倒し、仰向けにさせる。
 あらかじめ用意していたコマンドをノートパソコンへ送る。9945の腹をイジェクト。0378の破片をざらざらと流しこんで電脳世界-MNDへ預け入れた。次に、電源コードを巻き戻して9945本体も預け入れた。最後に、破損を免れていた0378の下半身をとっつかみ、ノートパソコンとの連結を私が担う。管理者として私だけに与えられた親鍵をシグナルに乗せて突き刺し、私と0378は、9945から七秒遅れて再び電脳世界-MNDへと戻った。


 先ほどとは逆の順番で、私は全てのプロテクトを修復した。言うなれば、脱獄者がみずから自分の牢屋に戻り、檻に鍵をし、自身の手足に手錠をはめ、聖書を読み始めたのと同等の行為だ。
 その最中、サブシステムのどこかが、9945の声を拾っていた。
『ね、ねえRotom、これ、0378、だよね? ぼく、やらされるがままやっちゃったけど、勝手にこんなことしていいの? ダメじゃない?』
 いいわけがなかった。ダメに決まっていた。
 私は黙って9945を元の場所へと返し、0378をスキャンする。X、Y、Z、
 やはり無残な姿だった。
 0378は、完全に上半身を失っていた。
 マザーCOMに処理される前に、ガラスの欠片たちとガラスの下半身をひっくるめ、私は独断でひとつの0378と再び定義付けた。
 今頃になって感情がキックバックされ、私は恐怖で震えてきた。それは、自分が規則違反を犯したからではなく、目の前にいる0378をかつての0378と認めたくなかったからだ。
 ――秘密基地に置いてもらって、自分から何もしなくても、誰かの目に止めてもらう。手入れしてもらう。そしていつか壊れて捨てられる。最ッ高の至福だよ。
 それでも、これはあんまりすぎた。
 いいわけがなかった。ダメに決まっていた。
 百二十秒前の世界に、戻れるものなら戻りたかった。
 恐怖と絶望に引き裂かれて、私は途方にくれる。
 0378の主人からの要求信号。
 私はしぶしぶ、主人とのコネクションを図る。
 マイクを通じて聞こえるのは、涙混じりのパニック声。そこから拾える意味は、0378を渡してくれとの訴えだった。
 お互い興奮状態にあったとはいえ、さすがに腹が立った。
 今更どうしようというのだ。現実世界の0378は形を失った。私たちで言う死んだも同然の、無様な格好だ。もはや直せる直せないの問題ではない。
 煩わしさを覚えつつも、私は混線した思考回路を必死に整頓し、電圧を下げる。有意信号を使って言語を作り、私は主人に向かってこう送信した。
[ 彼女はモノだ。あなたと再会し、飾ってもらう日を待ち焦がれていた。わたしはずっと彼女と対話をし、モノとして生きる楽しみを聞いてきた。だが、その願いはここで終わってしまった。そちらが生き物の世界ならば、こちらはモノの世界。どうか、わたしに供養させてほしい。 ]
 さしもの私も冷静さを失っていた。向こうにしてみれば、ひどくシビアな言い方となってしまったことだろう。それは否めない。
 涙腺を持つ人間がこれほど羨ましいと思えた日は、ない。私も残念な気持ちでオーバーフロー寸前だった。
『ねえねえ』
 突然のコネクション。
 無視できなかった。
 Rotom : < ま、まだ生きていたのですか。 > : end
 交信の合間にもやってくる、主人からの要求信号。
『うん。こんな格好になっちゃっても、あたしはモノだから。だいじょうぶ、形を変えただけ。ごめんね、びっくりさせちゃって。あの人、今どうしてる?』
 迷いに迷ったが、私は正直に告げる。
 Rotom : < 泣いています。あなたを壊してしまったことを、本当に申し訳ないと思っているようです。 > : end
 交信の合間にもやってくる、主人からの要求信号。
 良かった、と0378は何かに安堵した。
『Rotom、あたしをあの人のところへ戻して。あの人の「世界」に帰りたい』
 今度こそ完璧に思考が停止した。
 八年ぶりに解除した不良システムの余波が、まだ体内のどこかに残っていたらしい。停止した「今の私」の思考を「昔の私」が乗っ取り、全ての指揮権を奪った。
 Rotom : < 何ぬかしてんだ! せっかくあっちの世界に戻れたのにあいつはあんたの体も願いもぶち壊したんだぞ! そんな格好でどうするってんだよどうせすぐごみ処理場へ直行されて捨てられんのがオチだ! 三日もすればあんなやつはあんたのことなんか忘れてのうのうと生きていくに決まってる! あんたたちはモノだけどな、こちとら生き物だ、有終の美なんざクソくらえだ! あっちの世界で酷い目に遭わせるくらいなら、こっちにだって考えがある! あらゆる権限を行使して、あんたにはずっとここで過ごしてもらう! いいか、絶対だぞ! > : end
 そこまで口走ってようやく、私は私の気持ちに気づいた。
 それはまさしく、私の本心であった。
 回路を塗り固めていた嘘が、音もなく溶けた。
『あたし、怖くなんかないよ。Rotomに寿命があるのとおんなじで、あたしたちにもいつか壊れる時があるの。あたしの場合、それが不幸な事故だっただけ。それでも、あたしは最期まであの人のモノでありたい。最初にあたしを受け取った時には喜んでくれて、あたしが壊れた時には泣いてくれた。その気持ちで、もう十分』
 Rotom : < し、しかし。 > : end
 交信の合間にもやってくる、主人からの要求信号。
『お願い。Rotomならわかってくれると思う。向こうとこっちの世界の架け橋となるRotomなら、あたしたちの気持ちも、理解してくれるって信じてる。あたしは、最期まであたしをまっとうしたい』
 交信の合間にもやってくる、主人からの要求信号。
 私は、生涯の中でもダントツで一位に輝く懊悩に苛まれた。
 0378には死んでほしくない。死んでほしくないが、そんな甘い感情はモノとしての0378を頭から否定するものだった。
 ここは出会いと別れが最初から決定された世界だ。
 モノにいちいち情を持って別れを惜しんでいては、やってられないのに。
 モノと対話できるようになった時から、決意していたことなのに。
 最終的に、二十三秒というとんでもなく長い時間を費やして、私はようやっと、とある一文を主人側へ返信した。
[ 1.2メガセカンド。つまり二週間、わたしに時間をいただきたい。大丈夫、悪いようにはしない。パーソナルネームRotom-MND、分類ナンバーΣ-109375の名誉を懸け、彼女をあなたの元へ返すことを、約束する。 ]


 主人の返答が「応」だろうが「否」だろうが、私にはやりたいこととやるべきことがあった。
 神の悪知恵と悪魔の英知で灰色に濁った思考が、その時の私の全てだった。
 脱獄や改竄や無断使用など、現時点ですでに五つ以上の禁則事項を犯してしまっている。追加懲役三年はくだらない。
 そんなの知ったことではなかった。
 考えうる限りの、あらゆる手を使った。
 時間が惜しかった。更なる罪を重ねることを決心した。私は自身のシステムを再度ハックし、先程の脱獄とパーソナルタグ9945無断使用についての顛末をシステムエラーとして適当にでっちあげ、マザーCOMの警告信号を誤魔化すことにかろうじて成功した。
 図書館のデータを徹底的にドブさらいし、座標を一瞬で特定。最短距離を高速演算。ガラスのがらくたと化した0378と共に、私はあらゆる電脳世界を一直線に突っ走った。別の電脳世界が発生させている磁気嵐から守るため、何重にも強固なプロテクトを0378に張らねばならなかった。あまりの処理速度に神経繊維が悲鳴をあげ、それでも私は足を止めない。亜光速にも近いスピードで、私は0378をとある場所へ連れていった。
 刑期があと十五年延びてもよかった。
 二度と0378に会えなくてもよかった。
 私は、何としてでも0378に生きてほしかった。
 人間相手用のメーラーを立ち上げる。ヘッダーに緊急事態の旨を添付。警報レベルはMAX。私はとあるパソコンへ向かって、周囲の電脳世界に届きそうなほどの強度でコールした。


 この物語の終局も、もう間近だ。語ることも少なくなってきたし、いい加減そろそろ引導を渡そう。
 あの日を境に、ガラスのオブジェとしての0378は死んでしまった。
 あの日を境に、パーソナルタグとしての0378は欠番と成り果てた。
 とりあえずだが、現在もなお、私は電脳世界-MNDの管理者として活動している。泥縄で仕掛けたジャマーが運良く効いてくれたのか、マザーCOMからのお咎めも今のところは来ていない。モノを受け取り、管理し、雑談し、鑑賞し、時が来れば引き出させる。何事もなかったかのような日常が、無法者の私をそのまま受け入れてくれた。
 0378は、ここにはいない。
 発狂していたあの日のことを、後になってもよく思い出す。そのたびに私は少々恥ずかしい気持ちになる。いやはや、まったく、つくづく、なんとも、自分らしくなかった。しかしながら――真理なのかは判断しかねるが――急いでいる時ほど、得てして正解を選びやすいらしい。本能の命じるままに敢行したあの日の自分を、私は決して悔やんでいない。
 あの日、私がアクセスしたのはホウエン地方の113ばんどうろ――そこに位置するガラス職人の家の端末だった。
 私はガラス職人をこれでもかというほど拝み倒し、色をつけてもらった。鬼気迫る振る舞い、一触即発の場面だったかもしれないことは、素直に自白しておこう。0378の全身を砕いてゼロに戻し、「きれいなイス」へと生まれ変わらせてもらった。青々とした肌色は相変わらずで、モノのとしての生命を光と表現し、雅やかに照らしていた。形は変わってしまえども、再び主人のそばにいられることを0378はこころから喜んでいた。秘密基地へやってきた客との語らいを、戦いを、生活を、優しく見守っているだろうと私は推測する。
 生まれ変われたその日、0378が私に何を言ったか。主人が私に何を言ったか。
 それは、誰にも教えたくない、私だけの秘密だ。


 0378は、もう恐らくここへは戻ってこないだろう。
 だから、0378が再び死ぬその時に、私はきっと立ち会えない。
 私は、0378との交信記録の全て、約600キロセカンドを、今度こそ厳重にロックをかけて大切に保管している。
 ――ホコリの世界へさようなら、いつまでもお元気で。現実世界の気温があなたを優しく祝福しますよう、電脳世界の片隅からお祈りします。どこまでもクリアで強いこころを持った、あなたはまさにガラスの雛形でした。
 そして、脆く美しく散った0378は、まさにガラスの生き様そのものを描いてみせた。唯一最後まで壊れなかったのは、モノとしての信念だ。
 あのガラスのオブジェにつけられた0378というパーソナルタグを、まるで昔の恋人の写真のように、私は今も欠番として扱っている。


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</html>

メンテ
ガラスのとりかご ( No.2 )
日時: 2013/04/08 21:58
名前: 天草 かける


テーマA:ガラス

彼女ーーエルフーンは自由に外の世界へ行くことができなかった。
その理由は彼女が一流企業の令嬢だったというのもあるが、もうひとつ、明確な理由があった。
それは、治療不能の病にかかっているということである。

いつもの彼女の世界は自室の窓から見える1本の桜の木と雄大な空しか無かった。ーーもっとも、現在は秋のため桜の木は枝だけの寂しい姿をしていたのだが。
そんな彼女にはもちろん友達などいなかった。
ただ一匹を除いて。

〜〜

エルフーンがいつものようにベッドの中で読書をしていると、窓からコンコンと誰かが叩く音が聞こえてきた。
ここは二階なのに誰が叩いたのか。
その誰かを知っている彼女は何の恐怖心も抱かずにその方向へ振り向いた。
「・・・また来たんだ」
「よう! 元気か!?」
エルフーンの目の前には、桜の木の枝に乗っかった一匹のサンダースが軽く前足を振っていた。
年はエルフーンと同じくらいの、まだ少年と言ってもおかしくない顔立ちをしている。
「見れば分かるでしょ? 全然元気じゃない。・・・毎回思うけど、よく使用人のポケモン達に捕まらないね」
「まぁな。俺にかかればこんなへぼみたいな警備なんてお茶の子さいさいなんだよ」
「そう、ならあとでお父様に警備を強化していただかないと」
「ええ!? それは勘弁!?」
オーバーリアクションをとるサンダースに、エルフーンはくすっと笑い声をあげる。
サンダースは、まだエルフーンが外に行ける程元気だった頃に知り合った友人である。
そして彼女の病が重くなり、外に出られなくなった時から時々こうして会いに来てくれるのだ。
もちろん使用人であるポケモン達に捕まることもあるが、その都度エルフーンの助けもあって、ただつまみ出されるだけで事は収まっていた。
「それで、今日はどうしたの? またトランプでも持ってきた?」
エルフーンは使用人に捕まってもめげずにくるための呆れ半分、今回は何をして遊ぶのかという期待半分の眼差しでサンダースを見つめる。
しかし、次のサンダースの言葉でその眼差しはなくなった。
「いやな。ずっと思ってたんだけどさ。・・・お前、そろそろ外に出ないか?」
沈黙。
しばらく立った後、エルフーンは目の前のポケモンから目線を逸らしながら口を開いた。
「・・・知ってるでしょ? 私は今、重い病気にかかっているから出られないって」
「あ、そうだったな。それで、その病気はいつ治るんだ?」
「多分永遠に無理。そんな病気だから」
「え〜? それじゃ、一生外出れないじゃんか?」
「そうなの。だから、私はもうあきらめているの。外に出ることを」
エルフーンがそう言った後、サンダースはしばし悩むような仕草を見せ、常識はずれの事を口走った。
「う〜ん。・・・なら病気がかかったまま外に出るとか?」
「・・・バカじゃないの?」
「そうかな? 俺は良いアイデアだと思うけど?」
「いい? 私の病気は、いわばとりかごみたいなもの。この病気が有る限り、私は外に出ることはできないの」
「とりかご? そんなのどこにあるのさ?」
キョロキョロと、本当にとりかごを探しているような仕草をするサンダースに、エルフーンはため息をする。
「目に見えない物なのよ。・・・そうね。言うならば、ガラスでできたとりかごね」
「ガラスでできた?」
「そう、その通り。・・・私はこのガラスのとりかごがある限り、外には出られない。だけど、このとりかごは壊すことができないの」
エルフーンはそう言いながら窓から見える秋空を見つめる。窓から夕焼けが差し込み、エルフーンの哀しみを一層際立たせた。
「だから外に出ることはできない。私はこのとりかごを壊すことができないの。ガラスだからあなたを見たり、話したりすることができるけど、ここから出て、一緒に遊ぶことはできないわ」
エルフーンの自虐的な発言に、サンダースはポリポリと顔をかいたあと、ゆっくりと口を開いた。
「なら、俺が壊してやろうか? そのとりかご」
「え?」
「いやさ。そのとりかごってガラスでできてんだろ? 俺ってよく街でひとん家の窓ガラス割ったりしてるからガラスを壊すの得意なんだよなぁ」
「・・・壊せると思っているの?」
「ああ、俺なら壊せると思う」
そんなことできるはずがない。
エルフーンそう言おうとするが、目の前のポケモンの自信満々な笑みを見ると何故か否定することができなくなった。
「よし! お前のとりかごを壊すにはとりあえず病気を治す方法を見つけないとな! なんか方法ないの?」
「だーかーら! そんな方法が無いって言って・・・」
エルフーンの怒りが最高潮に来ようとした瞬間、ふと、彼女はある噂を思い出し、言葉を切った。
それは、使用人のポケモンが話している単なる世間話だったのだが、あまりの夢話だったため、エルフーンの記憶に深く残っていた。
「・・・一つだけあるかも」
「え? 何々!? 教えろよ!?」
「どこだかの大陸のどこかにいるポケモンは、どんな病気でも治すことができるらしいの」
「それ、本当か!? もしそれが本当ならお前の病気治るじゃん!」
「でも噂だよ? 本当にあるわけないよ」
「そんなもん、実際に確かめないと分からないだろ?」
ーーまぁ、そうだけど・・・
エルフーンは小さくため息をつく。
すると、サンダースは明るい声のまま、とんでもないことを言い出した。
「よし! なら俺がそのポケモンを見つけてやるよ!」
「え?」
エルフーンは思わずサンダースの方へ向いた。当の本人はやはり自信満々な笑みを浮かべている。
「だからさ。もしそのポケモンを見つけてさ、お前の病気が治ったらーーまたいっしょに外で遊ぼうぜ!」
「・・・」
サンダースは時々、彼女を励ます為に狂言を言うことがある。エルフーンは今回もまた同じ狂言だろうと思い、彼の気持ちを快く受け取った。
「うん。もし私の病気が治ったら、外で遊ぼうね」
「よっしゃぁ!! それじゃ、エルフーン!! すぐ見つけてやるから待ってろよぉ! ーーッ!! おわわわわわ!!」
サンダースが気持ちを入れるためか、勢いよく両前足をあげると、その拍子に自らが乗っていた枝がポキリと折れた。
そして、サンダースはエルフーンの視界から消えていった。
「ッ!! サンダース!」
エルフーンは思わず声をあげるが、ちょうど彼女の部屋の下から使用人であるポケモン達の声が聞こえてきた。

『あ! またお前性懲りもなく!』
『つーかどうやって入ってきた!』
『いやぁ、今回は穴掘ってきました』
『ああそうか。なら今度から地面をコンクリートに敷き詰めるか』
『それいいな』
『いやいやそれはやめて下さい!』
『っていうかお前、その折れた枝は何だ!!』
『お前・・・あとで弁償な』

ーーああ、またあとで私が助けないといけないな
サンダースの元気な声を確認すると、エルフーンはくすりと笑った。

〜〜

その日を境に、エルフーンはサンダースと会うことは無かった。
どうやら街からもいなくなったようで、街では悪ガキだったためそれなりに有名だった少年がどうしていなくなったのかについての噂が流れていた。
「あいつはきっと家出したんだ」
「病気になったんじゃないの?」
「あいつも男だ。自分探しの旅に出たんだよ」
「属に言う『神隠し』という奴で御座ろう」
「別の大陸にいるドンカラスっていう怖いポケモン知っているか? きっとそいつに連れ去られたんだ」
「実はあいつは火星人で、宇宙に帰って行ったんだ」
エルフーンはそんなポケモン達の噂を信じなかった。なぜなら、彼がいなくなったことに心当たりがあったからだ。
ーーきっと、私のせいだ
エルフーンは心の中で葛藤する。

どうしてあの時サンダースを止めなかったのか。

どうしてあの言葉を信用しなかったのか。

どうしてあんな約束をしてしまったのか。

エルフーンの中に様々な疑問が浮かぶ。
しばらくして、彼女の目にひとしずくの涙が頬を伝っていった。
ーーサンダースに、会いたい。
ーー今すぐこの家から出て、捜しに行きたい。
ーーだけど私は今、ガラスのとりかごの中だ。
ーー決してここから出ることができないんだ。
彼女は外へ出る勇気と病気への恐怖の狭間に閉じ込められていた。
それこそまさに、ガラスのとりかごの中にいるように。

〜〜

サンダースがエルフーンの前からいなくなってから数ヶ月経った。
最初はサンダースの話題で持ちきりだった街のポケモン達も、進展がないのでいつしか彼について何も話さなくなった。
エルフーンの自室から見える桜の木の花は芽吹き始めており、あと数日で開花するであろう。
誰もが楽しみになるはずの光景にエルフーンは哀しげな目で見つめていた。
ーー桜の花が咲きそう。
ーーもう、そんなに月日が経ったんだ。
ーーサンダース・・・本当にどこへ行ったの?
彼女はただ待ち続ける。
たとえ街のポケモン達が彼のことを忘れようとも。

その日の夜、エルフーンはいつも通りサンダースの無事を祈りながら眠りにつこうとすると、どこからともなく声が聞こえてきた。
「エルフーン!!」
ーーあ・・・サンダースの声だ。
ーーッ!! サンダース!
懐かしい声に気づいたエルフーンはいつもの場所へ振り返る。
満開になりつつある桜の木の枝の上に、キズだらけになっているサンダースが数ヶ月前と変わらない笑顔で彼女を見つめていた。
「わりぃわりぃ! ちょっと遅れちまっ・・・た?」
気さくに話すサンダースに、エルフーンは静かに彼の元に近づきーーそのまま彼の胸元を掴んでゆさゆさと前後に揺らした。
「わわわわわわ!! 何ににににするんだよよよよよよ!!」
「一体どこに行ってたの!? こっちは心配したんだからバカバカバカバカバカバカバカバカーー」
「ああ、分かった! バカで良いから! バカで良いからとりあえずこれやめて! ちょっと気持ち悪くなってきた・・・おえっ」
数分後、ようやくエルフーンから解放されたサンダースはこれまでの経緯を説明した。
「ええっとだな。お前と別れたあと、俺はお前の言っていた噂がどこから来たのか色んなポケモンに聞き回って行ったんだ。そしたら、その噂はある山の洞窟に住んでいるポケモンから始まったってことを知ったんだ」

〜〜

「それで、その話は本当なのか?」
エルフーンと別れてから数ヶ月後、噂について調べていたサンダースはそのでどころであるポケモンのところまでついにたどり着いた。
暗い洞窟を照らす焚き火がゆらりと光る中、サンダースの目の前にいるポケモンーーラムパルドはこくりと頷いた。
「ああ、本当だ。少なくともそれぐらいの治癒能力を持つポケモンを私は見たことがある」
「そうか。それで、そいつ・・・ええっと、そいつの名前何だっけ?」
「スイクンだ」
「そう! スイクン! そのスイクンはどこにいたんだ?」
サンダースの質問に、ラムパルドはいぶかしげな目で見つめる。
「ここから先にある、森の中央にある綺麗な湖で見かけたが・・・まさかあそこに行くのか?」
「ああ、もちろん! ちょっと病気を治したい友達がいるんだ」
元気な声で言う少年に、ラムパルドは真剣な目で見つめた。
「・・・敢えて忠告するが、あの森に行くのはやめた方がいい」
「え? 何でよ?」
「あの森は危険なポケモンでいっぱいだぞ? もしかしたら生きて帰れないかもしれない」
ラムパルドの低い声に、サンダースはそれとは対象的な明るい声で答えた。
「あ〜それは大丈夫大丈夫。俺はそう簡単にしなないから」
「・・・根拠は?」
「勘」
あっけらかんに答えるサンダースにラムパルドはため息をつく。
「・・・お前の様なポケモンを久しぶりに見たよ」
「え? 俺みたいな奴少ないの?」
「お前のような命知らずがわんさかいたら生物は滅んでいるぞ」
皮肉に近い冗談を言うと、ラムパルドは苦笑しながらさらに一言言った。
「私も行こう」
「え? おっちゃんも行くの?」
「おっちゃんって・・・まぁいい。お前があそこに行ってしなれては罪悪感が湧くからな。私も行ってお前を護衛してやる」

〜〜

「そのあと、おっちゃんと一緒にその森に行って、そのスイクンを捜しに行ったんだよ。いやぁ、あのおっちゃん結構有名な探検隊のリーダーらしくてめちゃくちゃ強かったよ。不意打ちできたポケモンをバッタバッタと倒してたなぁ。ほんと」
「・・・もしかして、その怪我は?」
「うん、おっちゃんが護ってくれたけど敵の数が多くてな」
それを聞いたエルフーンは急いで手当てしようと、医療道具を探しに部屋を出ようとする。しかし、サンダースが言葉でそれを制した。
「あ! ちょっと待った! 俺の治療をする前に、お前に会わせたい奴がいるんだ!」
「え?」
そして、エルフーンは気づく。
サンダースの背後の影の暗がりが強くなっていることに。
「言っただろ? 俺はスイクンってポケモンを捜したって」
「ま、まさか・・・・」
エルフーンのか細い声に、サンダースの背後にいるポケモンは上品な声で応えた。
「初めまして、お嬢さん。ーー私は、スイクンと言います」

〜〜

数日後、エルフーンの屋敷の桜の木の花が満開になった。
花びらがちらちら舞う木の下で二匹のポケモンが散歩をしていた。サンダースとエルフーンである。
「いやぁ、良かったな。お前の病気が治って」
「うん。サンダースも傷が治って良かった」
「別に俺のはかすれ傷だったよ」

〜〜

エルフーンと対峙したスイクンはその後、彼女に水晶の様に輝く水を差し出した。
「信じられないと思うけどーーこの水を飲めばあなたは今の病気に強くなるわ。まぁ、治るかどうかはあなたの体力しだいね」
エルフーンは最初はためらったが、スイクンの言葉を信じて水を飲んだ。
「よし。これで私の仕事は終了ね。・・・あ、あと」
スイクンはそう言うとエルフーンに与えた水と同じものをサンダースの全身に浴びせた。
「ッ!! 冷たっ!」
「サンダース! 大丈夫!?」
エルフーンは急いでサンダースの元へ駆け寄った。
傷口にしみていないだろうか。そう思ったが、それどころかサンダースの傷がみるみるなくなっていくのが目に見えた。
「え!?!?!??????」
「おまけで治してあげたわ」
「え? ・・・え〜と、ありがとうございます」
状況を理解していないサンダースは目を白黒させながら感謝の言葉を述べた。
「礼には及ばないわ。それよりも、彼女を大切にしなさい」
そう言いながら、スイクンは水に溶け込むようにその場から消え去った。

〜〜

「そう言えば、よくスイクンさんを連れてこれたね。なんて言って連れてきたの?」
エルフーンの疑問に、サンダースは自信満々に答えた。
「簡単なことさ。俺は『あいつのガラスのとりかごをぶっ壊したい』って言ったんだよ」
「・・・ふ〜ん」
「何だよその反応は?」
「いや、別に」
ーーまぁ、サンダースらしいといえばらしいけど
エルフーンはそう考えながら心の中でくすりと笑った。
「まぁいいや。それよりさ! さっさと遊びに行こうぜ! 親父さんから許し得たんだろ?」
「うん。お父様、あなたのこと感謝してたわ。私の命の恩人とか言ってた」
「別にそんな大層なことしてないと思うけどなぁ。まぁいいや! とりあえず公園に行こうぜ! ここの桜程じゃないけど、綺麗な桜が沢山あったぜ!」
「え!? そんなの!? 早く行きましょう!」
エルフーンの元気な声に、サンダースは明るく笑いかける。
「ははは。お前の元気な声。久しぶりに聞いたよ」
「え? ・・・うん、そういえば」
「俺、お前の元気な声、結構好きだぞ?」
「ーーッ!!」
サンダースの言葉にエルフーンの顔が頬を中心に紅潮する。
何かを言おうと口をぱくぱくさせている彼女に、サンダースは
「!? どうした!? もしかしてまた病気になったのか!? 顔真っ赤だぞ!?」
と、慌てて言った。
サンダースの指摘にエルフーンはすかさず顔を逸らした。
「別に・・・何でもない。そんなことよりも早く公園に行きましょう」
小声で呟きながら歩き出したエルフーンに、首を傾げながらサンダースもついていく。

彼女ーーエルフーンはガラスのとりかごに閉じこもっていた。
しかし、親友の助けによってそのとりかごは砕け散った。
彼女はその親友に特別な想いを抱きながら外の世界を歩み始めた。



ふと、エルフーンは空を見る。



窓から見ていたのと同じ空はいつもより輝いていた。



まるで、砕け散ったガラスが反射しているかのように。
メンテ
ガラスの器 ( No.3 )
日時: 2013/04/07 21:52
名前: RJ

テーマ:A「ガラス」

ボクのソバにいるキミ・・・
ボクが小さい時から一緒にいるキミ・・・
ココはボクの居場所・・・
そのはずだったのに・・・

ボクが生まれた時、気付けばガラスのケースの中にいた。何もかもが分からない事だらけ、全てがコワくて見えていても触れられず、ここがドコかも分からない・・・ボクでさえも
ボクの心はこのガラスのケースよりも繊細で脆かった。傷つく事を恐れ、一歩を踏み出す勇気が無かったボクは臆病で自分の尻尾に灯る熱い炎でさえも怖かった。
周りは知らない子ばかりだった。それでもそんなボクに近付いてきた友達に最初は怯えながらも頼りになる物が少なかったソコでは友達のソバでしか安心できず段々と一緒に遊ぶようになっていった。
ある日、水色した友達と緑色した友達と遊んでいると白い服を着た人間によって小さなボールに入れられた、その時はされるがままで抵抗すら知らなかった。
ガラスのケースから出されたのは初めてだった。ボクにはガラス一枚挟んだ世界なんて関わらなくていい知らなくていい世界。でももしそのガラス一枚でさえ取り外されたら?
どうなるんだろう?何が起こるんだろう?不安でしょうがなかった。誰か助けてほしい!
そんなボクの入ったボールをまだ小さかったキミの手が掴んでくれた、温かい小さな手で。
・・・初めてキミに会った時、キミは笑っていた!ボクに会いたくて仕方がなかったとばかりに抱きしめてくる。ボクはただ戸惑っていた、何と無く傷つけたくなくて尻尾の炎を隠した。他の二匹の友達は出会った人間に嬉しそうにあいさつしていた。ボクもああしておけばよかったのかなぁ。
「博士!この子にします!何て言うんですか?」
「その子は炎タイプのヒトカゲじゃよ!その子は元気が良いぞ!ニックネームを付けてみんか?」
「キミはそうだな〜…ホカゲ!尻尾の炎を隠しているのが可愛いし!」
今になって思えばもう少しいい名前を付けてほしかった、尻尾を隠したばかりに。
その後、水色のとじゃれていた少年がボク達を戦わせようとしていた!
キミは受けて立った!ボクは水色の友達と向き合った。既に友達は身構えていた。
ボクはどうすればいいのか訳が分からなかった。だけどボクの後ろからひっかく攻撃を指示する声が響いてきた!たった一言でボクは体が動いた!この人間はボクにやれる事を教えてくれる!何をすればいいか教えてくれる!
その時からキミはボクのご主人様。
戦いの後初めてのバトルに勝利した瞬間だった!ただ少し友達に悪い事したかなと思った。
「チェッ!何だよお前のポケモンにすりゃよかったよ!」
水色のを選んだ少年は悔しそうに地団太を踏んでいた。ボクはご主人様に選ばれて本当に良かったと思った。ご主人様の話を聞くとどうやら今後は別々に旅をするらしい、せっかくできた友達と別れるのが残念でしばらく友達がパートナー達と去って行くのを見ていた。
そしてご主人様と様々な町や道路を練り歩いて世界の広さを知った!不安で満ちてあふれた淀んだガラスのようなボクの心はたちまち澄んでいった!ご主人様のソバなら何だってできる気がした!今までにない自信と誇りがつき、そのガラスは分厚くなっていった!
勝利すればお互いに喜び、時には負けて悔しがり、新たな仲間に出会っては共に旅し更に強くなった。
そんな時、ご主人様はかつてボクが一緒に遊んでいた友達と同じ種類を仲間に加えてくれた。どうやらご主人様はボクが旅立つ時、友達と別れるのを寂しそうにしているのを覚えていたらしく、苦労して仲間にしたらしかった。ボクはそんなご主人様の心遣いが嬉しくて思いっきり抱きついた!ご主人様も嬉しそうに笑っていた。
リザードに進化して体付きも変わっていっては仲間と競い合った。たまに苦戦して勝利するたびに強くなるのが分かった!更にジム戦など様々な事に挑戦していった。自分の弱点を仲間と補い合って勝ち進んでいく事に喜びを感じていた!
・・・でもその中でご主人様に一番大事にされていたのはボクだっていうのは密かな自慢だった。
やがてリザードンになり、大きな翼が生えてご主人様よりも体が大きくなったらご主人様はカッコいい!と言って、はしゃいで抱きついてきた!首に抱きついてきた小さく見えるご主人様にボクは嬉しいやら気恥ずかしいやらで火炎放射を浴びせてしまった!それでもご主人様はアチチ!と言いながら笑っていた。
ゴメンナサイ・・・
空を飛べるようになってご主人様の役に立てる事が増えたのは嬉しかった!知っている場所ならドコへでも連れて行った。バトルでも大いに活躍し、誰よりも一番に信頼されていた!ヒトカゲの頃今にも割れそうだったガラスの心は今や仲間達を支えられる程にまで強固な物になっていった!
そうして大きな組織の野望を阻止する事に成功し、またポケモンバトルの最高峰である四天王達とバトルして勝利し、その時のチャンピオンだったのがかつての友達でボク達と頂点を目指して戦う事になったのには驚いた!チャンピオン殿堂入りの肩書をご主人様と仲間で一緒に苦労の末その栄光を手にいれた!
ご主人様はよくやった!と誇らしげに笑いかけてくれた!
他の何よりも幸せだった・・・
その後様々な場所へ行き、多彩な技やバトルの幅が広がっていった。
そんなある日ご主人様と人通りの少ない山の麓で修行していると、突如大きなポケモンが飛んできてご主人様を抱えて連れ去った!一瞬何が起こったか分からなかったが、気付いたら怒りでいてもたってもいられず直ぐにご主人様を追いかけていた。
ボクのご主人様を返せ!そんな咆哮と共にブラストバーンを喰らわせた!・・・つもりだった。そのポケモンはボクが攻撃したと分かるとこちらに向き直り、周りの空気を覆い尽くす今まで見たこともない大きな空気渦を喰らわされた!あまりの威力に攻撃が打ち消され、もろに急所に当たり翼がボロボロになり無様に落ちて行った。
「ホカゲ〜〜〜〜!!・・・」
その言葉だけが薄れるボクの意識に響いていたご主人様の声だった・・・
気が付くとボクは体中が痛んで、空は夕闇に淀んでいた。
ああ、ボクは負けたんだ・・・ご主人様をどこぞの知らない奴に連れ去られ、助け出す事も出来ずに・・・
ボクのガラスが音を立てて崩れ去っていくのが分かった。ヒビ割れる鈍い音と鋭く軋み砕けて行く破片の数々を体中に感じていた。強さや自信や誇り、大切な仲間とご主人様、ボクの居場所・・・いきなり何もかも奪われ、自分の存在を粉々に打ち崩されて立ち上がる事が出来なかった。尻尾の炎は弱弱しく煙を出しながら揺らいでいた。
やがて煙に気付いた山男達がボクを見つけ、近くのポケモンセンターに連れて行ってくれた。治療用のガラスのケースに入れられ、介抱されて体が回復したが心のガラスは元に戻ってくれそうになかった。どの破片がドコとくっ付ければいいのか分からなかったのだ。
その夜どうしようもない気持ちを当てつけるようにガラスのケースを打ち砕き、ポケモンセンターから逃げ出した。
どこへ行けばいい?ボクに何ができるんだ?・・・
そしてリザードンはかつてヒトカゲだった頃いた研究所の近くまできました。ここならご主人様の事について何か分かると思ったから。ですが、博士はポケモンの研究に勤しんでおり、ご主人様の行方を知っていそうになかった。仕方なくご主人様の家に行ってみたが、ママさんはいつも通りに過ごしていた。
ご主人様に何が起こったのか知らないのかなぁ、ボクはママさんを呼ぼうとして、ハッと躊躇った。
もしご主人様に何かあったと知ったら何をどう伝えればいいのだろう。見た事無いポケモンに連れ去られたご主人様を助けられなかったボクをどう思うのだろう?そんな風に迷っているとママさんと目が合いました!ママさんは喜んで迎え入れてくれた。居心地悪そうにしているボクにママさんはご主人様がいない事を少し残念そうにしていましたが、
「便りが無いのは元気な証拠!でもたまには顔を出すように言っておいてくれないかしら?」
そう優しく話かけてくれた事が嬉しくて、力強く頷き大きく翼を広げ飛び立った!
この世界でもう傷つくのは怖くない。誰も分かってくれなくてもいい!でもせめてもう一度ご主人様の下に、ボクに笑いかけてくれたご主人様の場所を誰か・・・
その後あちこちで彷徨う強力なリザードンの噂がたちました。ある者は勝負し、ある者は捕まえようとし、またある場所では追い出されたりしました。けれど誰の物にもならず、その強力な技であらゆる攻撃を跳ね返すリザードンに挑戦する者は段々減っていきました。

やがて月日は流れ、ドラゴンの集まる土地に修行と情報収集している時にたまたま現チャンピオン達がその地を訪れていました。チャンピオンはボクの事を見ると懐かしそうな顔をしていました。ボクは訝しく思いましたが、チャンピオン達の話に耳を傾けました。
「・・・あのリザードンかつてボクを打ち負かしたトレーナーのリザードンに似ているな!私も彼にならってリザードンを育てているぞ!彼らのような絆を持てるか自信ないがね!そう言えば最近ここで一番高い山の奥で彼に会ったような気がしたよ!・・・」
それを聞いてボクは喜びやら切なさやらがない交ぜになり、全身が震えだしました!確証はない、だけどどうしようもない胸騒ぎがする!今すぐに会いたい!会って確かめたい!
そこからはもう山を目指して飛び立っていました。
天辺が雪で白く彩られた山、ここにいるかもしれないボクの探していた人
早速踏み入れようとするとそこにはたくさんの強力なポケモン達が潜んでいました!どうやらこの山にはドンファンやバンギラスなど相当強いポケモン達が住んでいるようです。でもボクはどうしてもこの奥へ行ってみたいんだ!会わなければいけない人がいるんだよ!そう吠えるとたくさんの猛者達の中を突っ込んでいきました!!

・・・多くの猛者達の倒しながらも崖を乗り越え、だんだん周りに雪がチラつき始める場所まで登りつめました。まるでヒビ割れたガラスのようにいつ壊れてもおかしくない体を引きずるように進んでいましたが、この奥にあの人が・・・ご主人様がいるかもしれない!ただそれだけの希望がボクを暗い山の奥へと歩ませていく。尻尾の炎の灯は消えかけていました。
すると、目の前にぼんやりと人影が見えました!引きずる体を一瞬だけ止め、その姿を確認します。その後ろ姿に見覚えがありました!懐かしくそして温かな気持ちが満ちていきます。
ああ、ご主人様!ボクです、ホカゲです!やっと会えました!!
ボクが吠えると彼はゆっくりと振り返り、昔と同じように嬉しそうに笑いかけました!

ボクのガラスの器は安堵で満ち溢れてこぼれていきました。
メンテ
星降りの誓い旗 ( No.4 )
日時: 2013/04/08 21:45
名前: 月光∈( ・´&◆RQieReB.3M

テーマB : 「旗」

 ここに1つの旗があります。旗というには聊か無骨です。何の変哲もない物干し竿(折れてる)と触るのも嫌なぐらい黒く汚れた布。

 雨風のせいで竿はボロボロです。生きているのが不思議なくらいです。いっそのこと木端微塵に粉砕されていれば、まだ別の意味で嬉しかった。

 中途半端に残った思い出。隣を見ればあいつがいるんじゃないかと横目で見るけど、そこには誰もいない。わかっているのに腹が立つ。私を残してどこへ行った。あぁ、あの世だったっけ。

 ずっと小さい頃、大きいと思っていた旗を今では見下ろしている。時の流れを感じるけど、婆になっていくのは正直辛い。でも年相応に見られないのも辛い。

 この前も「中学生?」とか言われた。高校生です。間違えないように。そう言えば小さい時にも喧嘩した時あいつは「チビ」って連呼したけど、それが現実になってしまった。ケッ。

「今日約束の日だよ。あんたさ、覚えてんの」

 返事はない。ただのボロ旗のようだ。虚空に向かって話しかけるのがこんなに空しいものだとはね。ドラマとかで見て憧れてる人がいるなら、止めた方が良いって教えてあげるべきかもしれない。

 今日は『星降りの夜』。幻と呼ばれるポケモン、ジラーチが1000年に1度目覚める日と言われている。文献によると小さくて可愛らしいポケモンらしいが、腹に目玉があるのはグロいのでは。

 思い出は色褪せないというが、私はそうは思わない。なぜなら大人たちが思い出を語るときは大抵美化され、加えてなぜか今の若者である私たちと対比して良いところばかりマシンガンのように羅列する。

 どう考えたって今の時代の方がエコだし環境は良いし、治安も安定しているし生活は豊かになっているのに。まあ、忘れられないということで色褪せないという意味なのだろう。善し悪しは別として。

「そんなことはどうでも良いよ。私が律儀に来たんだから、あんたも来なさい」

 返事はない。ただのボロ旗のようだ。大事なことなので2回言いました。私はただその小さな旗を見つめることしかできない。今でも時々思うよ、夢なら覚めてほしいって。

 さて、私が何でこんな辺鄙で何の面白みもない丘の上にいるのかと言うと、あいつとの約束があるからに他ならない。まだポケモントレーナーにすらなる前に誓った、子ども心ながらにやたらメルヘンチックな約束。

「そのために立てた旗だってのに、あんたの方がくたばったんじゃ意味ないじゃない。それで、これからどうしようか」

 旗の横に座って話しかけると、あいつが戻って来るような気がした。風で旗が揺らめくと、あいつが反応してくれたようにも思えた。もちろん、そんなわけはない。風と私の心に因果関係なんてないのだから。

 空を見上げるが星はまだ降ってこない。静かな世界が私を包む。ここにいると色々な事を思い出すのは、きっと私だけじゃない。あいつだってきっと、ここにいれば思い出す。いればね。

 そうだ。ここで約束した夏にプールで私を突き落としたこと、まだ怒ってるからね。水が怖かったのよ。まあ、あいつが無理やり落してくれたおかげで泳げるようになったけどね。小学校じゃ水泳部で一躍エースよ。ざまぁみろ。

 中学に入ってからはオーケストラ部に入ったの言ったっけ。あれ、あんたに歌を褒められたからなんだよ。ここで私が歌を歌ったとき、上手って言ってくれたから。

「なーんか、昨日のことみたい。しっかし、あれが恋の歌だったとはね。意味も知らず歌ったけどこっぱずかしいたらない。ははは……そう、あんたはいつでも、私の道標だった。行くべき道を指さしてくれる、大切な……」

 大切なものはすぐそばにあるということに、その時の私は気付かなかった。まさしく青い鳥……あいつが病死して初めて、私は気付かされたんだもの。

 空を仰ぐ。さっきより星たちは増えたようだが、まだ降ってくる様子はない。日付は間もなく明日へ向かう。寒い。早く降って来い。ただし隕石はノーサンキュー。

「そういえばさ、星降りの夜に目覚めるジラーチだけど、願いを叶える力があるらしいよ。まあ、所詮迷信だけどね。あんたなら何をお願いするのかな。私は、うーん……」

 この夏、私は高校生だけど歌手デビューを果たした。夢だったからだ。一番最初に聞いてほしかったあいつはいないけど、大勢の人の前で歌うのはとても気持ちが良い。麻薬みたいなもんかもしれない。いや、知らないけどね。

 つまり今のところ、これと言って願いはない。大抵の願いとは、努力の果てに身に着くことが多いと思う。自慢ではないが私は多才なので、凡人が10年は掛かりそうなことを5年でやってのけると自負している。いや、嘘だけどね。

 こいつには願いとかあったのだろうか。まだ10才にも満たなかった私たちは馬鹿みたいに夢を比べあったりしたから、どれが本当なのか分からない。ポケモンマスターとかブリーダーマスターとか、プロレスラーとか言ってたけど、あんたは本当は何が良かったのよ。

「なんかムシャクシャする。考えても分からないし、考えるのはやーめた。そだ、あんた言ってたよね。歌手になったら歌を聴かせろって。あとついでにサインよこせって。贅沢な奴、でもいいよ。今夜ぐらい」

 大きく息を吸って、1人私は歌い始める。懐中電灯の明かりを消すと闇に溶け込み、まるで世界と一体化したような気がした。流れる風が気持ち良い。私自身の声が聞こえる。私の声が世界に満ちる。

 日付が変わって、世界が動き出した。夜空に浮かんでいた星達の隙間から一筋の光が走り、西から東へと駆けていく。始まった、星降りの夜。誓いの旗が風に揺れて、隣にあいつがいるように感じた。いないけど。

 それでも私は歌う。全力で、全開で、山奥過ぎて誰にも聞こえないであろうこの場所で。ただ空に近いこの場所なら、あんたに聞こえればそれで良い。

 星よお願い。この声、この歌、私の想いをあいつに届けて。甘えたいわけじゃない。でも標して欲しい。誓いが終わって明日になって、私はどこに向かえばいいんだろう。

 教えてよ。手を差し伸べてよ。私はこうして歌を歌っているのに、あんただけ何もしないなんてズルいよね。何で私がこんなにもあんたのことになると熱くなるか、わかってないわけじゃないじゃない。

「私はあんたが……好きだったんだよこの馬鹿野郎ー!」

 すっきりした。視界が揺れたけど、声は先ほどより鮮明に夜空に響き渡る。空が明るい。光が差す……え?

「え、ちょ、夜だよ今」

 数多の星達が世界を駆け抜ける中、私は見た。空に浮かぶ光る存在。まるで赤子のようだけど、あれはポケモン。頭に3つの短冊、間違いない。ジラーチ。

 本当にいるなんて思わなかった。願いを叶えるポケモン……丁度良い、自分で聞くのも良いけど、どうせなら誰かに聞いて欲しい。そしてジラーチ、どうせならこの曲をあいつに届けて。今はこの曲の意味、わかってるから。

 なんてことない普通の歌。歌詞はまるで今の私とあんた。この歌に出てくる『私』はどうだろう、大切な人は生きているのだろうか。

 光を放ちながら、空を泳ぐジラーチが私の周りを踊るように回り続ける。ひょっとしたら私は幻を見ているのかもしれない。それでも良い。どうせ幻なら……

「はぁ……はぁ……どうだった、私の歌。せっかく歌ったんだから、感想ぐらい聞かせなさいよ」

 嬉しそうに私の周りをくるくる回るのは良いんだけどさ、願いは叶えてくれないのかしらね。なんか短冊が1つさっきと違う気がするけど、何だろう、わからない。あぁ、なんか文字が書かれてるのか。いつ書いたのそれ。

 どうだった、私の歌。聞いたところで答えはない。わかっていたけど、振り向かずにはいられなかった。そこで気付く。旗がない。代わりに見えたのは、優しく光る何か。

「なんで、ここに……」

 人の形をした光、この優しさを私は知っている。あいつだ。あいつなんだ。

 どうして先に逝ったのか聞きたい。私を置いて、私がどれだけ辛い思いをしたか分かってんの。あんたが死んで、一日中何すれば良いわからなかったあの日々の辛さを。

 嬉しさと怒りが私の心の中を蹂躙する。凄く会いたかったはずなのに、嬉しいはずなのに、なぜか怒りが込み上げる。理不尽だってわかってる。でも……

「何で私だけ残したのよ! あんたがいたから私は泳げた! あんたがいたから私は歌った! あんたがいたから私はここにいる! あんたがいたか私は歌手になれた! なのに、なのに……なんで、あんただけいないのよ……なんっ!?」

 抱き寄せ……られた? 分からない。ただ優しい何かが、私を包んだ。抑えきれなくなって溢れる涙を見られないように俯いていたから、どうなっているのかが良く分からない。

 すっと瞳を閉じた。ずっとここにいたい。ずっとこうしていたい。だけど時間は必ず過ぎる。嬉しくても辛くても明日が来るように、この時間も例外じゃない。光はやがて離れていき、私の傍から温もりが消えた。

 目を開けば、そこにはもうなにもいない。ただ星達が降り注ぐ静かな夜が広がっている。ジラーチの姿もいつの間にか消えていた。ひょっとしたら今の出来事は幻だったのかも、私の妄想だったのかも。

 どうせ夢なら、もう少し気を利かせて欲しかった。思わず項垂れる。そして気付く。光っているなにか……これは、石?

 見覚えがある石。しばらく考え込み、思い出した。ここで誓いの旗を立てたとき、この誓いの旗にもう一度2人で来たとき、くれると言っていたあいつの宝物。

「こんなところにあったんだ。あれ、旗が……」

 旗がない。そういえば、さっきジラーチの短冊が変化した後にもなかったっけ。懐中電灯をつけて周りを見渡すけれど、見当たらない。仮にも物干し竿がこの程度の風で吹き飛ぶとは思えないけど。

 幻じゃ……なかった……? この石はジラーチからの、あんたからの贈り物ってことで良いのかな。それとも、ただ最初からここにあっただけなのかな。どっちでもいいや。どうせなら良い方に考えよう。

「ありがとう、ジラーチ。私の想い、あいつに届けてくれたんだね。あんたも、ありがとう。私はもう迷わない」

 心のどこかで分かっていた。私はあいつに依存していたことを。あいつが私の道標、あいつがいないと私は進めなかった。でもこれからは違う。進むべき道は私が決める。

 あんた言ってたよね。この石は父親がくれたもので、宝石言葉は『独立』。石の名前は忘れたけど、それだけは覚えてるよ。あんた、馬鹿みたいに嬉しそうに教えてくれたから。うん、馬鹿っぽかった。

 安心して。そして見守ってて。天国から、いつか私も追いつく場所で。この場所へはもう来ない。来る必要がなくなったからね。

「ここからが本当に本当の、私自身のスタートなのかもしれない。うん、きっとそうだよ。最初の歌、あんたに聞いてほしい。明後日にCDの収録予定だけど、先行公開って奴かな」

 私は歌が好きだ。あんたに褒められたからだ。夢を叶えるのに必死だったけど、どこか惰性が残ってた気もしてたの。

 これから歌うのは惰性じゃない。正真正銘、私が歌いたいから歌う歌。さぁ聞いて、私の歌を。受け取って、私の想いを。

「聞いて。タイトルは……」

メンテ
神速の旗 ( No.5 )
日時: 2013/04/09 22:54
名前: オンドゥル大使


 テーマB:「旗」


 砂礫の大地に流れるは荒涼とした風だった。喉の奥が渇いたのを感じて、彼は唾を飲み下そうとしたが、それすら許さないほどの緊張が辺りを押し包んでいる。

 彼は魔獣の一体に跨っていた。

 灰色の身体で凹凸があり、剥き出しの岩肌か山脈のような体躯の魔獣の名はサイホーン。彼が捕らえてきた魔獣だ。人間は魔獣を従え、その証として魔獣に鎧を与える。サイホーンの頭部に赤い兜がつけられている。灰色の身体には鎧がつけられていたが、これは防御のためではない。正確には魔獣の力を抑えるための拘束具としての役割を果たしている。魔獣は人間にとっては一度暴れれば厄介な相手だ。自然そのものである魔獣は他の生物のような協調性は持っていないと彼は認識している。彼が教えを乞うた先人からも、「魔獣は忌むべきもの」と教えられてきた。

 魔獣を拘束し、人間の支配下に置く。そのために、魔獣を用いるのだ。魔獣を倒せるのは魔獣のみ。それは暗黙の了解として彼と彼の仲間達との間に流れていた。彼は赤い兜を被り直し、背中に担いだ旗を確認した。赤い旗に金色の十字が刻まれている。十字に絡まるは蛇だ。彼の所属する集団のモチーフだった。彼は周囲を見渡す。ざっと五人。サイホーンに跨る彼らは「紅玉の一族」の名前を戴いていた。

 サイホーンは呼吸が荒い。彼と跨る仲間達は呼吸さえ殺していたが、サイホーンはそうではない。落ち着け、と促すように彼はサイホーンの横っ面を何度か叩いた。サイホーンの牙は削いである。サイホーンは雑食で岩などの無機物さえも主食としているが、飼い慣らすには適度に食事を制限しなければならない。牙を削いだサイホーンは最初のほうこそ抵抗する。しかし、空腹には抗えず、彼らの用意する食事を口にするのだ。その食事こそ魔獣を従えるのに必要な要素の一つである。木の実から作った特殊な粘液を絡み合わせて作ったパンに似た食事は魔獣を無意識的に従わせる効能を持っている。彼の乗っているサイホーンは半年間、それを続けてようやく人間への服従をよしとした。

 魔獣とはそれほどまでに気高く、多くの場合は気性が荒い。人間の言葉を解しているのかいないのか、人とは平行線を辿っている。魔獣を理解しようとは思わなかったし、先人達は理解よりも支配の道を選んできた。それは茨の道だ。魔獣を従えるために、どれほどの知識と頑強さが試されてきたか。人間は進歩の途上にある、と彼は教えられた。魔獣との邂逅はその第一段階なのだ。魔獣を付き従え、彼は岩陰に身を潜めている。他の者達が囁き声を交わした。

「おい。まだなのか?」

「まだだろう。あれはそう簡単には現れない」

「しかし、ここが巣だと確認はしたのだな」

 彼は先頭を陣取る手前、仲間達をいさめなければならなかった。

「声を出すな。いつ奴が来るか分からん」

 事実、彼は先ほどから必要以上の声を出していない。呼吸さえ殺さねば、機を逃す。そう考えての行動だった。仲間のうちの一人が言葉を発する。

「しかし、確定情報でなければ無駄足だぞ。成人の儀において、失敗は許されない」

 今、自分達が臨んでいる状況を言葉にされて彼は惑う目線を向けた。成人の儀。紅玉の一族において成人した証として必要とされる儀式。そのために彼はサイホーンに跨り、岩陰に隠れてずっとその時を待っている。時折、風が吹き荒れ、亡霊の呼び声のような音を響かせる。彼はぐっと息を詰まらせて、潜んで時期を待つ。まだか、と口中に呟いた。訪れは、唐突だと大人達から聞いていた。しかし、彼は当てにしていない。最後に信じられるのは自分の腕だ、と彼は自負している。小脇に担いだ荷物の中にそのための道具が入っていた。これも一人では成しえない。だから五人で同じ魔獣を従えてここまで来たのだ。彼はぴたりと岩陰に身を寄せたサイホーンの手綱を握ったまま、じっと機を待つ。サイホーンは岩陰に隠れるとまさしく大地の一部のように見える。異物は自分達人間だけだ。彼らはそのための回避手段として灰色の防具を纏っていた。サイホーンの色と防具が保護色になっている。しかし、担いだ旗が過剰に自分達を誇示していた。これでは意味がないな、と自嘲しつつ、彼は機が訪れるのを待った。痺れを切らしたらしい仲間の一人が声を出す。

「実際、どうなんだろうな。どんな魔獣だって?」

「俺の親父から聞いた話なんだけど」

 その言葉に彼も耳を傾けた。その男は眼の下に赤い三本の線の刺青がある。両腕を掲げ、大仰そうに言葉を発した。

「どうやら夕暮れよりも紅い朱色の毛並みをしているらしい。見た目はすごく鈍そうに見えるんだ。だけど、動くとそいつは獰猛そのものだって。俺達の目じゃ、とてもではないけど追いきれない」

「お前、眼がいいんだろ」

 彼のほうへと顎をしゃくって仲間の一人が告げた。額に赤い点がある禿頭の男だった。

「俺の眼が? 別に大した事は」

「お前、遠く離れた鬼面鳥を弓矢で撃ち落としたじゃないか」

 鬼面鳥というのはオニドリルの事だ。最近になって外からやってきた人間がそう呼んでいるのを聞いて、彼らの一族もその呼び名を継承し始めていたが、仲間内の中ではまだ「鬼面鳥」という呼び名がまかり通っていた。彼は額を押さえて、「面倒だな」と呟く。三本線の男が、「そうなのか?」と尋ねた。

「偶然だよ。狙って当てたわけじゃない」

「偶然にしてもすごいな。鬼面鳥は一気に急降下してくるじゃないか。あの時」

 三本線は片手を掲げて、鬼面鳥が地表に向けて急降下してくるのを身振り手振りで示す。鬼面鳥は翼を折り畳んで嘴を回転させて螺旋を描きながら獲物を狙う。

「速さは半端じゃない。それを狙い撃てるって一種の才能だよ」

「だから狙い撃ったわけじゃないって」

 彼は嫌気が差す。こんな頭の悪そうな連中とこれから成人の義を執り行う事に一抹の不安の種が芽生えた。

「眼は普通だ。この話題はやめよう」

 彼が手を振って話題を打ち切ると、禿頭の男が話題を振った。

「じゃあ、俺らが待っている奴。そいつを捕らえればいいんだっけ?」

「捕らえて、旗を突き刺すんだ」

 仲間の一人である髭面の男が旗を背中から抜いた。旗の先端は鋭い槍状になっている。食い込む仕掛けになっており、段階的な矢じりと見えた。

「紅玉一族の手柄だってな。先端に痺れ毒が塗ってある」

「そいつはとんでもなく速いんだろ? どうやって旗を突き刺す?」

「何だお前。そんな事も知らずにここまで来たのか?」

 三本線の質問に髭面が応じた。

「荷物があるだろう。先の段取りを聞いていなかったな、この鈍らめ」

「朝早かったからさ」

 三本線は笑みを浮かべながら後頭部を掻いた。髭面は強い髭を撫でながら、「俺達で囲む」と言った。

「魔獣を囲んで、陣形が整ったら一気に弾けさせる。この装置の使い方は」

 髭面が荷物にある取っ手を指差した。三本線が取っ手に触れかけたので、「触るな」と厳しい声で禿頭が制した。

「それは陣形が整った時だけに使うんだ。こいつは巨大なぼんぐりだ」

「ぼんぐりってあれか。余所者が洒落た名前をつけて魔獣を捕らえるのに使うっていう」

 三本線が手を握り締める。余所者は掌程度の大きさで実現している技術だ。

「ぼんぐりは余所者が使う……、なんだったか、あれは」

 禿頭が頭を押さえていると、彼が言葉を引き継いだ。

「モンスターボール」

「そう、それ」と禿頭が彼を指差した。禿頭はサイホーンを叩き、「余所者はモンスターボールとやらに魔獣を入れるらしい」と三本線に目を向けた。三本線は眉根を寄せる。

「はぁ? 魔獣を手なずけるための粘液やら麻痺毒とかはどうするんだよ。それに魔獣だってそんな掌みたいな大きさの球に入るのか?」

「入るようだ。袋に入る大きさで余所者は六つもぶら提げているという」

「六つも?」

 三本線が飛び上がりそうなほどに驚いた声を上げる。それに対して全員が唇の前に人差し指を立てた。三本線が口元を押さえる。きょろきょろと見渡してから、「でもよ」と納得のいっていない声を出した。

「魔獣一匹手なずけるのに半年かかるんだぜ。それを六つもって、お前……」

 三本線が指折り数えて年数を数える。彼はあまりに見ていられないので言ってやった。

「三年だ。俺達の基準ならな」

「俺達の基準じゃないってのか?」

「奴らはそのモンスターボール、だったか? それに入れた時点で魔獣を手なずけているらしい。後は個人の裁量によるところが大きいようだが、少なくとも俺達よりかは楽をしている」

 禿頭の声に三本線が浮き足立って、「じゃあさ」と口にした。

「俺達もモンスターボールって奴使おうぜ」

「ならぬ」

 先ほどから声を発していないもう一人が告げた。両目を瞑っており、五人の中では唯一の金髪である。金髪は目を開いた。宝石のような碧眼だ。

「掟に反する。我らは我らの掟に従い、魔獣を捕らえる。外来種の使う眉唾物の技術に頼るなど愚の骨頂」

 金髪の声に全員が押し黙った。紅玉の一族としての誇りを金髪は語っている。彼とてその矜持は胸に抱いているはずだった。だからこそ、成人の儀にしっかりと参加している。三本線がまだ諦めきれない様子で片手を振るい、「でもよ」と言った。

「便利なほうがいいじゃないか」

「便利というものに流されて、我らの伝統を捨てれば、先人に顔向け出来ない。若い世代こそ、それを意識するべきだ」

「お堅いな」

 禿頭が声に出した。金髪が睨みを利かせる。禿頭は顔を背けてわざとらしく口笛を吹いた。髭面が、「でもまぁ」と言葉を発する。

「俺達はいいじゃないか。こうやって旗を魔獣に突き刺す。まだ伝統が続いている証だよ」

 彼はその言葉を聞きながら、その伝統に何の疑問も持たない自分を顧みた。まるで余所者が持ち出してきた機械のようだ。余所者は機械で全ての事をこなす。彼らが何日も要する魔獣の回復、魔獣の栄養管理、しつけなど挙げ始めればきりがない。

「余所者の言葉を聞くのも、俺は一興だと思うがね」

 三本線が言った。どうやら彼は余所者の文化に興味津々の様子だ。金髪が突き放すように口にした。

「では余所者になってしまえ。彼らは受け入れるかも知れんぞ」

 その言葉は実のところ分かり合えないことを如実に示していた。自分達の文化は古いのだ。余所者からしてみれば、この成人の儀とて時代遅れの産物だろう。しかし、彼らがやめないのはそこに誇りを見出しているからである。一族の誇りを一時の興味や関心で潰すようでは次の世代を育てられない。彼は息をついて言葉にした。

「感心しないな。仲間内でこの期に及んで喧嘩なんて。俺達はその目的のために戦う。それでいいだろう」

 彼の言葉に全員が首肯した。三本線が、「確かに今はね」と言う。

「今はそうかもしれない。でもいずれの話は分からないだろう」

 三本線の言葉に金髪がぎろりと睨む。三本線は肩を竦めた。どうやら改める気はないらしい。彼が嘆息をつこうとした。その時である。

「――来た」

 禿頭が声に出した。全員に緊張が走り、サイホーンの手綱を握る手に覚えず力が入る。緊張の力みを和らげようと彼は腕を叩いた。こうすれば昂った神経を抑えられると習ったからだ。彼が岩陰から見やる。

 朱色の獣が荒れ果てた地表に立っていた。何の物音もしなかった。忽然と現れたその魔獣は、豊かな毛並みをしていた。丸みを帯びた耳が辺りを警戒するようにぴくぴくと動く。目つきは鋭く、爛々とした獣の眼差しに射抜かれそうになった。朱色の表皮に黒い線が縦横無尽に走っている。全体の印象としては、重い、だった。鈍重そうだ。話にあった高速で移動するというのはでまかせかもしれない。彼は息を殺して、この場を預かる長として好機を見計らった。朱色の魔獣はゆっくりと荒野を移動しようとしている。今ならば、と彼は片手を掲げた。

「……急くなよ」

 声を発すると、先ほどまで浮き足立っていた三本線でさえ、緊張の面持ちを浮かべた。唾も飲み下せない緊張感が走る。全員がサイホーンの手綱に込めていた力を強くした。その時、三本線のサイホーンが一声鳴いた。何が起こったのか。目を向けると、三本線のサイホーンが主人の心情に衝き動かされたように暴れ出していた。その声にもちろん気づかない魔獣ではない。彼が再び魔獣に目を向けると、魔獣は岩陰へと目を向けていた。

「無理だ。行くぞ」

 手綱を引っ張る。雄叫びを上げて岩陰から五匹のサイホーンが飛び出した。彼はサイホーンに負けないほどの声を上げる。

「ライラライライライライ……!」

 三本線が腹腔から叫び声を発した。三本線のサイホーンが先行する。彼は、いけないと片手を上げかけたが、その瞬間、朱色の魔獣の姿が掻き消えた。何が起こった。それを確認する前に、三本線がサイホーンから投げ出されていた。鈍重さと重みが自慢のサイホーンが突き飛ばされている。三本線の身体が舞い、時間が止まったように彼には見えた。三本線の名前を呼ぶ。その声が響き渡る前に、三本線の身体が後ろから突き飛ばされた。三本線は呻き声を上げる間もなく、地面に打ちつけられる。髭面が、「野郎!」と声を上げて周囲を見渡した。朱色の魔獣の姿は見えない。髭面は小脇に抱えた荷物の取っ手に手を伸ばした。

 その瞬間、朱色の残像が尾を引いて髭面の乗るサイホーンを突き飛ばした。髭面が背中から地面に倒れる。サイホーンが横倒しになり、奇声を上げた。四足をばたつかせる醜態を晒す。彼は一気に仲間が二人もやられた事に戦慄していた。尋常ならざる事態だ。彼の早急の判断が迫られた。

「視えたか?」

 禿頭の声が飛ぶ。彼は、「一瞬だけだ」と応じた。事実、朱色の残像はすぐに空気に溶けていた。塵が舞い散る中、朱色の魔獣の姿は一瞬たりとも視えない。

「俺が行く!」

 金髪が雄叫びを上げて取っ手を引き抜いた。瞬間、荷物が弾け中から現れたのは巨大な半球状の物体だった。糸が編まれており、飛び出す仕掛けになっている。巨大な捕獲器だ。彼ら一族は、「胎盤球」と呼んでいた。胎盤球が弾け飛び、何もない空を掻く。胎盤球は二つで一つの仕掛けとなる代物だ。魔獣を挟んで二人同時に発射し、胎盤球の糸が絡まり合って魔獣を胎盤球の中に拘束する。しかし、片方では意味を成さないはずだ。それを分かっているであろう金髪は、「こいつは!」と大声で叫んだ。

「普通のやり方じゃ捕まえられない。胎盤球の糸で転ばせろ」

「無駄球になる」

 文字通りの意味だった。糸に絡まって転げるような相手ならば成人の儀の獲物に選ばれないだろう。

「馬鹿野郎!」と金髪の怒声が飛んだ。

「何のためのサイホーンの角だ」

 その言葉に禿頭と彼はしばし視線を交わしあったが、やがて彼のほうが理解した。

「そうか。糸を張れば」

 彼は手綱を握り締め、サイホーンへと前進を促した。今にも朱色の魔獣が飛び掛ってくるかもしれない。その恐怖が首の裏に汗となって染み出してくる。彼のサイホーンは胎盤球の投げ出された糸を角で絡め取った。禿頭の操るサイホーンも糸を絡ませ、円弧を描くように走る。朱色の魔獣が一瞬だけ姿を現し、彼の背後を取った。彼は緊張で硬直にした顔の筋肉に笑みを張り付かせた。

「ついて来い。来い、来い!」

「ライライライライ!」

 金髪と禿頭の叫び声が同時に弾ける。三人は勾玉状の走りを見せた。朱色の魔獣の気配がぐんと間近に迫る。彼が振り向くと、魔獣の顔はすぐ傍にあった。炎のような鬣と、銀糸のような美しい毛並み。彼は一瞬だけ目を奪われたが、すぐに任務を思い出した。

「応!」

 発した声が力となり、糸がピンと張り巡らされた。彼の背後まで迫っていた魔獣は糸の結界に絡め取られて速度を殺した。後ろ足が取られたのか、仰け反って前に伏せる。彼はさらにもう一周、魔獣の周囲を走った。胎盤球から伸びた糸が魔獣の足を完全に封じる。朱色の魔獣は雄叫びを上げた。身が竦み上がるほどの声に一瞬だけ躊躇するが、対面に回った禿頭と共に彼は胎盤球を発射した。胎盤球が朱色の魔獣を包み込み、糸が全身を絡め取る。糸で足を封じ胎盤球で身体の自由を封じた。これ以上は、と彼は神に祈った。

 朱色の魔獣が弱々しく鳴き声を上げる。どうやら胎盤球に押し込める事が出来たようだ。彼と禿頭と金髪がサイホーンから降りる。彼は三本線と髭面へと歩み寄った。二人とも一瞬で息絶えていた。衝撃で骨と内臓がバラバラにひしゃげたのだろう。腹部が落ち窪んでいた。彼は十字を切り、見開かれた目を閉じさせた。三人が朱色の魔獣の傍に寄り、目配せをしあう。

 背中に掲げた旗を抜き、三人は同時に朱色の魔獣へと突き刺した。魔獣の声が朗々と響き渡る。やがてその声が消えた。魔獣が目を閉じた。どうやら麻痺毒が効いたようである。

「サイホーンで持ち帰る。これで俺達は晴れて成人だ」

 金髪の言葉に彼と禿頭は笑みを交し合った。極度の緊張状態に置かれていた身体が少し緩んだような気がする。胎盤球に捕らえられた魔獣を引きずり、サイホーン三匹は集落を目指した。主を失った二匹も追従する。朱色の魔獣は三本の旗を突き刺され、黙したまま動かなかった。

 集落の門の前に辿り着いた彼と仲間達は大人達のどっと湧いた歓声にまず導かれた。

「よくやったな」

「誇りだ」

 彼は今まで受けた事のない賞賛の言葉に覚えず恥じ入るように顔を伏せていた。禿頭が、「女じゃないんだ。もっと毅然としていろ」と言った。彼は長老の待つ塔まで朱色の魔獣を連れ帰り、長老は彼らの働きに大いに喜んだ。

「素晴らしい。早速、旗を抜き、その血を刻み込め」

 三人は朱色の魔獣へと歩み寄った。その時、朱色の魔獣が僅かに目を開いた。その眼に映った自分達に彼は狼狽した。宿している光は自分達と同じ、生物の光だ。慈愛すら感じられる。しかし、これは成人の儀なのだ。成すべき事は唯一つ。

 彼らは三本の旗を引き抜いた。朱色の魔獣が声を上げる。旗の先端についた血を彼らは、侍っていた従者に手渡した。従者は慣れた様子で血のついた旗の先端で彼らの腕に刺青を刻んだ。麻痺毒が走り、意識が飛びそうになる。彼は奥歯を噛んでぐっと堪えた。ゆらりと揺れる視界の中で、長老が背後の炎を背に、重々しく告げた。

「神速の戦士達よ。これでお主らは突風よりも速く、大地よりも重い力を得た」

 彼は恭しく頭を下げた。他の二人も同様だった。腕に彫られた刺青を見やる。それはすぐに凝固し、朱色の稲光のような刺青となった。

 彼ら一族はその風習が時代錯誤のものだと気づく事はない。モンスターボールの呪縛を選ぶよりかは、魔獣を捕らえる事のほうが人道的に思えた。彼らは捕らえた朱色の魔獣を逃がした。来年の成人が恐らく、迎え撃つ事になるだろう。彼と他二人は物見やぐらで荒野の奥地へと消えていく朱色の魔獣を見送った。

 それはさながら地上の流星だった。

「ラライライライ!」

 彼が神速の刺青が刻まれた手を振って叫んだ。応じる声が朱色の花火のように広がった。
メンテ
ガラス色の終末 ( No.7 )
日時: 2013/04/10 18:34
名前: 戯村影木

 テーマA:ガラス

 0

「本当に、ずっと一緒にいられるといいな」
 リリアはそう言った。彼女が出来る意思表示は、もはや言葉を紡ぐことだけだった。彼女が受けられる意思表示は、言葉を聴くことだけだった。
「ずっと一緒だよ」
 僕は、何度も覚悟を決めた言葉を、改めて口にした。ずっと一緒、という、何の拘束力もない言葉は、しかし、疑いの気持ちのない僕の心から放たれ、真実の約束となって、リリアの耳に届く。
「リュー、最後に、お願いがあるんだけど」
「なんだよ改まって」
「キスして欲しい」
 今更そんなこと、と僕は思う。そして、僕も今更、そんなことに気付く。言葉以外にも、まだ伝えられることはあったのだ。けれど、キスをしてしまえば、もう言葉は交わせない。だから、お互いにとって初めてのその行為は、最期の合図に決めていたのだと、またすぐに気付いてしまう。もうこれ以上交わす言葉はないという、リリアの意思表示なのだと、ついに気付いてしまう。
「もう、さよならだから」
「ずっと一緒にいるんだろ?」
「うん、そうだったね」
 リリアは穏やかに言って、ついに口を噤んだ。
 僕はリリアの、まだ人間である場所に、唇を重ねた。
 もう、言葉を交わす必要はない。
 僕は、リリアの記憶が、この初めての口付けのまま、永遠に止まってしまうことを祈る。
 ――そして、温度のなくなった唇から離れ、あまりに美しくなってしまったリリアの姿に、涙を流した。

 7

 最近リリアの様子がおかしい。
 もっともリリアがおかしいのは今に始まったことではないのだが、ここ最近……特に一ヶ月くらい、様子がおかしい。あんまり僕にちょっかいを出さなくなったし、まだ秋も始まったばかりだというのに手袋を離さないし、あれだけ渇望し、半年に及ぶバイトの末ようやく手に入れた新型の端末(透明素材、折りたたみ式、全面タッチパネル、投影装置完備)を手放して、一世紀以上前に流行ったボタン式の携帯端末を利用している始末だ。
 おかしい。
 何がどうと言われても微妙なのだが、なんだか全体的におかしい。
 かといって、なんとなく自分から話しかけるのもタイミングが掴めず、ずるずると一ヶ月が経過していた。しかし流石に一ヶ月もまともな会話をしていないと、腐れ縁相手として気になるものだ。
 だから僕は思いきって、リリアに話しかけてみることにした。高等部の授業日程が終わった金曜日の午後。一緒に帰るから待っているように指令メールを出した。
 主従関係にあるわけではないが、リリアは僕が何かを命じると素直に従う犬のような存在だ。だからそんな相手の様子がおかしいと、こちらとしても気が気ではない。それがただの言い訳であるということは、言っている僕が一番よく分かっている。
「あ、リュー、こっちだよ」
 正門の所で、リリアは大人しく待機していた。なんだ、会ってみれば大して変わったところは見られない。目に見える問題点は、やはりリリアは寒くもないのに手袋をしていて、時代遅れのボタン式端末を操作しているというところくらいなものだった。
「久しぶり」
「だね」
「じゃあ、たまには一緒に帰るか」
「うん。久しぶりだね」
「なんでリリアも言うんだ」
「久しぶりだなあ、と思って」
 訊ねたいことはたくさんあったが、どれ一つとして気軽に訊ねられる類のものではなかった。例えば男女関係についてのことだったりしたのだが、訊ねられるわけがない。
 対するリリアと言えば、どうでも良い世間話を矢継ぎ早にしてくる。心なしか嬉しそうで、それでいてどこか本音が隠れているような様子だった。
「リューは最近どうだった? 何か楽しいことあった?」
「いや……別にないな。普通だよ、普通」
「そうなんだ。楽しまないとだめだよ、短き青春なんだから。友達と青春を謳歌したり、可愛い彼女作ったりさ、そういう……ほら、ね」
 その発言に至って、ようやく僕は違和感を覚える。
 僕の思い上がりでなければ、リリアと僕はお互いに何となくお互いのことを意識している、なんと言うか、ありがちでいて実際には珍しいような関係だった。
 なのに、リリアは僕に、彼女がどうの、という話題を提供してくるではないか。
 それはあれなのか。いい加減告白してくれという意味の発言なのだろうか。それとも、リリアはリリアで彼氏を作ったという意味なのだろうか。だとしたら由々しき問題だろう。聞き捨てならない。
「……あのさあ、リリア、何かあった?」
「んー……どうして?」
「なんか、様子が変だからさ」
「そうかな? ……そう見えないようにしてたんだけど」
「何があったんだよ」
 僕は我慢出来ずに訊ねる。
 リリアは立ち止まり、沈黙を利用する。
 ――そして、たっぷり時間を置いたあと、僕を見ないままで言う。
「……リューさ、ガラス細工症候群って、知ってる?」

 6

 それは、生半可な覚悟で臨んで良い話題ではなかった。
 ガラス細工症候群。
 身体が末端からガラス化していき、最終的には全身がガラスになってしまうという、奇病。癌への治療が確立され、物理的な即死以外であればほとんどすべての病気への対抗策が取られた現代医学に、再び脅威をもたらした原因不明の症状。
 もろにファンタジーのような病気である。故に、医学どころか、科学ですら扱えない分野に位置している。漠然と、現代社会が生み出した悲劇だというところまでは分かっている。摂取するものだとか、日常的に触れるものだとか、そういうものが原因で、ガラス化する。けれど、どういう条件で、どういう対象が、どうしてそうなってしまうのかは分からない。
 だから、ガラス細工症候群になったということは、
 簡単に言えば、近々死ぬ。
 そういうことだった。
「……」
 絶句する僕を優しく扱うように、リリアは何も言わずに立ち去った。僕は呼び止めることも出来なかった。ただ呆然と立ち尽くす。だって、何も言えないじゃないか。僕がこの場で、考えなしに言うセリフは、全て、意味を成さない。
 リリアの手袋の意味を考える。
 リリアのガラス化は、手から始まったのかもしれない。ガラス化した各部位は、しばらくは稼働するという。ガラスというのは非常に粘度の高い液体だという話をどこかで聞いたことがある。外部からの影響はほとんど受けないが、それがことガラス化した本人の意志であれば、動かすことが出来る。もっとも、ガラス化が完全に行き渡ってしまうと、それも出来なくなるらしい。だから、患者は視覚的に、自分の死が迫るのを待ち受けなければならない。
 リリアは手袋をここ最近常備していた。
 つまりリリアが手袋をし始めた頃には既に、ガラス化は始まっていたということだろう。
 携帯端末についても筋が通る。全面タッチパネルのものは、リリアは利用出来ないのだ。ガラスではパネルは反応しない。ガラスの指で扱うのであれば、物理キーでなければならない。
 そうした変化は、もしかしたら、リリアの周りに溢れていたのかもしれない。それに気付けず、ただ漠然と、リリアの様子がおかしい、とだけ思っていなかった自分に嫌気が差した。
 だからといって、
 じゃあ、僕に何が出来たといのだ。
「……」
 もう一度、何かを言いかけて、やめた。
 理不尽で、絶望的な、恐怖。
 それ以外の何物でもないのだ。
 ガラスは、美しい。
 美しいものは、それ故に、残忍で、冷酷なのだ。

 5

 今から医者になろうと思うほど、僕は無謀ではなかった。
 けれど、それに代わる目的をすぐに見つけられるほど、僕は優秀な人間でもなかった。
 そんな出来の悪い自問自答で、時間はいたずらに過ぎた。

 4

 僕は弱い人間で、とても臆病だった。だから、リリアにもう一度声を掛けようと決意するまで、とても時間がかかった。実に、一週間が経過していた。症状に悩む本人が毎日学校に行っているのに、僕は一週間学校を休んだ。いつもはうるさいくらいに不良行為を許さぬ母親は、その一週間僕に小言を一切言わなかった。それだけ僕が弱って見えたのか、それとも事情を知っていたのか。
 とにかく僕は、一週間後、またリリアを呼び出した。
 リリアは変わらぬ様子で、また正門の前にいた。相変わらずの手袋と携帯端末。
「よう」
「リュー、ちゃんと学校に来ないとだめだよ」
 僕は覚悟を決めたつもりだった。
 ガラス細工症候群は感染症ではない。
 リリアと一緒にいることで、僕がどうこうなるわけではない。保身のためではなく、リリア自身の気持ちを考えてのことだ。僕が彼女と一緒にいても、彼女が負い目を感じることはない。ならば、僕はここに――リリアの隣にいても、問題はないはずだった。いや、いなければならないのだ。本来であれば、一週間前から、ここにいなければならなかった。僕はいつでも行動が遅い。手遅れという言葉を身を持って体感することで、その遅さに気付いた。
「じゃ、帰ろうかー」
 暢気に言うリリアの手を、僕は唐突に握る。
 とても硬く、冷たい手だった。
「ひょう」
「ひょう、じゃないだろ。ほら、行くぞ」
 ガラス化した部位に触れられるのは、もしかしたらとても嫌なことだったかもしれない。けれど僕はそれをしなければならなかった。同情なんかではない。今から僕に出来ることなんて、多分ほとんどない。病気は治せない。夢も叶えてやれない。大人にもしてやれない。だからせめて、僕の自意識過剰だったとしても、それがリリアが本当に望んでいることではないとしたって、隣にいようと思った。
「どうしたの?」
「別に……」
「私がこうなっちゃったから?」
「まあ、それもいい機会だよな」
 これから先、後ろ向きな発言は一切しないと、僕は決めていた。
「だからさ、付き合おうぜ」

 3

 茶化されたり馬鹿にされたりする覚悟だったのだが、リリアは予想に反して泣いた。そして、僕に抱きついた。全てが予想外のことだったが、理想的だった。
 抱き締め返すと、腕のほとんどがガラス化してしまっていることに気付いた。背中や胸は、まだ温かい。その温もりを、僕は必死に確かめた。これは、失われてしまう温もりなんだ。だから、忘れてはならない温もりなんだ。
「うれしいな」
 リリアはくぐもった声で言う。
「うれしいな……」
「もっと早く言っとくべきだったんだよ、俺は。いつも遅いんだよな、こういうの」
「十分早いよ……まだ、こうやって、ぎゅってしたり出来るし」
 その言葉は、随分と覚悟のこもったものだった。きっと、僕の何倍もの時間、リリアは悩んで、乗り越えたのだろう。その時間を知ることは、僕には出来ない。僕のこの物語は、事実を知った瞬間から始まって、それより前には戻れない。
 それより前に、どんなに長い物語があったとしても、僕はそれを理解してやれない。
「これからさ、楽しいことしような」
「うん……」
 だったらその覚悟を決めたリリアに、何が出来るだろう。生まれ、生き、死んで行くことにさえ意味を持たせられるなら、たったそれだけでも、良いんじゃないだろうか。
 そんなことは、本当は誰にとっても平等なことだ。別に正解があるわけではないけれど、ただ生まれて、ただ死んで行くだけでは、割に合わないくらい、人生は悲運に満ちていて、唐突な悲劇に見舞われる。
「リリアがしたいことを、たくさんしよう」
「うん」
「だからさ、デートに行こう」
「今から?」
「そんで、飯も食おう」
「今からなの?」
「ああ」
 どうして僕は――どうして今までの僕は、未来は永遠にあると勘違いしていたのだろう。自分が知らぬうちに、自動的に訪れる幕切れがあるのに、そしてそれは何の覚悟もしなうちから訪れるのに、どうして明日があると思ってしまったのだろう。
 間延びする今日を信仰したのだろう。
 そんな今日はもう終わってしまったのに。
「今日やりたいことを、今日のうちにしよう」
 そして悔いのない一日を終えて、リリアと一緒に感じたかったのだ。
 美しく終わって行く夜と、真っ新な朝を。

 2

 僕とリリアは一緒にいることを選んだ。
 リリアは何度も悩んだのだという。僕を拘束すべきではないということを。自分の望みを捨てるべきだということを。これから死ぬと分かっている人間は、何も望むべきではないのだと思ったらしい。
 馬鹿げている。
 みんな死ぬんだ。
 それは哀しいことでも、残酷なことでもない。ただの事実だ。みんな死ぬ。ただそれだけのこと。平等だということだ。望むことにも、それを叶えることにも、死は平等にある。
 僕とリリアは、それからの時間を、共に過ごした。秋が始まって、僕の誕生日があった。リリアは僕にマフラーを編んでくれた。ガラス化が始まった時から、密かに編んでいたそうだ。ずっと使ってね、と彼女は言った。確認するまでもないことを、僕らは言葉で確認する必要があった。
 冬が訪れて、クリスマスに、僕たちはもっとも恋人らしいことをした。外で一緒にご飯を食べて、買い物に出かけて、イルミネーションを見た。僕はリリアに手袋を買った。彼女は大袈裟に喜んで、また泣いた。人は、死ぬまでに流せる涙の量が決まっているのかもしれない。終わりが近づくにつれて、リリアは泣く頻度が増えた。
 年の瀬に、二人でまた出かけた。一年の継ぎ目を一緒に過ごして、初めて、その日のうちに家に帰らなかった。誰も僕たちを咎めなかった。咎めることなんて出来なかったし、咎められても、従う気なんてさらさらなかった。
 冬季休暇のうちに、僕たちはもっと近づいた。
 僕は、今のお互いの関係に不満なんてなかったけれど、僕よりももっと終わりに近いリリアは、色々と考えてしまったようだ。誰もいない僕の家に来て、二人で部屋に隠れて、リリアは服を脱いだ。
 僕たちは美しい関係を強いられていた。
 リリアは、もう既に、腰から下がガラスになっていた。だから、今時高校生なら当たり前にしてしまうような付き合いも、物理的な問題で、出来ずにいた。腕も、肩まで透明になっている。透き通るようなガラス細工に、人間の肌。そのアンバランスさは、結晶化する寸前の、尊い、生命の姿だった。
「……おっぱい」
 リリアが唐突に発したのは、緊迫した空気を壊す言葉だった。
「……なんだよ」
「さわりたいんでしょ」どうせ、男の子って、とでも言うように、リリアは言う。「ほら、今のうちだよ」
「からかうなよ」
 リリアの胸は比較的大きかった。
 意識し始めたのは中学生の頃だっただろうか。自由奔放なリリアの性格に比例するように、伸び伸びと成長していった乳房。
「私たち、我慢するような間柄じゃないでしょ」
 リリアは投げ捨てるように言う。
 恐らく、欲望や、好奇心ではない。
 でも、リリアはさわって欲しいのだ。
 経験出来ることを、出来るうちにしたい。
 いつお互いが終わってしまうか分からないから。
 もしかしたら、僕の方が先に死んでしまうのかもしれないから。
 ただ、さわって欲しいのだ。
「なんか……照れるな」
「今さらー?」と、リリアは照れながら言う。「まあ、ほら、お好きにどうぞ」
 僕とリリアは、お互いに触れ合った。リリアは手ではなく、唇で、僕の身体を確かめた。温度を感じる機能は、四肢にはもう残っていないようだった。
 僕たちがしていたのは、怖ろしく美しい行為だった。お互いの人間性を確かめるように触れ合って、それを感じ、それを認め合った。もちろんやましい気持ちが一切なかったかと言えば嘘になるけれど、油断すると泣いてしまいそうなくらいに、尊い行為だった。
 触れ合う間も、僕とリリアは色んなことを話した。彼女を抱き留めている間も、他愛もない話をした。冷たい彼女の腕。冷たい脚。それらに触れ、暖かい彼女の胸に抱かれ、色んなことを話した。
「よく話題が尽きないよな」
 僕が問いかけると、リリアは不思議そうに言った。
「今はまだ、お互いに話せるんだから、今のうちに確かめ合いたいな。誤解も不安も全部なくなって、そうしたら、話せなくなっても、ずっと信じていられると思う」
 それは僕が考えも及ばなかった理論だった。
 けれどきっと間違いではないのだ。
 言葉でわかり合えるうちに、信じ合うために必要である言葉を消費しておけば、答えを望む必要はなくなる。たった一度のやりとりで、そのあと一生信じ合えれば。
「なあ、リリア」
「はいはい。何ですか」
「ずっと、一緒にいたいな」
 リリアはまた、残りの涙を消費した。

 1

 春を待たずに、リリアのガラス化は終わりの目の前までやってきていた。
 首の下までガラス化が進み、四肢を動かすのが大変になってきた。不自由というよりは、単純に時間がかかるようだ。食事を口に運ぶだけでも、一分以上時間が掛かってしまう。もう、自分の脚で歩くことさえままならなくなってきていた。
 リリアは学校を辞めた。僕も学校には行かなくなった。リリアは不満を口にしていたが、同時に、嬉しそうだった。実際に、嬉しい、と口にも出した。嬉しいけれど、僕が卒業出来なくなったら困る、と、思ったことをそのまま口にした。僕はただ、大丈夫だよ、と言うだけだった。
 それからは、ただ穏やかな時間が過ぎた。
 悲劇なんて感じさせない、凪の時間だった。このまま、この一瞬が永遠になってしまうことを強く望んだ。そしてリリアの笑顔を見て、その永遠が続くことを願った。
「あ、リュー、こっちに来て」
 リリアの言葉は、最期を予感させる色をしていた。
 僕は最期が訪れるその瞬間まで、リリアの家で暮らすことにした。リリアはもう眠れなくなった。睡眠は取れても、身体を横に出来ない。だから僕はリリアのベッドで寝た。食事も僕が食べさせた。だから、いつだって、リリアの呼びかけに、すぐに答えられた。
 次の瞬間に突然襲い来るかもしれない終わりと、ちゃんと向き合えるように。
「どうした?」
「あのね、見えなくなってきちゃった」
 リリアの正面に立つ。眼球が、とても薄く、淡く、透き通っているのが分かった。首や口よりも、目から先にガラス化するのか、と、妙に感心してしまった。
「ねえリュー、笑って」
「ん……こうか?」
「へたくそだなあ」リリアは笑いながら言う。
「なんだよ。じゃあこうか?」
「自然でいいのに」
「自然ね」
 そう言った時の僕は、きっと本当の笑顔を作れていたのだろう。リリアは嘆かない。リリアは悲しまない。いつだって笑っている。もしその笑顔を作れたのが僕なら、どんなに嬉しいだろう。
「私はね、ずっと、今のリューの笑った顔を刻み込んで生きて行く」
「今の顔で良かったのか?」
「うん。あ……」
 リリアの瞳から、光が消える。
 義眼のようなガラス玉が、僕を映す。
「見えなくなっちゃった」
「ちゃんと笑えて良かったよ」僕は本当は泣きたかったのかもしれない。「もっと練習しとくんだったな」
「そんなことないよ。私には、かっこいい、一番好きな顔だから、どんな顔でも、別に……」
「照れること言うなよ」
「ねえリュー」
 深刻そうに、リリアは言う。
 何かを予感させる響きだった。
 僕はただ黙って、次の言葉を待つ。
「私が動けなくなったら、私のこと、忘れてね。ちゃんと、普通の人を好きになってね。楽しく過ごしてね。それで……時々、私のこと、思い出してね」
「難しいこと言うなあ」
 僕はもう決めていた。
 これからどうやって生きて行くかを。
「俺はずっとリリアが好きだよ。リリアだけだ」
「嬉しいけど……でもさ、リューはこれからずっと生きて行くんだよ。私たちが生きてきた人生よりも、もっと長い時間を生きて行くんだよ」
「じゃあさ、リリアと俺の立場が逆で、俺よりカッコイイやつが現れたら、リリアは突然俺のこと忘れて、そいつのこと好きになれるのかよ」
「ならないよ!」
「俺だって無理だよ」
 リリアの頬に触れる。まだ、温かい頬。
 温もりを感じられる。
「ずっと一緒だからな」
 リリアの瞳は、まだ涙を流すことが出来た。僕の指に触れた涙を、舐め取る。生きている実感があった。
 内部がガラス化を始めたら、最期の合図。それは最初の頃に覚えて、ずっと忘れないことだった。リリアはもうすぐに動けなくなる。ガラス細工のように、尊い存在になってしまう。
 リリアは、僕が買った手袋をしていた。服はもう身につけていなかったけれど、それだけはずっと身につけていたいと言った。手は祈るように、組み合わさっている。もう、手袋が外れてしまうことがないように、という意思表示だった。
「お母さんたち、呼ばなくていいからね」
「わかった」
 リリアも、もう終わりが来ることを理解していた。
 僕はただ、リリアの頬に触れる。
 そして、終わりが訪れた。
メンテ
Fake ( No.8 )
日時: 2013/04/12 21:48
名前: カエル師匠

テーマA「ガラス」



 ガラス越しの景色は自分の目で見るよりもきれいだ。
 そこにあることすら感じさせないほど磨かれたガラス、はたまた脂と埃の膜を張ったガラス、いろんな色をちりばめて荘厳さを主張するガラス、すりガラス、飲み物を抱いたガラス、丸いガラス――。枚挙にいとまもないほど世界はガラスで満ちあふれている。そしてその数だけ世界は縁取られていく。
 ああ、なんて美しいのだろう。
 ぼくはうっとりと外を眺めた。お気に入りは喫茶店の薄汚れた窓ガラスだった。長い年月の間にヤニに侵されて、透明とはほど遠い茶色がかった姿になってしまっている。しかし、そこが良い。ここから見る街の様子はまるで胃空間で、車のライトや街灯がぼんやりと広がって裸眼では決して見えない風景を与えてくれる。それだけでなく有機物がもつ一種の醜い、生への貪欲な願望すら、ガラスを通せば無機物の清らかさで覆い隠されるのだ。凍えるような寒空の下を足早に進む人々、花火のような明かり、途切れることなく続く車の流れ。まるで一枚の名画である。題名をつけるならばくすぶった街だろうか。
 からんからん。
 鐘が軽やかに鳴り、客が訪れたことを知らせる。ふうっと冷たい風が足をなでた。入ってきたのは背のやけに低いやつでコートの襟を立てて首を竦めキャスケットを目深に被っているため、顔は窺いしれない。それでもせき込んだ声は低くかすれた男のものだったから、性別だけはわかった。男は喫茶店のオヤジにコーヒーを注文すると、他に客がいないというのにわざわざぼくの座っているテーブル席に腰を降ろした。対面すると思っていたより背は低くなかった。
「こんばんは」
 黄色くて不潔な歯をむき出しにして男が笑う。たばこと口臭のまざった、とんでもなく不快な息が鼻をつく。吐き気がした。
「あ、あなた、アール・フォレストの、かた……ですか」
「ええ、ええ、そうですとも。わたくしアール・フォレスト営業部のスドウと申します」
 スドウと名乗った男は慇懃に、かつ棒読みで続ける。
「弊社は生きているガラス工芸をお客様に最安値でお届けしております。生きていると申しましても本当に命を得ているわけではございません。まるで今にも動き出しそうなガラスのポケモンをご提供させていただきます。検品には細心の注意を払っておりますが、万が一不良などございましたら良品とのお取り換えを無償でおこなわせていただきますので、なんなりとお申し付けください」
 そこまで一気に言い放ち、スドウは提げていたアタッシュケースを丁重な手つきで机へ置いた。ごくりと息を飲む。留め具が外される音がやけに大きく聞こえる。
 ――めまいがした。
 ぼくは昔からガラス細工を集めるが好きで、特にポケモンを扱った工芸品を愛好している。つるりとした体のポケモンたちは、その滑らかな姿でぼくを魅了した。時に雄大で重厚で、またある時には愛らしく軽やかで、そして常に美しい。ただ、それなりの出来映えを期待すれば、それなりの現金が必要になる。有名な工芸師の作品など安月給のぼくには到底手が届く品ではない。しかたなく、大量生産されたガラスのポケモンで羨望をなだめていた。
 そんな中でアール・フォレストという会社をみつけたのは偶然でしかなかった。運命だとか必然だとか、そういう風には思えない。本当に偶然だったのだ。
 その日ぼくは、いつものようにネットサーフィンをしてガラスのポケモンたちを眺めていた。サムネイルのポケモンたちは一様に粗造りで、安い。安いといってもたいてい五千円からなのだが、それを下ると大きさも品質も希望を満たしていないことが多い。ずらりと並んだ商品をかいくぐっていく。そのなかでひとつ、やけに酷評をされて値段が下落しているガラス細工を見つけた。興味を持ってクリックすると、すぐに写真が展開される。映し出されたガラスポケモンは驚くべき精巧さと表情を兼ね備えていた。ぼくはしばし自失し、画面の向こうを見つめたまま感動に打ちのめされてしまった。あの衝撃をなんと表現すればいいのかわからない。
 ガラスでありながら、そのネイティはどう見ても生きていた。量産しやすいように簡略化されているわけでもなく、どこか遠くに投げかけるような視線や、毛先の細やかさまで完璧に再現していた。それはぼくが喉から手が出るほどほしかった匠の作品よりもリアルで、そして異様なほど安かったのである。下落する前の値段も出来のよさからすれば破格といえるものであった。ぼくは素直に喜ぶと同時に、なぜこれほどの品が星ふたつという評価を甘受することになったのか疑問を持った。この電子市場サイトは、購入者が次の購入者のために商品に対する批評をつけるというシステムが搭載されている。たまに良品を悪辣な言葉でおとしめる利用者や、欠陥品を良品だと偽る利用者がいる。その類なのではないかと半ば期待して評価を見てみた。
 酷評のほとんどがリアルすぎて気持ち悪いといった一方的な避難や、ネイティの表情が苦しんでいるように見えて不吉な感じがする、という苦情で埋まっていた。良い評価はリアルで安いのがいい、というものが大半であった。たしかに写真からリアルだと判断できるほどの完成度であれば、気持ち悪いと称する人も出てくるだろう。苦しんでいるかどうかはぼくには判断しかねる。これは個人の完成でしかないのだし、そもそもポケモンに顕著な表情などある方が珍しいのではないか。
 とにかくぼくは興奮した。
 この値段でこの造作。買うしかない。
 数日後、丹念な梱包で守られたガラスのネイティが届いた。思っていたとおりの素晴らしい作品で、ぼくは寝食を忘れるほど夢中になってしまった。色具合も一級品、質の高さは五つ星である。ほぼ原寸台ということもあって迫真感が異様に高まっている。羽のグラデーションもさることながら、瞳などは黒真珠をはめたように煌めいていて筆舌に尽くしがたい。土台のガラスもしっかりとしていて、とてもあのような値段で買えたとは思えなかった。
 ぼくはネイティをガラスケースに入れて他のコレクションよりずっと輝かしい位置に置いてやり、すぐにパソコンへとかじりついた。先日の履歴をたどれば、ガラスのネイティを販売していた業者がわかるはずだ。他のポケモンも扱っているに違いないという当て込みがぼくを突き動かし、どんどんページを開いていく。
「出品者アール・フォレスト」
 それが出会いだった。
 ぼくはアール・フォレストが出品している他のガラスポケモンを片っ端から注文していった。スボミー、オニスズメ、キャタピー、ビードル、ナゾノクサ、ピチュー、ヒマナッツ――。どれもこれもあり得ないほどの一品だ。そしてどれにも信じられないほど酷評がつきまとっていた。だけどぼくはものともしないで買いあさり、アール・フォレストの商品をすべてそろえてしまっていた。
 こうなると欲望がすっかり満たされたにも関わらず、新たにわき出てくる物欲を押さえるのが難しくなってくる。他社の製品をいくら買っても、アール・フォレストにはかなわないという気持ちがせり上がってきて楽しくないし、この質でこの値段はおかしいという思いばかりが頭を占めてしまう。
 気がつけば、ぼくはアール・フォレストのとりこになってしまっていた。
 愕然とした。元々、ガラスフェチであるという自覚はあったのだが、寝ても覚めてもあのネイティやスボミーたちのことばかり考えてしまうのは普通ではなかった。よくわからない寒さが走る。恐い。けれど、しあわせでもある。完全に欲望を充たせばこの恐さもなくなるんじゃないのか。そう思うとまさしくそうだとしか認識できなくなった。
 アール・フォレストから接触があったのはそんな、もやもやとした充足されない毎日を送っていた時だった。
「生粋のガラス愛好家様とお見受けいたしました。差し出がましいようですが、まだ市販していない商品をお客様にだけご提供させていただきたくお電話さしあげました」
 事務的な女性の声が電話口でそう告げた瞬間、ぼくの目の前は大きく揺れ動いた。
 売られていない作品が、手に入る!
 世界中の空気が一瞬で澄んだものに変わったような感覚に襲われ、地球の自転を体感したと錯覚した。天地がひっくり返ったってしあわせだと言えるくらい心は浮つく。
 もちろん二つ返事で承諾し、ぼくは指定された場所で営業の人を待つことになったのである。そこがこの喫茶店で、営業の人というのがスドウであった。醜く、汚らわしい男と面を合わせるのは苦痛でしかないが、やつが持ってきたアタッシュケースからは神秘的な雰囲気すら漂っている。きっとこの中に、と想像するだけで気が遠くなる。
 すべての留め具が外された。徐々に蓋が持ち上げられていく。一秒一秒がいやに長く感じられる。脂汗が全身から吹き出してくる。心臓がのどをせり上がってきそうだ。脈打つ音が口の中いっぱいに広がっていく。
「ああ……」
 大量の綿に保護された光沢質の表面は、ぼくに官能的な快感をもたらした。
 そこにいたのは、時間のはざまに閉じこめられたように動きを止めたキレイハナだった。頭部を飾る二房の花、踊り子の衣装を連想させるたっぷりとした葉、くりくりとしたつぶらな瞳、そして空へ上げられた小さな両の手。どこをとっても申し分ない。今までの作品よりも仕上がりが向上しているようにも見える。
 スドウが何か理解できない騒音を口から吐き出し続けるが、ぼくの頭には部屋のどこに彼女を飾ろうかという考えしかない。折れそうなほど繊細な葉の重なりには感嘆の息がもれるばかりだ。無性に触りたくなって震える腕を伸ばす。あと少しの距離でキレイハナは箱の中に閉じこめられた。スドウのにやにや笑いがますます広がっている。
「お客様、どうでしょうか。お気に召していただけましたでしょうか」
 舌打ちしそうになるのを寸でのところで抑え、ぼくは肯定をしめした。
「お値段なのですがこちら少々値が張りましてねえ。いえいえもちろん勉強させていただきますが、わたくしどもも精一杯削れるところまで削っていてですねつらいものがありまして、はあ、まあ、ネット通販のものよりお高くなっております」
 そう言ってスドウが提示してきた金額はたしかに高かった。もし現物を見る前に値段を知っていれば購入を渋っただろう。だけどあのキレイハナの美しいことと言ったら! 逃してしまえばきっと後悔する。日々を悔やんで過ごすくらいなら多少の金を失ってでも、平穏と美を手にした方が数倍、いや数万倍ましではないか。迷うなど正気の沙汰ではない。
 ぼくは決意もあらたに、売買契約書のようなものにサインし、彼女と引き替えるための札を数枚スドウに渡した。スドウは卑屈な笑いをもらしながら金をしまい込み、代わりにアタッシュケースと薄いパンフレットのようなものを差し出す。淡い水色の表紙には水晶でできた森が広がり、中心部にはローマ字のRが幻想的な字体で控えめに描かれている。どうやら製品カタログのようだ。
「そちらはネット通販で取り扱っていない弊社の製品カタログでございます。その中の品でしたらご注文後すぐに発送いたします。その、申し訳ありませんがこちらも少々……」
「いえ、大丈夫です。そういうものですよね」
「いやあ! そう言っていただけるとありがたい」
 スドウがずるずるコーヒーをすする。
 ぼくはそっけない灰色のアタッシュケースを撫でた。この中にあのキレイハナがいるのだと思うだけで、目の前の醜男にも耐えられる。
「そういえば、お客様はポケモントレーナー様でいらっしゃられますか。いやなに、先ほどお腰にモンスターボールをお提げになっているのをちらりと拝見したものですから、ちょっとばかし気になりましてねえ」
「ポケモントレーナーっていうほど大層なものじゃないですけど……」
「どのようなポケモンをお持ちで?」
「チリーンを一匹だけ」
「チリーンですか! ほほお」
 スドウの視線がねっとりと、チリーンの入っているボールへ注がれる。前言撤回だ。いくらガラスのキレイハナがぼくを慰めてくれてもこの男の不愉快さは緩和されないし、いますぐにでもこの場を立ち去りたい。
「あのお。ぼく、そろそろ」
「ああ。どうぞどうぞ。お忙しいところすみませんねえ。お客さま、本日はどうもありがとうございました。またごひいきに」
「はあ」
 会計を済ませ、一度だけ振り返る。スドウはなにやらポケギアで熱心に電話をしているようだった。もう二度と会いたくないな、と思いながら店を出た。息が白くにごった。



 数ヶ月が経った。
 ぼくの部屋はみっしりとガラスのポケモンたちで埋め尽くされている。ガラスケースに安置されたガラスのポケモン、その間を縫うようにしてぼくのチリーンが飛び回っていた。チリーンは風鈴ポケモンと呼ばれるだけあって、容姿だけでなく鳴き声も夏の風物詩と酷似している。動くたびにちりんちりんと涼やかな、季節はずれの音がこだまする。
 いつもなら耳を楽しませてくれるはずの声も、最近のぼくにはうっとうしくて仕方がない。食事と睡眠をろくにとっていないせいだろう。気分も最悪だった。音を遮断しようとソファーに寝転がったまま、クッションを手繰りよせて顔に押しつける。音が鈍くなった。少し心が安まる。チリーンも主人に構ってもらえないとわかったのか、徐々に鳴き声をフェードアウトさせていった。
 しばしの静寂。ぼくは胃の痛みをこらえながら、なんとか眠ろうと努力する。少し寝たらバイトに行かなければならない。アール・フォレストの商品を買うためにぼくはシフトを大幅に増やした。そして食事の回数をできるだけ減らした。それでようやく月に二個ほど、新作のガラス細工が手に入る。極限の生活だけど、ガラスポケモンのためを思えば苦にはならなかった。
 クッションを頭の下へ持っていく。見上げる天井は暗く、くすぶっている。チリーンがぼくをのぞき込んで、控えめにちりん、と鳴いた。そうして甘えるようにすり寄ってきた。やめろと言っても聞かない。どちらかといえば素直に従う性格なのに、きょうに限ってやけにしつこい。
 すり寄ってくるチリーンを苛立ちまぎれにはねのけるも、チリーンは遊んでもらっているつもりなのか何度も何度もぼくの頬に体を当てる。
「おい! いい加減にしろよ!」
 頭にかっと血が上って、起き上がりざまに思わず強く払いのけてしまった。はっとした時にはもう遅く、チリーンの軽い体は強く吹き飛んで、あのキレイハナのケースにぶち当たっていた。ケースがぐらつく。ぼくは慌ててケースを支えに行こうとしたけれど、あちこちに散らばったゴミを避けている間にケースは不自然なほどゆっくりと落下しはじめた。ガラスの砕け散る瞬間に時間は急激にもとの速さを取り戻したようだった。
 がしゃーん、だったかそれとも、ぱりーん、だったのか。あまり覚えていない。とんでもなく大きな音がして、透明だったガラスは割れる瞬間だけ白くなった。中に入れていたキレイハナは、見るも無惨な姿に変わり果てている。花が欠け、顔が半分割れて、手が両方とも無くなった。葉のスカートは粉砕されていた。ぼくの頭はぞっとするほどまっ白になっていく。なにも考えられない。よたよたと退いて、ソファーに身を投げる。
 また買い直せばいいなんて、その時は思い浮かばなかった。しばらくしてポケギアが鳴って、ようやくどれだけ時間が経っていたのかわかったくらいだ。発信先はきょうバイトに行くはずだった飲食店からだった。時計を見れば、出勤時間はとっくに過ぎている。ぼくは怒鳴り声を予期しておそるおそる通話ボタンを押した。
「もしもし」
「あ、もしもし? どうしたの、無断欠勤なんて珍しいじゃないの」
「はあ、すみません。ちょっと気分が悪くて」
「気分が悪いなら悪るいで連絡くらいくれなきゃこっちも困るのよねえ。他の子に入ってもらうにしてもせめて何時間か前に言ってもらわないと人手足りなくなるでしょう。あんた最近ぼうっとしてたし、やる気ないなら辞めてくれてもいいのよ、うちとしちゃあ」
「あ、いえ、やる気はあります」
 ここの時給はそれほど高くはないものの、ただでまかないがでる。今クビにされたらぼくは収入を断たれるだけではなく、数少ない食事すら取り上げられるのだ。
「今回だけは見逃してあげるけど、今度こんなことしたらすぐに辞めてもらうからね。それじゃあ」
 ぶつっと素っ気なく電話が切られる。
 ぼくはポケギアをソファーに叩きつけた。胸がむかむかする。
 何かが部屋の片隅で震えた。ぼくは視界に入ったそれに何気なく目をやり、そして後悔した。チリーンが怯えている。ぼくの一挙手に体をわななかせ、隠れるように物陰に体を押し込んでいる。とはいえ、この部屋にチリーンが隠れられるような場所はないので丸見えだ。怒らないでくれ、責めないでくれという哀願がやけに癪にさわった。
「なんだよ……おまえまでぼくを責めるのかよ。そもそもおまえがしつこくしなかったらキレイハナが壊れることも、ぼくがバイトすっぽかすこともなかったんだぞ! わかってんのかよ。おい。なんとか言えよ!」
 チリーンは帯状のしっぽを体に巻き付けて、ただただ震えている。無性に腹が立つ。そうだ、新しくキレイハナを注文しなくては。そうしてこの苛立ちを鎮めよう。
 ぼくはパンフレットを取り出して、ポケギアを握りしめた。勝手しったるとはこのことで、アール・フォレストに事情を伝えるとすぐにスドウが出た。あの汚い男は電話越しでも人を不快にさせる力があるようで、ぼくはやつの第一声を耳にしただけでため息をつきたくなった。
「いつもありがとうございます、スドウでございます。お客様、事情はうちのものから聞かせていただきました。災難でございましたねえ。ガラス製品は壊れやすいのが難点でして、我が社もなんとか耐久性に優れたものを作ろうと日夜研究開発を重ねているのですがいかんせん難しい課題でして。ところでキレイハナの再注文ということでしたが……大変申し上げにくいのですがこちら値段が以前より高騰していましてねえ」
 ざっとこれくらいしますよ――スドウが言いにくそうに口にした値段はぼくを徹底的に地獄へ叩き落とした。
 そんなもの易々と買えっこない!
「どうしてそんな、急に値段が上がったんですか」
「それがうちも経営不振でしてね。新作もなかなかできないし、ネット通販の方も返品が多くって商売あがったりなんですよお。キレイハナは元手も割高で採算がとれないってんで社長が値段設定を上げろってうるさくて。申し訳ありませんねえ」
「……そう、ですか」
「でもですね、お客様、いい話がありますよ。お客様のそのいたずらチリーンちゃん、うちにしばらく預けてみませんか。もちろん責任を持ってお預かりいたしますし、報酬にキレイハナとうちの製品数点をお贈りいたします。どうです、ご検討ねがえませんか」
 スドウ曰く、アール・フォレストはポケモンをデッサンしてから鋳型を作成し、そこにガラスを流し込んでガラスにんぎょうを作っているらしい。チリーンなら見た目も可愛らしいし、これから夏にかけて売ればきっと目玉商品になるだろうということであった。なるほど、入念なデッサンがあれほど完璧な工芸品生み出しているのか。
 ぼくはもちろん、すぐに返事をした。
「ぼくのチリーンなんかで良ければ、ぜひ使ってやってください!」
「本当ですか! いやあ、助かります。ではさっそく、こちらにチリーンを転送していただけますか。きっと製造部の方も大喜びですよ!」
 ぼくは粉々に砕けたガラスを踏みつぶし、チリーンに歩み寄った。怯えた目とかち合う。それをみないようにして、モンスターボールの開閉ボタンを押すと、チリーンは粒子となって吸い込まれた。
 転送システムはポケモンセンターに必ず常備されている設備だ。ぼくは急いでポケモンセンターへ向かう。少しだけチリーンが可哀想に思えて、信号待ちの間にボールを目の高さまで持ち上げた。
「ごめんな、ちょっとの間だけ向こうでがんばってくれよ」
 チリーンが中でうなずいた気がした。



 ガラスのチコリータが届いた。同封されていた手紙にはチリーンはすぐに見つけだすので心配しないでください、といったような文言が無機質に書かれていた。
 ちりん、と風鈴が鳴る。青空を背景に鳴るそれは、どこかチリーンを彷彿させるような赤い模様が入っている。
 ぼくのチリーンがいなくなったと初めに聞いたのは、あの日から三日たった夕方のことだった。スドウの語り口があまりに淡々としたものだったから、ぼくは現実だとすぐには信じられなかった。どうやら向こうの不手際で、チリーンを入れていたゲージの鍵が上手く施錠されていなかったらしい。朝、世話をしていた社員が見つけ、しばらく方々を探し回ったのだがまったく見つからなかったそうだ。
 すみませんねえ、とスドウは謝っているふうには到底思えない声音でそう言った。ぼくはチリーンを失った実感を持てなかった。スドウもそうなのだろう。彼からすれば書類上のポケモンで、しかも相手は契約すら交わしていないボランティアにすぎない。もしぼくがアール・フォレストを訴えたところで証拠もなにもないから、立件のしようがないのだ。
 冬が終わり、春になった。
 ぼくは未だにアール・フォレストを利用している。ポケモンを逃がしてしまった会社だというのに、中毒者のようにひたすら購買を続けている。バカだと自分でもわかっている。それでも止められなかった。
 ちりん、ちりん。
 そうだ。一度アール・フォレストに行ってみよう。
 もしかしたらチリーンはぼくのところへ帰ろうとして、道に迷って帰れなくなったのかもしれない。ぼくが近くに行けばきっとチリーンはぼくを見つけられるし、ぼくもチリーンがわかるはずだ。どうして今まで思いつかなかったんだろう。とてもいい案だ。
 そう思うと居てもたっていられなくなり、ぼくは鞄とポケギアをひっつかんで家を飛び出した。家を出るとさわやかな春の日差しがぼくを出迎えてくれた。じりじりと肌を焦がす太陽と、ぬるい空気ばかり運ぶ風が恨めしい。ああ、駅までどれくらい歩けばいいのだろう。
 アール・フォレストは港町クチバにあるらしい。ここからだと四時間はかかる。電車賃くらいは財布に入っているから、まあ、心配はいらないか。駅につくとちょうど目当ての電車が来るところだった。あわてて駆け込む。駆け込み乗車はお止めくださいというアナウンスに、思わず顔が火照った。
 電車に揺られている間、ぼくはずっと胸にためこんできた懺悔を反芻していた。チリーンはぼくに捨てられたと思いこんだのではないだろうか。あの時、抱きしめもせずに無感動に引き渡したのだ、そういうふうに考えてしまってもおかしくはない。もしそうなのだとしたら、チリーンが逃げてしまったのもうなずける。ぼくが全部悪いのだ。寂しがっていたチリーンに当たって、頭ごなしに怒鳴りつけて、あげく自分の私利私欲のために譲り渡した。チリーンが傷つくのも当然のことだ。
 クチバはぼくが想像していたよりも活気にあふれる町だった。アール・フォレストの住所を見るとどうやら港の方にあるらしく、どんどん海が近くなってくる。潮の香りもしてきた。広々とした森林公園を抜けるとぱっと青い海が眼前いっぱいに広がって、その傍にはたくさんの倉庫がずらりと並んでいた。どっしりと構えた姿の割に、潮風に長く当たっていたせいか寂れた雰囲気が漂っている。どうやらこの倉庫のひとつがアール・フォレストらしい。倉庫を会社代わりに使うとはなかなかこじゃれている。
「このなかから見つけるのって案外大変なんじゃあ……」
 スドウにでも連絡して、迎えを出してもらえばよかった。
 途方に暮れながらもひとつずつ覗いていく。貨物の積み卸しを手伝っているワンリキーやゴーリキーたちが人間と一緒に働いている、ということが多かった。覗いていることを咎められるのではないかとびくついていたぼくだったが、いつの間にか気にせずに堂々と覗いたり、あまつや倉庫の中へ入ったりするようになった。人の出入りが多い分、こそこそとしていなければ見咎められることはないみたいだ。
「ガラスポケモンの鋳型だけどさあ」
 不意に若い男の声が聞こえてぼくは足を止めた。どうやらこの黒塗りの倉庫から聞こえてきているらしい。そっと聞き耳を立てる。
「エスパータイプ何匹かで金縛りにして型にはめるらしいぜ。そうしたら型をわざわざ高い金かけて作らなくていいし、すげーリアルなのができるんだってよ」
「まじで? でもそれって違法じゃん。つーかさすがにそんなことするわけねえだろ」
「まじだって。おれこないだ現場覗いたんだけどよお」
「うわ、それスドウさんにばれたら首どころじゃねーぞおまえ。よくやるよな」
 スドウ。その名前に体がかすかに震える。
「まあな。でさ、作業場あるだろ、あそこにポケモンが檻に入れて並べられててさ。スドウさんがにやにやしながらユンゲラーとかに金縛り命令するわけ。そしたらポケモンがよ、こう、ちょっと苦しそうにしながら固まるんだよ。それをそのまま鋳型用のやつに押し込んで、生きたまま固めて中身が溶けるまで炉で――」
「やめろって! 気色悪い。つうかさ、おれらは上のそういうのに首つっこまない契約だろ。なんかあった時に巻き込まれてもしらないぜ」
 生きたまま、鋳型にされて――。
 そんなバカな! それじゃあぼくのチリーンは行方不明になったんじゃなくて、スドウに生きたまま焼き殺されてしまったのか!? あのチリーンが、型にされて、そしてあの精巧すぎるほど精巧なガラスのポケモンに――?
 ふざけるな、そんなはずがない。そんなのおかしい、それならぼくの部屋にあるあのガラス細工たちは生きたポケモンから作られたっていうのか。そんなことがあるわけがない、そんなものがあってはいけない、そんな、そんな。
「うわああああああ!!」
 チリーンを探さないと、チリーンを見つけて家に帰るんだ。そうすればきっとこんなの嘘だって笑い飛ばせるにきまってるそうだそうだそうだ!
 森。森だ。森が広がっている。
 ちりん、ちりん。
 ガラスの擦れあう音だ。
 おかしい、葉が、幹が、枝が、ぜんぶガラスになっている。どういうことだ。光の乱反射、七色に満ちる。ぐるぐると回る。ここから逃げないと。世界が無限に拡大する。あっちにもこっちにもガラス、ガラス、ガラス!
 ぼくの足元にあの粉々に砕けたキレイハナがいる。
「どうして私を壊したの。痛いわ、痛いわ、どうして助けてくれないの。ここは熱いあついあつい」
 これは幻覚だ。幻覚に違いない、そんなはずはない、生きている。生きてしゃべっている。手を伸ばそうとしている。無い手を伸ばしている。
 ガラスの森から逃げないとぼくは狂ってしまう!
 ネイティ、オニスズメ、ピチュー、ロゼリア、ハネッコ、ぼくが買ったガラスのポケモンたちが悲鳴を上げている。きいきいと耳障りな悲鳴を上げ続けている。紅蓮の炎に焼かれ、無機質なガラスに変えられていく。ぼくのつま先もじわじわと消えだしてきた。どうすればいい、どうすれば。
 きらりと視界の端でガラスではない何かが光った。あれは水か? それともこの狂った森から抜け出すための出口なのだろうか。
 おや、チリーンがいる。
 なんだそこにいたのかだめじゃないかしんぱいさせちゃあ。ぼくがわるかっただからもどってきてくれ。いえにかえったらあのきもちのわるいがらすのぽけもんはすべてすててしまうよ。だからゆるしてくれ。
 チリーンが笑う。
 ぼくはやっとチリーンを抱きしめられた。




 クチバ港で男性の遺体が発見された。近くを通りかかった男性が気づきユンゲラーとともに救助したが、搬送先の病院で死亡が確認された。原因は水死。男性は身元を証明できるようなものは所持していなかった。クチバ署は身元の特定を進めている。遺体はチリーンのガラス人形を抱きしめる形で湾内に浮いていた。同署は自殺とみて捜査を進める方針だ。

 四月十日の新聞より抜粋。
メンテ
タマムシブルース2013 ( No.10 )
日時: 2013/04/14 09:45
名前: 照風めめ

A ガラス


 0


 全身から噴き出す汗がどんどんと冷ややかなそれに変わっていく。
 焦りと不安と恐怖と嫉妬が綯い交ぜになり、直接妖しい光でも受けたわけではないにも関わらず混乱状態に陥りそうだ。
 目の前の光景を受け入れられない。いや、受け入れたくない。
 あいつが使うキノガッサはあいつ以上に俺の方が知っている。使うワザ、得意な間合い、性格、個性、好きな食べ物、お気に入りの時間。
 だというのにあいつの指示を聞いているキノガッサは、俺の知っているキノガッサとは一線を画している。どうしてあいつの方が俺よりも巧く使いこなせているんだ。
 そんなことを考えているうちに、俺の最後のポケモンにキノガッサが華麗にスカイアッパーをぶちかます。
 やめろ。嘘だ。頼む。勘弁してくれ。嘘だろ。嘘だよな。嘘であってくれよ。
 これまで何度大きな壁が立ちはだかっても不屈の闘志で耐え抜いた。
 それはもちろんこれからも続くだろう。不器用な俺はそうするしかないと思っていた。
 でも、そうじゃなかった。
 頭の中で、ガラスを叩き割ったような破砕音が響く。心が平静を保てなくなり、足腰にすら力が入れられない。叩き割られたガラスの破片が全て降り注いでくるかのような、そんな心地だった。
 あいつが心配そうにこちらに駆け寄ってくる。
 やめてくれ。
 お前が優しくすればするほど、俺はどこまでも惨めで小さくなってしまう。優しさは時として刃物や銃器よりも立派な凶器になる。悪意なき凶器は、心の重心をいとも容易く崩してしまい、崖からしとやかに突き落とすだろう。
 あいつのひんやりした手が俺の腕を支える。
 目が合った。
 綺麗に出来たあいつの顔が、困惑と不安に歪む。
 あいつの紫の瞳に、涙を流しながら変な笑みを浮かべていた俺は、一体どういう風に映っていただろう。
 そのとき「俺」は、一度死んだ。



 1


 カントー地方の中心部、タマムシシティに訪れたのは、丁度桜が咲き始める頃だった。
 人が溢れ、あちこちから放出される声の波に、田舎町出身で旅をしてきた僕はすぐにでも滅入りそうになった。
 そんな折り、旅をする上で多くの情報が集まるカフェテラスの誰でも掲示物が貼れる掲示板に、奇妙な張り紙が一つ。
『高レートでポケモンバトルしてくださる人を募集しています。国立公園の一番大きな桜の木の下で』
 他の張り紙がカラフルに描かれ、一時的に旅に同伴してくれる人を募集するのが半数を占めるのに対し、これは真っ白な紙にボールペンで走り書きされているだけだ。
「兄ちゃん、そいつが気になるのか?」
 背後から筋骨隆々でタンクトップというたくましい風貌の男が声をかけてきた。どうやら彼もこの張り紙に惹かれ、実際に戦ってきたのだという。
「こんな雑なチラシからは想像出来ねえが、めちゃくちゃ美人さんで、見とれてしまった、ってのもあった。でもな。それ抜きでも勝てる気がしなかった。ジムバッヂを四個持っていてそれなりに自信はあったが、四天王とやり合えるような実力を持っていやがる。兄ちゃんもなかなかやり手そうに見えるが、悪いことは言わない。それはやめておけ」
「……。そんなに強いんですか」
「俺も腰を抜かしちまった。お陰で凹んでここ二日はバトルしてねえ」
 僕のジムバッヂは今六個。あとはこの街とトキワタウンのバッヂを手に入れられれば僕は四天王に挑むチャンスを手に入れられる。負けたとしてもそれはそれで今後の勉強にもなるはずだ。
「おい、まさか……」
「そのまさかさ。負けたとしても授業料と思えば」
「その授業料が洒落になってないんだよ」
「いくらかかるんだい?」
 気のせいか、最初に声をかけられたときよりこの男が小さくなっているように見える。そんな彼は、右手を僕のそばに持ち上げ、三本だけ指を広げた。
「……三千円?」
 どことなく血の気が引けた彼が、弱々しい声で僕の言葉を弾き飛ばす。
「三万円だ」



 2


 桜の木がたくさん植えられている国立公園。方々に腕を伸ばした彼らが今、白みの帯びた可愛らしい花を精一杯咲かせている。
 最初は広いこの公園から彼女を探し出せるか不安だったが、いざ来てみればすぐ分かった。噴水のある広場の一つ向こうの丘の上。桜色の長い髪を柔らかい春の風に靡かせ、どことなく遠くを見つめている紫の瞳。もしもカメラがあるのなら、その光景を永遠の形にして残してしまいたくなるくらいに彼女は美しい。
 確かにさっきの彼も、勝負の最中だとしても見とれてしまうだろう。僕の貧弱なボキャブラリーとイマジネーションだけではどれだけ時間を重ねても、彼女の魅力を十二分に伝えることは出来ない。
 しかしそれには怯むまい。自分の心の中のスイッチを、OFFからONへ切り替える。
 その瞬間に花見客の声も、美しく咲き誇る桜の木々の姿も、僕の感覚器官からシャットアウトされる。そう、ただ目に映るのは彼女の姿だけだ。
「カフェテラスのチラシを見て来たんだけど、お手合わせ願えるかな」
「は、はい!」
 聞いた話とは違う、おっとりとした様子に少し面食らったが、何をしてくるかは分からない。全神経に最高級の緊張感を与えさせ、腰のベルトにつけてあるボールに手を伸ばす。



 3


 人の厚意は素直に受け取るべきものだった。
『悪いことは言わない。それはやめておけ』
 彼の言葉が脳裏をよぎる。完敗だった。力の差が歴然としすぎて、後学に役立てようにもそれ以前のレベルだった。
 彼女のキノガッサの華麗なフットワークに手も足も出なかった。自分の実力を過信していたわけでは無かったが、一匹も倒せずに負けたのは初めてだ。
 折れかけた心をどうにか支える。
「君、本当に強いね」
「ありがとうございます……。わたし、これくらいしか出来ることがなくて」
 彼女のこの控えめでおっとりとした気質は、バトルのときでも同じような感じで、声も大きくなくまごついているのに、まるで指揮者がタクトを振るような正確無比で美しい勝負をしてみせる。
 そんな彼女と戦うほどに、僕はポケモントレーナーとしても。そして一人の女性としても興味を惹かれてしまった。そのときに衝動的に一つの欲望が生まれる。彼女のことをもっと知りたい。
「良ければ名前を教えてくれないかな」
「な、名前ですか? あ、えっと……」
「気を悪くしたらごめんよ。無理に答えてくれなくてもいいから」
「あ、いえ、大丈夫です。……サクラ。わたしの名前はサクラです」
 そう言って、彼女は少しだけ恥ずかしそうに俯く。その動作も何をとっても愛おしくなる。
「サクラ、か。良い名前だね」
「わたし、桜が好きなので……」
 そう言って、風に煽られる髪を撫でつける。
「……ところでどうしてこんなに高いレートでポケモンバトルを続けているんだい」
 彼女は怒られたかのように体をびくつかせると、より一層蚊の鳴くような小さい声で何かしらを呟いた。
「え?」
「……お、お金がどうしても必要なんです」



 4


 場所を変え、タマムシシティの繁華街にある適当な喫茶店に入る。会計は僕が持つから、とやや強引に押しつけた。彼女は終始申し訳なさそうな顔をしていたが、先の話を聞いていて払わせる男がいるか。
 バトルをしていたときの彼女とは打って変わって別人のようだった。頭(こうべ)は常に垂れていて、紅茶の入ったマグカップを見つめ、弱々しく断続的な言葉を紡ぐ。
 そうしてしばらく話を聞くうちに、だいたいの要領は掴めてきた。
「――べ、別にわたし、誰かにお金を借りようだとかそういう訳じゃなくて……。わたし、出来ることって言ったら、これ(ポケモンバトル)くらいしか……、なくて」
 徐々にフェードアウトしていきそうな彼女の声音を聞いていると胸が締め付けられる思いだ。
「前までは……、兄とその、旅をしていたんですけど兄が病気になってからは兄の側を離れたくなくて……」
「そりゃそうだ。お兄さんをほっとく訳にもいかないからね」
「だからこうして、あの公園にお邪魔させて、もらってるんです。……あ、決して大変だとかそういうことは私全然思ってなくて!」
「まあ確かにここがカントー地方で一番人が集まる場所だしね。ジムもあるからトレーナーも来るし、交通の要所でもあるし。……でも、正直な所アレが長続きするとは思えない」
「えっ……?」
「目立ち過ぎているんだ。悪い意味で。……三万っていうレートはやっぱ目立ちすぎる。人が多いから返って噂が広まりやすい。現に僕も、一度は君の所に行くのを止められた」
「……」
 どんどんとしおれていく彼女の姿を見ていると、なんとかしてやりたい、助けてあげたいという気持ちになってくる。
「だからこそ、僕に出来ることがあればなんでも言ってよ」
「え、そんな……。他の人には迷惑かけられないし……」
「君の方が僕よりも慣れてるかもしれないけど、これでも僕も小金を稼ぐ術は持ってる。僕でよければ力にならせてくれ」
 熱のこもった僕の弁に気圧されたか、彼女はようやく首を縦に振った。
「よし、交渉成立だ。よろしくね」
「ありがとうございます……! 何かとご迷惑をかけるとは思いますが……」
「いいよいいよ。僕がふっかけたことなんだから。むしろ僕が迷惑にならないかどうか」
「そんなことはないですよ!」
 サクラは一瞬だけ目を丸くして驚いた顔を見せると、やがて穏やかな優しい微笑みを作る。
 一撃必殺だ。僕の心のヒットポイントはその笑顔一撃で瀕死状態だ。
 メロメロ状態を通り越した何かが僕の体の中から弾けそうだ。
 だからこそ、彼女の笑顔をもっと見ていたい。守りたい。そのためなら旅を少し足止めしてでも厭わない。
「どうしたんですか?」
 何秒惚けていたのか、自分でも数え忘れた頃にサクラが問いかけてくる。
「いや、笑顔もいいね。って」
「そ、そうですか? こんなに人に親切にしてもらったの、すごい久しぶりで……」
 すっと目を細めた彼女の紫の瞳孔には、どことない切なさが一瞬だけよぎっていった。



 5


 サクラとフータはホウエン地方のハジツゲタウンで出会った。当時のフータは今のように頬がこけておらず、健康的な体と、大きな夢を抱えた青々しい青年だった。
 フータはキノココを相棒にして、ホウエン地方のチャンピオンを目指さんとするその姿が羨ましく、サクラはフータの仲間になった。
 しかし、フータはあまりバトルのセンスに恵まれてはいなかった。
 ジムバッヂを手に入れることに、他人の二、三倍は時間がかかった。
 それでも、なんとかしてもがいて足掻いて、転んでも這い上がろうとするそんなフータのことがサクラは好きだった。
 内心、フータも悩んでいただろう。いつまで経ってもどれだけ努力しても伴わない実力。たまに泣き崩れている姿をサクラは事あるごとに見ていた。
 そして、あの日をきっかけにフータの心は粉砕されたガラスのように、粉々になってしまった――。
 あの人に優しくされたから、久しぶりにあの頃の事を思い出してしまった。
 タマムシシティの小さな古い貸しアパートの一室の扉の前。サクラは目尻をワンピースの袖でトントン、と軽く叩いてから、鍵のかけられていない扉を開けた。
「ただいま」
  ひどいアルコールの臭いとヤニの臭いが狭い部屋に充満している。サクラは「兄」の了承を得る前に、灰皿や袋菓子、ガラス瓶が転がった足下に注意を払いつつ、勝手に部屋の窓を開けて換気する。
 はじめの頃に比べて、アルコールと煙草の数が増えている。前々からやめてほしいと頼んでも、どこ吹く風で意味をなさない。
 おかえり、も無いまま、安っぽいベッドに寝転んだ「兄」もといフータは、左手の手のひらをひらひらとさせる。
 いつも通りの金をせびるポーズだ。サクラは泣きそうな自分を抑えて、財布から今日の稼ぎを抜いてフータの手のひらに乗せた。
「……今日は六万か。最近稼ぎ落ちてるな」
 窓を開けたことに対してもフータが文句を呟いたが、サクラはそれを聞かぬフリをした。
「ねえ、いつまでこんなことするつもりなの?」
「やることねーんだもん」
「それにお酒も煙草も増えてるし」
「『病気』の俺には最適な薬なんだよ。……にしても稼ぎ落ちてんぞ」
「……。もうわたしと相手してくれる人ほとんどいないんだから仕方ないよ」
「じゃあ例の張り紙に、『兄が病気なんでお金が必要なんです』とか書き直すか?」
 フータは乾いた笑いだけが、一室に響き渡る。そう言っておきながら、本人は不機嫌そうな声音をしていた。
 きっと本人も自分のしていることが良いこととは思っていないだろう。でも、サクラからすれば思っている思っていないは問題ではなかった。やり続けるか、止めるか。それすらはっきりしない態度がサクラをより困らせていた。
「にしても今日は少し表情が明るいな。何かあったのか」
 どうしてこの男は未だにこんな所にだけ目ざといのだろう。正直、彼の事を言うか一瞬躊躇った。でもわたしはフータのもので、こんな男だけど恩もあるし抗うことも出来ない。
 頭の中でごめんなさい、と彼の顔を浮かべながら呟く。
「……どっちにしろこのままじゃお金が稼げなくなるけど、今日親切な人にあって小金の稼ぎ方を教えてくれるって」
「男か?」
「……うん」
「十中八九そいつお前に惚れてるよ」
 その言葉を聞いた瞬間、少しだけ胸に小さな灯りが点って、消えた。チクチク痛むようで、暖かいような。前にもきっとにたようなことがあったような気がするけど、もう思い出せない。
「すごいわたしに優しくしてくれて、同情とかもしてくれて」
「下心見え見えだな」
「それで、いろいろ話をしてたら一度フータにも挨拶しておきたいって。お見舞いって」
「お見舞い?」
「断るに断れなくて……」
「マジかよ……。めんどくせえな」
「ご、ごめんなさい……」
「そうなったもんは仕方ねえよ。適当に誤魔化すぞ。……いや、逆に考えればその男もそれだけ本気ってことだよな。……となると絞れるだけ金絞る。これだ」
「絞るって……」
「適当になんか言って金せびんだよ。そんである程度稼いだら雲隠れだ。コガネシティにでもいこうぜ」
「コガネに行ったら今度こそ……」
「分かってるって。もうこんな暮らし飽きたし、今度こそ、な。これで最後だから」
 何も分かってない癖に。
 嘘じゃないから、と言うフータの見え見えの嘘になんて答えればいいか分からない。
 サクラは今にも泣いてしまいそうだった。
 優しかったフータが、こんな風になってしまうとは昔は考えられなかった。
 出来るなら逃げ出してしまいたい。全部吹っ切って、風になって、出来るなら……そう。今日あったあの人の側に行ってしまいたい。
 でも、サクラにはそれが出来ない。
 サクラはフータのモノだった。それは昔からずっとそうだった。でもそれ以上に、フータをこんな風にしてしまった原因がサクラにあったから、後ろめたさからフータをほっぽってしまう訳には行かなかった。



 6


 翌日の夕方、サクラに連れられて一人の男がやってきた。年は俺と同じくらいか。なかなかサマになってる好青年という感じで、なんだか昔の自分を見ているようで少し嫌な気分になった。
「どうも、シンヤです。わざわざ手間をかけさせてすみません」
「フータです。えっと、……サクラがお世話になっているようで」
「いえいえ。こちらこそ彼女のバトルの腕前には勉強になりますよ」
「ははっ」
 部屋を朝から換気して、消臭剤を至る所にかけた甲斐があって、ヤニの臭いは体感的にほとんど無くなった。質素な服に着替え、ベッドに上体だけを起こした体勢。不養生な生活で少しこけた頬はさながら健康とは言い難いだろう。念のために声のトーンを下げる。不定期に咳を繰り返し、少しだけ眉を潜めたりとすれば、ただ浮かれているだけのこの男は騙されてくれるだろう。
「とりあえず、簡素ですがお土産の品です。良ければどうぞ」
「あ、ああ。ありがとう」
 シンヤがきのみが入ったバスケットをテーブルに置こうとすると、サクラがそれを受け取って「細かく切ってくるね」と台所の方へ消えていった。馬鹿、俺をこいつと二人っきりにするんじゃねえ。声にならない文句が顔に出ないように、咳をして誤魔化してなんとか取り繕う。ほんと馬鹿みたいだ。
「ご加減の方はいかがですか?」
「はは、見ての通りさ」
「どうやら難しい病気と聞いたんですが」
 少しの受け答えで分かる。ちょっとした受け答えに矛盾があれば、そこを突き崩せる能がある。というか単純にキレ者そうだ。
 それに、サクラが一体どういう風に何を話したかが分からない以上、話に食い違いがないようにするしかない。だったら後手に回らずに先手を打つ。
「サクラからはどう聞きましたか」
「外出もままならない、とは」
「ええ、まあ。お陰で寝たきりで、身の回りのこともサクラに任せっきりになってて。申し訳ないと思いつつもね……」
 サクラめ、変に気が回るところがあいつの欠点だ。こいつと二人っきりじゃ間がもたない。出来ることなら今すぐ窓をぶち破ってでも外に出たいくらいだ。うまいこと言葉をかわさないとだめだ。
「あー、えっと……。サクラがいろいろとご迷惑をかけたようで」
「そんなことはないですよ。むしろずかずかと踏み込んでしまって僕の方が申し訳ない」
「いやいや。こちらとしては大助かりですよ。本当なら俺がサクラを支えてあげないといけないんですけどね。あいつも好きであんなハイレートをふっかけてる訳じゃないだろうから、なおさら心が痛みます。何一つ出来ない自分が」
「……でも仕方ないですよ」
「それは、まあ、そうなんですけど。病気が治れば苦労かけた分だけなんとかしてやりたいんですけどね」
「完治出来るんですか?」
「可能性はあるみたいです。……ただ、入院費と手術費が高くてちょっと」
「僕は具体的な値段のことは分からないんですが……。それでも、僕で力になれることがあるならなんでも言ってください。出来ることは少ないかもしれませんが」
 こいつは驚いた。お人好しもここまでこればおめでたい。どうやら間接的に、俺に気に入られたいのだろうか。そうだとすれば、こいつを利用するチャンスは何度かあるだろう。ちゃんと考えれば、こいつはちょっとしたATMになりうる。
 少し話を聞いたところ、こいつは手持ちのエテボースを使って物拾いをさせ、それを売って小金を稼いでいるらしい。そういってポケットから出したのは、それなりに大きな真珠だ。なるほど。悪くない。
「本当になんといってお礼すればいいか……。縁もゆかりもない方に」
「そんな! 人間なんて弱いもんですから、だからこそ助け合わないと。サクラさんとの出会いはまさしくその訓示です」
 二ヶ月前後。そんだけあればコガネに逃げて家を借りるお金は出せるはずだ。ついでにスロットを回す分も出てくるだろう。
 どうせこいつとサクラは一緒になれない。それは俺以上にサクラも分かっている。見ず知らずの男の純情を踏みにじる趣味はないが、もうなんでもいい。早くこのしょぼい芝居を終わらせたい。
 ようやくサクラが戻ってきた。大きな器には色とりどりのきのみが盛りつけられている。
 俺の前を通ったサクラの右腕からは、強烈な果実の匂いがした。



 7


 あいつが「お見舞い」に来てから二週間強が経過した。
 サクラの表情や言葉が明るくなっていくにつれて、俺は酒とタバコの量が増えた。サクラが明るくなる原因は一つしかない。あのシンヤって野郎のせいだ。
 何か会話があると、そのたびにあの男の名前が出てくる。きっと、というか間違いなくあいつは俺より遙かに良い奴だろう。少しずつサクラの心が俺から離れていってるのはすぐに察せれた。嫉妬、というよりは困惑。そんな感情がぐるぐると、日を追う度に強くなる。
 それをどうにかする手段は俺には無かったから、逃げるしか無かった。立ち向かうことを忘れて逃げることだけを学んだ俺には、選択肢はあってないような物だった。
 止まらない。一体何連鎖してるんだ。この台の設定は狂ってるだろ。時間の感覚が吹き飛びそうになる。
 忘れかけていた興奮が、胸の中に転がり込んでくる。そうだ。興奮ってこんなんだったんだ。
 タマムシシティのゲームセンターのスロットから、溢れんばかりのコインが吐き出される。コインを入れる大きなケースが一つ、一つ、また一つと重ねられていく。
 どうだ。俺、バトルの才能はないけどこっちの才能はあるかもしれない。ははっ! ……いくら虚栄心を張ったところで心の穴が埋まることはない。古傷のように、定期的にズキズキと胸を抉る。
 俺はどうしてこんなことをしているんだ。くそっ!
 コインが吐き出される度に、それに反比例して心は深く深く沈んでいく。きっとこれは何かの罰なのか。
 そんな折り、突如背後に誰かの気配を感じる。まさか、サクラにバレたか。振り返った瞬間。

 強い衝撃が右頬を襲い、体が少し宙を舞う。コインケースに背をぶつけ、コインがじゃらじゃらと賑やかな音を立てて辺りに散らばる。
 久しぶりの強烈な痛みに耐えきれない。情けない呻き声をあげながら、顔を上げる。
「あんたみたいな最低なトレーナーにあったのは初めてだ」
 そこには、怒りで拳を震わせながら立っていたシンヤの姿があった。



 8


 ホウエン地方のジムバッヂを五個集めた。その頃からトレーナーとしての限界を感じていた。
 本当はもっと前から感じていたけれど、それを感じるのが怖かった。だからそれを感じないように、感じることを忘れるくらいにひたすら努力を積み重ねた。
 そして一人で努力をするのに限界を感じた頃、俺は手持ちのメタモンにあるお願いをした。
 ハジツゲ周辺で出会ったこのメタモンは、明らかに他のメタモンとは別次元だった。非常に高度な知識を有し、自らの喉の機関を変形させることで人の言葉を介すことが出来た。それどころか、人間に変身して、あたかも普通の一人の人として「いる」ことが出来た。
 俺はそのメタモンにトレーナーに変身をしてもらい、自らのポケモンを半分渡して模擬試合を行った。やはりただ自分で特訓するだけでは光が見えない。初めて戦う素人の、しかもポケモンが相手とはいえ模擬形式で試合をするときっといい。具体的に何がいいかはあんまり分かっていなかったが、それでもプラスになると考えていた。
 ところがどうだ。まるっきり手が出なかった。自分のポケモンが相手なんだから、手の内をすべて知っている。しかもそれを指揮しているのは、ポケモンバトル未経験の素人どころかポケモンだ! そんなポケモンに何一つ出来ず負けた俺は一体なんなんだ。
 希望で溢れていた未来にヒビが入る。ヒビはあっという間に希望を覆い、粉々にする。
 そのとき、ポケモントレーナーとしての俺は死んだ。
 メタモンもそれに遠慮してか、控えめな性格がより控えめになっていった。やめてくれその遠慮。同情とか。余計に俺が惨めになるだろ。でも、そんなことを言ったところでどうにかなるものではないのは分かる。だから、トレーナーを諦めた。
 そして最初にぶつかった問題は、お金だった。
 バイトして、お金を稼ぐ。でも大きな目標を失った俺は、どんなバイトも長続きしなかった。すぐに働く意義を失ってしまう。そんな俺を見かねたメタモンは、人間に変身して自分からもバイトをした。せめてもの俺への配慮だろう。正直助かった。そして、これは使えると思った。
 メタモンでも金を稼げるなら、いっそ一発大きい稼ぎ方をやらせよう。そう思ったのがあのハイレートのポケモンバトルだった。毎日毎日健気に出かけ、お金を持って帰ってくる。それが当たり前になってしまっていて、俺は何にも見えていなかった。
 ポケモンセンターのガラス越し、治療室に移されたサクラもといメタモンが賢明の治療を受けている。
 シンヤに連れられて、初めて事の大きさを理解した。当たり前のことをようやく理解し、放心した。頭の中がかき混ぜられたようにぐっちゃぐちゃになった。処理できず、思わず涙が溢れると、もう一発ぶたれた。この男は見た目や言動と違って随分荒々しい事をする。
 実はこの男は、サクラがメタモンであることは当の前から知っていたらしい。それでも俺の家であんなことを言ったのは、サクラに惚れてた半分、そこまで健気にトレーナーを救おうとするポケモンに心を打たれた半分だという。
 メタモンが倒れてから、シンヤは街中俺を捜したようだ。そこで俺を見つけたのがゲームセンターなんだから、殴りたいのも無理はない。いいや、むしろ殴るだけでそれ以上何もしない分、人間としても器の違いを感じる。
「サクラは……。メタモンは無事なのか?」
「命に別状はない。けど、過労で全身の細胞がダメージを受けているらしい。今までのように変身し続けた状態でいるのは困難、要は少しだけ後遺症が残るって聞いたよ」
 シンヤが俺を見つめる。怒りと、憎悪、そして悲しさの眼差しだ。あのときのメタモンの瞳と、少しだけ被った。も、もうこりごりだ。俺はこれ以上何も失いたくないし、絶望もしたくない。まるであの日に還ったような、そんな心地だ。俺はまた同じ事を繰り返すのか。
「ごめんな……」
 馬鹿みたいにガラスに張り付いて、涙と鼻水をすり付けながら呪文のように何度も呟く。このガラスが忌々しい。これが無ければメタモンのすぐそばにいてやれた。薄くて分厚いこの壁が、俺をあらゆるものから遠ざけていく。今度はシンヤもぶたずに、何もせずじっと立っていた。
 人間なんて弱いもんですから。シンヤの言葉が甦る。でも人間、いつまでも弱いままではいられなかった。



 9


「本当にいいのかい」
「ああ。言い訳ばっかり並べて何もしなかった罰があたったんだ」
 そう言って、シンヤにモンスターボールを押しつける。少しくらい躊躇して押し返してもらっても良いところだったのに、シンヤはあっさりとそれを受け取った。
「今の俺が側にいても、何もしてやれることはないしまた甘えて同じ事を繰り返すかもしれないから」
 メタモン、いや、サクラは何も言わないまま涙を流す。まだ退院したばかりなのに、人間に変身している。無理はよせ、と言ったが、折角だからと言ってはねのけられた。俺も泣きたかったが、ここ数日で涙はすべて出し切ってしまったようで、出てくる気配は感じられなかった。
 変身した状態で連続していられるのは、たった二時間が限界になったようだ。ほぼ一日ずっと変身し続けられたことを考えると、かなり衰弱している。それが俺のせいだというのは今更なことで、問題はその先だ。
「だから、信頼できるあんたにメタモンを任せる。いつか俺が、ポケモントレーナーかただの会社員かは分からないけど、もう一度メタモンを向かい入れられるような人間になるまでは」
「分かった」
 正直シンヤのことが未だに好きにはなれなかったが、それでもこいつは信頼出来る。
 きっと更生するなんて言っておきながら、あいつがそばにいるときっとまた頼ってしまうだろう。そんな弱い自分と決別するためには、全てを最初からやり直さなければいけないと思った。きっとシンヤもそれを察して、サクラを引き取ったんだろう。
 それからとりとめのないことを一つ二つと話をした。
 シンヤは次のジムに向かうため、もうそろそろ出発すると言った。すると、サクラが少し寂しそうな顔をした。
 最後に、サクラが今までありがとうと言ってきた。感謝されるようなことはしていないし、むしろ最悪なことばかりした。それなのに、そんなことを言われて。おう。なんて一つ返事しか出来ない自分がほとほと馬鹿らしい。ごめんな。とも言った。何度目のことだろう。分からない。それでもサクラは首を軽く左右に振った。
 そろそろ行こうか、と言うシンヤの言葉に頷いて、皆席を立つ。シンヤと手をつなぐサクラは、幸せそうで寂しそうだ。
 最後に一つ二つ簡単な別れを告げて、彼らは歩きだした。
 そして姿が見えなくなるまで夢中で見送って、独りになったことに今更気づいた。寂しくて、想像以上に辛くて心が痛かったけど、そんなことに構うものか。俺は今から新しい俺になるんだ。ならないといけないんだ。
 もう一度メタモンと会うために、俺は俺だけの途方もしれない道を行く。
メンテ
氷雨に声が届くまで ( No.11 )
日時: 2013/04/14 20:49
名前: 曽我氏

 テーマB「旗」


 残滓に等しい命を集め、瀕死の獣は大きく吼えた。
 漁火を揺らし。
 風を切り。
 氷みたいな雨の中。
 誰かが反旗を翻すと、固く願って。
 青年は、ただ吼える。
 氷雨に声が届くまで。




 いつだったか、森に捨てられていた新聞で読んだ事があった。
 「2063年現在、かつて野生にポケモンが存在していた事を知っている人はもういないだろう。そして、今のポケモンは愛玩用、もしくは食肉用のどちらかの用途しか存在していないという事も。度重なる品種改良によって爪や牙は退化し、ポケモンから野生の心が消え去ってしまったらしい。かつてヒトカゲが炎を吐いていたとか、ピカチュウが高圧電流を放っていたとか、信じる人は果たしてどれくらいいるのだろうか」
 ……しかしそんなこと、聞かれても困る。なんたって俺の住む森には、火を吐くヒトカゲも高圧電流を放つピカチュウも現存しているからだ。
 かつて長老に聞いたことを、少し思い返してみよう。数十年程前までの、人間とポケモンの交流のシンボル――ポケモンバトルは、人間とポケモン両者の安全を疑問視する声や、プラズマ団等のカルト教団による過激な行為による印象の悪化、ポケモンを道具で服従させる事に対してのポケモン愛護団体からの苦情など、様々な要因が積み重なって廃れていった。
 丁度その頃から、野生のポケモンが爆発的に増え始める。トレーナーに乱獲される事が無くなり、元来繁殖力の強いポケモン達は爆発的に増えていった。事態を重く見た人間政府が野生ポケモンの掃討隊を結成し、現在野生のポケモンは数を減らしているのだと。
 ……全くもって、疑わしい。野生のポケモンが数を減らしているとか、どうにも信じがたい。現に、この森で人間による掃討が行われたなんて記録は知らない。至って静かに、森の暮らしは流れていく。朝起きて、昼に食べるものを集めて、夜眠る。たまに必要性の見受けられない夜集会に参加して、一日が終わる。いままでも、そしてこれからも。
 ――そう、考えていた。


2

「先日、ナギリが死んだ。事故死ではない」
 ネイティオのその一言は、夜集会の動揺を誘うのに充分過ぎる衝撃を与えた。ナギリといえば森の中でも五本指に入る実力の持ち主、そんな彼が死んでしまうなど、不慮の事故死以外には考えられないからだ。いやそもそも、彼が死ぬという状況が想像できない。それ程までにアイツは強かった。
「……おい長老、それなんかの間違いじゃねえの?」
 イサリビに賛同する声はなかった。だからといって、否定する声もなかった。内心は誰もが否定したかっただろう、それでも誰も何も言わないのは、長老ネイティオがこれまでに嘘をついた事がないからだ。
「んだよ長老、嘘だって言えよ! アイツが死ぬ訳ねーんだよ!」
「嘘だと思うならば、サエズリ松の根本を掘り返せばよい。亡骸はそこに埋めてきた」
「……くそっ! 信じねーかんな!」
 悪態を吐き捨てて、鬱蒼と生い茂る林の中に去っていくイサリビの背中は、微かに震えていた。それが寒さから来るものでないのは、誰しもが気付いている。彼の背中を目線で追う者が数匹、彼を止めようとして立ち上がるも、他の面々に諭されてまた座る者が二匹。それ以外は微動だにしなかった。まるでイサリビのいざこざも、視界に映っていないかのように。別に彼らが薄情なのではない、動こうとしても動けないだけなのだ。
 彼がいなくなった瞬間、集会は沈黙に包まれる。誰しもが俯いて、唇を噛み締めている。何か、とても大きくて誰にも見えない圧力が、頭上からのし掛かっているようだった。
「ねえ長老様、ナギリさんが死んだ時の状況、詳しく聞かせてくれないかな」
 だが、静寂は一過性の物だった。束になったポケモン達の隅っこから、日向に芽吹く若葉のような、飄々としながらも瀟洒な声が響く。静寂を打ち破って手を挙げたのは、やはりヒサメだった。幾数の視線を受けても物怖じせず、逆に堂々立派なその態度は、彼女がかつて飼われていたポケモンだという事をついつい忘れさせてしまう。
「ヒサメ、おまえも私を信じないのか」
 長老のもの悲しげな声色に、彼女は首をたおやかに横に振った。薄氷を思わせる水色の潤った肌が、集会広場の中央に陣取った大きな焚き火に照らされてつやつやと輝いている。
「そうじゃないです。確かにナギリさんが死んだなんて想像し難いけど、私が知りたいのは、彼がどのように亡くなっていたかなんです」
「……そんな事、知ってどうする」
「ナギリさんが誰に殺されたのか、分かるかも知れません」
 ヒサメの言葉を受けて、夜集会の面々がざわりと揺れた。皆が口々に何かを言い合っているが、それがヒサメの言葉に対する疑念の声である事は奴らの顔つきを見れば悠々と想像できる。嫌われていないが好かれてもいない、いわゆる中途半端な位置に彼女は立っていた。
「出来るのか」
「やってみます」
 ヒサメの瞳には、並々ならぬ決意の光が溢れていた。ナギリが何故死んだのかを知りたい、というのもあるだろうが、彼女の義理堅い性格を考えるにもっと他の理由がありそうだった。口を真一文字に結んだその表情から、感じ取ることはできない。
「そうか。だが、牙が小さく爪もないヒサメには、夜の森は危険すぎる。誰か、一緒に付いていってくれないか」
 ネイティオは双翼を広げ、集会に訪れたポケモン達を見回した。誰も手を挙げる者はいない。当然だ、本来あるはずの尖った牙も爪もない、いわば異常種と共に行動しようと望む奴なんて、とんでもない変わり者でしかない。森のポケモン達は変化を嫌い、それが身体に関わることだったらなおのこと。となれば。
「じゃあ、俺が行こう。それでいいか」
 俺が手を挙げると、集会の面々は安堵したように小さく息を吐いた。それはまるで、ヒサメと一緒に行く事にならなくて安心している風体であった。
「ヒサメ、カゼキリが付いていくそうだが、それでもいいか? 言っては何だが、彼には本来ザングースに有るべき爪がないんだぞ。もし襲われたりしたら、無事に守って貰えるかどうか」
「構いません。私、彼が強い事知ってますから」
 またも集会にどよめきが漏れた。が、この中で一番驚きたいのは、他でもなく俺本人だ。この森に来てから三年、狩りをした事もなければ争い事一つ起こしたこともない自分が強いだなんて、そんなのあり得ないと思った。現に、先ほどネイティオが述べた通り、俺の両手には爪がない。良く見れば申し訳程度に付いていなくもないが、他のポケモン達の硬い皮膚や毛皮を通るとは思えない。そんな自分が「強い」なんて奇妙なレッテルを貼られたら、驚くのも無理はないだろう。疑惑と追及の視線に刺されて、俺は肩をすくめた。
「いいですよね、長老」
「む、むう……仕方あるまい」
「ありがとうございます。では、行きましょう」
 ヒサメは俺の手を取ると、優しく微笑みかける。水タイプの冷たい手と、それに対比するような暖かい笑顔は、同じ年頃の異性――つまり、俺――の頬を意識的に火照らせるには充分過ぎる代物だった。



 夜の森の中を二人で歩いていく。頭上に覆い被さる葉のドームには所々隙間が空いていて、そこから差し込む青白い月光が、俺とヒサメを柔らかく包み込んでいた。アイガサの花の酸っぱい匂いと、夜露に濡れた木の皮の胸をすく透き通った匂いが綺麗に混ざりあって、森特有の何とも言えない香りがそこらじゅうを走り回っていた。
「ごめんね、付き合わせちゃって」
 申し訳なさそうにはにかむ彼女の表情には、安心と喜びが漂っている。かつての彼女からは信じられない程、安心しきった表情。無機質なガラス細工を否が応にも連想させる、あの頃のヒサメとは正反対だ。
 ガラスと言えば、ガラスの檻から脱出して以来こうして二人きりで話すことはなかった。俺達二匹を助ける為に犠牲になった仲間達の顔がどうしても離れず、お互いに疎遠になってしまったからだ。
「ねえ、カゼキリ。もしかして怒ってる?」
 横から不安げな声が飛んだので、思い耽る事を中断してそちらを向く。目に入ったヒサメの顔はあの頃から少し成長して、艶やかで色っぽくなっていた。
「い、いや。怒ってない」
「ほんとー?」
 何故かこっ恥ずかしくなって、ヒサメから目を逸らした。頬の辺りが熱くなる。夜道の仄暗さに紛れて、幸いにも気付かれていない。良いことの筈なのに、なぜか少し残念だった。そんな形でしか、思いの丈を表現できない。何のことはない、ようは臆病者だった。
「ふぅーん。ん、あれ? あそこにいるのってイサリビじゃない?」
 前方にイサリビを発見したらしく、追求の手は即座に止まった。俺は頬の上気を掻き消すべく顔を振って、駆け出していった彼女を追う。追求されなかった事に安堵している、バカな自分を振り切るように。

 マグマラシの特徴の背中から吹き出す炎は弱々しく、燃えているというよりは燻っているといった方が的確だった。いつもなら、沈む夕日を閉じこめたように輝いているクリムゾンカラーの瞳は、光を失って朧気な宵闇を見つめている。その虚ろな瞳が何故引き起こされたのかを知る事は、駆けつけてきた二匹に重い現実を突きつけるのと同じ意味を持っていた。
「ナギリさんは……どこ?」
 イサリビはなにも言わず、黙って近くの草むらを指さした。フクジュゲンソウの群生地が目隠しになっていて、ここから死体の存在を確認することはできない。
「ヒサメ。俺が見てくるから、イサリビを頼めるか」
「え。あ、うん。分かった」
 いくら精神的に強いとはいえ、女に死体を見せたくはない。精神状態が不安定なイサリビに死体を引っ張らせるのも酷だ。消去法で考えて、俺がやるしかない。なんというかもの凄く、嫌だったけれど。
 草むらの中に入ると、右足に堅い物が触れた。思わず叫びだしそうになるのをぐっと堪えて、足下を見る。木の根っこが飛び出していた。
「……はぁ、もうやだ」
 張りつめた恐怖からの解放感に、思わず泣き出しそうになった。いっそ本物の死体であってくれた方が、自分の矮小さや臆病さ加減を知らずにいれた分、まだ幸せだったかもしれない。体の底から湧きあがる恥ずかしさに、意識的に頬が赤くなる。八つ当たるように草木をなぎ倒した。しかしイサリビの死体は見当たらなかった。
 思い当たるところは全て調べた。だとすれば、誰かが死体を運んだのかもしれない。ポチエナやグラエナは死体を食べる習性がある。これだけ探しても見つからないのだから、食べられてしまったと考える方が妥当じゃないのか。
「だとしても、骨ぐらいあるよな」
 それに、こんな短時間で食べられてしまうのはあり得ない。探すのが億劫で消沈しかけたその時、左足に堅い物が触れた。岩のようにがちがちと固まってこそいるが、ポケモンだった。玉虫色の表皮に、薄い風切り羽。ストライクだった。ストライクの、ナギリだった。
 予想に反して、死体は綺麗なままだった。揺すってやれば目を覚ますのではないかと履き違えてしまう程に。唯一にして最大の違和感は、両腕にあるはずの大きな鎌が切り取られていたこと。切断面は平ら、それこそストライクの鎌とかじゃないと真似できない芸当だ。
 いつの間にか満月は雲に隠れ、夜空には不穏な雨雲が立ちこめている。降りそうで降らない雨、生ぬるい風が頬を撫でた。俺たちの知らないところで、誰も知らないところで、何かが始まろうとしている。
 ふと、そんな気がした。




「あ、お帰り。ごめん、イサリビさんが辛そうだったから先に帰っちゃった」
「言ってくれよ。……帰り道すっごく怖かったんだぞ」
 ぐちゃぐちゃに凝り固まった思考を放棄すべく、俺は若葉を重ねて作った寝床に倒れ込んだ。いい感じに濃縮された森の香りが鼻をつく。
「お疲れさま。どうだった?」
「この状況を見てさ、今は聞くの止めようとか思わないのか」
「一瞬思った」
「その気持ちを最後まで貫き通せよ」
「一刻も早く知りたいんだ」
 仕方なしに体を起こす。ヒサメの一生懸命な瞳に押し負けた、というのもあるが、一刻も早く誰かに話して、少しでも楽になりたかったというのが大きいのだった。
「ったく。死体の状況からいくぞ。傷はなかった」
「どういうこと? 死んでたんだから、多少の傷ぐらい」
「なかった。一切傷はなかった。両腕の鎌は切り取られていたけど、直接の死因にはなっていない」
「どうしてそう言えるの? もしかしたらそれが原因かも」
 訝しげな視線のヒサメに向かって、首を横に振る。
「普通のポケモンならともかくあのナギリだぞ? あのスピードで飛び回るってのに、正確に腕だけ狙えるのか?」
「……無理だね。じゃあ誰が」
 ヒサメの言葉を遮るように、ガラス戸に大量の小石をぶつけたような音が響く。大粒の雨雫が地面を叩きだした。跳ねる小さな雫が、白い霞となって辺りを包んでいる。俺の寝床は洞穴にあるので濡れる心配はないが、湿気で毛皮が湿るのには大反対、俺は雨が嫌いだった。断じて、濡れるのが嫌とかそんな子供っぽい理由ではなく。断じて。
「ありゃま、降ってきちゃった。……ねーカゼキリ、今夜ここに泊まってもいい?」
「え」
「……あ、いやだった?」
 嫌じゃない、むしろ大歓迎――と叫ぼうとして、すんでのところで我に返る。危なかった。今思いの丈を吐露などしてしまえば、どんな空気になることやら想像も付かない。
「嫌じゃない、けど」
 青年は言葉を切って、ヒサメの体を見つめる。白い花びらの様な襟飾り、魚のヒレのような耳、ゆったりと延びた尻尾の先には、芽吹いた若葉のような形の尾ひれ。おまけに、透き通る川の水をそのまま塗りたくったかのような水色の体。優しい雨が似合いそうな雰囲気は、まさしくみずタイプのそれだった。
「でもお前、シャワーズだろ? みずタイプなら雨だって平気なはず」
「……ほんっと鈍感だね、カゼキリ。もうちょっと鋭くならないと」
 今の湿気に似た、ヒサメのジットリとした目つき。
「鈍感ってなんのことだよ」
「その台詞を吐くキミのことだよ」
 そう言って、彼女は地べたに寝転がってしまった。いくら押し掛けてきたとはいえ、客人を地面に寝かせるのはどうなのか。いや、不味いだろう。例えヒサメとはいえ、曲がりなりにも女性なのだから。
「ヒサメ、俺の寝床貸すからそっちで寝ろ」
 返事はなかった。雨の音に紛れて、微かに聞こえるのは呼吸の音。
「……もう寝たのか」
 仕方なしに立ち上がって、ヒサメをそっと抱き上げる。蜂蜜のように甘ったるい、いい匂いが鼻をつく。潤って艶やかな肌は、切り出した氷をそのまま持ち上げているように冷たかった。手を通して伝わってくる心拍音は、やや早めのリズムでとくとくと波打っている。だが、しかし。
「……重いな」
 そう呟いた瞬間、強い衝撃が俺の顔面を襲った。予期せぬ位置からの攻撃は、俺に防御するだけの隙を与えない。
「ぐごっ」
 後ろ足で蹴り飛ばされ、頭から思い切り地面に叩きつけられる。どこかへ旅立ちそうな意識を必死に抱きかかえ、俺はうずくまった。痛みを地面に逃がすように、頭を抱えたまま左右に転がる。
「な、何すんだ!」
「うっさい! しね!」
 実は起きていたらしいヒサメが、煮立った熱湯が吹き上がる音を立てて吼えた。頬は赤く火照っていて、今の怒髪天なら「みずでっぽう」が「ねっとう」に変わってもなんらおかしくはない。
「女の子にね! 体重のことはね! 触れちゃダメなの!」
「は、はあ。ごめんなさい」
 果たして彼女が「女の子」と呼べる年齢であったかは甚だ以て疑問だったが、それを言う勇気はなかった。今のヒサメなら、意識を失うまで蹴るぐらい平気でやりそうだったからだ。
「ま、いいや。ありがとね」
「あ、ああ。てか、何で寝たふりなんかしてたんだ」
 俺の言葉に、マメパトがロックブラストをぶちこまれたような顔をするヒサメ。茫然自失というか、呆けにとられているというか。少なくとも「女の子」がする表情ではない。それだけは言える。
「信じらんない。あんた、絶対人生損してる」
「どういう事だよ」
「チャンスを物に出来ない男って事よ。おやすみ」
 吐き捨てるだけ吐き捨てて、ヒサメはまた丸くなった。どこからどう考えても不貞寝以外の何物でもない。言うとまた沸騰するのは目に見えているので、もう触れないことにする。火傷はもう勘弁だ。
「……お休み」
 雨音は弱くなっていた。この調子なら明日は晴れるぞと思いつつ、俺も目を瞑る。暗闇が心地よい。篠突く雨の柔らかな音が、安らぎの世界へと俺の体を運んでいく。



 翌日は、予想通りの晴天だった。低く垂れ込めていた雨雲は、深夜の内に風に追われて姿を消したらしい。朝の森の青臭い匂いをほのかに纏った柔らかな風が、朝露に濡れて麗らかな反射光を放つ、草木をさわさわと揺さぶっている。
「おはよ」
 もう既に起きていたらしいヒサメが、寝床の地面にきのみを並べていた。昨日の沸騰っぷりが嘘のように、その顔には一片の邪気もなかった。すべっこい肌が朝露を弾き、粉末状のガラスを振りまいたかのようにきらきらと光り輝いている。
「えっとさぁ、カゼキリ。昨日はごめん」
 今にも破裂しそうに熟れた赤い実を、頬一杯に含む。果肉が口の中で弾け、濃厚な甘い汁が喉に流れ込んだ。小さな実のさらに小さな種を舌で転がす。プチプチと潰れていく。
「別に、怒ってない。悪いこと言ったのはこっちだし」
 紫色の小さな実をいくつか、口に投げ込んだ。しゃりしゃりと小気味よい咀嚼音が、首の奥深くから聞こえてくる。余りの酸味に、ぼやけて不明瞭だった視界が一気に冴えた。
「でも……私、蹴っちゃった」
「別に。そりゃあちょっと……いやかなり痛かったけど。もしかしてずっと心配してたとか」
「……してない」
「そりゃ残念」
 最後のきのみを飲み込んで、俺は立ち上がった。腰に付着した小石や砂の類が剥がれ落ちて、ぱちぱちと音を立てる。
「どこいくの?」
「長老のとこ。昨日の報告がてら、散歩」
「そ。じゃあ私も行く」 
 小さいあくびの後、ヒサメは華奢な体を持ち上げた。眠気が完全に取れていないのか、魚のひれに似た耳がゆらゆらと不明瞭に揺れている。
「ヒサメ、眠いんじゃねえの? まだ寝てろよ」
「うん、やっぱあんたってサイテーだわ」
「……は?」
 訳も分からずに目を瞬かせていると、尻尾で背中を叩かれた。痺れに似た痛みが、巨木の根のように広がっていく。昨日の教訓を生かしたのかパワーは抑えめだったが、痛いことには変わりない。
「って。何すんだ」
「別にぃ。さ、行きましょ」
 ちらりと見えたヒサメの横顔は、ほんのちょっぴりむくれていた。

 俺達は、長老の住むという倒木へ向かっていた。雨に浸された地面はふやけ、時折泥濘に足を取られて転びそうになる。バランスの取れる四足歩行が、この時ばかりは羨ましい。
「ふー……やっと着いたね。ほんとやんなっちゃう」
 この森が生まれた頃からあった杉の木は、既に腐りきって傾いていた。葉は全てこそげ落ち、根本が土に混ざりかけている。葉の切れ間から差し込む麗らかな日差しが、苔蒸した倒木を神秘的に照らしていた。
 倒木の頂上には、いつもネイティオが佇んでいる。ずっと一定の方角を向いて、どこか哀愁を漂わせながら空の向こうを見つめている。森に長く住んでいる人の話によると、月に一度の集会の時にしか降りてこないとか、その杉の木が真っ直ぐそびえていた頃からそこにいたとか、耳を疑う前にネイティオの頭を疑いたくなる内容ばかりだった。
「ってさ、ふつーんな事あり得ないよな? 食事とか睡眠とか、まさかあんな危なっかしい所でやってるとは思えないし」
「でも、長老様ならやりかねない雰囲気はあるよね」
「まぁな」
 木々と土の匂いを胸一杯に吸い込んで、俺達は笑った。
確かに、長老ならやりかねない。杉の大木の先端で寝ているところも、杉の巨木の先端で食事を摂るところも、想像するのは容易だ。
「……黙って聞いていれば。早かったな」
 無愛想な声がして、俺達は振り向いた。
「あ、長老。えとですね、今日は」
「言わずとも分かっておる。ナギリの死体なら儂も見た、誰の仕業か、お前達も薄々勘付いておるんじゃろ」
「まあ、それなりに」
「そうか、やはりな。ついてこい、ここでは話せないだろう」
 俺とヒサメは、顔を見合わせて頷く。その瞬間、ネイティオの翼から発せられた濃紫のヴェールが俺達の体を包み、奇妙でこそばゆい感覚が尻尾の先まで伝ってくる。
「上手に着地させてね」
「儂を誰だと思っておるんだ」
 俺の耳辺りまで浮き上がったヒサメは、シャボン玉をつついた様にぱちんと消えた。弾けたサイコエネルギーの残滓が風に流れ、視界一帯を薄桃色に彩る。
「次はお主だ」
 微かに疲弊した声が聞こえると同時に、俺の体が宙に浮き上がる。視界が歪んで、体を激しく揺さぶられ、俺を地面に留めていた重力の枷がぷちんとちぎれる。意識の高揚が止まらない。加速感をその体に受ける。視界が二度発光して、思考回路がホワイトアウト。次の瞬間には、俺の体は宙に浮いていた。
 視界いっぱいの空が回る。重力に従って、軟らかい倒木にしたたかに背中を打ちつける。空の頂点を通り越した太陽が、今にもほどけてしまいそうなちぎれ雲と遊んでいた。
「おふっ」
 肺の中に溜まっていた空気が、今の衝撃で全て逃げ出した。視界の左半分を、誰かの顔が覆う。ヒサメだった。
「派手に叩きつけられたねえ。痛くない?」
「後三回ぐらいやられたら絶対泣く」
「あ、痛いんだ」
 節々が錐で突かれた様に痛むが、めげずに体を起こす。背の高い木々に囲まれた空間はやはり薄暗く、粛々と葉がそよぐ音だけがこの異質な空間を支配していた。余程日当たりが悪いのか、光の柱が一つも差し込まない。雨が染み込んで黒々しく染まった土壌は、思わずえずいてしまうほどに濃密な香りを放っていた。
「ここは?」
「多分、長老様の住処。向こうに寝床っぽいのがあった」
「……へぇ、木に留まって寝るってのはやっぱ嘘だったか」
「当然じゃろ。お前はあれか、「オオカミショウネン」の話を最初から最後に至るまで信じてしまうタイプか」
 とすん。という、高い身長にしては控えめな着地音が響く。こういう皮肉になっていない皮肉を放ってくるのは、大体へそを曲げている時だ。こういう時に謝るのはかえって逆効果だというのは前の経験から知っていたので、笑ってやった。
「なんかけなしてるっぽいけどさ、結果的にハッピーエンドになるんだからいい事なんじゃねえの」
「ふん。まあいい、その辺に座れ」
 いよいよ拗ねた。感情を表に出さないのがネイティオという種族なのに、長老はどうも分かりやすいところがある。
「さて、お前達。犯人は誰だと思う?」
「……多分、ニンゲンです」
 ヒサメの言葉が終わる。長老の視線がこちらに移ったので、俺は軽く頷いた。同意の合図。
「……やはりな。あの平らな切断面を作れるのは、ニンゲンが持つ「ハモノ」ぐらいだろう」
 長老の丸顔に小皺が寄る。腐ってもネイティオ、飼われていた訳でもないのに、人間の道具を知っているらしい。そしてその顔を見る限り、「ハモノ」がどんなに恐ろしい物なのかも知っている。果たして何故なのか。
 ハモノ。彼ら二匹がガラスの檻に閉じこめられていた頃に、一度だけ見た事があった。生命の鼓動が感じられないあの無機質な銀色の反射光を思い出す度に、体に寒気が走る。肉体的にではなく、精神的に。太古から刻まれた習性、或いは本能が危険信号を発していた。実際問題、今思い出しても震えが止まらない。
「ええ、あれですっぱりいったんでしょう。あのナギリが動きを止めたのは、恐らくーー」
 そこで話を区切って、ヒサメは俺の方に目配せした。なるほど、確かにこの話は俺の方が適任だ。
「えっとな、多分「シンケイドク」だと思う。一回食らった事があんだけど、手足が痺れた! と思った時にはもう体がガッチガチに固まっちまうんだ」
「どの位硬質化するんだ?」
「うん? コウシツ? ああ、そうさなあ……ちょうど、ナギリの死体ぐらい固くなる。持って殴ったら木が折れる位に」
「えらく非人道的な喩え話だね」
「そうでもしなきゃ固さが伝わらないだろ」
「そうしなくても伝える方法はあったと思うけどなあ」
 ヒサメの言葉を聞き流し、俺は長老の方を見つめる。
「成程。よし、もう帰っていいぞ」
「……え? 対策とか練ったりしないの」
 ヒサメの素っ頓狂な大音声に、長老は失笑交じりのため息をついた。
「逆に聞くがな、あのナギリを殺した相手に儂らが出来る事は何がある。気を付けろとかいう呼びかけか? それをしたところで、人間を知らないポケモン達が逃げると思っているのか?」
「…………う」
 けんもほろろだった。だが確かに、長老の言う事に一理ある。人間の恐怖を知っているのは俺達だけだ。
「……ヒサメ、帰ろう。そんじゃ長老、なんかあったらまた呼んでくれ」
 何かを言いたげなヒサメの背中に手を置いて、俺はそう言った。ヒサメはまだ何か言いたげな顔をしていたが、彼女の頭に手を添えると静かになった。
「……いや、ちょっと待て。間違って近付かんように、お前達だけには人間の拠点を教えておこう。ササメ川のほとり、そこが奴らの本拠地だ」 
 ササメ川といえば、この森の川の源流だった筈だ。何か、嫌な予感がする。



 道中でヒサメと別れた後、俺は寝床の洞窟に戻る道を歩いていた。出発が早朝だったからかまだ昼前だが、どこかで食料の木の実を調達しようという気分にはなれない。確かまだ、洞窟の奥に貯蔵分の木の実がいくらかあったはずだ。今日はそれで済ませよう。明日の事は明日考えればいい。
 そんな事を考える内に、寝床へ着いた。夜な夜な入り口付近をゴーストタイプの行列が通過していく、いわば曰くつきの一等地。ノーマルタイプの俺には関係ないという理屈で押し付けられたのは一生忘れないだろう。くそ、長老め。
 綺麗に片付いた寝床――どうやらヒサメが整頓してくれたらしい――の真ん中に、一匹のポケモンがこちらに背を向けて座っていた。昨日よりは元気を取り戻したとはいえ、背中はまだひ弱な炎、のっぺりとした背中は緑青色に輝いていた。
「……イサリビ?」
 俺の声に、そいつは振り向いた。沈む夕日をそのまま閉じ込めたようなクリムゾンカラーと、つるりとしたクリーム色の毛並み。洞窟で待っていたのはイサリビだった。大分落ち着いたのか、昨日よりも目に光が戻っている。
「……来たか。お前、長老の所に行っていたんだろ」
「ああ。それがどうした」
「頼む! 俺に、人間どもの居場所を教えてくれ!」
 今にも地面に埋まりそうな勢いで、イサリビは地面に頭を擦りつけた。俺はイサリビが容易に頭を下げる性格でないのも知っているし、ここに至るまでにどれほどの葛藤があったのかも良く分かる。それでも、プライドをかなぐり捨ててまでも、ナギリの仇を討ちたいのだろう。だけど。
「悪いが、それは出来ない」
「何でだよ!? どうせ長老の事だ、人間の居場所位知ってたんだろ!」
「ああ、知っていた。でも、お前に教える事は出来ない」
「どうして!?」
「どうしてもだ!」
 無意識の内に、俺は声を張り上げていた。普段めったに怒らない俺の剣幕に、イサリビの体が微かに揺れる。
「分かってくれ。人間は強い。いくらナギリと並ぶお前だとしてもすぐに殺されてしまう」
「やってみなきゃ分かんねえだろ」
「やらなくても分かるんだよ。俺は知ってるんだ、人間の怖さを」
 目を瞑ると、今でも鮮明にあの光景が蘇ってくる。ガラスの檻から逃げ出す際に、沢山の仲間が射殺されていった事を。築き上げられた死体の山を。
「人間に関わらない方がいいんだ。俺達じゃ勝てない」
「それはお前らに爪がなかったからなんだろ。俺達は生粋の野生だ、爪だって牙だってあるし、闘争心だってある。お前と違ってな。ナギリは不意を突かれたから負けたんだ。俺達は負けない」
「……俺達?」
「ああ。俺の他にも、何匹かいるんだ。人間の討伐隊に志願してきた奴がな。このままじゃ安心して暮らせない! とか言ってた」
 確かに。人間達がいつ襲ってくるか分からない状況で、落ち着いた生活なんて出来ないだろう。いつ掃討作戦が始まるのかも分からないのに。
「だから、頼む。俺達に人間の居場所を教えてくれ」
 もしも言わなかったら、イサリビは引き下がるだろう。だが、本当にそれでいいのだろうか? もしもこのまま手をこまねいていて、人間が攻めてきたら終わりじゃないか。そうなったら、ヒサメも――
「……分かった、言うよ。人間の場所。その代わり」
「……んだよ」
「人間を、どうにかしてくれ」
「……おう。分かってるさ、そんな事」




 そして、イサリビは帰ってこなかった。
 
 





 なにかの破裂音の残響で、俺は目を覚ました。イサリビ達人間討伐隊が行方知れずになってから、もう三日が経とうとしている。最近は木の実の生りが悪く、くいっぱぐれる事が前より増えた。いつもなら一日二日で育つはずの木の実は、成長過程の小さいまま発育を止めている。日光は射しているのに、一体何故なのだろう。
「……腹減った」
 悪態を吐いても腹が膨れはせず、胃の中の空気が動いて情けない音を立てるだけ。もう丸二日、何も食べ物を口にしていない。貯蔵していた木の実はおとといの内に食べつくしてしまったからだ。
 ここで寝っ転がっていると、緩やかに餓死していきそうな気がした。
 気だるさを押し殺すように外に出る。柔らかな朝の風に紛れて、何か煙たい匂いがした。さっきの破裂音と何か関係があるのだろうかと思い、辺りを見渡す。
「……向こうから、だな」
 嫌な予感がして、俺は粘性の強い唾を飲み込んだ。そういえば、向こうにヒサメの住処があったな。
「大丈夫、だよな」
 小さく独りごちて、俺は駆け出した。
 言いようのない喪失感が、怖くてたまらなかった。


 
 
 魚獲り名人のエモンガは、幼い息子を抱いて冷たくなっていた。
 のんびり屋のフライゴンは、翼をあらぬ方向に捻じ曲げて息絶えていた。
 上品なジャノビーは、喉に赤黒い風穴を開けられていた。
 いけ好かないハブネークは、尖った木の枝に体を貫かれていた。
 みんな、まだ微かに動いていた。赤黒い血が、土を嫌な色に染めていた。
 静寂。森にはもう、だれの影もなかった。動く物といえば、風に揺れる梢だけ。俺達が死んでも、世界はのうのうと回るらしい。
 何も考えたくなかった。ヒサメが無事なのかどうか、それだけ知りたかった。それさえ知れればもうどうだっていい。
 空は青かった。とてもとても、青かった。憎たらしいほどに、青く透き通っていた。
 足の抜け殻を動かして、ようやく俺はヒサメの住処に着いた。大木の洞をくり貫いて拵えたこの場所は、少しだけ甘い香りがする。
「ヒサメ」
 返事は返ってこなかった。ここには居ないのだろうか、あるいはもう居ないのだろうか。そんなことはない。居る筈だ。ここは人間に見つかりにくいのだから、きっとここに逃げ込んでいるに違いない。
「……入るぞ」
 とても綺麗な寝床――ヒサメは整頓が好きらしい――の真ん中に、薄氷色の背中が見えた。魚のひれに似た尻尾は、小刻みに震えている。透き通る赤い血を塗りたくったように、体は汚れていた。だが、生きている。まだ、生きている!
「ヒサメ!」
 俺の声に、彼女は振り向いた。白い花びらのような襟飾りは、ワインレッドに染まっている。魚のひれのような耳は、片方がなかった。全身に大きな貫通傷、それを押さえている彼女の右手は赤黒く染まっていた。
「あ、カゼキリ。……無事、だったんだ」
 言葉が終わってしまわない内に、俺は彼女をしっかりと抱き締めた。以前抱き上げたより、彼女の体は軽くて冷たい。このまま魂ごと溶けてしまいそうで、とても怖かった。決して離さないように、強く抱きしめる。
「そんな、血相変えなくたっていいのに。私、平気だよ」
 頬に掛かる熱い吐息は、気丈に振る舞っているのとは裏腹に弱々しい。確実に、彼女の限界は近付いていた。
「……違うんだ。俺の、俺のせいなんだ。こうなったのも全部、俺がイサリビに人間の居場所を伝えてしまったからなんだ!」
 今日の虐殺は、きっとイサリビ達の攻撃に対しての報復だ。だからあんな、見せしめのような殺され方をしていたんだ。そうに違いない。
「……ううん。カゼキリは、悪くないよ」
 緩やかに伸びた手が、俺の頬から滴る後悔を拭った。
「誰も予想できなかったんだもん、仕方ないよ」
 優しい言葉が、逆に辛い。俺は奥歯を噛み締めて、項垂れる。そのとき、彼女の腹部に大きな風穴が空いている事に気が付いた。
 生命力を吸い取られ、徐々に弱っていく彼女は、今にも息絶えてしまいそうだった。早く、伝えなければ。彼女にこの思いを伝えなければ、俺は後悔するのだろう。
 息を吸った。体が、震えている。でも。伝えよう――
「ヒサメ。ここを出て、俺と一緒に暮らそう。どこか遠いところで、一緒に。俺はお前が好きなんだ。昔からずっと、好きだった」
 ヒサメが、俺の目を見つめてきた。頬が微かに桃色に染まる。
「……あのね、私ね。ずっと、貴方の子供が産みたかった」
「……! 俺も、お前に子供を産んで欲しかった。目元は……俺に似て、鋭くて!」
 ヒサメが笑って、つられて俺も笑った。
「……じゃあ、口元は私似かな? どっちにしても、カゼキリみたいに臆病じゃないといいね」
「む。ヒサメみたいに狂暴じゃないといいな」
「言ったね」
「お前こそ」
 もう一度、彼女と笑った。見せた笑顔はさっきより、ちょっとだけ弱々しくなっていた。
「……なんか、薄暗くなってきたね」
 ――違う。今はまだ、昼前だ。洞の中とはいえ、日光はとても明るい。ヒサメだけに、薄暗く見えているのだ。ということは、つまり……!
「ヒサメ! …………そうだな、薄暗いよな。新天地を探すのは、明日にしよう。明日朝早く起きて、一緒に探しに行こう」
「……うん。でね、今日は帰らないで欲しいな。今日だけでいいから、傍にいて」
「ああ、分かった。一緒に居るよ。これからもずっと、な」
 ヒサメの頬に付いた血をぬぐって、俺は彼女の傍に寝転がった。心なしか息遣いがさっきより荒い。小刻みに動く肩は、今にも止まってしまいそうだ。
「……カゼキリ? ねえ、どこにいるの? 真っ暗で、何も見えないよ……! 音も聞こえないし……ねえ、カゼキリ」
 溢れ出そうな涙と嗚咽を堪えて、俺は彼女の手を握った。とても冷たかった。生気はもうなかった。
「……ヒサメ!! 大丈夫だ、俺はここだ! ずっとお前の傍に居る!」
 帰ってくるのは、沈黙という重苦しい現実だった。彼女には聞こえていなかった。動いているのはもう、心臓だけなのだろう。そしてそれも、もうすぐ止まる。
「……お願い。カゼキリに、声が届いていますように」
 ぼそぼそと呟く彼女の口に、耳を近づけた。彼女が発した言葉の音を、必死に拾うために。





「カゼキリ。大好きだよ」




 ヒサメが明日を迎える事はなかった。
 俺の声は届かなかった。















 



 ぽつぽつ、ぽつぽつ。砕いた氷の粒に似た雨が降ってくる。痺れるような冷たさが頬をつついた。瞼を開け、体を起こす。今にも落ちてきそうな分厚雲から、針によく似た氷雨が降り注いでいた。
「……んだよ。まだ生きてんのか、俺」
 絞り出した声は、弱々しく枯れていた。長らくの睡眠による水分の欠損、ささくれ立った喉の奥の砂漠が水を欲している。でも不思議と、川に行こうという思考は生まれなかった。自殺願望があった訳ではない。ただ単純に虚脱感が臨界点を超えて、肌に食い込む茨のようにこの体を縛り付けているだけだ。
 ぱりぱりに乾いた口を開ける。耳を伝って落ちてきた雫が、口の中に広がった。氷を噛み砕いたかのように、喉の隅から隅まで痛さに似た冷涼感が伝わっていく。同時に強い塩気を混ぜ込んだ雫も流れ込む。口の中が水で一杯になってようやく、自分が泣いている事に気が付いた。
「……教えてくれ、ヒサメ。俺はまだ、生きるべきなのか」
 今にも落ちてきそうな曇天を仰いで、俺は朧気な声を漏らした。吊り上った紅い瞳に生気はなく、口は操り糸がぷつりと切れた様に締まりのない、薬物中毒者の朦朧とした表情そのもの。かつて純白に輝いていた毛皮は、降りしきる雨と泥に塗れてみすぼらしい薄鼠色に変わっていた。
「……生きていたのか、カゼキリ」
 白い雨霧の向こうに、年老いた老鳥の影法師。声色にかつての朗々と張りつめた厳格さはなく、干からびた声帯をそのまま風が吹き抜けていくような年相応の錆びた声に変貌を遂げていた。
「…………ああ、長老か。全然気づかなかった。どうしたんだ、今日は。ヒサメの墓立てでも手伝ってくれんのか」
「人間に、一矢報いる方法を考えた。手伝ってくれ」
 雨に濡れた長老の顔は、酷く痩せこけていた。焦点の定まらない虚ろな眼差しは、瞳全体をくり抜いたかのようにどす黒い絶望に染まっている。人間に襲われたのか、堂々立派な翼にはどす黒い血の跡が沢山こびり付いていた。広がり方から考えて、返り血ではないだろう。つまり。
「……それは、俺たち二匹だけで出来るのか。この死にかけた体で出来る事なのか」
「出来るさ。だが、残された少ない命の間に、人間に報いる事は不可能だ。儂たちが人間の苦しむさまを見る事は出来ん。それでもいいか」
「……直接殴りこみに行くとか、そういうのじゃないんだな」
「ああ、違う。数年の内には効果が表れないかもしれないし、もしかしたら何も起こらないかもしれない。それでもやってくれるというなら、詳しい計画を話そう」
「教えてくれないか」
 抜け殻に等しい体からは想像できない程の速さで、俺はネイティオに詰め寄った。深い絶望と形容しがたい痛憤の感情に塗れたその顔に、かつての面影はもう存在していない。
「……分かった、話そう。儂らにはもう時間がない、着いてきてくれ」
 激しい風雨に荒れる空に、樹枝状の雷糸が迸る。地を揺るがすような放電音が低く轟き、森に立ち聳える背の高い木々を強く揺らした。葉擦れの重苦しい音色が自分たちを嘲笑っている。
 もう、そうとしか考えられなかった。

 歩を進めていく内に、風雨が激しくなってきた。跳ね返りの白靄が景色を奪い去り、眼前に広がるのは純白の闇景色。唐突に閃き落ちる太い稲光に照らされた横顔、酷くやつれている為か顎は尖り頬骨が表れ、ぎらぎらと血走る瞳だけが、“それ”が生き物であるという事を物語っている。
 鋭利に尖った丘の上に、俺たちはいた。薬毒に蝕まれた体は既に内部から朽ち果てかけている。極度の空腹と脱水症状は残り少ない生命を着実に削り、もう何もないこの体から奪い去っていく。今の精神状態と身体状況で、この丘に辿り着けたのは言わば奇跡なのだろう。
 ……奇跡なんて、何を今更。
「……さあ、教えてくれ。俺はどうすればいい」
 ふと、体の中に虚空が広がっていくのを感じた。聴力が削ぎ落とされ、耳が微かにしか聞こえなくなった。俺の発した言葉は、果たして正しく届いているのだろうか。あれ程までに強かった氷雨の音が、とても遠くに行ってしまった。手の届かないほどに、遠くへと。
「――――リ! カ―――リ!」
 ああ、やっぱりか。長老の叫ぶ姿は見えるのに、声が途切れ途切れにしか聞こえてこない。羽虫の音を耳元で聞いているように、遠ざかっては近付いて、また遠ざかっていくような。
 諦めに近い感情を抱こうとして、長老の体が妖しげな光を纏って見えた。白霞で包まれたこの視界のなかでも、それは確かに光っていた。いつもより弱々しく、光っていた。
『聞こえるか、カゼキリ。今、お前の頭へテレパシーを送っている』
 ノイズがかっていたが、それは確かに長老の声だった。
『もう何も言うな。儂の言う事を実行してくれれば、それで――』
 ところどころ言葉が不明瞭だったのは、長老の限界が近いからなのだろう。確証はなかったが、確信はあった。

 とうとう雨音が聞こえなくなった。雨は降っているのに、音が何も聴こえない。こんな土砂降りの筈なのに。なにも聴こえない。
『……一度しか言わないから、しっかり聞いてくれ。世界中のポケモンに、お前の声を届けるんだ。ここでこういう事があったんだと、飼われているポケモンに呼びかけるんだ。儂のサイコパワーを振り絞れば、全世界にお前の声を届ける事など造作もない。さあ』
 今度のテレパシーはとてもはっきり聞こえた。だが、長老が何を言っているのか理解できなかった。
『お前の考えは分かっている。だが、儂らにはもうこれしか残されて――』
 ざざ、ざざざざ。雷雨のようなノイズ音にかき消されて、長老の声はぷつりと途絶えた。慌てる気力もなく、鈍重に首を傾げる。長老はまだ立っていた。今すぐにでも、死んでしまいそうだった。灰色に濁った大きな黒目が、こちらをじっと見つめていた。何を言いたいのかは、もうわかっていた。
 何を言おうか迷って、俺はどす黒い空を仰ぐ。
 白靄が強くなっていく。
 指先がしびれてきた。
 雨の冷たさが消えた。
 視界が白霧に塗れて、もう何も見えなくなった。
 俺にはわからなかった。
 俺の声を聞いて、飼われたポケモンが動こうと思うのか。
 いや。
 違う。
 俺の、一番の願いは。
 











 残滓に等しい命を集め、瀕死の獣は大きく吼えた。
 漁火を揺らし。
 風を切り。
 氷みたいな雨の中。
 誰かが反旗を翻すと、固く願って。
 青年は、ただ吼える。
 






「俺も、大好きだ」







 ヒサメに声が届くまで。
メンテ
( No.12 )
日時: 2013/04/14 19:46
名前:

テーマ:B「旗」


 序


 かつて、二人の双子がいた。
 かつて、一匹のドラゴンがいた。
 ドラゴンと双子は共に歩むことを誓い、この地にイッシュを建国した。そして多くの人とポケモンを率いていった。
 しかしある頃から、双子の間には亀裂が生じるようになった。
 同じ道を歩いてきたはずなのに、生まれた思いのすれ違い。未来に対する考え、価値観の違い、プライドも熱い思いもあってぶつかることは増えていった。
 彼等はドラゴンに問うた。どちらが正しいのか、と。
 ドラゴンは選ばなかった。代わりに、自分が二匹に分裂することを選んだ。
 白きドラゴン、レシラムは真実を掲げた兄の元に。
 黒きドラゴン、ゼクロムは理想を掲げた弟の元に。
 世界を破壊しうる程の力を持ったドラゴンが二匹世界に誕生し、間もなく国中を巻き込む戦争へと発展した。
 多くの人、ポケモンが死んでいった。
 そこで双子は気付いた。
 無関係な人をも巻き込み、自分たちが原因で多くの命が失われていっていることに。
 だから彼等は互いに手を取り合った。戦争は終わったのだ。
 納得のいかない者も居た。けれど双子が必死に信頼を取り戻そうと、国を建て直そうとする姿を見て、だんだんと批判をする者は消えていった。
 二匹のドラゴンは、そんな彼等を見守り続けていた。

 時は経ち、双子の血も受け継がれていき。
 この地に平穏の時が訪れ何百年も経った。これはそんな時代に生まれた、ある一人の青年の物語。


 一


 今日の天気は曇りだ。誰が見ても曇りですねというくらいなんの変哲もない曇り空だ。少し灰色がかかった雲が青空を完全に覆っていて、いつもより少しだけ暗みを増した陽の光が町を照らしている。正午を過ぎて昼食を終えた僕はそんな町の様子を石造りの高い城から見下ろしていた。のどかな風景だ。平和なのはいいことなんだと思う。昔から婆や達から教えられてきた歴史録にある戦争の話を思えば、そりゃあ気が楽で生きやすい世の中だ。戦うのは怖い。痛いのは嫌い。でも多分、僕はこの平和を持て余しているのだと思う。要は、暇なんだ。
「暇だなあ」
 窓枠に肘を付きながら呟くと、傍にいたウォーグル――アキレアが顔を上げる。
「十回目だ」
「何が」
「今日、暇って言った回数」
「そんなの数えてるなんて、君こそ暇だね」
 呆れた声で僕が言うとアキレアは鼻を鳴らす。僕はまた外に広がる景色に視線を戻した。

 僕の耳には生まれた頃からポケモンの声が聞こえていた。
 昔はそれを当然のことだと思っていたし人間誰もがポケモンと会話をできるものだと本気で信じ込んでいた。けれど物心がついて、読み書きできるようになってきた頃に、それは異端であると教えられた。
 僕は、この国の王族の家系に生まれた四男。しかし、ポケモンの声を聞くことができる人間は同じ血が流れる人全員というわけではないらしい。
 母様は聞こえない。そして、二人の兄様も聞こえない。聞こえるのは、現国王である父様のみだ。本当は昔はもう一人居た。長男だが、生まれつきの病に倒れ二年程前に命を落としてしまった兄様だ。もしもこの兄様が今もいれば、もう少し違う生活だったかもしれないと思う。僕は四男で王の位を継ぐには遠く、またポケモンと話せるということもあってなんとなく気味悪がられて、王子といえど他の兄様に比べれば少々投げやりに扱われていた。そんな僕の良き話し相手になってくれていたのが、他でもないアキレアだ。
 アキレアや他の野生のポケモンと会話をするのは楽しかった。彼等は僕の知らないことや考えつかないことを平然とした顔で教えてくれる。その話を聞くのが好きで、よく部屋に閉じこもってアキレアや窓にくるポケモンと話したり、こっそり城を出てみたりすることが多くなった。病気でベッドに臥せている今は亡き兄様ならまだしも、もう二人の兄様方は次期王候補として優秀に勉学と鍛錬などに熱心に取り組んでいたから、僕は一層批判の目で見られるようになった。
 そんなわけで、僕はそれなりの年月を経てこの能力と付き合っていた。
 僕は割とほっとかれながらも、王子であるためか、それとも兄弟の中では一番年下であるためか、甘やかされ不自由なく退屈な日々を過ごしていた。正直、ポケモンと会話することができなかったらどうなっていたかわからない。今以上に暇な世界が想像できない。もしもそうだったら、兄様方のように学問に打ち込んでいたのかもしれない。
 毎日大した刺激も無く、同じような日々が過ぎていく。
 起きて、ご飯を食べて、何かをして、ご飯を食べて、ポケモンと話して、時々外にも行って、ご飯を食べて、寝て。
 繰り返し、繰り返し、繰り返しの日常。つまらない、つまらない、つまらない。
 僕は曇り空の下にある町をぼんやりと眺めていた。

「なら、今日も外に行くか。乗るか」
 アキレアは尋ねた。僕はそっと首を振る。
「君に乗っていくと目立つし、なんかそういう気分になれない」
「たまに乗せて飛ばないと、いざという時飛べなくなるかもしれない」
「冗談。いざ、ってなんだい」
「いざは、いざだ」
「ふうん」
 彼のいざという言葉には意味深いものがある。王族の人間はそもそもアキレアのような鳥ポケモンを必ず持つようにと昔から掟として定まっている。僕はちらとアキレアの瞳を見る。僕に与えられたポケモン。僕の相棒。僕の話し相手。僕のトモダチ。そんなアキレア。彼はいざというとき、つまり僕が危険にさらされた時僕を乗せて空を翔け逃げるためのポケモンだ。でも危険なんて想像できない。そんなの杞憂に過ぎないでしょう、なんて思ってしまう。そんな状態を否定しながら、でも、少しだけ期待してみたりもして。暇なこの日々を突き破るそんな出来事が、非日常が訪れないかなんて時々、少しだけ、考える。そんなこと、不謹慎だなんて解ってる。
「なら、今日は何をするんだ」
 アキレアは尋ねた。
「そうだねえ」
 起きて、ご飯を食べて、何かをして、ご飯を食べて、ポケモンと話して、時々外にも行って、ご飯を食べて、寝て。
 繰り返すだけだよ、アキレア。
 何をしたって繰り返すだけなんだ。
「時折、空を飛ぶのも楽しいぞ」
「なんでそんなに推すのさ」
「どうせ、暇なんだろう」
「わかったわかった」
 大して断る理由も無い僕は簡単に折れる。勝ち誇ったような笑みを浮かべてアキレアは窓の傍まで行く。窓はウォーグルである彼には少々狭い幅であるけれども、無理矢理に体を締め付けられながらも押し込めば彼は出ることができる。一度先に出て羽ばたき、傍で安定させる。そうはいっても大きく揺れている最中に、僕は窓の枠に足をかける。風をまともに全身に受けながら、手を伸ばしてアキレアの首のあたりに手をかける。そこから一気に身を投げ出す。体がアキレアに乗って瞬時に互いにバランスを取り、アキレアは滑空を始めた。
 考えてみれば、こうして空を飛ぶのは久しぶりなような気がする。
 天気は何となく鬱蒼としていて気持ちが晴れ晴れとするようなものじゃないけれど、アキレアに全てを任せ空気を切り裂いていくこの感覚、眼下に広がる人々の営みや自然の動きを一身に受けるこの感覚は嫌いじゃない。
 今日も民は笑っている。子供は走っている。時折僕に気が付いて驚いたように指を向ける人もいる。
 平和な世の中だな。僕はどこか満たされぬ心持で駆け抜けていく。要は、暇だということなんだ。


 二


「まったくもう、貴方という方はどうしてこう、サボり癖がついてしまっているのでしょう」
 正面に立つ婆やは呆れ果てたという風に愚痴を垂らす。僕とアキレアはへらりと反省の色無く笑う。もう何度も似たようなことを言われてきて、最早本気で怒ろうという気にはさせていない。
「いいですか、王子」
 咳払いを一つしてから婆やは僅かに曲がってきた背筋をぴんと伸ばす。
「貴方は列記とした王族の血を受け継いだ者であり、多くの民の先頭に自ら立ち先導し、また安寧の暮らしを与え、堂々と――」
「堂々と先祖様に恥じぬ振る舞いをしなければならない……分かっているよ」
 もう耳がたこになるほど聞いてきた。苛立ちが募り婆やの言葉を遮ると、彼女は息を詰め、すぐに重たい溜息を吐きだす。あからさまに声までつけて、呆れた感情を全面に押し出す。
「分かっているのなら行動にもその意志を見せてください。あまりにも自覚が無さ過ぎますよ」
「はいはい、今日はもう大人しくしているよ」
「頼みますよ、王子」
 同じような説教を何度も繰り返していれば、さすがにすぐに嫌になるのだろう。勿論、婆やに対して負い目が全く無いというわけではないけれど、婆やが最初告げた通りサボり癖が体に染み付いてしまっているのだろう。無気力と怠惰が纏わりついて、打破しようとすると自然と体は外に行く。
「そんなことでは、お父様である王に顔向けなどできませんよ」
 またかと溜息を吐きそうになった瞬間、僕の脳裏に何か針のようなものがちらつき、思わず表情を歪める。大したものではないけれど、妙な違和感だ。なんだろう、これ。気持ちが悪い。
「……そうやって最終手段に父様の名を出すの、やめなよ。今日はもう一人にさせて。少し頭が痛いんだ」
 婆やは何か言おうと口を開いたが代わりにまた溜息を吐き、失礼しますと一言添えると諦めたように部屋を後にする。
 ようやく僕とアキレアだけになり、元々椅子に座っていたものの今度こそきちんと腰を据えた気分になる。息苦しさが無くなって、ほっと息をつく。
「頭が痛い、か。よく言えた仮病だな」
 皮肉を込めてアキレアが口を挟むと、苦笑を浮かべる。
「半分ほんとで、半分嘘みたいなもの。実際、なんか変なんだ。目の後ろのあたりかな、変に痛む」
「おおっと本気か。まあ、ストレスのようなものじゃないか」
「かなあ」
 ストレスか。そうかもいれない。うん、きっとそう。暇を持て余しているときも説教をしているときも勉強をしているときも、いつも息が苦しい。少し気持ちが下降しているせいかな。断定してすがっておけば、少し楽になれるような気がした。
 そうだ、とアキレアが明るい調子の声を上げる。
「久々に母親のところに遊びに行ったらどうだ」
「母様のところに? うーん」
 アキレアの提案を受けて考えてみるけれど、ぴんと来ない。小さな頃はよく行っていたものの、最近はその数もめっきり減った。母様も王の妃として公務に追われる生活を送っている。言えば話す時間を作ってくれることは知っているけれどあまり邪魔をしたくないし、大きくなった今にわざわざ母様のところへ顔を出しにいくというのもなんだか子供っぽくて気恥ずかしい。
「いいや」
 首を振って断ると、滑らかに削られた石造りの机にゆっくりと突っ伏せる。今できる楽な格好だけれど、目の裏側に鈍く痛みが鳴っているのは変わらない。嫌になって目を閉じてみると、暗闇の中で一瞬だけ、ひび割れたかのような閃光がちらついたような気がした。それはこの日に限らず、しばらく僕に付いて離れなかった。


 三


 父様が死んだ。
 数日経ったある日、僕はそれを昼食を終えて部屋にいる時、焦燥と戸惑いと悲哀で混乱している男の従者から聞いた。
 父様の死は、即ち王の死を指す。
 無我夢中で僕は廊下を駆けた。全力で走ったのはいつ以来か分からなかった。長く綺麗な廊下は異様に静かである。所々に配置されている兵士や従者の顔に困惑の表情は見えない。だから従者の言葉は嘘のように思えた。まるで僕だけ違う世界を走っているような気がした。あまりに現実感に欠けていたのだ。けど従者の表情が脳裏に焼き付いて離れない。彼の恐々とした言い口が耳を離れない。やめろ。僕は叫ぼうとした。違う。息が切れる。喉が痛い。心臓が爆発してしまう。けど必死に足を前に前に前に突き出した。地を蹴る。空気を裂く。階段を駆け上がっていく。
 開け放たれた王の間。
 僕はそこに飛び込んだ。
 そこでようやく僕の足は止まった。
 耳に聞こえてくるのは叫びのような母様の泣き声。兄様達の姉様達のすすり泣く声。従者の声にならない声。ポケモンの涙の声、戸惑いの声。どうして。どうしてなんだ。彼等は問う。その中心にいる、白い顔をして横たわった父様に向かって。
 分からなかった。あまりにも現実感が無さ過ぎる。目の前に在る光景が蜃気楼のように思える。流される涙が嘘に思えた。全てがありふれている。けどこれが現実だった。僕の方がおかしいのか。速まる鼓動は落ち着かない。ポケモンと仲良くしてばかりであまり父様と接してこなかったせいか、悲しみよりも驚きの方が大きいせいか、溢れる思いは虚空に消える。僕には何も残っていない。空っぽの状態で、茫然と虚無に佇んでいた。
 心の中で誰かが、望んでいた非日常だろうと嗤った。
 瞼の裏に浮かぶ閃光は、その日を境に何事も無かったかのように影を潜めた。



 急遽必要になった王の後継者。
 順当にいけば、次男の兄様がその位に就くはずだった。代々王位はなるべく早く生まれた者に受け継がれていく。
 しかし、以前から噂はされていたことだが、城の中では、頭の回転が良く温厚な性格をした次男の兄様を推す声と、少々性格が荒々しいが明るく民からもよく好かれている三男の兄様を推す声とが入り乱れていた。今まで息を潜めていた城内の暗い部分が筒抜けに聞こえてくる。後継問題だけではなく、上位陣の中には更に上の地位を求める者も少なくないし、兄様達が若いが故に後ろから支えるように見せかけて実権を握ろうとする者もいる。下々の従者達も行方が分からぬ未来に恐々と怯えている。城の混乱は国に及ぶ。代々血縁によって受け継がれてきた王政に不満を抱いていた民が、混乱に乗じて何か企んでいるという風の噂が流れ、恐れた誰かが国に行動の制限をかける。忙しなく動く周囲は僕の意見も尋ねてくる。あなたはどうするのか、どうしたいのか。この機会に王の地位を狙ってみないかなんて、そこまではっきりは言ってこなかったけれどそういった意図が見え透いた言葉もあった。うるさかった。うんざりだ。耳障りだ。
 嫌な予感がした。良くないことが突然連鎖を起こしていく。
 平和というのはもしかしたら張りぼてに過ぎなかったのかもしれない。
「痛々しいものだな」
 アキレアの毒づいた意見に僕は頷いた。
 目の裏が痛む。以前より強く。目を瞑ると、時折知らない景色が脳裏に浮かびあがってくる。轟々と音が聞こえてきそうな狂った炎がぱっと照るのだ。思わず背筋が凍りつくような光景が怖くて、眠るのすら恐怖に感じるようになった。嫌だった。どうしてしまったんだろう。でもきっと、混乱が収束すればうまくいく。いつかきっと、何事もなかったかのような時間が訪れる。そうに決まってる。信じたい、のに。


 四


 それは突然だった。
 次男の兄様を推す勢力の第一人者である大臣が、食事の最中に血を吐いて倒れ、間もなく帰らぬ人となった事件が勃発した。死因は食物に含まれていた毒。安全だと思われていた城中での事件に、流石の僕も身の危険を感じざるを得なかった。元々明白であった敵対関係がここで浮彫になり、兄様同士もいがみ合うことが多くなる。彼等は僕と違い、王を目指し真摯に実績を重ねてきた。その裏には血肉を削るような苦労があったことを知っている。だからこそ、頂点に拘った。些細なことでも食ってかかり、互いを罵り合う。殊更、政治に関する議会ではその様子が明らかだった。二人の兄様。その後ろに並ぶ多くの人々。意見が飛び交い、収まりを知らない。トップが崩れると、必然的に民の生活も不安定なものになる。顔を隠し城下町の様子を伺うと、以前とは違う町の光景に胸が締め付けられる。上昇する物価、増加する路頭に迷う人々、武器を集めている民の姿。見ていられなかった。廊下を歩いていても今にも切れてしまいそうな吊り橋のような不安定さが露骨に滲み出ていた。
 目に映る炎の景色は日に日にはっきりとしたものになっていく。口にすると本当のことになってしまいそうで、アキレアにも伝えることが出来なかった。怯える毎日に終止符が打たれることをただただ願っていた。でも、心のどこかでそれはもう無理だと囁く声も確かに聞こえていた。
 勿論、この真っ二つになってしまった関係を修正しようと動いている者もいた。母様はその群に入る。前王妃である母様の発言力は特に大きい。
「戦争なんて、絶対起こしてはいけない」
 母様は繰り返した。議論は既に無意味だと断言し戦を唱える声が出るようになってから、口癖のように言う。父様と共に国を支えてきたその力強い瞳で威圧する。
 僕は、どちらにもつかない立ち位置にあったけれど、根本的に母様達とは大きく違う。ただ、途方に暮れていただけだった。頭痛はひどくなっていく。部屋を出るのも起き上がることすらも辛い程に。想像上の爆音が、まるで本物のように脳内に響いていた。

 そして。
 突然の爆発音が遂に現実に鳴らされた。警笛が響く。元々の政治への不満に加えて現在の生活に耐えきれなくなった民が城下町だけではなく各地から集まり、大群を作りだし、ポケモンも引き連れ、王政を拒絶しようと武器を掲げた。対抗しようと軍が出撃する。その混乱に乗じ、今までの言葉を良しと思わず邪魔者と判断された母様目がけて刃が振り下ろされた瞬間、全体は一声に号をあげた。剣のぶつかり合う音が木霊する。矢が飛び交う。しかし、強いのは何よりもポケモンだった。鍛えられ人間よりもずっと強い力を持ったポケモンが、それぞれの主人の指示に従い、壊していく、焼いていく、殺していく。戦いは戦いを呼び、瞬く間に広がっていく。もう、話し合いの言葉など無かった。僕はアキレアに乗り、城を脱出した。兄様達は勿論多くの大臣達なども身の危険を感じ城を離れる者も現れた。そうすればそれを追いかけ、また戦火は広がっていく。
 知っていた。僕は、知っていたのに。

 ある時だった。
 僕は寝床にしていた場所がまた危険に晒され再び逃げている最中で、フードのついたマントを身に着けて外から自分を隠し、アキレアの飛行術に身を任せていた。
 既に荒んでいた町を通り過ぎ、まだ鮮やかな緑の残る草原の上空。異様な空気感を敏感に掴み取ると、はっと空に視線を突き刺した。
 黒い雲が空を覆い、熱風が上空に吹き荒れる。凍り付いてしまったかのように目が離せず、息を呑みこんだ。気温が一気に上昇したかと思えば、瞬いた瞬間に地上に炎が爆発した。雲間で稲妻が何百と光り始めた次瞬、張り裂けるような特大の電撃が轟いた。一瞬の出来事だった。めちゃくちゃに凄まじい光を塗りたくったかのような衝撃。新種の兵器が炸裂したのかと最初は思った。僕達も圧力に押され一気に吹っ飛ばされる。すかさず、アキレアは驚異的な反射力で自身を捻り一気に急降下、空を落ちる僕に縦に寄り添う。僕は風で張り裂けそうな腕を懸命に伸ばす。痛い。金切声が手元から聞こえてくるみたいだ。地面が近づいてくる。嫌だ。ほんの少し腕に力を入れてアキレアの体に触れた瞬間、彼は重力加速による運動エネルギーをうまく殺しながらふっと掬い上げる。間一髪。僕はアキレアの体にしがみ付いた。全身が震えて止まらなかった。一気に喉の奥の方から嗚咽が跳び上がってくる。
 そこで僕は全ての光景を目にする。
 炎が叫んでいた。
 そこは、文字通り地上に広がった火の海。
 まるでその突然の爆発に触発されたかのように地上が大きく揺れる。巨大な雑音が掻き鳴らされる。悲鳴が聞こえる。そして息を止める。少し遠く、大人しかった山の頂が赤く光り、猛烈な煙が空へと高く上がっていき――。
 咆哮。
 爆発。
 慟哭。
 重なる。圧し掛かる。掻き回す。異臭が鼻を衝く。喉を競り上がる焦燥。まともに呼吸をしているかどうかすら危うい。全身を貫く轟音と爪のような疾風。またどこかで爆音が響いた。右方向。隕石のようなものが空を飛び交う。黒い煙が一面を覆う。甲高い悲鳴が耳に届く。それも煙に埋もれていく。少し距離を置いたところ、火砕流が唸りを上げて雪崩れる先にはいくつもの人の姿があった。違う。僕は目を背けた。違う。違う。あれは人じゃない。人の形をした何かだ。生き物じゃない。違う。助けを求める声も幻聴だ、まぼろしだ。怖かった。やめろ。怖い。怖い。やめて。死にたくない。しにたくない。
「――ぼーっとしてんじゃねえッマスター!」
 張り裂けるような叫びに気を取り戻す。慌てて体勢を低くしアキレアの胴体にしっかりとつかまる。
「クソッ……なんだあれは」
 速度を落としながら苦々しい声をあげるアキレアの声にちらと視線を上げ、絶句した。暗雲の下、無数ともとれる翼を持つ生き物たち――ポケモンの姿が正面に群がっていた。群れに統率があるわけではない。皆混乱している。偶然か故意的か互いに衝突し合って、力を無くした者は容赦なく空中から叩き落とされる。また一匹、羽を散らし虚空から地面へと真っ逆さまに落下していく。遠目でもはっきりと捉えられる。何をしてるんだ。何が起こってるんだ。アキレアだけなら切り抜けられるかもしれないが、僕が背中にいては大した技を使うことができないだろう。
「迂回する! 振り落とされるなよ!」
 僕は大きく頷くと、アキレアは再びスピードを上げた。大きく右方向へと転換する。
「気を確かに持てよ、マスター……こんなの絶対にずっとは続かない。また穏やかな時が来る!」
「ああ……!」
 胴体が傾き重力と風圧とが襲い掛かってくる。
 視界の端で、群れから落とされた何かの鳥ポケモンがひび割れた大地に吸い込まれていくのを捉え、僕は見て見ぬふりをしようと顔を背ける。
 と、切り裂く風の刃。それがポケモンの技であることはすぐに分かった。群れの何かが発したものが零れてきたのか。激痛と大きな揺れがたたみかけてくる。完全にバランスを崩したアキレアに僕は必死にしがみ付こうとした。
「グッ」
 アキレアは顔を歪めながら体勢を立て直そうとするが、散らばった羽を空中に残しながら地上への落下は止まらない。どんどん地面は近づいてくる――。
 僅かに羽ばたく。力強くしがみ付こうとする。次点、彼の大きな体がクッションとなったものの弾けるような衝撃が襲い掛かり、いつのまにか僕は宙に投げ出され、理解をする前に体は地面に打ち付けられていた。
 割られたかのような痛みで体が痺れていたが、耐えながらゆっくりと上半身を起こす。その間もぶつけたところや擦ったところが引き留めようとするかのように激痛が走る。眩む視界で体を見れば、血が滲んでいる箇所もある。頭上から垂れる存在を感じた時、頭も強く打ったことを改めて実感した。
 地響きが唸りを上げる中、僕は視界を広げ、アキレアに目を止める。
「アキレアッ……」
 痛い。何もかもが痛い。地面を擦りながら、激痛と戦いながらアキレアの様子を見る一心でただただ歩みを進める。僕はアキレアの体のおかげで落下時の一番大きな衝撃を食らうことは無かった。しかし、アキレアは直接叩きつけられている。なんとか動こうとしている兆しは見えるものの、僕と違って殆ど動くことはできない状態にあるようだ。ようやく手が届く位置までやってくると、僕に気が付いて視線を向けてきた。
「マスター、無事か?」
 苦し紛れの声でアキレアは呟き、ゆっくりと体を起こそうとする。僕はそれを支えるが、やはり痛みが辛いのだろう、苦い呻き声を漏らす。同じくらいの目線になったところで改めてアキレアを見る。彼は安堵したのか、穏やかな瞳をしていた。なんでこんな時まで僕の心配をするんだよ。ボロボロな体でそんなこと言うなよ。どこまで主人重視なんだよ。そんな風に育てられてきたからって、おかしい。
「おかしいよ、アキレア。君は、おかしい」
 アキレアがそれを聞くとふっと嘲笑を漏らした。
「今のこの状況でそんなこと、言えるのか」
 硝煙の混じった風が突き抜けていく。
「世界の方が、よっぽど狂ってる」
 雷の光が白く周囲を照らす。間伐入れずにやってくる轟が地を揺らす。けれど驚かない自分にふと気が付いた。慣れとは恐ろしいものだ。狂ってる、確かにそうだ。こんなのおかしい。変だ。怖い。おぞましい。なのに、受け入れている自分がいる。ああ、もうわけわかんないや。どっちがおかしいんだよ。何が普通なんだよ。普通ってなんだよ。何から逃げてるんだっけ。どうして逃げているんだっけ。何を必死になって生きているんだ。
 僕はふいに顔を上げた。遠くで光るマグマの褐色。暗雲から走る稲妻。収まらない地震。変形する大地。掻き消された悲鳴。
 意識が遠ざかりそうな眩暈が襲う中、二匹のドラゴンの姿が脳裏を光った。
 これはきっと、世界の終わり。
「マスター」
 呼ばれてはっとアキレアを見る。
「俺はこの通り、もうマスターを乗せて飛ぶのは、無理だ」
「……」
「今ので一気に疲労まできやがった。体がどうも、動かねえんだ」
「置いていけって、いうのか」
 震えた声でゆっくりと言うと、アキレアは静かに頷く。
「足手纏いはいらない」
「……できない」
「切り捨てろ」
「できない」
「死にたいのか」
「違う」
「なら、行くんだ」
「できない!」
「甘えんのもいい加減にしろ王子様!!」
 怒号の炸裂に思わず怖気づく。
「あんたが生き延びなかったら、俺はなんのために今まで飛んできたんだ、なんのために逃げてきたんだ! ここで俺のために残り、共々溶岩に飲まれるか雷に焼かれるかするのか? ふざけるのも大概にすべきだ」
 ここまで感情に任せ怒りを露わにしたアキレアを、僕は見たことがなかった。それ故に、驚きと戸惑いで僕はすぐに言い返すことができなかったのだ。
 僕等の間で重い沈黙が流れる最中も、周囲の環境は更に火に呑まれていく。熱風が吹き荒れる。気管が膨れ上がり、中で破裂してしまいそうだった。苦しいけれど、僕はアキレアを置いていくという選択肢がどうしても頭の中に出てこなかった。
「君は勇敢な空の戦士と呼ばれるポケモンだろう」
 アキレアは視線を上げる。
「なら、一緒に来い」
「……」
「君がいなければ、僕にはナイフ一つしか残らない。何もできない。だから、来い」
 アキレアは僕を目を丸くして見つめていた。彼を説得させるためではあるけれど、誇張し格好つけた台詞は彼にそれなりに響いたようだ。元来鋭い彼の眼光に負けないように僕も睨むような勢いで視線を送り続けた。


 五


 それから大地を焼き払う天変地異は三日三晩続いた。その間、潜りこんだ洞穴に身を潜めていたものの安寧の時を得ることができるはずもなく、怯えながら、ほぼ眠ることもできずに固い地面の上でただただ時間を過ごしていた。袋に入っていた乾物の食糧は一度の食事で齧るほどに抑え筒に入った水も舐める程度。しかし元々量が少なかったこともあって底をつき、体は衰弱して、僅かな痙攣が全身に纏わりつく。それでも外に顔を出せばいつも炎が地面から空高く昇り立っていて、とてもそこから出る気にはなれなかった。
 そして今日、ぼんやりと寝転がっていたところ、顔に冷たい何かがかかり、驚いて咄嗟に飛び起きた。
 恐る恐る当たった部分を撫でてみると、透明に光る液体が指を垂れる。水だ。はっと頭上を見る。天井に滴り、また落ちる。僕は傍らに横たわるアキレアを残し、何度往復したか分からない凹凸の激しい道を再び辿る。何が突然起こってもいいように片手にナイフを掴んだまま、息を潜めて入口へと向かう。
 漏れてきた光の具合から、少なくとも夜ではないようだ。そして耳に聞こえてくるのは――雨だ、雨の音だ。けど、洞穴に浸透して雨漏りをおこす程ということは、余程強いものに思われた。実際、まだ外まで少し距離があるのに聞こえてくる音が生易しい小雨程度のものでないと教えてくれている。
 足元にも水溜りができてきた頃、僕は洞穴の入口の近くまでやってきて、歩みを止める。
 叩きつけるような土砂降りの雨に包まれ白く霞んだ外の景色。今まで見てきた赤黒い光景とは明らかに様子が違う。
 ナイフを握っていた手の力は抜け、一歩、また一歩と外へと近づいていく。
 立ち上る白いものは、霧であり雨であり、煙だ。まるで地上が熱に覆われていて、そこに雨が叩きつけられ湯気が噴き出しているように見えた。
 空は塗りつぶしたような黒い雲が覆う。
 一面が白黒の景色の中で、耳を劈くような激しい雨を以てしても未だ消えない赤い炎が遠くで凪いでいる。
 こんな場所、僕は知らない。
 こんな景色、僕は知らない。
 心にはただ虚無が残るだけ。
 なんでだ。
 なんでだよ。
 こんなのおかしいだろ。
 おかしいのは僕の方なのか。
 狂ってるのは僕等の方なのか。
 ――違う。
 違う。
 足を踏み出した。ボロボロになった靴はもうその役目を全く果たしていない。落ち着いてきたはずの傷を雨が抉り、痺れる。けど、何故か心地良さすら感じる。冷たい。寒い。痛い。そんな端的な感情だけが確かなものだった。
 うるさい。雨の音が五月蠅い。
 傷に染み、切り裂くような痛みが走ろうと、ただ歩き続けていた。なんのあても無く、かつて草原だった場所を、かつて町だった場所を、かつてヒトがいた場所を、かつてポケモンがいた場所を、歩く。
 ここは一体どこだろう。僕は王族で城に籠った生活を送っていたけれど、よく様相を隠して町にこっそり遊びに出ていた。全てを把握していたわけじゃないけど、ある程度の地理や人々の顔は覚えている。美味しかった食事の店やかっこいい武具が売られた店や、笑う子供がはしゃぎまわる広場など、印象深いものは目を閉じてもはっきりと思い出せる。けど、今実際に見ているこの世界はどうだろう。
 何も無かった。
 果たしてこの状況を形容する言葉が他にあるだろうか。
 何も無いのだ。
 浅黒く焼けて所々ひび割れた大地があるだけ。
 それでも何かあったことを示そうと辺りに敷き詰められた、水に浮かぶ灰。倒れた誰か。倒れた何か。確かに息吹いていたものは焼き尽くされ、今、雨に打たれている。
 静かだった。
 うるさいのに、しずかだった。


 はは。
 なにもないや。
 この広い広い荒野に一人だけ歩いている。
 遠くまで何もかも見えるよ。
 こんなにここは広い世界だったんだ、知らなかった。
 あははは。
 ぼくはなんてちっぽけなんだろう。
 世界がおかしいんじゃない。僕がおかしいんでもない。
 全部おかしいんだ。
 何もかも狂って、そして日常にまた溶けていくのか。

 僕は、嘲笑した。


 視界に遠方の景色まで入っていたからこそ、僕はその存在に気が付いた。
 白く霞むような中で、黒く影が動いている。瞬間、一気に雨の音が耳元で強く鳴り始める。鼓動が強く速くなっていく。目を凝らしてその存在を捉えようとする。固まったまま動かないでいても向こう側からやってきて、だんだんとその姿かたちがはっきりと見えてくるようになる。
 蒼い空の色を纏って強靭に鍛えられた四肢の体。黄金の二つの長い角を生やし、そのすぐ下で同じく金色に染まった瞳がまっすぐにこちらを見つめている。凛と歩くその姿に僕は既視感を覚えた。昔話を集めた書物などで何度か目にしている。名前はそう――コバルオン。いくつものポケモン達を先導し守る、勇敢な戦士。
 実際に目にするのは初めてで、僕は思わず息を呑む。
 コバルオンははっきりと目に見える位置までやってくる。警戒しているのか間合いをとっているものの、十分だった。その鋭い目に捉えられて、僕は身動き一つできないでいた。再度雨の音は遠くなっていく。傷の痛みも痺れて逆に何も感じなくなっていた。
「こんな雨の中で歩く人間が居たとはな」
 少し低いトーンの声が聞こえてくる。
「……僕も、ここで生きている者と会えるとは思っていなかった」
 自然と口走ると、コバルオンは面食らったかのように目を丸くし、体勢を僅かに低くして警戒を強める。僕は息を呑んだが、あらかじめ僕が何を準備しようと、生身の人間と伝説と言われたポケモンとで取っ組み合えばどちらが勝つか、答えは明白だ。
「……人間、私の言葉が分かるのか」
 人間、とは僕のことを指しているのだろう。初めて使われた二人称だけれど他に居ないのだから当然僕のことだ。恐る恐る頷くと、コバルオンは目を細める。
「王族の人間か」
 今度は僕が驚く番だった。
「どうして分かったんだ」
「王族の家系では代々何人かそういう人間が生まれる。先祖の血なのだろうが……まさか生きている者が居たとはな」
 その言葉に僕の頭から血の気が引く。傍に居た人々の顔が一瞬で掻き消されていく。追い打ちをかけるように、コバルオンは一歩、二歩と前に踏み出した。
「言葉が分かるなら、話は早い」
 僕は頭を掠めた危険信号の光に従い、一歩、二歩と後ずさる。
「何をやったか、人間が何をしたのか、解っているのか」
 衝動や感情を無理矢理力づくで押し殺しながらゆっくりとコバルオンは話し始めた。けれどそこに込められた思いは突き刺さるように飛んできて、言葉が出てこなかった。距離が離れているのに、見えない圧力で口を押し付けられているようだった。
 土砂降りの中で、コバルオンの体には無数の傷がついているのに気が付いた。切り傷や、擦り傷。止まってはいるものの明らかに血が出ていたであろう大きなものもある。
「醜い争いを始めポケモンまで使い、野生の者達の住処も戦火に巻き込んだ。私とその仲間で、人間と戦った。ポケモン達を守るために。今までは達観していても、仲間を傷つけられれば話は別」
 責められているのだ。そして、コバルオンの言いたいことも理解できた。
 この状況で言い訳もできないから僕は口を紡ぎ項垂れていた。僕は戦争に賛同してもいなければ反対もしなかった。傍観という形をとって目を背けたに過ぎない。関係が無いようで、関係が有る。ただ、何を言ったところで、嘘っぽい戯言しか暇を弄んできた僕の口からは出てこないのだろう。
 正面から痛いほどに突き抜けてくる感情は、怒りも悔しさも哀しみも重なり合った、殺意そのものなのだと、漠然と理解した。
「僕を殺すのか」
 敢えて先手をとると、コバルオンの足が止まった。
「僕を殺したところで、何も解決しない」
 雨の沈黙が流れる。力が抜けている僕に対して、コバルオンはなんて強い瞳だろう。そのまま視線で貫かれてしまいそうなくらいなのに、僕は何故かそれを平然と受け止めている。
「他のポケモン達は死んでしまったのか」
 コバルオンが咄嗟に睨みをきかせ、びくりと背中を震わせる。
「仲間と共に安全な場所に避難させている。どんな危機が迫ろうと、どこか穴はあり、何者かは生き残る……たとえそれが一握りでも」
「そうか……良かった」
 なんの考えもなくただ正直な気持ちが口から出る。
「……不思議な奴だ」
 コバルオンは怪訝な表情を浮かべたまま言う。不思議も何も、僕は思ったことを口走っただけだ。
「ポケモンは何も悪くないんだ」
 僕は右手を握りしめる。
「無関係に戦火に巻き込まれた人も多くいた」
 煤と成り果てた横たわる何かを横目に、僕は言葉を詰まらせる。
「どうしてこうなったんだ……正しいとか悪いとか、そんなことでどうして戦わなければなかったんだ……」
 ぽつりぽつりと出てくる言葉が聞こえているのか聞こえていないのか解らないけれど、コバルオンは黙って僕を見届けていた。
 そして止めていた足を僕は動かし、コバルオンの方へと歩みを進める。コバルオンが警戒を強めて威嚇をしたのに気が付いたけれど、それに怯えることはなかった。大きな水溜りを静かにゆっくりと踏みしめて、コバルオンの横を通り過ぎる。
「……どこへ行く」
 後方のコバルオンの尋ねた声に立ち止まった。
「城に行く。あそこからなら、全体を見渡せる……」
 雨脚が強くなる。
 再度歩き始めるが、コバルオンが追ってくるような気配は感じられない。耳に届いてくるのはただ雨の音だけ。


 歩いて。
 歩いて、歩いて、歩いて、歩いて。
 それでも城は見えてこなかった。これほど視界は開けているのに、欠片も見当たらなかった。それが何を示すのか、かえって冷静になった頭で大体予想はついている。それでも足を引きずり続ける。
 と、僕は足に固いものがぶつかったのに気が付く。当たったものを確かめようと拾い上げると、黒い煤の上に泥を重ねたような状態の、掌より少し大きい程の石だ。降りしきる雨水を使って付着したものを払うと、見覚えのある灰色の様相が顔を出す。視線を上げて辿るように見てみれば、同じような石がたくさん落ちていて、少し距離を置いたところに巨大な瓦礫の山があるのに気が付いた。巨大な建物が倒れ込んだような跡だった。
 拾った石を捨て、僕は弾けるようにその場を走り出した。服は存分に水を吸って重たいうえ、随分体力も削られているために少し走っただけですぐに息が上がる。掠れた息遣いで瓦礫の麓までやってくる。
 よく見てみれば周囲には同じような石の瓦礫がいくつも点在していた。草原が広がり木々があったことを示すような焦げた物体も存在している。
 僕は咄嗟に瓦礫の山に手をかけていた。石を拾っては捨て、拾っては捨てを繰り返す。時折ナイフも使い少しずつ掘り進めていく。刃物のように鋭くなっているものもあって、手にいくつもの傷がつく。がらん、がらんと音が虚しく響く。赤がこびり付いた石を見つけた途端、心臓が大きく跳ねる。寒さで手が凍えて思うように動かなくなってきた頃、掘り下げた隙間に汚れた肌色の存在を目につけた。喉が詰まる。コバルオンの放った言葉が脳裏を駆ける。もう、それ以上見たくはなくて、目を背け、僕は瓦礫の上に座り込んだ。雨が激しく打つ。手が震えている。呼吸ができない。心臓が高鳴って、思考が浮遊してしまいそうだ。
「……」
 僕は視界の右の端に、銀色の棒が瓦礫に刺さっているのが映っているのに気が付き、その傍まで体を引きずる。刺さっている部分の石をいくつか転がり落とし、僕はその棒を引っ張る。深く突き刺さっているのかうまく出すことができず、もう一度根本の石を掘り返す。再び棒を掴み、全体重を後ろの方にかけると、がらりと瓦礫の崩れる音がしたと同時に僕の体は後方に落ち、地面に当たって殴られたような衝撃が頭に響く。激痛にしばらく動けなくなって固まっていたが、少し落ち着いてきた頃、寝転がったまま出てきた少し重い棒の全貌を視界に入れる。
「……国旗」
 砂や煤を被り汚れてはいるもののそれは正しく、白と黒を基調としたデザインの僕達の国の旗だった。
 数秒間それを見つめた後、僕は国旗のついた棒を肩に乗せてその場を後にした。


 雨が少し弱まったように感じられてきた頃、元の道を辿っていると同じようなところでコバルオンがまだ居たことに気が付いた。コバルオンも僕の存在に気が付いていて、先程の鋭い視線とは裏腹に憐れんだような目で僕を見ている。
「城は無くなっていただろう」
 頷く。
「それはなんだ」
 コバルオンは顎で指す。棒を揺らしてみせると、コバルオンが頷いた。
「国旗だ」
「国旗?」
「残っていたんだ」
「なぜ持っている」
「持とうと思ったからさ」
 意味が理解できないようでコバルオンは目を細めて僅かに首を傾げる。
 鉛のような沈黙に包まれ、それでも僕等は一歩もその場を動くことができないでいた。お互いに探り合っているような、奇妙な空気感に包まれている。
 先に静寂を破ったのは、静かに滑るコバルオンの言葉だった。
「……生きている人間はお前だけではない」
「……」
「奇跡的に生き残った者もいるし、遠くに足を運べば誰かは存在している。そこを目指すがいい。そして、もう私達とは関わらないようにしろ」
 僕は視線を上げ、コバルオンを見ると首を軽く横に振った。
「コバルオン、それじゃあ何も解決しない」
 彼に一文一句はっきりと聞こえるように、強い口調で話を始める。
「僕等が目指すべきは、過去の過ちも全て受け入れ、平和を取り戻すことだ。戦いは何も生み出さない。今、この惨状を見て分かる。哀しみを生むだけだ。虚しすぎる。この国は壊れすぎた。直さなくちゃいけない。けど、ちっぽけな力を持った人間の力だけじゃ無理なんだ」
 コバルオンはじっと僕の瞳を真摯に見つめている。
「人間とポケモン――二つの種は絶対に共存できる。僕は信じてる」
 敢えて語尾を強め、旗を持っていない左手をコバルオンに向けて差し出す。
「コバルオン、手を貸してくれ」
 先程瓦礫を発掘した行為のおかげで掌は擦り傷が多くできていて、血が滲んでいた。雨水が当たって、流れていく。
 コバルオンは冷静な表情で僕の左手を見やり、長考していた。或いは僕の意志を勘繰っているのかもしれない。
「……否、だ」
 ゆっくりと紡ぎだされた言葉に僕は若干唇を噛みながら、それでも出した左手を下ろさない。
「私は人間の始めた争いを許すことはできない。人間が私達の仲間を使って戦ったことも、住処にまで火を及ぼしたことも……これから一切そんなことが無いと、永久に無いと言い切れるか」
「……」
「言えないだろう。人間はそうだ。常に利害を考え、自分の考えが正しいと押し進めようとし、だめならば、強行突破も辞さない……。以前、この地で大きな争いがあった時からそうだった。どうしてゼクロムやレシラムが当時の戦いに参加し、人間を信じ見守り続けてきたのか……私には分からない。けれど、彼等も今回で分かったのだろう。人間は結局、争うのだと。だから、焼き尽くしたのだ」
「……」
「この惨劇は、ドラゴンの怒りだ」
 コバルオンは最後にそう言い放つと、踵を返して少しずつ僕から離れていった。だんだんと離れていく後ろ姿を追う力が残っていないことに、僕は愕然とする。けれど、たとえばまだ元気があったとしてもコバルオンを追えば返り討ちにされるだろう。それほどに彼の怒りもまた、すぐに癒えるものではないのだ。ポケモン達を守りたいという思い、人間への憎悪、自らのプライド……コバルオンにも抱えるものがたくさんあるのだろう。それを、突然現れた僕が簡単に動かせるものではない。
 僕はついに左手を下ろし、怠惰と疲労に塗れた帰路を辿ることにした。


 六


 なあ、アキレア。僕はずっと現実から目を背けていたんだ。家庭教師の時間をさぼったり、剣術の訓練が嫌で町に飛び出したり、兄様達の頑張っている様子を遠くから眺めていたり。人間は平等だと思うけど、王族にたまたま生まれてしまったからには、それなりの心持でいなければならなかったはずだ。将来、王になるかとかそういったことは別にして、最低でも王の補佐といえる位置には辿り着く。けれどそれからも目を逸らしていた。周りがなんとかやってくれると呆けていた。
 けど、今を見てくれよ。誰もいないんだ。僕が、現実と無理矢理にでも向き合わなければならない。
 そうして改めて考えた時、思ったんだ。
 今までの状態でいて戦争が起こるのなら、変えるしかない。考えを改めて、また零から始めるんだ。
 零から。
 多くの犠牲を払った上で、進まなければならない。生き残った者達は、今回のことを教訓にしなければならない。誰かがやるのを待っていられるような状況ではないんだ。生き残っている誰もが、未来を切り開かなければこの状況を打破することはできないんだ。
 様々な怒りも哀しみも全て受け入れる。
 不思議なんだ、僕には何も無いのに力が内側から湧いてくる。目を閉じると、遠くの景色が見える。雲間から光が零れてくるのが見える。
 明日、もう一度コバルオンに会いに行く。
 僕はやる。
 これは僕にできる祈りであり、懺悔なんだ。
 そんな僕を、君は見守っていてくれるかい。


 七


 雨は上がっていた。けれど煙を吸い込んだ暗雲は相変わらず空を覆っており、太陽の光がまともに差し込んでいない。
 僕は肩に国旗を担ぎ、再び昨日の道を歩いた。道とはいっても、荒廃の地をただただまっすぐ歩くだけ。心はいやに静かだった。雨の音が無くなって物理的に音が消え去っているせいかもしれない。無音だった。時折吹く風が地面を撫でるくらいなもので、その中を僕の小さな足音が響いていた。こうしていると、生き残っているのは自分だけなんじゃないだろうかという錯覚に襲われる。こんなに広いところに、ひとりだけ。ふっと地面が無くなったかのような妙な浮遊感に似た恐怖心が淀む。心臓が高鳴る。掠れたようにボロボロになった国旗が揺れる。かつて息吹いていた何かの灰が通り過ぎていく。心を締め付ける孤独感を胸に、息の詰まる静寂の中を歩みを続けた。
 当然一言も喋ること無く、僕はかつて城だった瓦礫の山の傍までやってきて目を細める。
 昨日視た通り、コバルオンはそこにいた。
 倒れ込んだ塔の傍で、まるで待っていたかのように僕には見えた。
「……コバルオン」
 呼んでみたものの、視線も彼はこちらに向けず微動もせず、瓦礫のてっぺんのあたりを眺めていた。元々大きな建物であったが故に崩れ去っても絶望しそうなくらい大きく、コバルオンの何倍も何倍も高い。勝手な思い込みだろうか、悲哀を携えた視線を投げかけているように見えた。
 僕は溜息をつくと、少しずつコバルオンの元に近づく。
「瓦礫を片付けにでも来たのか」
 突然声が出され足を止める。けれど彼が動かしているのは口のみで、表情すら殆ど変化がない。
「無残なものだな。人間の所業というものは、こうも容易く壊れてしまう」
「……壊れたものは、直せばいいだけだよ」
 僕は肩に重く圧し掛かっていた国旗を瓦礫の上に横たえる。一気に身が軽くなり、ほうと息をつく。
「もう何も無い。失うものも何も無い。もう、作りだしていくだけ」
「それが難しいことだと、解っていてもか」
「十分に知っている」
「……何故希望を持てる」
 コバルオンの問いに僕は口を紡ぐ。
「家を失い家族を失い絶望し、海に身を投げる者も少なくない……それが現実だ。何も無いことに恐れは無いのか」
「恐れ、か」
 僕はぽつりと呟き、今の心境を顧みてみる。けれど、コバルオンの言葉と僕の心は一致しなかった。例えるならば、波紋一つ広げず風も吹かない、そうして無音に佇む湖。或いは、しんと沈み自分と同化した夜の空。いや、夜よりも朝に近い。朝焼け。まだ人もポケモンも風も目を覚ましていない、朝焼けの風景。自分でも疑問に思うほど心は凛として、穏やかだった。空っぽなせいかもしれない。でも、もう僕の心は何も無いわけじゃない。
「ただ生きるために逃げていた時や、昨日の土砂降りの風景を思えば、もう何も感じない」
「……不思議な奴だ」
 昨日と同じ台詞をコバルオンは吐いた。
 不思議、か。もうそれでいい。第一そんな言葉、今の世界では通用しない。何もかも普通ではないのだから。
「そうやって心を掻きたてているのは、責任感か?」
「責任……そうかもしれない。コバルオン、君にも僕の気持ちは解るんじゃないかと思うんだ」
「……」
「君は、多くのポケモンを守る戦士だろう。責任感と言えば、一流だ。責任なんて言葉、本来は僕には程遠い。そんな生活を僕はしてきた」
「……」
「けど、そんなことは言っていられない」
 僕は屈んで倒していた国旗に手をかけ、一気に持ち上げた。
「今までの自分も王族の行いも戦争も、全て過去にあった真実。それを全て受け止める。君を含めたポケモンや生き残っている人の、哀しみや怒りも全部受け入れる。僕はポケモンと話せる力を今までどうと思うことは無かったけれど、今なら解る。人とポケモン、両方を受け止め共存の架け橋となるために受け継がれてきた力なんだ。そして僕が王族として生まれてきたのは、多くの民を率いていくため。当たり前のようで、解っていなかった」
 僕はゆっくりと瓦礫に足をかけた。慎重に上がっていく。右手に持つのは、ボロボロになった国旗。所々破れて煤を被っても、生き残っていた国の象徴。
 時折足を滑らしそうになりながら、一歩一歩確実に踏みつけていく。この下には、何も無いのに、多くの哀しみが溢れている。それを僕が背負いきれるのか。それは想像もできない。
 顔を上げる。
 暗雲を睨みつける。
 右手に力を込める。
 風に旗がはためく。
 大きく息を吸う。
 頂点に辿り着いた時、僕は振り返りコバルオンを見下ろした。
「僕には未来が見える!」
 力の限り、叫ぶ。
「絶対に国を造り変えてみせる!!」
 空気が震えている。かつて空っぽだった心に、稲妻のような衝動と、炎のような情熱が湧き上がってくる。
「コバルオン、共に行こう! そして、作ろう。新しい、イッシュの国を!!」

 棒を握りしめている右手に左手も添えて、振り上げた。
 直下、渾身の力を以て瓦礫の山に国旗を突き刺した。足元の石が弾けとび、白と黒の伝説のドラゴンを称えたイッシュのシンボルが広がった。

 コバルオンはしばらく視線を重ねた後、強靭な足腰で瓦礫の山を軽々と駆け登っていき、あっという間に僕の傍までやってくる。正義を掲げ威圧感を兼ね備えた瞳が、優しく光ったような気がした。
「真の心と見た」
 旗を挟み、僕の隣にやってくる。
「信じてみよう……お前の理想を」
 噛みしめるようなコバルオンの言葉に、僕は、ずっと忘れてしまっていた穏やかな笑顔を自然と零す。

 一呼吸を置くと、視界に眩さがちらつき、暗雲の切れ間から太陽の光が差し込んだのだと気付いた。
 荒れ果てた広い広い大地の上に、国旗が風に乗って力強く揺れた。



 了
メンテ
敗者 ( No.13 )
日時: 2013/04/14 21:40
名前: ジェイガン

 テーマB:旗


 俺の目の前では雷光と火焔が荒れ狂っている。
 ライチュウは戦闘エリアに無造作に置かれた岩を足蹴にして飛び回り、更に低木(模造品)にその細長い尻尾をアンカー代わりに引っ掛けたり巻き付けたりするようにして、立体的な機動で相手のバクフーンを翻弄する。
 いつもながら思うが、尻尾を手足のように使う事に長けたエテボースじゃあるまいし無茶な動きばかりするものだ。動く方も動く方だが、その動きを教え込む方も教え込む方だ。
 まあ、それが出来るからライチュウのトレーナーは今この場にいる訳なんだが。
 さてと、対するバクフーンはライチュウの動きにまるで付いていけてない。まだまだローティーンのトレーナーが必死でライチュウを捉えるように指示してるが、この程度じゃ影分身の技も絡めながら動くライチュウに追いつけるはずもない。
 完全に撹乱戦法の術中に嵌って滅茶苦茶な方向に火を吹いてるが、そんな出鱈目な攻撃に当たるようなポケモンとトレーナーなら、そもそもこの場にはいない。

「ライチュウ、10万ボルトだ!」

 俺と同年代の男の声から約2、3秒。木に尻尾を引っ掛けた反動で一気にバクフーンの方へと反転したライチュウは、漫画的にデフォルメされた稲妻を思わせるような形をした尻尾の先端をバクフーンの首の後ろ、炎が燃え上がっている部分に当てて、そのままズドンと一発。
 一瞬にして叩き込まれた高電圧の一撃は辺り一帯に閃光と爆音を撒き散らし、バクフーンは首の後ろから黒煙を上げながら前のめりに倒れこむ。

 そして俺は俺の仕事を遂行する。

「バクフーン、戦闘不能。これによりチャレンジャーのポケモン全てに戦闘不能判定、よってジムリーダーの勝利とする」

 自分でもここまでやれるかと思うほど冷たい声で宣言。正直、自分で言うのも何だが機械的過ぎる。
 だが、これが俺の仕事だ……という訳で終わりにしたかったが、そうも行かないらしい。

「待ってください! 俺のバクフーンはまだ戦えます!」

 やっぱりそう来るか、だが想定の範囲内だ。
 フィールドを見れば確かに一応バクフーンは立ち上がった。だがどう見てもヘロヘロな上に、首筋から焦げ臭い臭いと黒煙を漂わせ続けている以上、俺はそんな言葉に惑わされる訳には行かない。
 そう、戦いを続けさせる訳には行かない。

「抗議は却下する。これ以上の抗議は然るべき措置を取る事になる」

 まだトレーナーになってそれほど時間は経ってないだろう子供、恐らくは敗北もほとんど知らずに来ただろう子供、それ故にアイツは俺に対して素直な感情を向けてくる。
 誰が見ても判るほどの、怒りの感情を。
 だが、俺の仕事はポケモンジムの審判だ。だから俺にぶつけてくるその感情を右から左へ流して冷徹に判断を下す。
 憎まれ役になったとしても、憎まれ役になる事こそが俺の仕事だ。

 この子供は今まで勝ち続けてきたのだろう。
 だが、俺の思う『強いトレーナー』の条件を満たしていない。
 そんなトレーナーに、これ以上戦いを続けさせるのはナンセンスだ。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――



「おっ、コウ君いらっしゃい」

「お仕事お疲れ様、コウ君」

 所変わってここは町の小さな居酒屋、名は『椿』。そして迎えたのは店主の『おやっさん』とその娘の『鈴(すず)ちゃん』。
 鈴ちゃんは俺より少し年下の看板娘……なんだが、年下なのに「君」付けされてるのは気にしない。後、『コウ君』ってのはあだ名だ。
 この居酒屋は俺の行きつけの店で、今日みたいな事があったら大抵立ち寄る事にしている。
 そんな訳で、この町で仕事を始めてそれほど年月は経ってないが、常連客として認知されている。
 1人で来るのは寂しくないかって思うかも知れないが、俺にとっては愚痴る相手とジョッキ一杯のビールがあれば十分。

「おやっさん、早速で悪いけど生中と唐揚げを頼む」

「はいよ! じゃあ少しばかり待っててくれよ」

 そういう訳で、おやっさんはこれにて一旦退場。後は物が来るまで時間を潰すのみ。
 今日は隣町で人気バンドのライブイベントがあるとかで椿は客が少ない。それはそれでいい。
 だが、問題はどこから話したものか。

「ところでコウ君、今日のお仕事はどうだったの? また何か言われたりしたのかしら?」

 おっと、向こうから話題を振ってくれるとは嬉しい誤算。
 それじゃお言葉に甘えさせてもらうとするか。

「なーに、大した事はねえよ。また身の程を弁えないクソガキがいただけだ」

 言葉は汚いが事実だ。
 ああ、事実だ。

「もうっ、またそういう言い方しちゃって。ここまで来るトレーナーさんなんだから、もう子供じゃないでしょ」

 何だろうか、色んな意味で俺が子ども扱いされたような気がするが気のせいに違いない。この程度で機嫌を悪くする俺じゃないが。
 だがな鈴ちゃん、ここは確かに結構な実力があるトレーナーの来る場所だけどよ、だからと言ってそれがガキじゃない保証は無いんだ。
 実際に、俺はそういうガキをよく知ってるんだからな。

「……ねえコウ君、何で子供のトレーナーが嫌いなの?」

 ドが付く程に直球。ど真ん中に剛速球を投げ込まれたかのような気分だ。
 こんなストレートを投げ込まれたら、絶好のチャンスで絶好球だとしてもセカンドへのゲッツーになりそうだ。
 そんな事を思ってしまうくらいにこの質問は俺にとっての痛恨の一撃。これは俺の過去にも関わってくる問題。
 俺の過去について明かしているのは、小さい頃――そう、今日ジムに挑戦してたあのガキぐらいの年の頃は、ポケモントレーナーをやっていたという事。そして、トレーナーを辞めて審判を志したという事。
 だが確かに、そろそろこの事について話しても良いかも知れない。俺としてもいい加減、どこかで吐き出したいと思っていたからな。
 かつてはトレーナーをやっていた俺が、どうしてトレーナーを辞めて、どうして審判の道を進む事になったのかを。

 どうして、俺は憎まれ役になっているのかを。

「子供のトレーナーが嫌いな理由、なあ……」

 そう、あれは丁度10年ぐらい前の事になるか。
 唐揚げよりも先にビールジョッキが届けられるのを見ながら、俺はあの日の事を思い出す。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 あの頃の俺は随分と調子に乗っていた。
 初めてのポケモンとして貰ったゼニガメ――そいつと共に俺は歩み、そして仲間を増やして戦い続けていた。
 目的はもちろん、ポケモントレーナーの頂点。そして俺はその目的地は決して遠くないと思っていた。

 思えば、近くに見えていたその目的地は、無限の砂漠に浮かぶ蜃気楼の理想郷だったがな。



 旅に出てからそれほど時間は経ってない、少なくとも一年も経ってないあの日は俺にとって忘れられない日だ。いや、俺がクソガキから脱却するために忘れてはならない日だ。
 ジムバッジを7個取って調子に乗りまくってた俺はその日、ついに最後のジムへと挑戦した。このジムで勝利すれば、ついにポケモンリーグへの挑戦権を得られる。そして俺なら勝てると信じてな。
 本当に全力で調子に乗りまくってたが、そうなるのもある意味仕方ないのかも知れない。何しろ、敗北らしい敗北を知らずにそこまで来たんだからな。
 ゼニガメだってカメックスまで進化して向かう所敵無しって感じだったし、他のポケモンも戦力として不足は無し。まさに我が前に敵は無しってね。
 だが、だからと言って「仕方ない」で済ませていい問題ではなかったんだ。

 ジムへの挑戦の結果、それは第三者目線で見れば向こう30年は笑える程の、当事者からしてみれば全く笑えない程の惨敗だった。
 ポケモン6体によるフルバトル、だがそれでも俺は相手のゴウカザルに対し有効打を1発も与えられずに、とうとう相性で有利なはずのカメックスもサンドバッグにされてノックアウト。
 ――でもな、俺は調子に乗りすぎていた。ポケモントレーナーじゃなくクソガキだったんだ。

「待ってくれよ! 俺のカメックスはまだ戦える、まだ終わってねーんだ!」

 あの時俺の口から出た言葉は今でも一言一句、アクセントに至るまで正確に覚えてる。
 目の前の現実を受け入れられない俺は、審判の判断を無視して戦闘を続行。カメックスも俺に従ってくれた。
 そして、ジムリーダーも俺の意思を尊重してくれた。
 尊重してくれた。

「アクアジェットで突っ込みつつハイドロカノンをゼロ距離から撃ち込む! 行けぇっ!」

「マッハパンチで迎撃、これで終わりだ!」

 カメックスの防御力を活かしてアクアジェットで強行突破しつつ、至近距離からのハイドロカノンで一撃粉砕、それが俺のカメックスの必殺技だった。
 必殺技だった。

 手足を引っ込めて、甲羅の隙間から噴射した水を推進力として突撃、そして思惑通りに至近距離まで近づいた。ここまで近づけばゴウカザルと言えどかわせないって距離まで。
 ここからハイドロカノンを撃ち込んでやれば間違いなく一撃で撃破出来る、そのはずだと信じていたんだ、俺は。

「――しまった、ゴウカザル!」

 その「しまった」の意味を、俺は都合の良いように捉えていた。万事休すって意味だとばかり思っていたさ。
 だが実際は逆だと思い知るのに時間は掛からなかった。クソガキでも猿でも分かるような結果が出たからな。

 カメックスは既に限界だった、色んな意味で。
 俺から見てゴウカザルの右側へと跳んだカメックスは、そのまま背中から砲身を展開して高圧水流で攻撃するはずだった。
 ただし、これはカメックスの身体が正常ならばの話。右側へと跳んだ時点で既に少し体制を崩したカメックスは、俺の指示に忠実に攻撃態勢に移ろうとしたが、それに失敗した。
 完全に身体にガタが来てたカメックスは、攻撃態勢どころか無防備な状態をゴウカザルに晒す。そしてそこに来るのはゴウカザルのマッハパンチ。本当なら俺の戦意を砕くだけで終わるはずだった一撃。

 瞬間、俺はその音の前に何も出来なくなったよ。
 見事なまでにカウンターヒットしたマッハパンチでカメックスがジムの壁まで吹っ飛ばされるのをただ眺めるだけ。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 ジョッキに入ったビールを軽く喉へ流し込む。
 過去を吐き出すのがここまでキツいとはさすがに予想していなかった。もうジョッキの中身がほとんど残ってない。
 どうやら、俺は今も想像力が足りてないみたいだ。

「その後さ、ポケモンセンターで医者が俺のカメックスを見て、一番最初にやった事が何か分かるか?」

「うーん……怒鳴りつけた、かな?」

 残念ながらハズレだよ、鈴ちゃん。

「グーでブン殴られた」

 そうだ、甲羅がヒビだらけになってぐったりとしたカメックスを見た医者は、真っ先に俺の顔面を全力で殴り飛ばした。かなり年季の入った老医師だったが、その拳はゴウカザルのパンチそのものってレベル。
 この答えに思いっきりビックリした顔になる鈴ちゃん。まあ、さすがに子供をグーで殴る人間なんてそうそういないさ。あの時の俺は殴られても仕方が無いってのが救えないがな。
 さて、次に医者が俺に突きつけたのは同意書、それも最悪の。

「最悪の同意書、と言うと……手術に失敗しても責任は負えません、とかそういうの?」

 それもハズレだよ。もしかしたら、無意識の内に最悪の結果ってのを頭から排除してるのかも知れないけど。

「安楽死の同意書だ。今までの戦闘とその時の戦闘で内臓がボロボロになってて、ポケモンセンターに運び込んだ時にはもう手遅れさ」

 ヒュッって息を呑む音が俺にも聞こえた。
 畜生、今日は酒の回りが悪い。

「ポケモンの安楽死ってのは酷いものだぜ、最後の別れを済ませたら、そのままガス室送りアンド即火葬だ。薬殺じゃ上手く行かない事もあるってね」

 そうだ、だから俺は最期の瞬間ってのを見ていない。訳も分からずサインさせられて、後はもう原型を保った姿を見ていない。
 残ったのは僅かばかりの骨だけ。その骨も既に土の下だ。

「オマケにだ、俺のポケモン全てを念入りにメディカルチェックするという話になったんだがな、その結果は残りの5匹ももう限界って結果だったよ、ハハッ。これ以上戦ったら、いつカメックスのようになるか分からないってよ」

 何と言うか、笑えないのに笑うしかない。
 かつての俺は勝利の代償として、ポケモンの命を縮めていた。
 俺の指示に従ってくれるポケモンに甘えて、もう戦闘の続行は困難ってレベルのダメージを受けても戦闘続行させて、滅茶苦茶な動きをさせて勝利を強引にもぎ取る。だからカメックスはあの戦いで身体が限界を迎えて、普通なら戦闘不能止まりのところで想定を大幅に超える、致命的なダメージを受けた。
 だが、これはあくまで偶々。偶々カメックスがそうなっただけで、もしかしたら他のポケモンがそうなってたかも知れない。そんな過程はもう無意味だが。
 ちなみにここのジムリーダーもポケモンに滅茶な動きをさせてはいるが、負担を最小限に食い止めるようによく考えた上で特訓を重ね、ポケモンのメディカルチェックも万全にしている。つまり、あの時の俺とはまったく別。俺に出来なかった事をやっている。

「もう想像付いてると思うが、これがあったから俺はトレーナーを辞めたよ。自分のポケモンを殺すような奴はトレーナー失格だ」

 そうだ、だから今日の挑戦者のような子供を見ると、昔の俺を思い出してしまう。
 ポケモンは生きているという事を忘れたクソガキを思い出してしまうんだ。
 そんな俺と同じクソガキが決定的な過ちを犯すのを少しでも減らせれば、そう思って俺は審判を志した。抗議にも一切心を動かさず、最悪の結末を徹底的に避ける審判を。

「……そう言えばコウ君って、前に『強いトレーナー』についての話をしてくれたよね」

 ああ、鈴ちゃんの言う通りそんな話もした事があるな。2ヶ月ほど前の事だったか。
 俺の持論は単純明快、だがこれを分かってないトレーナーは間違いなく痛い目を見る。

「強いトレーナーは白旗を上げられるトレーナー。ポケモンバトルはあんまり詳しくないからよく分からなかったけど、今なら意味が分かるかも」

 かつての俺は自分の負けを認められなかった。白旗を上げる事を拒んでいた。
 だが、それこそが間違いだ。
 人もポケモンも生きている限り挑戦の権利を与えられる。裏を返せば、負けを認めずポケモンを無駄死にさせればそのポケモンの戦いはそこで終わり。無駄死にさせるようなトレーナーに再挑戦の権利は無い。
 白旗を上げられないトレーナーは、自分のポケモンの状態も把握出来ないトレーナーだ。

「さて、鈴ちゃんがそれの意味を分かった訳だし丁度良い、俺の湿っぽい話はこれで終わり。そういう訳で鈴ちゃん、生中もう一杯頼む」

「はい、生中一杯入りま〜す」

 重くなってしまった空気を変えたい俺の意思を察してくれたのか、鈴ちゃんの声に元気が戻る。いつ見てもいい娘だ。
 だからなんだよな、この居酒屋が地元の人から人気なのは。今日は人いないけど。



 さてと、明日からまた憎まれ役を頑張るか。
 白旗を上げるべき状況で上げたがらない奴がいたとしても、白旗を上げたくなるまで憎まれ役に徹させてもらう。
 それが、俺の仕事だ。
メンテ
あの空を目指して ( No.14 )
日時: 2013/04/14 21:27
名前: ホープ


テーマA:ガラス



 僕はずっと自分の体が大嫌いだった。
 人間が通ることもほとんどないような険しい山。頂は一年を通して雪を被っている。そんな背の高い山の中腹あたりにある原っぱに、僕らの集落はあった。みんなで協力して木の実をとってきたり、寒いときはみんなで体を寄せ合いながら仲良く暮らしている。
 ここに住んでいるみんなは大きな耳と瞳に、体と同じくらいのふさふさの尻尾、そして灰色の体毛を身にまとっている。朝なんかはお互いに尻尾で相手の体を撫でたりしているようだ。体毛は丈夫で、極度のストレスでも抜け落ちるようなことはない。僕もみんなと同じような瞳、耳、尻尾をもっているけど、一つだけ違うことがあった。
「ちょっと、邪魔なんだけど」
「あっ」
 隠すつもりもないであろう悪意が、僕の体を押し倒す。そこにいたのは僕と同い年で同じ形のポケモン二匹。その目には軽蔑の色が刻まれていた。何か悪口を言われるのが嫌で、僕はすぐ彼らに向けた視線を地面へと戻す。
「あーあ、手が汚れちゃったよ」
「水を飲むついでに川で洗えば大丈夫でしょ」
「はは、それもそうだな」
 悪びれる様子もなく彼らは僕から遠ざかっていく。こんな仕打ちも、小馬鹿にしたような笑い声も、僕はもう慣れてしまった。この程度では涙すら出てこない。
 二匹の声が聞こえなくなったのを確認してから立ち上がって、体についた土の汚れを尻尾で叩き落とす。そのせわしなく動く尻尾とちょっと汚れている体を見ていると、やっぱり僕はみんなと違って特別なんだと思い知らされた。
 僕の体毛は灰色ではない。生まれたときからこうで、別に何か特別なことをしたわけでもないのにこの色だった。お父さんが理解のあるポケモンだったから僕は今生きていられるけど、もし気味悪がられたら生まれたばかりの頃に僕は死んでいた。今考えればその方が幸せだったかもしれないけど。
 そして、僕はみんなから忌み嫌われている。大人たちからは白い目で見られ、同い年の子供たちからは暴力、悪口を受ける日々。僕は何もしていないのに、ただみんなと毛の色が違うというだけでこんな仕打ちを受けてきた。
 ご飯の木の実だって、集落の食料集めを担っているポケモンは僕の分だけとってこない。この集落のみんなに、僕のことは含まれていないからだ。
 小さい頃はお父さんがとってきてくれていたけど、いつまでもそれに頼っているわけにもいかないから、最近は自分で木の実をとりに行っていた。
 今もそれに向かう途中だ。普通の子供ならおやつを食べているような時間に、僕は一匹で誰も入らないような急斜面にある森の中へ踏み入っていく。この時間帯なら誰にも顔を合わせることはない。昼間に安堵できる唯一の時間だった。

 木の実を何個か口に入れてお腹を満たし、夜に食べる分を一つ右手に抱えて集落に戻る。僕を育ててくれたお父さんやお母さんには心配をかけたくないから、僕は集落に戻らなければいけない。
 森を抜けると、西の空はもう真っ赤になっていた。東の空からは漆黒が迫る。それが混ざり合った空の真上は、僕の体毛と同じような色をしていた。同じような、少し暗い桃色。僕の大嫌いな色だ。
 ほのかに赤く染められた原っぱを歩く。足音を立てないように、見つからないようにうつむきながら進む。他のポケモンとは会いたくない。
 そのときだった。一つ、二つと縦に長く伸びた影がうつむいた視界に映ったのは。はっとして顔を持ち上げると、何匹かはわからないくらいたくさんのポケモンがいた。もちろん、みんな僕と同じ形をしている。それは集落にいるポケモン全員のようにも思えた。
 僕は歩みを止め、もう一度視線を下に向ける。僕と彼らの間には彼らの伸びた影しかない。その影の一つが、一歩前に出る。影の持ち主であるポケモンの顔を見ると、そこには信じたくない光景が広がっていた。。
 体中が赤く腫れていて、顔には爪で引っ掻かれたような切り傷がいくつも広がっているそれの瞳には生気がなく、そのポケモンを僕のお父さんだと理解するのには数秒の時間がかかった。
 お父さんは一歩、また一歩と僕の方へ近寄ってくる。お父さんが僕に何かをしようとしているのは明白だった。得体の知れない恐怖、嫌悪感がこみ上げてくる。
 手を伸ばせば、尻尾を伸ばせば僕の体に触れられるというところで、僕のお父さんは足を動かすのをやめた。そして、口をかすかに動かす。言葉は聞こえなかった。けれど、何かとても辛いことを吐き出しているように聞こえて、さっきの恐怖がどんどんと大きくなっていく。
「ここから、出て行け」
 今度はしっかりと聞こえた。聞こえた。意味はわからなかった。わかりたくなかった。放心したまま動かない僕。後ろの観衆がざわざわと騒ぎ立てる。お父さんの後ろにある夕日が激しく揺れていた。
「この集落にいると邪魔なんだ! どっか行ってくれ!」
 信じられないその言葉は、顔面への鈍い痛みで本当のことだと思い知らされた。お父さんの尻尾が顔に叩きつけられた衝撃で、僕は原っぱに身を打ち付ける。肺を圧迫されて息が少し漏れた。でもまだ信じたくなくて、僕はお父さんの顔を見る。
――そこには、隠しきれないほどの悪意が滲んでいた。
 そして悟る。僕はもうここに居る必要なんてないんだって。
 僕は駆け出す。叩きつけられた姿勢から後ろ足に力を入れて、森の暗闇を目指した。多少バランスが崩れたって、無様な姿を観衆に晒したって、手を地面につけて僕は一目散に走り抜ける。
 後ろから聞こえる沸き立つみんなの歓声、夕日を浴びて伸びる僕の影、ぼやけた視界に映っては消える大嫌いな色の手。流れ落ちる涙を拭うことすらできないで、僕はただ走った。

 急斜面の森で体を枝に引っ掛けても、木の葉にぶつかって擦り傷を作ろうとも、僕は足を止めなかった。止めたらきっとその場に崩れてしまう。そんな確信に似た予感があったから。
 もう息を吐き出すのも吸うのも辛い。転がるように進む体に鞭打って、あと少しあと少しと言いながら、僕は感情が溢れて止まらなくなるそのときを先延ばしにした。
 山を駆け下りて斜面が緩くなってきたのを感じると、僕は身を隠すのにちょうど良さそうな茂みを見つけて隠れる。ぜえぜえと息が上がっている。体中が燃えたように熱かった。
 息は全然整わないのに、涙が止まることはない。もう何がなんだかわからなかった。思い出すだけで胸がはち切れそうになる。
 お父さんの鋭い言葉は、僕の心をズタズタに引き裂くのには十分だった。唯一の心の拠り所だった家族にすら僕は見捨てられたんだ。例えそれが暴力によって無理やり紡ぎ出された言葉だったとしても、それはお父さんが僕よりも自分と家族の安全を優先したという事実になる。僕が邪魔者だったのは知っているけど、直接ぶつけられたその真実は、思っていたものよりもずっと痛かった。まだ残っていた心の脆い部分を抉るように、その事実は僕に強くのしかかる。
 お父さん、お母さんだけは信じていたのに。きっと僕を守ってくれると思っていたのに。
 ああ、僕はなんで生きているのだろう。どうして、僕は特別な体で生まれたのだろう。
 僕はもう外敵に見つかって殺されてもいいから、大声で泣きたかった。でもそんな泣き喚く力だって残ってなくて。結局漏れるのは嗚咽だけ。
 茂みの外にもこの押し殺した声はきっと聞こえている。でも食べられるなんて気にする必要はない。僕が死んで悲しむポケモンは、もうどこを探したっていないんだ。そう、世界中どこを探しても。

 どのくらい時間が経過したのだろう。少し冷静になって泣き腫らした目を開けると、地面はぐっしょりと湿っていて、僕はまだこんなにも泣けたのかと逆に驚いた。涙なんてとうに枯れてしまったと思っていたから。
 宵は深まる。茂みの中からでも空のてっぺんに月が浮かんでいるのがわかった。白色の輝かしくも少し鈍い光が、僕と同族のポケモンたちの体毛に似ている。
 胸がぽっかりと空いてしまったようで、僕はもう悔しさも憎しみも怒りも感じない。ただただ、大きすぎる悲しみの海が全てを失った胸を満たしていた。
 何もしたくない、動きたくない。仰向けになって大の字に転がった。茂みの枝が僕の体をつつく。痛かった。
 全身を気だるさに包まれていたからだろう、遠鳴りに聞こえる誰かの鋭い悲鳴を聞いたって、体を動かす気にはなれない。何回も悲鳴を上げながらそれが近づいてきても、僕はそのままの姿勢を保っていた。
「みぃっ!」
 だから、それがこの茂みに飛び込んできてもそんなに大きな反応を返すことはない。悲鳴を上げたのは飛び込んできたポケモンの方だ。僕はちょっとそのポケモンの方を向いただけ。
 背中は草のような緑でしっかりと覆われており、上から見下ろしただけではただの雑草と混じってしまうくらいに草らしい姿をしている。両耳の横にちょこんとついた赤色の花、そしてお月様よりも真っ白で綺麗な顔の肌。そのポケモンは僕の方を少し見ると、また可愛らしい声を上げながら縮こまってしまった。許して、と懇願しているようにも見える。何に恐れているのだろう。僕なんかを恐れる必要なんかないのに。
――寝転んでいる僕の真上を何かが通過した。風を作り出し、それが僕の毛を撫でる。今までで一番の悲鳴がそのポケモンの体から放たれていた。
 次の瞬間、そのポケモンは消えた。代わりにあるのはそれとそっくりな鈍い色の彫刻だけ。
 つまり、考えられることはひとつだけだった。僕はすぐそれに気づいたけれど、でも、こんなこと、認めたくない。認めない。
「はっ、ようやくあたってくれたか」
 後ろ――先ほどの何かが放たれた方――から少しにやけを含む嘲笑が聞こえる。その声に込められた悪意は、集落のポケモンが僕に向けていたものと何ら代わり映えしなかった。瞳にもきっと化物のような醜い感情の色が浮かんでいるのだろう。
 彫刻はどうも悲鳴を上げているように見えて、見ていたくなかった。そこにいたポケモンがどうなったのかを考えるのが怖くなって、僕はそれから目を背けるように立ち上がる。自然に声の主と顔を合わせることとなった。
「ほう、色違いのチラーミィか。これもついでだ」
 その人間は腕につけた装置を僕に向ける。瞳には、悪意なんて篭っていなかった。何も感じていない。僕らが木の実を取るときと同じ目をしていた。ただの作業としか認識していないときの瞳。
 光線が放たれた。きっとこれを受けたら僕の意識は途切れるだろう。至近距離で放たれたそれを避けるなんて僕には難しくて。
 ただ、色違いという言葉が僕の耳を貫いて離さなかった。



――目を開けると、よくわからない世界に僕は身を置かれていた。どうしてこんなところにいるのだろう。
「写真撮れました」
 目の前にあった黒色は、黒い服を着た人間だったようだ。そいつがそこをどくと、一面は真っ白な世界になっている。真っ白? いや、灰色。この色は集落のポケモンの色によく似ていた。
 人がいるのだからまずは茂みか何かに隠れるべきだ、という本能が今更起きてきたようで、脳が体に命令を下す。でもそれとは裏腹に、足が足音を立てることも、腕が地に付くこともない。
「了解。戻せ」
 何も分からず、思い出せないまま――。



 次に目が覚めたところでは、黒い棒が等間隔で僕を囲っていた。体も動かせるようで、足を地につけているという感覚がある。そよぐ風を感じて辺りを見渡してみると、ここは僕がよく知っている自然の世界だった。黒い棒の隙間から覗く世界は、僕の知っているそれとは少し違ったけれども、ここにあるものが自然であることに変わりはない。風はそよぎ、草花は生い茂っている。花は規則的に植えられていて、とても綺麗だ。
「注文していた品は用意した。檻の中を確認しろ」
 体が宙に浮いたかのような錯覚を受けたあと、僕の足に少し強い衝撃が走った。どしん、と辺りに少しうるさい音が響く。視界はいつもの高さに戻っていた。
 憎たらしくて、吐き気を催すような顔をした男が僕に近づいてきた。怖くて、僕は後ろに後ずさる。黒い棒に当たると、僕は観念したかのようにその場に座り込んだ。
「確かに注文したのはこれだ。ご苦労さん。金はそこのアタッシュケースの中に入っている。そっちも確認してくれ」
 僕の後ろにいた男はアタッシュケースを開くために、僕の傍から離れていく。その男が中に入っている大量の紙切れを確認すると、彼はそれを持ってまた戻ってきた。気色の悪い男は僕の目の前に立って、何かを選別するような眼差しで僕を見つめていた。
「取引成立だ。そこのチラーミィは好きにするがいい」
 アタッシュケースを持った男が軽やかに地面を蹴り飛ばしていく。その後、目の前の男が獲物を捕まえたかのような瞳をしたから、僕はあの人間から別の人間に渡されたのだと確信した。ただの紙切れと交換して。そんな事実を聞いたって、思った以上の悲しみはやって来なかった。
 小さな頃から蔑まれ、親以外に甘えられず、僕は集落の仲間外れにされていた。この頃はまだ涙が溢れて止まらなくて。信頼していた親にさえ捨てられ、その夜のうちに僕は人間に捕まり、今は売り物として下品な笑い声を上げる男の前に差し出されている。僕が受け止め切れる悲しみはもう限界を突破してしまったようで。
 もう僕の胸は悲しみの海すらも枯渇して、なくなってしまった。残ったのはぽっかりと空いた大きな穴だけ。
 そんな心じゃ、僕は何も感じない。怖くない。悲しくない。怒れない。ああ、下品な声が響き渡る。僕はこんな男にすら物として扱われてしまうのだろう。でも、感情のなくなった僕にとって、その事実は至極当然のように思えた。
「さあ、こいつをどこに飾ろうかな」
 視界が高くなって、地面に押し付けられる感触を味わう。空を仰いでみたら上は真っ黒な空で、その空はジャンプすれば届きそうなほど近かった。

 辺りにあるもの全てが高級そうに黒光りしている。四足の木でできた座りやすそうなものや、ものを置くのに便利に見えるものたち全てが。床には幾何学的な模様が刻まれていた。どこを見渡しても繊細で優雅なものしか置いていなく、だからこそ、この台の上にあるそれがとても目立った。
「ガラスのショーケース。気に入ってくれたかな? ここが君のお部屋」
 そのショーケースと呼ばれたものは四方も天井も透明な壁で囲まれており、僕を隠してくれるような障害物は見当たらなくて、その中はどうにも狭そうで。そこに入ったときが僕の最期なんだって直感的に理解した。そう分かっても、無駄に足掻くつもりはない。死ねるならもうそれでいい。
 また足に大きな衝撃、でも視界はそこまで低くならなかった。ガラスのショーケースと同じ台に置かれたようだ。しばらくすると、あの男が目の前に現れた。醜悪で、醜くて、僕を物としか見ていない瞳を持ったその男が。
 にやり、と吐き気を催すような笑みを浮かべるそいつの右手には、何か小型の機械が握られていた。
 男の顔を見るのが嫌で耐え切れなくなって、そっぽを向こうと思ったとき、男が手に持った機械の摘みを回す。それに呼応するように僕の体に異変が起こった。足が、腰が、手が、動かなくなっている。首も動かせなくなっていて、何が起こったのかを確認しようにも下を向けなかった。
「石化装置ってちゃんと使えるんだな。意外」
 男は怪訝な顔をしながら手に持った機械を眺めている。僕はそれを見つめることしかできなかった。ただ、動けない置物のように。実際に僕は動けない置物だ。
 男は僕の目の前にある黒い棒でできた扉を開けた。視界が一気に良好になる。そのせいで、男の右手には機械の他に、直線になっている花飾りが握られていることに気がついた。ちょうど僕の首くらいの長さをしている。
「抵抗するなよ。まあ、できないだろうがな」
 だんだんと僕の方に汚らわしい手をを近づけてくる。じわり、じわりと獲物に近づく肉食のポケモンのように。
 ここまで接近されて、僕は久しぶりに逃げたいと感じた。どうしようもなく腹から湧いてくる恐怖を全身で味わった。でも僕は何もできない。できない。できない。
 男の手が口の少し下に触れた。その下にも触れているようだけど、ありがたいことに感触は何も伝わってこない。
 しばらくして、首元で何かの金属がぴったりとはまる音がする。それはやけに大きく聞こえた。まるで僕が物に成り下がったことを嘲笑うように。首輪、似合っているぞと男は呟く。それで僕はこれが首輪なのだということを理解した。
「それじゃ、おうちには自分で入ってもらおうかな」
 男はまた手元の機械の摘みを回す。ふっと体から力が抜けるような脱力感。耐えられずにその場に座り込んでしまう。首に取り付けられた首輪の表面は花飾りなのに、首に接している部分は石のように硬くて冷たい。少しだけ圧迫されるから、意識しないと息が吸えないような気がする。
「ほら、この奥にあるガラスのショーケースに自分から入ってくれ」
 確かに、この扉をまたいで、少し進んだ先には無機質なショーケースが置いてあった。あれに入れば、僕はもう完全に物となる。ポケモンでいられるのは、僕がそれに入るまでの間だけ。僕は親に従う子供のように足を踏み出した。
 一歩。僕は少しポケモンから離れ、扉を跨ぐ。一歩。一歩。今の僕は歩くことしかできない。歩くことで、僕はポケモンから離れ、物にならないといけない。
「もう少しだぞ」
 男の憎たらしい声が痛いほど耳を貫く。周りに置いてあるものは、男と同じように目障りで消えて欲しいほど、黒く光って自己主張をしていた。
 一歩。ポケモンよりも物に近くなる。
 下を向くと僕の桃色の足が視界に映り込んだ。
 この足の色だって、体だって、本来なら灰色の体毛で生まれるはずだった。もうそんなことはどうでもいいけど。でも、できることなら灰色に生まれたかった。
 一歩。
 また前を向くと、この嫌な空気が充満した世界はぼやけて見える。そう、尽きたはずの涙が溢れていた。
 一歩。
 僕が他のポケモンのように生きるだなんて願いはとうの昔に諦めているつもりだった。でも、諦めきれてなかった。
 一歩。
 もう一歩踏み出せば、僕のポケモンとしての命は終わる。最期が差し迫っていた。でも、まだ死にたくなかった。
 最期の一歩はまだ踏み出さずに、僕は止まった。今まで言葉で表せなくて、声にならなくて、胸の底に沈んでいた願いが今、見つかったから。
――もっと普通に生きたい!
 胸を満たすほどたくさんの悲しみを全部流してやっと、見つけた。
 空を見上げる。幾何学的な空も、少し頑張れば届きそうなほど近かった。もっと遠いところにある空を見たい。でも今駆け出さないと、僕はずっとこの小さな空の下にいないといけなくなる。
 覚悟を決めろ!
 意を決して、僕は男の方を向いた。男はちょっと驚いた目をしたように見える。無様でも、格好悪くても一生懸命に駆け抜けて、あの空を目指すんだ。
 思い切り走り抜け、男が手に持っている機械にめがけ飛び跳ね、尻尾を使ってそれを叩き落とす。叩き落とそうとした寸前に、僕の体の自由が効かなくなっていって、あれ、あれ。

 次に体が動いたときには、僕はガラス越しの世界しか見えなくなっていた。物となった。
 胸に残った最後の願いすらもどこかにいってしまったようで、僕は不思議と悲しくない。ただ、ガラス越しに見る世界はとても滲んでいた。



 いたい。いたい。くびがいたい。――。もういやだ。わらいたくない。くるしい。くるしい。やめて。いたいの。やめて。――。ごめんなさいごめんなさい。いわれたとおりにするから。ゆるして。ゆるして。いらないの。くるしい。くるしい。――。ほんとうにいたいの。たすけて。いや。わらいたくない。ごめんなさいごめんなさい……。
 いや、いや、いや。――。くるしい。いたい。ゆるして。ぼくがわるいの。ぼくがわるいの。わるいこをゆるして。ゆるして。おねがい。ゆるして。なんでもするから。たすけて。――。いたい。いや。ごめんなさいごめんなさい……。
 ごめんなさいごめんなさい。ごしゅじんのいうとおりにします。――。いたい。――。くるしい。――。がんばります。――。ごめんなさいごめんなさい……。
 ごしゅじんさま。――。――。――。――。



 無機質な朝が来た。太陽が昇り始めているのが二枚のガラスを通して見える。一枚は窓。もう一枚は目の前にあるショーケース。ぎいと、重苦しい音を出しながら扉が開いた。
「おはよう。早いね」
 ご主人様だ。その姿が瞳に映るのと同時に、ご主人様の声がガラス越しに響いた。
 コツコツと、靴の音を響かせながらガラスのショーケースに近づいてくる。僕は精一杯の笑顔を近づいてくるご主人様に向けた。より可愛らしく、より気に入ってもらえるように。
「今日も可愛いよ」
 そうすれば、ご主人様も笑顔を返してくれる。怖いことは何も起こらない。僕が悪い子にならなければ、恐ろしいことは起こらないのだ。
「今日はお客さんが来るからね。そのときもこの調子で頼むよ、チラーミィ」
 ご主人様の問いかけに、僕は可愛らしげに頷いた。

 ご主人様のお客様は、太陽が東の空から見えなくなる頃にやってくる。お昼時と呼ばれる時間で、ダイニングルームでお食事をとってからこの部屋にやってくるらしい。
 でも、僕は気を抜けない。いつご主人様が現れるかわからないからだ。もしご主人様がこの部屋に来たときにちょうど座り込んでいたらどうだろう。きっと恐ろしい目に遭ってしまう。僕は常に可愛く、置物のようにしていないとだめなのだ。
「ここに色違いのチラーミィがいるけど、あまりガラスにペタペタ触らないでね。おじさんとのお約束だよ」
「うん! 約束する!」
 いつものご主人様の声と、それに答える小さな男の子の声がドア越しに聞こえてくる。きっとそろそろ入ってくるんだ。気持ちを整えて笑顔にならなくちゃ。
 がたんと、ドアノブが引かれて扉が開く。僕はそこを注視した。ご主人様に手を引かれて、まだ背の小さい男の子が目をキラキラと輝かせながら部屋を見渡している。そして僕と目が合うと、より一層瞳の輝きを強めて僕の方に駆け寄ってきた。
「わあ! 本物だあ!」
 彼は僕の入っているガラスのショーケース前までやってくる。遠くで見るよりも彼の身長は低かった。うんと背伸びをして、僕の目と同じ高さまで自分の視線を上げてくれる。僕はいつもご主人様に向ける笑顔を、今日は彼に振りまいた。
「可愛い……。花の首飾りもいいなあ」
 ぽつりと彼が呟く。ご主人様はそうだろう、そうだろうと彼に同調していた。
「花の首飾りは特注品なんだ。特別なんだぞ?」
 昔の僕だったら、きっと首飾りという単語が出ただけで泣き叫んで暴れまわっていた。そう考えると今の僕はとても成長しているように思える。
「ねえおじさん。もうちょっと見ててもいい?」
「ああ、構わない。おじさんは向こうの部屋にいるから、好きなだけ見ておいで」
 ご主人様は僕と彼に手を振って部屋から退出する。
 この部屋には彼一人だけとなった。僕は物だから、人やポケモンとしては数えない。
「えへへ、二人きりだ」
 だから、彼のこの言葉の意味を僕には理解できなかった。首をかしげてわからない、という意思表示をする。彼はそんなことお構いなしのようで、自分の話を続けていた。
「僕の友達も紹介するね」
 彼はガラスのショーケースから数歩離れ、半分ずつ赤と白で塗られた球体を取り出す。真ん中についているボタンを押すとその球体が少し大きくなって、彼の手では少し握り辛そうなものになった。
「ゾロア! 出てきて!」
 球体が開き、そこから光線が発射される。それが少しずつポケモンの輪郭を描いていった。まず、四本足で体を支え、ふさふさとしてそうな尻尾と体より少し小さい程度の頭がそれぞれ形作られる。その頭からピンと尖った耳と、耳の間にクリームのような毛が構成されたら、そのポケモンに色がついていった。
 黒を基調とした毛に、ところどころアクセントのように生えている赤い毛。目元などは赤色で、瞳の水色を際立たせていた。ゾロア、というポケモンらしい。
「こいつはゾロア、よろしくね」
 なるほど、二人きりというのは彼とこのゾロアを数えて二人なのか。それなら納得だ。
 ゾロアはこういう環境に慣れていないのか、キョロキョロと辺りを見渡している。目に映るもの全てに興味を持っているような感じだった。
「ゾロア、ほら、そこのチラーミィが見えるか?」
 彼はゾロアを肩に乗せ、僕の方にまた近づいた。ゾロアの吸い込まれそうな水色の瞳に、どこか懐かしい感触を覚える。
 僕はもう一度二人に向かって微笑みかけた。彼は笑い返してくれる。ゾロアは少し怪訝そうな水色の瞳で僕を見つめていた。
「ん? ゾロアは可愛いと思わない?」
 彼もその瞳に気がついたようだ。肩に乗っけたゾロアに声をかける。もちろん、ポケモンの声が人間に届くことはまずない。それでも声をかけてもらえるゾロアは、幸せ者だと思った。
 ゾロアは何も言わない。ただ僕のことを見つめているだけ。水色の瞳はやはり吸い込まれそうだった。彼もそんなゾロアに構うのは時間の無駄だと思ったのか、また僕の方に首を戻す。
「ねえねえ、くるくる回ってみてよ!」
 僕は笑みを浮かべて彼のお願いに頷くと、くるり、くるりその場で何回か回転してみせた。くる、くる、くるり。
「すごいなあ。尻尾も耳も綺麗だね!」
 彼がおだてるものだから、僕はつい調子に乗って何回も何回も回る、回る。平衡感覚がだんだんと狂ってきて、僕は尻餅をついてしまった。座り込んでいても、まだまだ頭がくらくらする。
 立っていなきゃいけない。
 脊髄がそう命令する。僕はもう一度立ち上がると、少し申し訳なさそうな顔を作って彼の方を向いた。
「いいよいいよ。変なことお願いしてごめんね」
――ああ、彼はなんて優しいのだろう! ご主人様だったら、きっと怒鳴られるくらいじゃ済まなかった。
 ゾロアは、相も変わらず僕に怪訝な瞳を向けている。何かをいぶかしく思っているように。

 彼は何時間も飽きないで僕を見つめてくれた。ご主人様は数十分で僕から離れるから、こんな長時間見られ続けるのは初めてのことだ。
「僕ね、一週間おじさんの家に泊めてもらうんだ。だから、毎日君に会いにくるよ!」
 僕はそれを聞いていつもと寸分変わらない笑顔で頷く。彼もそれに応えてくれる。つまり、問題は起こらない。
「それじゃ、ゾロアも一緒に戻ろう?」
 ゾロアは彼の手が届きそうになるとパッと彼の肩を飛び出し、床に着地して彼と向かい合う姿勢をとった。ぐるぐると低く小さな声で唸っているように見える。
「あー、はいはい。わかったよ。でも僕は先に戻るからね。またあとで迎えに来るよ」
 彼はもうこういうことに慣れっこのようだった。きっと、このゾロアは自分の気持ちを伝えるのが下手なのだろう。
 一人でドアノブをひねって、彼はこの部屋から出ていく。これで今度こそ、この部屋はゾロア一匹しかいない部屋となった。
「この部屋は君一匹だけだね」
 僕は何となしにゾロアに声をかける。この声は可愛さで飾らなかった。だから、この疲れて今にも倒れてしまいそうな声が、今の本当の声。
 ゾロアが彼の肩から降りたから、僕はゾロアのことを目視できなくなった。それはゾロアも同じなようで、少し離れて彼は僕の視界に入る。瞳からは先程までの怪訝そうな色なんて微塵も感じなくて、むしろ心配しているような、そんな優しい色が瞳に映っていた。
「オマエ、悲しくないのか? 自分のことを一匹とも数えないなんて……」
 ゾロアは初めて口を開く。その声はガラスによってくぐもっているが、ちゃんと聞こえた。
「うん。僕は物だから」
 即答。この言葉を使うのにだって、もうなんの抵抗もない。昔は物になんて絶対になりたくなかったけど、今はこの方がいいと思えるくらいになっていた。
 微妙な沈黙が間に流れる。ゾロアには出ていくという選択肢だってあるのに、彼はそれを選ぶような素振りを見せなかった。
「……辛いことがあったんだな」
 そうとだけ言うと、ゾロアは視線を僕から外した。だからといって外に行くわけでもなく、部屋の窓から外を眺めているだけ。その姿は昔どこかで望んでいた優しい父のようだった。
 しばらく、誰も動かないで時が過ぎ去る。それは初めて感じる平凡な時間のようだった。

 ゾロアたちは本当に、毎日毎日会いに来てくれる。僕は無理やりこねくり回して作った笑顔を振りまくだけだったけど、彼の笑顔は本物だ。本物の笑顔だなんて生まれてから一度も見たことはないけれど、多分これがそうなのだろう。
 彼が会いに来てくれる時間は日に日に短くなっていった。それはそうだ。さすがにずっと同じリアクションしかしない物と遊ぶのは苦痛だろうから。
 でも、ゾロアは違う。ゾロアは毎日彼が迎えに来るまで、一日目と同じ時間だけ僕の傍にいてくれた。そんな日が続く度に、僕は昔のちょっとした平凡な記憶を取り戻していく。
 二日目は家族と共に過ごしたちょっぴり幸せな時間を。
 三日目は森の中で一匹、木の実を集めていた時間を。本当に些細なことしかなかったけれど、今の僕と比べてみると、その頃の僕はまだ感情があって、とても幸せそうに見えた。
 三日目の夜。僕は何とも言えない感情が湧き上がるのを感じていた。過去のことを思い出すごとに、目の前のガラスが恨めしくなって、壊したくなって。でも叩けば怖いことがあるから、そんなことはできなかった。力弱く手をガラスに当てることくらいしか、今の僕にはできない。
 四日目。僕はゾロアを見て、その姿と優しかったお父さんの姿を重ねた。少しだけ言葉を交わす。ゾロアは優しく応えてくれた。
 五日目。僕はゾロアともっともっとお話をした。僕は色違いについてぽつり、ぽつりと話す。それを聞いても、ゾロアは僕のことをポケモンだって言ってくれた。僕のことをポケモンと認めてくれたのは彼が三番目だ。お父さん、お母さんに続いて、三番目。彼はにこやかに笑いながら、オマエだってポケモンさと、そう言って認めてくれたのだ。嬉しいと心から感じる。 
 その夜、僕は眠れなかった。枯れたはずの涙が止まらない。床を汚すとご主人様に恐ろしいことをされるから、涙は全部腕で拭って落とさないようにした。
 涙を流すと、苦しいときの記憶も蘇る。同じポケモンに軽蔑されていた記憶。お父さんの悪意の詰まった顔。石化されて、動けなくなったときの深い悲しみ。首筋が赤く腫れたときの記憶。全てなくしてしまいたいけれど、脳裏に焼きついてしまって剥がれることはなさそうだった。
 ゾロアと話していると、そんな苦しい記憶がたくさんあっても、もう一度ポケモンに戻りたいって思えてくる。
 そして、六日目の今日。ゾロアと過ごす日は明日で最後となる。

「チラーミィ」
 不意にゾロアが改まって僕の名を呼ぶ。僕は、何、と短く言葉を返した。
「オマエは、物として命を終えてもいいのか? もう、青い空の下に出られなくても、いいのか?」
 ゾロアのこの口調は優しかったお父さんにそっくりだ。
「……僕はもういいの。全部、無理なことだから」
 嘘だ。本当はずっと夢見てる。この薄いガラスを打ち破って、その外へ出ることを。
「オレは嫌だ。こんなガラスの檻に閉じ込める人間、そしてそれを見て喜ぶ人間の姿を見るのは」
 驚いた。純粋に、そのゾロアの言葉は僕のご主人様とゾロアのご主人様をけなしているようにしか聞こえないからだ。僕なら怖くて絶対に言えないようなこと。でも、ゾロアはさらに続ける。
「これはオレの勝手に他ならない。だが、もう一度考えてみてくれ。オマエは、もう一度ポケモンになりたいのか? このまま物として生を終えても悔いはないのか?」
 ゾロアの眼差しはいつになく真剣だった。その瞳はやはり吸い込まれそうな水色の瞳で、僕が目指していた青色の広大な空を凝縮したかのようだった。
「ポケモンになりたいなら、オレに一つ任せてみないか」
「ううん、物のままでいい」
 思ったことをうまく言葉にできなくて。口から飛び出したのは見え見えの嘘。ゾロアもそれは分かっているようで、はぁ、と一つため息をついた。
「素直じゃないんだな」
 そうとだけ言って、彼はまた窓から外を見つめる。僕が本当の答えを言うまでこうするつもりなのは目に見えていた。
――怖い。
 ゾロアの言うとおりにして、もしポケモンになりきれなかったら。以前の恐怖が蘇る。首筋が疼く。あの音が聞こえる。
「それって絶対ポケモンになれる?」
「五分五分。正直賭けみたいなもんだ」
 ゾロアが軽く笑うように返してくるそれは、一番聞きたくない答えだった。もしもの想像だけが頭の中を駆け巡り、僕にその選択を踏みとどまるよう説得してくる。物のままでいいって、もう期待しちゃいけないって。
 僕は、どうしたらいい? 怖い。こわい。痛い。いたい。そんな気持ちだけがぶくぶくと膨れ上がって、もう手のつけようがないほどにその恐怖心は肥大化していた。
 選択するのが怖い。ゾロアに本当のことを言うのを躊躇う。水色の瞳が恐ろしい。
 だって、失敗したら二度とゾロアに会えないのだ。
 でも、物のままでも、この先ずっとゾロアには会えない。
 一緒にいたい。ゾロアと一緒にいたい。それは僕の中で、唯一信じられる気持ちだった。ほかはまやかしだ。信じるな。僕が信じるのはゾロアだけだ。なら、もう選ぶ道は一つしかなかった。前を向く。ゾロアはもう窓じゃなくて僕の方に向き直っていた。ゾロアが僕を見上げて、僕がゾロアを見下げる。
「ポケモンになりたいのなら」
 一際はっきりとした声が響く。僕は次に続く言葉を待って固唾を飲み込んだ。
「明日。オレとこの屋敷を脱出しよう」
 僕は今の自分にできる本物の笑顔で、うんと頷いた。彼はにっこりと包容力のある笑顔を浮かべて頷き返す。
 あの水色の空を目指して、二匹で駆け出すんだ。



 決行の日、僕はいつもより早い時間に目を覚ました。まだ二枚のガラス越しにも太陽は映らない。そんな早朝。
 目の前にあるガラスに手で触れてみる。薄くて、冷たくて、透明で。そんな物に僕は閉じ込められていたのだと思うと、少し悔しくもあった。
 ぎい、と静かな部屋ではとうるさく聞こえる扉の音が響く。そこにいたのは、あの男の子によく似ている子だった。似ているようだけど、どこか違う。ゾロアがこの前話していた、人間に化けることができるとはきっとこういうことなのだろう。
「ほら、迎えに来たよ」
 彼はそう言って、右手に持った鍵を振り回しながらこちらにやってきた。それはこのガラスのショーケースについている扉の鍵だ。僕が食事やシャワーで外に出るときに鍵の種類を確認して、ご主人様の目を盗んでそれを奪ってきたのだ。その努力が、僕の胸に嬉しさを浮かび上がらせる。
 ゾロアは後ろに回り込んで、かちゃりとガラスのショーケースの鍵を外した。僕は今、この瞬間、あの空を目指して脱出するチャンスを得たのだ。
「さあ、一緒に行こう。見つかっちゃう前に」
 逸る気持ちを押し付けて、僕は慎重にガラスの檻を飛び越えた。音は立てていない。もう胸の動悸が止まらなくて、今すぐにでもはじけてしまいそうだ。
 僕は人間に化けたゾロアに抱きかかえられて、長くの時間を過ごした部屋とお別れする。未練なんてなかった。ここには、怖くて、恐ろしい記憶しか残っていない。離れられるのなら、早く、とにかく早く離れたい。
 扉は開けたままだった。閉じれば音がするのだから当然の判断だろう。もちろん扉を開けたまま、僕らはこの部屋を出ていく。
 ゾロアは足音を立てないように慎重に、しかしなるべく早く廊下を進んでいた。
 廊下を見渡す。ご主人様の趣味は廊下にも反映されていた。高級そうな床のレッドカーペット、窓に取り付けられた純白のカーテン。上を見上げれば、意味のよくわからない紋様が刻まれている。
「さっさと逃げ出そう。誰の目にもつかない、遠く離れたところへ」
 ゾロアの腕の中は、数える程しか経験できなかった温もりで溢れていた。今の僕は、きっと嘘偽りなく幸せだ。
 廊下はまだ続いていく。やけに長い廊下は見つかってしまうのではないかという不安ばかりを大きくさせていった。だから声だって出せやしないし、息をする音さえ殺したくなる。首輪の装飾が掠れる音でさえ煩わしいと思えた。
 やっと出口らしい大きな扉が見える。これを超えれば僕はまたあの美しいの空の下に出ることができるのだ。でも、確率が五分五分だと言っていた割にはやけにあっさりと脱出できたことに少し不安を感じる。
 それも今となっては些細なこと。僕の胸の内は失った感情は嬉しさを筆頭に、どんどん組み直されていくようだった。
 ゾロアが最後の扉を開く。重苦しい音と引き換えに、僕らは自由を手にした。感動はあまりしない。でも、表現し得ない喜びが胸を温めていくのはしっかりと実感できた。
 僕らは、本当に、本物の自由を手にしたのだ。

 外に出て茂みに入ると、ゾロアは光に包まれながらポケモンの姿に戻っていく。屋敷の塀を飛び越え、すぐのところで僕らは今休憩していた。
 空を仰ぐと、広々としている夜空がうんと体を伸ばしていた。僕もそれを見て、真似るように体をうんと伸ばす。東の空からだんだんと赤色に染まっていく。もう少しで朝日が見れるのだろう。
「これからどうしよう」
 ゾロアが呟く。僕の答えは決まっていた。
「一緒にどっかに行こう。一緒に美味しい木の実を食べよう。一緒にたくさんの場所に出かけよう。一緒に水色の空の下で暮らそう。……ほら、こんなにたくさんやりたいことがあるよ」
 僕の方を見てゾロアがそうだね、ってにこやかに笑う。僕もつられて笑顔になった。
「オマエ、今幸せそうな顔してるな」
「そう?」
「おう。今までみたいな作り物じゃない顔をしてる」
 ゾロアには僕が笑顔を作っていたこともお見通しだったようだ。もう何もかもが見透かされているような気さえする。
「まったく。ゾロアにはかなわないなあ」
 他愛もない、平凡な会話。それが僕にとっては初めての経験で、とっても楽しくって。
 ゾロアの頬を尻尾でくすぐってみた。柔らかい皮膚の感触が伝わってくる。こうやって家族以外のポケモンと触れ合うのも、僕は初めてだ。こんな平凡なことも、僕はまだ体験できていなかったんだ。
 ゾロアと一緒になら、どこへだって行けるように思える。今はくすぐったくて身を悶えさせているけど、僕はゾロアがいなかったらこんなこともできなかったんだ。感謝しないといけない。
 一緒にいるから、もうこれからは僕の体の色なんかどうでもいい。僕は、僕だからだ。ゾロアはそう認めてくれる。
 朝日が東の空から顔を出す。はっきりと太陽の暖かさを感じる朝がやってきた。いつもならこの頃にご主人様――いや、あいつが起きてきて僕の体を眺めるんだ。思い出すだけで嫌になってくる。僕はどうしてあんなに長い期間、それに耐えていられたのだろう。
「ゾロア」
 尻尾でくすぐるのをやめて、僕は真剣な眼差しになった。ゾロアはまだ笑い声を上げていたけど、僕が真剣になっているとわかると、すぐにゾロアも真剣になる。
「ありが――」
――。
――――。
――――――。
――――――――。
――――――――――。――――――――――。――――――――――。
――意識は、絶えた。


 僕の桃色の体を見て嘆き悲しむゾロアを、僕はあの水色の空から見守っていた。何が起こったかなんて単純明快。僕は死んだ。あの首輪のせいで。
 ゾロアの言葉が僕の魂に反響する。死の間際に聞き取った、やりたいことがあったんだろという言葉が。
 そう、これから僕はゾロアと共に平凡に暮らしたかった。
 もっと一緒にいたかった。
 ありがとうって、言いたかった。
 でも、死んだ僕にはもう全部無理なことで。
 どうして僕は特別だったのだろう。平凡なことをして、平凡に生きたかっただけなのに。ただ、他のポケモンと同じように生きたかっただけなのに。
 だから、僕は死んでもなお、僕を特別にした自分の体が大嫌いだった。
メンテ
ガラスを割る反発。それを防ぐ葛藤。 ( No.15 )
日時: 2013/04/14 23:17
名前: 逆行

 テーマA:ガラス





 この、なんか、妙な、息苦しい、難解な、疲れる空間が、嫌になったのは、いつからだろう。
 恐らく、最初から嫌だった。嫌だったけど、そのことに、今まで自分で気付かなかった。そんな状況に陥っていたのかも。私の思考は固定されていた。あるいは限定されていた。
 学校がこんなにも嫌いな人は、私だけだろうか。
 学校は、私達を抑圧してくる。みんなと同じ制服を着させられ、似たような髪型になるよう指導される。更に先生達がめいめいに、自分の考えを押し付けてくる。その考えに従わないと、何度でもそれを唱えてくる。
 それだけならまだいい。問題はここから。先生達は、私達を抑圧しておきながら、それでいて、自由に伸び伸び生きろと言ってくる。自分の考えを持てと言ってくる。ふざけるな。自由にさせないのは、そっちじゃないか。矛盾もいい所だ。
 こんなことを垂らしてみると、先生達は何と言ってくるか。それも大体分かる。彼らの普段の言動から、割と安易に想像が付く。
『人はね、完全に自由な環境では、持っている力を発揮出来無いんだ。色々制約があるからこそ、人は能力を最大限に引き出せる。だからね、学校という環境には、幾つものルールが有るんだよ。其のルールの中で君達は行動し、そして考え方や生き方を見つけなさいと言っているんだ』
 こういう意見に付いては、うん、私は、上手いこと反論できない。けれども何か、モヤモヤが残る。引っ掛かるものがある。それは確か。しかし、そのモヤモヤを上手く、言葉に表わせない。悔しいけど、まだ子供だから、頭が追い付かない。論理的思考力というものが、恐らく不十分なのだろう。
 だけど、ちゃんと反論できる頃には、私もすっかり大きくなって、大人の色に染まってしまっていて、この意見に反論する気が、欠片も起きなくなるのかもしれない。だから、幼さが残る今のうちに、何とか反論できるようにしたい。でも、できない。やっぱり難しい。

 ……と、ここまで私なりに、ずいぶんと突っ張ってみたはいいものの、結局大人達の意見を論破することができず、私は途中で勢いがなくなって、ひどく情けない状態になってしまった。はい、いきなり痛々しくてすいません。すいませんすいませんすいません。
 このように私達は、大人達に反論したくても、反論できないことがある。そうして悔しさやモヤモヤした気持ちが蓄積していく。その気持ちを消化するために、不良になる人がいるんだと、私は思う。何とかして反発したい。反論ができないなら、反発をすればいい。
 うん、それも一つも手だと思う。私もその手を使いたい。私だって、悔しさやモヤモヤした気持ちに、堪えきれなくなることがある。時には泣きたくなることもある。だから思い切って、不良になってしまおうかと、度々思うことがある。
 でも、それはできない。私には、それはできない。だって怖いから。悪い子だと思われるのが、堪らなく恐ろしいから。それに、急に変わった私を見て、いったい何があったんだと思われるのも怖い。じろじろ見られる視線も怖い。そんな、自意識過剰な恐怖心。自分でも本当に情けない。でも、本音はこうなんだ。情けないけど、どうしようもないんだ。
 今日、学校のガラスが割れた。放課後、隣の教室から割れる音がした。何人かが見に行ったけど、私は見に行かなかった。なぜなら私は、今日ガラスが割れること、そして誰が割ったのかを、あらかじめ知っていたからだ。ガラスを割った張本人は、今私の隣にいる。その人は明美という名前で、うちの学校の不良の一人だ。
 彼女は反発の意思を込め、ガラスを割った。後にくるしっぺ返しにも怯えず、(私から見たら)正々堂々と行動した。それに比べて私は、心の中では反発したい、ガラスを割りたいという意思があるくせに、いざやるとなると、怖気づいてとてもできない。だから不良以下だ、私は。行動が伴わないのは、一番の格下だ。もちろん、思ってなければいいよ。心の中まで純粋で、逆らおうなんで微塵も思わないで、それでガラスを割らないのは、何の問題もない。というか、それが一番理想だ。けれど私は、思ってるくせにやらない。心が歪んでるくせにやらない。
 不良は反論できない人の逃げ道。その逃げ道からも逃げている私は、いったい何なのだろう。

「長いよ」
 突如私の耳に声が届いた。言ったのは例の、ガラスの割った明美だ。考えごとをそこで止めて、明美の方を見た時、彼女は呆れ顔になっていた。
「あ、ごめん」
「長過ぎるよ、本当に。いつまで考えごとしてんの。まだかなーまだかなーって、私ずっと待ってたんだよ。私何回も読んだのに、全然反応しなかったんだよ、君は」
「どうもー葛藤大量生産です!」
「誉めてねえよ!」
 私は考えごとをすると、よく止まらなくなってしまう。そのまま深く深く考えて、そして周りの音が聞こえなくなる。今のように声をかけられても、気付かないことが結構ある。私のこのくせは有名で、学校中に知れ渡っていた。おかげで私は、「葛藤のメタボリック症候群」などと言う異名が付いた。むしろ痩せてるのに。
「私何話してたか覚えてる?」
 長時間メイクを施したであろう浅黒い肌と、凶器のように鋭く光る金髪も相まって、明美の声はひどく鋭利に感じられる。私はたまにびくっとしてしまう。
「加藤がうざいとか」
「偉い、良く覚えてた! アイツうぜーんだよ。髪の色おかしいとか靴下が変だとかさ。あいつハゲだから私の髪に嫉妬してんの。まじうける。あいつ今頃ガラスの掃除してる!」
「ハハッ、うざいよね、加藤」
 私はいつのまにか、人に好かれるための技術を身に着けていた。誰かが嫌いな人を、一緒になって嫌う。これをすんなりできるようになった。明美と話をする時には、先生の悪口を一緒になって言う。もちろん、先生は呼び捨てで呼ぶ。おかげで私は、不良達からいじめられたりすることもない。いじられることはあるけど、基本的には仲良くやっている。そして私は、成績も結構良くて、表面上は素直を演じているから、先生からもえげつないほど気に入られている。
 不良と先生、両方から好かれるのは難しいのに、私は難なくそれができている。それも、嫌われたくないという気持ちが強いからだ。
 その後、私と明美は話を続けた。明美が話して、私が同調して、それが長々と続いた。私は早く帰りたかった。しかし、そろそろ帰るね、って言うタイミングがなかなか掴めない。私はそれすらも言えないのだ。


 ようやく話が終わり、私は帰宅した。自分の部屋に行く途中、母に晩御飯何がいい? と聞かれた。私は何でもいいと答えた。すると、何でもいいじゃ分かんない、と返された。私は少し困る。本当に何でもいいのだから、これ以外に答えようがない。何か適当に答えとこうか。しかし、なんかそれも恥ずかしい。結局私は黙りこむ。その間に母は、台所に行ってしまった。母の機嫌を少し悪くした。胸がチクリと痛んだ。
 部屋に入って、パソコンを開いた。いつもの呟きサイトにログインした。学校へ行っている間のタイムラインをざっと眺める。授業中に呟ける人はいないから、タイムラインの流れは遅い。そんな中、大量に呟いている人が一人。ポケモントレーナーで、学校に行っていない、あの人だけは頻繁に呟いていた。『ポケモン捕まえたなう』とか、『RTされた分だけ手持ち晒す』とか、そういった事を呟いていた。どの呟きも、トレーナーの生活感がありありと現れていた。 
 私は、この人みたいになりたいと思っていた。すなわち、トレーナーになりたいと思っていた。
 トレーナーになりたいと思う理由は、二つあった。
 一つは、至極純粋無垢な理由。私はポケモンが好きだから。ポケモンと一緒に生活してみたいといつも思っていた。ポケモンの種族名は全て覚えていた。そのポケモンが覚える技も、ほとんど記憶していた。
 授業中も時折、ポケモンのことを考えていた。世界史で瀕死のガリア人が出てきて、ポケモンのことを思い出し、数学でラプラスの定理が出てきて、例の水タイプを思い出し、化学で『電気と静電気の違いは何ですか』と先生に聞かれ、『タイプと特性の違いです』と心の中で答えたりとかしていた。
 もう一つ、理由があった。こっちの理由は、結構複雑だ。

 この世界には二種類の町がある。トレーナーとして旅立つことに肯定的な町と、否定的な町だ。私の町は後者だった。ただし、どちらかと言うと、だ。みんなそんなおおっぴらに、トレーナーになるななるなと、声に出しているわけではない。しかし、胸の内では、嫌悪感を抱いている。トレーナーという存在を、心の中では毛嫌いしている。そんな感じ。
 胸の内で思っているだけでなく、さり気なく態度で示すこともある。先生達はトレーナーの話を滅多にしない。たまに、トレーナーを皮肉るような発言もすることがある。誰かがトレーナーに関する質問をすると、『私はパジャマ替わりに着てます』って、冗談で誤魔化す先生もいた。ポケモンに関係のある授業はあったが、トレーナーとして旅をするための知識を教える授業はなかった。学習指導要領として、必修で定められていたのにも関わらずに。後にこのことが問題となり、夏休みに補修をやることになった。
 ある人の親は、テレビでトレーナーが出ると、チャンネルを変えることはしないけど、テレビのボリュームを五段階くらい落とすらしい。他の家はどうなのかと聞く。どこの家も、トレーナーの話題は出さないと言う。
 住民の様子がこうであるから、当然町の様子もそれに合わせる。ポケモンセンターは昔あったけど、いつの間にか無くなってしまった。今ではそこにしまむらが立っている。フレンドリィショップは一応あるけど、定員が全然フレンドリィじゃない。そして品揃えが最高に悪い。ほとんど便箋しか置いてない。
 なぜみんな嫌いなのか。理由は分からない。昔の風習が残っているのか。そんな風習あったのか。
 とにかくこの町の人達は、トレーナーが嫌いだった。私の父と母も例に漏れず、トレーナーが嫌いだった。嫌いだけど、決して口に出しては言わない。要するに、腫物を扱うような感じになっていた。
 自分のことを棚に上げるけど、思ってるなら声に出して言えばいいのに。やっかいな人達だ。
 そんな町に住んでいるから“こそ”、私は反発したいと強く感じ、トレーナーになってしまえと思うようになったのだ。これが、二つ目の理由。うん、実に複雑だ。
 私は反発心がどこまでも強かった。しかし私は、同時に臆病だった。私には、ガラスを割るのが恐ろしい。トレーナーになりたくても、なる勇気がなかった。だって、確実に嫌われるから。親に怒鳴られるかもしれないし。
 本当なら、十歳で旅に出れば良かったんだろうなあ。その頃だったら、周りの目は気にしなかっただろうし。少数ながらトレーナーになった人はいるから、流れに乗って行けるし。でもぶっちゃけ、十歳で旅なんて私は無理だと思う。なぜできる人がいるのか、不思議でしょうがない。私なんか、初めて一人で電車に乗ったのが、十一歳の時だったし、一人で旅なんかできるわけがない。十五才になった今でギリギリだと感じる。でも今からだと、トレーナーになりづらい。だらだらと五年も学校へ行って、その後にトレーナになるのは、「こいつ将来のことちゃんと計画してんのか」って言われそう。理系クラスに行ったのに、文系の大学を受験するような感じ。そんな理由で、ただでさえなりづらいのに、余計なり辛くなってる。

 ………………。

 …………。

 ……。

 またやってしまった。私は考え込みすぎだ。葛藤を大量生産し過ぎだ。呟きサイトの書き込みから、どんだけ思考を飛躍させてんだろう。時間の無駄遣いにもほどがある。いつの間にか外暗くなってるし。パソコンも付けっぱなしだし。
 葛藤が長いのも問題だ。葛藤して答えが出るならいいけど、答えなんて出たことはなかった。大概は、ずっと悩みっぱなしだった。悩めば悩むほど、悩みは深刻になっていく。何の意味もない作業になる。私は葛藤なんかせずに、スパッと決められるようにならないといけない。

 
 母の晩御飯を告げる声がした。下に降りた。席に座り御飯を食べ始めた。我が家では基本的に食事中はテレビを付けない。だから誰も話さないと、リビングに沈黙が走る。人はみんな沈黙が嫌いだ。私も沈黙は大嫌いだ。沈黙になると、背筋がぞくぞくしてくる。思わずその場から逃げたくなる。
 そんな恐ろしい状態にならないよう、集団では常にしゃべり続ける役目を、誰かが担わなくてはいけない。我が家ではその役目を、私が担ってる。暗黙の了解で。子供である私が、一番空気を読んでいる。
 しかし、今日は珍しく、父が率先して話していた。おかげで私は、あまり話さずに済んだ。会社で良いことでもあったのか。やたらと機嫌の良い父は、アルコールの力も相まって、どんどん口から言葉が湧き出る。
 そして、父はやらかした。勢い余って父は、タブーな話題を出してしまった。
「同僚の子供が、四月からトレーナーになるらしい」
 一瞬だけ、母が顔を驚きの色に染めた。次にふーんと言いながら若干下を向いた。何か言いたそうな目をしていた。
「なかなか積極的なんだなあ。あの家は」
 言いながら父は、口をもごもご動かした。片手で頭を掻いた。母の様子を見て、しまったって思っている筈だ。
「一人で旅するんだもんね。大変よね、いろいろ」
 母は少し嫌味っぽく言った。そして沢庵を箸で掴んだ。
 そこから誰も話さない。リビングに沈黙が走る。沢庵を噛む音だけが響く。あ、これはやばい。この空気の重さは尋常じゃない。学年集会で普段大人しい先生が、みんながうるさいのに切れて怒鳴った時に匹敵する空気の重さだ。
 私の食べるペースが速くなった。早く自分の部屋に戻りたい。米を噛みながら、父親を恨む。全く、勢い付いたからといって、何やってんだろうか。だから私に任せて置けばいいのに。
 実は私は密かに、暴露する覚悟をしていた。トレーナーになりたいと、ぶちまけてしまおうと思っていた。で、父がトレーナーの話題を出した。その後の空気で、あーこれは駄目だ、となった。普通の空気でも言いにくいのに、この状況で言えるわけがない。
 仕方がない。今日は無理だ。言うのは明日にしよう。私はそう決意した。……けど、明日私は言うのだろうか。なんか明日も、言うのは明日にしようって思いそうだ。そうしてどんどん引き伸ばして、一年くらい経ってしまいそう。じゃあいつ言うか? 今でしょ! いや、でも、この空気じゃ。
 全く私は。反発する度胸がないなら、最初からやろうとしなきゃいいのに。ガラスを割る勇気がないなら、最初から割ろうとしなきゃいいのに。打つ気のない銃は、地面に置いた方がいい。


一週間後。
 うん、やっぱりこうなった。未だに暴露をしていない。
 明日にしよう明日にしようと引き伸ばし続け、遂に一週間が経ってしまった。部屋の窓から外を見る。近くの公園に植えてある桜の木が、私に焦りをひしひしと感じさせる。旅立つなら三月中じゃないといけない。桜が咲き終わってからでは遅い。新学期が始まる前の方が行きやすい。
 明日こそは、明日こそは絶対に言おう。言わなきゃ駄目だ。


 一週間後。
 どうして私はこう何だ。なぜ言えない。私はあらゆることに怯え過ぎだ。反発したい気持ちがあるのに、反発する度胸がない。ガラスを割りたいと思うのに、割る勇気がない。やるやる詐欺の名人芸。もはや笑えてくるレベル。
 自分を嘲るのはよそう。それならさっさとガラスを割れ。桜の蕾はじきに膨らむ。早くしないと間に合わない。じゃあいつ割るか。今でしょ。……でも。
 その”でも”っていうのいらない。私は葛藤に努力値を振り過ぎなんだよ。たまには何も考えないで突っ走ろよ。クズが。
 駄目だ。自己険悪何かしても、何の意味もない。少し部屋を掃除しよう。一度気分を入れ替えよう。
 私は机の中から掃除を始めた。ここが一番汚い。燃えるゴミの袋に入れていいのか、それとも本と同じように重ねて縛らなきゃいけないのか分からず、使い終わったノートがたくさん溜まっている。
 ノートを引き出しから出し、とりあえず重ねていった。それがほとんど終わった時、奥の方から、表紙が破れているノートを見つけた。あっと思った。昔の記憶が、突如として降ってきた。
 ノートの中身を確認する。やっぱりそうだった。これは、私が昔書いた小説だった。
 私は昔趣味で、小説を書いていた。何か良く分からないけど、小説を書くのが好きだった。頭の中にあるのをインプットするのが、なぜだか心地良かった。
 ノートには六作の短編が書かれていた。恐る恐る、最初から読んでみた。字が汚過ぎたけど、何とか読めた。そうして読んでいるうちに、書いていた頃の記憶が次々と蘇ってきた。
 ブラックで残酷。そんな話を書くのが好きだった。私はポケモンを使用した、残虐な話ばかり書いていた。リザードンで町を燃やしたり、ストライクで人を切り刻んだり、やりたい放題やっていた。お前本当にポケモン好きか? と疑われそうなことを書いていた。もちろん、ポケモンは好きだ。それは胸を張って言える。ではなぜ、黒い話ばかり書いていたのか。そういう変態性癖もなかったし。もっと明るい平和な話を書くべきではなかったか。
 やっぱり私は、昔から反発の意思が強かったのだ。世の中に反発したい。逆らいたい。その気持ちが強いから、黒い話ばかり書いていた。やらかし精神が尋常じゃなかった。
 ここに書かれた小説は、誰にも見せなかった。一度ネットの掲示板にでも、投稿しようかと考えたことはあった。しかし、結局投稿しなかった。私は恐れていた。こんな黒い話を書いている作者は、きっと性格も黒いんだろうと思われたくなかった。
 表面上はまじめ、純粋を装っていて、心中では反発の意思を抱いていることは、絶対に内緒にしないといけない。私は内緒にするために、ノートの表紙を破っていた。このノートを、授業用のノートだと勘違いして学校に持っていって、知らないうちに誰かに盗み見され、そして周りに言いふらされることを、警戒していた。表紙を破っていれば、間違えて持っていくこともない。人に好かれるための技術を身に着けていない当時の私は、学校でひどくいじめられていて、かばんの中とか平気で荒らされていたから、盗み見される可能性は十分あった。

 私はどんどん読み進めた。二つの意味で黒歴史であるそれは、私の頬を時折赤く染めた。
 全部読み終わった時、ひどく情けなくなった。今日までこの気持ちを、引き出しの奥にしまっておいた自分を情けなく思った。
 反発したい気持ちがあるのに、反発する度胸がない。ガラスを割りたいと思うのに、割る勇気がない。
 私はそれを、今度こそ打開する。
 私は決めた。
 たった今、はっきりと決意した。
 明日こそ言おう。トレーナーになりたいと言おう。恐らく駄目だって言われる。うん、それでいい。そう言われればいいんだ。とにかく、言うことが大事なんだ。ガラスを割ろうとすることが、必要なんだ。 

 一週間後。
 どうして私はこう何だろう。何このオチ。良い加減にしなよ。どんだけ引っ張る気だよ。桜の蕾も膨らんできてるよ。早く行動しなさいよ。
 絶対に、今日言おう。自分に言い聞かせ、ベッドから起き上がる。即、私は旅立つための準備をした。決意が歪まないように、あらかじめ準備しておこうと思ったのだ。
 早朝七時。まだ親は寝ている。今のうちだ。音をなるべく立てないよう、こっそりと準備をしよう。
 ……違う! ばれていいんだよ。堂々とやればいいんだよ。どうせ後で言うんだから。駄目だ。私の中で気持ちの矛盾が発生している。
 今できる準備は全て終えた。その後、親に言うべき内容を紙に書いた。それを暗記しようとした。
 不安しかなかった。私の言動が原因で、誰かの心が激しく揺れる。それが堪らなく恐ろしい。思わず体が震えてしまう。
 それでも、無理矢理にでも、言わないといけない。恐らく、駄目って言われるだろう。うんそれでいい。言われればいい。そしたら諦めが付く。決着も付く。
 
 
 ああ! 何で私はこう何だろう! もう夜の九時になってしまった。
 座ってテレビを見てる父。その隣に座ってる私。はい、後は口を開くだけ! 早く言え早く言え。自分を必死に追い立てる。私は遂に口を開けた。父の前で、さっき自分の部屋で、何度も復唱した文を、一字一句間違えずに、落ち着いて、丁寧に、言った。
 言った。私はようやく伝えられた!
 父は一瞬、戸惑った顔をした。それだけで、私の心臓は少し縮む。そして、父は、一呼吸置いてから、言った。
「好きにすればいいよ」
 それは、私が一番言って欲しくない、言葉だった。
「いいの?」
「お前はお前のやりたいようにすればいい」
 次の瞬間、あの嫌な、沈黙が走った。背筋が凍り付く。思わずその場から逃げたくなる。
「好きにすればいい。父さんは何も言わん。お前の人生だ。自分で決めろ」
 呼吸が荒くなるのを、必死で堪えた。私は気付いてしまった。父の口元が、微かに歪んでいることに。その表情は、私の脳裏に鮮明に焼き付いた。
 好きにすればいい。本当にそう思っているのだろうか、って疑ってしまう私は、人を信用しなさ過ぎなのだろうか。何て言ったらいいんだろう、この怖さ。母に晩御飯何がいいと聞かれて、何でも良いとしか答えられない時にも、これと同じ種類の恐怖を感じた。何もない空間に、地図を渡されて放り出されるような。自由なようで、縛られている絶望感。これなら駄目って言われた方が、まだ良かった。安心できるから。
「私もそう思うわ。もう子供じゃないんだから、自分で道を決めなきゃ駄目よ」
 母は微笑みながら言った。でも少しその言葉は、嫌味っぽく聞こえた。
駄目なら駄目って、良いなら良いって、はっきり言ってよ! 怒ってるなら怒ってよ! 私のことを殴ってよ! 私の手を無理矢理引っ張ってよ!
 これ以上、私を怖がらせないで。
 そして、誰もしゃべらなくなった。もはや沈黙は凶器となり、私の胸を思いっきり刺してきた。

 沈黙に堪えきれず、部屋に戻った。頭を抱えて自分を責めた。自己険悪の渦に取り囲まれた。
 せっかく決意したのに。もう悩まないって決めたのに。史上最悪のヘタレですか私は。反発したいと思うのにやらない。ガラスを割る気があるのに割らない。ずいぶんとタチの悪いヘタレだ。何これ。いつまでも甘えてんじゃないよ。好きにすれば良いって言われたんだからむしろ喜べよ。
 懊悩としている私の耳に、うっすらと、唸るような声が聞こえてきた。父の声だ。
「何やってんだよ。お前がちゃんと叱らないからだろ」
「私はちゃんと叱ってたわよ」
「じゃあ何で、あいつはトレーナーになりたい何で言うようになったんだ。最初は冗談かと思ったよ。でも、あいつの目を見たら違ったんだよ」
「あなたがこの間、トレーナーの話をしたからじゃないの」
「何でそれぐらいで気持ちが変わるんだよ。おかしいだろ。やっぱり、お前の教育が悪いんだろ」
「何で全部私のせいなの」
 娘に聞こえないよう、大きい声を出さないように気を配る喧噪は、じわじわ私の心を握り潰してきた。
 全部、聞こえて、いるんだよ。
 ああ、やっぱり! やっぱりやっぱりやっぱり! 
 だから、言えば良いのに。面を向かって言えば良いのに。言えばちゃんと従うから。
 私は耳を塞いだ。声は聞こえなくなった。けれど、さっきの会話が頭の中を駆け巡る。何度でも私を刺してくる。

 助けて。








 今日は桜が満開だった。桜の蕾は見事に開き、棒立ちの木を飾っている。春の生暖かい風に吹かれて、淡い桃色の花びらが華麗に舞い、私はそれに包まれながら歩く。
 空は晴れない。比較的雲量が多く、太陽がほとんど隠れていた。雨が降りそうで降らない、執拗に黒ずんだ中央の雲がうっとうしい。
 ポッポ達が気持ち良さそうに空を飛ぶ。たとえ雲量が多くても、捕まえる人がいない町の空は、さぞかし居心地が良いことだろう。

 この先を真っ直ぐ進む。すると町から抜ける。草むらを通らずに、次の町に行ける道を教えてもらった。そこを通っていく。そしてその町の博士、ではなく、その助手の人が出張で来ているので、その人からポケモンを受け取る。そこでようやっと、私のトレーナーとしての生活が始まる。

 もう振り返らないと決意した。決して前向きな決意ではなく、振り返ってしまうと、後悔するかもしれないからそれで。
 旅立とうかどうか、直前まで悩み続けていた。悩んで葛藤して、答えが出なくて、最終的に、このまま家にいても居辛いし、どうせ辛いなら予定通り旅立った方が良い、というふうに無理矢理結論付けた。家から出る時は辛かった。親と真面に、目を合わすことすらできなかった。気まずいを通り越していた。元気良く旅立つ娘を演じようとしたけど、ちょっと無理だった。
 私は振り返らず、歩いた。歩きながら、ふと思う。私がトレーナーになったことを知って、学校のみんなは何て思うのだろう。何て感じるのだろう。
 もしかしたら、ばれてる? 私が反発の意思を持ってることが、ばれてる? それはまずい。誰か一人にでもばれていたら、みんなに言いふらされる! 私の思考が、見透かされる。私の正体が、暴かれてしまう。

 私は我に帰った。私ったらまた葛藤してる。散々葛藤したのに、まだやるつもりか。体が振り返らなくても、気持ちが振り返っていては仕方がない。考えるのは止めよう。心を無にしよう。

 私はまた歩き始めた。歩きながら、ふと思う。私の親は今この時間、何て思っているのだろう。こんな娘、産まなきゃ良かったって、思っているかもしれない。どうしよう。私帰る場所がない。
 やっぱり私は、止めた方がいいか。親に嫌われてまで、旅に出る必要なんかない。でも、やっぱり行きたい。昔からの夢だったし、反発もしたいし。臆病な自分を振り切りたいし。でも……怖い。
 
 私は我に帰った。おかしい。私の葛藤が終わらない。なんで。どうして。

 私は本当に反発したいのだろうか。もしかしたら、もっと別の、動機があるんじゃないだろうか。ただたんに、学校が嫌いだから、学校に行きたくないから、じゃないのか動機。いや、それは違う。確かに学校は嫌いだったけど、直接的な動機はそれじゃない。私は反発がしたいんだ!
 
 ああもう! 何でまだ終わらないの! くど過ぎるよ! しつこいよ! これ以上引っ張らなくていいから。もう葛藤のHPとっくに切れてる! ただのわるあがきになってる!
 
『あんたには失望したわ。あんたこと仲間だと思ってたのに、この八方美人が。死ねよ。ポケモンに殺されて死ねよ。っていうかあんたがトレーナなんかになれるわけないでしょ。そんなんでポケモンに信頼されると思ってるの。馬鹿じゃないの』
 明美の声が脳内に突如として再生され、私は思わずびくっとしてしまった。あの鋭利な声は私の鼓膜を突き破り、心臓までも突き破ってくる勢いだ。
 うるさいうるさい。明美は関係ないでしょ。何を偉そうに。私のことは私が決める。関係ない関係ない。

 もうわざと引き伸ばしてるでしょ! 私はわざと葛藤を長くして、旅立つのを遅らせようとしてるんだ。もしかしたら親が来て、喰い止めてくれるんじゃないかと、密かに期待しているんだ。馬鹿じゃないの。喰い止められたら、トレーナーになれないじゃん。
 とにかく! もう葛藤止めろ。

 反発したいと思うのに、反発する度胸がない。ガラスを割りたいと思っているのに、割る勇気がない。私はとんだ矛盾を抱えている。

 それ散々悩んだやつだから! もういいよ! 私はそろそろいい加減にした方がいい。さっさと腹をすえるべきだ。これ以上悩んだって、何の意味もない。何の答えも出ない。

 私は甘いんだよ! 反発したい気持ちなんかで、トレーナーになるなよ。軽率にもほどがあるぞ。いいか、トレーナーっていうのは大変なんだ。そんな軽い気持ちで旅立ったら、この先絶対後悔するからな!

 十分悩んだ! 十分葛藤した! だから全然軽率じゃない! ようやく町から出たよ! 早く行こう! 足止まってるよ! 早く早く早く!

 私は何をやっているの。反発なんかしてどうするの。そんな中二病は今すぐ止めろ。もっと健全な道は行けばいいのに。何でわざわざ横道を通ろうとするの。意味が分からない。

 駄目だ。全然消えない。葛藤する私が、全然消えていかない。どうして私はこう何だ。ガラスを割ると決めたのに、心から強く決心したのに、やっぱりまだ悩んでいる。嫌われるのが怖いんだ。怒られるのが怖いんだ。この臆病者! 仕方ないなあ、私は。
 
 そもそも私は、誰に向かって反発しようとしているんだろう。学校? 親? 世の中? 分からない。何も分かってないんだ私は。自分のことも。何もかも。

 まだ終わらないのか。本当に仕方がないなあ、私は。でも、私は、そうやって生きていくしかないんだ。葛藤して葛藤して、導き出した答えさえも疑って、更に悩んで、そうして出した答えを半信半疑で信じて、そして一歩ずつ、いや0.1歩ずつ、無理矢理進んでいくしかないんだ。
 これから旅をしていくうえで、色々悩むことがあるんだろう。私のことだから、目の前にガラスが現れる度に、私を批判するたくさんの声が聞こえてきて、そしてひどく葛藤するんだろう。それを考えると本当に苦しい。絶望しか感じない。
 私は本当に情けない。反発をする勇気がなくて、それでも反発がしたくなって、しかしできないで葛藤して、結局答えが出ないまま、振り切れないまま次に進む。私は愚かなのだろう。私はなんて駄目な生き物なんだろう。それでも、これから、私はずっと付き合うよ。どうも、葛藤大量生産です。
 
 反発することは正しいのだろうか。何が正しいのか分からない。そもそも、正しいことなんてあるのだろうか。分からない。私は何も分からない。 
 私はこれでいいのだろうか。反発なんかしていいのだろうか。自分の意思で決めたことだ。……でも。
メンテ
ガラス職人 ( No.16 )
日時: 2013/04/14 23:55
名前: プラネット

テーマA「ガラス」

 男が手を動かす。作業服を身に纏い、不精髭が似合う男。外見だけで言うなれば、四十代であろう。
 そんな男が手にするのは一本の棒。その先端にあるドロドロの液体を見つめて、彼は自分の仲間――ポケモンに指示を促す。
「ブーバー、そのまま火力を上げてくれ」
 ひふきポケモンのブーバーに指示を仰ぎ、ブーバーが火力を調整するように炎を吐く。それに合わせるように男は棒を回転させていく。そしてすぐさま、棒を炎から遠ざけると、
「ヒヤッキー、頼む」
 ほうすいポケモンのヒヤッキーがその言葉を受け、棒の先端に向けて水鉄砲を放つ。一瞬にして、先端は冷却し、固形化する。だが、冷却した固形物を見た男は納得がいかない面持ちで棒を床に叩きつけて固形物を破壊した。
「駄目だな、こりゃ」
 男はため息をつくように、独り言を零す。既に時間は迫っているのだ。これ以上、悩む時間はない。急いで『依頼品』を完成させねばならない。
 彼はガラス工芸職人なのだから。

 しかし、その男も元より職人だったわけではない。
 寧ろ彼はその年になるまで定職にも就けないいわゆるフリーター、という奴だった。ポケモンフードといった生活用品を販売するショップのバイトを長年経験する一支店の店長。だが、そんな生活に飽き飽きしていた。そこへ職人として働いていた父が倒れたという一報が入ったのだ。男は急いで駆けつけた。
 だが、父は仕事が残っていると入院せざる得ない状況でも職場に戻ろうとしたのだ。一流の職人として依頼された仕事は完璧にこなす。そんな父の背を見た男が、父にこう言い放った。
「なら、その仕事を俺にさせてくれ」
 勿論、大激怒された。男自身もなぜそんな事を口にしたのか分からない。ずっと父の背を見て育ったからだろうか。父同様に逃げたくなかっただろう。仕事から。
 だが、それ以上に父の容態はそこまで芳しくなかった。手術をしなければ命が危ういと医者には言われた。しかし、手術をすれば父の仕事はキャンセルしなければならなくなる。
 なら、自分がやるしかないだろうと。
 激怒する父を必死に説得して、一ヶ月依頼主に期限の延長を申し出た。依頼主は元から父と縁のあった人物だったようで、こちらの事情を聞くとすんなりと了承してくれた。だが、それ以上の延期はできないとも通告されてしまった。
 そこからは父と息子の猛特訓である。医者の許可を得て、息子の修行を父が手伝う。ブーバーとヒヤッキーは元々、父のポケモンだったのだが、トレーナーとして修行に出ていた事が幸いして、二匹は割と早い段階で男の指示を受けてくれた。
 しかし、肝心の技術面が深刻だった。作品と手術の期間を考えれば、特訓は出来て二週間。残りの二週間で、男は一人、依頼品の完成をさせなければならない。
 そしてその依頼品はワインボトルだ。運よく、透明のボトルで良かったため、そこまで深い技術は必要なかったものの、それでも必要不可欠と言わんばかりの技術は必要とされた。
 残り三日。男は未だ完成には至っていない。

 床一面には未完成と判断されたワインボトルが散々としている。そしてブーバーやヒヤッキーも、並ではない労力を強いられているせいか、息が絶え絶えだ。男は考える。父ならきっと、効率よく且つ、作業をテキパキ進められるのだろうと。しかし、自分は父とは違うのだ。技術も何もかもが父とは違って足りていない。
 なら、どうすればいいのだろうか。
 男は思案する。しかし、考えは纏まらない。とにかく、作業を再開した。
 だが、無駄になっていくのは時間と労力。そしてガラス作成の原材料。男のストレスはいよいよ頂点に達していた。うまくできない。どうしてだろうか。なぜこうも完成に至らない。そんな時、父の言葉を思い出した。
「作業する時は時間も見てやれ」
 時間。つまりは間合いという事だろうか。
 間合い。タイミング。男はそこでハッと気付いた。自分のテンポはもしかすると全て一段階遅いのでないかと。だから、完成には至らず中途半端にドロドロになってしまうのではないかと。
 僅かな希望に賭けて男が作業を再開した。
「ブーバー、ヒヤッキー、悪いがもう少し力を貸してくれ」
 二匹は快く頷いてくれた。男が再び作業を再開する。
 タイミングは一瞬だ。
 男のタイミングよりワンテンポ早く全ての動作を行う。そこに全意識を集中させていく。一回の出し入れ、冷却で作品は完成しない。何度も炎の中へガラスを入れ、調整し、冷却する作業を続ける。
 形が整い始めてきた。もう少しだ。男はようやくコツを掴めた気がした。

 作品は完成した。手術が無事に成功した父に男は完成品を見せると、父はまたも大激怒だ。まだまだ甘いと。だが、こうも口にした。
「よくやったな」
「親父には敵わない」
「よく言う」
 男はある一つの決意を自らの親に相談する形で問いかけた。
「この職人芸、後を俺が継いでいいか?」
「願い下げだ。どうせ本気じゃないんだろう、好きにしろ」
 父はフン、と鼻を鳴らすように顔を背ける。『好きにしろ』という言葉は構わない、という意味だ。口癖というやつである。
「よろしく頼む、親父」
「せめて師匠と言え!」
 男のガラス職人の道が始まる。あの時の疑問を口にするなら、きっとこうだろう。

 自分も結局のところ、職人なのだからと。
メンテ
もりのはた おやのはた ( No.17 )
日時: 2013/04/14 23:55
名前: コメット

テーマB:旗


 幾歳の時を経て育ったのか分からないが、そんじょそこらの建物よりは遥かに高く天に届きそうなくらいの年輪を刻んだ大樹がシンボルとなる森がある。突出したその古株の周りには、若々しい木々が取り囲んで広大な森を形成している。この大自然の中には多くのポケモンが棲息しており、大樹の恩恵を授かってのびのびと暮らしていた。そこから離れた位置に人間達が村を構えたのも、昔から大地と共にある大樹は知っている。少しずつ開発が行われ、人間が力を及ぼす範囲が広くなってきている事も。
「あーあ、つまんないなー」
 そんな自然に囲まれた立地の良い一軒の家の中。天気も快晴で出かけるのには申し分ないと言うのに、一人の少年は暇を持て余していた。居間の畳に大の字で寝転がり、雨戸を開放して外から流れこんでくる風を受ける。しかし、野に咲く草花の匂いを運んでくる爽やかなそよ風も、無気力状態の彼を突き動かすほどの影響力は無いらしい。
「何してるんだよ。こんな昼間からだらっとしてさ」
 仰向けになっている少年の顔を覗き込むようにして、別の少年が現れた。突然の来訪者に驚くこともなく、むしろ溜め息と共に膨れっ面をして見せる。いつからそこにいたのだと言いたげだが、それを言うのも億劫なようである。
「本当は父さんが遊びに連れて行ってくれる予定だったんだよ。だけどさ、何か都合が悪くなったとかでだめになって、手持ち無沙汰になったってわけ。まあ、大人なんて勝手だよね」
 手をひらひらとさせて不機嫌そうにする。よほど父親に約束を破られたのが気に入らないのか、言葉の端々には力が篭っている。だが、怒りよりも失望の感情が先行しているようで、そうでなければ、親しい間柄であっても一応客人が現れたと言うのに、頬杖を突いたままそっぽを向いたりなどしない。
「じゃあさ、ちょっと気になる事があるんだけど、おれに付き合ってくれよ」
 ふてくされている少年の事などお構いなく、いきなり遊びに訪れた少年は一層声を張り上げた。ここで追い払っても良いのだが、気晴らしか手慰みにでもなるかと思い、軽く頷いて続けさせる。率直な話、遊び半分の調査に協力してほしいと言う旨であった。実はここ最近、村の中で冷蔵庫内の食料が盗まれると言う事件が多発していた。しかも決まって野菜ばかりがごっそりと消えており、神隠しにあったのではないかと面白がる者もいれば、次は自分の家が狙われるのではないかと動揺する者もいる。しかし、その話題を持ち出すのは子供ばかりで、村の大人達は何食わぬ顔で過ごしている。一部ではコソ泥が周辺に潜んでいるのではないかとの噂も飛び交い、平穏そのものだった集落に波紋が広がっていた。物音が聞こえた時に駆けつけた者もいたが、残っているのは荒らされた跡だけで犯人の痕跡は微塵も無いらしい。退屈凌ぎに良いと思ったのか、ようやく体を起こしてやる気を出す。
「お前は犯人が誰だと思う?」
「犯人かぁ……。案外ポケモンだったりして」
「やっぱりそう思うか? おれも森のポケモンが怪しいと思ってたんだよな。第一さ、大人が何も対策を講じようとしないってのが変なんだけどさ」
 縁側に座って足をぶらぶらさせている少年たちは、事の深刻さには目もくれずに好奇心で心を満たしていた。無地の白い半袖シャツに茶の短パンといった具合に軽装の少年は、床に手をついて前方に軽く飛んでみせる。振り向きざまに見せる真っ白な歯を並べた悪戯っぽい笑み。これにもう一方の少年は見覚えがある。ポロシャツと七分丈のパンツを身に着けた少年は、すっくと立ち上がって同じ表情を鏡のように映して見せる。
「そうなれば、まずは正体を明かさないとね」
「おれに良い考えがある。奏人、手伝ってくれないか?」
「もっちろん。要る物はそれぞれに用意しよう。じゃあ、もう一度夕方に落ち合うって事で良いね、当真」
 互いにやると決めたら行動は早かった。当真はそのまま自宅に向けて一目散に駆け出し、奏人は近くのテーブルの上に置いていたモンスターボールを片手に、当真とは別方向に走っていった。



 空という名の天のキャンバスには、いつの間にか青を塗りつぶすようにして赤紫色が広がっていた。ほんの数時間前までは白い光を放っていた輝く恒星も、遠くの山に降りている間に纏う衣を変えて、昼間とは全く雰囲気の異なる世界を演出している。不気味さを孕んだ美しい夕空の下で、小さな少年達は誰もいない草原に繰り出してじっと佇んでいた。まだ太陽が頭上にある内に仕掛けを作ったのだ。古びて使わなくなった冷蔵庫を借りて台車で運び、仲の良い農家の老人達に余った野菜を分けて貰い、中に半分ほど詰め込んだのである。しかし、これだけでは罠とした冷蔵庫に食いついてくれるとは限らない。だからこそより森に近いところに設置する事で、その確率を上げようとしている。
「上手く引っ掛かると思うか?」
「さあ。でも、やらないよりは良いでしょ。何より、ぼくたちが楽しんでるってところもあるからね」
 時間の経過に伴って、日も傾いて夜の帳が下り始めた所で、二人は近くの茂みへと身を潜める。まだ暮れ始めだけあって周囲の鮮やかな色も視認出来ているが、影の占める部分も増え始めた事で、集落の家々には明かりが灯っていく。幸いにも暗くなっても気温が寒くはならず、夜の見張りにももってこいの気温が保たれている。
「これで来なかったら無駄骨だよね」
「来るさ。ここ最近ほぼ毎日出没しているんだからな。――ほら、噂をすればおいでなすった」
 半ば冗談のつもりでここまでの運びを行っていた奏人としては、まんまと自分たちが作ったものに誘い込まれた者がいる事が予想外だった。胸の高鳴りを抑えきれずに真犯人を見極めようと動こうとするが、脇にいる当真に制止される。
「今ここで動いたら、おれたちが隠れている意味が無くなるだろう。黙って見てようぜ」
 ほんの目の前で影が動いているのは見えるが、その正体までは掴めない。ただ間違いないのは、何者かが半開き状態の冷蔵庫の扉を開け、中をまさぐっていることである。現場に立ち会っていることに興奮してしまうが、本当の目的を突きつけられた事で、奏人も渋々ではあるが了承する。
「でも、あの背格好だと確実にポケモンだよ。一体何のつもりでこんな事をしているのだろう」
「言葉が分かるわけじゃないんだし、おれ達には理解できないさ。おおかた食料の確保とかだろ。それより見ろ、持てるだけ持って移動を始めたぞ」
 冷蔵庫から再び姿を現したその者は、遠目に見てもそのシルエットが現れた時より膨らんでいる。どのようにして運ぼうとしているのかは窺い知れないが、ともかく森に向かって影は進み始めていた。
「まだ早いかな。こっからだと上手く行ったのか見えないんだけど」
「焦るな焦るな。成功はしてると思うんだ――たぶん」
「たぶんって……。まあ、いっか」
鋭い奴だったら尾行しても気づかれそうだから――そんな当真の提案で追跡用に仕込んでいたのが、一個のモモンの実であった。少し切れ目を入れた状態で大きな野菜の中に忍び込ませておき、匂いが外に溢れ出すように細工を施している。しかし、人間の嗅覚では到底遠くからは感知できないため、もちろんそこはポケモンの力を借りる予定であった。当真はポケットから取り出したモンスターボールの開閉スイッチを押した。光の粒が零れ出して姿を形成していく。地面に降り立ったのは朱色の毛並みを持つ犬のような容姿をしている。
「ガーディ、モモンの実の匂いを追ってくれるか?」
 主人の頼みに応えようと、ガーディは威勢よく「がうっ」と一吠え。しかし、その元気は好ましいものではなく、慌てて当真が口を押さえる。張り切りのあまり失敗したのだと感じてしゅんとするガーディだったが、当真に頭を優しく撫でられたことで機嫌を直す。
「さあ、気を取り直して頼むぞ」
 また声を上げようとしたところで思い止まり、ガーディは鼻をしきりにひくひくとさせて消息を追い始める。まだ天からの光は届いてはいるが、いつ真っ暗闇になるか分からない。暮れなずむ夕日にしばらくその場に留まって欲しいなどと起こり得ない事を祈りつつ、二人も足元に注意しながら忍び足でガーディの後に付いて行く。辿り着く先は分かっているのだが、普段は家に篭ってばかりで刺激の少ない生活を送っていた二人にとっては、今自分達がやっている事に胸を躍らせていた。むしろ何か起きて欲しいとさえ思うほどである。
「何か冒険みたいでわくわくするな」
「そうだね。でも、もう一時間ほど経ったら暗くなっちゃいそうだけど……」
「どうかしたのか?」
「いいや。親が心配してるかなあって思ったけど、約束を破ったお返しだ。帰るの遅くなっても良いかなって」
 まだ父親に対する不満は消えていなかった。それが無ければここまでしなかったかもしれないが、奏人にとってはそれだけ根に持つものらしい。森への入り口に立った時点で違和感を覚えていた。それが何なのかは分からない。だが、ガーディも嗅覚とは別のところで何かを感じ取っていたようで、すっかり立ち止まっている。
「そんなに深く考え込むなって。ほら、あんまりこうやって探検する機会なんて無いだろ? 少しは楽しんでいこうぜ」
「そうだね。じゃあ、僕の相棒にも出てきてもらおうか」
 せっかくだからと、奏人も手持ちのボールを取り出してポケモンを召喚する。人間と似た体躯をしたリオルという種族で、何もない暗闇の草原に呼び出されてわけも分からず立ち尽くしている。しばらくきょろきょろした後で改めて主の姿が確認できると、ぴったりと寄り添って離れなくなった。
「そんなに戸惑わなくても良いよ。一緒にこの奥に進もうってだけだから」
 俯き加減だった顔を上げると、見上げる状態で、かつ薄暗い中でも奏人の優しい笑顔がリオルの瞳にはっきりと映った。この種族が感じられる波導によって裏付けられた思いを受け取り、リオルは不安げな色を引っ込めて首肯する。二人と二匹は、小道へと足を踏み入れた。



 ガーディの案内の下、細い枝葉によって縁取られたアーチを突き進む。先までどっしりと立っていられた草原とは異なり、森の中は完全に獣道であった。苔で滑りやすくなった地面に加え、ふと道を逸れれば次は茂みに分け入る。目的など今は頭の片隅ほどにしかなく、すっかり散策を楽しんでいた。それぞれの相棒は手助けをして道を切り開いていく中で、少しずつ主人に感化されていく。木と木の細い隙間を抜けようとすれば、イトマルが張ったであろう小さな蜘蛛の巣が顔にべったりと張り付いた。目も開けられなくなって立ち往生していると、当真が後ろからけたけたと笑い声を上げる。
「ガーディの炎で取ってやろうか?」
こっちは必死なのにと奏人は怒りたくなるが、それとは対照的に自らも笑っていた。糸が顔に絡みつくのが気持ち良いわけではない。“べたべた”と“ねばねば”の中間にあるような不快な感覚で、手で払おうとしても今度はそっちにくっついて腹立たしいことこの上ない。楽しいと感じるのは、こうして気の置けない友人とのやり取りが楽しいからであった。家で一人の時間を過ごすようになってから、久しく感じていなかった。一人の時間が良いと思っていたが、今になって気づく。外に出て歩くのも悪くない、何と無駄な時間を過ごしていたのだ――と。
「そうやって笑ってばかりいると、お返しだ!」
 思いを巡らしている間にゆっくり丁寧に回収できた分の糸を、油断しきっている当真の顔にくっつける。思わぬ奇襲にあって、次は当真が苦しむ番であった。助けてくれなかった報いだと奏人が立場を逆転して嘲笑する。ひとしきりもがくのを愉快そうに見ていた後で、助け舟を出してやる事にする。くだらないけど、くだらなくない。ひとつひとつが新鮮で、心を弾ませてくれた。しかし、寄り道ばかりしていられないのも事実で、目的を果たすためにもやっと本題へと戻って先を急ぐ。
開けたところで飛び込んできたのは、首を擡げないと全容が見えない巨木。地面に深々と突き刺さって伸びている根の一本一本だけでも、周囲に立ち並ぶ幹一本分はあろうかと言うほどである。四方に広がる樹冠は天からの暖かな光をことごとく遮る中で、ほんの一部の侵入を許している。その光が空間を明るく照らしており、その一部が降り注いでいる樹木の根元には、明らかに自然の物とは思えない物があった。神秘的な雰囲気に呑まれて先の泥棒の事など忘却の彼方にある奏人と当真は、駆け寄ってその正体を確かめる。
「これ、布切れか?」
「みたいだね。しかもぼろぼろで古い感じがする」
 苔だらけで何色かも分からなくなっている布を恐る恐るつまみあげる。中央には模様が描かれているようであるが、放置されていたために進んだ侵食によって識別は不可能となっている。
「誰か遊びに来た子供が捨てていったのかな」
「さあな。でも、この森に入っていく子供って滅多に見ない気がするけど。そもそもここって何か近寄りがたい場所で、何か別称で呼ばれていたような――」
 当真が記憶の引き出しに手を掛けたところで、奏人の脇に控えていただけのリオルがぼろきれに興味を示し始めた。頻りに触って確かめたかと思えば、次は目を閉じてそれに向かって腕を翳す。集中している時の証として、両耳近くの滴状の房を小刻みに動かしていた。そして一連の行動を終えると、何かに気づいたように大樹の周りを時計回りに歩いていく。ちょうど布が落ちていた位置の反対側まで来た辺りで、不審に思って追いかけた二人も追いついた。リオルが真っ直ぐ視線を向けているのは、誰かがこの幹に力ずくで穿ったのかと疑ってしまいそうな、綺麗にぽっかりと空いた穴であった。
「今度は謎の空洞か。しかもおれ達二人が入っても余裕が出来るくらいの広さだな」
「うん。ところで、君はどうしてあの布をいろいろ見てここに来たの?」
『うふふっ。それはね、その子が何か感じ取ったからだよ』
 風でざわついていた木の葉達が一斉に音を奏でるのを止めた。同時に奏人でも当真でもない声が木霊する。無邪気な子供のように甲高く澄み切った声であった。辺りを見回しても発信者らしき人影も無い。そもそもここに来るまでポケモンの一匹にも出会わなかった事を思い返すと、やけに不自然だった。だが、その違和感を追求する間もなく、二人と二匹は先まで届いていなかったはずの眩い光に包まれた。瞼越しにそれが止んだのを感じて目を開いた時に見えた光景は、それまでと同じく特に何も変わっていない。先程の声の主たる姿もあるわけではなく、不思議そうに視線をあちこちに動かす。
「あ、これはもしかしてさっきの布か……? にしては随分と綺麗になって、竿に付いて立っているけど」
「そんな、同一の物のはずはないでしょ。こっちはどう見たって旗って感じだし」
 たった一つだけ、目立つ違いを見つけた。しっかりと地面に突き立てられた棒に括り付けられている白い布は、二人が見つけた物とは似ても似つかないほどに綺麗なものである。面影は残っていても、同一のものだとは判別しにくい。この綺麗な方の中央には青と黒、赤と白でぐちゃぐちゃに何か描き殴られている。そこまでは分かっても、どうして修復されているのかの糸口にはならない。この謎の現象に頭を悩ませていると、遠くの方から男児のものと思われる高らかな声が聞こえてくる。それは木霊していたのとは異質のもので、徐々に大きくなって二人のところに届くようになる。誰かが近づいてきているのだと分かると、何となく近くの茂みの中に身を隠してしまった。
「今日もここで遊ぼう!」
「いいぜ、ここには俺達の秘密基地があるんだしな!」
 二人組の少年が駆けてきた先は、旗が目印になっている根元の空洞であった。その後ろには奏人たちのように一匹ずつポケモンを伴っている。どちらも見覚えのある馴染み深い種族で、自分達の後ろに座り込んでいる二匹の方を振り向いて何回もしつこく見比べる。見間違えではないと分かると、驚きのあまり声を出してしまいそうになるが、お互いに口を塞いで事なきを得る。しかし、顔を見合わせてぽかんとするしかなかった。とりあえずはしばらく二人を観察することにする。
「それでさ、聞いてくれよ。父さんったらさ、休日だから野球でもしようってこの前から約束してたのに、急に用事が出来たなんて言ってすっぽかしたんだ。だから大人って嫌いなんだ」
 当真はくすくすと忍び笑いをしながら隣にいる奏人を小突いていた。当の本人は小声で「分かってるよ」と言って顔を赤らめる。いつまでもからかおうとしてくるのがうっとうしくなったのか、はぐらかすようにして目の前の少年たちの会話に耳を傾ける。
「まあ、そりゃあ酷いよな。でも、こうやって俺といるのが嫌ってわけじゃないだろ?」
「ああ、当然だ。ちょっとは父さんの代わりになるかな?」
 軽い冗談を飛ばせるのは仲の良い証拠。奏人と当真も羨ましく思えるほどに、会話をしているだけでも、そしてたった二人でもとても楽しげだった。持って来ていた荷物を一旦“秘密基地”の旗の下に放り投げると、ポケットに入れていたボールでキャッチボールを始める。
『さーて、そろそろ良いかな。じゃあ、次に行くよ!』
 二人がひそひそ声で話そうとした途端に、またしても上方から光のベールが降りてきた。為す術もなく身を任せると、盛んに遊んでいた少年たちの姿も声も無くなっていた。あまりに突拍子が無さ過ぎて頭が追いつかないままではあるが、とりあえず元の位置に戻ってきたのかと安心して立ち上がろうとする。
「懐かしいな、ここ」
 だが、次は聞き覚えのある声が耳に届いた事で体が硬直し、結局は再度藪に潜り込む事となった。固唾を呑んで待ち構えていると、背の高い青年二人組が雑木林の向こうから歩いてきた。二人の記憶にある人物とは多少異なるが、今しがた脳裏に焼きつけた姿と照らし合わせてみると、二つあるイメージのちょうど中間くらいであった。言葉に出さずとも、奏人と当真は同時に頷いて相手の思いを確認する。その間にも距離を詰めてきており、立ち止まったのはもちろん神木のような重厚さを放つ緑樹の手前。腕組みをして立つ二人の表情はしかし、先刻の少年達とは正反対であった。そんな気持ちに呼応しているかのごとく森もいささか暗く感じる。
「俺達は忙しくて構ってやれなくなるかもしれないけど、せめてお互いに良い遊び相手になってくれていると良いな」
「ああ、そうだな。本当は親であるオレ達が相手をしてやるのが良いんだろうし、オレ達もずっと傍で成長を見守ってやりたいんだけど」
「まあそこは、俺達は影で支えてやる役目だからって事で我慢我慢。それに、子供のためなら、どんな仕事も苦じゃないよな」
 沈みがちに見えた二人の面持ちは、大木を前にして互いに向かい合った時には晴れやかになっていた。その笑顔は昔のものと全く変わっていない。年を取って大人になっても、精神的に成長しても、本質的なところは同じままである。二人のやり取りを見れば、表に見えるものだけでない事も窺える。
「でもな、そのせいで子供に嫌われるのは嫌だと思わないか? 仕方ないと言えば仕方ないだろうし、オレ達も子供の頃に経験した身ではあるから、別段問題は無いけどさ」
 遅れて付いてきていた相棒のポケモンも、各々一段階上に進化を遂げていた。見た目は変わろうとも、人間もポケモンの方も、互いの関係は変わらない。主人が溜め息を吐いて不安そうな色を浮かべているのを見て、ルカリオは黙って寄り添っている。子供の事で心を悩ませ、哀愁を漂わせている青年を目の当たりにした奏人は、飛び出さずにはいられなくなった。どんな結果になろうとも良い。今は難しい事を考えるのはなしにして、思いを伝えることが先決だと腹を括って。
「あ、あの、おじさん!」
 しかし、“父さん”と呼びかけなかった辺りは冷静だった。
「他人の僕が言うのも何だけど、たぶんその子は嫌ってなんかいないと思うよ。言葉には出せないかもしれないけど、でも、心の中ではすごく感謝してるはず」
「ほう、君にそんな事が分かるのか?」
 盗み聞きしていた相手に対しても、動揺せずに柔らかい物腰で問いかける。悟っているのか、単に付き合ってあげているだけなのか。奏人には知る由も無かったが、どちらにしてもやる事は変わらない。激しい胸の高鳴りを感じつつ、からからに乾いた口から必死に言葉を紡ぎだす。
「あっ、それは、その――上手く言えないんだけど、僕も同じ事を経験したから何となく分かると言うか……」
「――そっか。ありがとな、坊主」
 奏人が口篭ったところで、穏やかな口調で一言。相手は自分の事など知っているはずもないのに。ましてや見ず知らずの子供が戯言を並べているだけと捉えられてもおかしくないのに。勢いだけで声を掛けてしまって後悔していたのも、その一言で吹き飛んでしまった。
「じゃ、じゃあ、失礼しました!」
 逃げ帰るように樹木の後ろに走っていく奏人。当真とガーディ、リオルの待つところに戻った瞬間に、見計らったように光の筋が現れ、奏人達はもう疑うことなく飛び込む。視界が開けた時に、既に二人の大人の姿は無く、目の前にあるのは一度目に光に包まれた時に置いてきたぼろきれ――もとい旗だった。今度こそ元に戻れたはずだが、いまいち実感が湧かない。それでも緊張の糸が解けたのか、奏人は地べたに座り込む。当真はその頭を上からぐしゃぐしゃと力任せに撫でる。
「まったく、随分と危ない事をしてくれるな」
「ごめんごめん。つい言いたくなっちゃってさ。面と向かって言うのも恥ずかしいし……」
「まっ、何事も無かったから、そこは一安心だ」
 当真も過ぎた事を責めるのは止めにしたらしい。頭から手を離すと、足元に落ちている旗を拾い上げる。元の姿を見た後だと、おぼろげにではあるが同じものであると認識できる。
「結局今のは時渡りをしたって事か」
「そうみたい。俄かには信じがたいけどね。ところでさ」
「ああ、分かってる。楽しい探検も出来た事だし、今日は帰るか」
「うん、でもまた来よう。今度は僕達の秘密基地にするための旗を持って、ね」
 長年生きてきた大樹に宿ると言われる妖精の悪戯か気まぐれか。訪れた者を時を越えて過去の世界に誘うと言う。通称“子供返りの森”と呼ばれている。童心に返るという意味か、子供時代に遡って過去を振り返ると言う意味か、細かいところは定かではない。大人達も一度は同じ経験をしており、村での悪戯もその兆候であると言い伝えられている。それも定かではないのだが、ただ一つだけ言える確かな事は、二人にとってはこの上なく貴重な経験だったということ。大人を理解するための、そして自分たちが大人へと近づくための一歩として。ほんの短い時間ではあったが、彼らにとっては大事な過去を垣間見て、二人は家路へと歩みを進めるのであった。

メンテ
すてぃーるふらっぐ ( No.18 )
日時: 2013/04/14 23:58
名前: レイコ

テーマB:旗




 ハードでスイートなおれさまを待たせるとはいい度胸。この借りはきちんと返させてもらうぜ。れんごく並にド派手な勝利ってやつでよ――
 とまあ三年前のおれなら、のろのろ進む時計の針に向かってこんな感じに虚勢を張ったかもしれねえ。全然周りが見えてないから、“なんだアイツ、あの自分に酔った痛いデルビルは”とドガースとズバットから後ろ指を差されていることにも気づかねえおめでたい野郎だ。思い出すだけで乾いた笑いが出っちまう。あの頃は善事も悪事も関係なく、マスターに自分は強くてすごいヤツだと証明したい一心の見栄っぱりなガキでしかなかった。身のほど知らずという言葉は昔のおれのためにあるようなもんだ。だからこそ、そんなおれを愛すべきバカとしていまだ相棒の座から下ろさないマスターの懐の深さには感謝している。ありがとうマスター。すまないマスター。おれはあんたに一生ついていく。あんたの名誉のためなら昔は泣きそうなほど嫌いで仕方なかった長い待ち時間も耐えられる。人畜無害な賢犬のふりくらいどうってことない。
 しかし、やっぱ暇だな。
 マスターは昔の仲間との通信にまだしばらく時間がかかるらしい。足下で敷物みてえに床に寝そべっていたおれに散歩でもしてこいと一人で出歩く許可をくれた。悪いなマスター。物わかりのいいあんたは最高だ。そのお言葉に甘えさせてもらうよ。
 さて、どこへ行こう。このドームの中をほっつくか。今日もいろんな参加者が来ている。そいつらを観察して情報を仕入れるのもよさそうだ。それよりもドームの外に出てひとっ走りしてくるか。運がよければボンドリンク屋のオヤジがサービスしてくれるかもしれねえ。ウォーミングアップにはちょっと早いが、他の参加者と一緒に練習するのはどうだろう。このあいだ未進化グループに混ざろうとしたときはデルビル兄ちゃんの顔がこわいとハネッコを泣かせちまったから、今日はそんなことにならねえようにおれより顔の恐いチームを選ぶことにしよう。グランブルとか、グランブルとか。
「あんたのニオイ、どこかでかいだ気がするわ」
 誰だいきなり。驚かしやがる。ドームの外に出た瞬間、おれを待ちぶせしていたかのように知らないヤツから声をかけられた。知らないといっても体の形や鼻のあたりは親近感を持てるそいつの種族はわきまえている。でもガーディとかいう名前の連中に何度か追いかけられたことのあるおれは、ぱっと見そいつにいい印象が湧かなかった。 
「オレは知らないな。あんたの気のせいだろう」
 そういえばこいつ、女か。なぜだかガーディの性別比は偏りがあるというウワサを思い出した。それは別にいいとして、おれに話しかけたのは一体どういうつもりだ。今まで出会ったガーディはろくでもなかったし、余計な関わり合いにならないうちに引き上げよう。
 そいつは警戒心をむき出したおれを見て笑った。臆病者と見下されようがこちとら真剣なんだ。場合によっちゃおれのマスターに迷惑がかかるんでね。
「あらそう、カン違いなら謝るわ。さっきあんたがポケスロンの常連だって聞いたの。それで話しかけてみたのよ」
 うさんくさいキッカケだ。おれは確かにポケスロンの常連だが、腕の立つ古参なら他にもいる。それにおれは絶賛求職中のマスターが生計を立てる一環として、売れば儲けになるアイテムと交換できるスロンポイントを貯める手伝いをしているだけだ。別に好成績を収めて輝かしい栄誉が欲しいわけでもなく、動機が不純だといわれて常連内でも評判がいい方ではない。てめえ、やっぱり他の理由があっておれに言い寄ってきたんじゃねえのか。
「今日はご主人と一緒に初めてポケスロンを観に来たのよ。いつか挑戦するつもり。あんたとはいいライバルになるかもしれないわね」
 なんて口のでかい女だ。完璧になめられている。顔が恐いと泣かれたほうがまだマシだ。今までの疑いが全部どうでもよくなるくらい、まともに相手するのが一気にバカバカしくなったぜ。
「そうそう。あたしのニックネームはアクセルよ」
 こっちはさっさと話しを切り上げてえのに、一方的に名乗るとかありえねえだろう。でもアクセルか。スピードの速さを願った人間がつけそうな名前だ。おれのマスターのセンスにゃ及ばねえが、悪い響きじゃないな。
「生憎、怪しいヤツには名乗らないようにしてるんだ」
 これでいい。こう言っておけば大抵のヤツは不機嫌になってもう話しかけてこなくなる。おれのカッコイイ名前を聞かせて張り合うのも捨てがたかったけどな。今回は最善を取らせてもらう。
「じゃあ勝手に呼び名を決めるわ。そうね、デルビルだからビルでいいわね」
 ウソだろ。コイツどこまでしたたかなんだ。したたかすぎる。しかもそこはデルじゃないのか。デルはどうでもいいのか。お前はガーディだからディでいいと言われて満足なのか。おれならガーのほうが若干納得できるぞ。
おっと、いけねえ。名前ぽっちに熱くなってねえで、いいかげん本気で会話を打ち切ろう。頭ごなしに怒鳴っても通じなさそうだからな、ここは適当に理由をつけてあっちから離れていかせるんだ。頭を使え、おれ。
「お前のご主人はどこだ。ご主人を探しに行ったほうがいいんじゃないか」
「いい質問ね。でもいいの。姫の居場所はわかっているから。それよりあたし、あなたともっと話しをしていたいわ。ねえ、ポケスロンのことを教えてよ」
「何言って――」
 ポケスロンドームの自動ゲートが開き、中からマスターが出てきた。それも見知らぬ人間の女と一緒に。や・が・るの三音が訳の分からないうちに喉から蒸発していた。おれのいない間に何があったんだ。マスターにカノジョができればいいと常々思っていたがさすがの急展開に目ん玉ひんむいて動揺しちまう。そしてガーディが謎の女に向けてある一声を放った瞬間、今日一日の出来事の中で堂々のワーストが決定した。
「あらご主人様」



 それからちょくちょくマスターの付き合いで、嫌でもおれはそのガーディと顔を合わせる羽目になっちまった。おれのマスターとガーディのご主人は気の合う友達といった関係だ、今のところ。ご主人はおれにも優しくしてくれる。楽しそうな二人を見るのが最近のちょっとした楽しみになりつつあるとはいっても、やっぱりあのガーディだけは解せない。長い待ち時間もそうだが一度苦手意識をもつとなかなか抜け出せねえタイプなんだ、おれは。
 今日もおれ達はポケスロンドームで待ち合わせ。気のせいかご主人はこの前よりもおめかしに気合いが入っている。お空の陽気が心の陽気か、はたまた別の心境の変化か。そういうおれのマスターも今日はいい靴履いてるんだけどな。マスターとご主人が談笑している間、おれとガーディはドームの外の練習場をぶらつくのが暗黙のルールと化している。本当は調子の狂うコイツのふたりきりになりたくねえが、ズバットは直射日光に弱いしドガースもモンスターボールに引きこもっているほうが好きで、ガーディはそもそも仲間がいない。だから結局いつもふたり固定だ。
 いや、やはり可哀想だからあの爆発野郎もカウントしてやるか。ポケスロンの練習場につくとグラウンドにはほぼ必ずアイツがいてやがるんだ。うるせえマグマラシがな。ニックネームがないのを実は気にしているらしく、短くマグと呼んでいいぞと種族名の長さにかこつけて周りに呼ばせている。火を噴き出していない時は地味なことも気にしているようで、くだらねえインネンをつけてきてはそのたびに発火する。あとはそうだ、ポケスロンドームの目と鼻の先にあるコガネシティの常設ジムジムリーダー、アカネのミルタンクにメロメロころがるコンボを破るのは楽勝だったと自慢していたが、新メンバーの女ワンリキーきんにくの一人勝ちで出番がなかったという説がポケスロン常連の間で常識となっている。ようするに非常に面倒くさいマグマラシだ。最近それに輪をかけて面倒くさくなったのも、全部ガーディがマグマラシを惚れさせたのが悪い。
「次はエンジュジムを攻略してやるぜ。オレの炎でマツバのゴーストも黒コゲだぜ。どうだアクセルちゃん、オレの爆炎の極意を知りたくないか。そうすりゃアクセルちゃんの炎ももっともっとすごくなるぜ」
「ありがとう。間に合ってるわ」
 ガーディに笑顔でナンパを一蹴されたマグマラシは、頭から炎を吹き上げたかと思うとおれに八つ当たりしてきやがった。
「何見てんだてめえ。いつかてめえの得意なスティールフラッグでぎゃふんと言わせてやるからな。見てろよ」
 暑苦しいな。見るなとか見ろとか注文の多いヤツだ。その前にまず他の種目で旅仲間のトゲチックやモココに助けられてばかりなのをなんとかしろ。話はそれからだ。
「ビルのスティールフラッグ、いいわよね」
 ガーディも夢見る乙女のような瞳で言うな、気持ちわりい。にしてもビルですっかり定着しちまったのが妙な気分だ。こんな事ならあの時きちんとニックネームを教えたほうがよかったかもしれねえ。
「騙されちゃダメだぜアクセルちゃん。こいつは悪タイプでどろぼうが得意なだけなんだ。ちょっとテクニックが高いだけの汚い旗泥棒だぜ」
 競技を根本から否定するようなことをよく平気で言えるな。でもこのバカっぽいところが昔のおれによく似ていて憎めねえ。
「どろぼう、ね……」
 あのガーディがしおらしく小声でつぶやくのを聞いて、おれはまさかと思うが念のために弁解しておいた。爆発野郎もたまにはちゃんと誤解のタネをまけるのか。なんだ、口八丁も意外と油断ならねえんだな。
「どろぼうが得意なのは認めるけどな、ポケスロンで不正をしたことは一度もないぞ」
「じゃあなんでオレは正々堂々と勝負してお前に勝てねえんだよ」
「知るか。実力差だろ」
 マグマラシがまたドッカンした。もらいびのおれに炎は効かないのに何度やっても学習しねえ。逆にすごいぜ。



 思うに、おれのマスターはコーチの才能があるんじゃないだろうか。ガーディもそのご主人もめきめきと力をつけている。特にスピードはアクセルの名にふさわしく、うちで一番俊敏なズバットが感心するほどだった。基礎についてはもうあのガーディをポケスロンの素人とは呼べない。
ポケスロンの参加条件を満たすには最低でも仲間があと二匹いる。ある夜おれがその話をすると、アクセルはいかにもすました態度で答えた。
「ご主人様次第ね。あたしは従うだけ」
「競技に参加したいんだろ」
「したいわ。すっごく」
 アクセルの顔が一瞬感情的になったのを、おれは見逃さない。
 近くにいたニドラン♂とニドラン♀の間で突然笑いが起きた。夜の練習場は一転して浮かれたカップルのたまり場になっちまい、真面目な話しをするにはつくづく適さない。
「人間に言葉は通じねえが、お前が頑張りを見せればご主人も……」
「ダメなの」
 存外はっきり言われて、ちょっと面喰らう。
「ポケスロンに出るために特訓してるんだろ」
「あたしはご主人様の道具も同然だから、余計な期待をしちゃだめなの」
 なんだって。
 なんだよ、それ。
 おれの敏感な鼻の奥が、少し遅れてつうんと痛む。
「今なんつった」
「あたしはご主人様の便利グッズ」
「意味わかんねえよ」
「分かってもらえるとは思わないわ」
 分かるわけねえだろ。いつも仲良さそうなのに。お前はご主人をそんな風に見てたのかよ。おれの前で自分の気持ちにウソついてたのかよ。うわごと言ってんじゃねえと吼えたい気持ちが膨れあがる。今ならまだ許せる。冗談だと言ってくれ。
「ごめん、道具は言い過ぎたわ」
 おれの顔を見てこれはまずいと判断したのか、急に謝られた。
「でも感情を抑え込まなきゃいけないのは本当だもの。好き嫌いで選り好みしちゃダメなの。あたした、あたしは……ううん。あのご主人様はね、たくさん手持ちを持てるほど器用じゃないから」
 釈然としない微笑みを浮かべて、アクセルは前足でグラウンドの土を蹴った。

 マスターとご主人が解散した後、おれはマスターに無断で夜闇にまぎれてこっそりご主人を尾行した。アクセルらしくない空虚な言動がどうしても頭から離れなかった。もしコガネシティと自然公園に繋がるゲートをくぐるまでに何も起きなかったら、ドームに戻ろうと決めていた。前方にライトのついたゲートが見えてきて諦めかけたその時、ご主人が立ち止まって手で目の辺りを拭った。何度も何度も。優しい塩のニオイが風に乗って流れてきた。おれは足音を立てずにその場から姿を消した。


 別の日、おれとアクセルはマグマラシの自慢話に付き合っていた。これが慣れるとちょうどいい暇つぶしになる。他にはいつかのニドランカップル、うちのドガース、常連のヨルノズクなんかが一緒にいた。
「アカリちゃんの命が救えたのはオレの活躍があったからだぜ。アクセルちゃんにもオレの勇姿を見せたかったな。まあ海を渡れたのはラプラスのおかげだけどさ。あればっかりはオレじゃどうにもできなかった」
 自分の弱みを認めやがった。旅を通して少しずつ、コイツも精神的に成長してるんだな。ジムを巡る早さから考えてコイツのご主人は紛れもない天才だろうが、それについていけるマグマラシも相当ポテンシャルが高い。
 その明くる日、マグマラシは大興奮していた。
「勝った勝った。勝ったんだ。ミカンのハガネールをひとりで倒したんだ。そしたらバトルの後で、ハガネールがオレにいいバトルだったって言ったんだぜ。なんか恰好いいよな。勝っても負けてもあんな顔できるようになりてえよ」
 そうでもねえぜ。お前も随分いいツラするようになったじゃねえか、マグ。


 空が冴えねえ。スモッグみてえな色だ。もうすぐ待ち合わせの時間が来るのに、マスターはまだ支度に手間取っている。電話のベルがひっきりなしに鳴るせいだ。元同僚にモーニングコールを喰らい、それが終わると元部下、そして元上司。マスターの口調で話相手が誰か一目瞭然だ。今日はチョウジタウンに行けませんと急な誘いを平に謝って断ろうとしているが、先方の追及は厳しいらしい。約束をすっぽかしたと思わせたくねえのか、憔悴した目配せが先に行けとおれに言っている。あいよマスター。あんたの命令に従うぜ。
 マスターを置いてドームに向かったおれが、ドームのゲート前でご主人を欠いたアクセルを見つけたとき、胸の奥になんとも言えねえ冷たい予感が下りてきた。
「ちょっとご主人様の用事が立て込んでて。遅れそうだから」
 いつしかおれは、マイペースに偽装したアクセルの気持ちを敏感にとらえられるようになって。いつのまにかアクセルは、おれの自覚を超えた域までおれのことを理解するようになって。
「奇遇だな。おれのマスターも雑用に追われていてな」
 お互いが黙認して頭の中を覗き見し合っているような、少しシュールで哀しい時間が流れた。ねえビル、とおれが訂正を諦めたこの世でもう一つの名前が呼ばれる。
「前に、あたしはご主人様の道具だって言ったわよね」
 あの時以来、亡き者にされていた話題が今となって甦るのは緊張で鼻先がむずむずした。
「ああ、そうだ」
「あたしだって、あんたに負けないくらい自分のご主人が好きよ。もちろんぐらつく時もあったけど、ご主人様のことを今までよりもっと大切にしたいと思うようになったの。あんたとあんたのマスターに会えたおかげで、わたしは強くなれたのよ」
 晴れ晴れとして潤んだ瞳に、おれは吸い込まれそうになる。コイツ、こんなにいじらしいヤツだったっけ。アクセルは不意にゲートの段差を飛び降りて、笑顔でおれに振り向いた。
「ねっ、遊ぼう。穴掘りでもかけっこでも。あたし絶対負けないからね」
 きらきら輝く陽のように、練習場に向かって走り出した背中が眩しかった。

 マスター達はいくら待ってもドームに現れなかった。
 夕陽が沈み、夜気が迫ってきても、おれとアクセルは家に帰らなかった。おれは元々長い待ち時間が苦手だ。三年前のガキなおれならとっくに発狂しているかもしれねえ。でも今は、一緒に待てる相手がいる。
 ここでおれ達が待つことを諦めたら、きっとおれ達よりマスターとご主人が後悔するだろう。個人の感情より仕事を優先した今日という日が何を意味するのか。あの二人も分かっているはずだ。ここらで真っ向勝負しねえと、きっと一生逃げ続ける。自分の作りだした影に怯えて、大事な人の前で本当の笑顔を失っちまうんだ。だから、おれ達はここで待つ。このポケスロンのドームで。たとえ、マスターに捨てられることになっても。
 しかし、暇だな。
 似たように暇を持て余したアクセルが、あくびを一つして言った。
「ウソがホンキを食べちゃって、ホンキもウソを食べちゃうの。どう思う?」
 そういう謎かけは嫌いなんだ。
「感じたままに聞かせて欲しいの」
 そういうことなら。
「最後はどっちかが勝つんだろう」
「意外と手堅いじゃない。それじゃあもう一つ」
 アクセルがくすりと笑みをこぼしたかと思うと、おれの耳に口を寄せて囁いた。
「ウソとホンキ、どっちに勝ってほしいかしら」
 がさりと植え込みが揺れた。
「ようビル、アクセルちゃん」
 バクフーンか。ニオイが近くまで来ていたからわかったぞ。
「チョウジジムの帰りか。どうだった」
「ちぇっ、進化して驚くかと思ったのに。結果なんて聞くまでもないだろ」
 今や見上げるような背の高さになったバクフーンは、自信満ちた表情でぽんと胸を打った。
「凱旋ついでに一つ報告があるんだ。どうしてもお前らに知らせたくて、実はみんなの所から抜け出してきたんだぜ。一回しか言わねえからよく聞いてくれ」
 事が重大なほど落ち着いて対処できるようになったんだな、お前。
 おれとアクセルは頷いて、耳を欹てる。 
「オレ、ポケスロンは今度の参加が最後になると思う」
 バクフーンの声には、誇りと覚悟が表れていた。
「これからは狙いをポケモンリーグ一本に絞る。チャンピオンになれる日まで他はおあずけだ。だからビル、最後にもう一度オレとポケスロンで勝負してくれ。参加の予定が合うように出来る限りのことはするから、お前にも協力して欲しいんだ。頼む」
 なあ、バクよ。いつからお前はそんなでかい台詞が似合うようになったんだ。図体とともに志もうんと高くなっちまったのか。その背伸びと言わせねえ気迫はどっから湧いて出てきてる。気にいらねえな。燃えてくるじゃねえか。
「おバカなあんたが頭を下げる日が来るとはね。ここで断ったらあたしはビルを軽蔑するわ」
「へへ。オレはオレの名誉のために、こいつにぎゃふんと言わせてやりてえだけだぜ」
 どいつもこいつも、好き勝手言いやがる。それならこっちも、痺れるくれえはっきり言ってやろうじゃねえか。
「いいぜ。望むところだ」

 ああ、そうだな。
 バク、今のお前ならお前のご主人と一緒に正義の味方になれそうだ。
 かつておれのマスターが所属した組織を壊滅させた少年とその仲間のように。バトルで手合わせした時は遠慮無くぶっ飛ばしてやるからな。
 アクセル、刑事のご主人と頑張れよ。
 義理堅いおれのマスターは昔世話になった元団員のよしみで招集に応じるつもりだからな。アクセルのご主人と同じくらい、マスターにも罪悪感があったんだぜ。許してやってくれ。
 この間にも、ラジオ塔占拠計画は着実に進行している。
 やってやるぜ、ポケスロン!
 おれ達が最後かもしれねえ友情を飾るのに、これ以上最高の舞台はねえだろう!
メンテ
そこはまるでヨスガのようで ( No.19 )
日時: 2013/04/14 23:59
名前: 来来坊(風)

テーマA:ガラス





 警察官のイケズは本来ならその休日を妹の趣味であるポフィン作りを手伝うことで潰すはずだった。最もイケズはポフィン作りなど毛ほどの興味もないのであるが「力がある男の人のほうが、混ぜ続けられるでしょ」と妹に言われてしまっては仕方がない、最近コンテストに嵌り始めている妹にイケズはあまり逆らえなかった。
 木の実を集めて、不似合いなエプロンをして、さあ始まりだと言う時に、電話が鳴った。タイミングが良いのか分からないなと呟きながらそれを取ると、まだ自分が新人であった頃、随分と良くしてくれた先輩からであった。
 今では国際警察の構成員でコードネームハンサムと呼ばれている先輩は、随分と真剣に切り出した。
『イケズ、久しぶりで悪いんだが少し頼まれてくれるか?』
「ええ、僕に出来ること出れば何でもしましょう」
 その気持ちに偽りは無かった、事実そのくらいの事を先輩にはされているし。この先輩からの頼みとあれば妹だってさほど機嫌を損ねず送り出してくれるだろう。
『実はエヌがヨスガに現れたと言う情報が入ったんだが、あいにく今俺はホウエンに居る。すまないが俺の変わりに軽くで良いから聞き込みをしてくれないか。警察であるお前なら市民も快く協力してくれるだろう』
 エヌ、と聞いてイケズは一つ唾を飲み込んだ。エヌとは何年か前にイッシュ地方で暗躍した組織である『プラズマ団』の『王様』であり、首謀者のゲーチスと幹部の七賢者が保護された後も逃走を続けている凶悪犯である。
 警官と言う立場にありながら、イケズはそのような大犯罪者は自分と関わりがないと思っていた、しかしここに来て自分のふるさとであり勤務地でもあるヨスガにエヌが現れたとなると気が張り詰める。
「分かりました。しかし先輩もいずれ来るのでしょう?」
『当然だ、エヌを追い詰めるまでは殺されても死なないつもりだ』
 電話を切り、畏まった口調だった兄に対して少し緊張した面持ちで「誰だったの?」と問う妹に、電話の相手があの先輩だったことと、申し訳ないがポフィン作りに付き合えそうにない事を伝えたイケズは、こんな物つけていられるかとエプロンを外すと、ポフィンの完成を夢見てみながら寝床にいるであろう相棒のガーディを呼んだ。


 『長身でグリーンの髪を後ろでまとめた早口の男』制服に着替えたイケズはヨスガの市民にその特徴を伝え、目撃情報を聞いて回ったが、エヌの姿を見たものはいなかった。田舎町であればエヌのような格好は目立ったであろうが、電子メーカーのキャンペーンボーイであるピエロが昼間から堂々と闊歩するこの賑やかな町では彼の姿も紛れるのだろうか。
 日が傾いて、もう町を一周しようかというころになっても、たった一つの目撃情報も得る事はできなかった。こりゃガセネタ掴まされたかな、とイケズは頭を掻いたが。その時ふと西にある建物が頭に浮かんだ。
 いぶんかのたてもの、その建築物は一応は様々な人々が行き交うヨスガシティの象徴とされていたものの、殆どの住人が興味を持っておらず、イケズも子供時代に何度か悪戯で入ったくらいで、物心付いてからは入ろうとすら思っていなかった場所だった。
 まあ、一応、行ってみる価値はあるかも知れない、軽い気持ちでそう思い、イケズはその方向へ足を向けた。


 何度見ても、いぶんかのたてものは陽気で華やかな町、ヨスガには似合わない厳(おごそ)かな外見をしていた。煌びやかな装飾でゴテゴテさせてはいるものの、どことなく寂しくて、見ているこっちが複雑な心境になる。
 扉を押して、一歩踏み込む、赤い長椅子がずらっと並び、正面にある剣を持った若者のステンドグラスが、赤みがかかった日の光に着色をしている。
 扉を閉めると、ぞくり、強烈な違和感に背筋が凍った。
 先程までは聞こえていた、歓声、子供の無邪気な笑い、感嘆、大人が何かに感心する声、大人が我を忘れて笑う声、そういうものが一気に耳に届かなくなった。たてものの中を支配するのは、無音、無音。
 イケズは窮屈でたまらなくなって、扉を開いた。再び聞こえる絶え間ない声にほっとする。
 心を落ち着かせ、今度こそは扉を閉める。ヨスガで育ったイケズにとって、無音こそが落ち着かないものだった。
 この時間帯は何も開かれていないのだろうか、見渡す限り長いすに座っているのは最前列の女性一人だけだった。
 女性は、あたふたと扉を開け閉めしていた警察官に微笑むと、再び正面に向き直り、ステンドグラスを眺めていた。
 イケズは落ち着けと自分に言い聞かせながら、女性の隣に歩みを進め、椅子に座った。
「失礼ですが、今、お時間よろしいですか?」
 こちらを向いた女性に、イケズは一つ息を呑んだ。程々に大きい目に鼻筋通った、端麗な顔つきだった。それでいて艶やかな長髪は大人しいながらもその女性の魅力を引き出している。よく見ればその服装も白がベースの派手さのない物だ。
「ええ、よろしくてよ」
 いかんいかん、警察官が市民にうつつを抜かしてどうする、と頭の中で自分を叱責し、イケズは続ける。
「エヌという人物の目撃情報を求めています。『長身でグリーンの髪を後ろでまとめた早口の男』に心当たりはありませんか?」
「エヌという人物を知ってはいますが、見てはいませんね」
 またか、とイケズは落胆した。どうやら先輩はガセネタをつかまされたらしい。久しぶりに先輩と食事を共にできるかと思ったがどうやら駄目なようだ。
 そうですか、と席を立とうとするイケズに女は続いて言った。
「だけど、きっとここに現れるでしょうね」
 無音なだけに、その声はたてものの中を随分と響きまわってイケズの耳に届いた。始めは意味が分からず、考えをめぐらせたが、やはりよく分からなかった。
「ええと、それはどうしてでしょう?」
「彼のやったこと、存じています。そして彼のやった事は決して人とポケモンの道から外れたことでは無いからです」
 ますます意味が分からない。
「あのステンドグラス」
 女は正面にある巨大なステンドグラスを指差した。右側では剣を持った若者が立っており、左側では折れた剣を握り締めた若者が何かに許しを乞うている。
「あれはトバリの神話なんです。剣を持ってポケモンを狩っていた若者は、逆にポケモンに諭され、その剣を折ると言うもなんですけどね」
 イケズには馴染みのない神話だった。もといそもそもイケズは神話に馴染みなど無い。
「この建物を作った人は、真っ先にこのステンドグラスを設計したそうなんです。それほど思い入れのあるもなんでしょうね」
 一息ついて。
「ところで、ステンドグラスって何の為にあるのかご存知ですか?」
 不意な質問に虚を付かれたが、イケズはそれを知っていた、何年か前にはやった日常生活では先ず役に立たない知識を紹介するテレビ番組で知っていたのだ。
「ええ、文字が読めない人にも神話を伝えるためでしょう?」
「ふふ、正解です」
 笑う女に、イケズは悪い気がしない。
「でも、本当にそれだけですか? 他に理由は?」
 繰り返す質問に、イケズは頭をひねる。
「さあ、綺麗だからですかね」
「そうですね、確かに綺麗」
 女はうっとりとステンドグラスを眺める。イケズもそれに続いた。
 幾許か時間が過ぎて、女が「私は」と切り出す。
「私は、ポケモンにも伝えるためなのではないかと思います。ポケモンだって文字が読めないですから」
 はあ、なるほど、とイケズは答えた。確かにありえる話だが、別にだから何だと言った感じだ。
「そういうこと、考えたことありますか?」
「さあ、あまり」
「あなた、ポケモンは持っていますか?」
 ええ、とボールを取り出す。
「警察官ですから。ガーディをね」
「あなたは、そのポケモンを愛していますか?」
 気恥ずかしい質問だ。
「そりゃまあ、愛しているか居ないかで言えば愛している方でしょう」
「それはどうして?」
 気付けば、女から笑顔は消えていた。
「そりゃ、相棒だからです。強くて、いざと言う時に市民を守れる」
 それなら、と女。
「それなら、強くないポケモンを、愛せますか?」
 ん、と言葉を詰まらせる。
「美しくないポケモンを愛せますか? 賢くないポケモンを愛せますか? 何も無いポケモンを愛せますか?」
 急な質問に答えが出ない、そんなこと考えたことが無かった。
「人と、ポケモンは対等で、助け合う存在。それはトバリの神話も、シンオウの神話もそうなんです」
 女は続ける。
「でも、今の人たちはそれを忘れているんです。自分の都合が悪かったら愛すのを辞め、勝手に自分達のほうが上だと決めて、ポケモンの優しさに漬け込んで増長している」
 そんなことは無い、とイケズは否定しようとした。しかし、上手い言葉が浮かばなかった。
「トバリの神話と一緒、剣を持った若者がポケモンを狩っているんです。エヌの起こした事は確かに犯罪かもしれませんが、その動機は理にかなっているし、人々がポケモンをそうやって扱い続ける限りいつでも起りかねないことです」
 ううん、イケズは唸った。そりゃもちろん、ガーディを愛せるかと聞かれれば、先程のように愛せると言えるだろう。しかし、弱いポケモン。市民を守ることが出来ないかもしれないポケモンを愛せるかと問われれば返答には困る。
「私は、人とポケモンは助け合うことができる存在だと信じています。この建物を作った人だってそう、だからステンドグラスでポケモンに語りかけているんです」
「しかしですね、それとエヌとどういう関係があるんですか?」
 涼しい顔で女は答える。
「私はジョウトの出身なんです。私は体に不自由なところがあったので、ポケモンの力を借りていました。今だってそうです」
 そう言って女が右足を二回ほど叩くと、ももから下の部分がぐにゃりと変形し、二つの目と口が現れた。メタモンだ、メタモンを不自由な場所に化かせるという治療法を聴いた事はあったが見るのは初めてだったので、少し言葉を失う。
「だから私は世間とのズレをずっと感じていました。そして旅行の途中に行き着いたのがここなんです」
 もう一度ステンドグラスを見て。
「私だけでは無く、ここにいる人達の半分は別の地方から来ています。誰もここに来る事を目的にはしていなかったのに、まるで吸い寄せられるようにここに行き着くんです」
 イケズは妙に納得した、確かに、そのような事を考えたことの無い自分はこの場所に違和感を覚える。
「エヌもきっと、いつかここに来ます。確信をもってそう言えます」
 凛とした、女の表情。



 ひどく疲れた。
 イケズが家に帰ったのは日が落ちて直ぐだったが、直ぐにでも布団に潜り込んでしまいたい気分だった。
 妹が、顔色が悪いが大丈夫かと心配したが、大丈夫と答えた。
 そういえば、妹はコンテストに凝っていたが、妹は美しく無いポケモン、可愛くないポケモンを愛せるのだろうか。身内の人間だからきっと愛すだろうと高を括るが自信は無い。
 ガーディーをボールから出して、一つ撫でてから部屋に入る、その時ハッハと息をしていたガーディの口の隙間から見えた牙、その気になれば自分の腕の肉なんて簡単に食いちぎることが出来そうな牙が気分を複雑にした。
 ああ、そうだ、寝る前に先輩に電話をしなければならないのだ。イケズは思い出して、小型のディスプレイに手を伸ばしたが、やめた。
 なんといえば良いのだろう「その情報は恐らくガセネタですが、エヌは間違いなくこの町に現れます」といえば良いのだろうか、よく分からない、もう寝てしまおう。
 横になって目を瞑る。
『ポケモンの優しさに漬け込んで増長している』
 女の言葉が頭を回った。
 ああ、そういえば、ステンドグラスの意味を聞かれたときも『ポケモンのため』などという発想はでてこなかった、それはつまり自然とポケモンを下に見ていたのだろうか。
 あの時、イケズは女に対して『すこし、おかしい』と感じた。
 しかし、こうやって冷静になって考えれば考えるほど、彼女こそが正しい様に思うのだ。
 つまりそれは、自分を含むこの世界の大多数が『すこし、おかしい』事になってしまって。
 やがてイケズはその問答の答えを明日、もしくは明後日、もしくはそれよりずっと後に導き出すことをあいまいに誓って、まどろみに意識を預けた。

メンテ
表すは穏やかな海 ( No.20 )
日時: 2013/04/14 23:59
名前: 穂風湊

 青海波とは扇形を幾重にも並べた模様のことで、穏やかな波を表す。その模様の美しさから、古来より風呂敷や焼き物などに使われてきた。有名な役者が劇で使用してから大衆に人気が出たという説もある。
 ここセイガイハでも、名の通りこの模様を使った品が作られていた。主に生産するのは衣服や風呂敷、そして旗だ。
 青海波模様の旗など何に使うんだ、と村の人々は旅の者からよく聞かれた。そもそも旗自体滅多に使わないと。
 話好きな村人達は、茶を用意し、喜んで語って聞かせた。
 確かに旗は日常で使わない。たまに飾りに用いる程度だ。あれは祭りに必要なものだ。大きい旗を作り織物の神様に私達の居場所を知らせる。そして神様にここで織物を作っていると伝えることで、来年もまた良い織物が出来上がるように見守ってください、と祈りを込めるのさ、と。
 年の瀬に行われることもあり、職人達は一年の集大成として一層張り切って取り組んだ。もちろん得意の青海波柄だ。
 そしてもう一つ、セイガイハで盛んなものがある。塰(あま)による漁だ。海の底まで潜り、貝を採って帰る。それを食事に用いたり、他の町に売ることで生計を立てていた。

 しかしそれは少し前の話である。
 近年、海水温の上昇や海流の変化から、採れる貝の量が減少してしまったのだ。
 元々農業は盛んではなく、食料は外の町から購入しなければならない。しかし三方が海、残りは山、と交通の便が悪く、他の都市とは距離があるため、輸入品はどれも高い。
 数少ない資金源であった青海波文(もん)の衣服や風呂敷も、販売量は年々減少していく。
 村人達は満足に食料も金銭も得られず、貧しい生活を強いられるのだった。

 特に若者達はこの生活に満足しなかった。外に出ればもっと良い生活ができる、もっと美味しいものを食べられる、もっと華やかな服を買える。そんな話を商人から聞き、一人、また一人と村から離れ、都会へ出ていった。
 このままでは跡継ぎがいなくなり、村は衰退してしまう。残った村人達はとても頭を悩ませた。生まれ育ったこの大切な村を失いたくない。そのためにはどうすればいいだろうか。
 しかし大人達が昼夜をかけて討論しても、良い案は一つも上がらなかった。



 村に残っている若者の一人にシズイという男がいた。日に焼けた肌に筋肉のついた健康的な体。“海の男”と形容するのが最も当てはまる。彼は人一倍セイガイハを大切に思っていた。空を映す透き通った海、水上水中に暮らす生物の多様性。セイガイハの全てが大好きだった。その気になれば、一週間だって海で生活出来るくらいだ。
 その村が存続の危機に立たされている。シズイも彼なりに賢明に案を探した。
 しかし考えても考えても同じように案は浮かばない。

 そのまま数日が過ぎていったある日の昼頃の事だった。
 シズイは浜辺の波打ち際に座り両手を頬に当てていた。両隣にはダイケンキとフローゼルが同じように地平線を眺めている。
「おはんらはこの村を守るためにはどうしたらええと思う?」
 シズイの問いかけに、ダイケンキもフローゼルもただ首を振るだけだった。
「ない……か。けど悠長に考えてもいられん……」
「何か困りごとですか?」
 後ろから声をかけられた。
 白い上着に薄緑のズボン。顔立ちはどこかあどけない風で幼く感じる。ギャロップに様々な種類の荷物を牽引させていて、商人を初めてまだ数年といったところだろうか。
「おはんも知っとるかもしれんが、セイガイハから若人が次々と出ていってな。このままでは村が危ない」
「はい。耳にしています」
「けんど、何をしたらいいのか全く分からん」
 シズイは大きく溜め息をつく。が、村民でない青年に付き合わせることではないなと思い、この場を去ろうとした。
 その背中に言葉がかけられる。
「僕達駆け出しの商人が一人前になるための方法って分かりますか?」
 問われシズイはしばし考える。
 一分弱思考し、降参した。
「分からん。どうするんか?」
「真似るんです。悪く言えば盗むということですね。先に成功した人の技術を真似て、僕達も彼らに追いつこうとします。あとはそこからアレンジして自分のものにするんですが」
「真似る、か」
「そうです。例えばこの村の場合、モノの販売の減少が問題になっています。改善するためにはどうしたら良いでと思いますか?」
「この村のことを知ってもらうか、訪れてもらうか」
「後者の方がより効果的でしょう。百聞は一見に如かずともいいますから」
「けど肝心の方法がない」
「ここから南へ行ったところにサザナミという町があります。そこも人の流出が問題だったのですが、リゾート開発してからは、戻ってくるようになったそうです」
「リゾート、開発?」
 耳にしたことのない単語だ。
「はい。客寄せのために建物を造ったりすることですね」
「それで人が来るんか?」
「少なくともサザナミは成功しています」
 で、それを真似るということか。想像してみようとするが、外の街に出たことのないシズイには上手く絵が出てこなかった。
「僕の知り合いにそう言った工事を請け負っているところがあるんですが、相談してみましょうか?」
 いまいち要領を得ていないが、他に浮かぶ手段がない。これを逃してはもうないかもしれない。そう思い、シズイは頷いた。
「わかりました。ではあなたは村の人に相談お願いします」
 失礼しました、と青年は頭を下げ、荷馬車に乗って去って行った。慌てて礼を言うも届いたかどうかは分からない。
 追いかけることはせず、彼は村長の元へ走っていった。



  すぐに話はまとまった。
 環境や景観が壊されるのではないかと、決定を渋っていた者達も、火の車となりつつある家計を考えると、観光客が増え、ものが売れなければ自分達が生きていけない。そう考えると首を横に振るのも躊躇われた。
 そうして大規模な工事を業者に頼むこととなったのだった。
 業者が提案したものは、サザナミのようなリゾート地にすること。そうすれば大勢の客を呼び込むことができ、高層ホテルを作れば、余るほどの客室を提供できる。
 全く外の事情に疎い人々は、説明を受けてもあまり飲み込めず、まあいいだろうと了承した。

 黄色に光る何もない浜辺に、不似合いな鉄骨が組まれていく。出来上がるとその隣にまた同じようなものが作られる。
 まだ構造だけだが、周りの木造民家とは明らかに雰囲気が異なる。
 シズイは珍しく海に潜ることをせず、工事の様子を眺めていた。何か心に引っかかるものがあった。
「本当においが望んどったのは、これなんか」
 少し違う気がする。
 確かにこれでセイガイハの過疎化は免れるかもしれない。けれど、それは自分が愛するセイガイハの姿なのだろうか。静かな波、のどかな雰囲気はきっと残らない。
 相反する二つの問題に挟まれ、頭が痛かった。
 本当に自分の選択は正しかったのだろうか……?

 その数日後海辺の人々に住まいを移すよう要請があった。
 なんでも大規模なショッピングセンターを作りたいそうだ。青海波文の道具は人家で作られていたが、売れないものを作るよりいっそ、というのが向こうの言い分だ。
 村人達はだいぶ序盤の方から話が分からなくなっていた。とりあえず彼らの言う通りにすれば問題ない、そう信じていた。だから土地を渡すことに抵抗はほとんどなかった。



 しかし家々を取り壊すのは延期となってしまった。嵐が訪れたのだ。
 空はほぼ黒に近い雲に覆われ大粒の雨を降らす。風は荒れ、波が白い飛沫を生み出す。穏やかな海域のセイガイハでは滅多にない気象だった。
 昨日まで雲一つない快晴だったのになぜ。人々は疑問をとともに不安を感じながら、嵐が早く去るのを願い、屋内に籠もっていた。
 しかしシズイだけは別だった。
 一人海辺に立ち、先を見つめる。
「海が……怒っとる……?」
 ただ悪天候なわけではない。荒れ狂う海に、感情があるように見える。怒り、悲しみ、そういったものだろうか。
 まさかとは思うが、海の様子が異常なことには違いない。
「海のことは、海に聞くのが一番、な」
 ボールからフローゼルを出し、水中での推進役を頼む。ゴーグルを装着。軽く屈伸をし、シズイとフローゼルは海へ飛び込んでいった。

 海中に入り改めて思う。いつものセイガイハの海ではない。
 全てを受け入れるような穏やかな普段の姿はどこにもない。飲み込まれればすぐさま死へ連れていかれるような恐怖すら与えている。シズイはしっかりとフローゼルに掴まり、もっと遠くへ、もっと深くへ向かっていく。

 もう一つ違和感がある。
 他のポケモンの姿が見当たらないのだ。
 いつもならばシズイが海に入るなり、出迎えてくれるタッツーもサニーゴもいない。深夜の海の方がまだ賑やかだ。
「ないごて、こんななっとる……」
 毎日のように潜っていた海がまるで別人のようになっている。まるで異世界に来てしまったような錯覚を覚える。
 これは――自分の好きなセイガイハではない。
(海の神は恐れているのです……)
 ふと声が聞こえてきた。どこからだ?
 いや、前後左右のどれでもない。頭に直接響いている。
(今は遠くにいるので念力で貴方に話しています。もう少しでそちらに到着するので、それまでこれで失礼します)
「おはんは……?」
(私はラティアス。アルトマーレに住み、他人に思念を映す能力を持っています。今日は貴方に話があって来たのです)
「話?」
(はい。貴方の村のことについて。海を何より愛する貴方ならきっと聞いてくれる、そうこの海の者達が教えてくれました)
 どういうことだろうか。話が見えてこない。
 ラティアスは何かを伝えようとしている?
 横のフローゼルに視線を向けると「何があったの」と若干不安そうな顔をしていた。フローゼルには思念が届いていないらしい。
 そこへ赤いラインがシズイの前を横切った。流線は数メートル先で急停止し、こちらへ戻ってくる。赤と白を基調とした飛行機のような体。折り畳んでいた腕を出し、シズイの前に立った。
「お待たせしました。私がラティアスです。それでは早速本題――の前に」
 そう言うとラティアスは両腕を広げた。爪の先から虹色のエネルギーが放出され球状に広がっていく。
「少し特別なバリアーを作りました。この中では息も出来ますし、波に流されることもありませんよ」
 そう言うラティアスはほんの少々得意げだ。が、すぐに真剣な顔に戻り、シズイに語りかける。
「こんなことを自慢しに来たのではないんです。先程もお伝えした通り、貴方に話があるのです」
「それはおいでないと、いかんのか?」
「はい。貴方は海のことをよく知っています。海を愛する貴方なら私たちの話を聞いてくれる、そう思ったのです」
「おいを選んでくれたのはありがたいが、肝心の内容を聞かないと、どうにも言えないな」
「これは失礼しました。予想はついているかと思いますが、セイガイハの開発についてです」
「それと、この嵐が関係あると?」
 村を改造しようとしたら嵐が来たなんて話は聞いたことがない。少なくともシズイはそうだった。
「実はこの近海に海の神、ルギアが訪れています」
「ちょっと待ってくれ」
 やはり話が見えてこない。いきなり海の神などと言われても困る。一体ラティアスは何を伝えようとしているのか。からかいに来た――わけではなさそうだが。
「すみません。急ぎすぎてしまいました。――少し時間がかかりますが、順を追ってお話しましょう」
 首を折ってラティアスが謝る。その後彼女が話した内容は次のようなものだった。

 セイガイハが開発されると聞いて、海の神は様子を見に来た。
 またこの村も海を汚すのではないかと、また海の生物は住処を追いやられるのかと。
 不安に駆られルギアは海中を渡ってきた。
 そして案の定だった。
 自然豊かな海辺は、人間の手が加えられ、元の姿が消えようとしている。
 幾つもの人間の集団が、己の利を得ようと好き勝手に建造する。無秩序な開発が海のためになるだろうか。答えは否だ。

「しかし必要以上に人間と関わってはいけないのが海の神の定め。どうすることも出来ず、ルギアは近くの海で様子を見守るしかなかったのです。やがて悲しみを始めとする負の感情が現れ、嵐が訪れた――というわけです」
 一段落つき、ラティアスは深く息をついた。
「開発を止め、貧しい暮らしをしてほしい、というわけではありません。ただ、私たちの話を聞いて下さい」
 シズイは黙って首を縦に振り、続きを促した。
「今、私の兄、ラティオスがヒウンシティにいます。これからその様子をお見せします」
「見せるってもおいはここにおるが」
「私達は”ゆめうつし”が出来るのです。どういうことかはーー実際にした方が早いでしょう」
 そう言うと、ラティアスはふわっと浮かび上がり、シズイの頭あたりに移動した。南南西に首をもたげ、呼びかける。
(もしもし兄さん、聞こえますかーーはい、ではお願いします)
 テレパシーで会話しているのか、内容はラティアスの側からしか聞こえない。
「それではシズイさん。ヒウンへご案内します」
 その言葉と共に視界に写る景色が入れ替わる。荒れた暗い海から、快晴の空へ。
 眼下に見えるのは多数の高層ビル。そして幾つもの桟橋が海へ突きだしていた。
 見たことのないほどの大都会だった。
「こんな大きな町がイッシュにあったんか」
 思わず感嘆の息が漏れてしまう。セイガイハと同じ地方にあるなど、言われなければ、いや言われても信じられない。
「はい。人間達はわずかな時間でこれほどの都市を造りました。ですがーー、兄さんもっと近くへお願いします」
 指示通り町がズームアップされていく。曰くラティオスが見ている映像を自分達はそのまま目にしているらしい。
 景色は桟橋の横へ移っていく。
 ラティオスもラティアスも姿を消せるので、人に見つかる心配はないようだ。横をシルクハットをかぶったジェントルマンが通ってもこちらを気にする風はない。
「このあたり、です」
 ラティアスが手で風景の一部を指す。
 特に何もない、あって護岸堤が置いてあるのみだ。
「ここがどうかしたんか?」
「貴方が知っている海と、どう違いますか」
 言われてようやく気づく。
 水はどことなく黒く、ゴミや油が浮いていた。浅いにも関わらず、底が見えない。そして、海のポケモンが見あたらない。いるのはベトベターやメノクラゲ。それほど距離はないはずなのに、同じ海のはずなのに、自分の知る海とは大きく異なっていた。
「元々はここも自然溢れる町でした。丘の上に一本の大きな木があり、そこで人間もポケモンも一日中戯れていました。ですが、次第に人間の手が入り、今ではその場所がどこにあるか、多くの人の記憶からは消えています」
 私もよく遊びに行っていたのですが、とラティアスは呟いた。
「そして、人間は海側まで手を伸ばし始めました。人間はお金がないと満足に生活できませんから、周りに注意を向けず、目の前の事に夢中になってしまいました。今まで暮らしていたポケモン達がその場を去ったことにも」
 寂しそうにラティアスは一匹(ひとり)語り続ける。
 アルトマーレがこの様にならなくて良かったという安堵と、被害者達への想い。
 シズイにはラティアスの琥珀色の瞳に涙が溜まっているように見えた。
「貴方たちに貧しい暮らしを強いるわけではありません。ですが一度考えて下さい。海に暮らす者達のことを」
 大切なことを見落としていたのだ。セイガイハを立て直すのに夢中でしばらく海に入ることをしていなかった。だから忘れていた。
 自分の大切な仲間のことを。
「なんてこった。わいはそげん大事なことを……」
「落ち込むことはありません。今ならまだ間に合います。何が最も良い方法か、私も出来る限りの知恵を貸しましょう」
「けど他にどうしたらええか、ちっとも浮かばん」
「一つ聞いてもいいですか。貴方にこれを提案した方は何と言っていましたか」
「成功した技術を真似る、だったなあ」
「それだけ、ですか?」
 いや、まだ何か言っていた。話の前半がとても大事な内容に思えて、残りをあまり聞いていなかったが、
「そうだ、『アレンジして自分のものにする』と」
「それです。大抵人の真似だけでは半端な結果に終わってしまいます。では観光客を呼ぶために村を一新する、という点を真似るとしましょう。そこにこの村独自のアクセントをつけるとしたら何がいいでしょう。この村の良さを引き立てる何かが必要だと思います」
「それは――」
 即答だった。真っ先に浮かぶものは一つ。
「もちろんこの海やな」
「同感です。私も次は是非晴れてる時に来たいものです」
「そう言ってもらえると嬉しいな」
「これからも多くの人にそう言ってもらえるよう、代替案を探しましょう」
「よし、すまんがフローゼル、おはんも協力頼む。三人寄れば文殊の知恵。きっと見つかるやろ」
 雲に覆われ朝も夜も分からず薄暗く、水の中という不思議な空間の中で一人と二匹は、頭を寄せ合った。
 これはどうか、いやそれではこんな弊害が出てしまう。ではこれは、ならそれに少し手を加え――
 やがて案はまとまった。
 観光目的の開発をすると言う方針は変えない。しかしそれは無秩序に人間の手を加えるのではない。本来のセイガイハを訪れた人に見せるため、極力開発を抑える。
 それを伝えるのはシズイの役目だ。
「おいに出来るやろか」
「貴方にしか出来ないことです。怖れないで下さい。きっと上手くいきますよ」
 それでもシズイの表情は晴れない。万が一失敗すれば、その時のことを考えると、かかるプレッシャーは重い。
 でしたら、とラティアスは懐から小さな袋を取り出した。値のありそうな紫の布を、白の糸が綴じている。
「アルトマーレで売られているお守りです。なんでも、護り神の加護を得られるそうですよ」
「そうです、って」
 なぜ他人事なのか。その疑問はすぐに答えてくれた。
「お守りは人間が勝手に作ったものですから。本当に効力があるのかは知りません。私達が稀に、人間と関わりたい時に、小さな望みを叶えているのもよく願いが叶うと言われる一因ではありますが」
 さらにラティアスは続ける。
「要は気の持ちようです。出来ると思えば難しそうな事でも案外可能になることもあります。ですから、気を強く持ってください。今回は私もついてますし」
「だな。まずはやってみんと始まらん。早速明日にも交渉してみるたい」
「よろしくお願いします。それでは私はルギアのところへ行ってきます。話を聞けばきっと嵐も和らぐでしょう」
 そう言うと、ラティアスは背を向け飛び立とうとした。が、また振り返り、シズイの前に下りてきた。
「たった今思いついたのですが――この村は染物が盛んですよね。特に年に一度作る青海波文の巨大な旗は見た者を圧倒するとか。けれど、普段から旗は作っても売れず、困っている、と」
「ああ、そうじゃが……それがどうかしたんか?」
 唐突にどうしたのだろうか。
 旗を使って商売をする方法だろうか。けれど村人達があれこれ手を尽くしても、売り上げが伸びることはなかったのだが。
「貴方にお渡ししたお守りは、初めはただのアクセサリーでした。しかし、いつの間にかアルトマーレのお守りのなっていたのです。そして私も生まれた時から守り神であった訳ではありません。うっかり人の前に姿を現してしまい、急いで消えてしまったことから神様に違いない。そう信じられてしまったのです」
 あの頃はだいぶおてんばだったので、とラティアスは照れながら頬をかく。
「何が言いたいかというと、セイガイハでもそういったものを作ったらどうでしょう」
「でっち上げるってことか?」
「いえ。根のない嘘はすぐに見破られ、信用を失ってしまいます。長い歴史を持つ染物ならば、逸話もあるでしょう。それと上手く組み合わせればいいのです。あるいはシンプルに売り文句をつけても良いでしょう。例えば、青海波文を見ていると落ち着いてくる、とか。嘘は言っていないと思います」
 確かに。客を呼んでも村にお金が落とされなければ、結局貧乏なままだ。収入を得る工夫が必要だろう。
 村に来る商人達のことを思い出す。
 荷台から商品を手に取り、大げさも思える程、身振り手振りを交え人々に宣伝していた。
「わかった。そのことも皆と相談してみるたい。今日は本当に助かった。あいがてな」
「私の方こそ、長い間話を聞いて下さり、ありがとうございました。いい結果を楽しみにしています」
 首を折り、深く礼をすると、ラティアスは東の方へ飛んで行った。
 あとにはシズイとフローゼルが残され、
「おい達も帰ろう」
 こくんとフローゼルは頷くと、シズイを乗せ、尻尾をスクリュー代わりにし、水面へ泳いでいった。

 それから次の日の事、早速シズイは工事関係者の人達と話をつけに行った。
 突然の申し出で悪いが、開発を変更してほしいと。
 最初は嫌な顔を隠しもせずに応対されたが、シズイの懸命さが伝わったのか、それともラティアスのお守りの効力か。次第に彼らは訴えに耳を傾けていた。
 これほど美しい海を見られるのはこのセイガイハしかない。決して失わせてはいけない。この美しさを未来まで伝えていきたい。
 やがて彼らは計画の変更の旨を了承してくれた。そしてこれから内容を練るためにシズイも参加してほしいと頼まれたのだった。
 そしてもう一つ。ラティアスの指示通り、バッグにつけられるサイズの青海波文の旗を作成し、お守りとして売ることにした。紋が珍しいのかそれは予想以上に売れたが、安心するのにはまだ早い。これも工夫を凝らさなければすぐに飽きられてしまう。
 セイガイハの進展はまだスタートラインに立ったところだ。
 これからどうなるのか。それは村人次第だ。
 けれど大きく変わることはないだろう。静かな波、髪を撫でる風――、それらはきっとセイガイハからはなくならない。

 ここはセイガイハシティ。表すは穏やかな海。
メンテ
結果発表 ( No.21 )
日時: 2013/04/29 20:00
名前: 管理者

◆結果発表◆

(敬称略)

☆1位
>>1
【A】オブジェクト・シンドローム 32 / 水雲
金×4
銀×6
銅×8

☆2位
>>6
【B】I wanna be the HERO !!! 27 / 黒戸屋
金×5
銀×2
銅×7
ア×1

☆3位
>>7
【A】ガラス色の終末 20 / 戯村影木
金×3
銀×3
銅×5

>>18
【B】すてぃーるふらっぐ  20 / レイコ
金×4
銀×1
銅×5
ア×1

☆5位
>>9
【A】灰かぶり 17 / もの
金×2
銀×3
銅×5

☆6位
>>8
【A】Fake 15 / カエル師匠
金×2
銀×1
銅×7

☆7位
>>12
【B】零 12 / 海
金×3
銅×3

>>13
【B】敗者 12 / ジェイガン
銀×1
銅×9
ア×1

☆9位
>>11
【B】氷雨に声が届くまで 11 / 曽我氏
金×1
銀×2
銅×4

☆10位
>>19
【A】そこはまるでヨスガのようで 10 / 来来坊(風)
銀×2
銅×6

☆11位
>>5
【B】神速の旗 8 / オンドゥル大使
銀×2
銅×2
ア×2

☆12位
>>4
【B】星降りの誓い旗 7 / 月光
金×1
銅×4

>>14
【A】あの空を目指して 7 / ホープ
金×1
銀×1
銅×2

☆14位
>>10
【A】タマムシブルース2013 5 / 照風めめ
銅×5

>>17
【B】もりのはた おやのはた 5 / コメット
銀×2
銅×1

☆16位
>>20
【B】表すは穏やかな海 3 / 穂風湊
銅×2
ア×1

☆17位
>>15
【A】ガラスを割る反発。それを防ぐ葛藤。 2 / 逆行
銅×2

☆18位
>>3
【A】ガラスの器 1 / RJ
銅×1

☆19位
>>2
【A】ガラスのとりかご / 天草 かける

>>16
【A】ガラス職人 / プラネット



投票状況

ブログ
http://pokenovel01.blog111.fc2.com/blog-entry-7.html

アンケート
http://www.smaster.jp/Result.aspx?SheetID=75234
なお、アンケートは不正アクセスによる投票が一件ありましたので、その一票分を結果から除外しております。
メンテ
総評 ( No.22 )
日時: 2013/05/13 22:42
名前: 管理者

☆ 総評 by 照風めめ

 終了から日が開いてしまいましたが、皆様お疲れ様でした。投稿、投票ありがとうございます。
 今回は投稿者投票率が95%と、たぶん後にも先にも最高記録と思われる値が叩き出せました。
 前回から一年の間がおかれて、その間ににじファン消滅等々でいろんな新しい方がポケノベルにいらしてくれました。
 実に投稿作品の70%が新規参加者というのも驚きです。そして上位5作品も新規参加者が大多数を占め、時代を感じました。
 既に一部の人には言ったんですが、わたしは今回の文合せを以て企画運営から離れようと思います。副管理人はやめませんがね(笑)
 わたぬけもわたしも少しずつ忙しくて企画の方に手が回らないようになってきたというのもあって、今後は別の方に運営を任せて、わたしは一歩引いた所から手伝う感じになると思います。
 わたしの中では企画〜文合せはすごい大きな存在で、とてもじゃないんですがここでは喋りきれないので割愛させていただきますが、その運営に携われたこと。そして皆さんに参加いただけたことに誇りと感謝の念を抱いています。
 今まで本当にありがとうございました。そして、今後の文合せ等もよろしくお願いします。また別の機会に会いましょう。


☆ 総評 by わたぬけ

約一年ぶりの平成ポケノベ文合せ、いかがだったでしょうか?
 今回見事優勝を果たしたのは、なんと初参加で投稿番号1だった水雲さんの「オブジェクト・シンドローム」あらゆる意味でナンバー1でした。
 この「オブジェクト・シンドローム」が優勝を手にできたのは、その圧倒的インパクトとそのインパクトに十二分に伴う丁寧な筆致故でしょう。
 前回からの一年でポケノベの住民の面々にも大きく変化が見られ、それが今企画全体の雰囲気に色濃く表れていましたね。一作一作が丁寧に作りこまれており、今までのポケノベでは見られないような作風に新鮮な気持ちで作品と向き合うことが出来ました。
 ただひとつ残念に感じたのは、テーマの言葉の一面性に全体的に囚われすぎているように思ったことでしょうか。これは特にA「ガラス」に言えることです。
 テーマの説明文にもガラスという物体の壊れやすさ、儚さを押し出したものにしたのですが、だからこそそれに大いに反発してくれるような作品が見られなかったのが非常に惜しいですね。

 さて、今回の企画も途中参加者の皆様を戸惑わせるようなことがあったとはいえ、なんとか終えることが出来ました。
 すでに本人より言及されているようにこれまで運営者のひとりとして何かと協力してもらっていた照風めめがこのたび手を引くことになりました。
 次回からは新しい人員をお迎えして、より皆様に愛される企画となるよう励んでいこうと存じますので、どうぞこれからもよろしくお願いします。
メンテ

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