氷雨に声が届くまで ( No.11 ) |
- 日時: 2013/04/14 20:49
- 名前: 曽我氏
- テーマB「旗」
0 残滓に等しい命を集め、瀕死の獣は大きく吼えた。 漁火を揺らし。 風を切り。 氷みたいな雨の中。 誰かが反旗を翻すと、固く願って。 青年は、ただ吼える。 氷雨に声が届くまで。
1
いつだったか、森に捨てられていた新聞で読んだ事があった。 「2063年現在、かつて野生にポケモンが存在していた事を知っている人はもういないだろう。そして、今のポケモンは愛玩用、もしくは食肉用のどちらかの用途しか存在していないという事も。度重なる品種改良によって爪や牙は退化し、ポケモンから野生の心が消え去ってしまったらしい。かつてヒトカゲが炎を吐いていたとか、ピカチュウが高圧電流を放っていたとか、信じる人は果たしてどれくらいいるのだろうか」 ……しかしそんなこと、聞かれても困る。なんたって俺の住む森には、火を吐くヒトカゲも高圧電流を放つピカチュウも現存しているからだ。 かつて長老に聞いたことを、少し思い返してみよう。数十年程前までの、人間とポケモンの交流のシンボル――ポケモンバトルは、人間とポケモン両者の安全を疑問視する声や、プラズマ団等のカルト教団による過激な行為による印象の悪化、ポケモンを道具で服従させる事に対してのポケモン愛護団体からの苦情など、様々な要因が積み重なって廃れていった。 丁度その頃から、野生のポケモンが爆発的に増え始める。トレーナーに乱獲される事が無くなり、元来繁殖力の強いポケモン達は爆発的に増えていった。事態を重く見た人間政府が野生ポケモンの掃討隊を結成し、現在野生のポケモンは数を減らしているのだと。 ……全くもって、疑わしい。野生のポケモンが数を減らしているとか、どうにも信じがたい。現に、この森で人間による掃討が行われたなんて記録は知らない。至って静かに、森の暮らしは流れていく。朝起きて、昼に食べるものを集めて、夜眠る。たまに必要性の見受けられない夜集会に参加して、一日が終わる。いままでも、そしてこれからも。 ――そう、考えていた。
2
「先日、ナギリが死んだ。事故死ではない」 ネイティオのその一言は、夜集会の動揺を誘うのに充分過ぎる衝撃を与えた。ナギリといえば森の中でも五本指に入る実力の持ち主、そんな彼が死んでしまうなど、不慮の事故死以外には考えられないからだ。いやそもそも、彼が死ぬという状況が想像できない。それ程までにアイツは強かった。 「……おい長老、それなんかの間違いじゃねえの?」 イサリビに賛同する声はなかった。だからといって、否定する声もなかった。内心は誰もが否定したかっただろう、それでも誰も何も言わないのは、長老ネイティオがこれまでに嘘をついた事がないからだ。 「んだよ長老、嘘だって言えよ! アイツが死ぬ訳ねーんだよ!」 「嘘だと思うならば、サエズリ松の根本を掘り返せばよい。亡骸はそこに埋めてきた」 「……くそっ! 信じねーかんな!」 悪態を吐き捨てて、鬱蒼と生い茂る林の中に去っていくイサリビの背中は、微かに震えていた。それが寒さから来るものでないのは、誰しもが気付いている。彼の背中を目線で追う者が数匹、彼を止めようとして立ち上がるも、他の面々に諭されてまた座る者が二匹。それ以外は微動だにしなかった。まるでイサリビのいざこざも、視界に映っていないかのように。別に彼らが薄情なのではない、動こうとしても動けないだけなのだ。 彼がいなくなった瞬間、集会は沈黙に包まれる。誰しもが俯いて、唇を噛み締めている。何か、とても大きくて誰にも見えない圧力が、頭上からのし掛かっているようだった。 「ねえ長老様、ナギリさんが死んだ時の状況、詳しく聞かせてくれないかな」 だが、静寂は一過性の物だった。束になったポケモン達の隅っこから、日向に芽吹く若葉のような、飄々としながらも瀟洒な声が響く。静寂を打ち破って手を挙げたのは、やはりヒサメだった。幾数の視線を受けても物怖じせず、逆に堂々立派なその態度は、彼女がかつて飼われていたポケモンだという事をついつい忘れさせてしまう。 「ヒサメ、おまえも私を信じないのか」 長老のもの悲しげな声色に、彼女は首をたおやかに横に振った。薄氷を思わせる水色の潤った肌が、集会広場の中央に陣取った大きな焚き火に照らされてつやつやと輝いている。 「そうじゃないです。確かにナギリさんが死んだなんて想像し難いけど、私が知りたいのは、彼がどのように亡くなっていたかなんです」 「……そんな事、知ってどうする」 「ナギリさんが誰に殺されたのか、分かるかも知れません」 ヒサメの言葉を受けて、夜集会の面々がざわりと揺れた。皆が口々に何かを言い合っているが、それがヒサメの言葉に対する疑念の声である事は奴らの顔つきを見れば悠々と想像できる。嫌われていないが好かれてもいない、いわゆる中途半端な位置に彼女は立っていた。 「出来るのか」 「やってみます」 ヒサメの瞳には、並々ならぬ決意の光が溢れていた。ナギリが何故死んだのかを知りたい、というのもあるだろうが、彼女の義理堅い性格を考えるにもっと他の理由がありそうだった。口を真一文字に結んだその表情から、感じ取ることはできない。 「そうか。だが、牙が小さく爪もないヒサメには、夜の森は危険すぎる。誰か、一緒に付いていってくれないか」 ネイティオは双翼を広げ、集会に訪れたポケモン達を見回した。誰も手を挙げる者はいない。当然だ、本来あるはずの尖った牙も爪もない、いわば異常種と共に行動しようと望む奴なんて、とんでもない変わり者でしかない。森のポケモン達は変化を嫌い、それが身体に関わることだったらなおのこと。となれば。 「じゃあ、俺が行こう。それでいいか」 俺が手を挙げると、集会の面々は安堵したように小さく息を吐いた。それはまるで、ヒサメと一緒に行く事にならなくて安心している風体であった。 「ヒサメ、カゼキリが付いていくそうだが、それでもいいか? 言っては何だが、彼には本来ザングースに有るべき爪がないんだぞ。もし襲われたりしたら、無事に守って貰えるかどうか」 「構いません。私、彼が強い事知ってますから」 またも集会にどよめきが漏れた。が、この中で一番驚きたいのは、他でもなく俺本人だ。この森に来てから三年、狩りをした事もなければ争い事一つ起こしたこともない自分が強いだなんて、そんなのあり得ないと思った。現に、先ほどネイティオが述べた通り、俺の両手には爪がない。良く見れば申し訳程度に付いていなくもないが、他のポケモン達の硬い皮膚や毛皮を通るとは思えない。そんな自分が「強い」なんて奇妙なレッテルを貼られたら、驚くのも無理はないだろう。疑惑と追及の視線に刺されて、俺は肩をすくめた。 「いいですよね、長老」 「む、むう……仕方あるまい」 「ありがとうございます。では、行きましょう」 ヒサメは俺の手を取ると、優しく微笑みかける。水タイプの冷たい手と、それに対比するような暖かい笑顔は、同じ年頃の異性――つまり、俺――の頬を意識的に火照らせるには充分過ぎる代物だった。
夜の森の中を二人で歩いていく。頭上に覆い被さる葉のドームには所々隙間が空いていて、そこから差し込む青白い月光が、俺とヒサメを柔らかく包み込んでいた。アイガサの花の酸っぱい匂いと、夜露に濡れた木の皮の胸をすく透き通った匂いが綺麗に混ざりあって、森特有の何とも言えない香りがそこらじゅうを走り回っていた。 「ごめんね、付き合わせちゃって」 申し訳なさそうにはにかむ彼女の表情には、安心と喜びが漂っている。かつての彼女からは信じられない程、安心しきった表情。無機質なガラス細工を否が応にも連想させる、あの頃のヒサメとは正反対だ。 ガラスと言えば、ガラスの檻から脱出して以来こうして二人きりで話すことはなかった。俺達二匹を助ける為に犠牲になった仲間達の顔がどうしても離れず、お互いに疎遠になってしまったからだ。 「ねえ、カゼキリ。もしかして怒ってる?」 横から不安げな声が飛んだので、思い耽る事を中断してそちらを向く。目に入ったヒサメの顔はあの頃から少し成長して、艶やかで色っぽくなっていた。 「い、いや。怒ってない」 「ほんとー?」 何故かこっ恥ずかしくなって、ヒサメから目を逸らした。頬の辺りが熱くなる。夜道の仄暗さに紛れて、幸いにも気付かれていない。良いことの筈なのに、なぜか少し残念だった。そんな形でしか、思いの丈を表現できない。何のことはない、ようは臆病者だった。 「ふぅーん。ん、あれ? あそこにいるのってイサリビじゃない?」 前方にイサリビを発見したらしく、追求の手は即座に止まった。俺は頬の上気を掻き消すべく顔を振って、駆け出していった彼女を追う。追求されなかった事に安堵している、バカな自分を振り切るように。
マグマラシの特徴の背中から吹き出す炎は弱々しく、燃えているというよりは燻っているといった方が的確だった。いつもなら、沈む夕日を閉じこめたように輝いているクリムゾンカラーの瞳は、光を失って朧気な宵闇を見つめている。その虚ろな瞳が何故引き起こされたのかを知る事は、駆けつけてきた二匹に重い現実を突きつけるのと同じ意味を持っていた。 「ナギリさんは……どこ?」 イサリビはなにも言わず、黙って近くの草むらを指さした。フクジュゲンソウの群生地が目隠しになっていて、ここから死体の存在を確認することはできない。 「ヒサメ。俺が見てくるから、イサリビを頼めるか」 「え。あ、うん。分かった」 いくら精神的に強いとはいえ、女に死体を見せたくはない。精神状態が不安定なイサリビに死体を引っ張らせるのも酷だ。消去法で考えて、俺がやるしかない。なんというかもの凄く、嫌だったけれど。 草むらの中に入ると、右足に堅い物が触れた。思わず叫びだしそうになるのをぐっと堪えて、足下を見る。木の根っこが飛び出していた。 「……はぁ、もうやだ」 張りつめた恐怖からの解放感に、思わず泣き出しそうになった。いっそ本物の死体であってくれた方が、自分の矮小さや臆病さ加減を知らずにいれた分、まだ幸せだったかもしれない。体の底から湧きあがる恥ずかしさに、意識的に頬が赤くなる。八つ当たるように草木をなぎ倒した。しかしイサリビの死体は見当たらなかった。 思い当たるところは全て調べた。だとすれば、誰かが死体を運んだのかもしれない。ポチエナやグラエナは死体を食べる習性がある。これだけ探しても見つからないのだから、食べられてしまったと考える方が妥当じゃないのか。 「だとしても、骨ぐらいあるよな」 それに、こんな短時間で食べられてしまうのはあり得ない。探すのが億劫で消沈しかけたその時、左足に堅い物が触れた。岩のようにがちがちと固まってこそいるが、ポケモンだった。玉虫色の表皮に、薄い風切り羽。ストライクだった。ストライクの、ナギリだった。 予想に反して、死体は綺麗なままだった。揺すってやれば目を覚ますのではないかと履き違えてしまう程に。唯一にして最大の違和感は、両腕にあるはずの大きな鎌が切り取られていたこと。切断面は平ら、それこそストライクの鎌とかじゃないと真似できない芸当だ。 いつの間にか満月は雲に隠れ、夜空には不穏な雨雲が立ちこめている。降りそうで降らない雨、生ぬるい風が頬を撫でた。俺たちの知らないところで、誰も知らないところで、何かが始まろうとしている。 ふと、そんな気がした。
「あ、お帰り。ごめん、イサリビさんが辛そうだったから先に帰っちゃった」 「言ってくれよ。……帰り道すっごく怖かったんだぞ」 ぐちゃぐちゃに凝り固まった思考を放棄すべく、俺は若葉を重ねて作った寝床に倒れ込んだ。いい感じに濃縮された森の香りが鼻をつく。 「お疲れさま。どうだった?」 「この状況を見てさ、今は聞くの止めようとか思わないのか」 「一瞬思った」 「その気持ちを最後まで貫き通せよ」 「一刻も早く知りたいんだ」 仕方なしに体を起こす。ヒサメの一生懸命な瞳に押し負けた、というのもあるが、一刻も早く誰かに話して、少しでも楽になりたかったというのが大きいのだった。 「ったく。死体の状況からいくぞ。傷はなかった」 「どういうこと? 死んでたんだから、多少の傷ぐらい」 「なかった。一切傷はなかった。両腕の鎌は切り取られていたけど、直接の死因にはなっていない」 「どうしてそう言えるの? もしかしたらそれが原因かも」 訝しげな視線のヒサメに向かって、首を横に振る。 「普通のポケモンならともかくあのナギリだぞ? あのスピードで飛び回るってのに、正確に腕だけ狙えるのか?」 「……無理だね。じゃあ誰が」 ヒサメの言葉を遮るように、ガラス戸に大量の小石をぶつけたような音が響く。大粒の雨雫が地面を叩きだした。跳ねる小さな雫が、白い霞となって辺りを包んでいる。俺の寝床は洞穴にあるので濡れる心配はないが、湿気で毛皮が湿るのには大反対、俺は雨が嫌いだった。断じて、濡れるのが嫌とかそんな子供っぽい理由ではなく。断じて。 「ありゃま、降ってきちゃった。……ねーカゼキリ、今夜ここに泊まってもいい?」 「え」 「……あ、いやだった?」 嫌じゃない、むしろ大歓迎――と叫ぼうとして、すんでのところで我に返る。危なかった。今思いの丈を吐露などしてしまえば、どんな空気になることやら想像も付かない。 「嫌じゃない、けど」 青年は言葉を切って、ヒサメの体を見つめる。白い花びらの様な襟飾り、魚のヒレのような耳、ゆったりと延びた尻尾の先には、芽吹いた若葉のような形の尾ひれ。おまけに、透き通る川の水をそのまま塗りたくったかのような水色の体。優しい雨が似合いそうな雰囲気は、まさしくみずタイプのそれだった。 「でもお前、シャワーズだろ? みずタイプなら雨だって平気なはず」 「……ほんっと鈍感だね、カゼキリ。もうちょっと鋭くならないと」 今の湿気に似た、ヒサメのジットリとした目つき。 「鈍感ってなんのことだよ」 「その台詞を吐くキミのことだよ」 そう言って、彼女は地べたに寝転がってしまった。いくら押し掛けてきたとはいえ、客人を地面に寝かせるのはどうなのか。いや、不味いだろう。例えヒサメとはいえ、曲がりなりにも女性なのだから。 「ヒサメ、俺の寝床貸すからそっちで寝ろ」 返事はなかった。雨の音に紛れて、微かに聞こえるのは呼吸の音。 「……もう寝たのか」 仕方なしに立ち上がって、ヒサメをそっと抱き上げる。蜂蜜のように甘ったるい、いい匂いが鼻をつく。潤って艶やかな肌は、切り出した氷をそのまま持ち上げているように冷たかった。手を通して伝わってくる心拍音は、やや早めのリズムでとくとくと波打っている。だが、しかし。 「……重いな」 そう呟いた瞬間、強い衝撃が俺の顔面を襲った。予期せぬ位置からの攻撃は、俺に防御するだけの隙を与えない。 「ぐごっ」 後ろ足で蹴り飛ばされ、頭から思い切り地面に叩きつけられる。どこかへ旅立ちそうな意識を必死に抱きかかえ、俺はうずくまった。痛みを地面に逃がすように、頭を抱えたまま左右に転がる。 「な、何すんだ!」 「うっさい! しね!」 実は起きていたらしいヒサメが、煮立った熱湯が吹き上がる音を立てて吼えた。頬は赤く火照っていて、今の怒髪天なら「みずでっぽう」が「ねっとう」に変わってもなんらおかしくはない。 「女の子にね! 体重のことはね! 触れちゃダメなの!」 「は、はあ。ごめんなさい」 果たして彼女が「女の子」と呼べる年齢であったかは甚だ以て疑問だったが、それを言う勇気はなかった。今のヒサメなら、意識を失うまで蹴るぐらい平気でやりそうだったからだ。 「ま、いいや。ありがとね」 「あ、ああ。てか、何で寝たふりなんかしてたんだ」 俺の言葉に、マメパトがロックブラストをぶちこまれたような顔をするヒサメ。茫然自失というか、呆けにとられているというか。少なくとも「女の子」がする表情ではない。それだけは言える。 「信じらんない。あんた、絶対人生損してる」 「どういう事だよ」 「チャンスを物に出来ない男って事よ。おやすみ」 吐き捨てるだけ吐き捨てて、ヒサメはまた丸くなった。どこからどう考えても不貞寝以外の何物でもない。言うとまた沸騰するのは目に見えているので、もう触れないことにする。火傷はもう勘弁だ。 「……お休み」 雨音は弱くなっていた。この調子なら明日は晴れるぞと思いつつ、俺も目を瞑る。暗闇が心地よい。篠突く雨の柔らかな音が、安らぎの世界へと俺の体を運んでいく。
3
翌日は、予想通りの晴天だった。低く垂れ込めていた雨雲は、深夜の内に風に追われて姿を消したらしい。朝の森の青臭い匂いをほのかに纏った柔らかな風が、朝露に濡れて麗らかな反射光を放つ、草木をさわさわと揺さぶっている。 「おはよ」 もう既に起きていたらしいヒサメが、寝床の地面にきのみを並べていた。昨日の沸騰っぷりが嘘のように、その顔には一片の邪気もなかった。すべっこい肌が朝露を弾き、粉末状のガラスを振りまいたかのようにきらきらと光り輝いている。 「えっとさぁ、カゼキリ。昨日はごめん」 今にも破裂しそうに熟れた赤い実を、頬一杯に含む。果肉が口の中で弾け、濃厚な甘い汁が喉に流れ込んだ。小さな実のさらに小さな種を舌で転がす。プチプチと潰れていく。 「別に、怒ってない。悪いこと言ったのはこっちだし」 紫色の小さな実をいくつか、口に投げ込んだ。しゃりしゃりと小気味よい咀嚼音が、首の奥深くから聞こえてくる。余りの酸味に、ぼやけて不明瞭だった視界が一気に冴えた。 「でも……私、蹴っちゃった」 「別に。そりゃあちょっと……いやかなり痛かったけど。もしかしてずっと心配してたとか」 「……してない」 「そりゃ残念」 最後のきのみを飲み込んで、俺は立ち上がった。腰に付着した小石や砂の類が剥がれ落ちて、ぱちぱちと音を立てる。 「どこいくの?」 「長老のとこ。昨日の報告がてら、散歩」 「そ。じゃあ私も行く」 小さいあくびの後、ヒサメは華奢な体を持ち上げた。眠気が完全に取れていないのか、魚のひれに似た耳がゆらゆらと不明瞭に揺れている。 「ヒサメ、眠いんじゃねえの? まだ寝てろよ」 「うん、やっぱあんたってサイテーだわ」 「……は?」 訳も分からずに目を瞬かせていると、尻尾で背中を叩かれた。痺れに似た痛みが、巨木の根のように広がっていく。昨日の教訓を生かしたのかパワーは抑えめだったが、痛いことには変わりない。 「って。何すんだ」 「別にぃ。さ、行きましょ」 ちらりと見えたヒサメの横顔は、ほんのちょっぴりむくれていた。
俺達は、長老の住むという倒木へ向かっていた。雨に浸された地面はふやけ、時折泥濘に足を取られて転びそうになる。バランスの取れる四足歩行が、この時ばかりは羨ましい。 「ふー……やっと着いたね。ほんとやんなっちゃう」 この森が生まれた頃からあった杉の木は、既に腐りきって傾いていた。葉は全てこそげ落ち、根本が土に混ざりかけている。葉の切れ間から差し込む麗らかな日差しが、苔蒸した倒木を神秘的に照らしていた。 倒木の頂上には、いつもネイティオが佇んでいる。ずっと一定の方角を向いて、どこか哀愁を漂わせながら空の向こうを見つめている。森に長く住んでいる人の話によると、月に一度の集会の時にしか降りてこないとか、その杉の木が真っ直ぐそびえていた頃からそこにいたとか、耳を疑う前にネイティオの頭を疑いたくなる内容ばかりだった。 「ってさ、ふつーんな事あり得ないよな? 食事とか睡眠とか、まさかあんな危なっかしい所でやってるとは思えないし」 「でも、長老様ならやりかねない雰囲気はあるよね」 「まぁな」 木々と土の匂いを胸一杯に吸い込んで、俺達は笑った。 確かに、長老ならやりかねない。杉の大木の先端で寝ているところも、杉の巨木の先端で食事を摂るところも、想像するのは容易だ。 「……黙って聞いていれば。早かったな」 無愛想な声がして、俺達は振り向いた。 「あ、長老。えとですね、今日は」 「言わずとも分かっておる。ナギリの死体なら儂も見た、誰の仕業か、お前達も薄々勘付いておるんじゃろ」 「まあ、それなりに」 「そうか、やはりな。ついてこい、ここでは話せないだろう」 俺とヒサメは、顔を見合わせて頷く。その瞬間、ネイティオの翼から発せられた濃紫のヴェールが俺達の体を包み、奇妙でこそばゆい感覚が尻尾の先まで伝ってくる。 「上手に着地させてね」 「儂を誰だと思っておるんだ」 俺の耳辺りまで浮き上がったヒサメは、シャボン玉をつついた様にぱちんと消えた。弾けたサイコエネルギーの残滓が風に流れ、視界一帯を薄桃色に彩る。 「次はお主だ」 微かに疲弊した声が聞こえると同時に、俺の体が宙に浮き上がる。視界が歪んで、体を激しく揺さぶられ、俺を地面に留めていた重力の枷がぷちんとちぎれる。意識の高揚が止まらない。加速感をその体に受ける。視界が二度発光して、思考回路がホワイトアウト。次の瞬間には、俺の体は宙に浮いていた。 視界いっぱいの空が回る。重力に従って、軟らかい倒木にしたたかに背中を打ちつける。空の頂点を通り越した太陽が、今にもほどけてしまいそうなちぎれ雲と遊んでいた。 「おふっ」 肺の中に溜まっていた空気が、今の衝撃で全て逃げ出した。視界の左半分を、誰かの顔が覆う。ヒサメだった。 「派手に叩きつけられたねえ。痛くない?」 「後三回ぐらいやられたら絶対泣く」 「あ、痛いんだ」 節々が錐で突かれた様に痛むが、めげずに体を起こす。背の高い木々に囲まれた空間はやはり薄暗く、粛々と葉がそよぐ音だけがこの異質な空間を支配していた。余程日当たりが悪いのか、光の柱が一つも差し込まない。雨が染み込んで黒々しく染まった土壌は、思わずえずいてしまうほどに濃密な香りを放っていた。 「ここは?」 「多分、長老様の住処。向こうに寝床っぽいのがあった」 「……へぇ、木に留まって寝るってのはやっぱ嘘だったか」 「当然じゃろ。お前はあれか、「オオカミショウネン」の話を最初から最後に至るまで信じてしまうタイプか」 とすん。という、高い身長にしては控えめな着地音が響く。こういう皮肉になっていない皮肉を放ってくるのは、大体へそを曲げている時だ。こういう時に謝るのはかえって逆効果だというのは前の経験から知っていたので、笑ってやった。 「なんかけなしてるっぽいけどさ、結果的にハッピーエンドになるんだからいい事なんじゃねえの」 「ふん。まあいい、その辺に座れ」 いよいよ拗ねた。感情を表に出さないのがネイティオという種族なのに、長老はどうも分かりやすいところがある。 「さて、お前達。犯人は誰だと思う?」 「……多分、ニンゲンです」 ヒサメの言葉が終わる。長老の視線がこちらに移ったので、俺は軽く頷いた。同意の合図。 「……やはりな。あの平らな切断面を作れるのは、ニンゲンが持つ「ハモノ」ぐらいだろう」 長老の丸顔に小皺が寄る。腐ってもネイティオ、飼われていた訳でもないのに、人間の道具を知っているらしい。そしてその顔を見る限り、「ハモノ」がどんなに恐ろしい物なのかも知っている。果たして何故なのか。 ハモノ。彼ら二匹がガラスの檻に閉じこめられていた頃に、一度だけ見た事があった。生命の鼓動が感じられないあの無機質な銀色の反射光を思い出す度に、体に寒気が走る。肉体的にではなく、精神的に。太古から刻まれた習性、或いは本能が危険信号を発していた。実際問題、今思い出しても震えが止まらない。 「ええ、あれですっぱりいったんでしょう。あのナギリが動きを止めたのは、恐らくーー」 そこで話を区切って、ヒサメは俺の方に目配せした。なるほど、確かにこの話は俺の方が適任だ。 「えっとな、多分「シンケイドク」だと思う。一回食らった事があんだけど、手足が痺れた! と思った時にはもう体がガッチガチに固まっちまうんだ」 「どの位硬質化するんだ?」 「うん? コウシツ? ああ、そうさなあ……ちょうど、ナギリの死体ぐらい固くなる。持って殴ったら木が折れる位に」 「えらく非人道的な喩え話だね」 「そうでもしなきゃ固さが伝わらないだろ」 「そうしなくても伝える方法はあったと思うけどなあ」 ヒサメの言葉を聞き流し、俺は長老の方を見つめる。 「成程。よし、もう帰っていいぞ」 「……え? 対策とか練ったりしないの」 ヒサメの素っ頓狂な大音声に、長老は失笑交じりのため息をついた。 「逆に聞くがな、あのナギリを殺した相手に儂らが出来る事は何がある。気を付けろとかいう呼びかけか? それをしたところで、人間を知らないポケモン達が逃げると思っているのか?」 「…………う」 けんもほろろだった。だが確かに、長老の言う事に一理ある。人間の恐怖を知っているのは俺達だけだ。 「……ヒサメ、帰ろう。そんじゃ長老、なんかあったらまた呼んでくれ」 何かを言いたげなヒサメの背中に手を置いて、俺はそう言った。ヒサメはまだ何か言いたげな顔をしていたが、彼女の頭に手を添えると静かになった。 「……いや、ちょっと待て。間違って近付かんように、お前達だけには人間の拠点を教えておこう。ササメ川のほとり、そこが奴らの本拠地だ」 ササメ川といえば、この森の川の源流だった筈だ。何か、嫌な予感がする。
道中でヒサメと別れた後、俺は寝床の洞窟に戻る道を歩いていた。出発が早朝だったからかまだ昼前だが、どこかで食料の木の実を調達しようという気分にはなれない。確かまだ、洞窟の奥に貯蔵分の木の実がいくらかあったはずだ。今日はそれで済ませよう。明日の事は明日考えればいい。 そんな事を考える内に、寝床へ着いた。夜な夜な入り口付近をゴーストタイプの行列が通過していく、いわば曰くつきの一等地。ノーマルタイプの俺には関係ないという理屈で押し付けられたのは一生忘れないだろう。くそ、長老め。 綺麗に片付いた寝床――どうやらヒサメが整頓してくれたらしい――の真ん中に、一匹のポケモンがこちらに背を向けて座っていた。昨日よりは元気を取り戻したとはいえ、背中はまだひ弱な炎、のっぺりとした背中は緑青色に輝いていた。 「……イサリビ?」 俺の声に、そいつは振り向いた。沈む夕日をそのまま閉じ込めたようなクリムゾンカラーと、つるりとしたクリーム色の毛並み。洞窟で待っていたのはイサリビだった。大分落ち着いたのか、昨日よりも目に光が戻っている。 「……来たか。お前、長老の所に行っていたんだろ」 「ああ。それがどうした」 「頼む! 俺に、人間どもの居場所を教えてくれ!」 今にも地面に埋まりそうな勢いで、イサリビは地面に頭を擦りつけた。俺はイサリビが容易に頭を下げる性格でないのも知っているし、ここに至るまでにどれほどの葛藤があったのかも良く分かる。それでも、プライドをかなぐり捨ててまでも、ナギリの仇を討ちたいのだろう。だけど。 「悪いが、それは出来ない」 「何でだよ!? どうせ長老の事だ、人間の居場所位知ってたんだろ!」 「ああ、知っていた。でも、お前に教える事は出来ない」 「どうして!?」 「どうしてもだ!」 無意識の内に、俺は声を張り上げていた。普段めったに怒らない俺の剣幕に、イサリビの体が微かに揺れる。 「分かってくれ。人間は強い。いくらナギリと並ぶお前だとしてもすぐに殺されてしまう」 「やってみなきゃ分かんねえだろ」 「やらなくても分かるんだよ。俺は知ってるんだ、人間の怖さを」 目を瞑ると、今でも鮮明にあの光景が蘇ってくる。ガラスの檻から逃げ出す際に、沢山の仲間が射殺されていった事を。築き上げられた死体の山を。 「人間に関わらない方がいいんだ。俺達じゃ勝てない」 「それはお前らに爪がなかったからなんだろ。俺達は生粋の野生だ、爪だって牙だってあるし、闘争心だってある。お前と違ってな。ナギリは不意を突かれたから負けたんだ。俺達は負けない」 「……俺達?」 「ああ。俺の他にも、何匹かいるんだ。人間の討伐隊に志願してきた奴がな。このままじゃ安心して暮らせない! とか言ってた」 確かに。人間達がいつ襲ってくるか分からない状況で、落ち着いた生活なんて出来ないだろう。いつ掃討作戦が始まるのかも分からないのに。 「だから、頼む。俺達に人間の居場所を教えてくれ」 もしも言わなかったら、イサリビは引き下がるだろう。だが、本当にそれでいいのだろうか? もしもこのまま手をこまねいていて、人間が攻めてきたら終わりじゃないか。そうなったら、ヒサメも―― 「……分かった、言うよ。人間の場所。その代わり」 「……んだよ」 「人間を、どうにかしてくれ」 「……おう。分かってるさ、そんな事」
そして、イサリビは帰ってこなかった。
4
なにかの破裂音の残響で、俺は目を覚ました。イサリビ達人間討伐隊が行方知れずになってから、もう三日が経とうとしている。最近は木の実の生りが悪く、くいっぱぐれる事が前より増えた。いつもなら一日二日で育つはずの木の実は、成長過程の小さいまま発育を止めている。日光は射しているのに、一体何故なのだろう。 「……腹減った」 悪態を吐いても腹が膨れはせず、胃の中の空気が動いて情けない音を立てるだけ。もう丸二日、何も食べ物を口にしていない。貯蔵していた木の実はおとといの内に食べつくしてしまったからだ。 ここで寝っ転がっていると、緩やかに餓死していきそうな気がした。 気だるさを押し殺すように外に出る。柔らかな朝の風に紛れて、何か煙たい匂いがした。さっきの破裂音と何か関係があるのだろうかと思い、辺りを見渡す。 「……向こうから、だな」 嫌な予感がして、俺は粘性の強い唾を飲み込んだ。そういえば、向こうにヒサメの住処があったな。 「大丈夫、だよな」 小さく独りごちて、俺は駆け出した。 言いようのない喪失感が、怖くてたまらなかった。
魚獲り名人のエモンガは、幼い息子を抱いて冷たくなっていた。 のんびり屋のフライゴンは、翼をあらぬ方向に捻じ曲げて息絶えていた。 上品なジャノビーは、喉に赤黒い風穴を開けられていた。 いけ好かないハブネークは、尖った木の枝に体を貫かれていた。 みんな、まだ微かに動いていた。赤黒い血が、土を嫌な色に染めていた。 静寂。森にはもう、だれの影もなかった。動く物といえば、風に揺れる梢だけ。俺達が死んでも、世界はのうのうと回るらしい。 何も考えたくなかった。ヒサメが無事なのかどうか、それだけ知りたかった。それさえ知れればもうどうだっていい。 空は青かった。とてもとても、青かった。憎たらしいほどに、青く透き通っていた。 足の抜け殻を動かして、ようやく俺はヒサメの住処に着いた。大木の洞をくり貫いて拵えたこの場所は、少しだけ甘い香りがする。 「ヒサメ」 返事は返ってこなかった。ここには居ないのだろうか、あるいはもう居ないのだろうか。そんなことはない。居る筈だ。ここは人間に見つかりにくいのだから、きっとここに逃げ込んでいるに違いない。 「……入るぞ」 とても綺麗な寝床――ヒサメは整頓が好きらしい――の真ん中に、薄氷色の背中が見えた。魚のひれに似た尻尾は、小刻みに震えている。透き通る赤い血を塗りたくったように、体は汚れていた。だが、生きている。まだ、生きている! 「ヒサメ!」 俺の声に、彼女は振り向いた。白い花びらのような襟飾りは、ワインレッドに染まっている。魚のひれのような耳は、片方がなかった。全身に大きな貫通傷、それを押さえている彼女の右手は赤黒く染まっていた。 「あ、カゼキリ。……無事、だったんだ」 言葉が終わってしまわない内に、俺は彼女をしっかりと抱き締めた。以前抱き上げたより、彼女の体は軽くて冷たい。このまま魂ごと溶けてしまいそうで、とても怖かった。決して離さないように、強く抱きしめる。 「そんな、血相変えなくたっていいのに。私、平気だよ」 頬に掛かる熱い吐息は、気丈に振る舞っているのとは裏腹に弱々しい。確実に、彼女の限界は近付いていた。 「……違うんだ。俺の、俺のせいなんだ。こうなったのも全部、俺がイサリビに人間の居場所を伝えてしまったからなんだ!」 今日の虐殺は、きっとイサリビ達の攻撃に対しての報復だ。だからあんな、見せしめのような殺され方をしていたんだ。そうに違いない。 「……ううん。カゼキリは、悪くないよ」 緩やかに伸びた手が、俺の頬から滴る後悔を拭った。 「誰も予想できなかったんだもん、仕方ないよ」 優しい言葉が、逆に辛い。俺は奥歯を噛み締めて、項垂れる。そのとき、彼女の腹部に大きな風穴が空いている事に気が付いた。 生命力を吸い取られ、徐々に弱っていく彼女は、今にも息絶えてしまいそうだった。早く、伝えなければ。彼女にこの思いを伝えなければ、俺は後悔するのだろう。 息を吸った。体が、震えている。でも。伝えよう―― 「ヒサメ。ここを出て、俺と一緒に暮らそう。どこか遠いところで、一緒に。俺はお前が好きなんだ。昔からずっと、好きだった」 ヒサメが、俺の目を見つめてきた。頬が微かに桃色に染まる。 「……あのね、私ね。ずっと、貴方の子供が産みたかった」 「……! 俺も、お前に子供を産んで欲しかった。目元は……俺に似て、鋭くて!」 ヒサメが笑って、つられて俺も笑った。 「……じゃあ、口元は私似かな? どっちにしても、カゼキリみたいに臆病じゃないといいね」 「む。ヒサメみたいに狂暴じゃないといいな」 「言ったね」 「お前こそ」 もう一度、彼女と笑った。見せた笑顔はさっきより、ちょっとだけ弱々しくなっていた。 「……なんか、薄暗くなってきたね」 ――違う。今はまだ、昼前だ。洞の中とはいえ、日光はとても明るい。ヒサメだけに、薄暗く見えているのだ。ということは、つまり……! 「ヒサメ! …………そうだな、薄暗いよな。新天地を探すのは、明日にしよう。明日朝早く起きて、一緒に探しに行こう」 「……うん。でね、今日は帰らないで欲しいな。今日だけでいいから、傍にいて」 「ああ、分かった。一緒に居るよ。これからもずっと、な」 ヒサメの頬に付いた血をぬぐって、俺は彼女の傍に寝転がった。心なしか息遣いがさっきより荒い。小刻みに動く肩は、今にも止まってしまいそうだ。 「……カゼキリ? ねえ、どこにいるの? 真っ暗で、何も見えないよ……! 音も聞こえないし……ねえ、カゼキリ」 溢れ出そうな涙と嗚咽を堪えて、俺は彼女の手を握った。とても冷たかった。生気はもうなかった。 「……ヒサメ!! 大丈夫だ、俺はここだ! ずっとお前の傍に居る!」 帰ってくるのは、沈黙という重苦しい現実だった。彼女には聞こえていなかった。動いているのはもう、心臓だけなのだろう。そしてそれも、もうすぐ止まる。 「……お願い。カゼキリに、声が届いていますように」 ぼそぼそと呟く彼女の口に、耳を近づけた。彼女が発した言葉の音を、必死に拾うために。
「カゼキリ。大好きだよ」
ヒサメが明日を迎える事はなかった。 俺の声は届かなかった。
5
ぽつぽつ、ぽつぽつ。砕いた氷の粒に似た雨が降ってくる。痺れるような冷たさが頬をつついた。瞼を開け、体を起こす。今にも落ちてきそうな分厚雲から、針によく似た氷雨が降り注いでいた。 「……んだよ。まだ生きてんのか、俺」 絞り出した声は、弱々しく枯れていた。長らくの睡眠による水分の欠損、ささくれ立った喉の奥の砂漠が水を欲している。でも不思議と、川に行こうという思考は生まれなかった。自殺願望があった訳ではない。ただ単純に虚脱感が臨界点を超えて、肌に食い込む茨のようにこの体を縛り付けているだけだ。 ぱりぱりに乾いた口を開ける。耳を伝って落ちてきた雫が、口の中に広がった。氷を噛み砕いたかのように、喉の隅から隅まで痛さに似た冷涼感が伝わっていく。同時に強い塩気を混ぜ込んだ雫も流れ込む。口の中が水で一杯になってようやく、自分が泣いている事に気が付いた。 「……教えてくれ、ヒサメ。俺はまだ、生きるべきなのか」 今にも落ちてきそうな曇天を仰いで、俺は朧気な声を漏らした。吊り上った紅い瞳に生気はなく、口は操り糸がぷつりと切れた様に締まりのない、薬物中毒者の朦朧とした表情そのもの。かつて純白に輝いていた毛皮は、降りしきる雨と泥に塗れてみすぼらしい薄鼠色に変わっていた。 「……生きていたのか、カゼキリ」 白い雨霧の向こうに、年老いた老鳥の影法師。声色にかつての朗々と張りつめた厳格さはなく、干からびた声帯をそのまま風が吹き抜けていくような年相応の錆びた声に変貌を遂げていた。 「…………ああ、長老か。全然気づかなかった。どうしたんだ、今日は。ヒサメの墓立てでも手伝ってくれんのか」 「人間に、一矢報いる方法を考えた。手伝ってくれ」 雨に濡れた長老の顔は、酷く痩せこけていた。焦点の定まらない虚ろな眼差しは、瞳全体をくり抜いたかのようにどす黒い絶望に染まっている。人間に襲われたのか、堂々立派な翼にはどす黒い血の跡が沢山こびり付いていた。広がり方から考えて、返り血ではないだろう。つまり。 「……それは、俺たち二匹だけで出来るのか。この死にかけた体で出来る事なのか」 「出来るさ。だが、残された少ない命の間に、人間に報いる事は不可能だ。儂たちが人間の苦しむさまを見る事は出来ん。それでもいいか」 「……直接殴りこみに行くとか、そういうのじゃないんだな」 「ああ、違う。数年の内には効果が表れないかもしれないし、もしかしたら何も起こらないかもしれない。それでもやってくれるというなら、詳しい計画を話そう」 「教えてくれないか」 抜け殻に等しい体からは想像できない程の速さで、俺はネイティオに詰め寄った。深い絶望と形容しがたい痛憤の感情に塗れたその顔に、かつての面影はもう存在していない。 「……分かった、話そう。儂らにはもう時間がない、着いてきてくれ」 激しい風雨に荒れる空に、樹枝状の雷糸が迸る。地を揺るがすような放電音が低く轟き、森に立ち聳える背の高い木々を強く揺らした。葉擦れの重苦しい音色が自分たちを嘲笑っている。 もう、そうとしか考えられなかった。
歩を進めていく内に、風雨が激しくなってきた。跳ね返りの白靄が景色を奪い去り、眼前に広がるのは純白の闇景色。唐突に閃き落ちる太い稲光に照らされた横顔、酷くやつれている為か顎は尖り頬骨が表れ、ぎらぎらと血走る瞳だけが、“それ”が生き物であるという事を物語っている。 鋭利に尖った丘の上に、俺たちはいた。薬毒に蝕まれた体は既に内部から朽ち果てかけている。極度の空腹と脱水症状は残り少ない生命を着実に削り、もう何もないこの体から奪い去っていく。今の精神状態と身体状況で、この丘に辿り着けたのは言わば奇跡なのだろう。 ……奇跡なんて、何を今更。 「……さあ、教えてくれ。俺はどうすればいい」 ふと、体の中に虚空が広がっていくのを感じた。聴力が削ぎ落とされ、耳が微かにしか聞こえなくなった。俺の発した言葉は、果たして正しく届いているのだろうか。あれ程までに強かった氷雨の音が、とても遠くに行ってしまった。手の届かないほどに、遠くへと。 「――――リ! カ―――リ!」 ああ、やっぱりか。長老の叫ぶ姿は見えるのに、声が途切れ途切れにしか聞こえてこない。羽虫の音を耳元で聞いているように、遠ざかっては近付いて、また遠ざかっていくような。 諦めに近い感情を抱こうとして、長老の体が妖しげな光を纏って見えた。白霞で包まれたこの視界のなかでも、それは確かに光っていた。いつもより弱々しく、光っていた。 『聞こえるか、カゼキリ。今、お前の頭へテレパシーを送っている』 ノイズがかっていたが、それは確かに長老の声だった。 『もう何も言うな。儂の言う事を実行してくれれば、それで――』 ところどころ言葉が不明瞭だったのは、長老の限界が近いからなのだろう。確証はなかったが、確信はあった。
とうとう雨音が聞こえなくなった。雨は降っているのに、音が何も聴こえない。こんな土砂降りの筈なのに。なにも聴こえない。 『……一度しか言わないから、しっかり聞いてくれ。世界中のポケモンに、お前の声を届けるんだ。ここでこういう事があったんだと、飼われているポケモンに呼びかけるんだ。儂のサイコパワーを振り絞れば、全世界にお前の声を届ける事など造作もない。さあ』 今度のテレパシーはとてもはっきり聞こえた。だが、長老が何を言っているのか理解できなかった。 『お前の考えは分かっている。だが、儂らにはもうこれしか残されて――』 ざざ、ざざざざ。雷雨のようなノイズ音にかき消されて、長老の声はぷつりと途絶えた。慌てる気力もなく、鈍重に首を傾げる。長老はまだ立っていた。今すぐにでも、死んでしまいそうだった。灰色に濁った大きな黒目が、こちらをじっと見つめていた。何を言いたいのかは、もうわかっていた。 何を言おうか迷って、俺はどす黒い空を仰ぐ。 白靄が強くなっていく。 指先がしびれてきた。 雨の冷たさが消えた。 視界が白霧に塗れて、もう何も見えなくなった。 俺にはわからなかった。 俺の声を聞いて、飼われたポケモンが動こうと思うのか。 いや。 違う。 俺の、一番の願いは。
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残滓に等しい命を集め、瀕死の獣は大きく吼えた。 漁火を揺らし。 風を切り。 氷みたいな雨の中。 誰かが反旗を翻すと、固く願って。 青年は、ただ吼える。
「俺も、大好きだ」
ヒサメに声が届くまで。
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