Fake ( No.8 )
日時: 2013/04/12 21:48
名前: カエル師匠 メールを送信する

テーマA「ガラス」



 ガラス越しの景色は自分の目で見るよりもきれいだ。
 そこにあることすら感じさせないほど磨かれたガラス、はたまた脂と埃の膜を張ったガラス、いろんな色をちりばめて荘厳さを主張するガラス、すりガラス、飲み物を抱いたガラス、丸いガラス――。枚挙にいとまもないほど世界はガラスで満ちあふれている。そしてその数だけ世界は縁取られていく。
 ああ、なんて美しいのだろう。
 ぼくはうっとりと外を眺めた。お気に入りは喫茶店の薄汚れた窓ガラスだった。長い年月の間にヤニに侵されて、透明とはほど遠い茶色がかった姿になってしまっている。しかし、そこが良い。ここから見る街の様子はまるで胃空間で、車のライトや街灯がぼんやりと広がって裸眼では決して見えない風景を与えてくれる。それだけでなく有機物がもつ一種の醜い、生への貪欲な願望すら、ガラスを通せば無機物の清らかさで覆い隠されるのだ。凍えるような寒空の下を足早に進む人々、花火のような明かり、途切れることなく続く車の流れ。まるで一枚の名画である。題名をつけるならばくすぶった街だろうか。
 からんからん。
 鐘が軽やかに鳴り、客が訪れたことを知らせる。ふうっと冷たい風が足をなでた。入ってきたのは背のやけに低いやつでコートの襟を立てて首を竦めキャスケットを目深に被っているため、顔は窺いしれない。それでもせき込んだ声は低くかすれた男のものだったから、性別だけはわかった。男は喫茶店のオヤジにコーヒーを注文すると、他に客がいないというのにわざわざぼくの座っているテーブル席に腰を降ろした。対面すると思っていたより背は低くなかった。
「こんばんは」
 黄色くて不潔な歯をむき出しにして男が笑う。たばこと口臭のまざった、とんでもなく不快な息が鼻をつく。吐き気がした。
「あ、あなた、アール・フォレストの、かた……ですか」
「ええ、ええ、そうですとも。わたくしアール・フォレスト営業部のスドウと申します」
 スドウと名乗った男は慇懃に、かつ棒読みで続ける。
「弊社は生きているガラス工芸をお客様に最安値でお届けしております。生きていると申しましても本当に命を得ているわけではございません。まるで今にも動き出しそうなガラスのポケモンをご提供させていただきます。検品には細心の注意を払っておりますが、万が一不良などございましたら良品とのお取り換えを無償でおこなわせていただきますので、なんなりとお申し付けください」
 そこまで一気に言い放ち、スドウは提げていたアタッシュケースを丁重な手つきで机へ置いた。ごくりと息を飲む。留め具が外される音がやけに大きく聞こえる。
 ――めまいがした。
 ぼくは昔からガラス細工を集めるが好きで、特にポケモンを扱った工芸品を愛好している。つるりとした体のポケモンたちは、その滑らかな姿でぼくを魅了した。時に雄大で重厚で、またある時には愛らしく軽やかで、そして常に美しい。ただ、それなりの出来映えを期待すれば、それなりの現金が必要になる。有名な工芸師の作品など安月給のぼくには到底手が届く品ではない。しかたなく、大量生産されたガラスのポケモンで羨望をなだめていた。
 そんな中でアール・フォレストという会社をみつけたのは偶然でしかなかった。運命だとか必然だとか、そういう風には思えない。本当に偶然だったのだ。
 その日ぼくは、いつものようにネットサーフィンをしてガラスのポケモンたちを眺めていた。サムネイルのポケモンたちは一様に粗造りで、安い。安いといってもたいてい五千円からなのだが、それを下ると大きさも品質も希望を満たしていないことが多い。ずらりと並んだ商品をかいくぐっていく。そのなかでひとつ、やけに酷評をされて値段が下落しているガラス細工を見つけた。興味を持ってクリックすると、すぐに写真が展開される。映し出されたガラスポケモンは驚くべき精巧さと表情を兼ね備えていた。ぼくはしばし自失し、画面の向こうを見つめたまま感動に打ちのめされてしまった。あの衝撃をなんと表現すればいいのかわからない。
 ガラスでありながら、そのネイティはどう見ても生きていた。量産しやすいように簡略化されているわけでもなく、どこか遠くに投げかけるような視線や、毛先の細やかさまで完璧に再現していた。それはぼくが喉から手が出るほどほしかった匠の作品よりもリアルで、そして異様なほど安かったのである。下落する前の値段も出来のよさからすれば破格といえるものであった。ぼくは素直に喜ぶと同時に、なぜこれほどの品が星ふたつという評価を甘受することになったのか疑問を持った。この電子市場サイトは、購入者が次の購入者のために商品に対する批評をつけるというシステムが搭載されている。たまに良品を悪辣な言葉でおとしめる利用者や、欠陥品を良品だと偽る利用者がいる。その類なのではないかと半ば期待して評価を見てみた。
 酷評のほとんどがリアルすぎて気持ち悪いといった一方的な避難や、ネイティの表情が苦しんでいるように見えて不吉な感じがする、という苦情で埋まっていた。良い評価はリアルで安いのがいい、というものが大半であった。たしかに写真からリアルだと判断できるほどの完成度であれば、気持ち悪いと称する人も出てくるだろう。苦しんでいるかどうかはぼくには判断しかねる。これは個人の完成でしかないのだし、そもそもポケモンに顕著な表情などある方が珍しいのではないか。
 とにかくぼくは興奮した。
 この値段でこの造作。買うしかない。
 数日後、丹念な梱包で守られたガラスのネイティが届いた。思っていたとおりの素晴らしい作品で、ぼくは寝食を忘れるほど夢中になってしまった。色具合も一級品、質の高さは五つ星である。ほぼ原寸台ということもあって迫真感が異様に高まっている。羽のグラデーションもさることながら、瞳などは黒真珠をはめたように煌めいていて筆舌に尽くしがたい。土台のガラスもしっかりとしていて、とてもあのような値段で買えたとは思えなかった。
 ぼくはネイティをガラスケースに入れて他のコレクションよりずっと輝かしい位置に置いてやり、すぐにパソコンへとかじりついた。先日の履歴をたどれば、ガラスのネイティを販売していた業者がわかるはずだ。他のポケモンも扱っているに違いないという当て込みがぼくを突き動かし、どんどんページを開いていく。
「出品者アール・フォレスト」
 それが出会いだった。
 ぼくはアール・フォレストが出品している他のガラスポケモンを片っ端から注文していった。スボミー、オニスズメ、キャタピー、ビードル、ナゾノクサ、ピチュー、ヒマナッツ――。どれもこれもあり得ないほどの一品だ。そしてどれにも信じられないほど酷評がつきまとっていた。だけどぼくはものともしないで買いあさり、アール・フォレストの商品をすべてそろえてしまっていた。
 こうなると欲望がすっかり満たされたにも関わらず、新たにわき出てくる物欲を押さえるのが難しくなってくる。他社の製品をいくら買っても、アール・フォレストにはかなわないという気持ちがせり上がってきて楽しくないし、この質でこの値段はおかしいという思いばかりが頭を占めてしまう。
 気がつけば、ぼくはアール・フォレストのとりこになってしまっていた。
 愕然とした。元々、ガラスフェチであるという自覚はあったのだが、寝ても覚めてもあのネイティやスボミーたちのことばかり考えてしまうのは普通ではなかった。よくわからない寒さが走る。恐い。けれど、しあわせでもある。完全に欲望を充たせばこの恐さもなくなるんじゃないのか。そう思うとまさしくそうだとしか認識できなくなった。
 アール・フォレストから接触があったのはそんな、もやもやとした充足されない毎日を送っていた時だった。
「生粋のガラス愛好家様とお見受けいたしました。差し出がましいようですが、まだ市販していない商品をお客様にだけご提供させていただきたくお電話さしあげました」
 事務的な女性の声が電話口でそう告げた瞬間、ぼくの目の前は大きく揺れ動いた。
 売られていない作品が、手に入る!
 世界中の空気が一瞬で澄んだものに変わったような感覚に襲われ、地球の自転を体感したと錯覚した。天地がひっくり返ったってしあわせだと言えるくらい心は浮つく。
 もちろん二つ返事で承諾し、ぼくは指定された場所で営業の人を待つことになったのである。そこがこの喫茶店で、営業の人というのがスドウであった。醜く、汚らわしい男と面を合わせるのは苦痛でしかないが、やつが持ってきたアタッシュケースからは神秘的な雰囲気すら漂っている。きっとこの中に、と想像するだけで気が遠くなる。
 すべての留め具が外された。徐々に蓋が持ち上げられていく。一秒一秒がいやに長く感じられる。脂汗が全身から吹き出してくる。心臓がのどをせり上がってきそうだ。脈打つ音が口の中いっぱいに広がっていく。
「ああ……」
 大量の綿に保護された光沢質の表面は、ぼくに官能的な快感をもたらした。
 そこにいたのは、時間のはざまに閉じこめられたように動きを止めたキレイハナだった。頭部を飾る二房の花、踊り子の衣装を連想させるたっぷりとした葉、くりくりとしたつぶらな瞳、そして空へ上げられた小さな両の手。どこをとっても申し分ない。今までの作品よりも仕上がりが向上しているようにも見える。
 スドウが何か理解できない騒音を口から吐き出し続けるが、ぼくの頭には部屋のどこに彼女を飾ろうかという考えしかない。折れそうなほど繊細な葉の重なりには感嘆の息がもれるばかりだ。無性に触りたくなって震える腕を伸ばす。あと少しの距離でキレイハナは箱の中に閉じこめられた。スドウのにやにや笑いがますます広がっている。
「お客様、どうでしょうか。お気に召していただけましたでしょうか」
 舌打ちしそうになるのを寸でのところで抑え、ぼくは肯定をしめした。
「お値段なのですがこちら少々値が張りましてねえ。いえいえもちろん勉強させていただきますが、わたくしどもも精一杯削れるところまで削っていてですねつらいものがありまして、はあ、まあ、ネット通販のものよりお高くなっております」
 そう言ってスドウが提示してきた金額はたしかに高かった。もし現物を見る前に値段を知っていれば購入を渋っただろう。だけどあのキレイハナの美しいことと言ったら! 逃してしまえばきっと後悔する。日々を悔やんで過ごすくらいなら多少の金を失ってでも、平穏と美を手にした方が数倍、いや数万倍ましではないか。迷うなど正気の沙汰ではない。
 ぼくは決意もあらたに、売買契約書のようなものにサインし、彼女と引き替えるための札を数枚スドウに渡した。スドウは卑屈な笑いをもらしながら金をしまい込み、代わりにアタッシュケースと薄いパンフレットのようなものを差し出す。淡い水色の表紙には水晶でできた森が広がり、中心部にはローマ字のRが幻想的な字体で控えめに描かれている。どうやら製品カタログのようだ。
「そちらはネット通販で取り扱っていない弊社の製品カタログでございます。その中の品でしたらご注文後すぐに発送いたします。その、申し訳ありませんがこちらも少々……」
「いえ、大丈夫です。そういうものですよね」
「いやあ! そう言っていただけるとありがたい」
 スドウがずるずるコーヒーをすする。
 ぼくはそっけない灰色のアタッシュケースを撫でた。この中にあのキレイハナがいるのだと思うだけで、目の前の醜男にも耐えられる。
「そういえば、お客様はポケモントレーナー様でいらっしゃられますか。いやなに、先ほどお腰にモンスターボールをお提げになっているのをちらりと拝見したものですから、ちょっとばかし気になりましてねえ」
「ポケモントレーナーっていうほど大層なものじゃないですけど……」
「どのようなポケモンをお持ちで?」
「チリーンを一匹だけ」
「チリーンですか! ほほお」
 スドウの視線がねっとりと、チリーンの入っているボールへ注がれる。前言撤回だ。いくらガラスのキレイハナがぼくを慰めてくれてもこの男の不愉快さは緩和されないし、いますぐにでもこの場を立ち去りたい。
「あのお。ぼく、そろそろ」
「ああ。どうぞどうぞ。お忙しいところすみませんねえ。お客さま、本日はどうもありがとうございました。またごひいきに」
「はあ」
 会計を済ませ、一度だけ振り返る。スドウはなにやらポケギアで熱心に電話をしているようだった。もう二度と会いたくないな、と思いながら店を出た。息が白くにごった。



 数ヶ月が経った。
 ぼくの部屋はみっしりとガラスのポケモンたちで埋め尽くされている。ガラスケースに安置されたガラスのポケモン、その間を縫うようにしてぼくのチリーンが飛び回っていた。チリーンは風鈴ポケモンと呼ばれるだけあって、容姿だけでなく鳴き声も夏の風物詩と酷似している。動くたびにちりんちりんと涼やかな、季節はずれの音がこだまする。
 いつもなら耳を楽しませてくれるはずの声も、最近のぼくにはうっとうしくて仕方がない。食事と睡眠をろくにとっていないせいだろう。気分も最悪だった。音を遮断しようとソファーに寝転がったまま、クッションを手繰りよせて顔に押しつける。音が鈍くなった。少し心が安まる。チリーンも主人に構ってもらえないとわかったのか、徐々に鳴き声をフェードアウトさせていった。
 しばしの静寂。ぼくは胃の痛みをこらえながら、なんとか眠ろうと努力する。少し寝たらバイトに行かなければならない。アール・フォレストの商品を買うためにぼくはシフトを大幅に増やした。そして食事の回数をできるだけ減らした。それでようやく月に二個ほど、新作のガラス細工が手に入る。極限の生活だけど、ガラスポケモンのためを思えば苦にはならなかった。
 クッションを頭の下へ持っていく。見上げる天井は暗く、くすぶっている。チリーンがぼくをのぞき込んで、控えめにちりん、と鳴いた。そうして甘えるようにすり寄ってきた。やめろと言っても聞かない。どちらかといえば素直に従う性格なのに、きょうに限ってやけにしつこい。
 すり寄ってくるチリーンを苛立ちまぎれにはねのけるも、チリーンは遊んでもらっているつもりなのか何度も何度もぼくの頬に体を当てる。
「おい! いい加減にしろよ!」
 頭にかっと血が上って、起き上がりざまに思わず強く払いのけてしまった。はっとした時にはもう遅く、チリーンの軽い体は強く吹き飛んで、あのキレイハナのケースにぶち当たっていた。ケースがぐらつく。ぼくは慌ててケースを支えに行こうとしたけれど、あちこちに散らばったゴミを避けている間にケースは不自然なほどゆっくりと落下しはじめた。ガラスの砕け散る瞬間に時間は急激にもとの速さを取り戻したようだった。
 がしゃーん、だったかそれとも、ぱりーん、だったのか。あまり覚えていない。とんでもなく大きな音がして、透明だったガラスは割れる瞬間だけ白くなった。中に入れていたキレイハナは、見るも無惨な姿に変わり果てている。花が欠け、顔が半分割れて、手が両方とも無くなった。葉のスカートは粉砕されていた。ぼくの頭はぞっとするほどまっ白になっていく。なにも考えられない。よたよたと退いて、ソファーに身を投げる。
 また買い直せばいいなんて、その時は思い浮かばなかった。しばらくしてポケギアが鳴って、ようやくどれだけ時間が経っていたのかわかったくらいだ。発信先はきょうバイトに行くはずだった飲食店からだった。時計を見れば、出勤時間はとっくに過ぎている。ぼくは怒鳴り声を予期しておそるおそる通話ボタンを押した。
「もしもし」
「あ、もしもし? どうしたの、無断欠勤なんて珍しいじゃないの」
「はあ、すみません。ちょっと気分が悪くて」
「気分が悪いなら悪るいで連絡くらいくれなきゃこっちも困るのよねえ。他の子に入ってもらうにしてもせめて何時間か前に言ってもらわないと人手足りなくなるでしょう。あんた最近ぼうっとしてたし、やる気ないなら辞めてくれてもいいのよ、うちとしちゃあ」
「あ、いえ、やる気はあります」
 ここの時給はそれほど高くはないものの、ただでまかないがでる。今クビにされたらぼくは収入を断たれるだけではなく、数少ない食事すら取り上げられるのだ。
「今回だけは見逃してあげるけど、今度こんなことしたらすぐに辞めてもらうからね。それじゃあ」
 ぶつっと素っ気なく電話が切られる。
 ぼくはポケギアをソファーに叩きつけた。胸がむかむかする。
 何かが部屋の片隅で震えた。ぼくは視界に入ったそれに何気なく目をやり、そして後悔した。チリーンが怯えている。ぼくの一挙手に体をわななかせ、隠れるように物陰に体を押し込んでいる。とはいえ、この部屋にチリーンが隠れられるような場所はないので丸見えだ。怒らないでくれ、責めないでくれという哀願がやけに癪にさわった。
「なんだよ……おまえまでぼくを責めるのかよ。そもそもおまえがしつこくしなかったらキレイハナが壊れることも、ぼくがバイトすっぽかすこともなかったんだぞ! わかってんのかよ。おい。なんとか言えよ!」
 チリーンは帯状のしっぽを体に巻き付けて、ただただ震えている。無性に腹が立つ。そうだ、新しくキレイハナを注文しなくては。そうしてこの苛立ちを鎮めよう。
 ぼくはパンフレットを取り出して、ポケギアを握りしめた。勝手しったるとはこのことで、アール・フォレストに事情を伝えるとすぐにスドウが出た。あの汚い男は電話越しでも人を不快にさせる力があるようで、ぼくはやつの第一声を耳にしただけでため息をつきたくなった。
「いつもありがとうございます、スドウでございます。お客様、事情はうちのものから聞かせていただきました。災難でございましたねえ。ガラス製品は壊れやすいのが難点でして、我が社もなんとか耐久性に優れたものを作ろうと日夜研究開発を重ねているのですがいかんせん難しい課題でして。ところでキレイハナの再注文ということでしたが……大変申し上げにくいのですがこちら値段が以前より高騰していましてねえ」
 ざっとこれくらいしますよ――スドウが言いにくそうに口にした値段はぼくを徹底的に地獄へ叩き落とした。
 そんなもの易々と買えっこない!
「どうしてそんな、急に値段が上がったんですか」
「それがうちも経営不振でしてね。新作もなかなかできないし、ネット通販の方も返品が多くって商売あがったりなんですよお。キレイハナは元手も割高で採算がとれないってんで社長が値段設定を上げろってうるさくて。申し訳ありませんねえ」
「……そう、ですか」
「でもですね、お客様、いい話がありますよ。お客様のそのいたずらチリーンちゃん、うちにしばらく預けてみませんか。もちろん責任を持ってお預かりいたしますし、報酬にキレイハナとうちの製品数点をお贈りいたします。どうです、ご検討ねがえませんか」
 スドウ曰く、アール・フォレストはポケモンをデッサンしてから鋳型を作成し、そこにガラスを流し込んでガラスにんぎょうを作っているらしい。チリーンなら見た目も可愛らしいし、これから夏にかけて売ればきっと目玉商品になるだろうということであった。なるほど、入念なデッサンがあれほど完璧な工芸品生み出しているのか。
 ぼくはもちろん、すぐに返事をした。
「ぼくのチリーンなんかで良ければ、ぜひ使ってやってください!」
「本当ですか! いやあ、助かります。ではさっそく、こちらにチリーンを転送していただけますか。きっと製造部の方も大喜びですよ!」
 ぼくは粉々に砕けたガラスを踏みつぶし、チリーンに歩み寄った。怯えた目とかち合う。それをみないようにして、モンスターボールの開閉ボタンを押すと、チリーンは粒子となって吸い込まれた。
 転送システムはポケモンセンターに必ず常備されている設備だ。ぼくは急いでポケモンセンターへ向かう。少しだけチリーンが可哀想に思えて、信号待ちの間にボールを目の高さまで持ち上げた。
「ごめんな、ちょっとの間だけ向こうでがんばってくれよ」
 チリーンが中でうなずいた気がした。



 ガラスのチコリータが届いた。同封されていた手紙にはチリーンはすぐに見つけだすので心配しないでください、といったような文言が無機質に書かれていた。
 ちりん、と風鈴が鳴る。青空を背景に鳴るそれは、どこかチリーンを彷彿させるような赤い模様が入っている。
 ぼくのチリーンがいなくなったと初めに聞いたのは、あの日から三日たった夕方のことだった。スドウの語り口があまりに淡々としたものだったから、ぼくは現実だとすぐには信じられなかった。どうやら向こうの不手際で、チリーンを入れていたゲージの鍵が上手く施錠されていなかったらしい。朝、世話をしていた社員が見つけ、しばらく方々を探し回ったのだがまったく見つからなかったそうだ。
 すみませんねえ、とスドウは謝っているふうには到底思えない声音でそう言った。ぼくはチリーンを失った実感を持てなかった。スドウもそうなのだろう。彼からすれば書類上のポケモンで、しかも相手は契約すら交わしていないボランティアにすぎない。もしぼくがアール・フォレストを訴えたところで証拠もなにもないから、立件のしようがないのだ。
 冬が終わり、春になった。
 ぼくは未だにアール・フォレストを利用している。ポケモンを逃がしてしまった会社だというのに、中毒者のようにひたすら購買を続けている。バカだと自分でもわかっている。それでも止められなかった。
 ちりん、ちりん。
 そうだ。一度アール・フォレストに行ってみよう。
 もしかしたらチリーンはぼくのところへ帰ろうとして、道に迷って帰れなくなったのかもしれない。ぼくが近くに行けばきっとチリーンはぼくを見つけられるし、ぼくもチリーンがわかるはずだ。どうして今まで思いつかなかったんだろう。とてもいい案だ。
 そう思うと居てもたっていられなくなり、ぼくは鞄とポケギアをひっつかんで家を飛び出した。家を出るとさわやかな春の日差しがぼくを出迎えてくれた。じりじりと肌を焦がす太陽と、ぬるい空気ばかり運ぶ風が恨めしい。ああ、駅までどれくらい歩けばいいのだろう。
 アール・フォレストは港町クチバにあるらしい。ここからだと四時間はかかる。電車賃くらいは財布に入っているから、まあ、心配はいらないか。駅につくとちょうど目当ての電車が来るところだった。あわてて駆け込む。駆け込み乗車はお止めくださいというアナウンスに、思わず顔が火照った。
 電車に揺られている間、ぼくはずっと胸にためこんできた懺悔を反芻していた。チリーンはぼくに捨てられたと思いこんだのではないだろうか。あの時、抱きしめもせずに無感動に引き渡したのだ、そういうふうに考えてしまってもおかしくはない。もしそうなのだとしたら、チリーンが逃げてしまったのもうなずける。ぼくが全部悪いのだ。寂しがっていたチリーンに当たって、頭ごなしに怒鳴りつけて、あげく自分の私利私欲のために譲り渡した。チリーンが傷つくのも当然のことだ。
 クチバはぼくが想像していたよりも活気にあふれる町だった。アール・フォレストの住所を見るとどうやら港の方にあるらしく、どんどん海が近くなってくる。潮の香りもしてきた。広々とした森林公園を抜けるとぱっと青い海が眼前いっぱいに広がって、その傍にはたくさんの倉庫がずらりと並んでいた。どっしりと構えた姿の割に、潮風に長く当たっていたせいか寂れた雰囲気が漂っている。どうやらこの倉庫のひとつがアール・フォレストらしい。倉庫を会社代わりに使うとはなかなかこじゃれている。
「このなかから見つけるのって案外大変なんじゃあ……」
 スドウにでも連絡して、迎えを出してもらえばよかった。
 途方に暮れながらもひとつずつ覗いていく。貨物の積み卸しを手伝っているワンリキーやゴーリキーたちが人間と一緒に働いている、ということが多かった。覗いていることを咎められるのではないかとびくついていたぼくだったが、いつの間にか気にせずに堂々と覗いたり、あまつや倉庫の中へ入ったりするようになった。人の出入りが多い分、こそこそとしていなければ見咎められることはないみたいだ。
「ガラスポケモンの鋳型だけどさあ」
 不意に若い男の声が聞こえてぼくは足を止めた。どうやらこの黒塗りの倉庫から聞こえてきているらしい。そっと聞き耳を立てる。
「エスパータイプ何匹かで金縛りにして型にはめるらしいぜ。そうしたら型をわざわざ高い金かけて作らなくていいし、すげーリアルなのができるんだってよ」
「まじで? でもそれって違法じゃん。つーかさすがにそんなことするわけねえだろ」
「まじだって。おれこないだ現場覗いたんだけどよお」
「うわ、それスドウさんにばれたら首どころじゃねーぞおまえ。よくやるよな」
 スドウ。その名前に体がかすかに震える。
「まあな。でさ、作業場あるだろ、あそこにポケモンが檻に入れて並べられててさ。スドウさんがにやにやしながらユンゲラーとかに金縛り命令するわけ。そしたらポケモンがよ、こう、ちょっと苦しそうにしながら固まるんだよ。それをそのまま鋳型用のやつに押し込んで、生きたまま固めて中身が溶けるまで炉で――」
「やめろって! 気色悪い。つうかさ、おれらは上のそういうのに首つっこまない契約だろ。なんかあった時に巻き込まれてもしらないぜ」
 生きたまま、鋳型にされて――。
 そんなバカな! それじゃあぼくのチリーンは行方不明になったんじゃなくて、スドウに生きたまま焼き殺されてしまったのか!? あのチリーンが、型にされて、そしてあの精巧すぎるほど精巧なガラスのポケモンに――?
 ふざけるな、そんなはずがない。そんなのおかしい、それならぼくの部屋にあるあのガラス細工たちは生きたポケモンから作られたっていうのか。そんなことがあるわけがない、そんなものがあってはいけない、そんな、そんな。
「うわああああああ!!」
 チリーンを探さないと、チリーンを見つけて家に帰るんだ。そうすればきっとこんなの嘘だって笑い飛ばせるにきまってるそうだそうだそうだ!
 森。森だ。森が広がっている。
 ちりん、ちりん。
 ガラスの擦れあう音だ。
 おかしい、葉が、幹が、枝が、ぜんぶガラスになっている。どういうことだ。光の乱反射、七色に満ちる。ぐるぐると回る。ここから逃げないと。世界が無限に拡大する。あっちにもこっちにもガラス、ガラス、ガラス!
 ぼくの足元にあの粉々に砕けたキレイハナがいる。
「どうして私を壊したの。痛いわ、痛いわ、どうして助けてくれないの。ここは熱いあついあつい」
 これは幻覚だ。幻覚に違いない、そんなはずはない、生きている。生きてしゃべっている。手を伸ばそうとしている。無い手を伸ばしている。
 ガラスの森から逃げないとぼくは狂ってしまう!
 ネイティ、オニスズメ、ピチュー、ロゼリア、ハネッコ、ぼくが買ったガラスのポケモンたちが悲鳴を上げている。きいきいと耳障りな悲鳴を上げ続けている。紅蓮の炎に焼かれ、無機質なガラスに変えられていく。ぼくのつま先もじわじわと消えだしてきた。どうすればいい、どうすれば。
 きらりと視界の端でガラスではない何かが光った。あれは水か? それともこの狂った森から抜け出すための出口なのだろうか。
 おや、チリーンがいる。
 なんだそこにいたのかだめじゃないかしんぱいさせちゃあ。ぼくがわるかっただからもどってきてくれ。いえにかえったらあのきもちのわるいがらすのぽけもんはすべてすててしまうよ。だからゆるしてくれ。
 チリーンが笑う。
 ぼくはやっとチリーンを抱きしめられた。




 クチバ港で男性の遺体が発見された。近くを通りかかった男性が気づきユンゲラーとともに救助したが、搬送先の病院で死亡が確認された。原因は水死。男性は身元を証明できるようなものは所持していなかった。クチバ署は身元の特定を進めている。遺体はチリーンのガラス人形を抱きしめる形で湾内に浮いていた。同署は自殺とみて捜査を進める方針だ。

 四月十日の新聞より抜粋。