ガラス色の終末 ( No.7 )
日時: 2013/04/10 18:34
名前: 戯村影木 メールを送信する

 テーマA:ガラス

 0

「本当に、ずっと一緒にいられるといいな」
 リリアはそう言った。彼女が出来る意思表示は、もはや言葉を紡ぐことだけだった。彼女が受けられる意思表示は、言葉を聴くことだけだった。
「ずっと一緒だよ」
 僕は、何度も覚悟を決めた言葉を、改めて口にした。ずっと一緒、という、何の拘束力もない言葉は、しかし、疑いの気持ちのない僕の心から放たれ、真実の約束となって、リリアの耳に届く。
「リュー、最後に、お願いがあるんだけど」
「なんだよ改まって」
「キスして欲しい」
 今更そんなこと、と僕は思う。そして、僕も今更、そんなことに気付く。言葉以外にも、まだ伝えられることはあったのだ。けれど、キスをしてしまえば、もう言葉は交わせない。だから、お互いにとって初めてのその行為は、最期の合図に決めていたのだと、またすぐに気付いてしまう。もうこれ以上交わす言葉はないという、リリアの意思表示なのだと、ついに気付いてしまう。
「もう、さよならだから」
「ずっと一緒にいるんだろ?」
「うん、そうだったね」
 リリアは穏やかに言って、ついに口を噤んだ。
 僕はリリアの、まだ人間である場所に、唇を重ねた。
 もう、言葉を交わす必要はない。
 僕は、リリアの記憶が、この初めての口付けのまま、永遠に止まってしまうことを祈る。
 ――そして、温度のなくなった唇から離れ、あまりに美しくなってしまったリリアの姿に、涙を流した。

 7

 最近リリアの様子がおかしい。
 もっともリリアがおかしいのは今に始まったことではないのだが、ここ最近……特に一ヶ月くらい、様子がおかしい。あんまり僕にちょっかいを出さなくなったし、まだ秋も始まったばかりだというのに手袋を離さないし、あれだけ渇望し、半年に及ぶバイトの末ようやく手に入れた新型の端末(透明素材、折りたたみ式、全面タッチパネル、投影装置完備)を手放して、一世紀以上前に流行ったボタン式の携帯端末を利用している始末だ。
 おかしい。
 何がどうと言われても微妙なのだが、なんだか全体的におかしい。
 かといって、なんとなく自分から話しかけるのもタイミングが掴めず、ずるずると一ヶ月が経過していた。しかし流石に一ヶ月もまともな会話をしていないと、腐れ縁相手として気になるものだ。
 だから僕は思いきって、リリアに話しかけてみることにした。高等部の授業日程が終わった金曜日の午後。一緒に帰るから待っているように指令メールを出した。
 主従関係にあるわけではないが、リリアは僕が何かを命じると素直に従う犬のような存在だ。だからそんな相手の様子がおかしいと、こちらとしても気が気ではない。それがただの言い訳であるということは、言っている僕が一番よく分かっている。
「あ、リュー、こっちだよ」
 正門の所で、リリアは大人しく待機していた。なんだ、会ってみれば大して変わったところは見られない。目に見える問題点は、やはりリリアは寒くもないのに手袋をしていて、時代遅れのボタン式端末を操作しているというところくらいなものだった。
「久しぶり」
「だね」
「じゃあ、たまには一緒に帰るか」
「うん。久しぶりだね」
「なんでリリアも言うんだ」
「久しぶりだなあ、と思って」
 訊ねたいことはたくさんあったが、どれ一つとして気軽に訊ねられる類のものではなかった。例えば男女関係についてのことだったりしたのだが、訊ねられるわけがない。
 対するリリアと言えば、どうでも良い世間話を矢継ぎ早にしてくる。心なしか嬉しそうで、それでいてどこか本音が隠れているような様子だった。
「リューは最近どうだった? 何か楽しいことあった?」
「いや……別にないな。普通だよ、普通」
「そうなんだ。楽しまないとだめだよ、短き青春なんだから。友達と青春を謳歌したり、可愛い彼女作ったりさ、そういう……ほら、ね」
 その発言に至って、ようやく僕は違和感を覚える。
 僕の思い上がりでなければ、リリアと僕はお互いに何となくお互いのことを意識している、なんと言うか、ありがちでいて実際には珍しいような関係だった。
 なのに、リリアは僕に、彼女がどうの、という話題を提供してくるではないか。
 それはあれなのか。いい加減告白してくれという意味の発言なのだろうか。それとも、リリアはリリアで彼氏を作ったという意味なのだろうか。だとしたら由々しき問題だろう。聞き捨てならない。
「……あのさあ、リリア、何かあった?」
「んー……どうして?」
「なんか、様子が変だからさ」
「そうかな? ……そう見えないようにしてたんだけど」
「何があったんだよ」
 僕は我慢出来ずに訊ねる。
 リリアは立ち止まり、沈黙を利用する。
 ――そして、たっぷり時間を置いたあと、僕を見ないままで言う。
「……リューさ、ガラス細工症候群って、知ってる?」

 6

 それは、生半可な覚悟で臨んで良い話題ではなかった。
 ガラス細工症候群。
 身体が末端からガラス化していき、最終的には全身がガラスになってしまうという、奇病。癌への治療が確立され、物理的な即死以外であればほとんどすべての病気への対抗策が取られた現代医学に、再び脅威をもたらした原因不明の症状。
 もろにファンタジーのような病気である。故に、医学どころか、科学ですら扱えない分野に位置している。漠然と、現代社会が生み出した悲劇だというところまでは分かっている。摂取するものだとか、日常的に触れるものだとか、そういうものが原因で、ガラス化する。けれど、どういう条件で、どういう対象が、どうしてそうなってしまうのかは分からない。
 だから、ガラス細工症候群になったということは、
 簡単に言えば、近々死ぬ。
 そういうことだった。
「……」
 絶句する僕を優しく扱うように、リリアは何も言わずに立ち去った。僕は呼び止めることも出来なかった。ただ呆然と立ち尽くす。だって、何も言えないじゃないか。僕がこの場で、考えなしに言うセリフは、全て、意味を成さない。
 リリアの手袋の意味を考える。
 リリアのガラス化は、手から始まったのかもしれない。ガラス化した各部位は、しばらくは稼働するという。ガラスというのは非常に粘度の高い液体だという話をどこかで聞いたことがある。外部からの影響はほとんど受けないが、それがことガラス化した本人の意志であれば、動かすことが出来る。もっとも、ガラス化が完全に行き渡ってしまうと、それも出来なくなるらしい。だから、患者は視覚的に、自分の死が迫るのを待ち受けなければならない。
 リリアは手袋をここ最近常備していた。
 つまりリリアが手袋をし始めた頃には既に、ガラス化は始まっていたということだろう。
 携帯端末についても筋が通る。全面タッチパネルのものは、リリアは利用出来ないのだ。ガラスではパネルは反応しない。ガラスの指で扱うのであれば、物理キーでなければならない。
 そうした変化は、もしかしたら、リリアの周りに溢れていたのかもしれない。それに気付けず、ただ漠然と、リリアの様子がおかしい、とだけ思っていなかった自分に嫌気が差した。
 だからといって、
 じゃあ、僕に何が出来たといのだ。
「……」
 もう一度、何かを言いかけて、やめた。
 理不尽で、絶望的な、恐怖。
 それ以外の何物でもないのだ。
 ガラスは、美しい。
 美しいものは、それ故に、残忍で、冷酷なのだ。

 5

 今から医者になろうと思うほど、僕は無謀ではなかった。
 けれど、それに代わる目的をすぐに見つけられるほど、僕は優秀な人間でもなかった。
 そんな出来の悪い自問自答で、時間はいたずらに過ぎた。

 4

 僕は弱い人間で、とても臆病だった。だから、リリアにもう一度声を掛けようと決意するまで、とても時間がかかった。実に、一週間が経過していた。症状に悩む本人が毎日学校に行っているのに、僕は一週間学校を休んだ。いつもはうるさいくらいに不良行為を許さぬ母親は、その一週間僕に小言を一切言わなかった。それだけ僕が弱って見えたのか、それとも事情を知っていたのか。
 とにかく僕は、一週間後、またリリアを呼び出した。
 リリアは変わらぬ様子で、また正門の前にいた。相変わらずの手袋と携帯端末。
「よう」
「リュー、ちゃんと学校に来ないとだめだよ」
 僕は覚悟を決めたつもりだった。
 ガラス細工症候群は感染症ではない。
 リリアと一緒にいることで、僕がどうこうなるわけではない。保身のためではなく、リリア自身の気持ちを考えてのことだ。僕が彼女と一緒にいても、彼女が負い目を感じることはない。ならば、僕はここに――リリアの隣にいても、問題はないはずだった。いや、いなければならないのだ。本来であれば、一週間前から、ここにいなければならなかった。僕はいつでも行動が遅い。手遅れという言葉を身を持って体感することで、その遅さに気付いた。
「じゃ、帰ろうかー」
 暢気に言うリリアの手を、僕は唐突に握る。
 とても硬く、冷たい手だった。
「ひょう」
「ひょう、じゃないだろ。ほら、行くぞ」
 ガラス化した部位に触れられるのは、もしかしたらとても嫌なことだったかもしれない。けれど僕はそれをしなければならなかった。同情なんかではない。今から僕に出来ることなんて、多分ほとんどない。病気は治せない。夢も叶えてやれない。大人にもしてやれない。だからせめて、僕の自意識過剰だったとしても、それがリリアが本当に望んでいることではないとしたって、隣にいようと思った。
「どうしたの?」
「別に……」
「私がこうなっちゃったから?」
「まあ、それもいい機会だよな」
 これから先、後ろ向きな発言は一切しないと、僕は決めていた。
「だからさ、付き合おうぜ」

 3

 茶化されたり馬鹿にされたりする覚悟だったのだが、リリアは予想に反して泣いた。そして、僕に抱きついた。全てが予想外のことだったが、理想的だった。
 抱き締め返すと、腕のほとんどがガラス化してしまっていることに気付いた。背中や胸は、まだ温かい。その温もりを、僕は必死に確かめた。これは、失われてしまう温もりなんだ。だから、忘れてはならない温もりなんだ。
「うれしいな」
 リリアはくぐもった声で言う。
「うれしいな……」
「もっと早く言っとくべきだったんだよ、俺は。いつも遅いんだよな、こういうの」
「十分早いよ……まだ、こうやって、ぎゅってしたり出来るし」
 その言葉は、随分と覚悟のこもったものだった。きっと、僕の何倍もの時間、リリアは悩んで、乗り越えたのだろう。その時間を知ることは、僕には出来ない。僕のこの物語は、事実を知った瞬間から始まって、それより前には戻れない。
 それより前に、どんなに長い物語があったとしても、僕はそれを理解してやれない。
「これからさ、楽しいことしような」
「うん……」
 だったらその覚悟を決めたリリアに、何が出来るだろう。生まれ、生き、死んで行くことにさえ意味を持たせられるなら、たったそれだけでも、良いんじゃないだろうか。
 そんなことは、本当は誰にとっても平等なことだ。別に正解があるわけではないけれど、ただ生まれて、ただ死んで行くだけでは、割に合わないくらい、人生は悲運に満ちていて、唐突な悲劇に見舞われる。
「リリアがしたいことを、たくさんしよう」
「うん」
「だからさ、デートに行こう」
「今から?」
「そんで、飯も食おう」
「今からなの?」
「ああ」
 どうして僕は――どうして今までの僕は、未来は永遠にあると勘違いしていたのだろう。自分が知らぬうちに、自動的に訪れる幕切れがあるのに、そしてそれは何の覚悟もしなうちから訪れるのに、どうして明日があると思ってしまったのだろう。
 間延びする今日を信仰したのだろう。
 そんな今日はもう終わってしまったのに。
「今日やりたいことを、今日のうちにしよう」
 そして悔いのない一日を終えて、リリアと一緒に感じたかったのだ。
 美しく終わって行く夜と、真っ新な朝を。

 2

 僕とリリアは一緒にいることを選んだ。
 リリアは何度も悩んだのだという。僕を拘束すべきではないということを。自分の望みを捨てるべきだということを。これから死ぬと分かっている人間は、何も望むべきではないのだと思ったらしい。
 馬鹿げている。
 みんな死ぬんだ。
 それは哀しいことでも、残酷なことでもない。ただの事実だ。みんな死ぬ。ただそれだけのこと。平等だということだ。望むことにも、それを叶えることにも、死は平等にある。
 僕とリリアは、それからの時間を、共に過ごした。秋が始まって、僕の誕生日があった。リリアは僕にマフラーを編んでくれた。ガラス化が始まった時から、密かに編んでいたそうだ。ずっと使ってね、と彼女は言った。確認するまでもないことを、僕らは言葉で確認する必要があった。
 冬が訪れて、クリスマスに、僕たちはもっとも恋人らしいことをした。外で一緒にご飯を食べて、買い物に出かけて、イルミネーションを見た。僕はリリアに手袋を買った。彼女は大袈裟に喜んで、また泣いた。人は、死ぬまでに流せる涙の量が決まっているのかもしれない。終わりが近づくにつれて、リリアは泣く頻度が増えた。
 年の瀬に、二人でまた出かけた。一年の継ぎ目を一緒に過ごして、初めて、その日のうちに家に帰らなかった。誰も僕たちを咎めなかった。咎めることなんて出来なかったし、咎められても、従う気なんてさらさらなかった。
 冬季休暇のうちに、僕たちはもっと近づいた。
 僕は、今のお互いの関係に不満なんてなかったけれど、僕よりももっと終わりに近いリリアは、色々と考えてしまったようだ。誰もいない僕の家に来て、二人で部屋に隠れて、リリアは服を脱いだ。
 僕たちは美しい関係を強いられていた。
 リリアは、もう既に、腰から下がガラスになっていた。だから、今時高校生なら当たり前にしてしまうような付き合いも、物理的な問題で、出来ずにいた。腕も、肩まで透明になっている。透き通るようなガラス細工に、人間の肌。そのアンバランスさは、結晶化する寸前の、尊い、生命の姿だった。
「……おっぱい」
 リリアが唐突に発したのは、緊迫した空気を壊す言葉だった。
「……なんだよ」
「さわりたいんでしょ」どうせ、男の子って、とでも言うように、リリアは言う。「ほら、今のうちだよ」
「からかうなよ」
 リリアの胸は比較的大きかった。
 意識し始めたのは中学生の頃だっただろうか。自由奔放なリリアの性格に比例するように、伸び伸びと成長していった乳房。
「私たち、我慢するような間柄じゃないでしょ」
 リリアは投げ捨てるように言う。
 恐らく、欲望や、好奇心ではない。
 でも、リリアはさわって欲しいのだ。
 経験出来ることを、出来るうちにしたい。
 いつお互いが終わってしまうか分からないから。
 もしかしたら、僕の方が先に死んでしまうのかもしれないから。
 ただ、さわって欲しいのだ。
「なんか……照れるな」
「今さらー?」と、リリアは照れながら言う。「まあ、ほら、お好きにどうぞ」
 僕とリリアは、お互いに触れ合った。リリアは手ではなく、唇で、僕の身体を確かめた。温度を感じる機能は、四肢にはもう残っていないようだった。
 僕たちがしていたのは、怖ろしく美しい行為だった。お互いの人間性を確かめるように触れ合って、それを感じ、それを認め合った。もちろんやましい気持ちが一切なかったかと言えば嘘になるけれど、油断すると泣いてしまいそうなくらいに、尊い行為だった。
 触れ合う間も、僕とリリアは色んなことを話した。彼女を抱き留めている間も、他愛もない話をした。冷たい彼女の腕。冷たい脚。それらに触れ、暖かい彼女の胸に抱かれ、色んなことを話した。
「よく話題が尽きないよな」
 僕が問いかけると、リリアは不思議そうに言った。
「今はまだ、お互いに話せるんだから、今のうちに確かめ合いたいな。誤解も不安も全部なくなって、そうしたら、話せなくなっても、ずっと信じていられると思う」
 それは僕が考えも及ばなかった理論だった。
 けれどきっと間違いではないのだ。
 言葉でわかり合えるうちに、信じ合うために必要である言葉を消費しておけば、答えを望む必要はなくなる。たった一度のやりとりで、そのあと一生信じ合えれば。
「なあ、リリア」
「はいはい。何ですか」
「ずっと、一緒にいたいな」
 リリアはまた、残りの涙を消費した。

 1

 春を待たずに、リリアのガラス化は終わりの目の前までやってきていた。
 首の下までガラス化が進み、四肢を動かすのが大変になってきた。不自由というよりは、単純に時間がかかるようだ。食事を口に運ぶだけでも、一分以上時間が掛かってしまう。もう、自分の脚で歩くことさえままならなくなってきていた。
 リリアは学校を辞めた。僕も学校には行かなくなった。リリアは不満を口にしていたが、同時に、嬉しそうだった。実際に、嬉しい、と口にも出した。嬉しいけれど、僕が卒業出来なくなったら困る、と、思ったことをそのまま口にした。僕はただ、大丈夫だよ、と言うだけだった。
 それからは、ただ穏やかな時間が過ぎた。
 悲劇なんて感じさせない、凪の時間だった。このまま、この一瞬が永遠になってしまうことを強く望んだ。そしてリリアの笑顔を見て、その永遠が続くことを願った。
「あ、リュー、こっちに来て」
 リリアの言葉は、最期を予感させる色をしていた。
 僕は最期が訪れるその瞬間まで、リリアの家で暮らすことにした。リリアはもう眠れなくなった。睡眠は取れても、身体を横に出来ない。だから僕はリリアのベッドで寝た。食事も僕が食べさせた。だから、いつだって、リリアの呼びかけに、すぐに答えられた。
 次の瞬間に突然襲い来るかもしれない終わりと、ちゃんと向き合えるように。
「どうした?」
「あのね、見えなくなってきちゃった」
 リリアの正面に立つ。眼球が、とても薄く、淡く、透き通っているのが分かった。首や口よりも、目から先にガラス化するのか、と、妙に感心してしまった。
「ねえリュー、笑って」
「ん……こうか?」
「へたくそだなあ」リリアは笑いながら言う。
「なんだよ。じゃあこうか?」
「自然でいいのに」
「自然ね」
 そう言った時の僕は、きっと本当の笑顔を作れていたのだろう。リリアは嘆かない。リリアは悲しまない。いつだって笑っている。もしその笑顔を作れたのが僕なら、どんなに嬉しいだろう。
「私はね、ずっと、今のリューの笑った顔を刻み込んで生きて行く」
「今の顔で良かったのか?」
「うん。あ……」
 リリアの瞳から、光が消える。
 義眼のようなガラス玉が、僕を映す。
「見えなくなっちゃった」
「ちゃんと笑えて良かったよ」僕は本当は泣きたかったのかもしれない。「もっと練習しとくんだったな」
「そんなことないよ。私には、かっこいい、一番好きな顔だから、どんな顔でも、別に……」
「照れること言うなよ」
「ねえリュー」
 深刻そうに、リリアは言う。
 何かを予感させる響きだった。
 僕はただ黙って、次の言葉を待つ。
「私が動けなくなったら、私のこと、忘れてね。ちゃんと、普通の人を好きになってね。楽しく過ごしてね。それで……時々、私のこと、思い出してね」
「難しいこと言うなあ」
 僕はもう決めていた。
 これからどうやって生きて行くかを。
「俺はずっとリリアが好きだよ。リリアだけだ」
「嬉しいけど……でもさ、リューはこれからずっと生きて行くんだよ。私たちが生きてきた人生よりも、もっと長い時間を生きて行くんだよ」
「じゃあさ、リリアと俺の立場が逆で、俺よりカッコイイやつが現れたら、リリアは突然俺のこと忘れて、そいつのこと好きになれるのかよ」
「ならないよ!」
「俺だって無理だよ」
 リリアの頬に触れる。まだ、温かい頬。
 温もりを感じられる。
「ずっと一緒だからな」
 リリアの瞳は、まだ涙を流すことが出来た。僕の指に触れた涙を、舐め取る。生きている実感があった。
 内部がガラス化を始めたら、最期の合図。それは最初の頃に覚えて、ずっと忘れないことだった。リリアはもうすぐに動けなくなる。ガラス細工のように、尊い存在になってしまう。
 リリアは、僕が買った手袋をしていた。服はもう身につけていなかったけれど、それだけはずっと身につけていたいと言った。手は祈るように、組み合わさっている。もう、手袋が外れてしまうことがないように、という意思表示だった。
「お母さんたち、呼ばなくていいからね」
「わかった」
 リリアも、もう終わりが来ることを理解していた。
 僕はただ、リリアの頬に触れる。
 そして、終わりが訪れた。