【テーマB:石】LIFE ( No.1 ) |
- 日時: 2013/11/05 19:44
- 名前: 水雲
自分だけでやけに盛り上がっている、ルルーからすれば歯牙にもかけない奴が夕べの最後の相手であった。
一回目のチャイムが鳴る。 夏真っ盛りで寝苦しい季節になったとはいえ、普段ならそのくらいではまったく起こされないほどに深く眠りこけている。はずだったのだが、やはり眠りが浅かったらしい。今日は目を覚ましてしまった。視界の奥に薄暗い天井をぼんやり呼び戻し、寝返りを打って確認する時刻は昼前。まだ数時間は夢の中でも許されたはず。 なによもーせっかく寝てたのに。 久しぶりの休みだし、居留守使って二度寝しよう。そんな怠けた思考へ差し込むかのように、二回目のチャイムが鳴る。 ああ、こりゃだめな相手だわ。蒸し暑さも覚え始めたので、ルルーは潔く諦め、手短にお引き取り願おうと重い体を起こした。 薄汚れた鏡で寝起きの顔をチェック。肌身離さず首からかけているネックレスの石が、鈍く光っている。客には到底見せられないほどの面構えに化けてしまっているが、逆に好都合と開き直った。だらしない足取りで玄関に向かう最中に、とうとう三回目のチャイムが鳴る。もう鳴らせまいといったやや雑な動作でドアノブに手をかけた。 「はいはいどちらさんで」 相手は、子供のムウマだった。 お互い、数瞬だけ硬直した。 すう、とルルーの頭から眠気が氷解していく。 「あのっ、ここはルルーさんのおうちで間違いありません、か?」
「おとうさんからは、ルルーさんはサーナイトだと聞いたんですけれど」 あー、あのバカ兄貴と最後に別れたときからあたしキルリアのままだったっけ。ルルーは苦い表情を背中で隠しつつ、そのバカ兄貴の娘であるらしいムウマのメアナを借家へとあがらせた。捨てられっぱなしとなっているタオルやら化粧瓶やらを大股でまたぎながら、おのれの不精さをしばし哀れむ。 「だらしない生活してるなあ、って思ってない?」 「え!? いや、そんなことは!」 同意を求めてみたが、案の定、図星だったらしい。ひっくり返したおもちゃ箱の世界に迷い込んだかのように見回しているのが背後でも伝わってくる。シンクロを使うまでもなかった。そして残念ながら、否定する気にもなれなかった。どれもこれもが『公のルルー』の残骸であり、『私のルルー』としての生活の部分はほとんど失われている。床らしい床を無くしてしまった分だけ、あばら屋の無秩序さを一層際立たせていた。歳月を経て壁の奥まで染み込んだものなのか、どれだけの換気を施しても、生々しい空気がよどみ、部屋の隅に自然ととどまって堆積し始める。 「散らかってるけれど、とりあえず適当なところでくつろいで」 そう口にしつつも、散乱したものを今からでも整理しようという態度がルルーからは一切感じられない。カーテンだけでも開けたのは、自分も光が欲しかったからだ。久しぶりの来客をもてなす気力が湧こうとしない。 ましてや、駆け落ちして実家から出ていった実兄の娘ならば、なおさらであった。 とうとう、叔母と呼ばれる頃にもなってしまったのか。 歳をとるとこれだから。 両親とぶっつり縁を絶ちきってしまい、兄貴は帰るところをみずから無くしたわけだが、ルルーとは年に数回だけ簡単な連絡を取り合っていた。記憶にないが、独立後のお互いの新しい住所を伝えあったことも、当初そういえばあったかもしれない。向こうは確か6番街だったから、方角を意識してちょっと足を運べば、子供でも比較的容易に来られる距離である。 しかし。 よりにもよってこんなちっこい娘だけを突然よこすとは、いったい何事であろうか。 嫌な予感がする。 昔から兄貴とは決して折り合いがよくなかったし、独立したら無闇に干渉しあわないことが暗黙の了解だったはずだ。しかし、この現実はそれと明らかに矛盾している。どういう風の吹き回しなのだろう。 まさかの育児放棄。 ならば今日から馬車馬のようにこき使って意地悪な継母を演じるのも一興だろうと思ったが、メアナの顔色や体づきを見るに、そう苦労した育ちもしていないはずだ。これなら自分のほうがよほど不摂生な生活をしていると言える。子供時代の仕返しの標的を実の娘へと移したら、漏れなくサイコカッターが飛んでくる。 「ここに来たってことは、何か理由があるんじゃないの」 さっきまで惰眠の温床にしていたぺたぺたの万年布団にぽっすりと尻を落とし、メアナとしれっと見つめる。ルルーからすればいたって普通の上目遣いのつもりなのだが、どうやら睡眠と化粧が足りない顔つきのせいで、ひどく不機嫌そうに見えるらしい。メアナは少し縮こまった様子で、細々と話を繋げ始めた。 「わたし、今、学校が夏休み中で、宿題をいっぱい出されたんです」 「あー、夏休み。懐かしい響き。明日も休み。明後日も休み。ずっと休み。いいなあ、あたしもそんくらいの頃に戻りたい」 今が夏本番だということを再認識すると、この部屋の息苦しい熱気と風通しの悪さがなおのこと露わとなった。窓を開けたい気分になったが、いつにも増してお盛んなテッカニンどもがやかましく騒いでいるだろうし、まずはメアナの話を聞き込む。適当な相づちを打って相手の舌を回させるのは、ルルーの商売では欠かせないのスキルでもあった。 「宿題のひとつで、まわりのおとなたちのお仕事を調べてこよう、ってのがあるんです」 え。 「なんだ。簡単でしょ。ばかあに――お父さんとお母さんから聞けばいいじゃん」 メアナは深くうつむきになり、 「三つ以上なんです。おとうさんとおかあさんのだけじゃ足りなくって、そうしたらルルーさんのところにも行きなさい、って、」 「ああ、なるほど。ひとつやふたつじゃ、両親のだけ調べてはいおしまい、だもんね」 最悪最低の取材相手である。 メアナにとっては。 これはいつの喧嘩の報復なのか、とルルーは子供時代を振り返る。あれか、あのときか。それとも別のあのときなのか。だとしたらあんにゃろう、まだ根に持ってやがったか。仕返しに自分の子供を使うかふつー。子供相手でこちらが本気になれないことを逆手に取っているとみた。娘は宿題をひとつやっつけることができ、こちらは時間をとられて面倒くさい思いをする。図々しいことこの上ない。昔からあのいやらしい性格は変わっていないようだ。ご健在でなにより、と心中で苦笑をこぼす。 「つってもなー。あたしの仕事、結構特殊でアレだし、宿題に使うにはヤバいかもだし、」 やめといたほうがいいかもよ――わずかに残る良心でそう告げようとしたところで、ふと口を閉ざす。ルルーは寝床から尻を引っこ抜いて四つん這いとなり、宙に漂うメアナの周囲をぐるりと一周。いたいけな容姿をまんべんなく舐め回すように見て、 「――いや。その格好、年齢。進化には条件がある種族――」 「え?」 いけてるかも、と思った。 ルルーの中で、ちょっとした勢力が生まれた。細い手を自分の顎に添え、若干首を傾げ、少しばかりの考えごとを始める。 「ここに来る前、繁華街のほうには行ってみた?」 「いや、なんだかおとながいっぱいで、近づきにくい感じで、まっさきにここへ来ました」 よしよし。ならば問題ない。ルルーはどこか満足気な表情をして、再びずるずると定位置に戻る。 バカ兄貴よ、あてつけのつもりなのだろうが、残念ながらあと一歩及ばなかったようだ。あんたには忘れていることがひとつある。それは、自分があんたの妹だということだ。伴侶もいないメスのキルリア一匹がここ7番街でどのようにして糊口をしのいでいるのか、そこまで下調べする余裕はなかったようだ。 メアナに罪はないが、『ガッコーのシュクダイ』ならば仕方がない。建前があろうとなかろうと、訊かれたのならば答えるのが大人の義務ってもの。 色香の「い」も知らなそうな子供に社会の一片を知ってもらう、またのない機会なのだ。 半目で表情を戻そうとしないルルーをよそ目に、メアナは自分の体とさほど変わらない大きさの鞄から手際よく鉛筆とノートを取りだした。あの兄貴からできた娘とは思えないほど、実に勉強熱心だ。 「実は昨日もおじゃましたのですが、どうやら外出中だったみたいで。もしかして、仕事はお外でしてるんですか?」 そりゃ気の毒なことをした。ほんのりとそう思うのだが、これから出す答えが答えなため、あまり罪悪感を覚えない。 「そこは正解。じゃ、そこから当ててごらん。いきなり答え言ったら勉強にならないだろうから」 ま、子供のあんたじゃ絶対に当てられないだろうけれど。 「お花屋さん?」 はずれ。 当てずっぽうなのだろうが、いきなりきわどいところを突いてきた。ある意味で。 今度こそメアナは時間をかけて考え、あたりを再度見回し、 「化粧品とか、香水とかを売ったり?」 はずれ。 ルルーもミラーボールのごとく自室を睥睨し、 「確かに化粧品はよく使うよ。商品じゃないけれどね。床に落っこちている瓶とかはほとんどそれ関係の香水。ここに入ったとき、甘ったるい匂いしてるなって思わなかった?」 「え、それは――はい。ちょっと思いました」 「正直でよろしい。どうもねー、この仕事やってると嗅覚が鈍っちゃって、いつの間にかこんな空間で普通に生活するようになっちゃったの。まあそれでも片づけしないのはあたしがだらしないせいなんだけど。おうちで『お片づけしなさい』ってよく怒られてる?」 「う、怒られてます」 なんだ、意外にちゃんとお父さんやってるんだ。こんな魔窟へ連れ込まれてそわそわしてるってことはそういうことなんだろうな。 「じゃあ、ネックレスとか、アクセサリーを売っているお店?」 はずれ。 「どうしてそう思うの」 「ルルーさんの、そのネックレスが気になって」 着眼点は悪くない。 「まあまあ惜しいけれど、このネックレスに目をつけたのはいい線いってる。あたしの仕事には絶対必要なものだし。この石、学校で教えられたことない?」 ルルーは灰色の丸い石がはめ込まれたネックレスをつまみ、メアナの眼前まで近づけてみせる。メアナは何も答えられないのか、首をふるふるとするだけだった。 「お薬屋さん――では、ないですよね」 はずれ。 「じゃないとしたら、どこか病気とか、ケガとかしてるんですか? さっきも歩き方がちょっと変でしたし」 な。 小机の上に放り捨てていた藥袋にまで目をつけられていた。この小娘、片っぱしから思いついたことを挙げているにせよ、本当にきわどいところへ斬り込んでくる。 「ああうん、大丈夫。昨日の夜はしんどくてね、肩こりとかが残ってるのかも。だから今まで寝てたわけ。帰ってきたの、夜中の3時だもん」 「えっ、そんなに遅くまで働いているんですか!?」 まるで五色にも切り替われる交通信号機を発見したかのような驚きぶりである。大人にも門限があるとでも思ったのだろうか。 うん、とルルーはカレンダーに目をやって、日付と曜日、手書きの番号を確認する。 「もちろん夜遅い分、働き始める時間も遅いから、午前中はゆっくりできるよ。朝寝坊する心配もあまりなし。わかりやすく例えるなら、お昼に登校して、やっと一時間目が始まる感じ。で、昨日は仕事、今日は休み。だから実際の仕事風景を見せられるのは明日かな」 へええっ、とメアナは他愛もなく感心した。 「平日でも休みってあるんですか」 いいなあ、と顔に書かれてあった。 無邪気そのもののメアナは段々と調子づいてきたのか、立て続けに質問を飛ばしてくる。それに合わせて、ルルーも饒舌気味となっていく。両手を後ろに回して背中を支え、天井の木目を目でなぞる。 「そ。だって考えてみてよ。今日は日曜日だからお仕事しませーん、ってやつばっかりだったら、いざ買い物行ったときとかだーれもいなくて困るでしょ?」 「あ、そっか」 「だからあたしみたいに、休日とかにも働いて、代わりばんこで休むっていうパターンもあるわけ。わかった?」 「はい、わかりましたあっ!」 将来は探偵か、はたまた記者か。鉛筆を走らせる速度が上がる。 知らないことを知って嬉しくなれるとは、まったく単純な思考回路である。 それが、ルルーにはちょっとだけうらやましい。 自分にも、そうして純粋に生きられる時分があったかもしれない。なかったかもしれない。 もう、昔のことだ。 「そこのカレンダーに、番号が書かれてあるでしょ。あれ、あたしの仕事が始まる時間を簡単に表示してるの。明日だと遅番だから、夜からね。あ、そういえばどうするの、泊まってくの? それともいったん帰るの?」 「せっかくだから泊まって行きなさい、って言われました」 やっぱりか。 ルルーは後頭部をかき、 「ま、いいや。来ちゃったもんはしょうがないし。だけど、メアナ」ルルーはいったん口をつぐむと、上半身をゆらりと前方へ傾け、両手を床につき、今度は本気でキスしにかかるような距離にまで、メアナに顔を迫らせた。その表情には先程までのやさぐれ女の態度は消え去っている。「ふたつだけ、約束して」 「はい、なんですか?」 「これから教えるあたしの仕事のことを、あんたが宿題にするしないはもちろん自由。まあ貴重な夏休みを潰してせっかく寝泊りに来るぐらいだから、したほうが時間の無駄にならないかもしれない。でも、なんにせよ、世の中にはかっこいい仕事ばかりじゃない、こういう商売もしている大人もいるんだってことを忘れないでほしいの。これがひとつ目。 で、悪いけれど勝手に7番街へ遊びに行くことは絶対だめ。どうしても外に出たいときはあたしと同伴で。どうせ明日の夜には一緒に職場に行くんだし、今日一日は我慢して。これがふたつ目。 わかった?」 少々凄みをつけすぎてしまったかもしれない。メアナはルルーの気迫に押されたのか、それとも言葉の意味を理解しきれなかったのか、とりあえずといった返事をした。 「はい、わかりました」 よし。 これで一応の作戦の段取りは組めた。 緊張をほぐすつもりで、ルルーはメアナの頭をぽんぽんと軽く叩く。 「ん、じゃあもうお昼だし、ご飯にしよっか。簡単なものなら作れるから、レポート書いてちょっと待ってて」 メアナを部屋に残すと、申し訳程度に設置された台所で立ち尽くし、ルルーは物思いにふける。思考状態が偏るあまり、危うく食いかけのポフィンを皿に乗せようとして、踏みとどまる。兄貴が好きなものならメアナも喜ぶだろうと思ったが、そういえば兄貴の好きな食べ物を何ひとつと憶えていなかった。 ――あたしももうちょっとまともな生活してたら、あんな子供に恵まれたのかな。 考えごとにはまりすぎて、自動的に手を動かしていると、自分がよく口にする、本当に簡単なものばかりがいつの間にか出来上がってしまった。それでもメアナはよその家での食事が珍しいのか、普通においしいおいしいと消費してくれたので、ものの10分で昼食は終わった。ルルーはオレンジャムをつけたクラッカー2枚をぼりぼりとむさぼるに済んだ。 腹を軽く埋めると、再び睡魔が働き始めた。えふぇあ、と顎の外れそうなあくびを吐き出し、ルルーは寝床に潜り込む。 「さて、夢の続きでも見よ」 「ええっ、また寝るんですか!?」 甲高い声が耳に刺さり、腰を抜かしたとばかりの驚きが感情を突く。みんながみんな、機械のように毎日同じ時間で規則正しく生きているとでも思っているのだろうか。学校という決まり事だらけの庭に入れられたらそう考えるのも致し方ないとも思うが、世間はそこまで狭くない。 「そーよ、悪い? 大人ってのはね、毎日仕事でくたくたなの。あんたのお父さんもお母さんも、疲れている中であんたの未来に投資したくて必死で労力費やして育てているの」 「むずかしい言葉、わかんないです」 ああもう。 「悪いけれどここは遊び場もあんたに扱えそうな玩具もないよ。やることなくなったのなら、明日に備えて寝ときなよ。お互い、いろんな意味で疲れると思うから」 「今寝ると、夜寝られなくなっちゃいます」 子供かあんたは。 「って子供だったっけ。とにかく、あたしの活躍の場は明日。今日はゆっくり休みたいから。じゃーね、お休み。さっきも言ったけど、勝手に外へ行ったらあたし本気で怒るからね」 じらすなりなんなりで、ぎりぎりまでメアナの好奇心を高めておかなければ、最大限のインパクトを逃してしまう。それ故の判断だ。
明日になった。 家を出て約10分。繁華街の大通りに入ると、四つ目の角で右折。狭い路地を渡り、はす向かいの左側。目印はネオンライトのきつい看板。 ルルーの働く店は、そこにある。 約束通り、翌日の夜にメアナをそこへ連れてきた。 予想通り、店は店員たちの黄色い歓声で華やいだ。 「えええ、リアン、どうしたのこの子、かわいー!」「え、あの、」「あたしの姪っ子」「あの散々悪口言ってたお兄さんの?」「らしいよ」「らしいよって、かわいそー! よそ事みたい! こんな小さい子こんなところ連れてきて! よしよし、リアンにひどいことされなかった?」「黙って聞いてればなにさ、あたしがひどい事言われてるんだけど」「うん、素質あるよこの子なら。進化もしてないし、有望株かもね」「それは兄貴の教育次第、かな」「でもいきなりどうしたの」「ガッコーのシュクダイでシャカイベンキョーしなさい、だって」「だからってここはまずくない? あ、可愛いから私は全然構わないけど!」「あーあ、わたしもこんな子供欲しかったなあ、今からでも辞めて適当な客引っ掛けて飛ぼうかな」「それ本末転倒じゃん」「きゃく? とぶ?」「あーあとでわかるあとでわかる」 挙げていけばキリがない。大体このような世間話が15分はぶっ続いた。 大きく艶やかな外見に見合わず、店内はむしろシックな感じに仕上がってある。音響装置からはいつの時代かに流行ったジャズが延々と流れ続け、受付嬢は来客者たちに愛想を振りまき、財布の紐を眈々と狙っている。 しかし、それはあくまでも店の表の顔。個室を抜け廊下を抜け、共同の大きなスタッフルームにまで来ると、この店の裏側が実態を表す。ミックスジュースとばかりにまぜこぜとなった香水の匂いが天井まで埋め尽くされ、化粧台が部屋の端にまで列をなし、花畑と鏡の世界を足して円周率でもかけたような光景である。店員はそこで肩を並べ、自分の顔が変わり果てていく様をじっと睨みつける。いくら体を洗っても落ちそうにないこの匂いがとうとう自宅にまで及んだため、帰宅しても家に帰ってきたという感覚をルルーはとうに失っていた。 メアナには、ここが何なのかいまだわからないだろう。ルルーが自宅を店の一部と思うのと同じで、メアナはここをルルーの自宅の一部だと思っているかもしれない。 きゃいきゃいと囲まれ、少しのぼせただろうといったところで、ルルーはみんなからメアナを取り上げ、並んでソファーに座った。外野はぶーたれつつも準備を始め、ルルーはその中でせわしなく動いている一匹を指さし、 「あのミミロップがこのハコ――お店の店長さん」 「綺麗な方ですね」 オスなんだけどね、とは言わないでおいた。それもそのはず、軒を連ねる店の中でもここはかなり特異な部類で、顧客の要望に沿ったサービスを展開している。つまり、オスもメスもその中間もそれら以外もまんべんなく取り揃えているそーとーえげつない店であり、しかしその柔軟さが人気を呼んだ、7番街ではそれなりの定番スポットなのだ。 そして、状況を読み込めていないメアナの表情を察するに、こちらもこちらでそーとー筋金入りの箱入りとして育ってきたようだ。 そうこなくてはならない。 「そんじゃ、あたしも準備してくるから、みんな、あとはよろしくね。マジでなんにも知らないみたいだし、好きなだけ可愛がってていいよ」 もっちろーん、と綺麗に声を揃えて、メアナを除く全員がルルーを見送った。ルルーもルルーで、邪悪な笑顔で場を離れた。 「え、あ、ルルーさん? わたし、置き去りですか? 何をすればいいんですか?」 ルルーは足を止め、一度だけ振り返る。 「決まってるじゃない、勉強よ。まさかピクニックに来たわけじゃないんでしょ。あたしの代わりにそこのお姉さんたちが相手してくれるから、話たっくさん聞きなよ。そしたら、嫌でもわかるから」 トドメの一言、 「ここがどういうところか」
訊く側だったはずが、何故か逆に訊かれる側となっていた。 メアナになおも興味津々で寄ってくるのは、ポッタイシであるポルカ、ジャノビーであるリィファ、ジヘッドであるチオンの3匹だった。もしもここにいる全員がオスだったのならば、メアナもいくらか怯えただろうが、その仮定に反してメスだったために、緊張こそするものの嫌という気はしなかった。ルルーと違って愛想がよく、また器量も良く、なるほど、質問に答えてくれそうな感じだ。 「リアン、何もこんなところで放置することないのにね」 ポルカのつぶやきに、リィファが繋げる。 「花形だもん、指名多くて大変だろうし」 はながた? 「その、ルルーさん、どうして『リアン』って呼ばれてるんですか?」 あっ、とポルカは右ヒレをパタパタさせる。 「リアンは源氏名、ルルーは本名。あたしもポルカって名乗ってるけれど、本名じゃないわよ」 げんじな? チオン――左右の頭ともが、交互にメアナに説明を付け加える。 「実は7番街ってね、」 「ちょっとした花街としての顔も持ち合わせているの」 はなまち? 「聞いたことない?」 「郭とか、遊女とか」 くるわ? ゆうじょ? 「わあ、本当に予備知識も何も無しの状態じゃない。リアンってばもう」 哀れみの台詞とは裏腹に、ポルカは何故か笑い出しそうになっている。 「簡単に言えばね、」 リィファにいきなり寄りかかられて、そっと息を吹き付けられるように耳元で告げられた。 「オスのお客さんといやらしいことをしちゃうお店」 瞬間湯沸かし器のように、メアナの思考がいっぺんに高熱を帯びて蒸発した。 「いっ、いやらしいこと、って」 「あ、その意味はわかってるんだあ」 発火を確信したポルカの言葉に、とうとうチオンが笑いだした。頭がふたつあるから、笑い声も倍である。その意味を察したらしい外野も、鏡に映る自分の顔から目を離し、どこかニマニマとしたいやらしい目線をくれてきた。それをヤジだと察した当のメアナも気が気でなくなり、 「で、でもそれって! おおおオスとメスが、ってことですよね! そういうのは、ななななにもこんなところじゃなくても」 メアナのどぎまぎ具合に腹を抱えつつも、リィファはわざとらしく頭を縦に刻んで、 「うんうん、わかるわかる。言いたいことすごくわかる。でもしょうがないのよ、みんな生き物なんだから、鬱憤の他にも色々溜まっちゃうの。独り身で寂しい思いをしているポケモンはどこにでもたくさんいるし、自分たちだけ気持ちを晴らすんじゃあどうしても、ね」 「でも、でも!」 「メアナちゃん、ここへ来る前に、」 「他に並んでいるお店とか、見てみた?」 「えっ!? あ、それは、えっと、」 ぐちゃぐちゃになった思考を必死で組み立て直し、メアナは数十分前までの自分の足取りを再びたどってみた。決して遠くはない道のりの中、何気なく目に留めた物件たちを思いつくままに出していく。 「まだ工事してるところとか、ごはんを食べる屋台とか、」 「そうそう。ここらへんってね、まだまだ開発途上の街で、完成されきってないの。もちろん工事現場だから、力のあるオスたちが筆頭になって働くんだけれど、そいつらを狙った街並みとなってるわけ。毎晩遅くまで働いているポケモンたちはみんなおなかペコペコ、じゃあごはん食べるところが欲しくなってくるよね。ということで食べ物屋さん。まだ足りないってポケモンのために次に用意するのは、お酒を浴びせるくらい飲ませる飲み屋さん。胃をふくらませて、アルコールに神経を浸からせて、最後にどうするか?」 「そこで、息子のお世話。家に着くころには、今日一日働いた分の日当なんてビタ一文と残さないくらい吸い上げるように計算されて、ここらへんはハコを構えているのよ。私らみたいな街娼は、そこを活計の場としているの」 大人の狡猾さと弱さを直で拝まされた気分だった。なんてことはない、ここは子供をどこまでも子供扱いするところなのだ。無知さを笑い飛ばされる言われもそこにある。完全に一杯食わされた気分となったメアナの中、黒々としたものがしこりとなって渦を巻く。口喧嘩で負けたときのように悔しくて、怒りの涙すら覚える。口に出したいことはいっぱいあるのに、思考は空転し、喉あたりでつっかえ、何も言えなくなる。それに、この感情を誰にぶつければいいのかもわからない。 「おー、やってるやってる。お待たせー」 ぶつける相手が見つかった。 ルルーさんッ! ――メアナは飛び跳ねるように体を浮かせ、そう怒鳴ろうとした。 が、その言葉はやはり驚きと共に口の奥へと呑み込まれた。 ルルーの風体は、さっきよりも数段と華麗なものへと変化していた。陶器のような輪郭をよりなめらかに際立たせているファンデーション。細い腕に見合った小さな腕輪がいくつか。気持ち程度の花飾り。そして、出会った時から変わらぬネックレス。見にまとう装飾具こそ他の店員より少ないものの、その質素さがかえってキルリアとしてのシルエットを目立たせており、昨日と同じキルリアとは似ても似つかなかった。 そして、初めて会った時よりも香水の匂いが強めになっていた。 そこにいるのは、『ルルー』ではなく、『リアン』だ。 リアンはお決まりらしいしなを作り、 「これがあたしの普段の仕事スタイル。どう?」 「――綺麗、です――」 思わず口からこぼれてしまったが、次の瞬間にはメアナは目を覚まし、激昂の熱に身を焼かれて叫んだ。 「こっ、こんな仕事! 恥ずかしいと思わないんですか! 自分の体が大切じゃないんですか!」 「あ、やっぱり怒った?」 少しも悪びれる様子のないリアンに、メアナの激情はますますあおられていく。 「怒ります! ひどいです、こんなところに連れてくるなんて! どうして前もって言ってくれなかったんですか!」 「だって、百聞は一見にしかずって言うじゃない。口だけで説明してもピンとこないだろうし、それならいっそのこと直接出向いたほうが強く印象に残るでしょ」 「残りすぎです! こういうのって絶対だめだとわたし思いますッ!!」 それは、ここにいる全員路頭に迷っちまえ、と告げているようなものだということに、メアナはついに気づかない。何名かはその言葉に手を止め、息を殺し、リアンがどう反論するのかを耳で待機している。 「だめって言われてもなー、需要あるし人気商品だし。商売なんて何でも形にして作ったもん勝ちだとあたし思う。一応もぐりじゃないし、ケツ持ちとかみかじめとかややこしい束縛もないし、ここはまだまともなほうよ」 リアンはふいとそっぽを向き、小馬鹿にするようにため息をつき、 「だから言ったでしょ。世の中ね、かっこいい仕事ばかりじゃないの」 続けて何か言うつもりだったのか、リアンが一歩だけ歩み寄ってきたので、メアナは反射的にしりぞく。出会ったときの姿がものの数分でこうも早変わりできるというのならば逆もまた真なりのはずで、『リアンが仕事を一晩終えるとルルーに戻る』と思うと、その落ちぶれよう、仕事の過酷さがメアナには恐ろしくてかなわなかった。 視線同士がぶつかりあう痛々しい沈黙の中、空気を読んでか読まずにか、BGMがふと途切れ、特定のメロディが間を縫い繕った。リアンが天井を見上げたのにつられて、メアナも思わず目線の先を追った。 「あたし専用のチャイムだ。さっそく一発目かー、行ってくるね」
悪いことをした、とはまだ思っていない。今後も思う気はない。 白い紙に墨汁をぼったりと落としてやった、程度にしか考えていない。 しばらくこの業界を経験してきたからこそ言えることで、ルルーは商売だと割りきっている。特にルルーの場合、シンクロの特性を持つ分、相手とのやりとりも実に細かな心理を要求される。見境なく興奮したオスと波長を上手く合わせた分だけ向こうは喜び、少なくとも機嫌を損ねられることはない。反面、憂鬱な気持ちを顔の奥に隠してしまっても、体が白状する。血の通った人形となりきるためのスイッチのようなものを、いつの間にやらルルーは自身の中で作っていた。何かを引きずって仕事に臨むくらいなら、それなりにでも律儀にやったほうが、体はともかく気持ちが楽だと気づいてしまったのだ。 メアナのことはいったん頭から閉め出すこととした。指定された個室に向かったが、いかにもといった照明が壁や床を踊っているだけで、誰もいない。あれおかしいなと思いつつ、廊下へ戻ってきょろきょろとしていると、入り口の方から客とおぼしき者の声が飛んできた。 「リアンちゃあーん! どこだよおー! 昨日休みだったなんてぼく聞いてないぞーお! さびしかったぞおー!」 つい最近、聞いたことのある声だ。しかもかなりできあがっているのがこの距離からでもわかる。 「先輩、いい加減帰らせてくださいってば! 俺、一応身を固めているんですから!」 それに、久しぶりに聞く声が後に続き、ルルーは若干背筋をこわばらせた。わき目もふらずに廊下を駆け、入り口にまで戻り、受付にて撃沈寸前のポケモンとそれを支えているポケモンを見かけ、その正体に腰が砕けそうになった。 エルレイドと、昨日の最後の客であるスリーパーなのだが、 「兄貴!?」 ここでもし相手を肉親と認めなかったら、向こうもこちらのことをそう思わなかったかもしれない。 もう遅かった。 「――ルルー!?」
この日も書き入れ時となったらしい。その慌ただしさに俗世の底を見せられた気がした。一匹、また一匹と『仕事』に呼ばれてしまい、大勢いたはずの共同のスタッフルームにはメアナと店長であるらしいミミロップだけが残された。 「ごめんなさいね、さっきはみんなが意地悪しちゃって。でも、リアンにも悪気があったわけじゃないと思うの。――いや、本当は少しあったかもしれないけれど」 店長は気を落ち着かせるためと思ってくれたのか、小さなコップに水を注いで持ってきてくれた。体を火照らせ、騒ぎ立て、喉の奥はひりついているというのに、どうしても口に付ける気分になれなかった。 「メアナちゃん、知らなかったの? リアンがここで働いているって」 「――ルルーさんとは、昨日初めて会ったばっかりで」 「やっぱり、7番街の生まれじゃなかったのね。どこから来たの?」 「6番街です」 「そうよね、そっち方面の子が普通こんなところ、来ないもんね。あっちの暮らしのほうがよっぽど快適って聞くから、6番街で一生を過ごすってポケモンもたくさんいるし」 「リアンなりに、社会の形を教えたかったんだと思うの」 確かにいいパンチだった。どういう生活をしているのか教えてほしいと食い下がったのはあくまでも自分自身だ。ルルーはそれに答えただけに過ぎない。よそ者である自分に怒られる筋合いなんて、どこにも無かったはずだ。 「わたし、何も知りませんでした。ばかでした。こういうの、『せけんしらず』って言うんでしたっけ」 弱々しく自虐に走ると、店長は透き通るような声で笑い始めた。 「考えすぎ考えすぎ。メアナちゃんは全然悪くないんだし、そこまで気に病むことはないわよ。友達よりちょっとだけ先に、こういう部分を知ることができた――それだけのこと。ポジティブにいきましょ?」 そうは言っても、このぐるぐるとした気持ちを整理する手段が、メアナにはわからない。ルルーに迷惑をかけていないかと昨日はさんざんこころを砕いていたというのに、いざ真実を目の当たりにし、勝手な思い上がりで義憤したらすべて台無しである。 今となっては、ルルーよりも、無学だった昨日までの自分を責めたい気分となり、半ベソ状態だった。 「じゃ、ちょっと話題を変えましょうか。謀られたにしても、ここへ来たのも何かの縁かもしれないし。メアナちゃん、ここで働くポケモンたちを見て、何か気づかなかった?」 店長は、ルルーやポルカたちとはまた違う、母性のあるおおらかな雰囲気を醸し出している。誰にでもいいからすがりたい気持ちだったし、話し込めばいくらか気が紛れるかもしれない。そう考え、先刻自分を取り囲んでいたポケモンたちの面々を思い出してみる。 「そういえば、進化していない方が多いような」 正解、とミミロップはにこりと笑う。 「みんながってわけじゃないんだけれど、大体のポケモンが『かわらずのいし』を身につけて仕事しているの。ルルーもネックレスにしてたでしょ」 かわらずのいし。見たことは無かったが、授業で聞いたことならあった。あれが、そうだったのか。 「何か理由があるのですか?」 「ライフスタイルが幅広に多様化された影響か、需要にもマニアックなものが徐々に現れてきちゃって。進化前の子がイイ!、なんて言い出すお客さんが増えてきたの。肉体にも多少の贅沢が必要とされるようになったみたい。だからここもそのニーズに合わせて、進化前のポケモンたちも募ることにしたわけ。リアンもその一匹。あの子、普段からあんなそっけない振る舞いなんだけれど、まだ若いし、仕事は上手だから、そのギャップが大受け。あの子を指名するリピーターさんも多いわ。要するに、様々なフェチが出てきたってこと。以前と比べたら、進化前、進化後っていう枠組みの他にも、種族をあまり考慮しなくなったお客さんも最近増えてきたわ。まあ、あんまり体格差がありすぎると残念ながらお断りするんだけれどね」 よくわからない。 「うーん、メアナちゃん、ムウマってことはお母さんもムウマかムウマージよね。お父さんは? お父さんもムウマージとか?」 「いえ、エルレイドです」 そっか、リアンが叔母だもんね、じゃあちょうどよかった。そう店長はつぶやく。 「まだ考えるのが難しい年頃かもしれないけれど、愛の形にも色々あるの。その点、メアナちゃんはとってもしあわせものよ。子供を作れる種族同士が愛を育んでできた、ご両親の宝物だもの。世の中には、好きな相手がいるのに、種族グループが違うせいで一緒に過ごせない、子宝なんて夢のまた夢――なんて考えているポケモンが大勢いるの。努力してアプローチすれば、共に家庭を作れるかもしれないけれど、子孫は残せない。世代は自分たちで終わり」 もしかしたら、と店長は頬杖をつき、眼と口を線にして色っぽくほほえむ。 「そういった叶わぬ愛への傷心を少しでも慰めたくて、こういうところに来るお客さんもいるかもしれないわね」
店長のデザインセンスなのか、それとも風水による安産祈願のご利益でもあるのか、お手洗いにまでアロマキャンドルと招福画が数点飾られ、面妖なムードを綾なしている。 有無を介さず、バカ兄貴のルドをメス用のそこにまで荒々しく引きずり込み、個室でかみなりパンチを三発見舞った。遊女だろうと夜道の暴漢は一切お断り。子供時代を彩る兄妹喧嘩で鍛えていた鉄拳は、今でも遺憾なく発揮される。野郎の金的に狙いを定め、体格差を無視して一撃で落とす護身術にまで昇華させていた。痣になるから顔はやめてくれと意気地のない声で懇願してきたので、かすかに残る慈悲と共にボディへと拳を沈めた。 「で、あんた7番街で働いてたの」 いてて、と痺れの残る顔つきでルドは聞いてもいない必死の弁明を開始した。 「し、仕事帰りに先輩に無理やり誘われて。しかもベロベロに酔ってやがるから呂律も回らなくて、どこに行くかも全然説明してくれなくて、い、言っとくけど初めてだよこういう所は!」 実に見苦しいので、目にも止まらぬ速さでもう二発追い打ちをかました。 「嫁さんとメアナに申し訳ないって気持ちはないの」 「あるよ! つうかまだ未遂だろ! お、お前こそなんでこんなところで働いてるんだよ! 進化もまだだし、聞いてねえぞ! 一瞬誰かと思ったわ!」 「そりゃ言ってないもの。父さんにも母さんにも、もちろん兄貴にも」 「お、お前なあ! おやじとおふくろが聞いたら泡吹いて卒倒するぞ!」 「そっくりそのまま返すっつうの!」更にドぎついのを一発。「あたしんとこへてめえのガキよこす前に、まず父さんと母さんのところへ土下座しに行くのが多少の筋ってもんでしょうが!」 計六発はさすがにこたえるのか、口答えの元気を無くしたルドは、脂汗をびっしりと浮かばせながら身をよじらせ、 「……な、なあ……メアナは、もしかして……」 「もちろん連れてきたよ。兄貴の提言どおり」
店長はコップ半分程度に注がれた飴色の液体をちょっとすする。周囲を塗りつぶす香水の匂いのせいで、それがお酒だとはメアナは気づかない。もう少しここにいれば、香水ではなく自分から発せられるものにまでなりそうだ。 「別に難しいことたくさんまくしたてて、この業界を正当化しているつもりじゃないんだけれどね。学校の宿題、だったかしら?」 メアナはうなずく。 「多分、大人の世界を一部でも子供たちに知ってもらいたい、という教育の一環なんだろうけれど、それでもここは強烈すぎたわね。働くことの大変さと大切さを知った上で、じゃあ自分は将来どうなりたいか? 自分の夢に向かって尽力できるか? それを、先生は問いかけているんだと思う」 熱が冷め、完全にしぼんだメアナを、店長は優しく抱きしめてくれた。その柔らかさといい香りにまどろみ、メアナは少し惚ける。 「でもね、メアナちゃん。覚えていてほしいことがあるの。将来こうしたいとか、ああなりたいとか、そんな叶えたい夢を持つことはとっても素敵なことだと思う。けれど、叶えきれずに途中でリタイアしたり、何らかの理由で進む道を変えたりする子だっている。だって、未来でどんな運命が待ち受けているかなんて、誰だってわからないから。要は駆け引きね。努力に見合ったところへたどり着いて足元を固めるか、更なる高みを望むのか、ちょっとズルをして近道するか」 宿題なんて、やっても仕方のないものだと思っていた。させられている立場だから、そう感じるのかもしれない。すべては将来の自分に繋がるのだろうか、とメアナは自問を始める。 「ここにいるみんなも、やっぱり何かと事情あるのよ」 「事情、って?」 あまり大きな声では言えないんだけれど、と店長は言葉を濁す。 「悪いオスに騙されて借金苦になったり、とか。恋愛に興味をなくしたり、とか。単に周囲が悲しまないから、とか」 ひどい。あんまりだ。それではまるで、自分のことなど毎日を繋ぐための単なる媒体で、ただ生きさえすれば他のことはどうでもいいようにとらえられるではないか。 「誤解しないで。むしろ夢を叶えたいからって理由でここで働く子も大勢いるのよ」 「うそ!?」 「ほんと。大変な分、お金もたくさん稼げるから。割りに合わないと思うかもしれないし、実際背負うリスクも大きいわ。それでも、どうしても、ってことで、様々な子が訪れるの。もちろん、うちとしては店員みんなが家族みたいなものだって思ってる。夢があるなら応援したいし、反面、できることならとどまってほしい。そういう複雑な心境をいつも抱えながら、たくさんの子たちを見送って来たわ」 そう語りながら遠くを見つめる店長の口調は、まるでたくさんの卒園生を送り出してきた保母のそれだ。 「ポケモンの繁殖力は昔から旺盛だったけど、確かにまっとうな仕事ではないわよね。オスとメスの交わりに厄払いの力があるだなんて風習はとっくに廃れちゃったし、ここ最近では特にデリケートな問題になりつつあるわ。メアナちゃんが嫌だと思うのならうちらに気遣うことなくそう思ってていい。そういう子は、なるべくこういうところに来ちゃダメよ。すぐに潰れちゃうから」 「ルルーさんは、どうしてここで働いているでしょう」 「どうかしら。基本的に、みんなの事情をうちから詮索するようなことはしないから」 「え、でもさっき」 「ええ。リアンみたいに自分からは何も言わないって子もいれば、むしろ聞いて欲しい、とりあえず話をしてすっきりしたいって子もいるの。そんな子はやっぱり寂しがり屋で、自分と接してくれる相手が欲しいのよ」 もしかしたら、と再度店長はふと思いついた考えを最後に付け足す。 「リアンに限っては、本当に、何もなかったりするかもしれないわね」
数年ぶりに顔を合わせられ、前から言いたかった憎まれ口もここぞとばかりに叩き切ったためか、お互いにすっかり毒気を抜かれてしまった。それこそ事を済ませてしまったかのようにやつれた顔つきで、リアン専用の控え室へとこそこそと入った。ルドは遠慮もなしにリアン用の小さい椅子へどっかり座り込み、後頭部を背もたれに預け、体の中の空気を全て吐き出すようなため息をついた。 「すまん、なんとか落ち着いた。なんの連絡も無しに、いきなりメアナをよこして悪かったな」 ルルーもむっすりと腕を組み、ルドと対峙する。 「いーわよ、正直あたしもかなりテンパってたし。体、まだ痺れてる?」 多分、とルドは右肩を軽く回してみせる。 「しかし驚いた。不肖の妹がこんなところで飯食ってるなんて」 「あたしだってびっくらこいたわよ。その不肖の妹が働くこんなところに客として来るんだもん」 「いや、だからな、断ろうにも後が怖いじゃねえか。あの先輩、スケにもサケにも弱いセクハラ上司のくせして職場じゃいつもでかい顔してるんだぜ。あの時点で完全にできあがってたから、これ幸いと先輩だけ放りこんでとっとと家に帰るつもりだったんだよ」 「帰る前にあたしの家へ寄ろう、とは思わなかったの?」 「――思ったよ、少しだけ」ルドはうつむき、「でも、なんか気まずいじゃねえか。あんな形で俺は家を飛び出しちまって、お前とはそれっきり会わなかったってのに、おめおめと顔を出したらよ」 「じゃあ訊くけどさ、どういう風に来てたら気まずくなかったって言うのよ。今が最悪のパターンでしょ」 ルドはうつむいたまま、黙りこくっている。それがわからないから、現に今まで会いに来なかったのだろう。ルルーもいたたまれなくなって、腕を後腰へ組み直し、下を向きながら右足で床をなぞり始めた。 「なんなのよ、もう。あたしも兄貴も、ガキの頃のまんまじゃない。くだらない意地を張りあってさ、とっくに相手のことなんかどうでもよくなったってのに、出方を伺ってずるずるとひきずって、おまけにあんな小さな子まで巻き込んで。なんていうか、色々と情けなくなってくる」 ふ、とルドの鼻から息が漏れる。ルルーよりもむしろ自分をあざけるためだろう。 「だな、俺もそう思う。俺もお前もとっくに大人になっちまったんだ。今更お前の生き方にああだこうだと水をさすつもりはねえよ。俺もおやじやおふくろには迷惑かけたけれど、こうして良かったって思ってる。仕事先の気にいらねえ奴らにへこへこ愛想笑いしながらもなんとか今日まで食いつないでいるんだし、家で待ってくれる家族がいるんだってことを考えれば、なんだって出来る気がするよ」 ――そっか。 理屈ではなく了解した。 自分は、果たしてどうだろう。 今、しあわせなんだろうか。 考えることをやめたのは、いつからだったか。 ずっと同じ釜の飯を食ってきたから性格も似てくるのだろうと、無意識にせよ思い込んでいた。友達にしたくない品性だろうとルルーは自分でも思うし、だからこそ同じ育ち方をしてきたルドのことを疎ましいと感じていた。 しかし。 妹にとって兄とは、常に一歩先を生きている先輩だから、兄なのだ。 この関係と規律は、絶対に覆せない。 遅かれ早かれ、いつかは差が生まれる。 今にして思えば、その瞬間が訪れることが、面白くなかったのかもしれない。 なんてことはない、自分もまだまだ子供であった。 ならば、後ろに立つ者として、背中を押してやろう。 そう思った。 「そーね、ちょっとズレてるけど、兄貴にしてみれば上出来の子じゃない。実際ウブいし、素人っぽそうなところが大受けしそうだから、将来楽しみ。食うのに困ったら、ここへ連れてきてもいいよ」 今も昔も変わらない簡単な挑発に、相変わらずもルドはあっさりと乗っかった。ソファーの弾性力を最大限に生かした跳ね上がり方をして、ルルーに食いかかった。 「ふざけんな! 誰が連れてくるか! メアナにはな、そんな苦労かけさせねえぞ! 絶対にだ!」 その言葉をしかと聞いたルルーは、景気付けのつもりでルドの腰をばしこんと思い切りひっぱたいた。 「よく言った。じゃあ、これからもしっかりやんな、パパ」
夜更けには、まだいまいち明るい。 この手合いの者とは幾度と無く相手してきたので、お得意様の出撃も早い。伝説的とも言える段取りでタクシーが呼ばれた。とっくに潰れているスリーパーと付き添いのルドを乗せ、カイリューは夜空を飛翔した。言うとおり、あれほど泥酔していたならば、今晩のことなど綺麗さっぱり忘れているだろう。 メアナを実家まで送り届ける、という旨を告げると、割と簡単に店長から外出許可をもらうことができた。少し身構えていたが、メアナは暴れ回ることも泣き喚くこともせず、意気消沈したままルルーについてきた。背負ったリュックの重みが、なんだか少し寂しげにも見える。 6番街まで歩くとなると、道順もまた変わる。壁に書かれた労働礼賛や健康維持の標語、芸術と言えなくもないスプレーアート、通りすがりを一度で二名でも引っ掛ければいいような客引きの下賤な売り文句が二匹の背中へ追いすがろうとする。光で騒がしかった繁華街を離れると、街の賑わいも後ろへと遠のいていく。活気にさらされ続けてきたおかげか、急に涼しさを覚え、月が雲の向こうから顔を出すたびに、路地が蒼い闇の奥から輪郭を浮き沈みさせていた。 「ルルーさん」 「ん?」 「さっきはごめんなさい。元はわたしのわがままだったのに、騒いじゃって。ほかのみなさんにも迷惑かけました」 「気にしてないからいいよ。あとであたしが代わりに謝っとく。だめだと思えることをだめだって言える正直さ、あたしはもうとっくの昔に忘れちゃったから」 「勉強になりました。物を売ったり、何かを作ったり、そうすることが働くってことなんだって思ってました。こういう形もあるんですね」 「うん」 まるで舌足らずだが、メアナの言いたいことは、ルルーにもよく伝わった。自分の代わりに、店長が何かとフォローを入れてくれたのだと思う。 「どうして、あそこで働こうって思ったんですか?」 「そういうのも載せなきゃいけない決まりなの?」 「いや、そうじゃなくて、単に気になって」 うーん、どうしてだったかなー、 「あたし、何をして働きたいとか、こういうことをしたいとか、そういう将来の夢ってのが全然なくてさ。真剣に考えたことなんて一日もなかったんじゃないかな。かといって、いつまでも親のすねガジガジしてるわけにもいかないじゃん? 適当にアルバイトやりながらぶらぶら生きてて、そんなことだから進化もできなくて、そしたらあの店長に出会ったの。でも、頑張ったら頑張った分だけ見返りも大きいっていう仕組みはあんなとこでも変わらないよ。客に気に入られたら花代も高くなっていくし、給料も悪くなかったし――気がつけばあそこにいたって言えば一番正確かな。かなり大雑把だけど」 後ろ向きに言えば、最初から色々と投げた状態で生きていたのかもしれない。無知は罪と言うのならば、知った上で何もしないのも罪だ。挙げ句の果てに行き着いたのがあんなところなのだ。メアナに新たな道を開かせることこそできなかったものの、虎口への警笛くらいは鳴らせたと思う。 「あんたは、夢とかあんの?」 「わたしも、まだわからないです。知らないことがいっぱいあるってわかったので」 「ああいうのだけはぜえーったいやりたくない!、って、思ったりしなかった?」 「――ちょっぴり、思いました」 ルルーのことを気遣ったつもりらしい。しかしそれがなんだかおかしくて、ルルーは思わず噴きだした。意地悪な笑顔を浮かべ、すかさず揚げ足を取りにかかる。 「へえ、ちょっぴりだけなら、別にやっても構わないんだ」 メアナの顔がまたしても爆発したように赤面した。 「ちっ、違いますッ!!」 「いいじゃない、あたしが無理にあんたを連れていったのもね、期待の星となれるかもって思ったからなの。若い子はあそこいつでも大歓迎だから。一から百まで、お姉さんたちが綺麗になれる方法とかモテる方法とかスーパーテクとかを仕込んでくれるので心配ご無用。でも、その頃にはあたしも年増の玄人になってたりするんだろうなー。はー、切ない」 「勝手に話を進めないでくださいッ!! わ、わたしは、自分のやりたいことを自分で決めて、これだと思った生き方をします!!」 「む、子供のくせして偉そうに一丁前なことを。ほら、また赤くなってる。何想像してんのよスケベ」 「なってないですッ!! スケベって言葉、ルルーさんだけには言われたくありませんッ!!」 なってる、なってない、という乳繰り合いが、夜の静寂(しじま)に溶けていく。 並んだ二つの影を、父親が駆け足で追いかけていく。
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リフレインレポート ( No.2 ) |
- 日時: 2013/11/07 22:38
- 名前: オンドゥル大使
- テーマA:「輪」
さぁ、恐怖に慄く我らを創造し俯瞰する神よ。
新緑の檻に囚われた孤独なる魂を導け。
かくて我は時の輪廻に誘われり也。草々。
一つだけ覚えておけ、クソッタレな新入り共。
隊長はそう口火を切って俺達を森の中へと導いた。鬱蒼と生い茂る木々が空を覆い隠す天蓋となり、昼と夜の区別もつかない。まるで異空間だ。隣接するヒワダタウンではまだ太陽が中天に昇っていたはずである。俺は、何度か時計を確かめた。
カントー標準時、六月十日。天気は晴れのち曇り。現在時刻、十四時三十二分。
ヤドンの尻尾を切り売りして小金を稼ぐという目的を果たせなかった俺達ロケット団はヒワダタウンの西側ゲートから入れるウバメの森に関する重要な情報を仕入れた。この地では古くより語り継がれている伝承だという。
オカルト? ハッ、という俺達のスタンス。
鼻で笑え。一蹴しろ。それが神をも恐れぬロケット団、悪の権化の姿である。俺はホルスターにかけたモンスターボールを確かめる。つい数時間前、同期のイアンと話した事柄が思い浮かんだ。
――アンドウさん。この作戦、正気じゃありません。
イッシュの生まれでありながら流暢なカントーの標準語を話す彼は作戦前のブリーフィングの後、こっそり俺に耳打ちした。何で俺がこのガイジンと組織内で打ち解けたかと言えば、「アンドウさん」という発音が向こうの「アンダーソン」に似ているからだという。だから、最初のほうはほとんどイッシュ訛りの「アンダーソン」で呼ばれ続けた。
くそっ! 俺はアンドウだってのに。
他の連中には話しかけないくせに、イアンは俺にだけこういう砕けた態度を取る。砕けた、と言っても敬語だが、ジョウトで習った標準語はフランクな会話を意識してのものらしい。俺は実験台じゃねぇぞ。
だが、俺はそんな事をいちいち持ちかけたりしない。どうした? と平静に返す。大人だからな。
――神様に悪戯するの、いけない。きっと天罰が下る。
片言の癖に、天罰、と来たか。俺は笑い出しそうになったが、そこは真摯に聞いてやった。
――このジョウト地方の神様。ワタシ、色々勉強した。ジョウトには時を渡る神様の伝説ある。だから絶対、祠に近づいてはいけない。
イアンには悪いが、俺はそこで吹き出してしまった。外国の神様をお前は信じるのか、と。イアンは青い顔のまま、後悔するよ、とふるふる首を振った。そんなイアンも今や先行部隊に混じっている。だが顔色は優れない様子だ。俺は心配してやろうか迷ったが、既に作戦中である。ロケット団の統率を乱してはならない。神様を怖がっていたら、赤い「R」の矜持が泣く。
隊長は後続する俺達に声を飛ばした。
「ビビッてションベン漏らすんじゃねぇぞ。俺達は泣く子も黙るロケット団なんだからな」
残党だけどね、と俺は出かけた皮肉を呑み込んだ。サカキ様が解散宣言をなされた後も三年間、雌伏の時と耐え忍び、性懲りもなく活動する俺達はきっと害虫以下の存在だろう。民衆に罵声と石を投げられるためにこの制服はあるんじゃないぞ。
チームは五人一組。全員がブランクのモンスターボールを三十個以上携帯している。それはこれから行われる任務のためだ。
この五人の編成に入れただけでも光栄な事なのだ。現ロケット団の指揮を執る幹部にこのチームの有用性を証明しなければならない。そうでなくとも今のロケット団は残党であり、人手不足に喘いでいる。もしかしたらこの任務をこなせば幹部候補生にでもなれるかもしれない。俺は淡い期待を抱く。
目の前に他の木々に比べて細い一本の木が見えた。ここは出番だ。俺はモンスターボールを繰り出す。
「行け、ストライク」
緑色の身体を軋ませ、両手に鋭い鎌を保持したストライクが勢いをつけて細い木を【いあいぎり】で切り裂いた。その先は開けた空間であり、俺達はハッとして目的の物体を見据える。
簡素な木造の祠があった。もし、作戦目標でなければ見逃していただろう。銘が書かれた痕があるが、崩れた古い文字で読めない。纏っている空気は異質なものだった。触れれば何かしらの障りはありそうだ。そういえば、ウバメの森のゲートを潜る際、奇妙な老婆が口にしていた言葉を思い出す。
――森には神様がいるという。悪さをしてはいかんぞい。
うざったいババァだ、と俺は睨みを利かせたが、今になってあの言葉が真実味を帯びてくるのだから不思議である。
隊長は団員達が気後れしたのを感じたのか、「うろたえるな、馬鹿者」と檄を飛ばす。
「これはただの標識だ。セレビィが時渡りをする際に次元を間違えないように作った目印に過ぎない」
隊長の発したポケモンの名前が脳裏に思い出される。
セレビィ。時を渡る力を持つという、幻のポケモン。目撃証言は極めて少なく、ジョウトの文献にもごく稀に登場するのみである。ロケット団は「時渡り」という能力に注目した。もし、今の技術を過去に持ち込む事が出来たのならば。もし、ロケット団を壊滅させた因子である一人のトレーナーをあらかじめ排除出来たのならば。今もロケット団が存続している可能性は充分にあり得る。
その、もしも、が実現可能なのがセレビィの力だった。
「時渡り」は過去と未来、現在を繋ぐ架け橋だ。俺達は過去に着目した。過去に際限なく渡る事が出来るのならばロケット団に対して反逆の声を上げる人間に標的を絞って殺害出来る。その者が生まれる前、親の代に遡って親を殺せばその者は未来に存在しない。パラドックスが発生し、ロケット団の明るい未来が約束される。もちろん、この「リフレイン計画」は万全を期したものだ。タイムパラドックスによって起こる齟齬、起こる全ての事象を隊長が管理しているのだという。さすがは隊長、荒れくれ者の俺達を束ねるだけはある。
隊長は祠へと歩み寄った。ゆっくりと観音開きの扉に手を伸ばす。全員が固唾を呑んでいた。隊長は勢いよく開いた。だが、中には何もいない。
俺は少し落胆していた。なんだ、すぐにセレビィと遭遇出来るわけではないのか。隊長が肩越しの視線を配り、「これからだ、クソッタレの新入り共」と告げる。
「あのオヤジ、ガンテツとか言ったか。奴の家から失敬した」
隊長が取り出したのはモンスターボールだったが、表面に崩した形象文字で「GS」と刻まれている。
「これはGSボール。これがあればセレビィをここに呼び出せる。このボールを道標として、セレビィが時間移動してくるはずだ。ガンテツの日記には『神を冒涜する作品』と記されていたが、俺達からしてみりゃ天啓だ」
隊長の言葉にチームの中にも安心が広がっていく。さすがは隊長、抜け目がない。
「では、早速」
隊長がGSボールを祠の中に置いた。その瞬間、緑色の光が明滅する。眼前で弾けた光に俺はぐらりと視界が傾いだのを感じ取った。緑色の木々が一瞬にして灰色の闇に沈む。
隊長も、イアンも、俺以外の全員が石像のように固まっていた。何かが、光を引き裂き極彩色の次元の中から身体を突き出してくる。まるで今しがたサナギから蝶になるかのように。
極彩色の次元を粘液のように引いてそれは現れた。種子の頭部を持っている薄緑色のポケモンだった。眼は青く澄んでおり、黒い隈のような縁取りがある。短い触覚がピンと立っている。俺は狼狽しながら後ずさった。
「セレビィ……」
隊長の置いたGSボールを道標に、本当にやってきたのか。しかし、隊長達は動けない様子である。意識があるのも俺だけだった。セレビィと何故だか向き合えている。セレビィは首を傾げて甲高い声で鳴いた。森が鳴動する。凝結した時間が再び動き出そうとする。俺はハッとして、セレビィ捕獲作戦を決行した。
「ストライク、峰打ち!」
ストライクが鎌の峰でセレビィを打ち据えた。セレビィには戦闘する気がないのか、ストライクの攻撃を満身に受ける。セレビィが細く鳴く。今だ、と俺はモンスターボールを投げようとした。
しかし、その前にセレビィが俺とストライクを青い眼の中に捉えた。俺達は揃って、蛇に睨まれた蛙のように動けなくなった。筋肉や、関節の問題ではない。精神の問題でもない。これは抗えない「時間」という概念の問題だ。俺の身体を動かす「時間」という概念がその瞬間、氷結したのだ。
セレビィはしばらく見つめていたが、やがてすぅと目を細めると背中を向けた。諦めたように次元の裂け目へと戻っていこうとする。
ストライクの身体が跳ねた。それはポケモンの本能だったのだろう。このポケモンは主人にとって危険だと判断したストライクは鎌の部分で、セレビィを斬りつけた。セレビィの身体が両断される。
その瞬間、七色が網膜の裏で弾けた。
俺はブリーフィングルームから退室する時に、イアンから耳打ちされた。
「アンドウさん。この作戦、正気じゃありません」
イアンの言葉に俺は眉をひそめる。作戦前にそんな弱音を吐くのは卑怯だ。しかし、俺はこの次に放たれる言葉を何となく予想していた。普段ならば、この奇妙なガイジンの片言など一秒先だって分からないのに何が発せられるのかが読めたのだ。
「神様に悪戯するの、いけない。きっと天罰が下る」
俺は自分の予測能力に驚いていた。どうしてイアンの次の言葉が分かったのだろう。ひょっとして前に聞いたのだろうか。俺は目頭を揉む。
「どうしましたか?」とイアンが顔を覗き込んでくる。やめろ。俺の顔を見るな、と手を振り払おうとすると、時計が目に入った。
「……なぁ、イアン。今日って何日だ?」
突然の疑問にイアンはわけが分からないとでも言うように大仰に肩を竦める。
「アンドウさん、何言っているんですか。そこに時計、ある。六月九日ですよ」
それは、俺達が作戦を行う前日だった。
一つだけ覚えておけ、クソッタレな新入り共。
隊長はそう口火を切って俺達を森の中へと導いた。鬱蒼と生い茂る木々が空を覆い隠す天蓋となり、昼と夜の区別もつかない。まるで異空間だ。隣接するヒワダタウンではまだ太陽が中天に昇っていたはずである。俺は、何度か時計を確かめた。
カントー標準時、六月十日。天気は晴れのち曇り。現在時刻、十四時三十二分。ヤドンの尻尾を切り売りして小金を稼ぐという目的を果たせなかった俺達ロケット団はヒワダタウンの西側ゲートから入れるウバメの森に関する重要な情報を仕入れた。この地では古くより語り継がれている伝承だという。
オカルト? ハッ、という俺達のスタンス。
――そのはずだ。俺達は、これが初めて迎える六月十日の作戦日のはず。なのに、俺はこの光景を知っている。夢で見たのか? 分からない。ブリーフィング中に眠っていたら注意が飛ぶはずだ。だったら、今朝の夢か。思い出そうとして、ああ、思い出せないと顔を覆った。
「おい、アンドウ。ストライクを出せ。この邪魔な木をぶった切る」
隊長に指示を出されて俺はストライクを繰り出す。【いあいぎり】でストライクが木を叩き割ると、そこには開けた空間があった。目の前には古ぼけた祠が一つ。文字が刻まれているが掠れて読めない。
それさえも、同じ。
隊長が怖気づいた俺達にGSボールを取り出して説明を始める。曰く、ガンテツのオヤジは『神を冒涜する作品だ』と言っていたが俺達にとっては天啓だ、と。
全てが自分の記憶通りに進む事に俺は焦燥を覚えていた。隊長がGSボールを祠に置く。
その瞬間、記憶が飛んだ。
俺はブリーフィングルームから退室する時に、イアンから耳打ちされた。
「アンドウさん。この作戦、正気じゃありません」
イアンの言葉に俺は眉をひそめる。作戦前にそんな弱音を吐くのは卑怯だ。
――と、俺は違和感を覚える。イアン、お前は何を言っているのだ。俺はどうしてこの時間にいるのだ。
次の一言が放たれる前に俺は時計を見やった。顔面をさぁっと血の気が引いていくのが分かる。
六月九日。その時を刻んでいる。
GSボールについての性能は分かった。とっとと作戦を始めやがれうすのろ隊長殿! と俺は罵声を浴びせそうになった。その寸前で喉の奥へと声が落ちていく。
隊長がGSボールを祠に置く。次の瞬間、記憶が飛んだ。
俺はブリーフィングルームから退室する時に、イアンから耳打ちされた。
「アンドウさん。この作戦、正気じゃありません」
「ああ、正気じゃないな。……イアン、俺の額を触ってくれ」
イアンが怪訝そうにしながらもイッシュ生まれの大きな手が俺の額に触れた。イアンの手は温かい。生きている人間の、血が通った手だ。
「熱はありませんよ」
「そうか」
GSボールについての説明はもういいだろうが、隊長殿! 俺は叫び出したくなったがぐっと堪えてその時を待った。
祠にGSボールが置かれた直後、俺の意識は飛んだ。
「アンドウさん。この作戦――」
その言葉が発せられる前に俺は駆け出した。俺は時計を見やる。六月九日の時を刻んでいる。
「どうなっていやがるんだ……!」
俺は呻いて階段を駆け降りた。ブリーフィング兼残党ロケット団のアジトと化している雑居ビルを抜け出して、コガネシティの雑踏に身を浸した。人々は皆当たり前のように生きている。誰一人、異常な者はいない。俺は手近な人間を呼び止めた。俺の服装を見て怪訝そうに眉をひそめる男。だが、俺は構ってはいられない。
「今日は何日だ?」
突然の質問にたじろいだ様子だったが、「六月九日ですけど……」と消え入りそうな声で答えられた。
「もう一つ、質問をする。ロケット団が壊滅してから、何年経った?」
俺の服装とその質問を結び付けようとしていた男が、「あんた……」と叫び声を出そうとする。
「いいから、質問に答えろ!」
俺の絶叫に周囲の喧騒が一瞬だけ止んだ。男は今にもちびりそうになりながら口にした。
「……三年、だよ」
GSボールについてのご高説は必要ありません、隊長殿!
俺は結局、作戦に参加していた。もしかしたら、この任務についていなければ違う「俺」もあり得たのか? 何が原因だ。この現象は間違いない。
時を繰り返している。しかも、この作戦を遂行する前日と当日の二十四時間を。
何でだ? 俺が何をした?
そんな事を考えている間に隊長はGSボールを祠に置いた。
俺が制止する前に!
俺の意識は塵芥のように飛んだ。
俺はイアンが喋り出す前にその口を塞いで殴りつけていた。止めに入った団員達によって俺は地下牢に幽閉された。
翌日の作戦遂行時に、俺の意識は飛んだ。
「……イアン。近くに高層ビルはあるか?」
ブリーフィングを終えてすぐにそんな事を尋ねられたものだからイアンは戸惑っていた。
「ジョウトは景観維持のために、そんなに高い建築物はないはずですけど……」
「だったら、三階建てでもいい。見晴らしがいい建物がいい」
「このビルの隣が確か三階建てのカラオケボックスだったような」
皆まで聞かず俺は走り出していた。隣のカラオケボックスの主人を脅して、俺は屋上に来ていた。風が湿り気をはらんでいる。ジョウトはこの湿気が多い地形なのが嫌いだ。だから、余計な事を考えちまうんだ。
俺は屋上の縁に立ち、眼下を見下ろした。人がいる。たくさん。当たり前だ。自分で考えておいて、ジョークの一欠けらのセンスもない。
いつも通り。ハッというスタンスで、俺はビルから飛び降りた。
俺の隣にイアンがいる。歩いている。
「アンドウさん。この作戦、正気じゃありません」
「正気じゃないのは、俺のほうだ」
その言葉にイアンが、えっ、と声を出す前に俺は駆け出していた。どうなっている? 時計を見やるが、案の定六月九日。時間が繰り返しているとしか思えない。
「何が原因だ……」
俺は最初の六月十日でセレビィをストライクで殺してしまった事を思い出した。
「あれが、原因なのか」
そうとしか思えない。このまま時間が過ぎ、作戦が決行されれば俺はまた時間の渦に飲み込まれてしまう。
終わりのない輪廻に。
記憶だけを引き連れて。
死さえも道連れに出来ずに。
俺は舌打ちを漏らして階段の踊り場でどうするべきか思案した。しかし、妙案はそう簡単に浮かんではくれない。諦めかけたその時、俺の肩を掴んだ手があった。振り返ると隊長が精悍な面持ちで立っている。
「具合でも悪いのか? イアンが心配していたぞ」
クソッタレなあんたがGSボールを祠に置くからですよ、隊長殿!
俺は叫びたかったが、それよりもいい考えが浮かんだ。アイデアというのは、気紛れに、ポンと浮かぶものだ。
GSボールさえ置かせなければいい。
俺はストライクを繰り出し、敬愛する隊長殿を切り殺した。「何、で……」と声を発する隊長を尻目に俺はその身体からGSボールを探り当てる。これさえ破壊すればいい。置かせなければ、この時間のループから抜け出せるはずだ。
GSボールを奪い、俺はコガネシティ近辺に身を隠した。何人か殺してしまったが、まぁいいだろう。時間の渦から抜け出せるならば本望だ。
二十四時間後、作戦決行時刻に俺の意識は飛んだ。
イアンを殺して、隊長も殺し、制止しようとした幹部の首もはねた。
しかし、翌日、俺の意識は飛んだ。
警察に自首し、全てを自供する。作戦は取りやめになり、ロケット団は完全に壊滅した。
しかし、翌日、俺の意識は飛んだ。
二度目の自殺を試みる。
今度はリストカットだったが失敗した。
三度目の自殺として、ストライクに首をはねさせた。
しかし、無駄に終わった。意識は飛んで六月九日へと渡った。
GSボールの製造者であるガンテツの下に向かう事にした。
この謎を解明するにはそれが一番だと判断したのだ。三度の自殺の末、俺は人間が味わうであろう死の痛みを経験した。どれも二度も三度も味わうと気が狂ってしまいそうだ。だから、俺は根本原因を解決しようとヒワダタウンに出向いた。
イアンは怪訝そうにしながらもクロバットの【そらをとぶ】で俺を運んでくれた。ガンテツの家に押し入る。ガンテツは俺達がヤドンの尻尾を切り売りしていた時に世話になっていた。だから、俺の顔も覚えていたらしい。すぐに眉間へと険しい皺を刻んだ。この老人にはその表情がお似合いだ。リボンで髪を編んだ孫娘が突然の闖入者に瞠目する。
「……ロケット団!」
吐き捨てられた声に普段ならば高圧的な態度を晒す俺はその場に跪いた。ガンテツが目を白黒させている。俺は自分に降りかかった全ての現象を話した。ガンテツは最初、狂ったロケット団員が乗り込んできたのだと思っていたようだが、俺があまりにも真剣に語るので途中からは聞き入るようになった。何度か頷き、「それはお前さん、時渡りや」と口にする。
「時、渡り……」
セレビィの能力とされるものだ。過去と未来を自由に行き来する事が出来る。だが、それはセレビィの能力のはずだ。どうして自分の降りかかったのか。ガンテツは顎に手を添えて、「恐らくは」と言葉を選んだ。
「セレビィを殺した事でお前さんと普通の時間線との波長が狂った。そうとしか思えん。あるいは、セレビィの呪いか」
「呪い、だって」
オカルトだ、と切り捨てるのがロケット団だったが、自分で体験しておいてオカルトもないだろう。これは現実だ。紛れもない、逃れようもない現実である。
「何とか出来ないのか?」
「ワシの力じゃ、無理やで」
「そんな……!」
俺はガンテツに懇願していた。GSボールを造ったのだ。ならば、根本的な事も理解しているはずである。ガンテツは面倒そうに応じた。
「……ヤドンの尻尾を高値で売って荒稼ぎしておいて、いざ自分が困れば傷つけた人間に頼るんか? それは筋違いとちゃうか?」
孫娘は家で飼っているヤドンに擦り寄っていた。ヤドンが間抜けな顔で尻尾を振っている。その尻尾は、まだ完全に生えていない。自分達のつけた傷跡が生々しく残っている。
「……その通りかもしれない。だが、俺は、あんた以外にすがれる人間がいない事も知っている。俺は……、ストライク!」
ストライクを繰り出して俺は自分の喉元に鎌を突きつけさせた。仰天したガンテツが腰を浮かせ、「よさんか!」と声を荒らげる。俺は事の外冷静に事態を俯瞰している自分を顧みた。
死は既に三度経験している。痛みは伴うが、もう心が麻痺しているのか慣れていた。
「……孫娘の前で人死になど見せるわけにはいかん。お前さん、ストライクを収めぇ」
「交換条件だ。あんたの孫娘に一生のトラウマを背負わせたくなければ、俺の、時の呪縛から外れる方法を考え出せ」
無茶無謀な条件だとは自分でも分かっている。しかし、これしかない。俺が、セレビィの時渡りの呪いを脱するには。ガンテツは眉間に鋭く皺を刻み込み、「外道が!」と吐き捨ててから、その場に座した。
何かを語り出すつもりなのが分かり、俺はストライクをモンスターボールに戻した。
「……悪党を救うつもりはない」
孫娘に、人死に見せんためや。そう前置きしてからガンテツは話し始めた。
「時渡りは、何も万能やない。今の科学ではどうしようもなく理解出来ない範疇やろうが、時渡りをする際、ほんの些細な事で違う時間線に乗ってしまう事がある。お前さん、伴っているのは身体と、記憶のはずやな?」
質問に俺は頷く。ガンテツは、「セレビィ殺した時、動いてたんは」と俺を睨んだ。
「お前さんだけか?」
そこで俺はふと気づく。
「……いいや。俺と、ストライクだ」
「せやな。そのはずや。さっきの話が確かなら。だとすればストライクも同じように時渡りを経験しているはずや」
「ストライクが……」
俺はモンスターボールに視線を落とす。ストライクもまた、俺と同じように時の輪廻に囚われていたのか。
「だとすれば、鍵はストライクが握っとる」
ガンテツの言葉に俺は、「どういう意味だ?」と問い返す。
「記憶と身体、いや、身体は元の状態に戻るさかい、記憶、精神の部分か。それを引き継いどるんなら、自分と同じような状態にあるものに、印を刻むとええ。そうする事でループの回数が分かるはずや」
「何に?」
「ストライクは、持ち物持っとるか?」
逆質問に俺はたじろいだが首を横に振った。
「なら、便箋をストライクに持たせぇ。それに書くんや」
「書く? 何を?」
急くように結論を迫る俺へと、ガンテツは冷徹に告げた。
「この時間線でお前さんが経験した事を、レポートせぇ」
俺はブリーフィングルームから退室する時に、イアンから耳打ちされた。
「アンドウさん。この作戦、正気じゃありません」
「ああ、正気じゃないな。じゃあな」
俺はイアンに別れを告げて階段の踊り場まで駆ける。ストライクを呼び出すと、持ち物を持っていた。便箋だ。宛て先は「次の時間線のアンドウへ」とある。俺は便箋の封を切って中を見た。百枚ほどの手紙が入っており、その中の一枚に書き綴られている。
【リフレインレポート1】 俺はガンテツからこの時間の螺旋より逃げ出す術を聞いた。次の時間線の俺は記憶も引き継いでいるから、簡潔に、俺の経験とこの二十四時間でやるべき事を列挙しておく。 まず一つ、GSボールを奪っても破壊しても無駄だ。あれはセレビィの道標にはなったが一方通行のものだ。造ったガンテツにもその詳しい構造は分かっていないらしい。ただ何をしても俺にはこの二十四時間しか残されていない事は確かだ。この先にこれから俺が活動すべき項目を並び立てろ。前回の時間線では俺はガンテツから聞いた事をメモる事しか出来ない。ヒワダタウンに行くのは無駄だ。
そこで文章が途切れている。俺は顔を覆い、階段の踊り場ですすり泣いた。
【リフレインレポート2】 俺は泣くしか出来なかった。
【リフレインレポート3】 この時間線で試してみたのはストライクの技構成の変化だ。ストライクの技に【どろぼう】を組み込んだ。GSボールを直前に技で奪えばどうなるか、試してみたのだ。だが、結果は次の俺が分かっているよな?
奪っても破壊しても無駄だという俺の理論が補強されただけだった。
【リフレインレポート4】 俺は今まで試した事のない方法からアプローチする。直前でセレビィについて知りうる限りの情報を集めようと思ったのだ。もしかしたら伝承の類にそのヒントはあるかもしれない。ごく稀にしかこの世界に爪痕を残さないセレビィといえども、過去にもしかしたらループから抜け出した人間がいると考えたのだ。
俺の行動を嘲笑うかのように、ロケット団のデータベースではそれは発見出来なかった。次の俺の健闘を期待する。
【リフレインレポート5】 ジョウトは広過ぎる。全ての情報網を手繰るのは不可能に近い。俺は今から首を吊る。次の俺の健闘に期待。
【リフレインレポート9】 噂話を聞いた。金の葉っぱと銀の葉っぱを祠の前に捧げるとセレビィが現れるのだという。苦難の末、葉っぱの所在地を確認。次の俺が見つけてくれるだろう。
【リフレインレポート10】 その情報はガセだった。
【リフレインレポート35】 ようやく俺はある一つの事実に行き着いた。ここまで四十回近く俺は繰り返し、そのうち十回ほどは死を選んだだろう。だが、この情報は大きい。
目玉かっ開いてよく見るのだ。
そんな方法は存在しない。それが証明された。
俺はリフレインレポートとやらを破り捨てたくなった。
ガンテツに勧められて行ったこの方法は実のところ俺を無間地獄に叩き落すための方法だったのではないか。何度やっても無駄。それが理解出来てしまう。ガンテツはヤドンの尻尾の報復のためにこれをやらせているだけなのではないか。俺が踊り場で蹲って泣いていると、肩に手がかけられた。また隊長か、と顔を上げるとイアンだった。
「イアン……、俺はどうしたら……」
「どうなさったのですか、アンドウさん。急に飛び出して」
全て話そうかと思った。だが、イアンに話したところで何になる。いや、少しは作戦阻害の助けになるか。考えが堂々巡りする中、イアンは口にする。
「明日の計画が不安なんですね。ワタシもです。あんな珍妙なボールでセレビィを呼び出せるのかどうか……」
呼び出せる。しかし、その先は――。俺は頭を抱えた。イアンが肩を二、三度叩く。
「大丈夫ですよ。危険度も低いですし、大した任務ではないでしょう。それよりも、これをクリアすれば幹部候補間違いなしですよ」
イアンの興奮気味の声に俺は黙って首肯した。
一つだけ覚えておけ、クソッタレな新入り共。
隊長はそう口火を切って俺達を森の中へと導いた。鬱蒼と生い茂る木々が空を覆い隠す天蓋となり、昼と夜の区別もつかない。まるで異空間だ。
――否、ここは時間線の違う、異次元だ。
この森の木々も、草葉を揺らすポケモン達も、一つとして同じものはない。同じように引き継いでいるのは俺だけだ。
隊長の指示に従って俺はストライクに【いあいぎり】を命じる。眼前に開けた空間が捉えられ、俺達は立ち止まった。隊長が祠を開き、GSボールの解説を始める。俺はうんざりとして聞いていたが、ふと思い至った。
隊長の説明を俺は遮る。
「待ってください。今、言わなければならない事がある」
時計を見やる。リセットされるまで、残り一分弱。
「何だ、アンドウ」
「イアン」
俺はイアンへと向き直る。イアンは首を傾げた。
「どうしました? アンドウさん」
「どうして、作戦にボールが使われる事を知っていた? 珍妙なボール、と言っていたな。それはつまり、GSボールの事じゃないのか?」
「知っていておかしいですか?」
「ああ、おかしいさ。だって、俺達は今まさにあのボールを見たはずなんだからな」
その通りだ。自分は何度も繰り返しているものだからつい意識の外に置こうとしていた。
GSボールの存在が明らかになるのはこの瞬間だ。それ以前に知るのは不可能なはずである。
「イアン。お前も、何周目だ?」
その言葉はまるで約束手形のように静寂の空間に染み渡った。
隊長、他二人は唖然としている。何を言っているのか、気が狂ったのか、とでも言いたげだ。
イアンが口元を歪める。嘲笑の形を作り口にする。
「まさか、気づくとは」
「俺を時間の地獄に突き落として楽しかったか?」
「楽しくはありませんでした。だってたまに自分が殺されるのはいい気分がしない」
「何のためだ?」
それだけは聞かねばならない。何故ならば、イアンこそがセレビィのトレーナーだからだ。そうでしか、時渡りの制御を説明出来ない。
イアンは、「巻き込みたかったんですよ」と言った。
「時を渡る因果に。セレビィを持つがゆえに、この先の未来も、過去も全て分かってしまうという物悲しさに」
「その道連れというわけか」
イアンは首肯する。最早、セレビィの時渡りを発動させるつもりはなさそうだった。
「ワタシはこれからも時渡りを続けます」
イアンの背後の空間が引き裂けて極彩色を滲み出させる。気づけばイアンと俺以外の全員が石像のように固まっていた。
「また、誰かを巻き込むつもりか?」
「今度はロケット団総帥、サカキ様を巻き込むのも面白いかもしれません」
「させねぇ。ストライク!」
歪んだ時間の輪廻には決着をつけねばならない。ストライクが光すら振り払わずに跳ね上がり、イアンを切り裂こうとした。イアンはフッと微笑みを漏らす。
「それが、この時間の連鎖から逃げ切る唯一の方法です、アンドウさん」
イアンをストライクが袈裟斬りにした。セレビィがイアンから離れ、時間の狭間へと潜り込んでいく。それを制する前に、「動くな!」と声が飛んだ。
俺は三方を取り囲まれていた。隊長と二人の団員が俺にモンスターボールを突き出している。俺は素直に手を上げた。
隊長がハッと気づいて祠へと目を向ける。
「GSボールが発動しない!」
当たり前だ。セレビィは、この時間線ではないどこかへと旅立ってしまったのだから。
イアンの死体が倒れている。「作戦失敗だ!」と隊長が口走り、祠を荒々しく蹴りつけた。
セレビィは結局、現れなかった。
【レポート1】
俺は六月十一日を迎えた。
奇しくも昨日六月十日は時の記念日だった。
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ご主人の視線を取り戻せ ( No.3 ) |
- 日時: 2013/11/12 01:02
- 名前: リング
- 【テーマB:石】
ご主人のアイカさんは、最近私達の事を構ってくれない。 旅の途中でいただいたヌメラの女の子が卵から孵化してからというもの、最近は毎日ヌメラへのポケパルレに夢中なのだ。抱き着いてぬめったり、なでなでしてぬめったり。生まれたばかりの新しい子に構いたくなる気持ちは分かるけれど、もう少し私の事も大事にして欲しいの。 そんなこんなで、最近はバトルの時と食事の時くらいしかまともに声をかけてもらっていない。他の子達も似たような状況なので、あまり不満ばかり愚痴るのも大人げないし。だからと言って、このまま引き下がるのも嫌である。私への視線を取り戻させて見せるんだから!
「そんなわけで、私はご主人を振り向かせるために綺麗になりたい! 皆だって、最近構ってもらえなくって寂しいでしょ? ここらで、ご主人に構ってもらえるようにモーションかけましょう! ご主人の視線を取り戻すの!」 食事の最中、仲間にそう持ち掛けてみる。ヌメラは現在おねむの最中だ。 「そうだね。私は誰かから女性を奪うのは好きだけれど、女性を奪われるのは好きじゃない……ヌメラもご主人も、私のものになるべきだ。私が美しすぎるから」 少しナルシストなウィッチお兄さん。彼はご主人と最も長い付き合いの男の子だ。少しウザったいところを除けば、メロメロのうまい美青年だ。 「一部の意見には同意ね。私もご主人を奪われるのは好きじゃないわ」 「ふふ、もちろん君も一緒に盗んであげるから安心してよ。そうだね……主人に振り向いてもらいたいなら美しくならないと。月桂樹やヒイラギのような優雅な木の枝を盾の鞘に刺そうじゃないか。あ、カエデなんかもいいんじゃないか……そういえば私も最近ストックの木の枝が尽きてきたな。食事が終わったら少し選んでおくか」 「いや、盾は私の大事な場所を守るものなんだけれど……あ、でも枝を切るなら私に任せてね。庭師も真っ青な剣裁きで切ってあげるから」 マフォクシーのウィッチお兄さんは、私をテールナーにでもするつもりだというのか。さすがにそれは御免こうむるわ。 「やっぱりあれぞい! 女なんてキスで攻めてやれば落ちるぞい! おいどんなら7か所同時にキスできるもんな!」 「あんたに聞いた私が馬鹿だった」 ガメノデスのシチフクジンさんは発想がヤバイ。というかそれ恐怖でしかないと思うわ。 「ご主人は雌だからなぁ……やっぱり、翼を広げて体の大きさをアピールするのが一番だろ?」 ウォーグルのアレク。あんたもウォーグルの基準でものを語らないで……。 「私に翼なんてないってば。飾り布くらいしかないでしょ!」 ため息をつきつつ、私はアレクに反論する。 「美しくなるなら、磨かなきゃだよねー。僕も原石は見れたものじゃないけれど、きちんと磨いてもらったら、とってもキレーでメレシーウレシーだったよー」 メレシーのアメジストは、間延びした声でそう告げる。なるほど、磨くのか……。 「そうだねぇ。私も、ご主人が振るう包丁の冷たい輝きは大好きだよ。お母さんが旅に合わせて美しいものを選んでくれたらしいけれど、あの濡れたような美しい刃がねぇ……私はその輝きも嫌いじゃない。いつか盗んじゃおうかな……うふふ。潤んだ女性の瞳というのは素敵だしね……」 ウィッチお兄さんは、妖しく微笑みながら、ご主人がさっきまで使っていたウェットティッシュで手入れされた包丁を見る。こいつ、マジシャンの特性のせいか、やけに手癖が悪いんだよなぁ。 「うーむ……そうか、あの輝きか。血液の滴る私の剣も格好いいと思うけれどなぁ……でも、研いで綺麗になるのも必要か……」 私は特殊型として育てられているから、ニダンギル時代と違ってあまり、剣の手入れは必要ない。そうか、だからご主人があんまり構ってくれなくなっちゃったんだなぁ。特殊技が弱かったころは、ガンガン切り裂いていたから、すぐ切れ味も落ちちゃったものね。 「そうだ、俺の羽飾りを頭につけてみろよー。ご主人は雌だし、きっと惚れるぜ」 「却下」 アレクは、同種の雌(いない)と仲良くやっててください。 「でもさー。サヤカちゃん、ご主人より身長大きいよねー。そんな体をどんな石で自分を磨くのー?」 「そ、それは……」 そうとも、私の身長は180センチメートルほど。同族の中でもかなり大きい部類に入る。ご主人の持ち物を思い浮かべる。確か進化の石がいくつかあったけれど、あれは使えないし。他の石も小さすぎる。そうなると、手近にあって大きな石と言えば。 「ねぇ、アメジスト。私と一緒に美しさを磨かない?」 「え、そんなのよりおいどん達と研がないか?」 私の研ぎのパートナーにふさわしそうなのはアメジストしかいない。シチフクジンさんは……岩タイプだけれどちょっと遠慮しておこう。 「んー……最近垢がたまってきたから、それを削ってくれるなら、メレシーウレシーだよー」 「なんだ、どうやら話もまとまったみたいだね。ふふ、美しくなった君の刃で、私が使う木の枝を綺麗に細工してくれることを願うよ」 「は、はい。ウィッチさん。喜んで!」 「それとも、木の枝の代わりに君を抱いて寝るのもいいかな?」 「あ、抱かれるのは謹んで遠慮いたします」 これでも、宮殿の庭師の真似をして遊んでいたくらいだから、私はそういうのが好きなんだ。 「それじゃ、そういう訳でアメジストちゃん。夜、主人が寝静まったら……私と一緒にお互いを磨き合いましょう。朝起きたらご主人を驚かせてやるんだから!」 「いいよー。でも、僕は砥石にされるなんて初めてだから優しくしてねー」 「それはもう当然。生まれたての赤子をなぜるように、慎重にやらせてもらいますとも」 「ふふ、綺麗になれるといいね……とはいえ、私も最近ご主人に甘えていないなぁ。耳でも舐めれば喜んでくれるかな?」 ウィッチさんは妖艶に微笑み、ご主人の方を見る。 「俺も7倍キッスしてあげて構ってもらおうかな? きっと一発でメロメロぞい」 「いや、それはご主人が嫌がるんじゃないかと……」 「大丈夫大丈夫。それより、刃を研ぐなら水が必要ぞい。おいどんも協力しようか? それに、刃を研ぐなら目の粗い石と細かい石があったほうがいいぞい? ロックカットするよりもきれいになりそうだし、おいどんもたまにはおしゃれしたいぞい」 「あ……そうね」 忘れてた……水の事。それに、目の細かさの事も……そうよね、やっぱり荒い砥石を使ったほうが最初はよさそうね。あんまり気が進まないけれど、参加させてあげましょうか。 「それじゃあ、私は、さっそく今日の夜からご主人にポケパルレをさせるよ。僕が美しいから、ご主人には拒否権なんてないしね」 あるでしょ。 「じゃあ、主人を寝かしつけておいてくれるかしら? 私はその隙に体を綺麗にしちゃうわ」 「了解、サヤカ」
とにもかくにも夜は更ける。ウィッチもご主人とポケパルレをしまくった挙句、そのまま寝落ちして添い寝の真っ最中。いつか食べてしまうんじゃないかというような表情でご主人を抱いている彼の目が妖しくも艶やかだ。今はぐっすり眠っているから、早く済ませてきなよとばかりに彼はご主人の首筋に鼻を押し付けながら手を動かしていた。 ともかく、私とアメジストとシチフクジンとで、揃ってテントの外へ出る。 「ふー……深夜って言っても、まだまだたくさんのポケモンが起きているぞい」 「そりゃあ、夜行性のポケモンが多いし……私だって、元は夜行性よ?」 「僕は暗い所に住んでたから。夜のほうが落ち着くなー」 すっかり夜も深まってみると、かわされるのはこんな会話。そういえば私も、夜にこうやって外に出たのは久しぶりの事だ。 「ともかく、一緒にキレーになろーよー。サヤカ姉さんの体を味わいたいよー」 「いいわよ。でも、まずは荒く研いでからね。そういう訳だから……シチフクジンさん、お願いできます?」 「おうよ、当然。もうぶっかけちゃっていいのか?」 「僕の準備は万端だよー」 「了解ぞい! ならば、水を出してと……」 シチフクジンが、体中から水を発して自身の体表を濡らす。 濡れた岩を凝視しながら、私は鞘であり盾でもある体の一部をそっとはだけさせる。錆びているがため、シャッという小気味の良い音は発生せず、ジャリッという錆びた音。あぁ、こんなことならもっとこう、さびが止まりそうなものでも塗りたい気分……となるとヌメ……いや、あれは油ではないか。 ともかく、私の大切な部分を曝け出してみると、手入れ不足が響いたのか、案の定錆びだらけ。いくら、特殊技主体でほとんど刃を使わないからって、こんなにだらしない体を見せつけるのはやっぱり恥ずかしい…… ギルガルドに進化してから、全く研いでいなかったんだ、切れ味も悪くなるはずである。私も、今現在は、物理技と言えば聖なる剣くらいしか使っていないし、それを使う相手はほとんど鋼や岩、氷など堅そうなやつばっかりで、斬るというよりは叩き斬る感じで使うからあんまり切れ味は必要ないのだ。全身から水を出したシチフクジンの体表には豊かな水が滴り、僅かな月明かりに照らされて鈍く光を照り返している。一般的には暗いと言える明るさだから、人間にはこの光は見えないだろう。 その濡れている姿を見て、シチフクジンが相手だというのに私は湧き上がるギルガルドの本能を抑えきれなくなった。本来なら雨の日とかに、適当な岩で自身の体を研いでいたのだ。そうすることで年々擦り減っていく岩は、私達ヒトツキ族の繁栄の証。誇らしい気分にすらなってくる。
「さ、横になってシチフクジン」 「うむ、どうぞ。研ぎ過ぎて痛くしないで欲しいぞい」 ごろんと横たわった彼の上半身をよく見てみると、以外にも老廃物がたまって劣化したような色の岩がたまっている。へぇ、岩タイプの子もこんな風になるんだぁ。 彼の濡れた体に私はそっと体を重ね合わせる。血に染まって薄汚れた私の肌が冷たい彼の肌に触れて、そういえばこんな風に優しく触れ合うのも久々だと思う。ご主人は触れてくれたとしても、盾やグリップ、飾り布だけなんだもの。物足りないわ。ニダンギルの頃までの経験を思い出しながら、15度ほどの角度をつけてそっと彼の体とこすり合わせる。心地よい金属音が耳に響いて、甘美な欲求が呼び起された。 こんなに大きくなってしまった体でも、小さかったあのころのように体を研げるのかと少しだけ心配もしたけれど、大丈夫そうどころか、十分すぎるくらいだ。濡れた体同士が擦りあわされるたびに、シチフクジンの体からはぎとられた垢が、研糞となって滴る水を濁らせる。この水の濁りが、美しい刃を作り出すための決め手となるのだ。 研糞を十分出したら、まずはギザギザの刃で、相手に治りにくい傷を与えるための切っ先からゆっくりと。表面の垢が剥がれ、まだ固くきめ細かい部分に切っ先を這わせる。先端ゆえ、体ごと向かってゆくように突きだす攻撃にはなかなか使える。かたき討ちの時なんかは、これで思いっきり相手を突き刺すものだ……けれどまぁ、当然今の私は使わないけれど。 引いて押して引いて押して。マグロのように横たわったシチフクジンの体をタチで圧迫しながらそうしていれば、少しずつ鈍くなった切っ先が削れていることが実感できる。最初は感じなかった感触も、研がれ、体内の神経と近くなっていくことによって、痺れるように私の中を駆け抜けていく振動。体の奥の方、神経が通い、そして丈夫な芯の存在する骨髄まで響くような感触。よし、ここら辺はもうそろそろ大丈夫。徐々に根元の方へとゆっくりと近づいてゆこう。 そうして、ひたすら続く往復運動。人間に飼われようとも、獣として生まれたさだめである本能に突き動かされるまま、妖しい水音とともに私は少しずつ美しくなってゆくのを感じる。そう、ご主人にゲットされたり、庭師の真似をしたりと、野生を失いかけてきた私だけれど、こういった野生の欲求はどれほど澄ました顔をしていても消えるものではない。いや、すました顔よりも、研ぎすました白刃、切っ先、刀身の方がよっぽど気持ちよくって自然体だ。 砥石が乾燥しないようにと、シチフクジンは適宜水を追加して、全身をしとどに濡らしている。うーん……シチフクジンの事はあんまり好きじゃなかったけれど、彼がいてくれてよかった。少々ごつごつがあった彼の体も、私の体にとがれ削られ、徐々になめらかな岩の形をしてきている。いま、それを知るのは私しかいないけれど、濁った研ぎ汁を洗い流せばきっと、赤の部分が削られ、磨かれた美しい岩が覘くはずだろう。 さて、あんまり胸の前方の部分ばっかりやっていてもバランスが悪いので、その無駄な垢が削れた彼の体を一度見てみよう。 「次は貴方の背中で研ぎたいわ」 研糞がついたままの刃を見せながら、シチフクジンに告げる。 「おう、随分ゴリゴリやっていたけれど、まだ半分も終わっていないんだな……どれどれ」 と、シチフクジンは胸の濁った水を洗い流した。 「おぉ、随分と滑らかになったぞい」 シチフクジンの言葉通り、彼の胸は予想以上に滑らかに慣らされている。研ぎまくったものねぇ。 「でしょう? どんな岩でも磨けばいい感じになるのね」 「うらやましー。僕も早くやって欲しいなー」 「だとよ、サヤカ。それじゃあ、早いとこ終わらせるぞい。次は背中を頼むぞい」 「えぇ、ご主人が戦闘中に見るのは背中だものね」 背中を頼むと言ってうつぶせに横たわったシチフクジンに同じように刃を添える。こびりついていた研糞とともに、研磨を再開する。右側の根元まで研ぎ終えれば、今度は左側の先端から根元を目指す。すっきりした爽快感が左右対称ではないせいで、余計に不快感が募っていた左半身。 先ほど、右半身を研いできたときは、まるでまとわりついていた虫を振り払えたかのような気分だったけれど。その感触を、いよいよ左半身にも与えられるという事だ。その感触を想像するだけで、うっとりとしてヨダレが出てしまいそうだ。 癖になるこする摩擦音。荒々しい彼の体表に揉まれ、研がれ、洗練されてゆく。質量で見れば、1パーセントにも満たないような小さなダイエットなのに、研ぐことで得られる爽快感は、ボディパージで鞘や盾を投げ捨てた時よりも体が軽くなる気分だ。 そうして、次は彼の下半身。ヒトツキ時代から、威勢の下半身に触れる事なんて、仲間で一緒に狩りをした時くらいだったけれど、こんな形で下半身に触れることになるとは思いもよらなかった。ご主人だって、抱いたりしているときに触れるのは上半身のみだから、何だか新鮮な気分だ。 そんな初体験をシチフクジンで達成するのはいささか不本意だけれど、まぁいいわね。そうして左右の研ぎをどちらも終えたら、次は体の背面。研ぐことで付いた返りを削る作業だ。研ぐことで裏側に出っ張ってしまった返りを取り去れば、私の切れ味も、そして美しさも完璧なものになる。 裏返り、仰向けのまま美しくきらめく星を見て軽く刀身を研いでゆく。あぁ、思えばシチフクジンと一緒に同じ星を見て居ることになる。このシチュエーション、もっとこう……立派な鍵をもったクレッフィとか、同じく立派な剣を持ったギルガルドや、美しい結晶の生えたギガイアスと味わいたいシチュエーションであるのが残念だ。でも、異性と一緒に、こうして星を見る……ニダンギル時代に仲間たちと一緒に星を眺めた時も、言い知れない満足感があったけれど、シチフクジンが相手なのに不覚にもそれに近いものを感じてしまうのが情けない。 涼しい夜風に刀身を冷たく冷やされながら返りを研い行く。最近の手入れ不足のせいで、長丁場になってしまって、さすがに疲れてきたのだけれど、こすりあげるたびに私の体の奥底からもっと棘という欲求があふれ出し、私の体は止まることがない。ようやくすべて研ぎ終えた頃には、心地よい疲労感に包まれて、気持ちの良いため息が自然と漏れ出した。 でも、まだ終わっていない。私がさらに美しくなるのはこれから。そう、これからなんだ。
「お待たせ、アメジスト」 「むー、遅いぞー」 「ごめんね。でも、シチフクジンと同じく、貴方の体も一緒に綺麗にしてあげる」 両肩の飾り布で彼の顔をなぜる。撫でられるのが嬉しいらしく、こちら側に顔を寄せて甘えてきた。堅い体同士がふれあって、小気味の良い音がした。数秒ほど抱擁してそっと体を離すと、自分の体をとぎに使われるのが初めてなので、若干緊張しているような面持ちだ。怯えたように濡れた瞳がちょっとかわいいかもしれない。 「大丈夫よ、安心して。さっきシチフクジンにやったように、痛くはしないから」 「う、うん……お願い」 ごろんと、アメジストが横たわる。 「それじゃ、水をかけるぞい」 そこに、振りかけられるシチフクジンの水。 「ねぇ、シチフクジン。私の研ぎ汁も落としてくれないかしら? きっちり流し切るつもりでお願いするわ」 「あいよ、ちょっと威力強めで行くぞい」 あぁ、私の体が洗い流されてゆく。刀身の腹の方まできっちり錆を落とした私の刃は、美しい黄金色を呈している。けれど、私はさらに美しくなって見せる。彼が悪いわけではないけれど、シチフクジンの岩は粗い。そのため、グッと目を近づけないとよくわからないほどではあるが、切っ先には細かな傷やあらが残り、剣の切っ先は、切れ味も輝きも研ぐ前よりはましといった程度か。 そう、野生の頃皆の憧れだったレベルの高いニダンギルのお兄さんは、沢山の雌の鞘にその刀身を納めるべく、宮殿内部にある大理石の非常に細やかな目を利用して研いでいたものだ。そうやってきめ細かな石で研がれたあの方の刀身の美しい事。濡れてもいないのに、光の加減で濡れているように光を照り返すその様は、女として鞘がうずいたものだった。 その時の美しさ……メレシーの宝石よりも輝いて見えた記憶がある。さて、粗い研糞を落としたら、次はいよいよきめ細かな彼の体で私の刀身を研ぐのだ。やはり最初は垢のように古く風化した岩がこびりついているが、往復しているうちに、それらは禿げて、中にある堅くてきめ細かな岩肌が覘く。 守りを固めた姿の私に匹敵する丈夫さを誇る岩のボディは、息がふれるほど近づいてみれば、かすかにキラキラと輝いている。濁った研ぎ汁すらかすかに煌めいて美しくなりそうなその体を、今から擦りあわせようとするのだと思うとなんだか少し緊張する。ごくりと生唾を飲みこんで、私は再びそっと彼と体を重ね合わせる。 シャリンシャリンと立てる音は、今までで一番なめらかで耳の奥まで透き通るような金属音だ。そして、きめ細やかな分だけ非常に緩やかな振動が私の体の中に伝わってくる。そう、それは例えるならばじっとり濡れたウィッチの舌が私の刀身を這うような、そんな感覚。往復運動の回を追うごとに吸い付くように、そして吸い込まれるように一体感が味わえる。きっと、私の体に合った小さな傷が消えて行っているのだろう。 とろけそうなほどに優美な感触は一度味わうと癖になる。時間が許す限り、この甘く爽やかな感触を味わっていたい。虚ろな目をして、私は初めての体験にひたすら身をやつしていた。 やがてその心地よさにも終止符を打つ時が来た。右も左も裏も表も、すべての部分を研ぎ終えたのだ。 全身からあふれるような満足のため息をついてから、潤んだ目でシチフクジンの方を見る。 「ねぇ、私の体を洗い流してくれないかしら?」 「おう、おいどんに任せるぞい」 シチフクジンは研糞を洗い流すために水鉄砲を放つ。そうすると、研ぐ前とは見違える自分の姿があった。ご主人からちょろまかした手鏡には、自身の体も鏡と見まがうばかりに磨かれた姿が、手鏡との合わせ鏡として映っている。 「おー、綺麗になったなー。仲間が綺麗になってメレシーウレシーぞー」 「美しい……あぁ、研がれたお前ががこんなに美しいとは思わなかったぞい」 私の仲間達も、こんなに褒めてくれる。良し、この姿でご主人にアタックかけて、久しぶりに振り向かせて見せるんだから。とにもかくにも、私は布巾で体をふき取ってみる。あまりに切れ味が良かったのか、少しだけ切れてしまったのが主人に申し訳ない。 そうして体をふき取ってもなお、鏡面のように研磨された私の体は、美しく濡れたような刀身を保ったまま。濡れた女性の瞳は美しいと言っていたウィッチにも惚れてもらえそうなくらいに美しいと自負している。 テントの中に戻ってみれば、ウィッチもさすがに主人と添い寝をしたまま眠っていたが、気配を感じて目を覚ましてしまったようだ。 「おや、君は……人違いかな、サヤカちゃんによく似ているが、とても美しい」 ブレードフォルムにして露出度を上げ、体のラインを強調する私に、ウィッチさんは立ち上がって褒める。 「ふふん、もちろん私はサヤカよ。それは褒め言葉として受け取っておくわ、ウィッチさん」 「おや、君だったのか。はぁ、なんて美しい刀身だ……思わず、ご主人から奪ってしまいたいほどに、綺麗じゃないか」 そう言って、ウィッチさんは私の肩にそっと指を添え、私の目の下、胸にじっとりと濡れた舌を這わせる。 「うん、触り心地も滑らかだ。ふふ、やっぱり……君の事もご主人から奪ってしまおうか……皆奪われてしまえば、みんな幸せだろ?」 「ダメよウィッチ……寝言は寝て言わなきゃ」 「おやおや、口の悪いお嬢さんだ。タチが悪い」 そう言って、モフモフの体で私を抱きしめる。褒めてくれるのは嬉しいけれど、ご主人に抱きしめられた方が嬉しいのよ。 「わーおー、ウィッチが大胆だなー」 と、その光景を見てアメジストは無邪気な感想を漏らしていた。茶化されると恥ずかしいわ。 「でも明日は、私はご主人のものだし、私さっきまで貴方がいた位置にいるんだから、覚悟してよね!」 緩く啖呵を切ると、ウィッチは妖しく微笑んだ。 「うん、どうぞご自由に。雌を奪って僕のものにするのは楽しいけれど、ご主人は1人しかいないから分け合わなきゃね。明日は君の自由にするといいよ」 と言って、ウィッチは抱いていた私を開放して、ご主人との添い寝に戻る。よし、明日は私がその添い寝のポジションを狙ってやる! 明日、主人にポケパルレをねだるのがが楽しみで寝られないかと思ったけれど、披露していた私は予想以上にぐっすりと夢の世界へと旅立っていった。夢の中でも、ご主人とポケパルレ出来たらいいなぁ。
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缶コーヒーと秋の空 ( No.4 ) |
- 日時: 2013/11/15 13:54
- 名前: 鈴志木
- テーマ「石」
多くのスポーツにおいて審判とはルールであり、いくつかの競技では物理的に石ころ同然の存在だ。頭にボールが直撃しようがプレーは続行しなければならず、残念なことに、それはポケモンバトルにおいても同じである。 「ネール、アイアンテール!」 フィールドは常に戦場だ。 バトルフィールドの領域を占拠する巨大な鉄蛇が、その鋼の身体を驚くほどしなやかに撓ませ、眼前のナッシーを薙ぎ払う。それと共に発生した突風が私の身体を揺らし、両手に握っていたフラッグが翻って取っ手に巻きついた。馬鹿でかいポケモンが技を繰り出す瞬間は、何度経験しても肝が縮む。特にハガネールなんて、技のとばっちりを食らうだけで命を落としかねない。 そんなポケモンを臆することなくリードする、あの新人ジムリーダーは大したものだ。 「トドメです……ネール、ロックブラスト!」 フィールド外野から、その少女は凛とした静かな口調でハガネールに技を命じる。彼女はまだ十代半ばと聞いた。私の息子と同世代くらいだろう。学校に通いながら趣味としてポケモンバトルを楽しんでいる息子に対し、あの子は既にジムリーダーとして大いなる名声を手に入れようとしている。早いうちから子供の実力格差を目の当たりにするのは、親として酷なものだ。 しかし、今はそんなことを考えている時ではない。 主人の命を受けたハガネールは重々しく口を開くと、足元もおぼつかないナッシー目掛け、岩石の砲弾を発射した。一つでも命中すれば気絶は間違いないだろう。十年以上ポケモンジムの審判をやっていれば、試合の流れというのは肌で感じることができる。審判とは挑戦者とジムリーダー両者の間に立ち、試合を最も客観的に見られる立場だ。自然と右手のフラッグを握る手に力が籠り、ジムリーダーの勝利を告げる準備はできた。 しかし、時に予測できない事態も発生する。 ジム挑戦者のナッシーは葉が生い茂る頭を振り乱しながら必死に岩石の弾丸を回避し、フィールド外で身構えている私の元へ接近した。まだロックブラストの攻撃は止んでいない。全身の神経が一斉に危険を感知する――このままでは石に当たるぞ、逃げろ。視覚が流れ弾を食らわない位置を見つける。両足がそこへ向かう。聴覚が少女の甲高い声を捉えた。 「危ない!」 脹脛に鋭い痛みが走り、無我夢中で前方へ跳んだ。 着地と共にハガネールの攻撃が止み、間一髪で直撃を免れたことに安堵する。だが命拾いしたことを喜んでいる暇はない。すぐに後方を振り返り、無数の石ころにまみれて気絶しているナッシーを確認した。 これで、試合終了だ。 「ナッシー戦闘不能。勝者、ジムリーダー・ミカン!」 私は右手に握り続けていたフラッグをジムの高い天井へと掲げる。その瞬間、ハガネールが歓喜の雄たけびを上げて室内を震わせ、挑戦者は項垂れ、申し訳程度しかない観客席に詰めかけていた報道関係者があの新人ジムリーダー向けてカメラを構え、一斉にフラッシュを焚いた。この旗の一振りで様々な行動、感情が連鎖していく。それを横目に私はフラッグを下ろし、余韻に浸ることなく控えの部屋へと向かった。 今日はアサギジム新リーダーのお披露目なので、挑戦者は一人だけ。後は勝利インタビューや撮影取材などを行うそうだ。ジム審判というのは通常、少なくとも一日五試合はジャッジをこなしている。たった一試合のみに駆り出されるというのは物足りないというか、調子が乱れるというか。審判用の制服を脱いでいると、ズボンが脹脛に引っかかり、忘れていた痛みが蘇った。ロックブラストの流れ弾は五センチ程度の切り傷を作り、目を背けたくなる惨状になっている。すぐにパウダースプレー式の消毒薬を吹き付け、これで治療は完了だ。 この程度なら、もうかすり傷みたいなものだ。脛毛で隠れているが、脚の至る所に審判人生十年分のとばっちりが刻み込まれている。この道二十年のベテランによれば、この程度はまだまだ甘ちゃんらしいのだが、四肢を残し丈夫なまま現役を退きたいものだ。まだ家のローンは二十年残っているし、一人息子を大学卒業まで世話する必要がある。 「アサギに可愛らしいジムリーダーが誕生しました! 鉄壁ガードの女の子、ミカンちゃん!」 記者会見だろうか、遠くからやけに弾んだ会話が聞こえてくる。比較的近い距離にいるのに、私には別世界だ。あの少女は既にトレーナー界のスター候補で、町の羨望の的。かたや私と言えばポケモンリーグに所属する、四十過ぎのしがない中堅審判だ。 あちこちのポケモンジムを一定スパンで担当していると、若いリーダーとの格差に絶望することが多々ある。若くして大成功を収め、既にダイヤモンドのように輝く彼らに対し、さしずめ私はそこら辺の石ころみたいなものだ。まあ石なりに安定感のある生活は送っているが、こんな仕事だ、突然蹴飛ばされて消えてしまう危険性だってある。ま、その辺はどの職種も同じだろうか。 さて、着替え終わったから上に報告の連絡を入れ、帰宅するとしよう。荷物をまとめ、控え室を出た。制服を脱ぐと審判の威厳は残らず取り払われ、野暮ったい中年男が姿を現す。幸いにもどこのジムも審判控え室は裏口のすぐ傍に設置されており、リーダーやスタッフの目を忍んで帰宅することが可能だ。審判は公平であるべき存在、余計な馴れ合いは不要である。この配慮は有り難い。の、だが。 「……あ、あの。お、お疲れ様です……」 裏口を開けた瞬間、私は度肝を抜かれた。そこに立っていたのは、緑色のワンピースに白いカーディガンを羽織った華奢で小柄な一人の少女。紛れもなくこのジムを司るリーダー、ミカンさんだ。もう記者会見は終わったのだろうか。近くで見ると大人しそうなごく普通の女の子で、武骨なはがねタイプを巧みに操っていた姿とはひどくギャップがある。 「お疲れ様です。初勝利、おめでとうございます」 私は社交辞令的を述べ、素っ気なく会釈した。可愛らしい女の子の出待ちに喜ぶ年じゃない。それよりも、何かクレームを付けられるのではないかという危惧が先行する。職業柄、ちょっとしたトラブルが原因で異動になるケースは多いのだ。 しかし、私の予想は見事に外れた。彼女ははにかみながら携帯消毒液と絆創膏を私の前に差し出したのだ。 「ありがとうございます。あの……さっきの試合で、お怪我されませんでしたか? こ、これ良かったら……」 「いえ、お構いなく」 私は反射的に拒否した。するとミカンさんは目を丸くし、二つ括りの髪を揺らして動揺を露わにする。この子は、上から何も聞いていないのかな。 「お気遣い、嬉しく思います。ですが理由は何であれ、審判がリーダーや挑戦者から物を受け取るのは規則で禁じられております」 つまるところ、賄賂の防止だ。リーダーに就任すればそのようなお達しがあるはずだが、彼女の慌て様を見る限り、忘れているだけなのかもしれない。まあ若いから、仕方ないか。 「ご、ごめんなさい……規則、見落としていました……」 ほら、やっぱりな。だがこんな年端も行かぬ少女を咎めるつもりはない。私はほんの少しだけ唇の端を持ち上げ、顔を緩めた。 「いえ、よくあることです。それに怪我は先ほど治療しましたし、問題ありませんよ。お気持ちだけ受け取っておきます」 ハナダのジムを担当した時も最初に似たようなことがあった。本当によくあることだ。再び会釈して、彼女の傍を通り過ぎる。審判として公平性を保つため、ジムリーダーには極力関わりたくない。我ながら殊勝な心がけだ。本当は、近付くほど惨めになるのが嫌なだけなのに。 「す、すみません……あの、それと、あと一つだけ……よろしいですか?」 おぼつかない台詞が私を再び引き止める。今度こそクレームだろうか。ヘマはしていないはずだが――覚悟を決めて振り返った。その直後、少女はさっと頭を下げ、私に旋毛を向ける。 「こ、今後とも……よろしくお願いします!」 再び、度肝を抜かれた。 「はい、こちらこそ」 なんとか取り繕って三度会釈し、逃げるようにその場を離れた。彼女からすれば、不愛想に去って行ったように見えたことだろう。だが内心は穏やかではなかった。ジムリーダーとはあくまでビジネスライクな付き合いを徹底していたため、彼女のような丁寧な気遣いは一度もなかったのだ。勿論、他のリーダーが不遜だと言う訳ではない。むしろ彼らは非常にプロ意識が高く、私寄りの考えを持ち、馴れ合いは一切許さない。それはルーキーも同様だ。 その距離感が正しいのだ、本来は。 だがあんなふうに親切にされたら、戸惑ってしまうじゃないか。もう少し、プロ意識の高い人間を採用すべきだ。やや肌寒い清秋の空気に身体を震わせながら、ジム裏手の関係者駐車場へと急ぐ。敷地外に植えた銀杏の木は黄金へと色付き始め、いくつかの落ち葉がくすんだアスファルトを彩っていた。ほんの少し前まで、シャツ一枚で事足りる暑さだったような気がするのに、あっという間に気温が変化したものだ。こんな時は身体が自然と温かい飲み物を欲する。視線は駐車場入り口傍にある自販機へと向いていた。ズボンのポケットから小銭を引っ張り出し、ホットのブラックコーヒーを買って空を見上げる様に一口煽った。 秋空は白く霞み、侘しく哀愁が漂っている。ブラックの苦みがさらにそれを際立たせていた。
それからほぼ毎日、私が出勤するたびに彼女ははにかみながら挨拶してくれるようになった。医療品の差し入れ翌日の時はさすがに眉をひそめ、上に報告しようかと思ったが、直後に清掃スタッフへ同じように声をかける姿を見て、その考えを恥じた。 ミカンさんは誰にでも分け隔てなく親切なのだ。 ポケモンは勿論のこと、ジムの前を通り過ぎるアサギ住人らへの挨拶も欠かせない。若いのによくできている。きっと親御さんの教育が良いのだろう。事あるごとに人見知り傾向にある我が息子と比較してしまい、情けなくなった私は戒めのため、ますます仕事だけに注力するようになった。ジムの受け付け開始前に挨拶し、審判に没頭し、会釈して帰宅する――ビジネスライクで審判として正しい距離感を一ヶ月保ち続けた。 この頃になると、そろそろ新人リーダーの実力が明確になる。私も十年の間に審判としていくつものジムを回り、様々なリーダーを見てきた。ジムリーダーになれる人間というのは皆共通してバトルのセンスが良く、ポケモンと意思がリンクしているのではないかと思う程扱いが上手い。それでもキャリアを長く重ねていられるのはほんの一握り。五年持てばいい方だろう。とはいえ、ここで名を馳せれば引退してもポケモン関連の仕事はいくらでも舞い込んでくるのだから羨ましい限りだ。 さて、デビューから一ヶ月経過したミカンさんに対する個人的な見解だが――彼女は一流の素質がある。はがねポケモンは万遍なく鍛え上げられ、そしてこれ以上ない愛を受けている。それが絶対の忠誠へと変わり、勝利へと繋がっているのだ。敗北を見たのは、まだ両手で数えられる程度だろうか。彼女は強い。いずれセキエイリーグへの昇格さえ狙えるのではないだろうか。ホウエン地方の前チャンピオンははがねタイプを専門としていたし、後任はジムリーダーからの栄転だ。ありえない話ではない。 ただし一つだけ欠点を上げるとするならば、それは彼女の親切心だろう。ポケモントレーナー界に限った話ではないが、お人好しは大きな成功に恵まれない。決して己が信念を曲げず、しかし柔軟で向上心ある人間こそ頂点に立つことができるのだ。この世界は特にその傾向が強い。今は問題なくとも、その優しさが仇になり、いずれ壁に直面する時がやって来るだろう。その時にどうやって乗り越えるか――そこが彼女の真価だ。 「ネール、ロックブラスト!」 彼女の指示を受け、フィールド上に居座っていたハガネールがさっと口を開いた。一月も見ていればその攻撃範囲は不慮の事態を含め、大方予想がつく。すぐに流れ弾を受けない位置へと走り、その間にハガネールの放った岩石が挑戦者のマルマインを強襲する。 「わ、わああっ!」 挑戦者も素っ頓狂な声を上げながら後退し、足を踏み外して後ろへ倒れ込んだ。その一連の動作を見て、彼が流れ弾を受けていないことをしかと目に焼き付ける。私はすぐに視線をマルマインへ移した。既に手負いだったため気絶は確実、挑戦者の手持ちはこのマルマインで最後になるため、この技は決め手になったことだろう。右手のフラッグを固く握り締め、首を伸ばしてボールポケモンの容体を確認すると、石に埋もれ、目を回して転がっていた。よし、間違いなく気絶している。 「マルマイン戦闘不能。勝者、ジムリーダー!」 右手のフラッグを掲げると、ミカンさんは戦士の相貌を緩め安堵しながらハガネールに駆け寄り、労をねぎらっていた。彼女は一つの勝利も無駄にはせず、ポケモンたちを丁寧に褒め称えている。こういうひと手間が若くして成功する一因でもあるのだろう。それを見て私も安心したが、一つの罵声によってすぐに掻き消された。 「審判、見てなかったのか! この女わざと狙いやがったぞ!」 挑戦者が靴を踏み鳴らしながら私の元へ詰め寄る。二十代前半と思しき、ややガラの悪そうな男だった。ああ、これは面倒なことになりそうだ。ハガネールを撫でていたミカンさんがきゅっと身体を硬直させているのが目の端に見えた。 「わざと……とは?」 極めて冷静な口調で男を睨み据える。審判はいかなる時も怯んではならない。 「さっきのロックブラストの時! あのガキ、俺まで狙いやがったんだ。だから俺は石が当たって転び、マルマインに指示が出せなかった。これは立派な指示妨害、ルール違反だよな?」 男は下品にもミカンさんを指差しながら、乱暴に説いた。意見を無理にでも押し通そうとしているのが透けて見える。言いがかりであることは明々白々なので、毅然に対応するつもりだったが、顔を真っ青にしながら駆け寄ってきたミカンさんにより阻まれた。 「い、石が当たったんですか? そ、それは申し訳――」 「いえ。あなたが転倒された際、私も確認していましたがロックブラストの影響は見受けられませんでした。あなたが転倒したのは別の要因、ただ足を捻っただけです」 ここでジムリーダーが下手に出ては、相手の思う壺だ。私は彼女の盾になるように立ちはだかった。当然、挑戦者は面白くない。眉間に深い皺を刻み付けながら、私の顔を覗き込むように睨み据えた。こういう状態をメンチを切る、と昔よく言ったっけな。 「ああ? ガキの肩を持つのか、このロリコン!」 短絡的な罵倒ほど楽な処理はない。この男は理性を失い、試合中はいかなる発言にも責任を負わねばならないことを忘れてしまったようだ。私は勝ち誇った気分に浸りながら、挑戦者側の動作を司る左手でジムの出入り口を真っ直ぐに指差した。 「その暴言を審判への侮辱行為と見なし、強制退場処分を命じる」 「ざけんな! さっきのはどう見ても――」 男は激高し、ついに右腕を振り上げる。殴られたって構わない。そんなことをして、ますます不利になるのはそっちの方だ。“短気は損気”とは、言い得て妙。歯を食いしばって殴られる覚悟を決めた時、ミカンさんの悲鳴がジム内に響いた。 「ネール、あの人を止めて!」 ハガネールが巨大な身体を少しだけ伸ばすと、あっという間に男の背後にたどり着く。人間のいざこざにポケモンの首を突っ込ませるのは倫理的にも法律的にも非常に不味い。それ以上手を出させないように、気を張りながら男の前に仁王立ちしていると、彼は私とハガネールを交互に見て堪らず背を向けた。 「クッソ……! いつまで経っても上へ行けねえっ!」 彼はマルマインを回収すると、フィールドに転がっている無数の石ころを蹴散らしながら捨て台詞を残し、ジムを後にした。くすぶっている故の苛立ちだったのだろうか。その気持ちは分からなくもないが、怒りを向ける先は間違っているし、こんな言いがかりをつける程度ではこれから先も知れている。 何はともあれ一件落着、思わず息を吐いて後ろを振り向くと、ミカンさんは二つ括りの髪を揺らしながら丁寧にお辞儀をする。 「あ……ありがとうございました」 相変わらず腰の低いジムリーダーだ。だが、今回の正義感や優しさは規律に抵触する。私は審判に相応しい毅然とした顔を作り、彼女の前で居住まいを正した。 「ミカンさん、いかなる理由があろうと人間同士の揉め事をポケモンで仲裁してはなりません。万が一相手を負傷させてしまった場合、あなたはそのトレーナーとして大きな責任を負うことになります。また、相手の主張を鵜呑みにし、すぐに謝罪することも立場を悪くする原因になりますよ。試合中のトラブルは我々審判に、それ以外はジムのマネジメント担当にお任せください」 まだ十代でリーダー就任一ヶ月ということもあり、私は厳しくも誠実な口調で注意したつもりだった。ミカンさんは怯えた様子で顔を強張らせていたが、少女だからと言って加減するつもりはない。むしろ審判としての立場を見せつけなければ。 「ご、ごめんなさい……でも、殴られそうな姿を黙って見ていられなくて……」 泣きそうになりながら掠れた声で弁解する姿に裏はないだろう。審判という職業柄、取り澄ました格好は見せなければならないが――やはり少しだけ、胸が痛む。それでも気を緩ませることができず、私は事務的に言い放った。 「審判はルールという立場ではありますが、物理的には石ころ同然なのです。このような危機管理対応は慣れておりますので、お力添えは必要ありません」 「わ、分かりました……」 腑に落ちない顔でミカンさんは頷く。 私は居た堪れなくなり、会釈してすぐにその場を去った。彼女は優しすぎて調子が狂う。この仕事をもう十年もやっているのに、まだまだ上手くいかないものだ。まさに“中堅”。私は頭の固い、ただの石ころで在りたいのに――息子と同じくらいの少女に気を乱される体たらく。ベテランの言うとおり、私はまだ甘ちゃんなのかもしれない。
もしくは、ミカンさんがいわゆる“天然”という可能性もある。
そう考え始めたのは、あの注意した一件の後も彼女が変らぬ態度で接してくれるからだった。他のジムでも親切にしてくれるリーダーは稀に居たが、審判の立場を呈すれば皆察して距離を取ってくれた。それなのに彼女はいつも通り、他のスタッフへの対応と同じく笑顔で挨拶してくれる。これにはほとほと呆れたが、デビューして間もない頃から立て続けに苦言を述べるほど悪者にはなりたくなかったので、私は仕事が終わればすぐに控室へ戻る様にしていたが、そのささやかな抵抗は二週間と続かなかった。 「審判さん、お疲れ様です」 その日全ての試合を終えた私は、労ってくれるミカンさんに会釈し、逃げるように背を向ける。 「あの、ちょっと待ってください」 来た――今度は何を言われるのか。私はうんざりしつつも、きっとクレームではないだろうという妙な期待を抱きつつ振り返った。重厚感のあるハガネールを引き連れた彼女は、私の前にミツハニーのイラストが描かれた缶コーヒーを差し出した。確か商品名はコーヒーとは名ばかりの、苦みを抹殺した甘さのカフェオレ“マックス・ハニー”だったか。 「これ、差し入れです。良かったら」 彼女はコスモスのように可憐な笑顔を見せてくれた。思わず戸惑うが、デビュー戦で差し入れは駄目だと言ったはずじゃないか。反射的に抵抗しようと口を開くと、彼女が微笑みながら先制した。 「ヤナギさんに聞いたんです。缶コーヒーくらいなら、たまに差し入れるって。先日は守っていただき、ありがとうございました。ささやかですが、お礼させてください」 つい先程の試合で“かみつく”を仕掛けようとしたラッタをハガネールが“アイアンテール”で薙ぎ払った模様を見ていたが、今ならあのラッタの衝撃が少しは分かるような気がした。ルールを振りかざす中堅の私に対し、彼女はトレーナー歴四十年の大ベテランをぶつけてきたのだ。ヤナギさんと言えばチョウジタウンのジムリーダーで、ジョウト地方のリーダーでは一番の古株であり、地位も発言力も大きい。それ故に、ジムを担当する審判はセキエイリーグばりのベテランが充てられる。彼らが差し入れを受け取っているのならば、中堅の私もお咎めないという考えなのだろう。なかなかのやり手だが、コーヒーの子供っぽいチョイスから見るに、どこまで気を回しているのかは分からない。 「……ヤナギさんが差し入れされているのでしたら。お言葉に甘えて」 右手をズボンで拭き、受け取った缶コーヒーはじわりと温かい。ホットだなんて、この肌寒い季節には有り難いことこの上ない。私は会釈すると、軽く振ってからすぐにプルトップを開けてしまった。後で車の中で飲めばいいのに、早まりすぎだ――後悔しつつも欲していた温もりを身体の中へ取り入れると、追い打ちをかける様に眩暈を催すほどの甘さが襲い掛かってきた。 「も、もしかして甘いの苦手ですか?」 口を付けた瞬間顔をしかめてしまったので、ミカンさんがそれを察して私を覗き込む。 「い、いや……それほどでは……」 善意を無下にはできないが、理性に抗えない程甘ったるい。私は基本的に甘い物があまり好きではなく、妻や息子には手土産のケーキを選ぶセンスが最悪だと毎度文句を言われている。 「ご、ごめんなさい……自分が美味しいと感じたコーヒーなら大丈夫かなって思ったんです。次はもっと甘さ控えめのコーヒーを用意しますね……」 ミカンさんは必要以上に悩むので、私は慌ててフォローした。 「あ、いや……ご厚意だけでも大変有り難いです。缶コーヒーは基本的に何でも好きなんですよ」 本当はブラック以外受け付けないのだが。缶コーヒーという物はそれ以外、“微糖”と銘打っていても名ばかりに甘ったるい。 「大人の方ってよく飲まれていますよね。コーヒーは苦くって……私はそれしか飲めません。まだまだ子供です」 私の嘘に騙され、ミカンさんは苦笑しながら肩を竦めた。それなりに年取った大人として、子供にこのような冗談を言われるのは好きではない。私の息子のような並の人間ならば単に気取った発言として流せるのだが、彼女のような優秀で既に名誉ある地位についている子供に言われると、大人げないが癪に障る。その年でしっかりされちゃ、四十過ぎでうだつの上がらない私の立つ瀬がないじゃないか。子供は子供らしくあってくれよ。 「背伸びしなくても、等身大でいいじゃないですか」 やや怒りを含んだ穏やかな口調で告げると、ミカンさんは思いつめるように俯いた。 「だけど、もっと強くならなくちゃ……この間みたいな挑戦者の方にも対処できるようになりたいんです」 「前にも申し上げましたが、ああいう輩の対応は我々の仕事ですから。お気になさらず」 子供だから、舐めてかかられるんだ。それを大人である私が対処する、このアイデンティティを保持させてくれ。中身までしっかりされちゃ、私はただの石ころでしかない。 なんてちっぽけでくだらない思考だろう。こんな考えだから、私の人生はパッとしないんだ。ふと気付くと、ミカンさんは納得できないというような表情で、私をじっと見つめている。それでもまだ、対処したいのか。少し怖がらせてやろうと思い、私はいくつかの事例を上げた。 「あなたはまだリーダーに就任して間もないのでご存じないでしょう。結構多いんですよ、問題のあるトレーナーは。判定に文句を付けるのは基本ですし、わざと攻撃を受けリーダーに責任を負わせようとする“当たり屋”も存在します。テンポの良い試合を重んじるバトルマニアなんかはリーダーが持久戦に持ち込んだ時点で突然棄権し、挑戦料の払い戻しを要求することも少なくない」 「え、ええっ……こ、怖いね、ネール」 思ったより効果はあったようで、ミカンさんは傍にいた相棒と顔を見合わせ、震え上がった。面白いことに、ハガネールまで戦慄している。フィールドで勇猛果敢な姿を見せているポケモンが、私の話で怯えるなんて。意外な懸隔に、頬が緩んだ。 「想像を超える人間が多い世界です。他のリーダーも相手にしていませんよ。勿論、“ヤナギさん”もね」 「ヤナギさんでさえ相手にされないのですね……では、大変だと思いますが今後もご対応よろしくお願いします」 ミカンさんは申し訳なくなるくらい馬鹿丁寧に頭を下げた。実際にヤナギさんがクレーマーを相手にしていないのかは不明だが、反発したという話も聞かないし恐らく事実だろう。誤魔化すように甘ったるいコーヒーを口に付けると、顔を上げながら恐る恐る彼女は尋ねる。 「文句を言われるお仕事って……辛くはありませんか」 ちょっと、質問が多い気がする。 「慣れましたから」 話を広げないように短く答えたが、コーヒーの温もりも相まって、何だかこの空気感は心地良い。この百九十グラム弱の糖分を飲み干す間くらいは居座っても罪ではないだろうか。彼女も審判の仕事に興味があるようだし。 「大変ですね。私だったら、耐えられないかもしれません。実は急に大声を出された時、ちょっと泣きそうでした」 ハガネールが彼女を慰めるように寄り添う。 なるほど、私が思っているよりずっと真剣に、ミカンさんはあのトレーナーの件を思いつめていたのか。先ほど苛立っていた自分が恥ずかしい。コーヒーを煽り、脳を突き刺す甘さで己を戒める。 「ええ、分かります。だから、そういう時は我々にお任せください。一人で思いつめず、役割を分担しましょう」 我ながら照れ臭くなり、だらしなく微笑むと、ミカンさんはようやく納得した様子で小さく頷いた。それで自分も安心し、嬉しくなってもう一度コーヒーを口にした。この甘さにも少しは慣れ、余裕ができるとメーカーロゴに視線が移る。その会社が打ち出している、印象的なCMが思い浮かんだ。もっと格好を付けてみたくなり、彼女の前にすっかり軽くなったコーヒーを掲げる。 「落ち込むことがあれば、大人は缶コーヒーを飲むんです。どんなに落ち込んでいても、これを飲む時は上を向きますからね。それで気を持ち直すから、審判は折れませんよ」 「まあ、それは素敵ですね」 どうやらあのCMは未見のようで、一安心。心から喜んで微笑んでくれる彼女は、まるで穏やかな秋風に揺れる白いコスモスのようだ。 しかし柄にもないことをしてしまい、途端に気恥ずかしくなった私は会釈してその場を離れた。全く、調子に乗りすぎだ。すぐに控え室へと向かい、急いで着替えて逃げるようにジムを出た。 裏口のドアノブに手を掛けた瞬間、静電気がぱちりと弾け、扉を開くなり晩秋の寒風が私の身体へ突き刺さる。これはジムリーダーと少しでも仲良くした私への報いだろうか。なんて、考えるのも馬鹿馬鹿しい。明日からはまた審判として、誠意をもって接するのみだ。口の中にまだ残る糖分が煩わしくて、足は自然と駐車場の自販機へ動いた。 ホットのブラックコーヒーを迷わず選ぶ。 取出し口へと落ちてきた缶は、ミカンさんから頂いたマックス・ハニーよりずっと熱かった。両手でお手玉するように持ち替えながら手を温めた後、軽く振ってプルトップを開け、大袈裟に空を見上げながら煽ってみた。 そろそろ日も落ちる時間だ。くすんだ空に橙が滲む、そんな秋の黄昏に包まれてみると、心は妙に穏やかに変化する。秋風に撫でられた稲穂のように、ゆっくりと均されていくのだ――なんて、私は先ほどから気取りすぎだ。急に審判の仕事が誇らしくなり、どうも浮足立っているらしい。戒めとしてもう一度缶を口にした。やはりコーヒーはブラックに限る。
それから二週間、私は審判のマスクを被り直して仕事に勤めた。気を緩ませると思わずミカンさんの好意に甘えそうになるからだ。審判歴十年、これほど情けないことはない。あまりにひたむきで純粋な彼女に、ジムスタッフも次々に親身になって接していた。専門とするはがねタイプの無機質さに反し、柔和な印象を与える彼女は地元の人間からの評判も非常に高く、アサギでは人々がコイルやコマタナを連れ歩いている姿を度々目撃するようになった。潮風の流れる港町にはがねタイプが溢れる様子はどこか滑稽だ。とは言え、僅かな期間でここまで支持を得た器量は大したものだ。私も彼女を見習い、息子の教育に尽力せねばなるまい。 それと同時に、やはり自分が彼女に相当入れ込んでいることを反省する。勿論、女としてではない。審判はジムリーダーと挑戦者の間に立つ者として常に両者に対等であるべきだが、私は今、ミカンさんを贔屓していることを自覚している。これは審判としてあるまじき行為だ。今一度反省し、ルール、そして石に徹しなければ――何度も言い聞かせた。だが、やはり心の隅には彼女を寵する感情がどこかに残っている。審判失格だと、私は頭を悩ませるようになった。 「ネール、アイアンヘッド!」 ただ一つ、助かったのはミカンさんが持久戦タイプではないという点だ。技構成は攻撃的で、挑戦者のポケモン一匹当たり平均五分程度で戦闘不能にさせている。相棒のハガネールが出てくれば、その時間はもっと短い。今回も、私の目の前で挑戦者のニョロボンを豪快に吹っ飛ばした。弾かれたニョロボンはフィールド外野で指示を出していた若い男の挑戦者と衝突し、崩れ落ちる。 「ああっ! だ、大丈夫ですか……」 ミカンさんが悲鳴を上げるより早く、私は彼の元へ駆け寄った。 「怪我は?」 「ねーよ」 ニョロボンの下敷きになっていた彼は舌打ちしながら身体を起こした。くたびれた革ジャンはすっかり土埃に汚れており、頬や手の甲には擦り傷が残っている。 「大人しそうに見えて、あのガキ……」 その双眸に宿る闘争心は、ポケモンではなくミカンさんのみに向けられていた。刺々しい殺気を察知した私は、すぐに警告を出した。 「リーダーに怒りを向けないでください。ここではあくまでポケモンバトルを――」 だが男は私など眼中にない、とばかりに余力もないニョロボンを嗾ける。 「ニョロボン、奮い立て!」 左手に握ったフラッグが揺れたかと思うと、ニョロボンはハガネールの鼻先まで疾駆する。最後の切り札だからなのか、まさに目にも留まらぬ速さで飛びかかり、ニョロボンは真っ直ぐに腕を構えた。掌の噴気孔から水を発射させる気だと、察知する。しかしその位置では――ハガネールの後方にいるミカンさんも攻撃を受ける可能性があった。明らかな報復だ。 「トレーナー丸ごと飲みこめ、ハイドロポンプ!」 ニョロボンは躊躇なく激流を発射し、すかさずハガネールが彼女を守るように立ちはだかった。 「君! トレーナーを狙うのは違反だ、直ちに指示を取り消しなさい!」 私は声を荒げたが、彼は聞き入れる仕草すら見せない。ミカンさんの小さな悲鳴を耳にし、直ぐに振り返ると、彼女はびしょ濡れになって座り込んでいた。ハガネールが盾になってくれたとはいえ、そのハイドロポンプの水圧は凄まじいことだろう。蓋をしていた感情が、みしみしと音を立てながらせり上がってくる。駄目だ、冷静にならなくては――私は声を荒げていた。 「いい加減にしろ!」 「さっきのアイアンヘッド、ありゃ明らかに俺も狙ってたじゃねえか!」 「あれは事故だ。だが、君のハイドロポンプは明らかにジムリーダーを狙っている! その上こちらの警告も聞き入れないとは――これをもって、挑戦者を退場処分とする!」 「な……何様だよ!」 「審判はルールだ」 私は有無を言わさず畳みかけた。間違った判定ではないが、頭はどうしようもなく煮え立っており、高圧的な物言いで威厳なんてあったもんじゃない。それは挑戦者の感情を逆撫でする結果になった。 「偉そうに口出しするな! ニョロボン、とどめだ!」 私の制止を振り切り、挑戦者がニョロボンへ吼える。ミカンさんが危ない――私はフラッグを放り捨て、フィールドの中へ駆け出していた。ポケモンの放った草木や石が散乱し、水浸しのフィールドが足を取る。お前は介入し過ぎだと、引き止めているようだった。確かにミカンさんへ傾倒し過ぎたと反省している。だからこそ、この試合を私の手で収束しなければならない。 試合の秩序を保ち、リーダーを守るのは審判の役目だ。 右手が挑戦者のポケモンの肩へ届いた瞬間、同じように主人を守ろうとしたハガネールの尾が、私ごとニョロボンを振り払った。石ころを蹴散らすように軽々と吹っ飛ばされ、意識が頭から引き剥がされていく。 「審判さん!」 ミカンさんの悲鳴が胸を刺激する。 やはり私は彼女に情が移りすぎている。この試合が終わったら、異動願いを出そう。 気を失う直前、私はそう決意した。
「退院おめでとう」 青いパーティションに区切られたオフィスの一区画で、上司は私を労いながらポケモンリーグのロゴ入り大判封筒をそっと差し出した。すぐに頭を下げる。 「ご迷惑をお掛けして、申し訳ございませんでした」 「よくあることだ。健保に医療費の申請を出しておいてくれ」 上司は気に留める様子もなく、デスク後ろの窓を見る。ポケモンリーグ本部の外には初雪がちらつくセキエイ高原の風景が広がり、奥にはうっすらと雪化粧を施したシロガネ山の峰々が並んでいる。二週間病院で過ごしているうちに、もう冬はすぐそこだ。 「これから寒くなるぞう、ポケモンリーグ本部は。ベテランのじいさん連中が悲鳴を上げる時期だ」 「ええ、相当冷えるらしいですね」 「冬の間は若手が担当した方がいいのかねぇ」 含みを持たせるような上司の口調に、私は少しだけ期待してしまった。もしやリーグ審判への栄転かと期待し、こっそり封筒の中を覗いたが、そこには次の配属先“ニビシティジム”と大きく記載されていた。 「君にはまだ早いよ」 上司はお見通しとばかりに、にんまりする。情けなくなり、意地を張るように苦笑した。 「冷え症なので、助かりました」 「ほう、それなら今後も考慮しないとな」 「撤回します」 このように容易く言い包められ、リーダーに情が移る私は十年経ってもまだまだ二流である。中堅としてやや慢心していたのかもしれない。上司も同様のことを告げた。 「駄目だよ、ジムリーダーに入れ込み過ぎるのは。気持ちは分かるが、我々はあくまで公平性を保たないと。そんなことをしているから、いつまで経っても上に行けないんだ」 返す言葉もない。 私は上司に礼を言うと、封筒を手に本部を去った。粉雪が舞う初冬のセキエイ高原は、冬物の背広では耐え切れない寒さだ。何度やってきても慣れないことから、この場所はまだ私には早いのかもしれない。本部ビルに情けなく背を向けながら、軽の自家用車が置かれた職員駐車場を目指す。 激高した挑戦者のニョロボンを身を挺して止めた――実際には、反撃したハガネールの巻き添えを食らっただけの私は、奇跡的に全治十日間の軽傷で事なきを得た。しかし怪我の程度が分かれば石ころにちょっとした傷が入ったようなもの、本部も家族もいつものことだと特に心配しなかった。あの試合も代理スタッフに旗を持たせて続行したらしいし、審判とはこういう仕事だ。 だからこそ、ミカンさんの好意は有り難かった。彼女の存在は、仕事に新しい希望をくれたんだ。 「審判さん、ですか?」 駐車場の入口へたどり着いた時、背後で耳慣れた声がした。振り向くとベージュの可愛らしいコートを着たミカンさんが立っている。私はまだ病院のベッドで夢を見ているのではないかと錯覚したが、それならば背後に武骨な警備員が何人も写りこんでいるはずがないので、これはやはり現実である。 「やっぱりそうですね。退院、おめでとうございます」 彼女はコスモスが咲いたような可憐な笑顔を見せ、白い息を吐きながら、私の元へ駆け寄ってくる。 「どうしてここに……」 「今日のこの時間に本部に来られると聞いて、ご挨拶しようと」 ミカンさんはそう言いながら私の一メートル手前で立ち止まると、ブーツを履いた足を揃えて恭しくお辞儀をした。 「ご迷惑をお掛けして、申し訳ありませんでした」 小さな旋毛を見て、ほんの二ヶ月前の出会った頃を思い出す。彼女は何も変わっていない。最後もわざわざ私の所へやってきて、お礼を言ってくれるのだ。 「いいえ、こちらこそ出過ぎた真似をしてしまって……お怪我はありませんでしたか」 「はい、審判さんが守ってくださったお陰です」 ミカンさんは嬉しそうに微笑んだ。私は途端に名残惜しくなり、窒息しそうな感覚に陥った。 「それはハガネールの功績だと思いますが、無事で良かったです。私は他のジムへ異動になりますが、今後もミカンさんの益々のご活躍、お祈りいたしております」 胸の痛みを誤魔化すため、手紙の結び文句のように馬鹿丁寧で事務的な礼をした。ビジネスと割り切っていけば、少しずつ気は楽になる。 「あの、これ良かったら」 だが、彼女はやはり天然だ。もしくは悪魔かもしれない。 私の目の前に、鋼色の缶コーヒーが差し出された。マックス・ハニーのメーカーが販売している、微糖のコーヒーである。 「お餞別です」 「ありがとうございます」 なんとか平常心を保ちながら、それを受け取った。セキエイで凍りついた指先を解かす、ホットの温もり。そればかりじゃない、この熱は十年間同じ業務を繰り返し、“仕事、そしてジムリーダーとはこういうものだ”と凝り固まっていた中年の石頭を解きほぐしてくれたんだ。 「次のジムでも頑張ってくださいね」 彼女は最後にもう一度礼をすると、コートの裾をさっと翻して駐車場を去って行った。とても華奢な背中だったが、鋼の芯が通っているようにピンと背筋を伸ばしている。それを見て、すぐに自身のだらしない猫背を直した。彼女はきっと良いジムリーダーになることだろう。 セキエイ高原を抜ける冬一番が身体を震わせ、堪らず握り締めていた缶コーヒーのプルトップを開けた。コーヒーを煽りながら見上げたポケモンリーグ本部ビルは、高原の頂からカントー・ジョウト地方を見下ろすようにそびえ立っている。 ――そんなことをしているから、いつまで経っても上に行けないんだ。 先ほど上司に言われた言葉を思い出す。私は明日からまた審判として石ころに徹するが、良い仕切り直しができることに期待していた。本部ビルの上空は雪が舞う鬱蒼とした曇り空、しかし乾いた空気が清々しい。そんな空を見上げながら、六分目まで残っている缶コーヒーを一気に飲み干した。名ばかりだと思っていた微糖は、あの甘ったるいコーヒーを思い出せば随分と締りがある味で、そしてほろ苦い。 私は傍にあった自販機のゴミ箱に缶を捨てると、背広の襟を正して自家用車の元へ向かうことにした。
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びいだまよほう。 ( No.6 ) |
- 日時: 2013/11/17 23:14
- 名前: 海
- テーマB「石」
どうしよう、動けない。 冷や汗をだらだらと流しながらハスボーは衝撃の事実に驚きを露わにする。六本の小さな足をじたばたと動かしてみるけれど、あまりにも短すぎて少しも頼りにならない。体を横に振ってみようにもうまく力が入らない。背中の蓮が大きくて重くて言うことをきかないのだ。 あれ、どうしよう、本当に動けない。 空と地面が逆になった視界だった。彼はひっくり返って身動きがとれなくなっている。虚しく空を掴む足。あるいは手。 どうしてこうなったんだっけと思い返す。つい先刻、ハスボーは木々の間の道を歩いていた。短い草が生い茂ったそこで、狭い視界を頼りに進んでいた。ぼーっとしてたら草むらに隠れた石に気が付かなかった。足が引っかかって、前のめりに。バランスはとれなかった。重心はいつのまにか前へ。頭から地面に突っ込んだかと思えば、すってんころり。そしていつのまにか動けなくなっていた。鮮やかな前回り失敗例。問題は彼が人間ではなくハスボーであるという点だ。 真っ青なお腹を思いっきり剥き出しにして、そよぐ風すらくすぐったい。 しかしそんなのんびりした感想を述べていられるほどハスボーは平常でなく、地味に心の中で格闘していた。しかし名案は思い浮かんでこない。ぐいいっと足を右方向に寄せて力を入れてみる。重心は右へと傾かない。思っていたより背中は安定しているらしい。 「うー」 小さく唸る。 「たーすー、けーてー……って言ってもなあ……たーけー、すーてー……」」 ぼんやりと頼りない言葉は、虚空にあっけなく吸い込まれていく。無意味に手足を細かく動かす。見た目には、静かに駄々をこねる子供のようだ。 「……何やってんの」 ばたばたと動いていたハスボーの動きが、時が止まったように制止する。思わず自分の耳を疑った。女の子、そう、女の子の呆れた声がすぐ傍から聞こえた。でも、彼の狭い視界の中にはその姿かたちが確認できない。それでも確かに声は聞こえた。 「だ、誰かいるの!?」 「まあ……いるけど」 返事が戻ってきて、ハスボーの胸の中の熱気は一気に上昇していく。 「あっあの、僕転んじゃって……この通り動けなくなっちゃって……良かったら助けてもらえないかなあなんて!」 「はあ?」 明らかに不機嫌な声音にハスボーは萎縮する。もしかしたらこのチャンスを逃して助からないかもしれない。更に言葉を重ねていかに大変な状況にあるかを説明したかったが、焦りが思考を妨げる。 数秒間の沈黙が訪れる。訪問者の音の無さに、まさか立ち去ってしまったんだろうかと悪寒が走った直後、彼のお腹に何かが乗っかった。 「ぐえっ!?」 思わず声をあげたが、感覚としては随分軽い。 実際、彼のお腹に乗ったその訪問者はハスボーよりもずっと小さいサイズの生き物だった。 「あんた、本当に動けないわけ?」 「そ、そうだよ! このままだったら僕死んじゃう」 「大袈裟!」 訪問者は鋭く声を浴びせるが、大袈裟でもなくハスボーには文字通り死活問題であった。 「あの、たすけてください……ほんとに……」 弱々しい声でハスボーが懇願すると、強気な彼女は思考に入る。数秒の間を置いて、大きな溜息がハスボーの腹の上で零れた。 「もー! しょうがないわね!」 と、ハスボーのお腹から重さが消える。ぴょんと地面へと跳ねたそれはハスボーの隣へとやってくると、体全体を使って押し始めた。白い顔を真っ赤にしたそれの全力。息をぐっと止めて体中の体重を前へと、前へと。すると、ハスボーの体はついに横へと傾き始めた。あ、と思った瞬間、ハスボーも自分で重心をずらす努力をする。もう少しだと奮闘する二匹。時間は随分と長く感じられた。しかし唐突にその時はやってくる。ぐるりと彼の視界は回り始めた。 「わあ!」 「きゃっ」 二匹の声がはねる。と同時にハスボーの体は大きく半円を描く。六本の足は再び地面を踏んだ。ぐえ、とまたおかしな声を出して、ぐちゃりと溶けるようにその地に潰れた。 ぱちぱちと瞬きをして、ハスボーは起き上がることができたという状況を時間が経過するにつれて理解していく。ゆっくりと湧き上がる喜びに、自然と表情は綻んでいく。 「……も、もどったあ〜!」 安堵の声をのんびりとした口調で言うと、草むらに転がりこんで姿が見えなくなっていたそれは怒った顔で立ち上がった。 「戻った〜って、何よその気の抜けるような感想は!」 「え、ええっ……というかどこから……」 「もーっここよここ!」 声のする方にハスボーは目線を向けるがなかなかそれらしい生き物は見当たらない。と、草むらを掻き分けてくる音がした。草と草とが掠れあう中から、ひょこりと小さなそれは顔を出した。ハスボーは目を丸くする。はっきりと姿が自分の視界に全て映る。大きな黄色い花に捕まって、ふわりと浮かんでいる。花弁に包まれた中心にいる黒く円らな目をした真っ白いポケモン。フラベベだ。 可愛らしい外見にぼんやりと見惚れていると、相手は機嫌を悪くしたのか顔を顰める。 「なによ、じろじろ見て」 「えっあの……すごい、ちっちゃいなって」 「小さくて悪かったわね!」 「ちが、悪いわけじゃないよお! あの、すっごくいいと思う……!」 思わず口走ったハスボーに、フラベベの白い顔にほんのりと赤みがさした。 「――ッなんなのよあんた! なんか調子狂う」 「ご、ごめんよ」 「いやごめんじゃなくって、さあ……もう!」 ぷいとフラベベは顔をハスボーから背ける。何が何だか分からない彼はただ戸惑いながら思考を回転させつつ、あることに行き付いてはっと顔を上げる。 「そ、そうだよね! 助けてくれてありがとう。本当に助かったんだ……! 僕はハボ。君の名前は?」 「……――」 「え?」 「……ラムネって言ってるの!」 「ああ、ラムネかあ! いい名前だねえ」 フラベベもといラムネは実感を込めて褒めるハボにちらりと視線をやる。彼の表情はのんびり口調と同調したような柔らかな微笑みを携えていて、更にラムネのリズムは崩される。 「あんたって、なんか天然っていうか……能天気ね!」 「えへへ、よく言われるんだあ!」 「別に褒めてないから!」 貶したはずが逆に溶けるように口元を緩めるハボにラムネは思わず鋭く突っ込む。なぜにやけるのか、ラムネには理解できなかった。会話をするだけで随分とラムネは疲れ切っていく。重たい空気が小さな体に圧し掛かり、最早ハボの呑気な瞳を見るだけで全身の力が抜けていくようだった。あのまま放っておくべきだっただろうか、苦々しく数刻前の出来事を彼女は思い出す。 「ところで」 ハボが言い始めると、自然とラムネは顔を上げる。 「ラムネはこの辺りに住んでいるのかい?」 「え? まあそうだけど」 「そうなんだ! じゃあちょっと教えてほしいんだけど、ここらへんに綺麗な水がいーっぱいあるところはある?」 「綺麗な水? ……川なら近くにあるけれど」 「川! これも何かの縁、良かったら案内してくれないかなあ。僕、綺麗な水を求めてここまで来たんだ」 「え、なに急に。別にいいけど……」 「ほんと? やったあ良かったあ!」 そう発言した瞬間、ふわりと浮かび上がるようにハボは跳び上がって喜んだ。リアクションの大きさにラムネは思わず驚いて全ての思考が停止した。 変なやつと確信した。頭のねじが数個飛んでいる。まるで違う世界を生きているよう。 「そうと決まったら早く行こう。ほら、僕のこの蓮の上に乗っていいから」 「え、いい。なんか土だらけだし」 「え」 「……何?」 少し表情が変わるハボ。軽いショックを受けたような声音にラムネは気持ちが引きずられる。間伐入れず断ったのが傷つけたのかと錯覚したが、ハボはまじまじとラムネを見つめ続けている。ラムネには何を考えているのかまったく予測もつかず、動揺してたじろぐ。少し空気が萎んだところで、やがてハボの方から口を開いた。 「こんな草茫々のところに住んでるのに土とか気にするんだね……」 「うるさいわ!!」 少しでも心配した自分が、あほらしかった。
*
偶然に出会った二匹は一番近くにある川へと向かう。大きなポケモンにとっては目と鼻の先にあるようなものだが、揃って小さいサイズであるハボとラムネにとっては十分程歩く必要があった。 「僕のいたところはとっても美味しい水の池だったんだけどねえ、最近怖いのが増えちゃって。歯がぎざぎざで、目もこーんな感じで尖ってるんだ」 そう言ってハボは限界まで目を細めて、ほぼ一直線のところまで作りだしてみせる。が、目と目の間に皺が寄っていて間抜けな顰め面にしか見えないラムネにはその怖さとやらが微塵も伝わってこないのだった。 「いや、わかんないから」 「ええっ」 思わず真顔で返すと、全力をあげて表情筋を強張らせていたハボは顔をそのままに固まる。どうも今度はショックだったらしい。しかしついでに歩行まで止まってしまう。ラムネに苛立ちの波が押し寄せる。 「ああもう。わかる、わかったから!」 「そ……そう?」 「そうなの! だから行くよ! あとその顔ももういいから!」 言われてハボはすぐさま筋肉を緩めて元ののんびりとした表情に戻り、先を行くラムネを慌てて追いかける。 「でね」 すぐに追いついたハボは話を続け始めた。 「その怖いやつ、強い上にいつのまにか子供もいっぱいできて、そしたら生活がぐちゃぐちゃになっちゃって。僕弱いから追い出されちゃったんだあ。まいったよねえ」 「……そ、そう」 呑気な言い口と話の内容の重さとのギャップが大きすぎて、ラムネはどんな感想を述べたらいいのか分からなくなる。この僅かな時間だけで数々の天然発言天然行動を繰り出し、そして何より、本当ならとても困ったことであるはずなのに、彼には危機感というものがまるで無いように見えたが故に、ハボのその話が本当かどうかすらラムネにはいまいち掴むことができなかった。 ラムネは結局言葉が出てこず、押し黙る。すぐにハボは彼女の暗い表情を察知し、慌てるように声をあげた。 「自己紹介で言ったつもりだったんだあ。だからね、あんまり深刻にとらなくていいよ。だってもうすぐ川に着くんでしょ。早くお腹いっぱいになりたいなあ」 彼の脳内辞書には不安や心配といった言葉は無いのだろうか、と錯覚するほどハボは平常にマイペースを貫いていた。 「……あんたっていいわね。平和で」 「うふふ、褒めたってみずでっぽうしか出てこないよお?」 「皮肉って言うのこういうのは!」 相変わらずラムネはハボのペースに乗りかかることができないでいた。そもそも乗れる気がしなかった。 そうしていると、彼等の耳に生き物の鳴き声の隙間で、水の流れる音が届いてきた。ハボの感情は自然と高揚していき、相関するように足取りは軽くそして速くなっていった。ラムネもスピードを合わせるように上げていき、やがて長い草の群れは終わりを見せようとしていた。跳びはねるように彼等は草むらから出る。瞬間、ぱっとハボの顔は輝いた。 「わあああ、お水だあ!」 「ちょっと危な……っ」 ぱっしゃーん! 日光をきらきらと反射させながら、外からでも水底が簡単に見えてしまうような澄み切った浅い川。ハボは我もラムネも忘れて無我夢中で跳び込んでいた。ラムネを巻き込んで。勢いが良すぎたせいで彼等には不釣り合いな程大きな水飛沫が空中へと弾ける。 流れはそこまで強くなく、ハボでも余裕で踏みとどまることができる程度だ。川の水面に蓮の葉が一つ、浮かんでいる。やがて、隣でいくつもの小規模な泡が立ち上がる。黄色い花と共にラムネが顔を出し、流されないように必死に川の石にしがみ付いた。ふるふると体ごと振って水を弾き飛ばすと、真っ赤になった顔でハボの葉に乗りかかる。 「ちょっと、突然跳び込まないでよ! あたしまでびしょぬれになっちゃったじゃない!」 怒りを炸裂させながら小さな手で葉を殴る。が、ラムネの力のなんと弱々しいことだろう。ハボはびくともしない。 周囲に水を飲みに来ていたポケモン達はそんな二匹の慌ただしい様子を遠巻きに不思議そうな目で窺っていた。その視線に気が付いたラムネは羞恥心に急にしおらしくなって、手を止める。 すると、ハボがようやくゆっくりと顔を出し、長い息を吐く。 「ぷっはあぁぁああ生き返ったあ! お腹いっぱい〜」 「あんたねえ……」 ラムネは苛立ちを隠せず、ふわりとハボの顔の見えるところまで浮かび上がる。彼の目を見てどんな説教を食らわせてやろうと思ったラムネだったが、心の底から満足そうにのんびりと笑みを浮かべているハボの表情を見た瞬間、言葉が出てこなくなる。しあわせと彼の口元から零れる。ラムネの全身から毒気が吸い取られていくようだった。 「もう……いいや……」 怒ったところで自分が一方的に疲れるだけだと彼女は悟る。それにこれだけ喜んでいるところに無闇に感情をぶつけるのもなんだか気乗りがしない。 対するハボは夢中になっていたためにようやくラムネが落胆している様子に気が付いて顔を傾げる。 「ラムネ、どしたの? あ、ラムネも跳び込んだんだね! わかるわかる、この川の水美味しいもんねえ!」 「違うわ誰のせいだと思ってんの!!」 「えー!」 結局怒るのだった。
*
「ごめんね、ごめんね……」 「もういいから、あたしだってもうそこまで怒ってないから……というか逆にうざい」 「うざ……? うう、ごめん」 これでは同じことをぐるぐると繰り返すだけ。ラムネは深い溜息をついた。 お腹が水で満たされたハボは地面に溶けるようにひっついて、目の前にいるラムネに申し訳ない気持ちでいっぱいになっていた。彼に悪気があったわけではないのだが、周りが全く見えていなかった状況をただ今は悔やむ。 「なんか、僕にできることがあるならなんでもやるよ……! ほら、いっぱい助けてもらってお礼しなきゃ、だし!」 何やら張り切ってラムネを見つめるハボ。小さな点のような黒目は爛々と光っている。妙な圧倒感に押されたラムネは少し体を仰け反らせながら、考える。しかしそれもそう長くはなかった。考えるというよりは、言い出すのを迷っているかのようだった。 「そうね」 「うん」 ハスボーは一歩ラムネに近づく。やる気は満ち溢れているようだ。 「……丁度、誰かに手伝ってもらいたかったことがあるの」 「僕にできるなら!」 「あんたにできることよ。ちょっと大変なだけで」 「うんうん、だいじょぶだいじょぶ! それで、何をしたらいいんだい?」 内容を聞かずにこの快諾っぷりである。ラムネは薄ら笑いを浮かべた。 「ちょっとね、あたし探し物してるの。それを手伝って」 「さがしもの? ……へえ、そうだったんだ! 何を探してるの?」 「ええっとね」 ラムネはこほんと一つ咳払いをしてから、両手を精一杯横に広げる。それをハボは不思議そうな目で凝視した。 「こーのくらいの大きさでっ透き通ってて、とっても綺麗な丸い石を探してるのよ!」 「透明の……石?」 「そう」 ラムネは腕を元に戻す。しかし、ハボの方はぴんときていないようで、先程までの気合は少し収束して疑問符を表情に浮かべた。 「そんなのがあるの?」 「そうよ。大切なものなんだけど……落としちゃったのよ」 「ふうん……でもなんかぴんと来ないや。石って、この石でしょ?」 ハボは尋ねながら軽く足元を叩く。少し大きめでごつごつとした川岸の石が敷き詰められているそこだが、フラベベは首を横に振った。 「こんなに荒くないの。石は石なんだけど。びいだまっていう名前だったかな」 「びいだま?」 「そう」 「……なんかよくわかんないけど、探してみるよ。どこらへんで落としたの」 「そこ」 「ん?」 「だから、そこ」 ラムネは小さな手を真横へと伸ばす。ハボはそれを追いかけるように視線を移し、その先にある清流を眺めた。 「……川の中?」 「そう」 「……じゃあ、流されちゃってもっと遠くにいってる可能性もあるってこと?」 「そう」 淡々とラムネは返す。 一方のハボの心には重いものが圧し掛かっていく。一つ覚えのように何も考えず何も聞かずに了承したことを、ちょっとだけ後悔した。
*
瞳をぐんと開く。川底には大小様々な形の石が転がり重なっている。眩く輝く太陽を背に、ハボは念入りに目を凝らす。石の上、隙間に視線を委ねて泳ぐ。比較的穏やかな流れに押されることのないようにうまくバランスをとった。小さな足は水を掻く。水流が足元で零れていく。小石が力無く水の中を駆けるのを目で追う。あれは違う。灰色に濁った普通の石だ。びいだまじゃない。ハボの頭の中でその形がはっきりと投影されているわけではなかったが、少なくとも透明じゃなければ違うと思っていいだろう。時折石を持ち上げながら、彼は水底を進んでいく。 そんな彼の泳いでいる様子は、外にいるラムネの目にもよく見えた。この川の水は澄んでいるし、ハボの蓮は大きくてたとえ潜っていてもとても目立つ。 自分でも河原に目をかけてはいるものの、きっと陸には無いだろうという諦めがあった。 溜息をつきながら視線をあげると、偶然向こう側の川岸に佇むポケモンと目が合う。このあたりに棲んでいるであろうナゾノクサが二匹。だが、すぐに視線は逸らされる。水を飲みに来ただけらしい。口のまわりを濡らしたまま、お互いに顔を見合わせてから仲が良さそうにゆっくりとした足取りで踵を返していった。 黙ってそれを見つめていたラムネの中で、無性に淋しさが揺蕩う。 「会いたいな」 ぽつりと呟いて、感傷に浸る。
いける。 一目見て、彼は直感した。 随分高い枝の上で足にぐっと力を入れて、息を止める。目を鋭く光らせて獲物に焦点を合わせる。僅かな挙動も逃さない。大丈夫だ、あっちはまったく気が付いていない。一瞬顔を上に向けた時は察せられたかと悪寒が走ったが、それは思い過ごしだったようだ。再び足元に視線を戻して何やらうろうろとし始めた。黒と黄の鮮やかな翼を音無く立てる。急降下しつつ空気を滑るように飛べば、殆ど音無く近づいていけるはずだ。スピードでは負けない自信がある。たとえ気付かれても手遅れな範囲であれば確実に狩れる。緊張と高揚に高鳴る心臓を落ち着かせるように細い息を吐いて、ふっと翼を軽く動かして枝を蹴った。 照準は獲物に固定。まだ気付いてはいない。 風を切る音すらほぼ無し。自分で惚れ惚れとしてしまいそうだ。 スピードが瞬く間に上がっていく。 と、ふと獲物は振り返った。気付いたからか、偶然か。どちらでもいい。この距離なら相手が逃げようと仕掛けようとその前に捕まえられる。 いける! 確信した直後だった。 真横から痛烈な水鉄砲が襲いかかってきたのは。
「ギャッ」 僅かな悲鳴がその朱色の鳥――ヒノヤコマから飛び出した。予想外だったらしいが、それはラムネにとっても同じだった。振り返った時にはもうすぐ傍に居て、驚きで一歩も動くことができず、声もあげられなかった。 しかし目まぐるしく状況は一転した。ヒノヤコマを弾き飛ばす力強い水の一閃。弾ける飛沫がラムネにもかかってきて、咄嗟にその出所へと振り返った。 「ラムネ!」 水鉄砲を収めて、ハボはラムネの傍へと走り込んだ。 「だっだだだっだ大丈夫!?」 ラムネは恐ろしく速い鼓動を胸に抱えてハボの顔を見つめた。鬼気迫る状態でありながら相変わらずのんびりとした顔が逆にラムネの心を少し落ち着かせる。しかし代わって恐怖がじんわりと顔を出す。表情を歪めているラムネを見て、ハボは息を呑んだ。 彼の心に大きな炎が灯って、目は尖った。 ハボはラムネを守るように彼女の前に立ち、地面に打ち付けられた水浸しのヒノヤコマを睨みつける。 「おまえ、ラムネに何するんだ!」 朱い鳥はゆっくりと立ち上がり、体を思いっきり振り乱して水を弾く。それからハボに対抗するように強い視線をぶつける。 「てめえ……」 少し可愛らしいともとれる見た目からは想像できない強い口調に、ハボは一瞬萎縮してしまう。けれど後ろに引き下がるわけにはいかない。鼓舞するように、負けないように、むしろ前へと一歩踏み出す。 空気が痛い。緊張の針が風に突き刺さっている。間合いは、相手なら一気に縮められる距離だ。 「何で気付いた?」 憎々しげな声でヒノヤコマは尋ねる。 ハボは応えない。それほど彼に余裕は無かった。 なんで、と問われても偶然と言う他ない。一度川から顔を出したら、何か細い音が空から聞こえてきた。顔を上げたら、狭い視界の中で閃光のようなスピードを偶然見つけたのだ。そこからは咄嗟の反応だった。予想以上に水の攻撃は相手に効いたが、ちょっとでもあちらのペースに乗ったら、すぐに負けてしまいそうな気がした。集中力をじんわりと高めていく。心臓の音が自分の耳元で聞こえてくるようだった。 重い沈黙。誰も微動だにしない。 それを打ち破ったのは、思いもがけない言葉だった。 「……やめやめ、やめだ!」 低い姿勢を保っていたヒノヤコマは翼を広げ、声をあげた。 緊張感に満ちていた二匹も、さすがにこの行為には心が乱れる。 「え?」 ぽかんとした声が零れる。鳥は大きく溜息をついた。 「だからやめだって言ってんだよ! こんな暑っ苦しいことやってられっか。ったくもーまた決まらなかった! かっこわるいよなあ。完璧だったはずなのに」 「か、完璧って……やっぱりおまえ、ラムネを食べようとしたんだな!」 「何言ってんだ、当たり前だろ。でもなー俺は華麗にやりたかったんだよ。音も無く、相手が抵抗する前にスッ、サッ――とな」まるで筆で文字を滑らかにはらうかのような口ぶりをしつつ、同時に翼の動作が横に滑る。直後、深い溜息。「なのにお前が邪魔したから興醒めだよ」 言いながらヒノヤコマは乱れた羽を嘴で器用に繕い始める。 「あー羽がめちゃくちゃ。どうしてくれるんだよ」 呆気にとられたハボは言葉も出てこないでいて、どうすべきかと背後を振り返った瞬間、ただならぬ空気に今度はびくりと跳び上がる。 「ラ、ラムネ……?」 動揺した声にヒノヤコマは顔を上げた。 ハボの後ろに隠れていたラムネは、先程までとは違った震えに極まって、歯を食いしばった。 「もーっなんなのよおおおおおおお!!」 我慢していた分一気に爆発した感情に、彼女よりもずっと大きなヒノヤコマもたじろいだ。 「ラムネ、落ち着いて……!」 「落ち着いていられないわよ! なんなの勝手に掻き回しといてまあいいやって、あんたの都合で全部動かしてんじゃないわよ!」 「なんだてめえ、だったら今すぐにでも食ってやろうか!?」 「な、ななな何を言ってるのだめだよ! ラムネだって、そんな風に言ったら逆効果だよ……!」 ハボの覚束ない仲介にラムネは納得がいかない顔をしながらも押し黙る。本来強気に踏み込むことができない立場であるのは彼女自身も分かっていたが、叫ばずにはいられなかったのだ。 「……お前、このへんで見ないし、誰だ?」 ヒノヤコマは興味深そうにハボに視線を向ける。 「え? ……あ、僕ですか?」 「当たり前。そんなちびに興味なんか無いし」 ちびという言葉に反応してまた激昂しようとしたラムネを慌ててハボは制する。手を上下に動かして落ち着くように促した。 「ええっと、僕はハボっていいます……ここらへんにはさっき来たばっかりで……」 「ハボねえ……強くなさそうな名前」 「そういうあんたはどうなのよ……」 横からラムネが挟まると、ヒノヤコマはまだ何も言っていないのに胸を張る。 「俺か? ふん、どうしようかね……お前等に教えるほど暇じゃないが、どうしてもっていうなら――」 「あ、暇じゃないんだ! そっかそれはお邪魔しました! よし、ラムネ、いこっ」 「え?」 「ほら、逃げるよ!」 「ちょっと待」
*
ヒノヤコマ――もといヤコウは、邪魔をされ苦手とする水タイプの技をぶつけられたにも関わらず、ハボが気に入ったらしい。 飛び方や狩り方に拘りをもつ彼は自分の武勇伝を語る。魚をほぼ水飛沫もあげずにとることができたこと、枝葉で障害が多い木漏れ日の道をうまく飛ぶ際の翼のコツなどなど、ハボやラムネからしてみればまったく関係の無い話題が飛び出してくる。しかしハボは興味津々といった風に彼の話に相槌を打っていた。むしろ目を輝かせていた。そのため余計にヤコウは調子に乗っていくのだった。 「こんだけ話して楽しいのは久々だ」 満足そうにヤコウは感嘆する。逆にラムネは不満そうに唇を尖らせる。 「あんたが一方的に喋ってるだけじゃない。あたしたちそんなに暇じゃないのよ!」 「ちびのくせに口だけはでかいな」 あからさまな溜息をつくヤコウ。顔を真っ赤にするラムネ。そんな彼女を宥めるハボ、というのが自然な流れとなっていた。 「でも、僕等やらなきゃいけないことがあるのは本当で……ラムネの大切なものを探してるんだ」 「ちびの? へえ、何を探してんだ」 「あんたには関係ないでしょ。行こうよハボ」 「で、でも……僕とラムネだけじゃいつ見つかるかわかんないし、手伝ってもらった方がいいんじゃないかなあ」 ラムネは苦々しく顔を歪めるものの、ハボの言うことは的を射ているのもよく分かっていた。悔しいが、エネコの手も借りたい状況なのだ。しかし、素直に言うのも癇に障る。 「ラムネくらいの大きさの透き通ってるまあるい石を探してるの。びいだまっていうんだって」 「なんだそれ、石なのか?」 「うん、川に落としちゃったんだって」 悶々と葛藤しているラムネを置いて勝手に暴露したハボ。気が付いたラムネはきっとハボを睨みつけて彼の頬を引っ張る。柔らかい彼の肌は意外にも伸びた。 「いったたたたたたたた痛い痛いよラムネ!」 「勝手に話を進めないでよ!」 「ハハハッ川に落とすなんてかっこわるいなちび」 「うるさいっ」 苛立つを露わにしたまま、ラムネはハボから手を離して、顔を背ける。 なんとなくまた重い沈黙が訪れる。ハボとヤコウは目を合わせた。ヤコウはふうと息をついて、突然空を仰ぎながらわざとらしく声をあげ始めた。 「あー、俺泳いでる魚とか捕まえるの得意だからさあ、けっこう目は肥えてるっていうの? まあ水は苦手だけどここらなら浅いから眺めるだけでも十分やれるというか?」 「……」 「困ってるやつを横目でスルーするのはかっこ悪いというか?」 「……あんた、さっきあたしを食べようとしたくせに」 「ま、過去のことは水に流そうぜ。川だけに」 「……」 「……」 「……」 「……なんか反応しろよ!!」 ふふ、とラムネとヤコウの隣から小さな笑い声が零れる。 「ヤコウって面白いねえ〜」 「ハボ、お前ハイパーいい奴だよ」 「あー、もう……」 ラムネは小さな肩を更に落として溜息をついた。
*
「さて、そうは言ったものの、さすがに川を探すのは一苦労だな」 「そうよね……分かってる」 くぐもった言葉。彼女らしくないその歯切れの悪さにヤコウは思わず目を細めた。 ラムネは手元に視線を落とし、きゅっと花柱を強く握りしめる。風が吹けば飛んでいきそうなその儚げな容姿。顔を背けて縮こまらせると、その印象は更に強くなる。ヤコウは息を詰めて、焦って何か声をかけようとした。しかし、躓いたように代わりに出てきたのは乾いた咳払い。 と、水面を蹴る音がした。ハボが再び顔を出してこちら側を覗いている。 「ハボ、どう?」 ラムネはその場をふわりと離れて、ハボの元へと向かった。穏やかな水流を切り抜けて、ハボは陸地へと上がってラムネと向かい合う。しかし、曇った彼の表情が既に答えを物語っているようなものだった。 「うううんそれらしいものはやっぱり見つからないよ。もっと下の方へ行ったのかなあ……けっこう探したのになあ」 「そう、ね……」 ラムネは再び下に目を向けた。 影は徐々にその長さを伸ばしつつあった。それでも途方も無い探し物は顔を出さず影すらも見せない。疲労もあり、重苦しい空気がラムネの心に纏わりついて、諦めの色が表情に塗り重ねられていく。 「壊れちゃったのかな」 「そんなことないよ!」 慌てるようにハボは大きな声をあげた。彼にしては弾けるような強い口調で、ラムネは驚いて顔を上げた。 「絶対、絶対僕見つけるよ! だから諦めないで!」 ずいっとハボの顔が一段と近づく。少し怒ったような顔にラムネには見えた。恍けているはずの顔が少し凛々しく光る。 そのラムネの背後では大きな溜息が零れ、ハボとラムネは誘われるようにヤコウの方を振り返った。 「仕方ない奴だなあ」 言いながらヤコウは翼を広げる。その動作一つで随分と逞しさが増す。僅かな羽音と共に飛び立った彼は、水流の中央を陣取るある一つの岩へと鮮やかに足を下ろした。 「この俺が手伝えばそんな石の一つや二つ、すぐに見つかるんだから大船に乗った気でいろよ?」 「……ヤコウ」 「……へへ、かっこいいなあヤコウ」 「ふふん、褒めたってなんにも出ないぜ。さあ、さくっと見つけるぞ!」 「うん!」 ハボは勢いよく川へと跳び込んだ。その飛沫がラムネにかかるけれど、彼女はもうそんなことを気にしてはいなかった。 二匹の心のあたたかさ、優しさが胸を締め付ける。彼女の体に熱い衝動が駆け巡り、瞬く間に満たされていった。喉の奥が震えて、我慢をするように唇をきつく締める。何か言わなければ、と思った。ハボが改めて水の中へ潜っていこうとした瞬間、彼女は口を開いた。 「あっ」 懸命に絞り出したような声は少し裏返っていた。小さな彼女から出る声は水流の音に消されそうな風のようだけど、ハボとヤコウはすぐに気が付いて彼女を振り返った。ほんのりと頬が桃色に染まった彼女は、気持ちを振り絞る。 「ありがとう……」 自分が思っている以上に小さな声。 僅かに歪む視界の中で、それを確かに聞き届けた二匹は笑みを浮かべた。ハボは柔らかく、ヤコウは照れ臭そうに。 「頑張ろう、ラムネ」 ハボが撫でるように声をかけると、ラムネは恥ずかしそうに、でも嬉しそうに大きく頷いた。
*
ラムネ瓶の破片が地面いっぱいに散らばっていた。目にも耳にも響いた痛々しい光景は、彼女の胸を息が止まるほど締め付けた。慌ててそのひとの元へ行く。大丈夫、と声をかける。たとえ言葉が通じなくてもそう言わずにいられなかった。そのひとの滑らかで白く小さな手には所々切れ目が刻まれていて、血がじんわりと滲んでいた。見ているだけで辛くて、思わずその手を握りしめた。そして顔を上げて、そのひとの顔を見た。けれど、切り傷ができたその顔は嬉しそうに笑っていた。えへへ、とそのひとは声を漏らす。そして、足元に転がっていたビー玉を手にとった。血が伝う親指と人差し指で挟み込んで、彼女の前にかざす。彼女とほとんど大きさが変わらないそれは、手の届かないはずだったもの。丸くて、透き通っていて、美しいもの。 『とれたよ』 ビー玉の向こうで、そのひとはにっこり笑って呟いた。
*
空の表情がぼんやりと変わっていく。時間が確実に歩いていく中で、ヤコウが姿勢を極限まで低く保って川の中を凝視しながら呟いた。 「なにか、ある」 思わずラムネは顔を上げて、彼の元へとすぐに舞い込んだ。そして、その視線の先を追う。しかし、彼女の小さな目には特に変わったものは映らない。水の流れと、その向こうに石が敷き詰められているだけだ。 ヤコウは足を一歩踏み出して体をぐっと前に突出し、更に水へと近付く。炎タイプを持ち合わせる彼は当然水は大の苦手であり、勿論泳げるはずもない。危険も伴うが、それを顧みず限界の居場所で更に目を細めた。 「――おい、ハボ!」 後方を念入りに探しているハボに向かってヤコウは声を張り上げた。直後、潜りこんでいたハボだったが察知したのかすぐに顔を出した。 「んん、どうしたの?」 「こっち見てくれ、なんかそれらしいものがある気がするんだ!」 ハボの表情がその瞬間に一変した。 「えっほ、ほんと……!? 待って、すぐ行くっ」 そう言うと、慌ててハボはまた顔を水の中に隠す。蓮は軽快に水流に乗って、ほんの数秒でヤコウ達のすぐ足元へと辿り着き、再び顔を覗かせる。 「どこに!?」 「あの辺。けっこう深いから、俺の嘴じゃあ届きそうにないんだ」 言いながらヤコウは長い嘴で方向を突き刺し、ハボはその先を追う。 「わかった、ちょっと行ってみるね」 湧き上がってくる熱を無理矢理抑えて、ハボは冷静に一言かけてから潜りこんだ。蓮の葉が川底へと沈んでいく。 二匹は高鳴る心臓の音の中でその様子を穴を空けるように見つめていた。一抹の希望と怖さが織り交ざった感情である。今までにもそれらしいものを見つけておきながら、ただのガラスの破片であるケースが多かった。今度こそ、と彼等は縛るように願う。祈る思いで、ハボが戻ってくるのを根気よく待った。 ハボが帰還するまでの時間は長かった。緊張が迸る中、二十秒程経った後にようやく蓮の葉は地上へと浮かび上がってきた。その様子を確認した瞬間、ラムネの心臓は大きく跳ねあがった。聞き慣れた水飛沫の音が弾ける。 感情を爆発させるハボなら、とれたなら確実に喜びを即座に表すだろう。しかし彼はそれをしなかった。だめだったのか、と諦めの空気が流れようとしたが、ハボは決して暗い表情ではなかった。 「確かにあった……かもしれない……!!」 彼は上ずった声でそう告げた。 ラムネとヤコウの顔が急変し、歓喜よりもまず驚きが走る。 「ほ、ほんとなの!?」 「う、うん……なんかそんな気がする……でも、僕の体じゃあ届かないんだ」 「どういうことだ?」 ヤコウが顔を顰めながら尋ねる。 「大きな石同士の隙間に挟まってるんだけど、その奥にあって……僕、手が短いから」 悔しく、そして申し訳なさそうな色をハボは声に滲ませた。あまりに短く不器用な手足。自分でひっくり返ると誰かに助けてもらわなければ起き上がれないような非力さ。そのハスボーであるが故の運命を、ハボは心の底から恨みたくなる。 気まずい空気が漂う。身動きがとれなくなる。頭の中には何も浮かんでこない。 そこを羽の音が貫いた。ヤコウだ。翼をあえて大きく立てて音を鳴らしたのだ。 「あーもう! 浅ければ俺が嘴で取れるってのに! 目の前にあるのに、かっこ悪いにも程がある……」 勢いよく声をあげたヤコウだったが、発言を進めていくにつれそのトーンは下がっていく。 ラムネは、ハボは、ヤコウは考える。状況を整理する。 ヤコウは固く鋭い嘴を持つけれど水が苦手で、川に潜るのは自滅行為。ハボは水が得意だけれど、隙間が小さすぎて短い手は届かない。 ――あたしは? ずっと漂い続けていた自分を顧みる声がラムネの中で大きくなる。 何もできていない。彼等の温かすぎる優しさに甘え続けて、せめて河原に流れ着いてないか目を配る程度しかできていない。彼等はそれぞれの得意な面を生かしている。 自分にできること。 ハボにもヤコウにもできなくて、自分にはできること。自分の特徴。自分の得意なこと。 ――ある。 ラムネは唇を締める。視線を上げる。二匹の友達が、それぞれに頭を捻らせている。一緒に懸命に考えてくれている。自分に応えてくれた彼等に、今度は自分が全力で応えたいとはっきりと彼女は痛感した。たとえ、怖くても。 「……あたしが」 僅かに震えた声を漏らすと、ハボとヤコウは滑らかにラムネの方へと視線を集中させた。 「あたしが、潜って、とってくる!」 決意したように顔を上げて、ラムネは慎重に、しかしはきはきとした口調で告げたのだった。 一瞬ハボとヤコウの表情は制止し、しかし目は強くラムネを見つめていた。四つの大きな目玉が一斉に注目している感覚がラムネは気恥ずかしく、どこか恐怖すら感じた。けれどラムネの心は決まっていた。 小さくていいことなんて殆ど無かった。草むらに隠れる虫ポケモンに食べられそうになるし、繰り出す技だってひ弱。強い突風が吹けば、懸命に花にしがみ付くしかない。川の流れだってまるで地震のようなものだ。 小さな自分。 でも、今生かせること。 二匹と共に、自分も何かしなければならない。 「……本気なんだね」 ハボは重い調子で確認をとる。もう決意は固まっている。瞬きの合間を置いて、ラムネは頷いた。 「おい、まじかよ。このあたりは少し流れが速い。お前みたいなの、そんな石ころとる前にすぐに吹っ飛ばされるぞ!」 「僕が支える! 蓮に捕まりながらなら大丈夫」 「ハボまで……!」 ヤコウは信じられないとでも言いたげにハボを睨みつける。川の中から顔だけ出していたハボはゆっくりとラムネとヤコウが乗る岩の上へと足を踏み入れる。水がぽたりぽたりとたれる。相も変わらずのんびりとした顔。何も考えていなさそうな表情。そして彼は、落ち着かせるように歩調と同調するような息をついた。 「ラムネにとっては、それほどに大事なものなんでしょう?」 川の流れ、風の音の中で、マイペースな彼の声は響く。 「絶対に大丈夫だよ」 甘く笑う彼の顔が、ラムネの恐怖心を不思議とふわりと取り除く。わたのように柔らかく、心地が良い。代わりに沸々と湧きあがってくる勇気。何故だろう、無責任なようで、でも信じたくなる。 「……なあ」 ヤコウが声をかける。 「こんな時に聞くのもなんだけど……なんでそこまでして取り戻したいんだよ?」 「……」 ラムネは思わず口を紡ぐ。それはハボも口にしなかったものの気にしていたことであり、改めてラムネの迷う表情に視線を落とした。 数秒の合間が随分と長く感じられた。妙な圧迫感が空気を支配し、早とちりなヤコウが急かそうとした時、ラムネは口を開いた。 「……そのびいだまは、ほんとはあたしのものじゃない」 小さな唇は話し始めた。一気にハボとヤコウの驚愕が集中したのを、彼女は空気で痛感した。 「あたしの友達……とでも言えばいいのかな。その子のなのよ。人間の幼い女の子で、この近くの町に住んでいるの。たまたま公園で出会って、あの子、ずっと付き纏って……最初はうざったかったのに、いつの間にかあの子が遊びに来るのを、毎日楽しみにしてた。 ラムネっていう名前はその子がつけてくれたの。あの日持ってきてくれた、ラムネっていう飲み物がすごく美味しくて……らしくないけど、全身ですっごく喜んでさ」 しゅわしゅわと口の中で弾ける爽やかな甘み。ちょっとだけ痛くも感じるのどごし。舌に溶ける砂糖の感覚。得たことのない感覚にラムネは虜になった。空色の透明な容器は、そのひとが振るとからんと可愛らしい音がした。中に入っているものが容器に当たる音だ。耳に心地が良かった。 「そのラムネの瓶に入っていたのがあたしの探してるびいだま。逆さまにしたり指を伸ばしてもどうしても取れなくて、あの子は気になるなあって笑ったの。あたしも手にしてみたかった。あんなに丸くて綺麗な石、初めて見たから。それが通じちゃったのかな……そしたらあの子、割るって言いだしたの」 今でも記憶にはっきりと残っている。 ラムネは思わず天を仰いだ。 「そしたら、本当に割っちゃったんだ。公園の、噴水の煉瓦に瓶を力の限り叩いてさ……」 耳を思わず塞ぎたくなる、雷のような一瞬の衝撃音。空気を切り裂く破片の群れはきらきらと太陽を照り返していた。 「まあ、変な子だったんだよ……普通あんなの実際に割るのなんて、怖くてできないもん。あの子、いっぱい傷をつけて血もいっぱい出て……なのに嬉しそうに笑ったの。とれたよってさ……呑気なもんでしょ。ほんと馬鹿」 罵る言葉には力が無く、本心でないことは手に取るように分かる。ハボもヤコウも、見守るように彼女の話に耳を傾け続けた。 「でもそれからしばらく来なくって、ようやくまた会えたと思ったら絆創膏いっぱい貼ってさ。びいだま川に落としちゃったなんて言って笑って……ほんとばかみたい。ここらへんって意外と子供にとっては入りやすい場所なのよ。どんなことがあったのかは知らないけど、あの子いじめられてたみたいだし……要はそういうことだったのよ。いっぱい傷つけて、親にもそのことで怒られて、挙句の果てに折角手に入れたものを捨てられちゃって……あたしにそのこと言ったら、今度はぼろぼろ泣き出してさ。あたし、あの子の傷だらけの手を撫でることしかできなかった……力になってあげられなかった……!」 もどかしかった。何もしてあげられない自分が許せなかった。自分にもっと力があれば。もっと大きな体を持っていれば。そうしたらすぐにでも抱きしめて、守ってあげられるのに。 「……その子、近いうちに旅に出るって。今の状況から飛び出るためにも……そしてあたしに言ったの。一緒に来てほしいって」 「ラムネは、どう返したの?」 ハボは不意に出てきた疑問を自然と声に出した。 ラムネは淋しそうに薄らかな笑みを口元に浮かべた。 「最初、言ってる意味がよくわかんなかった。だからすぐに返事できなかった。後でちゃんと考えて、ようやく理解したんだ。だからあたし、あの子の無くしちゃった大切なものを見つけだして、返してあげて、一緒に行くって伝えたいのよ。だって、ほっとけないもん。言葉は直接伝わらないけど……今度こそあの子の力になってあげたい」 傍にいたい。痛い思いをしてまでとったあの懸命なきらめきを、肯定したい。その一心で、彼女は単身、ここに飛び込んだのだ。 彼女は口を閉じる。しばらくの沈黙。それは、彼女の話が終わったことを自然と物語った。 ハボとヤコウはしばらく言葉を発することができずにいた。どこか重苦しい空気が圧し掛かる。ただのびいだまには、彼女のたくさんの思いが詰め込まれていた。それは、ハボ達には想像もできなかったものだった。 あの石をとったら。 そうしたら、彼女は遠いどこかへ、知らない誰かと一緒に行ってしまう。 ひと時の三匹の時間は、終わりを告げるのだ。 「……そっかあ」 ハボは隠しきれない暗いトーンを落とす。 「淋しいけど……でも、それならなおさら、早くとらなきゃ、だねえ」 「だな」 ヤコウは同意し、続いて溜息をついた。 理解してくれた。ラムネは胸が熱くなって、堪えきれず唇を噛む。 「ったく、あんま無理はすんなよな」 「分かってるわよ」 ふいに苦笑いを浮かべて、ラムネはゆっくりとハボの方を振り返り頷いた。 「お願い、ハボ」 「うん」 ハボは返事をした後、静かに着水した。大きな蓮。ラムネは一度黄色い花から降り、恐る恐るハボの蓮の葉へと向かった。水でひたひたになった彼の葉は柔らかい。川の流れが目の前にやってくる。音が一層大きくなったような気がした。唾を呑みこむ。蓮の形を囲むように出っ張った部分をしっかりと持ち、心を落ち着けるように深呼吸をする。 「じゃあ、いくよ」 直前、ハボは声をかけた。ラムネは一気に空気を吸い込んだ。そして、僅かにラムネの足元が浮かび上がり、かと思えば一気に水が全身を襲い掛かった。冷たい。花の守りが無い中、流れは想像以上に急だ。少し気をゆるませれば本当に流されてしまうだろう。尚一層葉を掴む力を強め、そっと目を開く。流れ込んでくる水が痛い。 ハボは素早くその場所に泳いでいく。ラムネの息が充分に残っているうちに、足を懸命にばたつかせ、岩がひしめき合う川底へ。 その場所へとやってくる。ハボの動きが止まったことにラムネは気が付いて、息をぐっと止めながら懸命に歪む視界を凝らした。ハボはなるべくその隙間へと蓮の葉を近付けさせる。ラムネの目に小さなきらめきが映った。記憶にあったものより少し削れていたけれど、ラムネは確信した。あれだ、と。大きな岩と岩の間にうまく挟まっている。この流れの中でもびくともしていないとなれば、相当の力をいれなければ離れないだろう。ラムネは岩に手をかけた。全身の力をかけるためにも、一度蓮から離れる必要があることはすぐに悟った。蓮は少し縦に動いて、ラムネが流れていってしまわないように支える体制になる。着実に息の限界が近づいていく。迷っている暇はない。ラムネはうまく岩に手をかけて、隙間へと一気に跳び込んだ。ぎりぎり手が届く。洗練された丸みのおかげで思わず滑りそうになる。負けない。強く心の中で叫んだ。意地で全身で覆うようにしがみ付く。水流が体全体を襲う。それすらも味方にしようと、流れにあえて乗るようにびいだまを引っ張った。瞬間、息に対して当然意識が向かなくなり、一気に呼吸が苦しくなる。目が回って、耳がおかしくなりそうだった。体中が張り裂けそうになる。まだだ。まだだよ。どうして出てきてくれないの。どうして外れないの。どうしてもっと力が出ないの! はやく、はやく! 焦燥が走る。手足は痺れていた。いつ離れたっておかしくない。でも今、今この瞬間しかない! 無理だと思ったものをあの子が掴んだその証を、絶対に取り戻す! はやく! うんと体重を後ろに引き寄せる。目の前が真っ暗でも、渾身の力。ちっぽけでも、精一杯の力。はやく! はやく! はやく!! 痛みが走る。水の中で吠えた。叫んだ。これでもかってくらいエネルギーを焼き尽くして、もう残されてない力だって振り絞った。 そして。 ふっと唐突に体が軽くなる。 あ、と無意識に思った瞬間に感情など無かった。 それでもラムネは、求め続けていたびいだまを抱きしめ続けていた。 ハボは蓮に彼女の体が蓮に届いたことを触覚で理解し、そのまま垂直に駆けあがろうとした。が、ラムネはびいだまで精一杯で蓮を掴んでいないため、すぐに滑り落ちる。ハボの呼吸が止まる。狭い視界の中でラムネが青ざめた顔で流れていった。反射的に手を伸ばした。 直後、ハボの傍に大きな爆発のような衝撃が跳び込んだ。何かが水の中にやってきて、しかしそれがなんであるかを確認する前に、また飛び出していく。慌てて視界を広げると、そこにラムネはいなかった。呼吸が止まりそうになる。ハボは大急ぎで水を蹴り上げ、水上へと顔を出す。ぱっと照りつける太陽の眩い光。それを背景に鮮やかに飛ぶ、一匹の朱い鳥。 ヤコウの嘴は、やわらかくラムネを包み込んでいた。
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辺りはオレンジ色に染まり上がっていた。小さな影がぐんと黒く伸びて、まるで自分のものじゃないみたいだとハボは思った。 三匹は彼女の住処でもある公園の傍までやってきていた。幼い子供が帰っていく姿が見える中、噴水の傍のベンチに女の子が座っていた。 着々と別れの時は近付いている。 「本当に、ありがとう」 太陽に照らされた二匹に向かってラムネはゆっくりと頭を下げた。ぎりぎり抱え込めるくらいの大きさのそれが、きらりとまた光る。 「うん」 「良かったよ。危なかったけどな」 ハボもヤコウもそっと笑う。 「ほんとに、ハボとヤコウがいなかったら絶対に見つけることもできなかった」 「ラムネがいたからとることができたんだよお。僕等、一匹だって欠けたらだめだったんだ」 「こーんな石をとるだけなのにな。不思議なもんさ」 「うん……」 ラムネはきゅっとびいだまを強く抱く。少しだけ擦れてしまっているけれど、驚くほど鮮明な透明さは失われていない。苦労した分、最初に見たときよりもずっと輝いているように見えた。なんだか、心がふんわりとあたたかくなる。 「……ほんとは」 ハボが小さく呟いた。 「ほんとはね、僕、もっとラムネと一緒にいたいんだあ」 へへ、と彼は照れ臭そうに笑う。本来の呑気な、でも心がほっとする笑顔だった。 彼から零れた本音はハボだけが抱いているものではない。ヤコウも、そしてラムネも考えていたことだった。三匹でいる時間は本当に一瞬で、しかし必死で夢中で濃密だった。だからこそ余計に、離れるのは淋しいものだった。それを全員が痛いほどに感じている。 「僕ね……ラムネに言いたいことがあるんだ」 ハボは話し始める。 「こんな大きな蓮で、こんなに大きな嘴を持ってるでしょ。だからあんまり周りが見えないんだ」 唐突に自分の体形について話し始めて不思議に思ったラムネ達だったけれど、口を挟まずに耳を傾ける。 「空を見るのにだって少し手に力を入れてぐっと前に突き出さないといけないし、大体の相手は体全体を見ることってできないんだ。ヤコウだって、少し位置が違ってれば全然顔が見えないの。それを僕はずーっと淋しいなって思ってたんだあ」 でもね、と彼は続ける。 「ラムネは小さいから……顔も体も、ぜーんぶいつだって見える。そんなの、僕初めて見たの」 目を丸くするラムネ。蓮の下で笑うハボ。太陽を背景に、今も彼の視界に全て入っているラムネの姿。 「僕、それがね、すっごく嬉しかったんだあ……」 嬉しさが全面に滲み出たその言葉は、ハボらしいのんびりとした口調で、染み入るようにラムネの心へと入り込んでいく。まっすぐで素直な彼の心が伝わってきて、ラムネの胸を抱きしめる。 ハボの鼻水を啜る音が、こだました。 「……また、会おうね」目に涙をいっぱいに浮かべながら、ハボは言う。「僕、あの川で待ってるから」 「仕方ねえから俺もお前等のために暇を作ってやるよ」翼を煽って格好をつけながら、ヤコウは言う。「だから怪我だけはすんじゃねーぞ」 「うん」こみあがるものを必死に我慢して、ラムネは言う。「元気でね」
ぎゅっと詰め込まれた瞬きのような宝物はびいだまのようにからんときらめいて、三匹の心に刻まれていった。
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車輪は歩くような速さで ( No.7 ) |
- 日時: 2013/11/17 16:58
- 名前: 曽我氏
- テーマA「輪」
その汽車の噂を知っているだろうか。新月の雪夜にしか現れないとされる特別な汽車――奔逸汽車のことだ。 奔逸の文字通り、その汽車は何かから逃げている者の前にしか現れない。 どうして現れるのかは謎だった。ただ唯一言えることは、その汽車が今私の目の前にあるという事だけだ。 私は歩を進める。私の抱く恐怖から逃げるために。自由へと解放されるために。
錆びついた車輪が悲鳴を上げて、汽車が緩やかに止まりだした。忙しなく流れていた汽車窓の向こうが雪深の道を踏みしめて歩く時のような速さに変わり、やがてぴたりと動かなくなる。 「それじゃあね、小説家さん。よい旅を」 中身がぎっしりと詰まっているであろう旅行鞄を両手にぶら提げて、老婆は歯切れ悪くそう言った。顔は私の方を向いているが、既に意識と足は通路の方を向いている。 「はい、貴方も。よい旅を」 私がそう言うと、老婆は軽く会釈をしてそそくさと去っていった。小説を書いている、の後の言葉から薄々そうなるだろうとは勘付いていたが、実際にやられると憮然とした感情を抱かざるを得ない。私は座席に深く座り直すと、溜息と共に曇り窓の外を眺めた。 猫の額のような停留所には人の気配はなく、うず高く積もった雪白が半ばほどで闇に呑まれていた。駅員の姿も無い所を見るに無人駅なのかもしれない。逆側から望める窓の向こう、深淵の中にぽつりと浮かぶ幽光の粒は人の住処のものなのだろうが、ここまで無響が続くと狐火なのではと疑ぐってしまう。それはそれで趣深くもあるし、この辺りは北狐の住処らしいから本当に狐火なのかもしれなかった。 四重に着込んだ着物の懐から古ぼけた記録帳を取り出して、慣れない左手で今の情景を描きつける。前回の作品も雪国を舞台にした心中劇だったが、今の景色を見ていると、もう一度雪国を舞台にしてもいいのではないかと考えてしまう。恐らく筆を執るのは来年の冬になるだろうけれど。 脳内に浮かぶ雪月花に思いを馳せていると、ばうわうと汽笛が鳴った。瀕死の獣の唸り声のような、生暖かく籠った音。暫くして、再び窓の外が動き出した。 寂しさが鳴る。そもそも辺鄙な山奥まで行こうという人間がそうそう居る筈もなく、今汽車の中には運転手と私、それから神錆びた車輪の音の他にはなにもない。つまるところ絶好の執筆日和――なのだが、腱鞘炎を患った利き手で文字を書くのは至難の業だった。腱鞘炎を直しに湯治に行こうと汽車に乗っているのに、悪化させては元も子もない。という名目で私は筆を休めている。腱鞘炎は其処まで酷いものでもなし、単純に書く気が起きないだけの話だ。 かつん、かつんと乾いた靴音が向こうの方からやってきて、私の座席の前で止まる。おや、と思い顔を上げると、冬山の息吹が其のまま立ち込めたような、清々しく冷たい声がした。 「お隣宜しいですか」 私はその声の主を見やる。稲穂色の長髪が一際目を引く、若い女性だった。麻編みの薄手の着物の他には何も身に着けておらず、個人の印象とは対極的に寒々しい出で立ちをしていた。硝子細工をそのままあてはめたような色の瞳も、どことなく寒々しさを連想させる。 「どうぞ、お坐り下さい」 私は数秒あっけにとられた後、意を取り直して女性に声を掛けた。 「有難うございます。どうも、一人は寂しいものでして」 小さくはにかむその姿は、金平糖に似て煌びやかで甘ったるい。かといって姦しい訳でもなく、どちらかというと杉目の木材に似た、力強い生命力の渦巻く娘という印象だった。 彼女は小さな手提げ鞄を膝に乗せると、雪焼けしたのか赤く染まっている頬に両手を当てた。その両手すらも霜焼けで赤く腫れ上がっている。手袋を持っていないのか――と尋ねようとして、それが失礼になる事に気付いて、口をつぐむ。手袋をしようがしまいが彼女の勝手だ。 「あの、お名前をお伺いしてもいいでしょうか。わたし、はつのと申します」 「仮名でよければ。本名は少し……」 「ええ、構いませんよ。お呼びする際に“貴方”では寂しいと思っただけですので」 「成程、そういうことでしたか。私は宮端森彦と言います」 「森彦さん、ですか。素敵な冗談ですね」 「と、言いますと」 こちらの反応を図るように彼女は黙った。どう言い、何をすればわからなかったので、私も沈黙を貫くことにした。“君のやろうとしていることが分からない”という意思表示でもある。 「いえ、失礼しました。そうですね、そういう事だって、はい」 ああそうか、と私は思う。同時に、彼女の純粋さが少し眩しく映った。このままの方が面白いので、私はそれに関して何も言わない。 「はつのさんは、どちらまで?」 「わたしは、えっと、映雪まで。森彦……さんは?」 やはり抵抗があるのか、彼女は私の名前を口籠った。無理やり下の名前で呼ぶ必要もなければ一々口籠られるのもあまりいい気分はしないので、私が「宮端でいい」と告げると、心なしか彼女は憑き物が落ちたように暖かい息を吐き出した。森彦、という名前に浅からぬ因縁や心的恐怖でも抱いているかのような風にも見えるが、他人の諸事情に一々首を突っ込むのも褒められた行為ではない。私は今の一連を忘れることにした。 「私は雪華まで、湯治に」 そう言って私が包帯に巻かれた右手首を見せると、彼女は痛々しげに眉を顰めた。 「ごめんなさい、わたし、そういうのは初めてみるもので」 「いえ、お構いなく。見せびらかされても良い気持ちにはならないでしょう」 それから暫く、私と彼女は他愛もない会話を交わした。何気なく視線を投げた窓の外には雪が舞う。
読み手の想像に委ねる、というのは小説を書く際に大切なことの一つである。どのくらいの大きさ、だとか、どれ程の長さ、だとか、述べてしまえばそこでお仕舞いだが、あえて読者に丸投げしてしまうことで想像の余地が生まれ、一つの物語を媒介にその人だけの世界が誕生するのだ。そうなってしまえばこっちの物で、筆者の中で漠然としかイメージを抱いていなかったとしても、後は勝手に読者の方が脳内補完してくれる。登場人物の顔、だとか住んでいる家の壁紙の色だとか、一々決める必要なんてない。彼女と交わした“他愛ない会話”も、つまりはそういう事である。 曇り窓の外は暗澹が敷き詰められ、もはや何も見えはしない。窓越しに伝わってくる冷気と静寂とが、闇舞台の中で恐らく降り注いでいるであろう深雪をただ漠然と表しているだけだ。暖房の掛かった車内にいると忘れがちだが、外は既に氷点下、水すら静止する世界なのである。 だが、それはつまり、今私の隣で寝息を立てている娘が、特にこれといった防寒対策をせずにその世界からやってきたという事になるのではないか。氷点下の世界を歩くのに、霜焼け程度で済んでいい筈がない。詮索は無粋、とはいえやはり職業病が邪魔をする。彼女は一体何者なのか問い詰めてみたいのだ。 一線を越えて膨れ上がった詮索欲は、私の空想力を激しく刺激した。実は彼女は狐憑きで、妖力を用いたから極氷地獄を霜焼け程度で乗り越えられたとか、そもそも彼女は人間でないとか。馬鹿げた話だが、短編創作の種ぐらいにはなりそうだった。余りにありきたり過ぎるので、使われることは無いのだろうけれど。 ぼっ、ぼおう。苦しげに喘ぐ二度目の汽笛は以前のより濁っていた。雪詰まりの黒煙が窓を擽るも、直ぐに雪原に染み込んで消える。 「宮端さん」 寝起きの声は普段より霞がかって届いた。湿った絹糸のように優しい嬌声だ。私は窓から目を離し、彼女の方を向く。 「わたし、寝ていたのですね。いまは何処なのでしょうか」 「そろそろ立花町に着くと思います。映雪はまだまだ先、よほどお疲れになっていたのでしょうし、まだお休みになられていた方が」 「いいえ、お構いなく。すっかり目が醒めてしまいました」 くっ、と体を伸ばすその姿は不思議なくらいに清潔で、指先からつま先に至るまでの全てがきれいであろうと思われた。白磁の陶磁器だとか、下したての牛乳石鹸だとかによく似ている。胸元からくっきりと浮き出た鎖骨の影が色めかしく、長い間見ていると目をやられてしまいそうな淫らさがあった。 「余り見詰めないで下さい」 彼女は冗談めいた口ぶりで笑いながら、私の鼻頭をつつく。初対面の際に感じた微妙な距離感はお互い既に氷解していた。濃く効いた暖房の熱にでも当てられたのかもしれない。 「穴が開いたらどうなさるおつもりですか」 「これは失礼」私は急に神妙そうな面持ちになると、大げさに非礼を詫びる振りをした。「お怪我はありませんか」 「ふふ、お上手ですね」 彼女の瞳が細められるとほぼ同時に、ゆったりとした力が私を座席に押し倒す。窓の外を流れる細雪の形がやや大雑把に見えるようになってきた。既に錆びた車輪は動きを止めている。 「立花町、ですね。灯篭流しが有名だと聞いています」 「まあ、お詳しいのですね」 「職業柄です」 私の前作『雪花に咲く』の舞台になった――とは、言わなかった。心中劇の事を嬉々として喋るのは倫理的に宜しくないと思ったからだ。増してや、子供が鸛に運ばれてくるだとか甘藍畑からこんにちはだとか、そういう類の言い聞かせを未だに信じていそうな彼女に私の本は猛毒でしかない。初雪に墨の足跡を付けるのはもう少し後にしてやりたいと思った。 「やだなぁもう。この汽車はおいらの事をちぃとも考えてない。これだから人間は」 生一本、汽車の汽笛に負けず劣らずよく通る声がした。少し舌足らず気味なところが如何にもあどけなく、絵に描いたように少年らしい。この汽車に途中乗車してくるとは、なんとも珍しい事だ。 「モシ、そこのお二方。どうやら傷心旅行の最中とお見受けいたしますが、どうぞ一つご教授願いたい。ここは奔逸汽車に違いないのか、それともただに良く似た普通行か」 私とはつのさんは目を瞬かせて、顔を見合わせた。それも其の筈、饒舌に喋繰るその姿は想像していたような人間の少年ではなく、どこからどう見ても獣のそれであったからだ。濃紅と銀白、稲妻模様に仕分けられた毛色が何かに似ていると思えば、正月飾りの熨斗紙だった。 「奔逸汽車……ええ、確かにそうです。ね、宮端さん」 「ええ」 奔逸汽車、という言葉自体に聞き覚えがある訳ではなかったが、言葉の意味を察して私は頷く。 「アァそれは良かった。と、それにつけても一匹狼は寂しいもので、どれお二方さえ良ければちょいと相席でも」 「構いませんよ」 と、彼女が言い終わるや否や、その獣は私の前の座席にどっぷりと腰かけた。よく見るとかなり恰幅がよく、その素直な声とは裏腹にふてぶてしい眼つきをしている。両腕にそそり立った黒爪がぎろりとにらみを利かせたように怪しく光り、暖房に当てられて火照った背筋がいい塩梅に冷えた。 「そんなに括目されても穴しか開かねえや。ひょっとかしてこの良く回る口の事ならおいらにだって分かりやしねェ。そうさな、言葉を話してるのは人間だけじゃねえってことでさあ」 私なら二三度は噛んでしまうに違いない早口で捲し立てられると、否応にも納得せざるを得ない。狂言と共によく回る舌だ、と私は感心する。 「ずっと人の言葉を御喋りになられているのですか?」 彼女が問うと、獣はぷっと噴出した。壺に入ったのか、地の底から這うような意地の悪い笑みをくつくつと浮かべながら 「まさかァ! 冗談はその薄ッぺらい召し物だけにして欲しいねえ、目の遣り所に困るってぇの」 と言ってのける。 「なっ……獣畜生に欲情される謂れはありません!」 売り言葉に買い言葉、彼女にしては小汚い言葉を振りかざしての反撃は届かない。 「かかっ、こりゃ手痛いこったな。可憐なだけの雌しべかと思いきやぶっ飛んでやがる。畜生だってよ、実にその通りさ」 「もう……!」 はつのさんはそれ以上何を言うでもなく、前屈みになっていた体を起こし座席に深くもたれ掛った。彼女曰く“獣畜生”の言葉を真に受けているのか、少しばかり顔が赤い。 「ところでよぉ、おいらはワッカって呼ばれてる。あんた等はなんてよびゃあいい」 「宮端森彦。宮端って呼んでくれればいい」 「……へええ、あんたが。ま、ここに乗ってるっつうことはそれなりの事情があんだろ? 短い間だけどよろしくな、モリヒコ」 差し出された手を握ろ――うとして、随分鋭利に発達した爪の事を思い出した。今は引っ込んでいるけれど、いつ飛び出してくるか気が気ではない。 「そんな汚ねえもんじゃあるめえし、もっと強く握ってくれたって良かったのによお。ああ、便所の後手ぇ洗ってないとかだったら遠慮して欲しいが、そういう訳でもねえんだろ」 「ふさふさ恐怖症、という事にしておいてくれないか」 沈黙。まるで喋る獣を見るときの様に訝しげな視線をどっぷりとぶちまけられた後、ワッカは苛立ち気味に鼻を鳴らす。 「へいへい。んで、そっちのふて腐れ娘っ子は?」 「獣畜生に名乗る名などありません!」 「ほー、じゃあこっちで勝手に呼ばせて貰わあ。そうさな、薄っぺらなのは当然として……」 「はつのです! 分かったらもう薄っぺらとか卑猥な目線で私を見つめるとかしないでください!」 「してねえよ。おいらは出るとこ出てる雌の方が好みだしなあ」 「もおおお!」 真っ赤っかに破裂するはつのさんを見て、ワッカは痛快そうに笑う。彼女は完全に弄ばれていた。 それから暫くして、ちんからりんと鈴が鳴る。錆びついた車輪が苦痛に満ちた呻き声を上げ、窓の外がゆっくりと動き出した。 「今からちょいとばかし独り言を喋繰るが、適当に聞き流してくれ。言葉にしないと不安なんだ」 今までの喧騒が嘘のように、彼は苦みを帯びた声でそう呟く。古びた窓枠に頬を押し付け、彼は暗幕の降りた外を見つめる。溜息が窓を白く染めた。 「おいらはもうすぐ死ぬ。死ににいかなきゃなんねえんだ」 絞り出す声が震えていたのは、寒さの所為ではないのだろう。ふてぶてしく恰幅の良い獣の肉体が、私にはひどく縮こまって見えた。
「……わたし達には聞くことしか出来ません」 「それでいいさ、止めて貰おうだなんて思ってねえしよ」 その言葉の真偽は推し量れなかったが、気だるげな表情の内側が微かに揺れているのは何となく読み取れた。心に波風一つ立っていない――というよりは、生じている筈の波を無理やり手で押し留めているように見える。唇と瞳、それから尻尾が水を浴びた子犬の様に震えているのもつまりはそういうこと、あちらを立てればこちらが立たずとは言いえて妙。揺れの余波が感情の束がそちらに流れているだけのことだった。 「あー……何から話しゃいいか分かんねえけどよ、おいら達の種族はちょっと特殊なんだ。普通、野生動物ってえのは生きる為、食う為に何かを殺す。どこぞの人間様と違って損得だとか感情だとかで何かを傷付けたりはしない。でもおいら達の種族は違う」 「それはつまり、人間の様に損得やら感情やらで何かを傷付けるということですか」 「いんや、そういう事じゃあねえよ。ああ、まあ感情は無きにしもあらずって感じだが……損得で考えても無意味だろうな、おいら達の場合。過去の確執というか、本能に刻まれた使命っていうか、見たら殺したくなるっていうか……なんてえの、こういうの。上手い言葉が見当たんねえな。近しいのは……不可抗力とかそんなとこ。勿論動物全部って訳じゃなく、ある種の蛇との確執」 何となく私は察した。図鑑や古い本で読んだことがあるだけでその情報は到底正味を帯びたものではなかったが、そうかあれは本当だったのか。私の目の前で苦虫を噛み潰したような表情を広げている彼が猫鼬と呼ばれる種族であるなら彼の発言も全て納得できる。確かに、あれは不可抗力の域というか、本能がそうせざるを得ないというか。 「あの、わたし良く分からないんですけど、それってつまり人間より愚かってことですか。貴方がたも、その蛇さん達も」 「そいつぁ――」 「ちょっと違うでしょうね」と、ワッカより早く私は口を開いた。はつのさんも、それからワッカでさえも予期せぬ方向からの答えに目を丸くしている。 「愚かではないですね。人間と違って、その殺し合いにお互いの意思はないでしょう」 「そういうこった」 「じゃあ止めればいいじゃないですか! お互いにそうする理由がないのなら、する意味なんてどこにもない」 「ん、まあそうなんだがよ。じゃあ聞くが、あんたは川の水に流れないでくださいってお願いできたりするのか」 「それは、無理です」 「そういうことなんだよ。ま、おいらが言うのも変だがなァ」 「……」 納得がいかないのか、彼女は口を尖らせたまま何も言わず俯いた。非利己的で非論理的、感情論としても機能していない、謂わば納得してはいけない物を納得しろというのはやはり難しいのだろう。彼女が、これは“そういうものだ”と理解して飲み込むまでにはもう少し時間が掛かりそうだ。 そんな彼女を尻目に、私は声を上げる。先程のワッカの発言に、一つ気になる部分があったのだ。 「ワッカ。君はさっき“死ににいく”って言った。それはどういうことなんだ」 「こっちが聞きたいねえ。どういうことってどういうことなんだィ、モリヒコ」 「失礼、説明が足りなかったかな。君がさっき話し始めた事との関連性を察するに、今から君はその蛇と殺し合いに行くのだろう」 「ああ、そうさ」 「なら、君は“殺し合いに行く”と言うべきだ。“死ににいく”というのは、まるで君が負けるのが前提みたいになっている。いや、君は諦めているといった方が正しいかもしれない」 嫌な奴だ、と呟く声。ふてぶてしさの中に一種の諦観を含んだ瞳で、ワッカはこちらを見つめていた。睨むでもなく微笑むでもないそれは、無常感と類義されるものだった。 「お前、心理学者って奴か」 「違うさ、職業柄だ」 投げ付けられた言葉を丁寧に包装して返送すると、彼は死んだ目のまま仄かに微笑んだ。私は続ける。 「ただ、人の感情を扱う仕事であるのには変わりない」 「なるほど。それがお前がモリヒコである所以なんだな」 「ご明察」 「おう」 鞄の中から干し葡萄の入った巾着を取り出して、ワッカの腹に放る。何故かぼすん、と膨らんだ布団を叩いた時の音がした。 「こいつは?」 「ご褒美だよ。口封じともいう」 「そりゃーありがてえこって」 皮肉気に言葉を交わす、その隣。はつのさんは私とワッカの一連のやり取りを一片たりとも理解していない様子で、私達の顔を交互に見回していた。そういう間の抜けたところがなんとも彼女らしいのだが、多分本人にそれを言ったら憤慨するだろうから沈黙を貫いておくことにした。今は彼女をからかって遊べるような空気でもない。 「モリヒコのいう事は至極ごもっとも。おいらはこれから死にに行くし、生きることを諦めてるよ」 「……それって、どういうことですか」 「殺し合いは普通差しで行われる事になってんだ。で、どういう事かおいらみてえな餓鬼んちょが向こうの長と戦うことになっちまったのさ。到底叶いっこねえけど、逃げたら種族一同皆殺し」 干し葡萄をちまちまと齧りながら淡々と述べる彼の内には、大きな葛藤が渦巻いているような気がしてならない。石の様に強張った、意志の固いその顔から彼の感情を上手く読み取ることは出来なかったけれど、言葉の一句一句が上ずっているところを見るに、単に虚勢を張っているだけなのかもしれない。暴いてやろうとは思わなかった。私には思えなかった。 「おいら一匹のエゴで群れを危険に晒す訳にはいかねえ。おいらが死んで皆が救われるなら、それでいい」 「そんなの、そんなの嘘です……!」 拳を握り締めて、俯いて、彼女は震えていた。頬を伝う涙滴。それはどこまでも淡々と、飄々とした佇まいを崩さないワッカとは、様々な意味で対照的に映る。 ただ、他人の為に尽くすことが出来る――という点は、綺麗にまでに一致していた。彼女も彼も、優しいのだ。私が忘れてしまった力が、彼女達には備わっている。それだけのことだ。 「誰かが死んだら、それは幸せなんかじゃありません!」 「優しいのな、あんた。こんな獣畜生の為に泣けるってそりゃすげえ才能だぜ。誇ってもいいさ、たっぷりとな」 薄紅色の声が泣き崩れる彼女を包んだ。 そしてまた、車輪が悲鳴を上げる。この音が意味する所は三人とも既に理解していた。私とはつのさんの視線が、ワッカの干し葡萄を貪る手に注がれる。 「車輪ってのは残酷なもんだ。ずっと快調に回ってると思いきや、突然ぱたんと止まっちまう」 ワッカは笑っている。 「しかも自分では回せないときたもんだ。ああ、やりきれないねえ」 ワッカはまだ笑えている。 「……ああ、なんつーかさ、おいらさ、やっぱさ――」 ワッカはもう、笑えていない。 「まだ、生きてえよ」 慟哭。 汽笛の掠れ声は、残響にかき消されて届かなかった。
汽車が止まったのを肌で感じた。 立って、歩いて、外に出なければならないのに、どういう訳かおいらの体は動こうとしねえ。寒さに似て陰湿な、でも寒さとは違う種類の震えが襲ってきて体中が痺れたように痛みやがるんだ。体中の水っ気が全部費やされてるんじゃねえかと思っちまうぐれえに流れ出してやがる涙は、留まる所を知らない。そうか、これが怖いって事なんだろうか。畜生薄っぺら娘の奴、最後の最後でとんでもない種を植え付けやがってよお。折角押し殺して納得してたのに、全く酷い目に逢わせやがる。最後の最後で恐怖を知っちまったらよお、おいらはもう戦えねえじゃねえか。 「ワッカ。顔は上げなくていいから、良く聞いてほしいことがある。君がどうしてこの汽車に乗れたのか、私なりに一つ考えてみたんだ」 顔を上げると、モリヒコの整った顔立ちが目に飛び込んできた。口を真一文字に結んで、しっかりとした面持ちでおいらを見つめている。 「どうしてお前がこの汽車に乗れたのか、ずっと考えていたんだ。私や、恐らく彼女も、何かから逃げてこの汽車にやって来たのに、お前は違った。最初から覚悟している風に見えた」 モリヒコの張りつめた声。今まで生きてきた中でも、こいつの様に何でも見透かしてくる奴は居なかった。だからなのか、こいつの声は今まで聞いたもののどれでもない感じ――言うなれば、すげえ不気味な声だ。おいらの葛藤とか、苛立ちだとか、そういうもんを全て見通して、その上で何もしてこない諦観者であるってことが、多分モリヒコの一番不気味なところだ。 「……続けてくれ」 「でも、この汽車には“何かから逃げている”者しか乗れないことになっている。その規則自体が紛い物だという可能性もあるから堂々とは言えないが、もしその規則が本当だった場合、お前は何から逃げているのかという疑問が浮かんでくるんだ」 モリヒコは続ける。 「これは私の推測だが、思うにお前は車輪から逃げているんじゃないか。いや、物理的にではなく精神的にな。車輪は避けられないし、ぶつかっても自分が傷付くだけだから逃げるしかない、と」 「それで……何が言いてえんだ」 「逃げろよ。そんなもんはとことん逃げちまえ。死の運命から逃げる――ってことは、裏を返せば生きようと立ち向かってるって事だろう。何をそう卑下する必要がある。生きたいと願う感情に獣畜生と人間の違いはあるか、いやない。自己を正当化しろ。群れの為だとかどうとかで、在りもしない自己犠牲精神を振りかざすな。嫌なら嫌だと、生きたいなら生きたいとはっきり思え。自分に嘘を付いてまでわざわざ苦しむ必要がどこにある」 ねえよ、そんなもん。分かってんだよ。そんな目でおいらを見るな。ああそうさ、生きてえよ。こんなとこで死にたくねえよ。痛いのは嫌だし怖ええのも嫌さ。おいらは普通の雌と恋をして、気ままに暮らして、何の悩みもなく平和に生きるつもりだったのに。何でだよ、何で選ばれちまったんだよ。 そうか、分かっちまった。こうなったのも全部あいつらが悪いんだ。選んだあいつらが悪くて、おいらは只の被害者だ。だから逃げてもいい。全部おいらを選んだあいつらが悪い。勝手に生贄羊をおいらに押し付けた、その報いだ。死んだって仕方ねえだろう。いいさ死んじまえ、おいらは生きる。楽しく、平穏に、生きてみせる。全部全部悪いのはあいつらだ―― ――なんて、違えだろ。そんな訳ねえだろ。選ばれたとき、おいらは首を振らなかった。振ったら他の奴らに白羽の矢が立つって分かってたもんな。エトロだとかピリカだとかオイナだとか、あいつらが死ぬのは駄目なんだよ。あいつ等の死に顔拝むぐれえならおいらが死んでやるって決めたんだろ畜生が。 ああもう、分かってんじゃねえかおいらのバカ野郎。もう良いだろ、納得しただろ、立てよ。どうして立てねえんだよ。まだ怖がってんのかよ。そうだよまだ怖いんだよ。死にたくねえよ。じゃあ逃げようぜ。何もかも忘れて、このまま汽車に乗って、どっかその辺で降りて、気ままに平和に暮らそうぜ。そうだ、でも、そうだよ、でも。でも。でも……。 ――それって、生きてるって言えるのか。
「決めた」 立ち上がった彼の瞳にはもう複雑怪奇な情は渦巻いていない。実に簡単な感情。それこそ漢字二字で表せてしまうぐらいに。 私は心の中で口角を釣り上げる。多少乱暴な発破――もとい言葉責めはそれなりの成果を見せたらしい。私が高等学校に在籍していた頃の、多分どうしようもなく行き詰っていた時に書いたであろう小説の一節なのだが、まさかこういう場所で日の目を見ることになるとは思わなかった。物理的には焼き払ったが、脳裏に留めておいて正解だった。役目を終えたからには即刻処分しなければならないが。 「そうか、それは良かった」 「まァな。……これで本当に良かったのかは分かんねェけどよ」 「良かったんですよ」 落ち着きを取り戻したのか、荒いでいた筈のはつのさんの声は湿った絹糸のようにへたりと柔らかくなっていた。 「貴方がそれで良いなら、きっとそれが最善の道です」 「へえ、薄っぺらの癖に中々良い事言うじゃあねェか。見直したぜ薄っぺら!」 「もうその手の挑発には乗りませんよーだ」 「けっ、かわいくねえの」 お互いに舌を出すその姿を、私は窓枠に頬杖を突きながら眺めていた。喋る珍妙な獣とうら若き薄っぺら娘の組み合わせも中々良いのでは、と遠目で思いを巡らせる。当然彼女達には内緒だが、次の物語の主役に抜擢してみてもいいかもしれない。問題はどちらが動くか、というところだが、まあそれはおいおい考えていけばいい問題だ。 「さて、そろそろおいらは行くさ」 「死にに、行くんですね」 神妙な面持ちで唾を呑んだ彼女を、ワッカは鼻で笑い飛ばす。 「違えよ」 「生きに行くんだ」
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「結局、彼は逃げたのでしょうか」 「生きにいっただけですよ」 「……はあ」 どうも腑に落ちないらしく、訝しげに眉を顰めながら彼女は唸った。服と中身だけではなく、思考まで薄っぺらい娘だということに今更驚きはしないが、少し呆れてしまう。 「ちょっと、なんですかその目は」 「はつのさんはもう少し本を読むことをお勧めします」 「じゃあ、貴方の本を教えて頂きたいです。ね、小説家さん」 おや、と私は口を開けた。作家であると私は言ったか。いや、言っていない。というか言えそうにもないのだが。 となると、彼女は憶測で物事を言っていることになる。分かりやすいとはいえ、彼女の憶測に当てられてしまったというのはなんだか複雑だ。 「何故、私が小説家だと」 「簡単ですよ」 得意げにふふん、と鼻を鳴らす。その笑顔を例えるならば、静かな湖にさざ波が広がっていくようだと思った。 「ずっと気になっていたんです、どうして女性である筈の貴方が“宮端森彦”とかいう男の名前を扱っているのかが。仮名にしても男の名前を使うのは不自然ですしね」 「それで?」波打ち際のうねりよりなお柔らかに波打つ冷えた黒髪を掻き上げると、私は彼女を試すように軽く睨みつけた。「どうして、私が作家だと」 「簡単です。女でも男の名前を使うのはどういう時か、を考えれば良かったのです」 「で、思い当たるのは小説家だったと」 「はい」 ご名答。別に試したつもりも試されたつもりも無かったのだけれど、まあいいかと私は思う。だけど、その推理には若干の穴があった。重箱の隅を突くようで悪いけれど、このまま彼女にやり込められてしまうのも面白くないだろう。私は意地悪気に微笑みながら、彼女に向かって口を開く。 「結論から言うと正解です。ですが、台本作家や劇作家など、女でも男の名前を使う時は幾らでもあります」 「苦し紛れですね」 「全くです」 返し刃の意外な鋭さに遣り込められて、逃げるように視線を窓の外へ持っていく。夜明け前が一番暗いとは正に言えて妙、わずかに薄墨が混ぜ込まれたであろう霞がかった白色の薄明が遠方に聳え立つ山肌の影法師を創り出していた以外には何も見えない。星すらも、月すらも――と考えかけて、今日が新月だったという事を思い出す。 「夜が明けましたね」 「随分と長い間乗っていたのですね。この汽車とも、もう直ぐお別れです」 彼女がゆるりと視線を動かす。それに追従して顔を動かすと、長年暖房の熱気に当てられてきたのだろう、酷く風化して黄ばんだ時刻表が目に入った。 「次は、映雪ですね。もうすぐお別れですか」 「そうですね。一期一会とはいえ寂しい事です」 「あら」何を言っているのですか、とでも言いたげに私の瞳を見つめる。そして、微笑んで、「貴方の小説を読むのですから、わたし達はずっと繋がっているはずです」と大仰そうに言葉を発した。 私は露骨に顔を顰め、逃れられないことを知る。いいさ、どうなっても知らないからな、と私は心の中でふてぶてしく呟いた。 「分かりましたよ。『雪月花に咲く』『幼き鹿の子に花束を』『石寞のむじな』辺りがお勧めです。書店の隅っこで売っていると思います」 願わくば売っていてほしくない訳だが。 「ところで、はつのさんはどうしてこの汽車に」 「急になんですか?」 「答えたくないのであれば良いのですが」 「内緒にして頂けるのであれば、お話します。決して話の種に使わないのであれば」 「勿論です」 彼女の瞳には、毒々しく苦々しげな気迫があった。つらい事なのか、或いは思い出したくないのかもしれない。申し訳ないことをしただろうか。 「わたしは、世間一般的に見て富豪の娘だと思われます。博識な貴方ならご存知でしょうが、父は切先家三代目当主辰房と申します」 「地主さんの娘、ですね。切先町の」 「やはりご存知でしたか」 「職業柄です。非常に家柄に厳しいと聞いていましたが、まさか」 「其のまさかです」 承知の上での踏み入った会話ではあったが、彼女の皮肉気に唇を歪めるその仕草を見ていると心がむず痒くなった。 「わたしは逃げてきました。家柄とか、規則だとか、そういうのが嫌で。映雪には叔父が居ますから、そこに暫く厄介になるつもりでいます」 「良いんですか」 「わたしが良いなら、わたしにとってそれが最善の道です。悔いはありませんよ」 私はどうやら、一つ撤回しなければならない事があったようだ。彼女は確かに薄っぺらだが、精神力は同時期の少女たちと比べるまでもなく強靭であるという事実だ。 「今までに、躊躇したことはありますか。親の事とか、切先の事とか考えて、自分が幸せになるのをやめようとしたことは」 「勿論ありますよ」 映雪の町が見えてきた。聞き飽きた車輪の悲鳴を劇半に、茜色の朝焼けに濡れた街並みを二人で拝む。 「でも、だからといって自分の意思を殺すのは、やっぱり間違っていると思うんです」 いつの間にか雪は止み、地表に広がる羽毛色の絨毯だけが一晩続いた雪華吹雪の場景を語り継いでいる。雪詰まりで重苦しくなった汽笛の音が、何故だかとても清々しく聞こえた。 「本、楽しみにしています。また何処かでお会いできたら良いですね」 そして車輪が止まる。
それから雪華までは、驚くほどに早かった。静寂と寂寞に時折車輪の擦れる音が混じる以外に動くものはなく、忘れていた寂しさが再び鳴り出す。 今日の出会いの事は、恐らく生涯忘れることは無いだろう。名誉の死と恥辱の生の狭間で揺れ、結局自分らしく最後まで生きぬくことを決めた獣の事も、周囲を思いやりながらも自らの意思で歩を進める事を決意した少女の事も決して霞んだりはしない。汽車の中で自身の抱く恐怖から逃げ続けている私には、眩しすぎて見えないけれど。 ところで、一つ言いそびれていた事があったのを思い出した。以前老婆にも顔を顰められたように、私の小説は少し特殊例であるということを。言動を振り返るに、あの彼女には少し刺激が強すぎるかもしれない。いつか再び出会うことがあったら、出会い頭に顔を真っ赤にして叩かれるに違いない。しかし、それもまた一興。 まあ、要するに官能小説である。それも、とびっきり刺激の強いもの。女性だからそういうのは書かない――とか、偏見を持たれていたからあそこまでがっつかれていたのではないかと考えると、少しだけ後ろめたい気持ちになって、そのすぐ後に愉快さがこみあげてきた。箱入り娘の彼女だってそろそろ濁りを知るべきなのではないか、なんて自身を正当化するための独りよがりな考えが浮かんできたので慌てて脳裏に沈める。
雪華に着くと同時に、誰かに肩を叩かれた。明確な殺意の籠った視線を背中で受け、私は錆び付いた車輪の様にぎこちなく首を後ろに向ける。 「ずっと後部車両に居ました。さ、これから言われることは分かって……いますよね?」 「本当はすぐに声を掛けるべきでしたけど、何か乗り合わせが来ちゃいまして声を掛けるに掛けられなかったのです。まさか官能小説を書いている、なんて周りの人にいいふらせやしませんものねえ」 「11月17日必着。これが意味する所は何か、もうお分かりですよね。だから逃げたんですね」 弾丸のように飛んでくる強烈な言葉に私は意識を失いそうになりながら、只々頷くしかできない。担当が青筋を立てて私を睨んでいる。これは間違いない、下手に出たら絶対殺される。 「ですがね、甘いですよ。いくらあれが奔逸汽車だからって逃げられない物はあるんですから」 逃げられない物。そう、例えば。 締切とか……――
私の後ろで、奔逸汽車の扉が閉じる。 神錆びた車輪が悲鳴を上げて、汽車は緩やかに動き出した。 真新しい運命が悲鳴を上げて、汽車は緩やかに動き出した。
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【テーマB:石】変わらずのいし ( No.8 ) |
- 日時: 2013/11/17 20:25
- 名前: ホープ
- そういう、運命の日というものは決まって突然にやって来る。いいや、それは少し違う。運命の日というのは後から自分でそう決めつけた日のことだ。だから、そのときの僕にしてみれば、運命の日というのは至って平凡な日か、少しだけ特別な日という認識なのかもしれない。
今日この日だって、運命の日になるだろう。 今の僕が思うに、僕の人生の中で運命の日と呼べる日はたくさんあった。今日の最後が訪れるまでには話し終えるはず。だから、君と僕が出会ってからのお話を、君にも聞いて欲しいな。
*
一つ目の運命の日。僕がまだ十歳の頃だから、それは十数年前の雨の日だった。 僕はその日、傘を忘れて出かけていた。お昼下がりくらいかな、その頃に突然バケツをひっくり返したような雨が降りだしたんだ。夏のほのかな熱気が冷やされていくのを肌で実感できたよ。 どこかのお店で雨宿りするのも悪くなかったけど、あのときの僕はあるテレビ番組が好きだったんだ。走って帰れば大丈夫だと思って、大粒の雨で全身を濡らしながら走って家を目指したんだよね。 轟音に包まれて、視界すら満足に確保できずにいた。目の前が真っ白になる感じって言えばいいのかな。 だから、あのとき、君が路上の端に捨てられていることに気づけたのは運命だったのかもしれない。まあ、僕はそう思っているから、この日を運命の日って呼んでいるんだけどね。 改めて思い出してみると、運命というのは奇妙なものだ。急いでいたはずなのに、もうちょっとで好きなテレビ番組が始まるはずだったのに、そこに捨てられている君を見た瞬間に足が止まったんだよ。ああ、そのつぶらな瞳にやられたのかもしれない。 ともかく、僕は君を抱え上げて、また走り出したんだ。小さな体のポケモンを雨の中に放置しておいたらどうなるか、それはまだ幼かった僕でもよくわかってたよ。 親に怒られるかもとか、そんなことは考えなかった。幼心に、小さな命が消えるのをやすやすと見逃せなかったのかもしれない。 ずぶ濡れで家に着いたときに、初めて腕に抱えた君の様子を見たんだ。それまでは走ることで精一杯だったから見れなかったんだけど、衰弱しきっていた。雨のせいか、熱もあったかもしれない。 家で迎え入れてくれたお母さんもすぐに察してくれて、まずはポケモンセンターに君を連れて行こうということになった。 そこから先のことは、ドタバタしすぎてて思い出せない。とにかく君を助けるために精一杯だったんだ。 でも、君が助かったときの気持ちは今でも忘れていないよ。胸がはちきれそうっていう表現は、ああいうときに使うものなんだなって思ったくらいだ。 お母さんにもこっぴどく叱られた。でも、その後に誉められた。なんだかちょっとだけ誇らしげに感じたんだっけ。
*
二つ目の運命の日。それは、君がこの家族の一員になった日のことだ。 きっと君は知らないだろうけど、僕は君を家に連れてくるために、お父さんとお母さんを説得したんだ。子供の頃だから出来た芸当だったと思う。ほら、子供って自分が思っている以上のエネルギーを秘めていたりするから。 お父さんから聞いた話だと、君はイーブイっていう名前のポケモンらしい。たくさんの進化経路を持つポケモンで、遺伝子的に不安定。しかもこの子はとりわけ体が弱く、進化の負荷はもちろん、軽い病気にも耐えられないと言っていた。 でも、あの頃の僕はその言葉の意味を一つも理解していなかったと思う。そのことを考慮せずに、一緒にいたい! と連呼していたし。 今考えると、うちの両親はとても僕を甘やかしていたように思う。そのときも同じだった。両親が折れてくれたんだ。子供のエネルギーが大人を打ち負かした瞬間。僕はとっても嬉しかった。 その代わり、お父さんから一つだけ条件を与えられたんだ。君には何度も教えたから覚えていると思うけど。 今だって首につけているリボンがあるだろ? お父さんが提示した条件は、それを肌身離さずもたせ続けること。 そのリボンの結び目のあたりに、宝石のように光る石がついていると思うんだ。それは変わらずの石といって、君の進化の邪魔をする道具。言い換えれば、君の命を繋ぐものとも言える。 とにもかくにも。進化のことをよく知らなかった僕はその条件を快く受け入れ、君を家族の一員として迎え入れたのだ。 そのときの君の笑顔が、僕は今でも忘れられない。
*
それから十数年。いくつかの運命の日を経て、僕と君はここにいる。なんだか嬉しくなっちゃうよね。平凡な日々をこの数十年間積み重ねてこれたんだ。それ自体が運命なのかなって、僕はときどき思うよ。 運命、運命。口に出すのは簡単だけど、それは捻じ曲げられない絶対なもの。君と出会えたのが運命なら、きっと今日という日だって運命に違いない。呪いたくなるような結末も、それがそういうものである限り、僕らは受け入れるしかないんだ。悲しいことにね。 もう少しだけ、昔話に付き合ってくれるかい?
*
三つ目の運命の日は、分厚い雲が空を覆っていた日だった。君が家族に加わって五年が経とうとしていた頃だと思う。妙に寒かったからその日の夕食は鍋だった、ということは鮮明に覚えている。というのも、この日の運命的な出来事は夕食の最中に起こったからだ。 この日、君が初めて、人間に危害を加えた。紛れもない僕のお父さんに、爪を振り下ろしたんだ。お父さんが少し席を外したときのことだ。立ち上がってテーブルから離れたお父さんに向かって襲いかかった。突然のことで、僕は君をモンスターボールに戻すことも忘れていたよ。 でも、理解するよりも早く、本能が君を抑えないといけないと叫んでいた。いくら体が弱いと言ったって、それはポケモンの尺度で測ったときの話だ。相手が人間になれば、どんなポケモンだって凶器になり得る。だからこそ、僕は君を止めないといけないと、強く感じた。 君もこのときのことは覚えているよね。 もう一度お父さんに飛びかかろうとしている君に向かって、僕は飛びついたんだ。やめて、という僕の気持ちが伝わるように、君の体を強く抱こうとして。 最初は腕の中でもがいているように感じたけれど、次第にそれも収まる。そのときはきっと僕の気持ちが伝わったんだ、と思った ――これを外して!! その逆が起こったとしても不思議には思わなかったよ。そう、腕の中から君の気持ちが伝わってきたんだ。 僕が君に身につけさせているものは例のリボンしかない。だから必然的に、外して欲しいものはこのリボンということになる。 でも、あれは、君を長生きさせるための道具だ。外すわけにはいかない。それは君だって知っているはずなのに。どうして君はそんなことを思ったのだろう。 不意に僕の腕の中にあった体温が消えた。 お母さんがイーブイをボールに戻したことで、その日のことは終わりを迎えた。 それでも、僕の心の中では今でも続いている。 君がリボンを外したがっていることを知った。それはつまり、誰よりも進化できないと言われている君が、誰よりも進化したがっているということだ。 それを知った上で、僕はどうすればいい? もう一度君の気持ちを聞こうにも、僕はあの日以来、君の気持ちを聞くことはできなくなったんだ。 君のことがよく分からない。そんな感覚は初めてだった。
*
その日から、僕には苦悩の日々が続いた。考えれば考えるほど深みにはまっていく不快感。そう、三つ目の運命の日は僕を最悪の方向へと導いていったんだ。 君は進化したらほぼ間違いなくその生を終える。それはポケモンセンターの職員が言っていたことだから、多分間違いはないんだろう。万に一つ、死なないとしても後遺症は残ると聞いていてね。どうしても、僕は進化させたくなかったんだ。 ――ああ、そうか。 そこで気づいてしまったんだ。僕はとんでもない間違いをしているんだって。 だって、ほら、もし君が自然の中で生活していたとしたら自然に進化するだろう? それを止める人は誰もいない。君の意思だけで進化できる。 なのに、どうして僕らは君の進化を止めているんだ? それは僕らの勝手であって、君の迷惑にしかなってないんじゃないか? そう、僕はエゴの塊だったんだ。君の進化を止めているのは、僕が君を失いたくないと思うからだ。その気持ちが、君の進化への渇望を押さえつけている。 なのに。そう分かっていても、僕は君を束縛し続けたいと思ってしまった。 そのことは、このときも君に話したと思う。包み隠さず、僕は全てを君に打ち明けたんだ。そして驚かされた。 僕の自己中心的な考えを、君は文句を言わずに受け入れてくれたんだ。諦めたような表情でではなく、ちゃんと納得したような表情で。 情けないけど、僕には君が何を考えているのか、全くわからなかった。あれだけ進化したいと思っているのに、僕の独りよがりな気持ちだけで押さえつけても、反発しない。 悔しかった。理解できない自分が悲しかった。しかも、それを知る術を僕は持っていなくて。 君の気持ちを知らないまま、僕は平凡な日常を続けることを選んだ。
*
最後に四つ目の運命の日の話をしよう。 たった三日前に起こった運命的な出来事。そして、その運命は今もまだ続いている。 それは太陽の光すら出ていない早朝のことだ。君が布団の中で呻き声を上げていたんだ。嫌な予感が脳裏に浮かんだよ。 体が弱いということは、普通のポケモンなら無害なものでも、有害になるかもしれないということ。例えそれが他のポケモンにとっては有益であるものでも。 つまり、君にとってポケルスの感染は死を意味していた。 ポケルスは一週間のうちに罹る可能性は無きに等しい。でも、十数年も過ごしていればその確率は徐々に上がっていく。だから、僕の物分りが良くなった頃に、ポケルスの危険性についてポケモンセンターの人から教えてもらった。 ポケルスはポケモンの成長を促す。基本的には無害のものだ。今の科学ですら、その仕組みはよくわかっていない。無害だから研究もされていない。 だから、予防法なんてものはなかった。君の運命を信じることが、僕にできる精一杯のことだった。 一瞬にして頭の中がポケルスのことで覆い尽くされた。 まだ、でも、ポケルスを患ったと決まったわけではない。もしかすれば、風邪か何かの初期症状という可能性だってあるんだ。そうだ、きっとそうに違いない。 君をポケモンセンターに連れて行く。君が風邪でもポケルスに感染していても、僕にできることはそれだけだ。
*
それから三日経った。けど、未だに僕はその真実を受け入れられていない。君がもうすぐ死んでしまうという、その残酷な運命を。 長い昔話を終えて、僕はふうと一息つく。君はその間、黙ってそれを聞いてくれた。 そう、いつだってそうだ。君の方が僕よりも大人だよ。進化したい気持ちがあったって、それを隠してしまえる。自分がもうすぐ死ぬと分かっていても、僕の昔話に耳を傾けてくれる。 どうしてそんなに大人になれるんだ。どうしてこんなにも、僕に優しいんだ。 「ありがとう」 こんな情けない人の下でずっと生活してくれて。 僕にはそれを伝えることしかできない。十数年の間で何度言ったかもわからないようなセリフしか君に渡す言葉がない。もう、本当に情けない。 君の顔を見た。衰弱しきっていて、もう夜を越すことはできないと医者に通達されていた顔。そのはずなのに、なぜか表情には笑みが浮かんでいて。 ――ああ、最後まで君は僕よりすごいんだなあ。 だからこそ。 君の願いを一つ、最後に叶えてあげたい。 「首のそれを、外そう」 少し驚いた表情になったあと、君は僕に笑いかけてくれた。きっと僕が考えていることを察してくれたんだ。 十数年間、一度も外すことがなかったそれに手をかける。そのリボンには思い出が詰まっているような気がした。 土砂降りの雨が降っていた日に僕らは出会って。 お父さんとお母さんを説き伏せた日に君を迎え入れて。 君の強さに嫉妬しちゃうような日もたくさんあった。 それでも、君と過ごす日々が楽しくて仕方がなくて。 全部、全部、ありがとう。 汚れて硬くなっていた結び目をどうにか解いて、そのリボンをバッグに入れる。それと同時に、僕は三つの石を取り出した。 「好きなのを選んでね。触れたら進化できるから」 僕が取り出したのは炎のように燃え上がる石と、水の流れを閉じ込めたかのような石、それに稲妻を閉じ込めたかのような石の三つ。イーブイならどの石を選んでも進化できるはずだ。 そして、君が選んだ石は――。 *
眩い光。それは生のエネルギー。神秘的なそれが病室を覆い尽くす。 僕は放心していた。そうしているうちにも、君のエネルギーは空気中に拡散していく。命が、放たれていく。 あれだけ弱っていた君がこれだけの力が発していることに、僕は驚いていた。ただ純粋に、すごいと思った。この中で進化が行われているんだ。 溢れ出る生の中で、どうしてか僕を呼ぶ声が聞こえる。 ――あの日、わたしを助けてくれてありがとう。 それは、紛れもなく、僕が君を強く抱いたときに聞いた声で。 ――それだけ、伝えたかったの。 その二言で声は途絶えた。 「待ってくれ!」 もう声が続かないのは分かっていた。だから、命の光が消えるまではそれを静かに見届けるつもりだった。なのに、なのに声が溢れて止まらない。 声が枯れて言葉を発せなくなった頃に、病室を覆っていた光が収まる。 その中では。 紫の体毛に包まれた君が、安らかな表情を浮かべてその命を終えていた。
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【テーマB:石】イワガミ様の伝承 ( No.9 ) |
- 日時: 2013/11/17 21:12
- 名前: レギュラス
- それははるか昔から存在していた。洞窟の奥深くにそれはいた。誰にも知られることなく、ただそこに立ち続けていた。
そこは暗く、深く、生物の気配もなく、ただ沈黙で満たされていた。それの周りには闇と静寂だけがあった。そこに光が差すことなどないはずだった。そこに音が響くことなどないはずだった。 それは眠り続けていた。何を待つでもなく、目覚めることもなく、存在することだけを目的としているかのように、そこにいた。 その洞窟に、ゆらゆらと影が揺れた。ほとんど光のなかったそこには影も生まれるはずがなかった。しかし、今は確かに影があった。そう、光が影を生み出したのだ。 カタン、カタンと洞窟の中に音が反響した。生物のいなかったそこには音を生み出す者もいなかった。しかし、今は確かに音が響いていた。そう、生物が音を生み出したのだ。 それは揺らめく光を感じ、息づく生命を感じ取った。それは合図のようなものだった。はっきりとした目的も意義もなかったかのようであったそれは、光と音の刺激を受けて深い眠りから微睡みへと移行した。 ゆらゆらと不安定に揺れる光が近づいた。カタン、カタンと規則正しい音が近づいた。それの前で、光は揺れるのをやめ、音は響くのをやめた。その主は一人の人間と、一匹の獣だった。 それの姿を、洞窟に持ち込まれた炎が照らしだした。人間は小さく、悲鳴を漏らした。その声が、光にかき消された闇と、音にかき乱された静寂の中を漂って消えたとき、それは永い眠りから目覚めた。
ざ り ざざざ…………。
男はやらねばならぬことがあった。それは早急になされる必要があった。男は家族と、友人と、隣人とを守りたかった。男は昼も夜も、どのようにそれをやるのか、考え続けた。そして、一つの案を思いついた。 男は急いでいた。男は直ちにその案を実行に移すことにした。男は洞窟の存在を知っていた。それはウロと呼ばれていた。村人は皆その洞窟の存在は知っていた。だが、誰もそこには近づこうとはしなかった。なぜなら、その洞窟の入り口は大きな岩で封印されていた。その岩は苔むして、まるで開闢の時からそこにあったかのように厳かに存在していた。だが、誰かがそこにその巨岩を置いたのだ。遠い昔に、その必要があって。 村では、その洞窟の奥には魔物がいるとうわさされていた。魔物が出てこられないように岩で塞いでいるのだ、と吹聴する者がいた。しかし、本当のところは誰も知らなかった。村の長ですらわからなかった。ただ、その封印を解いてはならない、とだけ言い伝えられていた。 そうだとしても、男はそうせねばならぬと言った。そうする以外に手段はないと男は思っていた。村の長は危険すぎると男を止めた。男は、どんな恐ろしいモノが中にいたとしても、村の外を覆う恐怖よりはましだろうと言った。男の勢いに、長はうなずくほかなかった。
村は山間にあった。周囲を山に囲まれた窪地は、もしも上空から見下ろしたなら、まるで地上にぽっかりと空いた穴のように見えた。村の外との交流はあまりなかった。年に数回、物々交換のため、村の若者が山を下りることがあるばかりだった。だから、村人たちは外の変化に気付かなかった。 だがある時、村に一人の男と、一匹のポケモンが逃げ込んできた。男は傷だらけだった。誰が見てももう助からない傷だった。どうしてこんな深い傷を負ったのかと問う長に、男は答えた。村の外で大きな、恐ろしい戦いがあった。自分はそのために負傷した。 村人たちにとって、戦いなど聞き慣れぬ言葉だった。驚いた村人たちに、瀕死の男は言った。いつここも攻撃を受けるかわからぬ、用心せよ、と。男はそれきり、村人たちの問いには答えず、最期に自分のポケモンの世話を頼むとだけ言い残して息を引き取った。 その男は村人ではなかったから、共同の墓地には入れられなかった。村人たちは彼の遺体を村はずれに穴を掘って埋葬した。小さな墓標が建てられ、わずかばかりの花が手向けられた。男を弔った後で、村人たちは途方に暮れた。 なぜ戦いが起こったのか、なぜこの村までも襲われるのか、村人には見当もつかなかった。推論するには情報が少なすぎ、村人たちは純粋すぎた。誰かが、状況を確かめるべきだと言った。それは賢明な意見に思えた。すぐに、村の若者が山を下りた。村と唯一交流のあった里ならば、外の様相を知ることができるはずだと、誰もが思っていた。 数日後、村を下りた若者たちのうち、数人は戻ってきた。いくらかは戻ってこなかった。戻ってきた者のうちの二人は、酷い怪我をしていた。彼らは何の情報も手に入れることはできなかった。彼らは山を下り、ふもとの里へたどり着いたところでいきなり矢を射かけられたと語った。それはよく知っていたはずの里のものではなかった。里の者たちは突然現れた若者たちの姿に恐怖し、武器を取り出しポケモンをけしかけてきた、と戻った者は言った。瞬く間に数人が殺され、残った者は命からがら逃げだした。言葉を交わす暇もなかった。彼らが聞いたのは、里の者の怯えた叫び声だけだった。 村人たちは困り果てた。外で尋常ではない事態になっているらしいということだけがはっきりしていた。同時に、死んだ男は気が狂い、妄想に取り憑かれていたのではなかったことが証明された。男が口にした、いつこの村も襲われるかわからない、という言葉が村人たちに重くのしかかった。できれば信じたくなかった可能性だった。 戦いを知らぬ村人たちに、外敵から身を守る術はなかった。村に、里で見たような武器はなかった。ポケモンはいるにはいたが、戦闘用ではなくもっぱら生活の手伝いをする、いたって穏やかなポケモンばかりだった。このまま攻撃を受ければみな殺されることは明白だった。実りのない会議が続いた。時間だけが過ぎていった。 男は終わりのない会議に飽き飽きして、会議を抜けた。男は自分がやらねばならぬと思った。山間の村に逃げ場はなく、身を寄せるべき他の村もなかった。男は、隠れる場所を求めた。あのウロならば、村人が隠れるのに十分な広さがあるはずだ、と男は考えた。だが中に入るにはあの苔むした、大きな岩を取り除く必要があった。人間の力をいくら合せても、あの岩がびくともしないことは男にもわかっていた。だが、男には一つの算段があった。
男は村はずれへと歩いて行った。小さな石の前にすっかり枯れた花が残っていた。その墓ともいえないような墓の前で座禅を組む、一匹のポケモンがいた。死んだ男が連れていたポケモンは小さいながら、人間とよく似た姿をしていた。男は、ポケモンは身なりは小さくとも人間をはるかに上回る力を発揮することを知っていた。 男は墓の前に散らばる花を掃除した。ポケモンは警戒するようなそぶりを見せながらも、それを黙って見ていた。男は新たな花を手向け、菓子を墓前に供えた。男は墓に手を合わせた。冥福を祈るため、そして死んだ男への感謝だった。偶然とはいえ外の状況を知らせてくれた。そしてこのポケモンを遺してくれた。 手当ての甲斐もあって、ポケモンの傷はもうすっかり回復していた。男はポケモンに頭を下げ、頼んだ。ポケモンは首を縦に振った。 そのポケモンは予想以上の力を発揮した。戦うために鍛えられたポケモンの筋力は、巨岩の年月の重みを動かしてみせた。一日がかりになるかと思われた、ウロを塞ぐ巨大な岩を取り除く作業はほんの数十分で終了した。深いウロの入り口が、ぽっかりと開いた。だが、男のすべきことは入り口を開けることだけではなかった。男はウロの奥へと足を踏み入れた。魔物などいないと、証明せねばならなかった。 男は用意した松明を掲げた。洞窟の空気はひんやりと湿っていた。男の履きものが、歩くたびにカタン、カタンと音を立てた。たいして大きな音でもないのに、その音は洞窟内にやけに響いた。ポケモンは、足音を立てなかった。松明の明かりがゆらゆらと揺れた。それに合わせて、男の背後の影も揺れた。ふと、いるはずのない、男自らそう思っていた魔物が背後にいる気がして、男は時折振り向いた。 常に何者かの気配があった。周囲の空気は男に重くまとわりついた。洞窟の中は寒いほどだったのに、男はいつしかじっとりと汗をかいていた。男はひたすら歩き続けた。歩くことに集中することで、何も感じないようにした。そうしなければ押しつぶされそうだった。 そうして、果てしない時間のあと、男はウロの奥にまでたどり着いた。その壁に、何かが刻まれていた。それはとても古く、文字のようなものであったが、かすれてしまい男には読めなかった。 男は脱力したように軽く笑い、引き返そうとした。ふとポケモンの方を見やると、ポケモンは体をぶるぶると震わせ、ひたいに脂汗を浮かべていた。ポケモンの視線の先に、何かがあった。男はそれを大きな岩だと思った。だが違った。男が松明を掲げると、それの姿が照らしだされた。男はそれを見て、小さく悲鳴を上げた。
ざ り ざざざ…………。
それは動き出した。積もり積もった埃や砂が、それから零れ落ちた。それは何とも名状しがたいものだった。岩でできた、人の形というにはあまりにも不格好な姿が恐怖をもたらした。男はポケモンとともに走り出した。男の理性を吹き飛ばすだけのものが、それにはあった。それはなぜか、男とポケモンのあとを追うかのようにずし、ずしと音を立てて「歩いた」。それには足のようなものがあったが、男はそのことに気付く余裕もなく逃げた。松明も放り投げ、ヒカリゴケが放つ弱い光だけを頼りに男は走った。 あれほど時間をかけて歩いたはずの距離を、男とポケモンはあっという間に走り抜け、ウロの外へと転び出た。やや遅れて、ずし、ずしという地響きがした。男もポケモンも限界であった。彼らは逃げる気力も失ってその場にへたり込んでいた。そして、それが太陽の光のもとにその姿を現した。それは眩しそうにするでもなく、砂となって崩れ落ちるでもなく、また男とポケモンを襲うこともなかった。それはそのまま歩き続け、男とポケモンの前を通り過ぎた。男とポケモンは、放心してそれの後ろ姿をただ見送るばかりであった。村の方から悲鳴が聞こえた気がした。 どれくらいの間そうして座っていたのか、男には分からなかった。だが、擦り傷だらけの足は折れたわけではなく、その気になりさえすれば歩くことはもちろんできた。男はふらふらと村へと戻った。ポケモンは再び村はずれの墓の前で足を組んだ。 男は、岩でできたなにかが村を破壊している光景を見るとばかり思っていたが、実際はその想像とはかなり異なっていた。崩れた家屋も倒れ伏した村人もいなかった。代わりに、村の中央の広場に腰を下ろしたそれがあった。動きを止めたそれはまるで奇妙な彫像のようであった。それは二本の巨大な腕のようなもの、足のようなものを備えていたから、岩の巨人とも見ることはできた。男は、他の家と同様に、やはり壊されていなかった我が家に帰り、そのまま寝床に倒れこんだ。
翌日も、その翌日も“それ”はそこにあった。動き出したのが嘘だったかのように、身じろぎ一つしないまま、それは村のど真ん中に陣取っていた。村人たちはそれをおそれた。それは見るだに恐ろしく、それでいて畏れをも持ち合わせていた。不気味でありながら、不可侵でもあった。それは瘴気を放っている、という者がいた。それから後光が差している、という者もいた。邪なるものなのか、聖なるものなのか、論争は終わらなかった。前者は家の戸を固く閉じた。後者は毎日のようにそれを拝んだ。ある者は魔物を連れ出した男を罵った。ある者は神を連れ出した男を敬った。ただ一つ共通していたのは、皆がそれをおそれていたということだった。 一方、男は“それ”の正体を調べていた。魔物のいるウロになど恐ろしくて入りたくない、神のいるウロには畏れ多くて入れないという村人がいたためだった。男はさしあたって、名前のないそれを“それ”と呼ぶことにした。“魔物”とも“神”とも呼びたくはなかった。そんなものを自分が解放したとは思いたくなかった。 男は再び、あのポケモンを連れてウロへと入った。ウロの奥に刻まれた謎の文字を解読するつもりだった。奥に“それ”がいない、と思うだけで気持ちが楽だった。 ウロの中を歩くうちに、男は初めてここへ来たときは気付かなかったことに気付いた。ウロの中には生物の気配がまったくしなかった。男と、男の連れたポケモンを除けば、動くものは一切なかった。それが意味することを、男は初め、“それ”がすべて食らいつくしたのではないか、と思った。しかし、“それ”が何かを食べている様子は想像がつかなかった。実際、男の知る限り“それ”はここ数日村で何かを食べた様子はなかった。男はまた、“それ”が瘴気ではなくとも、なにか生物に害のあるものを出しているのではないか、と考えた。だが、そんなものがこのウロの中に充満しているなら、自分もこのポケモンもとっくに倒れているだろう、と男は思い直した。 最後に、男は結論にたどり着いた。ポケモンたちは皆、“それ”を恐れて近寄らなかったのだ。 男は不意に寒気を感じた。ウロの空気が冷たいせいだ、と男は思った。
男は村へと戻った。結局あの文字は読めなかった。文字がかすれていたせいもあったが、それはどうも普通の文字ではなく、暗号めいた点字だったのだ。 村の中央には相も変わらず“それ”がそびえたち、一部の村人たちがそれを拝み、奉っていた。“それ”の前には供え物の団子やら饅頭が積まれていた。彼らは“それ”に石神(イワガミ)様という名をつけていた。男が何をしているのか、と問うと、救いの神に村を守っているようにお願いしているのだ、と彼らは答えた。男は何も言わなかった。 男がウロに言っている間に、村からはひと気がなくなっていた。“それ”を戦乱よりも恐れる者たちが、荷物をまとめ他の村へと逃げ込んだ後だった。他の村へ行けば殺される可能性もあった。それでも彼らは村を去った。その多くが、体力のある男だった。残った者のほとんどは山を下りる体力のない、女子供と年寄りだった。男は己を呪い、“それ”を呪った。男のしようとしたことは裏目に出た。外からの攻撃を待つまでもなく、村は崩壊してしまっていた。そしてその原因の一端を担ったのは間違いなく男自身だった。 村に残ったわずかな男と、女子供、年寄りたちは“イワガミ様”を崇め続けた。供え物の数は日に日に増え、うずたかく積み上げられていた。村人たちにできることはもう、祈ることだけだった。 男は毎日酒を呷っていた。村の長が男を訪ね、古びた紙切れを置いていった。男は見向きもしなかった。いまさら“それ”のことを知ったところで、どうすることもできなかった。それでもときどき、ウロの壁には何が刻まれていたのだろう、と男は考えることがあった。だが男にはもう、ウロに入っていくだけの気力は残っていなかった。村はもう、全滅を待つばかりだった。攻められるが先なのか、食料が尽きるのが先か、どちらでもいい、と男は酔った頭で思った。
どん、どんと騒々しい地響きが村の外から聞こえてきた。“それ”の足音ではなかった。“それ”の足音はもっと不快な、鳥肌の立つようなものだった。だからこれは、攻めてきた敵軍の足音だろう、と男は思った。遂にその時が来たのだ。 最期に飲もうとした酒はとっくに尽きていた。仕方なく、男は村の最期を見届けようと家を出た。ふと、あの死んだ男のポケモンはどうしているのだろうと思った。やはり殺されるのだろう、とも思った。 広場の中央には姿勢一つ変えずに“それ”が陣取っていた。周りに信者たちはいなかった。供え物の団子も饅頭も黴が生え、腐っていた。男は乾いた笑い声をあげた。 音はますます大きくなっていた。戦闘用に鍛えられたポケモンの雄叫びを聞き分けられた。軍勢が視界に入っても、なお男はへらへらと笑い続けていた。 宙に舞う竜に乗った者がいた。ぎらぎらと赤い鋏を振りかざした虫、胸から果実を生やした獣、鋼の化け物、大きな口を開けた怪獣、たくさんのポケモンがいた。そんなに大挙して現れずとも、この村を踏みつぶすには十分だった。抗う者もいない、あるものと言えば動かない岩の塊があるだけのこの小さな村を滅ぼすには、あのポケモンたちのうち一匹でもいれば事足りただろう、と男は思った。 軍の先頭には見知った顔の男がいた。だが、かつて同じ村に住んでいたその男の名前を、男は思い出せなかった。名前のわからぬその男は、意気揚々として軍の指揮官らしき、髭を生やした男に話していた。名を知らぬ男は、“それ”を破壊してほしい、と言った。そしてその男はあれほど恐れていたはずの“それ”へと歩み寄った。彼は供え物の腐った饅頭を拾い上げると、“それ”に向けて投げつけた。饅頭は“それ”に命中し、音を立ててつぶれた。彼は笑った。男は笑うのをやめた。男は自分の体ががたがたと震えるのを感じた。 男は、ひんやりと冷たい空気を感じた気がした。
ざ り ざざざ…………。
ぐしゃり、と饅頭がつぶれたような音がした。昔村を出て行った男は、自分の村に帰って死んだ。男は、その男の名を最期まで思い出せなかった。 “それ”が動き出した。村の広場に黙って鎮座して、動くことのなかった“それ”は、いまやその大きな腕らしきものを無造作に振るっていた。軍勢はみな、なにか喚き散らしているようだったが、男には聞き取れなかった。彼らはめいめいのポケモンで“それ”を攻撃した。“それ”の体から、ぼろぼろと岩石が崩れ落ちたが、“それ”は一向に気にする様子もなく、ただ腕を振り回しては軍勢をポケモンも人も屠っていった。男はそれを黙って眺めていた。ポケモンの悲鳴、人間の叫び声は次第に小さくなっていった。まるでそうすることしかできないように、男は震えていた。 たくさんの人とポケモンが斃れたあとで、遂に、生き残りの軍勢は退却を始めた。統率を取る者はおらず、それは退却というより逃走だった。すると、“それ”は大きな光を集め、彼らに向けて放った。閃光が走り、男はたまらず目を閉じた。目を開けた時には、そこには人もポケモンの姿もなく、抉れた地面だけがあった。男は嘔吐した。 軍勢を残らず抹殺すると、“それ”はゆっくりと移動を開始した。歩くたびに、ぼろぼろと小石や砂がその体から落ちた。“それ”は戦いで酷く損傷していた。男はよろよろとその後に続いた。何も考えはなかったが、“それ”がどこへ行くのか見届けようと思った。“それ”は村はずれの方角を目指しているようだった。 墓の前で、あのポケモンはいつも通り足を組んで座っていた。ポケモンは“それ”の姿を見、静かに男のあとをついてきた。歩くうち、男は“それ”がどこを目指しているのか見当がついた。ウロだ。“それ”はウロへ戻ろうとしていた。“それ”はゆっくりと歩き続けた。ウロにたどり着くと、男の予想した通り、“それ”はウロの中へと入っていった。ざ、ざという音、カタン、カタンという音がウロに響いた。奇妙な行列は三者ともに無言だった。 ウロの一番奥、“それ”が元々いたところで、“それ”は手近な岩を拾った。男とポケモンが見守る中、“それ”は拾い上げた岩を自らの体につけ始めた。“それ”は自らの体を修復していた。半刻もしないうちに、“それ”は元通りになっていた。元の姿に戻った“それ”は、男が初めて“それ”を発見した時と同じ姿勢で動きを止めた。“それ”はまた長い眠りについた。 男はふと、村の長からもらった紙切れを取り出した。受け取ってから懐に入れたままだった。ヒカリゴケの薄明かりで、男はそれを読んだ。それは点字の読み方だった。 男は刻まれた点字をしばらく眺めたのち、“それ”に背を向けた。
長い長い時の間に、何もかもが忘れさられ、風化し、消えてゆくだろう。それでも“それ”は眠り続ける。それは永遠のポケモンだから。いつまでも、誰かがまた偶然にそれを発見するまで。そしてその誰かは壁に記されたあの点字を目にするかもしれない。そこに記されているのは悔恨と、謝罪の念。村を守りし者への懺悔の言葉。
男はウロをあとにした。陽射しがまぶしかった。男はポケモンに頼み、再びウロの入り口を封鎖した。“それ”はまた封印された。 あてもなくとぼとぼと歩くうち、言葉が口をついて出た。それはあの壁に刻まれた言葉だった。
わたしたちは この あなで くらし せいかつ し そして いきて きた すべては ポケモンの おかげだ だが わたしたちは あの ぽけもんを とじこめた こわかったのだ ゆうき ある ものよ きぼうに みちた ものよ とびらを あけよ そこに えいえんの ポケモンが いる
点字を読んだ今でも、“それ”が何を考えて行動していたのか、男にはわからなかった。わかったのは、あれが神でも魔物でもなくポケモンだということだけだった。 男は空を見上げた。もう少しだけ、ポケモンに貰った命を生きてみるのも、悪くは無いような気がした。
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進化のキセキ ( No.10 ) |
- 日時: 2013/11/17 23:02
- 名前: 穂風湊
- テーマ:B「石」
「進化不全……ですか?」 ジョーイさんの耳慣れない言葉に、サキはオウム返しに訊ねる。診察してもらったばかりのリザードも、よく状況が飲み込めずにジョーイさんを見上げていた。 「その名の通り、進化が止まってしまう症状よ。稀に報告されるのだけど、原因がわからなくて……治療法もまだ見つかっていないの」 「じゃあ私のリザードは……」 「ごめんなさい、私の手じゃどうしようにもないわ」 申し訳なさそうにジョーイさんが謝る。 「いえ……ジョーイさんのせいじゃないので、そんなに謝らないでください」 そうは言ったけれど、このやるせなさをどこにぶつければいいのか。その相手がジョーイさんにならないうちに、サキは一礼すると、リザードを抱えカウンターを後にした。
何かがおかしい、そう思い始めたのは数ヶ月前のことだ。同じ時期にポケモンをもらい、旅に出た友人は皆、パートナーを最終進化まで育てたと携帯に連絡が入ってきていた。なら自分もそろそろ、そうサキは期待していたけれど、数週間待っても、数ヶ月経っても進化の兆しは全く見られなかった。 トレーニングは怠ってないし、個体差があるにしても、もうすぐ一年が経とうとするのは遅いのではないか。 そう思いジョーイさんに事情を説明し、リザードの診察をしてもらうと、結果が先のように出たのだった。 進化不全、治療不可。四字の言葉が頭の中で反芻される。 サキは逃げるような足取りで出口へ向かい――誰かに呼び止められた。 「おーい、そこのお嬢さん。ちょっとお話いいかな?」 声がしたのはポケモンセンター併設のカフェテラス。そこから一人の男性が手を振っていたのだった。背は高く、髪は癖毛。白衣に身を包み、研究者のようだ。 軟派の類だろうか。サキは怪訝な顔をして、再び出口へつま先を向ける。もともとそういうのは相手にしないのに加え今はこんな気分だ。男性とお茶しようなんて考えられない。 「あー待った待った! 君と雑談するために呼んだんじゃないんだよ。君のリザードのことなんだ!」 慌てて席を立って呼びかける男性の言葉に、サキは耳を傾ける。「リザードのこと」とは何なのだろう。 男性はサキの所まで歩み寄ると、一枚の名刺を差し出した。 「自己紹介を先にすればよかったね。僕はプラターヌ。カロス地方でポケモンの研究をしているんだ。このカントーでいうオーキド博士みたいな感じさ」 受け取った名刺には確かにそう書いてあった。カロス地方、ここからかなり離れた場所だ。そこの博士が一体何の用なのか。 「そうだね――立ち話も疲れるし、座って話そうよ。紅茶でいいかい?」 「えっと……はい」 流されるままにサキはプラターヌの向かいの席に腰を下ろす。 腕の中では、リザードが相変わらず不思議そうな顔でサキを見上げていた。
「僕は進化の研究をしていてね。今回はカントー・ジョウトでもイーブイがリーフィアやグレイシアに進化出来るか調査しに来たんだ。進化に必要なのはその地域の気候なのか、またはある物質なのか」 「進化……ですか」 「そう。ポケモンの進化は無限の可能性を秘めているからね。新たに進化の経路が見つかったり、進化を越えるメガシンカが確認されたりと、まだまだ研究することはいっぱいだよ」 「メガシンカ?」 その言葉は聞いたことがなかった。普通の進化とは違うのだろうか。 「トレーナーの心と強く反応して起こるみたいなんだ。メガストーンというのが必要条件らしいけど、それについてもまだ詳しくは解明されてないし、進化はまだまだ奥が深いよ――と話がだいぶ逸れたね。じゃあ本題に入ろうか」 エスプレッソを一口啜ると、プラターヌは話を続けた。 「さっき君とジョーイさんの会話が聞こえてきてね。何か助けになれないかと思ったんだ」 「けど、治療法が見つかってないって……」 「一つ試してみたい事があるんだ」 そう言ってプラターヌは脇に置いてあった鞄を膝の上に載せると、中から一つの小さな箱を取り出した。 博士に促されサキは箱の蓋を持ち上げる。 そこには丸い黒の石が入っていた。丸く磨かれていて、周囲の光を反射している。 「これは……?」 「進化のキセキといってね、カロス各地の洞窟で偶に見つかるんだ」 「『しんかのきせき』ってあれですよね」 進化の可能性を秘めたポケモンに持たせると耐久が上がる不思議な石。それが進化不全の治癒とどう関係するのか。これを持たせて、進化しなくても長所はあると慰めるわけではないだろう。 「カロスの石は特異なパワーを持っていると昔から言われているんだ。これもその一種でね、古い文献にこれが治癒法として使われていた例があるんだ」 「『しんかのきせき』なのに、ですか?」 「うーん、同名だけどそれとは異なるものだと僕は考える。現に「キセキ」がどういう意味なのかまだわかっていないんだ。「輝石」なのかもしれないし「貴石」とも考えられる。はたまたもっと違う意味かもしれない」 だからもし何も頼るものがなければ、試してみてくれないかな。そう言ってプラターヌはサキの方へ箱をそっと押した。石を手に取り、もう一度よく眺めてみる。 黒曜石に似た吸い込まれそうな漆黒の色は確かに何かの力を秘めていそうだ。相手も危ない人ではなさそうだし、信じてみるのも悪くない。そう決めると、サキは紐でリザードの首に通してあげた。リザードは爪の先で石をとんとんと叩き首を傾げる。 「あの、お礼は……」 「いいよいいよ。成功するかどうかわからないし。連絡さえしてくれれば大丈夫。それじゃあ君たちの成功を祈ってるよ」 プラターヌに送られて、サキとリザードはポケモンセンターを後にする。 「後は彼女たち次第かな。進化の方法は強さだけじゃないからね」 残りのカップを飲み干して、プラターヌはふうと息をつく。 「成り行きで研究材料渡しちゃったけど、助手達に怒られないかなあ……」 その先のことは考えたくなかった。
プラターヌとの会話から数週間が経ち、そして一ヶ月が過ぎてもリザードに変化は見られなかった。変わった点といえば、リザードの耐久が上がったこと。けれどそれは「しんかのきせき」本来の効果であり、進化が出来ない現実を間近で突きつけられるようでいい気分はしなかった。 しかしそれに代わる案は一つも知らない。だからこれに頼るしかない。そんな皮肉的な状況ができ、心に負担を与え――サキは負の循環に陥っていた。 旅をしていても勝負をしていても、前のような興奮を得られることが出来ない。魅力を感じなくなっていた。 「ねえリザード」 「?」 手頃な岩に腰掛け、リザードを膝に乗せてサキは言う。 「帰ろっか」 もう疲れたの。だから帰ってゆっくり休もう。優しく頭を撫で、サキはリザードの答えを待つ。 リザードは振り返り、サキの顔を見上げ――静かに頷いた。それは旅立ちの時のサキの面影を残さない表情だった。希望は天に吸い取られ、興味心は既に燃え尽きていた。そんな表情、見たくなかった。 サキがこうなってしまったのは僕のせいなのか。 リザードは思案する。 僕が進化さえ出来ればサキはこうはならなかった。なら僕がいなくなればサキは元に戻るのだろうか。……いやそれはない。そうだとしたらとっくに見限られているはずだし、しんかのきせきを持たせ続けたりはしないだろう。 結局の所、こちらもまた皮肉なことに、サキの側にいて彼女を悩ませることでしか、サキを安定させられなかった。 旅を止めよう。 そうと決まると後は早かった。 乱雑に荷物を鞄の中へ突っ込むと、地図と方位磁針で向かう先を確認。自宅を目指しサキとリザードは足を進めていく。 故郷へ至る道には二つあった。一つは険しい山を越える近道。もう一つはかなり遠回りとなってしまうが安全な迂回路。普段なら迂回路を選んだけれど、サキは迷わず真っ直ぐ進んでいった。もう早く投げ出したかった。 急な坂を上り、不安定な岩道を乗り越え、崖に接した狭い道を抜ける。 道中は互いに一言も言葉を交わさず、聞こえるのは谷を抜ける風の音。そして地響き。 ――地響き? 続いて轟くのは獣の雄叫び。この鳴き声は確か、 リザードが記憶のデータベースを探るのと、その主が姿を現すのはほぼ同時だった。 鎧の巨体、バンギラスが鋭い目つきで見下ろしていた。怒(いか)る瞳に燃えるのは、領地を犯されたと考えたのか、虫の居所が悪いのか。どちらにせよ、臨戦態勢であることは間違いない。 凄腕のトレーナーなら、ここで迎え打ち対処するのだろうけれど、サキの手持ちはリザード一体のみ。相性は悪く、勝てる見込みはあまりない。 「逃げようリザード」 力では負けていても、足の速さなら勝っている。そう考えサキはリザードに声をかけ、来た道を引き返す。 轟音とともに放たれる破壊光線を、身を捩って躱しなんとかやり過ごす。反動でバンギラスはしばらく動けないはずだ。 今の隙に一人と一匹は逃げ出していく。角を曲がればきっと大丈夫、直角カーブを靴のエッジを利かせて岩陰に飛び込んで――足下が大きく揺れた。振り返ってみれば、バンギラスが地団太を踏んでいる。 地震。 追い打ちの一撃に、サキの体は谷底へ投げ出される。下に見えるのは光の届かない暗い闇。あそこに落ちたらどうなるか。直に答えは身を以て知るだろう。 上に取り残されたリザードは顔を乗り出し主に叫ぶ。 もし進化が出来たら。 もし力があったら。 もし翼を持っていたら。 サキを助けたい。これまで描いた軌跡を消させてたまるか! リザードは最後にバンギラスを強く睨みつけると、自ら谷へ飛び降りていった。 この石が進化不全を治す奇石なのだとしたら、その奇跡が今起きなくていつ起きるのか。効果が無いのなら僕達はこれで終わりだ。飛び降りたことは後悔していない。ひとりだけ残されるなんてのは御免だった。ならこのまま終わっていいのか。いや、希望を捨てて死ぬなんて格好悪い。 きっと目を見開きリザードは下を見る。闇底まではまだ距離がある。リザードは胸に提がる「キセキ」を強く握りしめた。固かったはずのそれは、薄いガラス玉のように砕け散り――破片がリザードを取り囲んだ。 カケラの各々が光を放ち、リザードは白に包まれる。 力が溢れてくる。 次に世界が黒に染まった時、リザードは――リザードンは咆哮を上げた。勇ましい呼び声は谷全体に響き渡り、より輝かしくなった焔の尻尾は闇を紅に照らす。リザードンは翼を折り畳み、頭を下にして急降下する。 間に合え。 仄かな明かりの中、サキを探し出す。落下する少女の姿を視認するとリザードンは彼女を追い抜き、体勢を弧状に90度変更する。衝撃を和らげるため正の放物線上にコースを取り、リザードンはサキを背中で受け止めた。 体に確かな重みと温かさを確かめると、新しい両翼で一気に浮上する。 光の世界に入り、崖を超え、雲まで手が届きそうになる。 「ありがとう……よかった……」 背中から聞こえるサキの声に、リザードンは歓喜の炎を空に向かって放つ。
「進化のキセキ」はその身にしっかりと残されていた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
プラターヌ博士へ
博士の「キセキ」のおかげで、私のリザードがリザードンに進化することが出来ました。 ただ、進化の時何が起こったのか、私は気を失っていたのでよく覚えていません。それに石を壊してしまいました。折角大事なものを頂いたのにすみません。協力出来ることなら最大限の力になりますので、遠慮なく言ってください。 今はリザードンと一緒に実家でゆっくりしています。十分休んだら、バトルやジム戦はしばらくやめにして、リザードンと世界を見て回ろうと思います。ふたりで願っていた翼が生え、リザードンもいっぱい動かしたいようなので。 カントーを周遊したら、次はカロスを観光したいと考えているので、その時はミアレの研究所にお邪魔したいと思います。進化したリザードンをぜひ見てください。
P.S. あの時ポケモンセンターで会えたのも「キセキ」なのかもしれませんね。
――サキより
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エネコなんかよんでもこない。 ( No.11 ) |
- 日時: 2013/11/17 22:51
- 名前: 乃響じゅん。
テーマA:輪
建てたばかりの時には真っ白だった壁も、今では大分くたびれている。 あの頃はこの辺りも、開発が始まったばかりのニュータウンだった。白く輝く家、青青と茂る木々の庭。次世代に繋がる家。みな色彩豊かな未来を思い描いてやってきた。だが時の流れとは得てしてそうも行かないものだった。成長の先には、必ず老いがある。若い者たちは就職を機に街を旅立ち、気が付けば歳を取った親ばかりが残っていた。街の姿のように、私もくたびれてしまった。 だが、周囲の年寄りはみな、気だけはいつまでも若いときのままであった。みんなニコニコ、元気である。最たるものは家内だ。私と違って朝早くから習い事に出かけ、起きてみたら朝ご飯と書き置きしかないこともある。私も誘われたが、今のところどれも遠慮している。今さら新しい環境になじめるかどうかという懸念もあるし、妻のようにエネルギーに自信があるわけでもない。どうせやるなら、一つだけをとことん極めてみる方がいいような気がするが、いかんせん周囲には選択肢が多すぎる。どれを選べばいいのか、皆目見当もつかなかった。何事も最初が肝心である。若い頃は仕事と、ほんの少し子育てに関わっただけで、ろくに趣味を持ったこともなかった。いざ初めてみて、もし自分には向いていないと気付いたら。その恥ずかしさに、耐えきれないかもしれない。 「親太郎さんったら、まじめなんだから」 勇気を出して妻に打ち明けてみると、あっけらかんと笑われた。それでヘソを曲げてからというもの、いよいよ誰に相談することも出来なくなってしまった。そうこうしているうちに、妻はどんどん新しい友人関係を構築していく。女というのはどうしてこうどんな所に行っても友好的になれるのか、よく分からない。 三ヶ月くらい、一人で家でゴロゴロするだけの生活が続いた。 退屈過ぎて、退屈という感情そのものを忘れそうだ。まずい。これは非常にまずい。人付き合いややることの一切ない人間が呆けるのは早いと聞く。何か手を打たねばとは思うが、肝心のとっかかりが掴めない。いたずらに、時間だけが過ぎていく。 そんな折、一手は外部からやってきた。 「みぃぁぁん」 妙に甲高い声が聞こえたので、縁側の戸を引き、窓を開けてみる。一匹の小さな、桃色をした猫のような生き物が、目を細めてこちらを見ていた。 ーー猫のようだけど、猫ではないもの。 あまり縁がなかったが、これはもしや、ポケモンというものではないだろうか。えらく派手な模様をした動物、だということぐらいしか知らないが、こんなものがうちの庭に来るとは。もしかして、気付かなかっただけで何度も通っていたのかもしれない。 「しっしっ。こんなところにおっちゃいかん」 こちらを見上げては来るものの、どう扱っていいか分からない。手を振って追い払った。どこかへ行ってくれ。思いが通じたかどうかは分からないが、その猫のような生き物は走り去っていった。
娘が小学生の頃、一度だけ動物を飼っていいかと聞かれたことがある。娘の物言いがあまりに軽いものに聞こえたので、私は思わず全力で反対した。命の重さを知っているのか、最後まで育てきる覚悟はあるのか、と。まるで非難するような口調で、有無を言わさず懇々と説教をしてしまった。今思えば、娘にだって年相応に考えてはいただろうし、飼ってみて初めて分かることもあったろう。あれは今でも、悪いことをしたと思っている。そんなことがあったせいで、尚更生き物を見るのが苦手になってしまった。今も、私は逃げた。あの猫のようなものを追い出すことで、過去から、娘から逃げたのだ。 非常に居心地が悪い。食事をしていても味はよく分からないし、妻の楽しそうな報告も耳に入らない。聞いたふりをするのでさえ億劫であった。妻は自分の何かを察したのか、途中から何も言わなくなった。何もすることがないというのは、気分転換をすることができないということでもあるのだと言うことに、この歳になってようやく気づいた。 夜が明けてもまだ胸のしこりは残っていた。この心地悪さを払拭するには、あの猫もどきにもう一度会うしかないのだろうと思った。起きてみると、丁度妻が朝食を作り終えたところだったので、もくもくといただく。それじゃあ行ってくるからお留守番よろしくね、と言って今日も妻は出かける。ん、と何食わぬ顔で見送る。 ドアが閉まる音がして、忘れものを取りに戻ってくることもなさそうな頃合いを見計らって、縁側にあぐらをかいて庭を睨む。あの猫もどきが来るのを、じっと待つ。 どんと構えてはみたものの相手は生き物、こちらの都合で来られるとは限らない。待ったところですぐに出会える保証はない。時間の流れがとてつもなく遅く感じる。時計を見やると、まだ三十分しか経っていない。テレビでも見ながら見張ればいいのかもしれないが、ちょっと目を離した隙に横切られてしまった、なんてこともあるかもしれない。 あれこれ悩んでいるうちに、一時間が経過した頃。ついに庭の景色に変化が現れた。 左手にある木の間から、桃色の猫もどきが顔を出した。昨日と同じ奴だ、とすぐに分かった。猫もどきは庭を途中まで横断したあと急にこちらを向き、一瞬足を止めた。どうやら私がいたことに今の今まで気がつかなかったらしい。目が細いのでよく分からないが、驚いていたような気もする。そしてそのまま、逃げるように庭の反対側へ消えて行った。 一瞬の出来事で思わず身体が動かなかったが、その姿はしっかりと覚えた。細い目、顔の周りだけ白い頭。大きな耳。猫じゃらしのようなしっぽ。 沸き上がってきたのは、あれはなんという生き物なのだろう、という興味だった。調べてみるか。少し楽しくなってきた。浮き立つ心に従い、一時間ぶりに立ち上がった。 さて、問題はどうするかである。ホコリ除けのカバーを被ったパソコン用の机をちらと見やる。自力では一度も使ったことのない代物だ。娘ならサクサクと動かせるのだろうが、自力ではどうやって電源を入れればいいのか見当もつかない。私はかぶりを振る。何か別の方法を考えなくては。 思いついたのは、図書館に行くことだった。図鑑か何か、調べられそうなものがあるかもしれない。久々に余所行きの格好に着替えて、バスに乗った。これもあまりに久しぶりすぎて、運賃の払い方も忘れかけていた。いざ降りるときに手間取ってしまい、少し小さくなりながら足早にバス停を去る。 さて、気を取り直して、本だ。図鑑だ。 うちの街の図書館は蔵書が少ないと不平が多いらしいが、それらしいものがあることを祈る。 「すみません、ポケモンが載ってる本か何かってありますかね」 受付の若い女性に聞いてみると、妙に間延びした感じの声が返ってきた。 「ポケモンの本ですかぁ……どんな感じですかね」 「とりあえず格好と名前が分かる……ああ、図鑑みたいなのがあればいいんだが」 「分かりました、少々お待ち下さいね」 その声とは裏腹に、パソコンを打つ手はてきぱきとしている。場所はすぐに分かったらしく、彼女はすぐに私を案内してくれた。
ポケモン図鑑と題のついたハードカバーの図書が六巻。この欄の本は、どうやら持ち出し禁止らしい。本棚からごっそり引き抜き、机に並べて一つ一つ調べた。量の多さにうんざりとしたが、やらないことには始まらない。それらしきものが見あたらなければ、適当に飛ばせばいい。諦めて最初のページを開き、読んでいく。ポケモンは研究所が決めた独自の番号に従って並べてあるようで、蜂が来たと思えば鳥類、次は鼠、そうかと思えばまた鳥類と、何だかよく分からない。似たような姿で纏められている訳でもなく、当たりをつけることが出来ないので仕方なく一つ一つ、お目当てのものらしきポケモンを探していく。猫のようなポケモンは何匹か見つけたが、どうも違う気がする。何度か立ち止まり、また指を進めていく。 三巻の真ん中辺りで、ようやくそれらしきものを見つけた。見たものより少し身体は大きいが、おおよそのところは合っている。ピンク色の身体。細長い目。猫じゃらしのような尻尾をしたポケモンだ。 「こいつだ」 名前はエネコと言うらしい。 エネコ、か。久しぶりに目を使いすぎたものだから、ふらふらした。だが、何とも言えない充実感があった。そうか、エネコか。私は図鑑を戻し、軽い足取りで帰りのバスに乗り込んだ。思わず鼻歌まで出た。そうか。エネコと言うのか。
「親太郎さん、今日は何だかご機嫌ですねぇ」 夕食を食べながら、妻は言った。 「そうか?」 「何かいいことありました?」 「いや」 「うそ」 「ない」 妻には内緒にしようと思った。妻には妻にだけの付き合いがあるのだから、私には私だけの付き合いがあってもいいはずだ。
次の日は、起きたら妻はいなかった。机の上には朝食が、台所の上には昼食が置いてある。行ってきます、との書き置き。朝食は焼き魚だった。メモを避けて、さあ食べようと思った矢先、庭に黒い陰が見えた。たった一日で、すっかり庭の様子に敏感になってしまったようだ。 私は来客を驚かせないよう、ゆっくりと窓を開けた。だがそこにいたのは、エネコではなかった。紫色をした耳の長いポケモンが、こちらを見上げている。 「なんだ、エネコじゃないのか」 私は思わず呟いて、その場にどさりと腰を下ろした。一気に力が抜けたような気分である。 その紫色の猫型ポケモンは、私の顔をじっと見つめた。そういえば、昨日図鑑をめくって探す途中に、これと似たようなポケモンの姿があったような気がする。しばらく唸って、ようやく名前が出てくる。確かエーフィという種類だ。同じ猫型でもエネコとは違って体つきはしなやかで、どこか優雅である。何か不思議な、例えば神通力のような特別な力が宿っていてもおかしくない。そういう気高さだ。 昨日のように、来客をすぐ追い出す気にはなれなかった。このポケモンが、一体どんなポケモンなのか興味があった。まじまじ見てみると、なかなか愛くるしい顔をしている。 そんなことを考えていると、ふと紫色の目線が少し横に逸れた。興味は私から逸れたらしい。一体その先に何があるのか、視線の先を追って振り返ってみると、ぎょっとした。テーブルの上の魚が宙に浮いているのだ。人間が箸でそばを取るような高さまで上がると、いきなりこちらめがけて飛んできた。ぶつかるかと思ったが、私の横を通り過ぎていく。まさにエーフィの視線を逆に辿るような形だった。何が起こっているのか分からないうちに、魚は紫色の目の前に制止した。そして、それを大きな口を開けてくわえ、早足で逃げ去って行った。 あっけに取られ、事態が飲み込めた頃には既にエーフィの姿は無く、皿もまぬけな姿を晒していた。 「持って行きやがったな」 一番大きな平皿から消えた主菜。きっとあの紫色は最初からこいつを狙って近づいたのだ。朝からいきなり、寂しい食事になってしまった。 「まさか本当に神通力を使うとは。くそう」 悔しい思いを胸に、私は今日も図書館に出かけることにした。エーフィというポケモン、名前と姿は思い出せても詳しい説明は読んでいなかった。今日は妻の帰りは早かったはず。手早く調べなければ。妻の前では、何食わぬ顔で過ごしたい。それは特に理由のない、ただの意地であった。 いざポケモン図鑑を並べてみて、どの辺りで見かけたのかをよく思い出せないことに気付いた。一巻だったか、それとも二巻だったか。三巻の最初の方だったような気もする。結局記憶を頼ることも出来ず、一からまた読み直す羽目になった。次へ次へと読み飛ばしていく。今日はページをめくる指が乱暴だ。ええい、どこだ。 二冊目の真ん中辺りで、ようやくそれを見つけることが出来た。番号百九六、紫色の猫のような生き物、大きな耳、先が二つに分かれた尾。間違いない。これだ。 「よし」 超能力を操り、周囲の空気の流れを敏感に察知する。なるほど、ハナとカンがいいということか。朝食の存在に気付けたのも頷ける。ポケモンという生き物は、人間界を大きく上回る能力を持っていたりするらしい。迷惑な話だ、と思った。こんな生き物が周囲を跋扈していたら、おちおち窓を開けてもいられない。朝食に焼き魚を出さないように、帰ったら妻に頼んでみるか。いや、この来客についてはまだ妻には内緒なのだ。やめておこう。そういえば、とエネコのページをもう一度開く。どうやら、こっちは特に不思議な力を持ち合わせているわけではないらしい。普通の猫と対して違いは無さそうで、何だか安心した。 ふと外を見ると、少し雲行きが怪しくなりそうだった。図鑑を元の場所に戻し、図書館から退散した。
次の日の朝、私は困惑した。お昼のおかずがまたしても魚なのだ。聞けば、何日か前にお弁当用の魚の焼き方をテレビでやっていたらしく、時間が経っても美味しい火加減を試行錯誤中なのだと言う。だからと言って二日連続でやらなくても、と思ったが、妻は妙なところで凝り性なところがある。こうなったら言っても聞かない。 「ところで、昨日の焼き方はどうだった」 ヤブヘビである。 まぁ、脂も悪くなってなかったし、いいんじゃないかと、当たり障りの無い答えを出すことが出来たのは奇跡的であった。 妻が出かけたところで、私は意気込んだ。この魚を無事、妻の想定通りの状況で食べるにはどうすればいいか。冷蔵庫の中に入れて電子レンジでチン、なんて状況は、おそらく範疇の外だろう。あくまで常温に、四、五時間晒しておかなければならない。 運が良ければ、今日はこのまま何も誰も来ないまま過ごすことができるだろう。だが、どうも嫌な予感がする。一昨日はエネコ、昨日はエーフィ。今日も何かが来るような気がしてならない。 思考を巡らせた末、たどり着いたのは戸締まりをきちんとする、ということだった。物騒な事件に対する予防策である。風の心地よい季節ではあるものの、今日は一日、防犯に徹することにした。最近空き巣の被害が多いらしいが、家に居ようが居まいが狙ってくる辺り、奴らの方がタチが悪いかもしれない。まず、窓は閉めておく。カーテンも一応かけておこう。表から回り込まれるとも限らない。玄関、よし。勝手口、よし。 一通り鍵を閉めて回り、一息つこうとした瞬間だった。戸の方で、がちゃりと音がしたのだ。鍵が開いた音だろうか。恐る恐る、カーテンに近づいてみる。すると突然、その戸のすべてが勢いよく開いていった。カーテンと、レースのカーテンと、ガラスの戸と、網戸が同時に。時間を間違えた幽霊の仕業、というわけではないことは昨日の経験から知っている。奴の奇襲だ。 犯人の次の行動をすかさず予測する。私は後ろを振り返り、テーブルの上の魚に近づいた。奴の目的は間違いなくこれだろう。今日こそは守り抜いてやる。庭の方に顔を向けると、紫色の猫もどきと目が合った。 「エーフィ、やっぱりお前か」 そう言うと同時に、お皿が浮き上がりそうになった。早速、超能力で魚を奪おうとする。 「そうはさせん」 私はお皿を両手で掴み、テーブルの上に押し戻す。浮き上がる力が強い。久しぶりに筋肉を使ったせいで、妙な部分が痛み出す。無精のツケが、まさかこんな形で回ってくるとは。 十数秒ほど、膠着が続いた。これ以上は持たないかもしれない、と思い始めた頃、ふっと皿の浮力が消えた。押し合っていた力が、急に引かれたことでバランスを崩す。エーフィはその隙を見逃さなかった。お皿ごとではなく、魚だけを超能力で取り上げたのだ。気づいた時にはもう遅く、手を伸ばしても、追いかけてみても間に合わず、エーフィの前へぽとり。 力が抜けて、へたりと座り込んだ。今日も負け、か。 みぇー。 ふと、エーフィの元に駆け寄る姿があった。桃色をした、また別の猫もどき。エネコだった。みぇー、みぇーとうるさいくらいに、エーフィにすり寄る。エーフィはそれに答えるようにエネコの身体を舐めてやる。そしておもむろに魚を口にくわえて庭の隅の方へと移動し、エネコにそれを与えた。 「親子だったのか」 ポケモンが別の種族の子を産むかどうかは知らない。が、二匹の関係を見ていると、まさにそんな気がして、取られた魚を惜しむ気持ちも失せてしまった。 子猫は必死に魚を食べる。母猫はそれを見守る。そんな二匹を私はただ、じっと眺めていた。
夕方になって、妻が帰ってきた。 一つ、心に決めたことがある。いや、そこまで大層なことではないのだが、とにかく後で心変わりしようとも、一度はやってみようと決めたのである。 「なあ」 「何ですか」 こういうことを切り出すのは何となく気恥ずかしくて、次の言葉を出すまでに時間がかかってしまう。 「ポケモンサークル行ってたよな。あれって次、いつだ」 「明日、ですけど」 妻は少し困ったような顔で答える。明日か。思ったよりも早い。だが、ここまで来たら言うしかない。 「明日は、俺も行くぞ」 照れ隠しのつもりで、頑固な親父を気取るように告げた。暫くの間、おかしな沈黙が続く。反対されようがどうしようが、何としてでも行く。そうでもしないと、私の気持ちが挫けてしまいそうだ。呆れて困った顔をされてしまったら、もう駄目かもしれない。 だが、妻は吹き出した。 「もちろんですよ。親太郎さん、何かきっかけとか無いと絶対来ないでしょ。明日気が変わったって言っても絶対連れて行きますからね」 私はもう、何も言えなくなってしまった。妻には全てお見通しである。晩ご飯の支度を整える台所からしきりに笑い声が聞こえたとしても、その居心地の悪さに逃げ出す気にもなれなかった。これでどうあがいても、明日ようやく私は新しいことを始めることになる。きっと何かがほんの少しだけ、好転することだろう。ゆくゆくは、自分のポケモンを手に入れるのも悪くない。娘が帰ってきて、家に一匹ポケモンがいたりなんかしたら、きっと驚くに違いない。そんなことを想像していたら、少し笑いそうになった。 晩ご飯が出来上がり、手を合わせて開口一番に妻は言う。 「それにしても、急にそんなことを言い出すなんて。親太郎さん、何かあったんですか」 「いや、ない」 私はとぼけるように、言ってみせた。
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洛城異界居候御縁譚 ( No.12 ) |
- 日時: 2013/11/17 22:56
- 名前: わたぬけ
- テーマA「輪」
一、白鼠
秀二郎は仕事帰りだった。 晩夏の西日が爛々と照りつけて、ただでさえのどが渇いている秀二郎はさらに辟易とした。こんな日に大堰川でひと泳ぎしたらさぞ気持ちよかろう。清滝の河童どもも競泳に勤しんでいるに違いない。 途中往来で童子たちが五人ばかり集まってかくれんぼうをしようと一人の童子がこのゆびとまれをやっていた。 四条通を西に歩いて千本通に差し掛かった頃だった。あたりにはひとけは無く、閑散としている。暑さのせいもあってなんとなくぼんやりと千本四条の辻を通り抜けようとしたその時、空気を掻きむしるようなきぃきぃという猿のような声が聞こえた。 ぱったりと足を止めて猿声のした方へと振り向くと社の鎮守の森が茂っていた。鳥居の額束に掲げられた額にはだいぶ褪せてしまっているがなんとか「隼神社」という字が見て取れた。鳥居をくぐるとすぐに猿のような声の正体が目に入った。境内の隅で童子ほどの背丈で骨と皮ばかりにひょろひょろと痩せた人影が三つ、四つ、何かを中心に取り囲んで囃し声を上げていた。人というよりもむしろ声の通り猿に近いが、目玉が人のように二つの者有り、鼻筋の頭に卵黄を載せているように一つの者有り、両目と額に合わせて三つの者までいる。小鬼である。いったいあんな所に小鬼が集まって何をやっているのかと秀二郎は訝しんだ。そうしてよく目を凝らすと小鬼たちの輪の中心に何か小さい、猫とも知れぬ犬とも知れぬ鼬や鼠とも知れぬ白い体をした獣が怯え蹲っていた。 「こらぁ小鬼ども。弱い者いじめとは感心しないな」 秀二郎は腹を据えて声を荒らげた。小鬼たちはびくりと肩を震わせ、秀二郎の姿を見るや「はらいもんだ、はらだいもんだ」と相変わらずの猿声で叫びながら逃げていった。雪駄を鳴らしながら秀二郎が近寄ると、白い獣の姿は次第にはっきりとしてきた。全容が明らかになるとそのなんとも奇っ怪な姿に秀二郎は不意に「なんだこりゃあ?」目を皿にした。姿形を一番近い動物で例えるとそれは鼠であった。顔や前後の足、腹などに纏っている短く満遍なく生えそろった体毛は白無垢のように真っ白でそこだけを見ると白鼠とも見える。ところが、ここからが奇妙奇天烈な所で、鼻先の上あたりの頭部から背中全体にかけて、まるで草のような毛が――いやそれはまさしく草そのものであった――びっしりと生い茂っており、その中にぽつぽつと黄色い実と思われる何かの粒が見受けられた。鼠で言えば両耳が立っている部分には、代わりに笹をやや横に太くしたような葉っぱが二枚ずつ、とどめとばかりに見たことのない桃色の花が咲いていた。第一、体の大きさも鼠と呼ぶには一回り二回りどころか、まるっと太った猫ほどだ。 沈むような沈黙の中から蜩がカナカナと鳴き始めた。 「お帰りやす秀二郎さん」 家に着き、土間で雪駄を脱いでいると障子の向こうから母の声が出迎えた。秀二郎が手を掛ける前に障子が横に滑ると絽に身を包んだ母のツルが膝を立てていた。にこやかな皺が刻まれたその顔が、ふと秀二郎の足元へ視線を落とすと途端に怪訝そうに傾いた。 「なんですのん。鼠」 「ああこれ。帰る途中、千本四条の隼のお社で小鬼から虐められとったんです。それで小鬼どもを追い払ったらこうして着いて来るようになったんだ」 草が生い茂った鼠は少しばかり怖がっているのか、秀二郎の裾の裏に隠れてなかなか顔をツルに見せなかった。そこで秀二郎が玄関を上がって隠れるものがなくなると観念したとばかりに、おずおずとツルを見上げた。 「あらまあかわいらしい」 怪訝そうに歪んでいたツルの顔がぱあっと光るように明るくなった。 「変わった動物なぁ。それとも妖の類どすか?」 「分からん。俺もこんな動物見たことも聞いたこともないし、妖でもこんなのは初めてだ。小鬼どもに何か知らないか訊こうとも思ったが、奴ら俺がこいつに驚いとるうちにさっさと逃げよったわ」 秀二郎は草の生えた鼠をそっと抱き上げた。見た目に伴ってずっしりと重いが、疲れているのかそれとも秀二郎のことが気にいったのか大人しく腕の中でじっと丸まってる。ツルが鼠の綺羅とつぶらに光る眸を覗きこんで笑った。鼠がきゅうんと鳴き返す。 「ほんにかわいらしいなあ。どこから来たんでっしゃろ」 「さあなあ、少なくともここらへんで見る顔ではないな」 夕餉の刻となり、一家全員が食卓を囲むと否応なしに不可思議な鼠の姿は成員皆の目に触れた。 「また妙なもんを引き連れてきたな、シュウよ」 最初に兄の聡一が口火を切った。 「あら聡一さんったら、かわいらしいじゃないですか」 そう言葉を引き取るのは兄嫁の祥子である。当の草の生えた白鼠は間の隅にある竹籠に敷いた座布団の上で丸くなって眠っていた。時折顔を上げてはうつらうつらとまたそのまま座布団へ埋める。半年ごろ前までその席はトラ猫のサブロウのものだったが、ここ最近はどういう気まぐれか、本来の住処である床の間の襖絵の中へ戻ってしまっていた。 揃っての「いただきます」の後に、秀二郎は改めてこの面妖な生き物を拾った事情を話した。一通り説明が終えた所で、秀二郎は兄へと目を移した。 「兄貴には何なのか分かるか」 「いや、分からんな。しかしただの動物ではなさそうなのは確かだ。小鬼どもが興味を持ったということが何よりもそれを証明している」 「というと」 「少なくとも人世の者ではあるまい。しかし妖とも何か気色が違うな」 「はっきりせんなあ。こういう時親父が居れば何か教えてくれるだろうに」 秀二郎は鯵の開きを骨ごとばりばりと口に入れながらぼやいた。 「ほんなら、今度お手紙ついでにその子のことも知らせときましょ」 ツルが空になっている秀二郎の茶碗におかわりをよそいながら云った。 その時、「あの」とどこからかか細い女のような声が聞こえた。 「うん、どうしましたお義姉さん」 秀二郎が声に気づいたが、てっきり兄嫁が何か云ったものかと思って目を注いだ。 「ん、うちは何も云いませんよ」 「あれえ、今確かにおなごのような声が聞こえたがなあ」 「シュウ、まさかまだ他になにか連れてきてるんじゃないだろうな」 「馬鹿いえ」 兄からの茶化しを笑い飛ばしている所へ再び、また女の声が。 「あの、みなさん」 今度は皆の耳にもはっきりと聞き取れた。皆が皆声の聞こえた方向へ一斉に視線を注ぐ。皆の視線が一致した場所、それこそ秀二郎に拾われてきたあの草の生えた白鼠であった。 秀二郎は味噌汁を啜っている所で、聡一は大根の煮物を摘んでいる所で、祥子は鯵の開きを箸で持ち上げた所で、ツルは胡瓜の糠漬け口に含んだ所で、ぴたりと固まった。一家揃って石のようになっている前で、鼠は顔を上げた。そして言葉が続いたが、よく見ると鼠の口は動いていなかった。 「驚かせてごめんなさい」
二、柏木
「どうして話せることを黙ってたんだ」 秀二郎が尋ねた。 食事の後片付けも終わり、改めて一家で食卓を囲むと、その上に竹籠ごと白鼠が載っていた。 「突然こちらの世界に飛ばされてすっかり戸惑ってしまってましたし、元いた世界でも私みたいなのがこうして人と言葉を通わすのは滅多に無いことで、むやみに使っていいものではなかったからです」 これまた奇妙奇天烈摩訶不思議といったもので、白鼠の声は耳に届いて聞こえるというよりも、胸の内に直接届いていると云える。 「元いた世界。すると君はつまり異界の者だというのか」 聡一が目を白黒させながら身を乗り出した。しかしあとの三人はいまいち意味が飲み込めておらずきょとんとしていた。 「兄貴、何を驚いているんだ」 「つまりだな、今我々の目の前にいるのは人の世の者ではないし、ましてや妖でもない。我々のすむこの世界とは全く異なる別の世界、別の宇宙から来た生き物ということなのだよ」 聡一の説明で一同はようやく納得し、同時に目を丸くした。 「しかしそう云ったものの、己れ自身まだにわかには信じがたいのだが。もし良ければ君の言う『飛ばされた』という事情を説明してくれないか」 「分かりました。これから皆さんにご迷惑となるかもしれない以上、私のいた世界で起きた出来事をお話します」 そして白鼠は食卓の上を舞台とするように話を始めた。 「まず元いた世界には強大な力を持った二体の竜が太古の昔から諍いを繰り返していました。二体の竜の争いは大抵中心にある高い高い大きな山のてっぺんで繰り広げられるのですが、時々はずみで山の下まで降りてくることもありました。私が仲間とともに暮らしていた場所は花の楽園と呼ばれていて、最果てにある小さな島です。そんな場所ですから二体の竜の戦いからは最も縁遠い土地だったはずなのですが、どういうわけかその竜が私たちの島まで来たんです。仲間はすぐに逃げたんですが、私だけ逃げ遅れてしまって。それで竜達の力に巻き込まれて、次に気がつくとこの町に来ていました」 初めは淡々と語っていた白鼠であったが、話の終わりごろ、殊に仲間とはぐれてしまったというくだりに差し掛かると鈍雲が天道を隠して時雨ていくように悲しげな色を顔に宿した。なるほど感情が表情となって現れる所は、確かにただの獣とは一線を画している。 「それで、何が何だか分からない内に見たこともないような怪物に襲われて、どうしようと困っていた所に秀二郎さんに助けられたというわけです」 「あらあ、秀二郎さんったら悪鬼に襲われてるか弱い乙女を助けるなんて、男前ねえ」 祥子がほほほと口元を隠しながら茶化した。秀二郎はかっと顔を赤くして、 「よせやい」と、手を降った。 すると一同が笑いの花を咲かせたのにつられてか、白鼠も雲がかかっていた顔を綻ばせた。 「もしみなさんが良ければ、帰る方法が見つかるまでここに身を置かせてもらってもいいでしょうか」 白鼠は一同一人ひとりに顔を合わせながら申し訳なさそうに訊いた。 次に皆の視線を集めたのは母のツルであった。秀二郎たちの父で家長である善治が不在である以上、この家の物事の決定権は妻であるツルが所有していた。ツルは前に出て白鼠に咲いている桃色の花にそっと手を差し伸べると 「良いどすえ。この家のもんはあんたはんみたいなのには慣れっこでおすしなあ」と毅然として答えた。 白鼠の顔が光が灯るように明るくなった。すると背中の草の中にある黄色い粒がひとつ、ぽんと音を立てたかと思うとそれは一輪の花と化した。同時に花からなんとも云えぬ芳しい香りが漂い鼻孔をくすぐった。 「ありがとうございます」 おもしろがるやら可愛がるやらで、皆が白鼠を愛で撫でていると、聡一が思いついたように云った。 「そういえば君のことはなんと呼べばいい」 「元いた世界の人たちからはシェイミと呼ばれてましたが、これはあくまで種の名前なので、みなさんで好きに呼んでいただければ」 「そうか。じゃあシュウ、お前が決めろ」 「なんで俺が」 「お前が連れてきたからだ。案ずるな、下手な名付けなら即刻代わりの名を用意してやる」 聡一は腕を組んでにやりと笑った。 そう云われるとなにくそとばかりにすっかり考えこんでしまう秀二郎である。シェイミとかいう白鼠も秀二郎の名付けに期待して目をじっくりと注いでいる。ええい儘よと秀二郎はぽんと頭に浮かんだ言葉を口にした。 「柏木」 一瞬しんと森閑したが、聡一が顎髭をさすり、ほうと息を漏らした。 「お前にしては雅な名だな。由来はなんだ」 「さあな、適当に頭に浮かんだだけだ」 秀二郎はそう嘯いた。白鼠を見ると目を輝かせていた。 「素敵な名前。ありがとうございます」 その鼠と背中に背負ってる葉草との色合いが柏餅を連想したから、なぞ云えようはずもなかった。
三、鷹峯
一夜が明けた。草を背負った白鼠、柏木の一幕で小さな騒動となっていたこの家も夜が明けてしまえば、日々送る日常の内へと戻っていく。長男の聡一は朝も早くから広小路の大学の研究室へと赴いていた。家にいるのは秀二郎と兄嫁の祥子、母のツルである。 秀二郎が起き抜けに体を掻きながら入ってくると、台所ではツルと祥子が朝餉の用意に勤しんでいる所だった。ふと竹籠の中が空になっていることに気がついた。 「柏木はどこに」 するとツルは味噌汁の入った鍋をゆっくりと掻き混ぜながら「お庭に」と答えた。 縁側越しに庭を見やるとなるほど、柏木は確かに庭の真ん中に体を丸めて座っていた。そして背中の葉っぱをいっぱいに広げて、気持ちよさそうに空を仰いでいた。 「不思議なもんどすなあ。なんでも、よお晴れた日はああしてお天道さんの光をたっぷり浴びるだけでお腹一杯になるさかい、ご飯はいらんのやて。こら助かるなあ」 「はあ、それはおもしろいな」 框を跨いで縁側に座ると柏木に声をかけた。 「どうだ、気分の方は」 柏木はくるりとこちらを振り返り、頭の花を揺らして小さく笑った。 「おかげさまで、ここは日が良くあたっていい気分です。でも正直に申しますと私のいた島と違ってちょっぴり煙っぽいですね」 「絶海の孤島と違ってここは人の住む街だ。それに前はそうじゃなかったらしいが、この街も維新からこっち工場があちこち出来たからな。まあそれは人の営みって奴だ。勘弁してくれ」 「大丈夫です。このくらいならなんともありません」 柏木の背中の葉草に朝日が燦燦と当たる。その様子はげに心地よさげで、見ている秀二郎の方も陶然さが移るようだった。その内、まだまだ暑い日は続くのだぞと言わんばかりにミンミン蝉が大声で鳴き始めた。それが合図であったかのように台所の方からツルが朝餉に呼ぶ声が聞こえた。 食事を終えて手を合わせると、茶碗にまだ半分ほどご飯を残しているツルが秀二郎に声をかけた。そしておもむろに竹の皮で包んだおむすびを三つ差し出した。 「秀二郎さん、今日は鷹峯(たかがみね)まで行くのでっしゃろ。これ、お昼に」 「すまんなあ」 「すまんと思うならそろそろ秀二郎さんも聡一さんを見習って身い固めて、あての仕事を減らしてもらいたいもんやわ。懸想している娘さんの一人や二人いやらへんの」 「堪忍してくれ」
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かつては羅城門から大内裏の入り口朱雀門まで都の中心を走った広大にして壮麗な朱雀大路。その位置に走る千本通をひたすら北に歩き、北山通との三叉路を過ぎるとやがて小高い丘を登るやや急な坂道となる。頂きまで登ると左手から囲い込むように北山杉の植わる三つの山が連なる。これを鷹峯三山と云い、それぞれ鷹峯、鷲峯、天峯という名を持つ。そしてこの鷹峯という山の名から肖り、この近辺の丘陵地帯を鷹峯と呼ぶ。 秀二郎が柏木と共にやって来たのはこの鷹峯の丘にある一山の寺だった。千本通の坂道を登り切るとやがて三叉路に突き当たり、そこを右に折れた所にこの寺はある。名を寂光山常照寺と称した。 「随分と遠い所まで来ましたね」 柏木が修二郎の肩の上から眼下に広がる街を見下ろして云った。 「俺らの家がある中堂寺はずっと向こうのあの辺だからな」 秀二郎は無数の矩形を繋ぎあわせたような街のずっと向こう側を指さした。 柏木が秀二郎と一緒にやって来たのは、いつまでも家の中にいてもさぞ退屈だろうと祥子が気をかけたためである。秀二郎は最初難色を示したが鷹峯までの往来の道中、知古の者がいるわけでもなし、話し相手にでもなれば退屈しのぎにもなろうと思い直し肯んじることとした。 実際往きの途上、あれは何か、あの生き物は何と言うのか、あの人達は何をやっているのか、などなど事あるごとに柏木は秀二郎を質問攻めにするので、中堂寺から鷹峯までの一刻ばかりの時があっという間に過ぎ去ってしまった。 朱色の山門をくぐると本堂の前にもう何日前からそこで待っていたかのように僧が数珠を片手に佇んでいた。歳の頃は六十半ばから七十ほどと見えた。二人は互いに頭を下げ、順に簡単な自己紹介を済ませた。僧はやはりこの寺の住職で質素な鳶色の衣に鶯茶の袈裟を付けていた。 「存外お若い方ですのお」 「親父が東京のお偉いさん所へ招聘を受けてるんで、こっちは俺がやりくりしてるんです」 「頼もしいですな」 住職は秀二郎の肩に乗る柏木に目を留めたが、特に何も意に介さずくるりと背を向け、奥へ来るよう促した。綺麗に剃り上げられた頭が白く光る。 通されたのは庭園の端にある茶室だった。三和土で雪駄を脱ぎ、用意されていた座布団に腰掛けると住職が自ら茶を点てた。ゆったりとした、それでありながら芯の通った動きで茶釜から湯が柄杓を通して湯が注がれ、茶筅が回る。 そうして差し出された茶と茶菓子に秀二郎はとつおいつ声をかけた。 「和尚さんあんまりいじめんでください。俺はこういうことにはてんでからっきしで」 尻込みする秀二郎に住職はほっほと晴れやかに笑った。 「なに。偉そうにやっとるがこれでも我流なもんで。そちらの白い方も茶は飲めんだろうが口に合えばお茶菓子でもお召し上がりなさい」 住職の目が秀二郎の隣で丸まっている柏木へと向かい、柏木は鼻先をぴくりとした。 それからしばらく秀二郎と住職は他愛もない談笑にふけった。鞍馬の方から天狗が降りてきて碁を打っただとか、今年の春先にお参りにやってきた遊女がえらい別嬪さんだったとか。その間柏木は秀二郎に差し出された碗に残った抹茶の匂いをくんくんと嗅いでみたり、砂糖と米粉を花弁の形に固めた茶菓子ぺろりと舐めて口の中にじわりと広がる甘みに驚いていたりした。そんな折、茶室の底だけがわずかに欠けている月のような丸窓の外がさっと暗くなった。 「和尚さん、そろそろ俺をお呼びした理由をお話してくれませんか」 「そうであるな。そろそろ頃合いでもあろうし」 すると住職は暗くなった丸窓の外へ視線を移した。その向こうには鬱蒼とした竹藪が広がっている。 「下の泉の観音様のお側に、蓮の蕾が現れましてな。それがなんとも珍しい白蓮なんでございますよ」 住職はぼんやりと遠くを見つめるような目をして云う。 「現れたのは七日前。通り雨がざあっと酷く降る夕暮れでございましたな。稲妻が恐ろしげにゴロゴロと鳴りまして、ちょうど下の泉のあたりに飛び切り大きい奴が落ちたんです。ごろごろがしゃーんと寺が吹き飛んでしまうかと思いましたわ」 そこで住職は話の接ぎ間に自分で点てた抹茶をおもむろに啜った。 「泉の畔には今云ったように観音菩薩様の像がありまして、よもやそれに落ちなかったかと心持ち不安になりまして降りて行きました。すると不思議なことに確かにこの辺りに落ちたはずなのに、その跡が何もない。もちろん観音様もご無事です。ところが、観音様のおみ足のあたりの水面をよく見ると泉には無いはずの蓮が生えておりまして、珍しい白蓮で蕾までつけている。さらに面妖なことに蕾は日に日に膨らんで今は丸まった赤子ほどにもなっておりまする」 住職はそこまで云うと茶碗を丁寧に置き、改めて秀二郎の双眸をじっと穴が空くように見つめた。 「拙僧の見立てでは今日です。おそらく今日この後の夕立であろう」 その声は今まで隠微していたのかと思うほどに強い響きがあった。 柏木は何の話やらさっぱり呑み込めず、頭を傾けるばかりだった。そして秀二郎の方をチラと見やると彼は既に何やら合点がいっているらしく、口元を滲ませるように笑んでいた。 「白蓮ということは、さぞかし良くないものも集まってくるでしょうね」 「その通り。さて、不躾ではございまするが早速取り掛かっていただきたく。少々ここで時を潰しすぎたようで」 住職が言い終えたと同時に、遠くの方からごろごろと遠雷が闊歩していった。そして外がさらに、もう日暮れ時かと見紛うほどに暗に染まる。分かった、と秀二郎は膝を打つと弾けるように立ち上がった。 「傘は要りますかな」 「いえお気遣いなく。かえって障りになります」
四、白蓮
茶室を出ると空はまるで重くのしかかってきそうな玄雲に覆われていた。ずっと遠くの南の空で雲が途切れ、その向こうに見える青空でようやくまだ昼時なのだと気づく。後に住職が続き、鈍色の空を見上げるとぽろんと零すように呟いた。 「その昔、菅公が雷神となって清涼殿に雷槌を落としたという雲も斯様な有様だったのでしょうな」 庭園を横切ると伽藍の内にまだ種々のお堂が立ち並んでおり、化け狐の伝説が残るという菩薩堂の裏手にまわると杉の木の植わる急な斜面となっていた。その斜面を蛇行するように石段が舌を広げている。石段を下り、ようやく斜面が終わる所で木々の向こうから件の泉が姿を現した。泉の畔には住職の云う通り石を削った作った観音像が、まるで泉を通して違う世界を見つめているように水面を目を落としていた。そしてその観音菩薩の足元の水面に蓮華の葉が浮かび、その横から蕾が首を伸ばしていた。 「あれか」 「あれです」 「確かに大きいな」 住職が話の中で云ったように、白蓮の蕾は大凡尋常とはとても云えないほどに大きく、なるほど確かに住職の云う通り赤子ほどの大きさにまで膨らんでいた。まるでその中に何かを宿して守っているように。 「では、拙僧は本堂で経を唱えておりますんで。成功をお祈りしますぞ」 住職は剃り上げた頭をゆったりと下げるとまた石段を登って行った。 「柏木」 秀二郎が低い声で呼んだ。それがなんとも威圧的だったものだから柏木はぴくりと驚きつつ返事をした。秀二郎は険しい目を下して諭すように云った。 「ここから先は危ない。和尚さんと一緒にお堂で待ってろ」 これまで見せたことのない気迫に柏木は気圧されそうになった。しかしふると柏木もまた秀二郎に睨み返した。 「いいえ、私もここで秀二郎さんをお手伝いします。危険だというのなら尚の事。私だっていつまでも居候の身に甘んじるわけにはいきません」 柏木の意外な返答に秀二郎は虚を突かれるが、すぐにまた目を厳しく光らせる。 「馬鹿云え、最初に小鬼に襲われていたことを忘れたか」 「あの時はまだこの世界のことがよく分かってなくて手出しのしようがなかったんです。私、こう見えて結構強いんですよ」 「本当か」 「本当です。少なくとも秀二郎さんの足手まといにはなりません」 秀二郎は暫く逡巡するように顎をさすった。 「お前、案外剛情だな」 その時、空に閃光が駆け抜け、直後に天の咆哮が轟いた。 「よし分かった。これから色んなものがあの蕾を盗ろうと狙ってやって来る。そいつらに奪われぬよう追い払って欲しい。ただし助けには入れない、自分の身は自分で守れ」 柏木はこくりと頷いた。もう一閃雷が黒雲の向こうから牙を向いた。 秀二郎と柏木はそれぞれ観音像を挟むような位置取りに立つ。彼らが位置に付くのを待っていたかのように直後、大粒の雨が滝の如く打ちつけ始めた。 「おいでなすったぞ」 秀二郎は全身ぐっしょりと濡れるのも厭わず不揃いな枝を気ままに梢に拗らせている木々の向こうを睨んだ。そして言葉の通り、盗人たちはやって来た。 木々の向こうから厚い雲による闇に紛れて、黒い影のような何かが次々と現れた。それは地面を這うようにしてじりじりと泉へとにじり寄る。 秀二郎は口の中で小さく咒を早口に唱えると、まるで虫を寄せぬような仕草で空を払った。刹那、水際まで這い寄っていた黒い影がぴしゃりと弾かれるとそのまま形を崩し消え去った。ぴしゃり、ぴしゃりとさながら泥団子のように黒い影たちは次々と形を崩していく。その捌きぶりに柏木は目を見張った。依然として黒い影は茂みの向こうから次から次へと際限なく湧き出るが、秀二郎は泰然自若として次々に払っていく。 轟く雷鳴、降り注ぐ滝雨。黒い影たちは悉く払わゆくのに全くめげることなく、まだまだ湧き起こる。その内影たちは木々の向こうからとばかりでなく、黒雲の闇と滝の如き暴霖とに紛れて空からも降りてきた。それでも泉の上五尺ほどの高さまで降りてくると、他の影達と同様ぴしゃりと形を崩す。柏木はまるで自分の出る幕が無いのではと感じ始めていた。しかしその時天より一際大きな黒い影が飛来する。しかもそれは他の影達と違って明確な輪郭を持ち、両端から骨ばった腕のようなものが生えていた。大きな影は他の影達と同様泉に近づいた所で止まり火に触れたように後退るが、それだけでは消えずまるで秀二郎と力競べするかのように両の黒い腕を伸ばした。 柏木はぎらりと腕の生えた影を睨み、鞠のように跳ねると背中の葉のいくつかがが柏木から離れ、影の腕に向けて飛ばした。秀二郎の頭上まで差し掛かっていた腕が切れ味鋭い名刀で切りつけられたようにぱっくりと切断された。 雷に紛れて獣の如き咆哮を散らしながらようやく大きな影は消え去る。 咒を絶やさぬためか秀二郎は労いの言葉こそかけないが、ちらりと投げられた一瞥が暖かに光ったことを柏木は感じ取った。 それからも雷鳴と打ち付ける雨とに紛れて影は止めどなく現れ、まるで淀みに浮かぶ泡沫のように湧くのを止めない。そうまでして影達が奪い去ろうとしている白蓮の蕾は一体何なのだろう。 ふと蕾に目をやった柏木はハッとした。明らかに蕾がこのひと時の内にさらに膨らんでいた。天から降り注ぐ雨を飲み込み糧としているかのように。 その時、柏木の頭上で怪鳥の如き吠え声が唸った。これまでで最も大きな影――それはもはや影という曖昧な存在ではなく、手足や血潮の如き紅い目、そしてぎらりと白く光る歯の並ぶ巨大な口がはっきりと見て取れた――が、柏木に手を伸ばしていた。秀二郎がすかさず咒を唱えるがそれよりも早く影の手が柏木に伸びた。間に合わないと感じたその刹那、須臾としてあたりが真っ白な光に覆われた。 光をまともに浴びた巨大な影は雷すら掻き消さんばかりの断末魔を響かせながら、砂のように滅した。光は今や初め目にした時よりも何倍も膨らんでいる白蓮の蕾、その顱頂から溢れ出している。光はさらに強さを増し、浴びた影達が次々と消えていく。まともに浴びるのを逃れた影達も潮が引くように退いて、ついに姿を消した。 「おお、無事に蕾を守り通せましたか」 いつの間にか上の本堂から降りてきたのか住職が片手に番傘を持ち、蕾の光を仰いで云った。 すると蕾はゆっくりとしかし目に見えて開き始めた。そして次の瞬間、中から一本の閃光がまっすぐ空に伸びる。光は暗に染まった黒雲を貫くと、雷でもない影達の吠え声でもない、何か透き通った鈴音のような声があたりを満たした。柏木は、一瞬開いた蓮の中から長く白く、鹿のような角を持った何かが綺羅綺羅と鱗を光らせながら天を昇っていくのを見た。 間もなく雲に切れ目が生じ、その隙間から晴空が戻ってきた。雲はまばらに途切れがちとなり、まるで今まで滝雨が嘘であったかのように太陽が顔を出した。 「生まれましたな」 住職が固まったように空を仰いだまま呟いた。 「ああ」 秀二郎もまた同じ格好でそう返した。髪の毛にしたたる雫が日の反射で玉のように輝いていた。そして少し疲れたと、尻に泥が付くのも厭わず彼は草叢に座り込んだ。白蓮の花びらも葉っぱもいつの間にか消えており、観音像の見つめる泉の水面は初めから何も無かったかのように木々から落ちた雫が輪を描いていた。 「あれはいったいなんだったのですか」 柏木があぐらをかいている秀二郎に近づいて尋ねた。秀二郎はすっかり晴れ渡った空を再び仰ぎ 「白竜だ」と云った。 「ハクリュー、この世界にもハクリューがいるのですか」 「ほう、お前の所にも白竜はいるのか」 「ただ、私の知っているハクリューは蓮から生まれたり、あんなに真っ白じゃないのですけれど」 そこへ住職が後を接いだ。 「白竜の誕生はこの上ない瑞兆。天より降った雷槌が白色の花の形で卵を成し、また雷槌と共に天へ帰って行く。しかしながらその身に宿す力は絶大なもので、殊に誕生間際の卵花を呑んだ者は千年を生きると云う。有難うお二方、おかげ様でもうこのまま往生しても未練はないほどに良きものを見せて頂きましたぞ」 それから一刻半ほど秀二郎と柏木は寺に滞在すると、日が傾きはじめた頃合いを見てそろそろ失礼することとした。 住職は山門まで送り、別れ際に手を合わせて深々と頭を上げた。 秀二郎は住職から礼を沢山受け取った他に、雨と泥とで濡れ鼠となった着物の代わりに新しい服と羽織まで着せてもらっていた。 鷹峯の丘を下る千本通の坂道を下っていると、ふと秀二郎が口を開いた。 「面目ない。柏木のおかげで助かった」 「いいんです。秀二郎さんこそ、自分の身は自分で守れっておっしゃっておきながら、最後の方で助けようとしてくださって嬉しかったです」 「結局白竜に出番を奪われたがな」 秀二郎は小恥ずかしげに頬を掻いた。 すっかり日も落ちて中堂寺の家に着くと、見知らぬお公家さんのような方から龍の鱗のように輝かんばかりの麗白の布をたくさん頂いたと、ツルが喜んでいる所だった。
五、船岡山の主
「お父さんからお手紙が届きましたどすえ」 そう云いながらツルが土間を上がってきたのは、柏木がこの家に居候を始めて二週間が経った朝の事だった。常照寺の白竜の一件以来、柏木は秀二郎の仕事について回るようになっていた。ある時は一乗寺の長の頼みで山の上にある不動院のいたずら狸たちを懲らしめ、またある時は六孫王神社の祭神である源経基の悩み事を解決し、またまたある時は愛宕の麓の念仏寺で坊主たちと五百羅漢像たちとの喧嘩を仲裁したりした。 その間ツルは東京の善治へ手紙を出しており、内容を要約すると「異界からしえいみという鼠が迷い込んできたのですが、なんとか帰してあげられる方法はないでしょうか」というものだった。 一家と柏木は早速朝餉を終えて片付けられた食卓を取り囲み、茶色の封筒の封を切った。中からは三つ折にされた半紙が入っており、広げると、型通りの挨拶も近況の報告のような文も無く、達筆にして雄渾な字でただ一言書かれてあるのみだった。
船岡山ノ主ニ逢フベシ。
善治の肉声がそのまま聞こえてきそうな字である。 「相変わらず親父らしい書翰だね」 聡一が呆れるやらかえって感心するやらで顎髭をさすった。 「船岡山なあ。あすこの主さんなら確かに何か知ってそうやわ」 そこで早速その日の午後、秀二郎は柏木を肩に乗せて上京にある船岡山へと赴いた。今回は連れとして聡一が付いてきている。聡一は蓋のある竹桶を携えていた。蓋が閉まっており、中身は何なのか知れない。秀二郎が尋ねる。夏も今や終わり、彼岸の近づく涼しげな風が往来を通り抜けていた。あれだけ五月蝿く鳴いていた蝉達もどこへ行ってしまったのやら、すっかり鳴りを潜めていた。往来では三日後に街で見られるという日蝕の話題で持ちきりで、往く人からは悉くこの又とない天体の催しを心待ちにしている空気が感じ取れた。 「兄貴、その中はなんだ」 「おふくろが船岡山の主への手土産にと持たせた物だ。中身は己れも知らん」 船岡山までの道程はほとんど先の鷹峯と同じである。千本通を北へ歩くと今出川を過ぎたあたりで前方に小高い山が姿を現す。ここから千本通は船岡山を避けるようにわずかに斜めを向くので鞍馬口通を横切ったあたりで細道へと入る。低い山であるが、近くまで寄るとなんとも云えぬ静かな空気があたりに漂う。中腹には維新の頃、建勲神社という社が建ち織田信長を祭神としていた。 「船岡山の主ってどんな方なんでしょうね」 柏木が現れた石段とその初めにある鳥居を見上げて云った。聡一が笑って云った。 「それは会ってからのお楽しみという所だろうな」 「ん。まるで会ったことがあるような言い方だな、兄貴」 「会うのは己れも初めてだよ。ただ船岡山と聞いて大方見当は付いている。言っておくが建勲の信長公ではないぞ」 二人と柏木は石段を登り始める。まだ青葉の椛が残暑を遮り涼しい。 最後の階段坂に差し掛かった時だった。石段の途中で道の両脇にそれぞれ平城風の朝服に身を包んだ女が立ち、こちらを見下ろしていた。 「あなた方が葉草を背負った白鼠とそのお付きの方ですね」 「どうぞこちらへ。主がお待ちかねです」 二人の女は茫洋として霧のような声で交互に云い終えると、建勲神社へと続く階段ではなく、その脇から伸びる小道を恭しい一挙手一投足で歩きはじめた。 聡一と柏木を乗せた秀二郎もその後へと続く。森を切り開くように抜け、しばらく歩くとごつごつと歩きにくかった細道はいつの間にやら荘重な石畳となっていた。そして足を取られぬようにずっと地に向けていた頭を上げると思わず息を呑んだ。 そこには萱葺きを背負った絢爛な寝殿造りが聳えていた。こんなものは麓からは全く見えなかったはずである。 「なるほど、神さんの領域ってことだな」 屋敷のきざはしには先ほどの女官が並んで立ち、そこで履物を脱いで上がれと促していた。きざはしを上がり、簀子を通り抜けると、南側の廂に通された。部屋の隅では伏籠を被せた香炉が焚かれ、なんとも絶妙に馥郁としていた。やがて母屋の簾が誰の手によるともなく開かれ、茵を敷いた厚畳の上に男が一人、脇息にもたれかかって姿を現した。 「待ちかねたぞ、善治の息子たちよ。まあ座れ」 男は紫の指貫袴に亀甲文様の袍で身を包み、黒い烏帽子を被る、まさに平安貴族という出で立ちだった。 「父をご存知なのですか」 聡一が秀二郎ともども廂の厚畳に腰掛けながら尋ねた。 「ついこの間から何度も世話になっているからな。尤も、我の云う『この間』とそなたらの感覚で云う『この間』はだいぶ開きがあろうが」 柏木は聡一と秀二郎の間に座り、男の顔をまじまじと見つめていた。 「実は善治から文が届いたのだ。そなたらが近いうちに訪ねるから世話をしてくれとな。あやつめ、都を遷した公家どもと共に東下りをしておったか」 男はくくくと絞るように笑った。そして脇息から身を離し、改めるようにして二人と一匹に目を固めた。 「さて、改めてようこそ善治の息子たちとしえいみとやら。我こそが船岡山の主にして嘗て都の北を守っていた四神。人は我のことを玄武と呼ぶ」 男の目がぎろりと光った。空気が数瞬の間、裂けんばかりに張り詰めた。柏木は秀二郎たちと主とを交互に見やるが、明らかに緊張していることが空気から感じ取れた。 「まあ、都が東へ遷ったことでめでたくお役御免。今はここでのんびり過ごさせてもらってる」 主は手にしている檜扇を開くと、それで己の身をゆっくりと扇いだ。聡一は持ってきた竹桶を母からの手土産だと、丁寧に前へ差し出した。 すると主は背中の下あたりから何か長い帯のようなものをするりと伸ばしたかと思うと、帯は竹桶をしっかりと掴んで主の元へ寄せた。よく見るとそれは瑠璃色の蛇であった。主は手元に寄せた竹桶の蓋を開けた。 「ほう、鮎か。それも保津のだ。有難く後でゆっくりと酒の肴として頂くとしよう。善治は良い嫁をもらったな」 主は扇を閉じ、ポンと手を叩いた。音もなく先の女官が現れ、桶を置くへと持ち去った。女官の姿が見えなくなると聡一と秀二郎はここへ来た目的、つまり柏木のことと父から柏木が元の世界へ帰る方法について船岡山の主に逢えと手紙で云ってきたことなどをごく掻い摘んで説明した。 「なるほど分かった。三日後の正午にこの地に蝕が訪れる。その時高まった霊力と我ら四神の力を持ってすれば異界の門はきっと開くだろう」 聡一と秀二郎は互いに顔を見合わせ、その顔が明るくなった。 「それじゃあ」 と秀二郎が頼もうと身を乗り出した所で、主は手を上げて制止する。 「その前に、本人に問いたい。柏木、そなたはこちらの世界での生活をどう思った」 三人の目が柏木へと注がれる。柏木は短い足を立てて主の目を見た。深く澄んだ水を湛えたような目だった。 「とても楽しいと思いました。島での仲間たちとの暮らしも決して悪くはありませんでしたが、こういう生き方もあるんだって」 「そうか、異界者であるそなたがこの世のことをそう云ってくれて我も嬉しい。だが、元の世へ帰るということはこの世とおそらく永遠に別れを告げる事であるぞ。それでもいいのかな」 水を打ったような沈黙が広がった。庭園の山水の音がじんわりと流れ込んでくる。 「異界の門が開くのはその三日後だけなのですか」 「そうだ。この機を逃せば次にこの地に完全な蝕が訪れるのはおそらく何百年と先になろう」 「少し、秀二郎さんたちとお話してもよろしいでしょうか」 「良い。大切な選択であるからな。どれ、我は席を外そう」 そう云って主は腰を上げると、奥へと下がっていった。 秀二郎は所在なげに柏木へと目を落とし、その名を呼んだ。柏木は聞こえなかったかのようにくるりと庭園の方へと向くと、簀子の廊へ出た。 「植物って種類によってはとても繊細なものがあるんです」 秀二郎は急に何を言い出すのかと容喙しようとしたが、聡一が弟の肩を掴み言葉無く首を横に振った。 「元々生えていた土地から全く違う遠い場所に移されると、そこがどんなに元の土地の土・空気・水・棲んでいる生き物などが似通っていたとしても育たずに枯れてしまうことがあるんです」 またくるりと柏木は体を回し、今度は兄弟の方へと振り返った。 聡一も秀二郎もこの喩えで柏木が何が言いたいのか理解する。 「帰るんだな」 秀二郎は思わず知らずそう問うた。柏木は小さく「はい」と返す。 「皆さんのお家に迎えられて、秀二郎さんと一緒に仕事をしてとても楽しかったです。島では到底味わえないような日々でした。今も出来ればずっとご一緒したいと思ってます。でも、やっぱりいけません。帰っておかなければ、たとえ今は何ともなくとも、この先お日様が何十回、何百回、何千回と昇り沈みを繰り返せば必ず望郷の念に掻き立てられるでしょう。そして『どうしてあの時帰っておかなかったんだろう』と永遠に悔やみ続けると思うんです」 柏木の桃色の花が揺れた。 聡一は何も言わなかった。ちらりと弟を一瞥する。ここで柏木に声をかけるべきは自分ではなく弟なのだと分かっていたから。 秀二郎は腰を上げると柏木の横にどっかりと胡座をかいた。そしてポンとその頭に手のひらを被せる。 「そうかい。そこまで云うなら俺は止めない。暫くの間世話になったな」 「それは私が云う言葉です」 柏木は秀二郎の顔を見上げた。 そして話はついたと主を呼び、柏木は三日後の日蝕で帰るという意志をはっきりと伝えた。主はゆっくりと頷き「よくぞ云った」と扇を叩いた。 「ぬしら、柏木が最初に降り立った場所を覚えておるか」 「確か千本四条の近くにある隼神社だったな」 秀二郎が記憶をたどりつつ答えると、主はやはりなと笑ってみせた。 「そこは平安京の心臓にして、あらゆるモノの流れが集まる場所、異界の門はその場所にある。ゆめゆめこの機を逃すでないぞ」
六、縁
それから三日間はそれこそ光陰矢のごとしそのままに過ぎ去っていった。柏木が三日後に元の世界へと帰ると知ったツルと祥子は見納めとばかりにあちこちへと連れだしたり、美味しいものを食べさせたりした。 聡一は大学で受け持っている授業があるので二日間は日中いなかったが、帰ってくるとまるで我が子のように柏木をかわいがった。しかしただ一人秀二郎は、仕事先に柏木を連れて行くことはなくなり、帰ってからも早々と夕餉を平らげると柏木と目を合わせぬように自室に篭ってしまっていた。 そして二日目の晩、いよいよ明日という夜、皆が寝静まった頃だった。最後の竹籠座布団の寝床で丸まっていた時、不意に誰かが入ってきて声をかけた。寝ぼけ眼で見上げるとそれは寝巻姿の聡一であった。 「眠そうにしている所悪いが、少し付き合ってくれないか」 そうして聡一は柏木を縁側に連れだした。すっかり秋めいた夜長、涼し気な空気の中で松虫や蟋蟀が庭先で唄っている。月は出ておらず、満天の星空が玉石を散りばめたように煌めいていた。 「いよいよ明日だね」 「はい」 「結局親父に会わせられず仕舞いになってしまったのが残念だ。まあ、親父には今度帰ってきた時に君と逢ったことを散々自慢することにするよ」 柏木は上の空で相槌を打った。それからも聡一は適当に話を振るが、柏木の視線をは庭の地面に降りたままだった。 「シュウのことか」 不意に柏木の目線が少しだけ上がった。聡一は弟と似て分かりやすいなと、内心笑う。 「あれは昔からああなのだ。決して本当の気持ちを口にしない。祖父様が亡くなった時、皆が皆涙を絞っている中で、シュウだけは涙を流さず何も言わず、しばらく塞ぎ込んでいた。それは今も変わらない。祓いの力に劣る己れが身を引いて、奴がこの家の生業を継ぐことだって、本当はこの先のことが不安なくせして普段はあの調子でおちゃらけている。とんだ天邪鬼だよ」 柏木は少しずつ顔を聡一の方へと向けていた。 「そして今回もまたこれだ。全くつくづく分かりやすい、馬鹿でかわいい弟だよ。あいつは君との別れを惜しみ、そして出会いに感謝している」 「そうなんですか」 「ああそうさ。ただそれで君があいつに情を覚えて残ってやることはない。人間誰しも喉元過ぎれば熱さを忘れる。ただあいつは呑み込むことが恐ろしく下手くそなだけだ」 云い終えて聡一は大口を開けてカラカラと笑った。柏木も聡一につられて笑ってしまう。 「私、どうしてこの世界に飛ばされて来たんでしょうね」 一通り笑い声が収まると、柏木が星を仰いでぽつりと呟いた。聡一は柱にもたれかかって耳を立てた。 「飛ばされたこと自体は、向こうの世界の二体の竜による事故だったんでしょうけど。でもそれだけじゃなくて、何か意味みたいなものがあったんでしょうか」 「そうだねえ。それはきっと答えのない問いだろうし、どれが正解というわけでもないけれど、有り体に言えば」 そこで聡一は一呼吸起き、柏木の小さな双眸へと視線を注いだ。 「縁じゃないかな」 柏木はそう云った聡一の最初の言葉を繰り返す。 「縁」 「そう」 聡一は腕を組んで空を仰ぎ見た。 「誰かと誰かが関わるとそこに縁ができる。昔から『袖すり合うも他生の縁』と云ってね。どんな小さな出会いだろうと、その相手と喩え二度と再会することがなかろうと、一度出来た縁は消えることがない。やれ絶縁だ、絶交だと云って顔を合わせなくともその相手との縁は多かれ少なかれ互いに影響を与える。そうして巡り巡ってそれは輪となって己へと返ってくるんだ。それは喩え住む世界が違おうと変わらないはずだ」 そしてまた聡一は柏木の顔へと目を落とした。 「君がこの世界で繋いだ縁は向こうの世界へと帰っても途切れることはない。いろんな人、モノ、そして心を巡り渡って輪となり君とシュウを繋ぎ続けるはずだ。それこそが、君がこの世界へ来た意味じゃないかな」 柏木の中で何かがすとんと落ちた。庭先では相変わらず松虫や蟋蟀が唄い、いつの間にかそれに鈴虫までが加わっている。 「さて、いい加減眠くなってきたね。こんな夜中に付き合ってくれて礼を言うよ」 のそのそと聡一は腰を上げ、両の腕を挙げてうんと背中の筋を伸ばした。 「じゃ、また明日。おやすみ」
七、花
間もなくだった。既に太陽は端の方から欠け始め、全体の四分の一ほどが月の向こうに隠れていた。 一家は揃って千本四条の隼神社の境内に集まっていた。神主にはあらかじめ話を通しておき、賽銭をたんまりとはずむ代わりに部外者を人払いさせておいた。 太陽が欠け始めたことで、周囲は次第に暗くなりつつあった。 「元気でなあ、向こうの世界に戻ってもたまにでええから、あてらのことを思い出してなあ」 「はい、ツルさんもお元気で」 「ごめんねえ柏木、こっちにいる間に源氏物語全部読み聞かせられんで」 「いいえ。祥子さんに読んでもらった分は全て覚えましたから」 ツルも祥子もはらはらと涙を流して別れを惜しむ。聡一は交わす言葉こそ少なかったが、昨夜のことで互いに目配せし合った。そして聡一はくるりと振り返ると禊を終えた秀二郎に声をかけた。秀二郎は朱色の袴に真白の袍という出で立ちだった。 異界の門を開くのにあたって秀二郎の力も必要だと船岡山の主から云われていた。日蝕によって集まった力を利用し四神たちは異界の門に干渉するが、それはあくまで門の閂を抜く役目であり、門扉を実際に開くのは秀二郎の仕事である。 秀二郎はばつが悪そうに頭を掻きながら柏木の元へと歩く。そして奥から絞り出すようにぼそぼそと口を開いた。しかしそれを遮るように柏木は声を伝えた。 「秀二郎さん」 「なんだ」 「私、向こうに帰ったら島を出ようと思うんです。島を出て色んな物を見て、色んな人に会って。沢山の縁の輪をつなげ広げます。そう思えたのは、秀二郎さんのおかげです」 「買いかぶりすぎだ。俺はそんな薫陶な奴じゃない」 秀二郎はやはり何を云うべきか迷っているらしかった。そこで柏木はきっと睨みつけ、ひときわ大きな声で呼びかけた。 「秀二郎さん」 「どうした、何度も。そろそろ刻限だぞ」 「私の前足を握ってください。他に言葉はいりません」 そして柏木は片方の短く丸い足を懸命に差し出した。何をするつもりなのかと訝しむが、しかし秀二郎云われたとおりに腰をかがめ、柏木の差し出したその白無垢のような前足をちょいと握った。 瞬間、何か胸の方から熱いものを感じ、それが繋いだ手を通して柏木の体へと注ぎ込まれるような感覚を覚えた。同時に柏木の方からも秀二郎へ向けて何かが雪崩れ込む。 あっ、と声が漏れた。柏木の背中の葉草の中の蕾が次々に膨らんだかと思うと花を咲かせていく。開いた桃色の花々からは甘くさわやかな香りが花をくすぐらせる。 「私は向こうの世界でかんしゃポケモンと呼ばれてます。人に触れた所から沢山の感謝の気持ちを受け取ると、こんな風に体中の花が咲くんです。秀二郎さんの本当の気持ち、確かに伝わりました」 秀二郎は一瞬呆気にとられて目を見開いていたが、やがて箍が外れるかのように大口を開けて腹の底から大笑いした。そして柏木の体をむんずと掴むと両の手で高々と掲げた。 「こいつめ、図りやがったな」 秀二郎が柏木の体を抱き寄せたその時、柏木に咲く花の一つから光がこぼれた。漏れた光はやがて中空で一点に集まると、一粒の黒い種となり、秀二郎の差し出した手の上に落ちた。腕の中で柏木が僥倖とばかりに笑った。 「これは私からのささやかな贈り物です。秀二郎さんがこの先、本当に心の底から誰かに感謝の気持を伝えたい。そういう人を見つけたら、この種から咲く花を贈ってあげてください」 「な、どういう意味だそりゃ」 秀二郎はさっと頬を紅潮させた。 その時不意に空が暗くなる。仰ぎ見るともう間もなく太陽が完全に月の影に隠れようとしていた。 「シュウ、いつまでぼやぼやしているんだ。さっさと始めないと間に合わないぞ」 聡一の笑い混じりの声が飛んできた。 地に結界を張りその中に柏木が座す。秀二郎は結界の前で目をつむり、じっとその時を待つ。 そしてついに蝕は完全なものとなり、闇の影が世を覆った。その瞬間、南は巨椋池から朱雀が、東は山陽・山陰道から白虎が、西は鴨川から青龍が、そして北は船岡山から玄武が力を都の心臓へと注ぎ込んだ。隼神社の上空で日蝕で場の力が不安定となり、そこに四つの方角より力の波が迫る。互いにぶつかり合って渦を巻く。 虚空に歪みが生じ始めた。 秀二郎は目を豁然と見開き、宙に九字を切った。 「臨兵闘者皆陣列前行」 刹那、不安定となっていた場に刃を通したような亀裂が生じ、柏木の真上の空に円形の穴隙が生じた。その向こう側に天地が逆転した海と、そして島が見えた。 「あれです。あれが私たちの」 すると結界の中にいた柏木の体がふわりと浮いた。そしてまるで吸い込まれるように虚空の穴へと引き寄せられる。 「柏木――」 無意識に、秀二郎は叫んだ。その時柏木は見た。秀二郎の目尻から細い筋が光っていることを。 「ありがとな」 最後に秀二郎は虚空の穴へと消える間際の柏木の顔を見た。花が咲いていた。 間もなく雷鳴の如き轟音が響くと、虚空の穴は周囲の場が傷を埋めるように消え去り、一瞬飛ばされそうなまでの大風が吹き荒んだ。 やがて風が収まると、太陽は再び月の裏側から顔をのぞかせ、蝕は終わりかけていた。 柏木のいた結界の内は今は何も無く、ただ境内に敷き詰められている白砂ばかりが広がるばかり。 「行ってしまったな」 兄がぽんと肩を叩いた。秀二郎は手のひらに残った一粒の種にじっと目を注いでいた。 「ああ。こいつを残してくれた」 「縁の輪は途切れぬ、ということだな」 「なんだそれ」 「なんでもないよ」 聡一は秀二郎の肩を抱き、二人は歩き始めた。前の方でツルと祥子が待っていた。聡一は歩く傍らでくくくと絞るように笑う。 「それにしても今日はシュウの珍しい所も見せてもらったいい日だ」 「なんのことだ」 「お前、自分の頬を触ってみな」 なんのことやら分からず、片手で云われた通り頬に触れる。その時になってようやく修二郎は雨でもないのに頬が濡れていることに気づいた。 「あああ」 「それにお前が誰かに素直に礼を云うのを見るのも初めてだしな」 兄はカラカラと笑う。 「くそう。兄貴今夜は飲みだ。ベロンベロンに潰れるまで寝かせねえからな」 「おう、望む所だ。教授連の宴会で鍛えた己れの肝臓を甘く見るな」 まるで雀の云い合いのように叫ぶ兄弟の頭上で、蝕の終わった太陽が大輪の花を咲かせていた。
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不変のいしと育て屋のきおく ( No.13 ) |
- 日時: 2013/11/17 23:52
- 名前: コメット
- テーマ:B「石」
ぼくはご主人様が大好きだった。出会った時からずっと笑顔で接してくれたご主人様が大好きだった。いつもぼくの頭を撫でてくれて、自慢の毛を丁寧に梳かしてくれる。いつ甘えても嫌な顔をせずにまっすぐぼくの事を見てくれる。ただ散歩をする時も、バトルをする時も、ご飯を食べる時も、寝る時も、ずっと側にいてくれる。そんなご主人様が大好きだった。 出会った頃の事はあんまり詳しく覚えてない。その時に何か嫌な事があったとか、はたまた壮絶な出会いがあったとか、そんなんじゃなかった。ただ普通に草むらで会って、捕まえられて、ご主人様の仲間になった――はず。何故か記憶が曖昧で、思い出そうとしても全然浮かんでこない。でも、ご主人様はイーブイという種族が好きだったらしくて、ボールからぼくを呼び出してすぐにぎゅっと抱きしめてくれたのは覚えてる。ぼくもそんなご主人様の温もりが、感触が、匂いが、全部が好きで、それ以来お供として旅を続けてきた。 ぼくは強い技を覚えているわけでもないし、特別に高い能力を持っているわけでもない。でも、ご主人様とぼくの息はぴったり合っていて、野生のポケモンやトレーナーのポケモンとのバトルでも勝つ事が多かった。これも全部ご主人様の戦い方が上手くて、バトルのセンスがあるからだろうと思う。いつだって的確な指示でぼくを導いてくれるおかげで、ぼくもどんどん強くなれた。その度にご主人様はぼくの事を褒めてくれた。強くなれなくても良いけど、それだけは特別に嬉しかった。誰かに必要としてもらえる感覚を味わったことがないぼくには特に。旅は急ぐものでもなくて、のんびり寄り道をしながら進んでいた。いつもぼくをボールから出してくれて、いろんなものを見せてくれる。ご主人様とならどこに行って何をしたって楽しかったし、何でも吸収して賢くもなれた気がする。
ある日、ご主人様はぼくに石のネックレスを付けてくれた。それはちょっと前に手に入れたばかりのまん丸で灰色の石で、ちょうどその時の天気みたく、お陽さまを隠してしまう雲のように薄暗い変わった石だった。ご主人様は「お前には必要ない」って言ってしばらく渡してくれなかった。だから、それはきっと何かのプレゼントなんだって思ってすごく嬉しかった。何の石かぼくにはわからなかったけど、ぼくは喜びの気持ちをこめてご主人様に飛びついた。お腹に“たいあたり”しちゃって痛そうだったけど、それでもご主人様は笑って頭を撫でてくれた。これからもご主人様の役に立てるように頑張りたい。改めてそう思って、またご主人様と一緒の布団で一夜を過ごした後のことだった。 「お前を育て屋に預ける事にした。一旦お別れだ」 ――ご主人様にそう言われたのは。ぼくは最初、意味がわからなかった。育て屋なんて名前も聞いたことがないし、正直行ってみるまでは何か楽しいことが待ってるんだってわくわくしてた。でも、そんな淡い期待は育て屋の人と対面した瞬間に簡単に崩れた。「それじゃあな」なんていつもの笑顔でぼくを見るけど、それはぼくの隣ではなく、正面で見る初めてのものだった。わざわざボールから出したのも、お別れを言うためだったみたいで、ご主人様はぼくの目の前から姿を消してしまった。ばたんと勢いよく閉められた扉は、まるでご主人様に拒絶されたかのようで、とても腹立たしかった。あまりにも突然の事で、頭の中が一瞬にして真っ白になった。ただご主人様の背中を遮った扉を睨みつけるだけしか出来ない。 「君が相方なんだ。よろしく」 ぼくにとっては些細なことでしかなかったけど、どうやらぼく以外にもう一匹育て屋に置いていかれた子がいるみたいだ。紫色のぐにゃぐにゃした体をしたやつで、確か種族名はメタモンって言ったはず。ご主人様と一緒に捕まえたんだから、ちゃんと付けられた名前も覚えてる。隣にいるメタモン――確か名前はメトラって言ったはずのやつは、じっとこっちを見てくるけど、ぼくとしてはそっちに視線を返す気分じゃない。 「まあそんなにかりかりしない。預けられただけなのだから」 うるさい。ずっとご主人様の側にいたぼくにとっては捨てられたも同然なんだ。そんな呑気な事を言ってられるわけがない。だけど、こいつに文句を言ったって仕方ないのはわかってる。今はご主人様を信じて待つだけだから。半ば自分にそう言い聞かせるようにして、ぼくは育て屋でご主人様が迎えに来てくれるのをじっと待つ事にした。 育て屋の庭には他にもたくさんポケモンがいて、みんなそれぞれ主人に預けられてきたらしい。ここにいる期間は各々ばらばらだけど、結構頻繁に入れ替わるようで、預けられて長いのはほんのひと握りくらいだった。ぼくはそんなここの事情に詳しいポケモンたちに育て屋について教えてもらって、ぼくたちを鍛える場所なんだって事がわかった。なんだ、それならご主人様が育ててくれれば良いのに。そんな事も考えたけれど、ご主人様には仲間が多くいるのを思い出した。たぶん他のみんなを育てるために、一旦ぼくを預けたんだ。でもボックスの中じゃ育たないから、ここでもっと強くなってまたご主人様や仲間と戦えるようになれって事なんだ。それだったら納得だ。ご主人様が驚くくらい強くなってみせる。そんな風にぼくは育て屋での特訓を始めようと思い立ったんだ。
――そう、でも、そんなのは最初の内しか続かなかった。育て屋に預けられていたポケモンはみんな主人が迎えに来て、嬉しそうに次々とここを去っていった。ほんの三日くらいの間でここのメンバーは忙しく入れ替わっていって、ぼくが来てから残っているのは一緒にご主人様に預けられたメタモンのメトラと、少しずつ仲良くなったココドラのココくらいだった。あと他にも何匹かいたけど、仲良くは出来なくてお話した事もない。 預けられた当初は落ち着いたメトラの事があまり好きじゃなかったけど、今では良い話し相手になってくれている。時々ふざけてぼくと同じ姿になったりして、じゃれついてくるんだ。ご主人様の温もりに飢えていたぼくは、そんなメトラとのじゃれあいがいつの間に日課になっていた。ココは遊び相手でもあり話し相手でもあって、暇な時間はお互いの主人について話し合いっこする。いつもココが話すときは寂しそうにするけど、その分ぼくがご主人様の良いところをいっぱい喋って場を明るくするんだ。 「君が首から下げてるそれってさ、もしかして、“かわらずのいし”なんじゃないの?」 ココドラという種族は鋼鉄が大好きで、以前は鉱山でたくさんの岩を食べていたらしい。ある時ふと岩に詳しいココが言い出した事に、ぼくはどう反応して良いかわからなかった。いつもご主人様が道具を渡してくれる時は、その道具がどういうものかって教えてはくれなかった。でも、言葉が通じないから聞くことも出来ず、道具に関する知識はほとんどなかった。だから、ぼくは思わず何のことなのか聞き返した。 「ボクも詳しくは分からない。けど、いろんなトレーナーがそれを自分のポケモンに持たせて預けているのを何度か見た事がある。それで預けたポケモンが産んだタマゴを受け取って嬉しそうにするトレーナーも見てきた」 トレーナーがここに預ける時に持たせる道具の定番だっていうのはわかった。問題はこの石が何の意味を持つかなんだ。ココの話を聞く限りでは、石を持たせて預ける事で産まれてくるタマゴの方にトレーナーは興味を示すって事だ。だけど、それが本当なら、ぼくのご主人様もタマゴ目当てでぼくをここに置いていったって事? いや、そんなのありえない。だって、ご主人様はいつだってぼくの事を見てくれていたもの。そんなタマゴが欲しいとか言ってるのも聞いたことがないもん。だからご主人様は例外だと信じたい。信じたいんだ。 「信じるか信じないかは勝手だよ。ボクはただ君に尋ねられたから事実を答えただけ。もう一つだけ言うと、大抵そういうタマゴを求める人間は、メタモンと一緒に預ける事が多いかな。ボクもそうだったから。特性がそのトレーナーが目当ての“がんじょう”じゃなくて、“いしあたま”だったから……」 ここで追い討ちをかけるような情報を告げられて、横にいるメトラと目が合った。点になった目で、いつも何を考えているのかわからないような点のような目と向かい合っている内に、徐々に嫌な予感が実感として押し寄せてきて、いてもたってもいられなくなった。一刻も早くご主人様の元に戻って不安を取り除きたい。その衝動からぼくは育て屋から脱走しようとした。でも、預かった全てのポケモンを管理している育て屋でそんな事が叶うはずもなく、ぼくはあっけなく捕まって庭へと戻された。 それから何日が経っただろう。育て屋の人たちはぼくを問題児として目を光らせるようになったみたいだけど、今さらぼくには関係なかった。その一件以来、別に飛び出したいとも思えなくなっていた。そしてぼくは、ご主人様が笑顔で迎えに来てくれるのを待つのを止めた。あの優しい笑顔は、次はぼくのタマゴから生まれる子に向けられるんだろう。そう思うととても胸が苦しくなって、他に何も考えられないくらいになる。こんな事は本当に初めてだった。ご主人様から離れる事がこんなに辛いなんて、思ってもみなかった。会いたいけど会いたくない。会ったところで絶対にぼくに目を向けてくれない。それが未だ起こらない事への膨れ上がる嫉妬心なのか、それとも捨てられてしまう恐怖心から生まれる妄想なのか。どっちかわからないし、知りたくもない。でも、そんな事を考えている自分がいつの間にかいるのだと気づいてしまうと、ぼくはもうどうして良いのかわからなくなった。 ご主人様の温もりがなくて寂しいよう。どうしてここに置き去りにしたの? いつだってどこだって付いていくのに。あんなに楽しい時間を過ごしたのに。あんなに一緒に笑ったり泣いたりしたのに。あんなにご主人様のために頑張ったのに。全部偽りの笑顔だったのかなあ。ぼくには人間の言葉を話せないし、ご主人様もぼく達の言葉を喋れるわけじゃない。だけど、ぼくは言葉なんか通じなくても良かったんだ。隣にいて同じ時を共有する、それだけでご主人様と一体になれる気がした。そうやってずっと一緒にいるのがご主人様には息苦しかったのかな。ぼくはエスパーのポケモンじゃないし、心を読むことも出来なければ、表情の裏にある感情なんかわかりっこない。わかったところでもう遅いとは思う。だからご主人様についてあれこれ悩むのはおしまいにしようと考えた時もあった。 でも、やっぱりぼくはご主人様が大好きだ。どんなに辛い状況でも明るく励ましてくれた。旅の途中で土砂降りに遭った時だって、大丈夫さって言いながらぼくを抱えて必死に走ってくれた。あの笑顔は嘘じゃないって思いたい。どこかでぼくに見せない顔があったとしても、ぼくに向けてくれるあの微笑みだけは本物だと思いたい。いつしかばつの悪さから距離を置いていたメトラにその話をしてみると、ぼくと同じイーブイに変身して精一杯笑いかけてくれた。ぼくを慰めてくれようとしているのかな。ぼくはいつも以上にメトラに強く抱きついていた。このメタモンの姿も偽りの姿だけど、ちゃんと肌で感じる暖かさは本物だ。毎日感じていたご主人様の温もりには到底叶わないけど、メトラがいてくれるだけでも充分だって思えるようになった。 いつだったか、今と同じような思いをした事があるような気がする。でも、ご主人様と一緒にいた時にそんな取り残される恐怖を感じた事は全くと言って良いほどなかった。だったら、この妙な胸騒ぎの原因はなんなのだろう。何だかとっても大事なものを忘れているような――そう、ご主人様との出会いや、本来いるべき“おや”という存在について、何も思い出せない時のあの違和感。今まで思い出せなかったんじゃない。思い出そうとしなかったんだ。もしくは思い出したくなかったんだ。 あれ? だったらぼくの“おや”って誰なんだろう。ぼくと同じイーブイから進化したポケモンのはず。その姿は見た事がないけど、大体一目見れば自分と似ているから、すぐにわかるはずなのに。でも、ぼくは何にも覚えていない。記憶の欠片にもない。いるはずの親が思い出せない。自分の存在すら怪しく思えてしまうような重要な事実が欠落している。これってどういう事なのかな。実はぼくはいてはいけないような子なのかな――そんな事も時折考えてしまう。 ううん、こんな不毛な事を考えて迷うのはよそう。自分の中でさっさとけじめをつけて、今日も育て屋の人が作ってくれたご飯を食べるんだ。ぼくはメタモンとココドラと一緒に、いつものように育て屋の建物の中に入った。美味しいものを食べて暗い気持ちを吹き飛ばそう。今日は何だか疲れたから、ぐっすり眠って、また明日楽しく過ごせるように体力を付けよう。そしたら次の日も、そのまた次の日も、ここで頑張るんだ。そうしたらいつか見直したご主人様に褒めてもらえる。そして、そして――
「すいません! イーブイを引き取りに来ました!!」 明日は何をしようかと考えているところに、聞き覚えのあるはきはきした声が聞こえてきた。気がつけばぼくは後先考えずに真っ直ぐ駆け出していた。入口へと続く廊下を抜けると、そこには帽子を被った男の子が息を切らせながら立っているのが見えた。ポケモンを預かる台が邪魔してるのとぼくが背が低いのもあって、顔くらいしかはっきりと見えなかったけど、その青い目がぼくと合った時、胸が激しく鼓動を打つのを感じていた。胸の高鳴りは段々と強くなり、ぼくの息も苦しくなり、それでもその原因を作る相手からは目を離せなかった。 「カイト、待たせてごめんね。ようやく迎えに来れたよ」 視界に飛び込んできたのは、見るだけで心が安らぐあの笑顔。子供っぽい無邪気さとちょっと大人びた雰囲気の混じった顔つき。ご主人様が付けてくれた名前を呼ばれた途端に、耳がぴんと立った。ここに来る前までなら一直線に飛びついていたのに、今はどうしても足がこれ以上前に出ない。こんなにご主人様との距離が遠いなんて感じた事は今までになかった。もうすぐ先にいるのに、どうしても勇気を出して一歩を踏み出す事が出来ない。ぐるぐるといろんな思いが渦巻いて、それがぼくの足を鎖のようにがんじがらめにするんだ。何か視線で訴えかけようとしても、さっきまでの負の感情を感じ取られるのが嫌で思わず目を逸らしてしまう。 「そうか、そうだよな。育て屋はお前にとって、決して良い思い出がある場所じゃないんだ。気づいてやれなくてごめんな」 まだ目を合わせる事は出来ない。その代わりにご主人様の言葉が耳に入ってくる。でも、何の事かさっぱり理解できない。でも、それは見当がつかないって意味じゃない。うっすらとだけど話が見えてきた。見えてきたからこそ、余計に聴くのが怖くてますますご主人様から遠ざかりたくなる。ここで逃げては駄目だとわかってるから、足を後ろに引きそうになるのを必死に抑えて我慢する。 「お前は元々、ここの育て屋に取り残されていたタマゴから生まれたんだよ。引き取り手になるはずだったトレーナーがタマゴのまま置いていったんだ。お前が産まれてまだ間もない頃にその話を聞いて、おれが引き取る事にしたんだ。だから、おれはあんな最低なトレーナーとは違うって言いたかった。置き去りにするつもりなんかさらさらなかったんだよ」 ちらりとだけご主人様の顔色を窺ったら、トレードマークの笑顔が消えてしまっていた。ぼくに向けているのは悲しそうな瞳。せっかくの青くて綺麗な瞳が濁っちゃうよ。やめて。そんな顔しないで。ぼくは笑ってるきみが好きなのに。そんな曇った顔をしていたら、ぼくまで悲しくなっちゃうじゃないか。 でも、お陰で前から感じていた不安の原因がようやくわかったのは事実だ。ぼくは、そう、前の主人に捨てられたんだ。それをご主人様が拾って育ててくれた。これでご主人様との出会いや“おや”の顔が記憶にないのも納得だ。今さら前の主人に対する未練なんかこれっぽっちもない。今のご主人様が大好きだから、今のままでいい。だけど、まだ大きな疑問が残ってる。どうしてこの石をぼくに持たせて、わざわざここに預けたのか。それがまだ聞けていない。言葉にして伝えられたらどんなに楽だろう――なんて願いは心だけに留めておく事にする。代わりに今度はちゃんとご主人様と向き合って、首からぶら下がっている“かわらずのいし”のペンダントを見せて鳴き声で訴える。 「ああ、それももしかしたら誤解を生んじゃったのかもな。ただおれは、おれなりにお前のために何かしたいと思った。お前をここに置いていったトレーナーの居場所を偶然聞いてな、話をつけてやろうと捜し回ってたんだ。ただ、お前にとってはトラウマかもしれないし、安全なところで待っててもらう方が良いと考えた。ボックスの中よりものびのびできるのはどこかって思いついたのがこの育て屋だったんだよ。それで、お前にはずっとそのままの姿でいて欲しくて、この石を託したんだ。お前への変わらない思いも篭めたつもりだった。メタモンを一緒に預けたのも、同じ姿になれる奴がいれば寂しい思いをしなくても済むだろうと思って……。でも、ごめん。おれがお前の気持ちを理解してやれなかったから避けてるんだよな。本当に悪かったよ、カイト」 ぼくには前の主人なんてどうでも良いのに。そう言いたいけど、これを言葉じゃなく伝える事は出来ない。それにご主人様の言う難しいことはぼくには少しわからない。でも、ご主人様の目から一筋の涙がこぼれ落ちたのを見て、何となくわかった気がする。この変わらずの石は、ご主人様の変わらない意思の表れでもあったんだ。そして、ぼくがその思いを間違って受け取っていたんだ。ご主人様はぼくの事を見捨ててはいなかった。それどころかずっと思っていてくれた。なのに、ぼくはご主人様の事が信じられずに、つまらない意地を張っていたんだ。最初からココの言う事を間に受けずに、ご主人様を信じていれば良かったのに。自分の望むままに行動していれば良かったのに。何とか謝ろうとして、なけなしの力で首を振ることは出来たけど、ご主人様を少しでも疑った自分が恥ずかしくて、顔を上げられなかった。 そうやってずっと俯いていたら、急に体が浮き上がった。びっくりして顔を上げると、真ん前にご主人様の顔があった。まだ頬には涙の跡が残ってるけど、また屈託のない明るい笑顔が戻っている。あっけらかんとしているところがご主人様らしいと言えばご主人様らしい。 「でも、これからはまたずっと一緒にいられる。もう二度と預けたりしないし、置き去りになんか絶対にしないよ。約束する。だから、またおれと旅をしてくれるか?」 ご主人様に持ち上げられた体だけでなく、まるで空を飛ぶ魔法にかかったみたいに心も軽くなるような感じがした。一度は拒みかけたのに、またぼくを笑って迎え入れようとしてくれている。ご主人様の誘いにどう返していいかとっさに出てこなくてわたわたしちゃう。その間も終始笑顔を向けられて、何だか何の心構えも出来ていない自分が後ろめたくなって、どんどん顔が火照っていく。穴を掘って逃げたいけど、さすがに捕まっている状態ではそんなわけにもいかない。後は自分の本心を乗せて、とびきりの笑みを見せつけた。それだけで、後は充分だったんだ。ほんのちょっとだけご主人様から遠ざかった出来事は、もっとご主人様と近くなれるきっかけになってくれた。
いつまでも変わらない信頼の証――それは、“かわらずのいし”と、ぼくとご主人様の笑顔。大事な大事なその証を、ぼくはその後もを肌身離さず身に着けていた。イーブイのままでもご主人様といられるように、ご主人様の期待に、思いに、しっかりと応えられるように。ご主人様のこの顔が大好きだから、ぼくは頑張れる。ご主人様の優しさがあるから、ぼくはいつでも側にいたいと思える。ご主人様の真っ直ぐさがあるから、ぼくは素直でいられる。ぼくはもう、自分の意思を揺らがせない。変わらないこのままの姿と心で、ぼくはご主人様の隣を歩き続ける。ずっと、一緒に。ずっと、ずっと――。
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結果発表 ( No.14 ) |
- 日時: 2013/12/08 21:00
- 名前: 企画者
- ◆結果発表◆
(敬称略)
☆1位 【A】月明かりの下、魔法使いとワルツを。 黒戸屋/26pt >>5 2+2+2+2+1+2+3+3+3+2+3+1
☆2位 【B】びいだまよほう。 海/18pt >>6 1+4+1+1+1+2+3+2+3
☆3位 【B】缶コーヒーと秋の空 鈴志木/16pt >>4 2+2+2+1+2+2+1+2+1+1
☆3位 【A】洛城異界居候御縁譚 わたぬけ/16pt >>12 2+2+1+1+3+3+3+1
☆5位 【A】車輪は歩くような速さで 曽我氏/11pt >>7 2+2+2+1+1+1+1+1
☆6位 【A】リフレインレポート オンドゥル大使/7pt >>2 1+2+1+2+1
☆6位 【A】エネコなんかよんでもこない。 乃響じゅん。/7pt >>11 1+1+2+1+2
☆8位 【B】LIFE 水雲/4pt >>1 1+1+2
☆9位 【B】変わらずのいし ホープ/3pt >>8 2+1
☆10位 【B】ご主人の視線を取り戻せ リング/2pt >>3 2
☆10位 【B】イワガミ様の伝承 レギュラス/2pt >>9 1+1
☆12位 【B】進化のキセキ 穂風湊/0pt >>10
☆12位 【B】不変のいしと育て屋の記憶 コメット/0pt >>13
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総評 ( No.15 ) |
- 日時: 2014/01/26 20:49
- 名前: 管理者
- ☆ 総評 by 照風めめ
わたぬけが不在ということで、変わりまして照風めめがご挨拶致します。 当方も最近は多忙が続いており、まだ企画作品を読み切れていないので作品内容については触れませんがご容赦ください。 今回は多忙であることを予見して、企画の運営のアシスト役をホープさんにお願いしました。 あまりよく引き継ぎが出来たか不安でしたが、企画開催中の様子を遠目から見ていて、活力を感じることが出来ました。 今までにないシステム導入の英断と、それに怯まず果敢に参加していただけた皆様の熱意が今回の文合せからは溢れています。 現時点では今後一体どうなってしまうのか、というのは残念ながら一切想像することが出来ません。 しかし何かしらの形で、また皆様とこういう機会で出会えることを楽しみにしております。 改めて投稿、投票、或いは閲覧等していただきありがとうございました。
☆ 総評 by ホープ
皆様、秋の文合せはいかがでしたでしょうか。投票・投稿が新しい方式になり戸惑った方もいらっしゃったかと存じますが、楽しんでいただけたのならば幸いです。 投稿された作品を振り返りますと、今回の作品は多彩なものが集まったように思います。テーマを考えた側である私ですが、テーマである『輪』と『石』が想像もしていない方向で使われていたりと、驚かされることも多くありました。二つのテーマでこれだけ様々な作品が出るのは文合せの良い点ではないかと思います。 さて、今回から企画を二つの部門に分けました。間口を広くし、たくさんの方にこの企画に触れてもらいたい、との願いを込めて私が提案させていただいたものです。しかし、今回の文合せではイーブイ部門とタツベイ部門で盛り上がりに差が出てしまい、私としては非常に残念な結果となりました。次回からはこのようなことが起こらぬよう、相違工夫を凝らし、盛り上げていきたいと思う所存です。 投票については、なんとタツベイ部門のほうでは投票率十割を達成しました! 義務化したから当然といえば当然なのですが、それでも誰一人遅れることなく投票が行われたことは素晴らしいと思います。 全体として今までの文合せの流れを変える変更が多く、不安な面もたくさんあったのですが、総計十七の作品が投稿されたことで心底安心できました。もう一度お礼申し上げます。ありがとうございました。
さて、私は初めてこの文合せに携わらせていただきました。一企画者としてはまだまだ未熟であったため、管理人様であるわたぬけ様や副管理人様の照風めめ様にはたくさんの迷惑をおかけしたと思います。それでもこうして企画を終えることができたのは、わたぬけ様や企画に参加された皆様のご協力があってこそです。ありがとうございました! 次回の文合せをより一層楽しめるような企画にするためにこれからも努力していこうと存じます。それでは、また次の企画でお会いしましょう。
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