【テーマB:石】LIFE ( No.1 )
日時: 2013/11/05 19:44
名前: 水雲 メールを送信する


 自分だけでやけに盛り上がっている、ルルーからすれば歯牙にもかけない奴が夕べの最後の相手であった。

 一回目のチャイムが鳴る。
 夏真っ盛りで寝苦しい季節になったとはいえ、普段ならそのくらいではまったく起こされないほどに深く眠りこけている。はずだったのだが、やはり眠りが浅かったらしい。今日は目を覚ましてしまった。視界の奥に薄暗い天井をぼんやり呼び戻し、寝返りを打って確認する時刻は昼前。まだ数時間は夢の中でも許されたはず。
 なによもーせっかく寝てたのに。
 久しぶりの休みだし、居留守使って二度寝しよう。そんな怠けた思考へ差し込むかのように、二回目のチャイムが鳴る。
 ああ、こりゃだめな相手だわ。蒸し暑さも覚え始めたので、ルルーは潔く諦め、手短にお引き取り願おうと重い体を起こした。
 薄汚れた鏡で寝起きの顔をチェック。肌身離さず首からかけているネックレスの石が、鈍く光っている。客には到底見せられないほどの面構えに化けてしまっているが、逆に好都合と開き直った。だらしない足取りで玄関に向かう最中に、とうとう三回目のチャイムが鳴る。もう鳴らせまいといったやや雑な動作でドアノブに手をかけた。
「はいはいどちらさんで」
 相手は、子供のムウマだった。
 お互い、数瞬だけ硬直した。
 すう、とルルーの頭から眠気が氷解していく。
「あのっ、ここはルルーさんのおうちで間違いありません、か?」

「おとうさんからは、ルルーさんはサーナイトだと聞いたんですけれど」
 あー、あのバカ兄貴と最後に別れたときからあたしキルリアのままだったっけ。ルルーは苦い表情を背中で隠しつつ、そのバカ兄貴の娘であるらしいムウマのメアナを借家へとあがらせた。捨てられっぱなしとなっているタオルやら化粧瓶やらを大股でまたぎながら、おのれの不精さをしばし哀れむ。
「だらしない生活してるなあ、って思ってない?」
「え!? いや、そんなことは!」
 同意を求めてみたが、案の定、図星だったらしい。ひっくり返したおもちゃ箱の世界に迷い込んだかのように見回しているのが背後でも伝わってくる。シンクロを使うまでもなかった。そして残念ながら、否定する気にもなれなかった。どれもこれもが『公のルルー』の残骸であり、『私のルルー』としての生活の部分はほとんど失われている。床らしい床を無くしてしまった分だけ、あばら屋の無秩序さを一層際立たせていた。歳月を経て壁の奥まで染み込んだものなのか、どれだけの換気を施しても、生々しい空気がよどみ、部屋の隅に自然ととどまって堆積し始める。
「散らかってるけれど、とりあえず適当なところでくつろいで」
 そう口にしつつも、散乱したものを今からでも整理しようという態度がルルーからは一切感じられない。カーテンだけでも開けたのは、自分も光が欲しかったからだ。久しぶりの来客をもてなす気力が湧こうとしない。
 ましてや、駆け落ちして実家から出ていった実兄の娘ならば、なおさらであった。
 とうとう、叔母と呼ばれる頃にもなってしまったのか。
 歳をとるとこれだから。
 両親とぶっつり縁を絶ちきってしまい、兄貴は帰るところをみずから無くしたわけだが、ルルーとは年に数回だけ簡単な連絡を取り合っていた。記憶にないが、独立後のお互いの新しい住所を伝えあったことも、当初そういえばあったかもしれない。向こうは確か6番街だったから、方角を意識してちょっと足を運べば、子供でも比較的容易に来られる距離である。
 しかし。
 よりにもよってこんなちっこい娘だけを突然よこすとは、いったい何事であろうか。
 嫌な予感がする。
 昔から兄貴とは決して折り合いがよくなかったし、独立したら無闇に干渉しあわないことが暗黙の了解だったはずだ。しかし、この現実はそれと明らかに矛盾している。どういう風の吹き回しなのだろう。
 まさかの育児放棄。
 ならば今日から馬車馬のようにこき使って意地悪な継母を演じるのも一興だろうと思ったが、メアナの顔色や体づきを見るに、そう苦労した育ちもしていないはずだ。これなら自分のほうがよほど不摂生な生活をしていると言える。子供時代の仕返しの標的を実の娘へと移したら、漏れなくサイコカッターが飛んでくる。
「ここに来たってことは、何か理由があるんじゃないの」
 さっきまで惰眠の温床にしていたぺたぺたの万年布団にぽっすりと尻を落とし、メアナとしれっと見つめる。ルルーからすればいたって普通の上目遣いのつもりなのだが、どうやら睡眠と化粧が足りない顔つきのせいで、ひどく不機嫌そうに見えるらしい。メアナは少し縮こまった様子で、細々と話を繋げ始めた。
「わたし、今、学校が夏休み中で、宿題をいっぱい出されたんです」
「あー、夏休み。懐かしい響き。明日も休み。明後日も休み。ずっと休み。いいなあ、あたしもそんくらいの頃に戻りたい」
 今が夏本番だということを再認識すると、この部屋の息苦しい熱気と風通しの悪さがなおのこと露わとなった。窓を開けたい気分になったが、いつにも増してお盛んなテッカニンどもがやかましく騒いでいるだろうし、まずはメアナの話を聞き込む。適当な相づちを打って相手の舌を回させるのは、ルルーの商売では欠かせないのスキルでもあった。
「宿題のひとつで、まわりのおとなたちのお仕事を調べてこよう、ってのがあるんです」
 え。
「なんだ。簡単でしょ。ばかあに――お父さんとお母さんから聞けばいいじゃん」
 メアナは深くうつむきになり、
「三つ以上なんです。おとうさんとおかあさんのだけじゃ足りなくって、そうしたらルルーさんのところにも行きなさい、って、」
「ああ、なるほど。ひとつやふたつじゃ、両親のだけ調べてはいおしまい、だもんね」
 最悪最低の取材相手である。
 メアナにとっては。
 これはいつの喧嘩の報復なのか、とルルーは子供時代を振り返る。あれか、あのときか。それとも別のあのときなのか。だとしたらあんにゃろう、まだ根に持ってやがったか。仕返しに自分の子供を使うかふつー。子供相手でこちらが本気になれないことを逆手に取っているとみた。娘は宿題をひとつやっつけることができ、こちらは時間をとられて面倒くさい思いをする。図々しいことこの上ない。昔からあのいやらしい性格は変わっていないようだ。ご健在でなにより、と心中で苦笑をこぼす。
「つってもなー。あたしの仕事、結構特殊でアレだし、宿題に使うにはヤバいかもだし、」
 やめといたほうがいいかもよ――わずかに残る良心でそう告げようとしたところで、ふと口を閉ざす。ルルーは寝床から尻を引っこ抜いて四つん這いとなり、宙に漂うメアナの周囲をぐるりと一周。いたいけな容姿をまんべんなく舐め回すように見て、
「――いや。その格好、年齢。進化には条件がある種族――」
「え?」
 いけてるかも、と思った。
 ルルーの中で、ちょっとした勢力が生まれた。細い手を自分の顎に添え、若干首を傾げ、少しばかりの考えごとを始める。
「ここに来る前、繁華街のほうには行ってみた?」
「いや、なんだかおとながいっぱいで、近づきにくい感じで、まっさきにここへ来ました」
 よしよし。ならば問題ない。ルルーはどこか満足気な表情をして、再びずるずると定位置に戻る。
 バカ兄貴よ、あてつけのつもりなのだろうが、残念ながらあと一歩及ばなかったようだ。あんたには忘れていることがひとつある。それは、自分があんたの妹だということだ。伴侶もいないメスのキルリア一匹がここ7番街でどのようにして糊口をしのいでいるのか、そこまで下調べする余裕はなかったようだ。
 メアナに罪はないが、『ガッコーのシュクダイ』ならば仕方がない。建前があろうとなかろうと、訊かれたのならば答えるのが大人の義務ってもの。
 色香の「い」も知らなそうな子供に社会の一片を知ってもらう、またのない機会なのだ。
 半目で表情を戻そうとしないルルーをよそ目に、メアナは自分の体とさほど変わらない大きさの鞄から手際よく鉛筆とノートを取りだした。あの兄貴からできた娘とは思えないほど、実に勉強熱心だ。
「実は昨日もおじゃましたのですが、どうやら外出中だったみたいで。もしかして、仕事はお外でしてるんですか?」
 そりゃ気の毒なことをした。ほんのりとそう思うのだが、これから出す答えが答えなため、あまり罪悪感を覚えない。
「そこは正解。じゃ、そこから当ててごらん。いきなり答え言ったら勉強にならないだろうから」
 ま、子供のあんたじゃ絶対に当てられないだろうけれど。
「お花屋さん?」
 はずれ。
 当てずっぽうなのだろうが、いきなりきわどいところを突いてきた。ある意味で。
 今度こそメアナは時間をかけて考え、あたりを再度見回し、
「化粧品とか、香水とかを売ったり?」
 はずれ。
 ルルーもミラーボールのごとく自室を睥睨し、
「確かに化粧品はよく使うよ。商品じゃないけれどね。床に落っこちている瓶とかはほとんどそれ関係の香水。ここに入ったとき、甘ったるい匂いしてるなって思わなかった?」
「え、それは――はい。ちょっと思いました」
「正直でよろしい。どうもねー、この仕事やってると嗅覚が鈍っちゃって、いつの間にかこんな空間で普通に生活するようになっちゃったの。まあそれでも片づけしないのはあたしがだらしないせいなんだけど。おうちで『お片づけしなさい』ってよく怒られてる?」
「う、怒られてます」
 なんだ、意外にちゃんとお父さんやってるんだ。こんな魔窟へ連れ込まれてそわそわしてるってことはそういうことなんだろうな。
「じゃあ、ネックレスとか、アクセサリーを売っているお店?」
 はずれ。
「どうしてそう思うの」
「ルルーさんの、そのネックレスが気になって」
 着眼点は悪くない。
「まあまあ惜しいけれど、このネックレスに目をつけたのはいい線いってる。あたしの仕事には絶対必要なものだし。この石、学校で教えられたことない?」
 ルルーは灰色の丸い石がはめ込まれたネックレスをつまみ、メアナの眼前まで近づけてみせる。メアナは何も答えられないのか、首をふるふるとするだけだった。
「お薬屋さん――では、ないですよね」
 はずれ。
「じゃないとしたら、どこか病気とか、ケガとかしてるんですか? さっきも歩き方がちょっと変でしたし」
 な。
 小机の上に放り捨てていた藥袋にまで目をつけられていた。この小娘、片っぱしから思いついたことを挙げているにせよ、本当にきわどいところへ斬り込んでくる。
「ああうん、大丈夫。昨日の夜はしんどくてね、肩こりとかが残ってるのかも。だから今まで寝てたわけ。帰ってきたの、夜中の3時だもん」
「えっ、そんなに遅くまで働いているんですか!?」
 まるで五色にも切り替われる交通信号機を発見したかのような驚きぶりである。大人にも門限があるとでも思ったのだろうか。
 うん、とルルーはカレンダーに目をやって、日付と曜日、手書きの番号を確認する。
「もちろん夜遅い分、働き始める時間も遅いから、午前中はゆっくりできるよ。朝寝坊する心配もあまりなし。わかりやすく例えるなら、お昼に登校して、やっと一時間目が始まる感じ。で、昨日は仕事、今日は休み。だから実際の仕事風景を見せられるのは明日かな」
 へええっ、とメアナは他愛もなく感心した。
「平日でも休みってあるんですか」
 いいなあ、と顔に書かれてあった。
 無邪気そのもののメアナは段々と調子づいてきたのか、立て続けに質問を飛ばしてくる。それに合わせて、ルルーも饒舌気味となっていく。両手を後ろに回して背中を支え、天井の木目を目でなぞる。
「そ。だって考えてみてよ。今日は日曜日だからお仕事しませーん、ってやつばっかりだったら、いざ買い物行ったときとかだーれもいなくて困るでしょ?」
「あ、そっか」
「だからあたしみたいに、休日とかにも働いて、代わりばんこで休むっていうパターンもあるわけ。わかった?」
「はい、わかりましたあっ!」
 将来は探偵か、はたまた記者か。鉛筆を走らせる速度が上がる。
 知らないことを知って嬉しくなれるとは、まったく単純な思考回路である。
 それが、ルルーにはちょっとだけうらやましい。
 自分にも、そうして純粋に生きられる時分があったかもしれない。なかったかもしれない。
 もう、昔のことだ。
「そこのカレンダーに、番号が書かれてあるでしょ。あれ、あたしの仕事が始まる時間を簡単に表示してるの。明日だと遅番だから、夜からね。あ、そういえばどうするの、泊まってくの? それともいったん帰るの?」
「せっかくだから泊まって行きなさい、って言われました」
 やっぱりか。
 ルルーは後頭部をかき、
「ま、いいや。来ちゃったもんはしょうがないし。だけど、メアナ」ルルーはいったん口をつぐむと、上半身をゆらりと前方へ傾け、両手を床につき、今度は本気でキスしにかかるような距離にまで、メアナに顔を迫らせた。その表情には先程までのやさぐれ女の態度は消え去っている。「ふたつだけ、約束して」
「はい、なんですか?」
「これから教えるあたしの仕事のことを、あんたが宿題にするしないはもちろん自由。まあ貴重な夏休みを潰してせっかく寝泊りに来るぐらいだから、したほうが時間の無駄にならないかもしれない。でも、なんにせよ、世の中にはかっこいい仕事ばかりじゃない、こういう商売もしている大人もいるんだってことを忘れないでほしいの。これがひとつ目。
 で、悪いけれど勝手に7番街へ遊びに行くことは絶対だめ。どうしても外に出たいときはあたしと同伴で。どうせ明日の夜には一緒に職場に行くんだし、今日一日は我慢して。これがふたつ目。
 わかった?」
 少々凄みをつけすぎてしまったかもしれない。メアナはルルーの気迫に押されたのか、それとも言葉の意味を理解しきれなかったのか、とりあえずといった返事をした。
「はい、わかりました」
 よし。
 これで一応の作戦の段取りは組めた。
 緊張をほぐすつもりで、ルルーはメアナの頭をぽんぽんと軽く叩く。
「ん、じゃあもうお昼だし、ご飯にしよっか。簡単なものなら作れるから、レポート書いてちょっと待ってて」
 メアナを部屋に残すと、申し訳程度に設置された台所で立ち尽くし、ルルーは物思いにふける。思考状態が偏るあまり、危うく食いかけのポフィンを皿に乗せようとして、踏みとどまる。兄貴が好きなものならメアナも喜ぶだろうと思ったが、そういえば兄貴の好きな食べ物を何ひとつと憶えていなかった。
 ――あたしももうちょっとまともな生活してたら、あんな子供に恵まれたのかな。
 考えごとにはまりすぎて、自動的に手を動かしていると、自分がよく口にする、本当に簡単なものばかりがいつの間にか出来上がってしまった。それでもメアナはよその家での食事が珍しいのか、普通においしいおいしいと消費してくれたので、ものの10分で昼食は終わった。ルルーはオレンジャムをつけたクラッカー2枚をぼりぼりとむさぼるに済んだ。
 腹を軽く埋めると、再び睡魔が働き始めた。えふぇあ、と顎の外れそうなあくびを吐き出し、ルルーは寝床に潜り込む。
「さて、夢の続きでも見よ」
「ええっ、また寝るんですか!?」
 甲高い声が耳に刺さり、腰を抜かしたとばかりの驚きが感情を突く。みんながみんな、機械のように毎日同じ時間で規則正しく生きているとでも思っているのだろうか。学校という決まり事だらけの庭に入れられたらそう考えるのも致し方ないとも思うが、世間はそこまで狭くない。
「そーよ、悪い? 大人ってのはね、毎日仕事でくたくたなの。あんたのお父さんもお母さんも、疲れている中であんたの未来に投資したくて必死で労力費やして育てているの」
「むずかしい言葉、わかんないです」
 ああもう。
「悪いけれどここは遊び場もあんたに扱えそうな玩具もないよ。やることなくなったのなら、明日に備えて寝ときなよ。お互い、いろんな意味で疲れると思うから」
「今寝ると、夜寝られなくなっちゃいます」
 子供かあんたは。
「って子供だったっけ。とにかく、あたしの活躍の場は明日。今日はゆっくり休みたいから。じゃーね、お休み。さっきも言ったけど、勝手に外へ行ったらあたし本気で怒るからね」
 じらすなりなんなりで、ぎりぎりまでメアナの好奇心を高めておかなければ、最大限のインパクトを逃してしまう。それ故の判断だ。

 明日になった。
 家を出て約10分。繁華街の大通りに入ると、四つ目の角で右折。狭い路地を渡り、はす向かいの左側。目印はネオンライトのきつい看板。
 ルルーの働く店は、そこにある。
 約束通り、翌日の夜にメアナをそこへ連れてきた。
 予想通り、店は店員たちの黄色い歓声で華やいだ。
「えええ、リアン、どうしたのこの子、かわいー!」「え、あの、」「あたしの姪っ子」「あの散々悪口言ってたお兄さんの?」「らしいよ」「らしいよって、かわいそー! よそ事みたい! こんな小さい子こんなところ連れてきて! よしよし、リアンにひどいことされなかった?」「黙って聞いてればなにさ、あたしがひどい事言われてるんだけど」「うん、素質あるよこの子なら。進化もしてないし、有望株かもね」「それは兄貴の教育次第、かな」「でもいきなりどうしたの」「ガッコーのシュクダイでシャカイベンキョーしなさい、だって」「だからってここはまずくない? あ、可愛いから私は全然構わないけど!」「あーあ、わたしもこんな子供欲しかったなあ、今からでも辞めて適当な客引っ掛けて飛ぼうかな」「それ本末転倒じゃん」「きゃく? とぶ?」「あーあとでわかるあとでわかる」
 挙げていけばキリがない。大体このような世間話が15分はぶっ続いた。
 大きく艶やかな外見に見合わず、店内はむしろシックな感じに仕上がってある。音響装置からはいつの時代かに流行ったジャズが延々と流れ続け、受付嬢は来客者たちに愛想を振りまき、財布の紐を眈々と狙っている。
 しかし、それはあくまでも店の表の顔。個室を抜け廊下を抜け、共同の大きなスタッフルームにまで来ると、この店の裏側が実態を表す。ミックスジュースとばかりにまぜこぜとなった香水の匂いが天井まで埋め尽くされ、化粧台が部屋の端にまで列をなし、花畑と鏡の世界を足して円周率でもかけたような光景である。店員はそこで肩を並べ、自分の顔が変わり果てていく様をじっと睨みつける。いくら体を洗っても落ちそうにないこの匂いがとうとう自宅にまで及んだため、帰宅しても家に帰ってきたという感覚をルルーはとうに失っていた。
 メアナには、ここが何なのかいまだわからないだろう。ルルーが自宅を店の一部と思うのと同じで、メアナはここをルルーの自宅の一部だと思っているかもしれない。
 きゃいきゃいと囲まれ、少しのぼせただろうといったところで、ルルーはみんなからメアナを取り上げ、並んでソファーに座った。外野はぶーたれつつも準備を始め、ルルーはその中でせわしなく動いている一匹を指さし、
「あのミミロップがこのハコ――お店の店長さん」
「綺麗な方ですね」
 オスなんだけどね、とは言わないでおいた。それもそのはず、軒を連ねる店の中でもここはかなり特異な部類で、顧客の要望に沿ったサービスを展開している。つまり、オスもメスもその中間もそれら以外もまんべんなく取り揃えているそーとーえげつない店であり、しかしその柔軟さが人気を呼んだ、7番街ではそれなりの定番スポットなのだ。
 そして、状況を読み込めていないメアナの表情を察するに、こちらもこちらでそーとー筋金入りの箱入りとして育ってきたようだ。
 そうこなくてはならない。
「そんじゃ、あたしも準備してくるから、みんな、あとはよろしくね。マジでなんにも知らないみたいだし、好きなだけ可愛がってていいよ」
 もっちろーん、と綺麗に声を揃えて、メアナを除く全員がルルーを見送った。ルルーもルルーで、邪悪な笑顔で場を離れた。
「え、あ、ルルーさん? わたし、置き去りですか? 何をすればいいんですか?」
 ルルーは足を止め、一度だけ振り返る。
「決まってるじゃない、勉強よ。まさかピクニックに来たわけじゃないんでしょ。あたしの代わりにそこのお姉さんたちが相手してくれるから、話たっくさん聞きなよ。そしたら、嫌でもわかるから」
 トドメの一言、
「ここがどういうところか」

 訊く側だったはずが、何故か逆に訊かれる側となっていた。
 メアナになおも興味津々で寄ってくるのは、ポッタイシであるポルカ、ジャノビーであるリィファ、ジヘッドであるチオンの3匹だった。もしもここにいる全員がオスだったのならば、メアナもいくらか怯えただろうが、その仮定に反してメスだったために、緊張こそするものの嫌という気はしなかった。ルルーと違って愛想がよく、また器量も良く、なるほど、質問に答えてくれそうな感じだ。
「リアン、何もこんなところで放置することないのにね」
 ポルカのつぶやきに、リィファが繋げる。
「花形だもん、指名多くて大変だろうし」
 はながた?
「その、ルルーさん、どうして『リアン』って呼ばれてるんですか?」
 あっ、とポルカは右ヒレをパタパタさせる。
「リアンは源氏名、ルルーは本名。あたしもポルカって名乗ってるけれど、本名じゃないわよ」
 げんじな?
 チオン――左右の頭ともが、交互にメアナに説明を付け加える。
「実は7番街ってね、」
「ちょっとした花街としての顔も持ち合わせているの」
 はなまち?
「聞いたことない?」
「郭とか、遊女とか」
 くるわ?
 ゆうじょ?
「わあ、本当に予備知識も何も無しの状態じゃない。リアンってばもう」
 哀れみの台詞とは裏腹に、ポルカは何故か笑い出しそうになっている。
「簡単に言えばね、」
 リィファにいきなり寄りかかられて、そっと息を吹き付けられるように耳元で告げられた。
「オスのお客さんといやらしいことをしちゃうお店」
 瞬間湯沸かし器のように、メアナの思考がいっぺんに高熱を帯びて蒸発した。
「いっ、いやらしいこと、って」
「あ、その意味はわかってるんだあ」
 発火を確信したポルカの言葉に、とうとうチオンが笑いだした。頭がふたつあるから、笑い声も倍である。その意味を察したらしい外野も、鏡に映る自分の顔から目を離し、どこかニマニマとしたいやらしい目線をくれてきた。それをヤジだと察した当のメアナも気が気でなくなり、
「で、でもそれって! おおおオスとメスが、ってことですよね! そういうのは、ななななにもこんなところじゃなくても」
 メアナのどぎまぎ具合に腹を抱えつつも、リィファはわざとらしく頭を縦に刻んで、
「うんうん、わかるわかる。言いたいことすごくわかる。でもしょうがないのよ、みんな生き物なんだから、鬱憤の他にも色々溜まっちゃうの。独り身で寂しい思いをしているポケモンはどこにでもたくさんいるし、自分たちだけ気持ちを晴らすんじゃあどうしても、ね」
「でも、でも!」
「メアナちゃん、ここへ来る前に、」
「他に並んでいるお店とか、見てみた?」
「えっ!? あ、それは、えっと、」
 ぐちゃぐちゃになった思考を必死で組み立て直し、メアナは数十分前までの自分の足取りを再びたどってみた。決して遠くはない道のりの中、何気なく目に留めた物件たちを思いつくままに出していく。
「まだ工事してるところとか、ごはんを食べる屋台とか、」
「そうそう。ここらへんってね、まだまだ開発途上の街で、完成されきってないの。もちろん工事現場だから、力のあるオスたちが筆頭になって働くんだけれど、そいつらを狙った街並みとなってるわけ。毎晩遅くまで働いているポケモンたちはみんなおなかペコペコ、じゃあごはん食べるところが欲しくなってくるよね。ということで食べ物屋さん。まだ足りないってポケモンのために次に用意するのは、お酒を浴びせるくらい飲ませる飲み屋さん。胃をふくらませて、アルコールに神経を浸からせて、最後にどうするか?」
「そこで、息子のお世話。家に着くころには、今日一日働いた分の日当なんてビタ一文と残さないくらい吸い上げるように計算されて、ここらへんはハコを構えているのよ。私らみたいな街娼は、そこを活計の場としているの」
 大人の狡猾さと弱さを直で拝まされた気分だった。なんてことはない、ここは子供をどこまでも子供扱いするところなのだ。無知さを笑い飛ばされる言われもそこにある。完全に一杯食わされた気分となったメアナの中、黒々としたものがしこりとなって渦を巻く。口喧嘩で負けたときのように悔しくて、怒りの涙すら覚える。口に出したいことはいっぱいあるのに、思考は空転し、喉あたりでつっかえ、何も言えなくなる。それに、この感情を誰にぶつければいいのかもわからない。
「おー、やってるやってる。お待たせー」
 ぶつける相手が見つかった。
 ルルーさんッ! ――メアナは飛び跳ねるように体を浮かせ、そう怒鳴ろうとした。
 が、その言葉はやはり驚きと共に口の奥へと呑み込まれた。
 ルルーの風体は、さっきよりも数段と華麗なものへと変化していた。陶器のような輪郭をよりなめらかに際立たせているファンデーション。細い腕に見合った小さな腕輪がいくつか。気持ち程度の花飾り。そして、出会った時から変わらぬネックレス。見にまとう装飾具こそ他の店員より少ないものの、その質素さがかえってキルリアとしてのシルエットを目立たせており、昨日と同じキルリアとは似ても似つかなかった。
 そして、初めて会った時よりも香水の匂いが強めになっていた。
 そこにいるのは、『ルルー』ではなく、『リアン』だ。
 リアンはお決まりらしいしなを作り、
「これがあたしの普段の仕事スタイル。どう?」
「――綺麗、です――」
 思わず口からこぼれてしまったが、次の瞬間にはメアナは目を覚まし、激昂の熱に身を焼かれて叫んだ。
「こっ、こんな仕事! 恥ずかしいと思わないんですか! 自分の体が大切じゃないんですか!」
「あ、やっぱり怒った?」
 少しも悪びれる様子のないリアンに、メアナの激情はますますあおられていく。
「怒ります! ひどいです、こんなところに連れてくるなんて! どうして前もって言ってくれなかったんですか!」
「だって、百聞は一見にしかずって言うじゃない。口だけで説明してもピンとこないだろうし、それならいっそのこと直接出向いたほうが強く印象に残るでしょ」
「残りすぎです! こういうのって絶対だめだとわたし思いますッ!!」
 それは、ここにいる全員路頭に迷っちまえ、と告げているようなものだということに、メアナはついに気づかない。何名かはその言葉に手を止め、息を殺し、リアンがどう反論するのかを耳で待機している。
「だめって言われてもなー、需要あるし人気商品だし。商売なんて何でも形にして作ったもん勝ちだとあたし思う。一応もぐりじゃないし、ケツ持ちとかみかじめとかややこしい束縛もないし、ここはまだまともなほうよ」
 リアンはふいとそっぽを向き、小馬鹿にするようにため息をつき、
「だから言ったでしょ。世の中ね、かっこいい仕事ばかりじゃないの」
 続けて何か言うつもりだったのか、リアンが一歩だけ歩み寄ってきたので、メアナは反射的にしりぞく。出会ったときの姿がものの数分でこうも早変わりできるというのならば逆もまた真なりのはずで、『リアンが仕事を一晩終えるとルルーに戻る』と思うと、その落ちぶれよう、仕事の過酷さがメアナには恐ろしくてかなわなかった。
 視線同士がぶつかりあう痛々しい沈黙の中、空気を読んでか読まずにか、BGMがふと途切れ、特定のメロディが間を縫い繕った。リアンが天井を見上げたのにつられて、メアナも思わず目線の先を追った。
「あたし専用のチャイムだ。さっそく一発目かー、行ってくるね」

 悪いことをした、とはまだ思っていない。今後も思う気はない。
 白い紙に墨汁をぼったりと落としてやった、程度にしか考えていない。
 しばらくこの業界を経験してきたからこそ言えることで、ルルーは商売だと割りきっている。特にルルーの場合、シンクロの特性を持つ分、相手とのやりとりも実に細かな心理を要求される。見境なく興奮したオスと波長を上手く合わせた分だけ向こうは喜び、少なくとも機嫌を損ねられることはない。反面、憂鬱な気持ちを顔の奥に隠してしまっても、体が白状する。血の通った人形となりきるためのスイッチのようなものを、いつの間にやらルルーは自身の中で作っていた。何かを引きずって仕事に臨むくらいなら、それなりにでも律儀にやったほうが、体はともかく気持ちが楽だと気づいてしまったのだ。
 メアナのことはいったん頭から閉め出すこととした。指定された個室に向かったが、いかにもといった照明が壁や床を踊っているだけで、誰もいない。あれおかしいなと思いつつ、廊下へ戻ってきょろきょろとしていると、入り口の方から客とおぼしき者の声が飛んできた。
「リアンちゃあーん! どこだよおー! 昨日休みだったなんてぼく聞いてないぞーお! さびしかったぞおー!」
 つい最近、聞いたことのある声だ。しかもかなりできあがっているのがこの距離からでもわかる。
「先輩、いい加減帰らせてくださいってば! 俺、一応身を固めているんですから!」
 それに、久しぶりに聞く声が後に続き、ルルーは若干背筋をこわばらせた。わき目もふらずに廊下を駆け、入り口にまで戻り、受付にて撃沈寸前のポケモンとそれを支えているポケモンを見かけ、その正体に腰が砕けそうになった。
 エルレイドと、昨日の最後の客であるスリーパーなのだが、
「兄貴!?」
 ここでもし相手を肉親と認めなかったら、向こうもこちらのことをそう思わなかったかもしれない。
 もう遅かった。
「――ルルー!?」

 この日も書き入れ時となったらしい。その慌ただしさに俗世の底を見せられた気がした。一匹、また一匹と『仕事』に呼ばれてしまい、大勢いたはずの共同のスタッフルームにはメアナと店長であるらしいミミロップだけが残された。
「ごめんなさいね、さっきはみんなが意地悪しちゃって。でも、リアンにも悪気があったわけじゃないと思うの。――いや、本当は少しあったかもしれないけれど」
 店長は気を落ち着かせるためと思ってくれたのか、小さなコップに水を注いで持ってきてくれた。体を火照らせ、騒ぎ立て、喉の奥はひりついているというのに、どうしても口に付ける気分になれなかった。
「メアナちゃん、知らなかったの? リアンがここで働いているって」
「――ルルーさんとは、昨日初めて会ったばっかりで」
「やっぱり、7番街の生まれじゃなかったのね。どこから来たの?」
「6番街です」
「そうよね、そっち方面の子が普通こんなところ、来ないもんね。あっちの暮らしのほうがよっぽど快適って聞くから、6番街で一生を過ごすってポケモンもたくさんいるし」
「リアンなりに、社会の形を教えたかったんだと思うの」
 確かにいいパンチだった。どういう生活をしているのか教えてほしいと食い下がったのはあくまでも自分自身だ。ルルーはそれに答えただけに過ぎない。よそ者である自分に怒られる筋合いなんて、どこにも無かったはずだ。
「わたし、何も知りませんでした。ばかでした。こういうの、『せけんしらず』って言うんでしたっけ」
 弱々しく自虐に走ると、店長は透き通るような声で笑い始めた。
「考えすぎ考えすぎ。メアナちゃんは全然悪くないんだし、そこまで気に病むことはないわよ。友達よりちょっとだけ先に、こういう部分を知ることができた――それだけのこと。ポジティブにいきましょ?」
 そうは言っても、このぐるぐるとした気持ちを整理する手段が、メアナにはわからない。ルルーに迷惑をかけていないかと昨日はさんざんこころを砕いていたというのに、いざ真実を目の当たりにし、勝手な思い上がりで義憤したらすべて台無しである。
 今となっては、ルルーよりも、無学だった昨日までの自分を責めたい気分となり、半ベソ状態だった。
「じゃ、ちょっと話題を変えましょうか。謀られたにしても、ここへ来たのも何かの縁かもしれないし。メアナちゃん、ここで働くポケモンたちを見て、何か気づかなかった?」
 店長は、ルルーやポルカたちとはまた違う、母性のあるおおらかな雰囲気を醸し出している。誰にでもいいからすがりたい気持ちだったし、話し込めばいくらか気が紛れるかもしれない。そう考え、先刻自分を取り囲んでいたポケモンたちの面々を思い出してみる。
「そういえば、進化していない方が多いような」
 正解、とミミロップはにこりと笑う。
「みんながってわけじゃないんだけれど、大体のポケモンが『かわらずのいし』を身につけて仕事しているの。ルルーもネックレスにしてたでしょ」
 かわらずのいし。見たことは無かったが、授業で聞いたことならあった。あれが、そうだったのか。
「何か理由があるのですか?」
「ライフスタイルが幅広に多様化された影響か、需要にもマニアックなものが徐々に現れてきちゃって。進化前の子がイイ!、なんて言い出すお客さんが増えてきたの。肉体にも多少の贅沢が必要とされるようになったみたい。だからここもそのニーズに合わせて、進化前のポケモンたちも募ることにしたわけ。リアンもその一匹。あの子、普段からあんなそっけない振る舞いなんだけれど、まだ若いし、仕事は上手だから、そのギャップが大受け。あの子を指名するリピーターさんも多いわ。要するに、様々なフェチが出てきたってこと。以前と比べたら、進化前、進化後っていう枠組みの他にも、種族をあまり考慮しなくなったお客さんも最近増えてきたわ。まあ、あんまり体格差がありすぎると残念ながらお断りするんだけれどね」
 よくわからない。
「うーん、メアナちゃん、ムウマってことはお母さんもムウマかムウマージよね。お父さんは? お父さんもムウマージとか?」
「いえ、エルレイドです」
 そっか、リアンが叔母だもんね、じゃあちょうどよかった。そう店長はつぶやく。
「まだ考えるのが難しい年頃かもしれないけれど、愛の形にも色々あるの。その点、メアナちゃんはとってもしあわせものよ。子供を作れる種族同士が愛を育んでできた、ご両親の宝物だもの。世の中には、好きな相手がいるのに、種族グループが違うせいで一緒に過ごせない、子宝なんて夢のまた夢――なんて考えているポケモンが大勢いるの。努力してアプローチすれば、共に家庭を作れるかもしれないけれど、子孫は残せない。世代は自分たちで終わり」
 もしかしたら、と店長は頬杖をつき、眼と口を線にして色っぽくほほえむ。
「そういった叶わぬ愛への傷心を少しでも慰めたくて、こういうところに来るお客さんもいるかもしれないわね」

 店長のデザインセンスなのか、それとも風水による安産祈願のご利益でもあるのか、お手洗いにまでアロマキャンドルと招福画が数点飾られ、面妖なムードを綾なしている。
 有無を介さず、バカ兄貴のルドをメス用のそこにまで荒々しく引きずり込み、個室でかみなりパンチを三発見舞った。遊女だろうと夜道の暴漢は一切お断り。子供時代を彩る兄妹喧嘩で鍛えていた鉄拳は、今でも遺憾なく発揮される。野郎の金的に狙いを定め、体格差を無視して一撃で落とす護身術にまで昇華させていた。痣になるから顔はやめてくれと意気地のない声で懇願してきたので、かすかに残る慈悲と共にボディへと拳を沈めた。
「で、あんた7番街で働いてたの」
 いてて、と痺れの残る顔つきでルドは聞いてもいない必死の弁明を開始した。
「し、仕事帰りに先輩に無理やり誘われて。しかもベロベロに酔ってやがるから呂律も回らなくて、どこに行くかも全然説明してくれなくて、い、言っとくけど初めてだよこういう所は!」
 実に見苦しいので、目にも止まらぬ速さでもう二発追い打ちをかました。
「嫁さんとメアナに申し訳ないって気持ちはないの」
「あるよ! つうかまだ未遂だろ! お、お前こそなんでこんなところで働いてるんだよ! 進化もまだだし、聞いてねえぞ! 一瞬誰かと思ったわ!」
「そりゃ言ってないもの。父さんにも母さんにも、もちろん兄貴にも」
「お、お前なあ! おやじとおふくろが聞いたら泡吹いて卒倒するぞ!」
「そっくりそのまま返すっつうの!」更にドぎついのを一発。「あたしんとこへてめえのガキよこす前に、まず父さんと母さんのところへ土下座しに行くのが多少の筋ってもんでしょうが!」
 計六発はさすがにこたえるのか、口答えの元気を無くしたルドは、脂汗をびっしりと浮かばせながら身をよじらせ、
「……な、なあ……メアナは、もしかして……」
「もちろん連れてきたよ。兄貴の提言どおり」

 店長はコップ半分程度に注がれた飴色の液体をちょっとすする。周囲を塗りつぶす香水の匂いのせいで、それがお酒だとはメアナは気づかない。もう少しここにいれば、香水ではなく自分から発せられるものにまでなりそうだ。
「別に難しいことたくさんまくしたてて、この業界を正当化しているつもりじゃないんだけれどね。学校の宿題、だったかしら?」
 メアナはうなずく。
「多分、大人の世界を一部でも子供たちに知ってもらいたい、という教育の一環なんだろうけれど、それでもここは強烈すぎたわね。働くことの大変さと大切さを知った上で、じゃあ自分は将来どうなりたいか? 自分の夢に向かって尽力できるか? それを、先生は問いかけているんだと思う」
 熱が冷め、完全にしぼんだメアナを、店長は優しく抱きしめてくれた。その柔らかさといい香りにまどろみ、メアナは少し惚ける。
「でもね、メアナちゃん。覚えていてほしいことがあるの。将来こうしたいとか、ああなりたいとか、そんな叶えたい夢を持つことはとっても素敵なことだと思う。けれど、叶えきれずに途中でリタイアしたり、何らかの理由で進む道を変えたりする子だっている。だって、未来でどんな運命が待ち受けているかなんて、誰だってわからないから。要は駆け引きね。努力に見合ったところへたどり着いて足元を固めるか、更なる高みを望むのか、ちょっとズルをして近道するか」
 宿題なんて、やっても仕方のないものだと思っていた。させられている立場だから、そう感じるのかもしれない。すべては将来の自分に繋がるのだろうか、とメアナは自問を始める。
「ここにいるみんなも、やっぱり何かと事情あるのよ」
「事情、って?」
 あまり大きな声では言えないんだけれど、と店長は言葉を濁す。
「悪いオスに騙されて借金苦になったり、とか。恋愛に興味をなくしたり、とか。単に周囲が悲しまないから、とか」
 ひどい。あんまりだ。それではまるで、自分のことなど毎日を繋ぐための単なる媒体で、ただ生きさえすれば他のことはどうでもいいようにとらえられるではないか。
「誤解しないで。むしろ夢を叶えたいからって理由でここで働く子も大勢いるのよ」
「うそ!?」
「ほんと。大変な分、お金もたくさん稼げるから。割りに合わないと思うかもしれないし、実際背負うリスクも大きいわ。それでも、どうしても、ってことで、様々な子が訪れるの。もちろん、うちとしては店員みんなが家族みたいなものだって思ってる。夢があるなら応援したいし、反面、できることならとどまってほしい。そういう複雑な心境をいつも抱えながら、たくさんの子たちを見送って来たわ」
 そう語りながら遠くを見つめる店長の口調は、まるでたくさんの卒園生を送り出してきた保母のそれだ。
「ポケモンの繁殖力は昔から旺盛だったけど、確かにまっとうな仕事ではないわよね。オスとメスの交わりに厄払いの力があるだなんて風習はとっくに廃れちゃったし、ここ最近では特にデリケートな問題になりつつあるわ。メアナちゃんが嫌だと思うのならうちらに気遣うことなくそう思ってていい。そういう子は、なるべくこういうところに来ちゃダメよ。すぐに潰れちゃうから」
「ルルーさんは、どうしてここで働いているでしょう」
「どうかしら。基本的に、みんなの事情をうちから詮索するようなことはしないから」
「え、でもさっき」
「ええ。リアンみたいに自分からは何も言わないって子もいれば、むしろ聞いて欲しい、とりあえず話をしてすっきりしたいって子もいるの。そんな子はやっぱり寂しがり屋で、自分と接してくれる相手が欲しいのよ」
 もしかしたら、と再度店長はふと思いついた考えを最後に付け足す。
「リアンに限っては、本当に、何もなかったりするかもしれないわね」

 数年ぶりに顔を合わせられ、前から言いたかった憎まれ口もここぞとばかりに叩き切ったためか、お互いにすっかり毒気を抜かれてしまった。それこそ事を済ませてしまったかのようにやつれた顔つきで、リアン専用の控え室へとこそこそと入った。ルドは遠慮もなしにリアン用の小さい椅子へどっかり座り込み、後頭部を背もたれに預け、体の中の空気を全て吐き出すようなため息をついた。
「すまん、なんとか落ち着いた。なんの連絡も無しに、いきなりメアナをよこして悪かったな」
 ルルーもむっすりと腕を組み、ルドと対峙する。
「いーわよ、正直あたしもかなりテンパってたし。体、まだ痺れてる?」
 多分、とルドは右肩を軽く回してみせる。
「しかし驚いた。不肖の妹がこんなところで飯食ってるなんて」
「あたしだってびっくらこいたわよ。その不肖の妹が働くこんなところに客として来るんだもん」
「いや、だからな、断ろうにも後が怖いじゃねえか。あの先輩、スケにもサケにも弱いセクハラ上司のくせして職場じゃいつもでかい顔してるんだぜ。あの時点で完全にできあがってたから、これ幸いと先輩だけ放りこんでとっとと家に帰るつもりだったんだよ」
「帰る前にあたしの家へ寄ろう、とは思わなかったの?」
「――思ったよ、少しだけ」ルドはうつむき、「でも、なんか気まずいじゃねえか。あんな形で俺は家を飛び出しちまって、お前とはそれっきり会わなかったってのに、おめおめと顔を出したらよ」
「じゃあ訊くけどさ、どういう風に来てたら気まずくなかったって言うのよ。今が最悪のパターンでしょ」
 ルドはうつむいたまま、黙りこくっている。それがわからないから、現に今まで会いに来なかったのだろう。ルルーもいたたまれなくなって、腕を後腰へ組み直し、下を向きながら右足で床をなぞり始めた。
「なんなのよ、もう。あたしも兄貴も、ガキの頃のまんまじゃない。くだらない意地を張りあってさ、とっくに相手のことなんかどうでもよくなったってのに、出方を伺ってずるずるとひきずって、おまけにあんな小さな子まで巻き込んで。なんていうか、色々と情けなくなってくる」
 ふ、とルドの鼻から息が漏れる。ルルーよりもむしろ自分をあざけるためだろう。
「だな、俺もそう思う。俺もお前もとっくに大人になっちまったんだ。今更お前の生き方にああだこうだと水をさすつもりはねえよ。俺もおやじやおふくろには迷惑かけたけれど、こうして良かったって思ってる。仕事先の気にいらねえ奴らにへこへこ愛想笑いしながらもなんとか今日まで食いつないでいるんだし、家で待ってくれる家族がいるんだってことを考えれば、なんだって出来る気がするよ」
 ――そっか。
 理屈ではなく了解した。
 自分は、果たしてどうだろう。
 今、しあわせなんだろうか。
 考えることをやめたのは、いつからだったか。
 ずっと同じ釜の飯を食ってきたから性格も似てくるのだろうと、無意識にせよ思い込んでいた。友達にしたくない品性だろうとルルーは自分でも思うし、だからこそ同じ育ち方をしてきたルドのことを疎ましいと感じていた。
 しかし。
 妹にとって兄とは、常に一歩先を生きている先輩だから、兄なのだ。
 この関係と規律は、絶対に覆せない。
 遅かれ早かれ、いつかは差が生まれる。
 今にして思えば、その瞬間が訪れることが、面白くなかったのかもしれない。
 なんてことはない、自分もまだまだ子供であった。
 ならば、後ろに立つ者として、背中を押してやろう。
 そう思った。
「そーね、ちょっとズレてるけど、兄貴にしてみれば上出来の子じゃない。実際ウブいし、素人っぽそうなところが大受けしそうだから、将来楽しみ。食うのに困ったら、ここへ連れてきてもいいよ」
 今も昔も変わらない簡単な挑発に、相変わらずもルドはあっさりと乗っかった。ソファーの弾性力を最大限に生かした跳ね上がり方をして、ルルーに食いかかった。
「ふざけんな! 誰が連れてくるか! メアナにはな、そんな苦労かけさせねえぞ! 絶対にだ!」
 その言葉をしかと聞いたルルーは、景気付けのつもりでルドの腰をばしこんと思い切りひっぱたいた。
「よく言った。じゃあ、これからもしっかりやんな、パパ」

 夜更けには、まだいまいち明るい。
 この手合いの者とは幾度と無く相手してきたので、お得意様の出撃も早い。伝説的とも言える段取りでタクシーが呼ばれた。とっくに潰れているスリーパーと付き添いのルドを乗せ、カイリューは夜空を飛翔した。言うとおり、あれほど泥酔していたならば、今晩のことなど綺麗さっぱり忘れているだろう。
 メアナを実家まで送り届ける、という旨を告げると、割と簡単に店長から外出許可をもらうことができた。少し身構えていたが、メアナは暴れ回ることも泣き喚くこともせず、意気消沈したままルルーについてきた。背負ったリュックの重みが、なんだか少し寂しげにも見える。
 6番街まで歩くとなると、道順もまた変わる。壁に書かれた労働礼賛や健康維持の標語、芸術と言えなくもないスプレーアート、通りすがりを一度で二名でも引っ掛ければいいような客引きの下賤な売り文句が二匹の背中へ追いすがろうとする。光で騒がしかった繁華街を離れると、街の賑わいも後ろへと遠のいていく。活気にさらされ続けてきたおかげか、急に涼しさを覚え、月が雲の向こうから顔を出すたびに、路地が蒼い闇の奥から輪郭を浮き沈みさせていた。
「ルルーさん」
「ん?」
「さっきはごめんなさい。元はわたしのわがままだったのに、騒いじゃって。ほかのみなさんにも迷惑かけました」
「気にしてないからいいよ。あとであたしが代わりに謝っとく。だめだと思えることをだめだって言える正直さ、あたしはもうとっくの昔に忘れちゃったから」
「勉強になりました。物を売ったり、何かを作ったり、そうすることが働くってことなんだって思ってました。こういう形もあるんですね」
「うん」
 まるで舌足らずだが、メアナの言いたいことは、ルルーにもよく伝わった。自分の代わりに、店長が何かとフォローを入れてくれたのだと思う。
「どうして、あそこで働こうって思ったんですか?」
「そういうのも載せなきゃいけない決まりなの?」
「いや、そうじゃなくて、単に気になって」
 うーん、どうしてだったかなー、
「あたし、何をして働きたいとか、こういうことをしたいとか、そういう将来の夢ってのが全然なくてさ。真剣に考えたことなんて一日もなかったんじゃないかな。かといって、いつまでも親のすねガジガジしてるわけにもいかないじゃん? 適当にアルバイトやりながらぶらぶら生きてて、そんなことだから進化もできなくて、そしたらあの店長に出会ったの。でも、頑張ったら頑張った分だけ見返りも大きいっていう仕組みはあんなとこでも変わらないよ。客に気に入られたら花代も高くなっていくし、給料も悪くなかったし――気がつけばあそこにいたって言えば一番正確かな。かなり大雑把だけど」
 後ろ向きに言えば、最初から色々と投げた状態で生きていたのかもしれない。無知は罪と言うのならば、知った上で何もしないのも罪だ。挙げ句の果てに行き着いたのがあんなところなのだ。メアナに新たな道を開かせることこそできなかったものの、虎口への警笛くらいは鳴らせたと思う。
「あんたは、夢とかあんの?」
「わたしも、まだわからないです。知らないことがいっぱいあるってわかったので」
「ああいうのだけはぜえーったいやりたくない!、って、思ったりしなかった?」
「――ちょっぴり、思いました」
 ルルーのことを気遣ったつもりらしい。しかしそれがなんだかおかしくて、ルルーは思わず噴きだした。意地悪な笑顔を浮かべ、すかさず揚げ足を取りにかかる。
「へえ、ちょっぴりだけなら、別にやっても構わないんだ」
 メアナの顔がまたしても爆発したように赤面した。
「ちっ、違いますッ!!」
「いいじゃない、あたしが無理にあんたを連れていったのもね、期待の星となれるかもって思ったからなの。若い子はあそこいつでも大歓迎だから。一から百まで、お姉さんたちが綺麗になれる方法とかモテる方法とかスーパーテクとかを仕込んでくれるので心配ご無用。でも、その頃にはあたしも年増の玄人になってたりするんだろうなー。はー、切ない」
「勝手に話を進めないでくださいッ!! わ、わたしは、自分のやりたいことを自分で決めて、これだと思った生き方をします!!」
「む、子供のくせして偉そうに一丁前なことを。ほら、また赤くなってる。何想像してんのよスケベ」
「なってないですッ!! スケベって言葉、ルルーさんだけには言われたくありませんッ!!」
 なってる、なってない、という乳繰り合いが、夜の静寂(しじま)に溶けていく。
 並んだ二つの影を、父親が駆け足で追いかけていく。