洛城異界居候御縁譚 ( No.12 )
日時: 2013/11/17 22:56
名前: わたぬけ メールを送信する

 テーマA「輪」

 一、白鼠

 秀二郎は仕事帰りだった。
 晩夏の西日が爛々と照りつけて、ただでさえのどが渇いている秀二郎はさらに辟易とした。こんな日に大堰川でひと泳ぎしたらさぞ気持ちよかろう。清滝の河童どもも競泳に勤しんでいるに違いない。
 途中往来で童子たちが五人ばかり集まってかくれんぼうをしようと一人の童子がこのゆびとまれをやっていた。
 四条通を西に歩いて千本通に差し掛かった頃だった。あたりにはひとけは無く、閑散としている。暑さのせいもあってなんとなくぼんやりと千本四条の辻を通り抜けようとしたその時、空気を掻きむしるようなきぃきぃという猿のような声が聞こえた。
 ぱったりと足を止めて猿声のした方へと振り向くと社の鎮守の森が茂っていた。鳥居の額束に掲げられた額にはだいぶ褪せてしまっているがなんとか「隼神社」という字が見て取れた。鳥居をくぐるとすぐに猿のような声の正体が目に入った。境内の隅で童子ほどの背丈で骨と皮ばかりにひょろひょろと痩せた人影が三つ、四つ、何かを中心に取り囲んで囃し声を上げていた。人というよりもむしろ声の通り猿に近いが、目玉が人のように二つの者有り、鼻筋の頭に卵黄を載せているように一つの者有り、両目と額に合わせて三つの者までいる。小鬼である。いったいあんな所に小鬼が集まって何をやっているのかと秀二郎は訝しんだ。そうしてよく目を凝らすと小鬼たちの輪の中心に何か小さい、猫とも知れぬ犬とも知れぬ鼬や鼠とも知れぬ白い体をした獣が怯え蹲っていた。
「こらぁ小鬼ども。弱い者いじめとは感心しないな」
 秀二郎は腹を据えて声を荒らげた。小鬼たちはびくりと肩を震わせ、秀二郎の姿を見るや「はらいもんだ、はらだいもんだ」と相変わらずの猿声で叫びながら逃げていった。雪駄を鳴らしながら秀二郎が近寄ると、白い獣の姿は次第にはっきりとしてきた。全容が明らかになるとそのなんとも奇っ怪な姿に秀二郎は不意に「なんだこりゃあ?」目を皿にした。姿形を一番近い動物で例えるとそれは鼠であった。顔や前後の足、腹などに纏っている短く満遍なく生えそろった体毛は白無垢のように真っ白でそこだけを見ると白鼠とも見える。ところが、ここからが奇妙奇天烈な所で、鼻先の上あたりの頭部から背中全体にかけて、まるで草のような毛が――いやそれはまさしく草そのものであった――びっしりと生い茂っており、その中にぽつぽつと黄色い実と思われる何かの粒が見受けられた。鼠で言えば両耳が立っている部分には、代わりに笹をやや横に太くしたような葉っぱが二枚ずつ、とどめとばかりに見たことのない桃色の花が咲いていた。第一、体の大きさも鼠と呼ぶには一回り二回りどころか、まるっと太った猫ほどだ。
 沈むような沈黙の中から蜩がカナカナと鳴き始めた。
「お帰りやす秀二郎さん」
 家に着き、土間で雪駄を脱いでいると障子の向こうから母の声が出迎えた。秀二郎が手を掛ける前に障子が横に滑ると絽に身を包んだ母のツルが膝を立てていた。にこやかな皺が刻まれたその顔が、ふと秀二郎の足元へ視線を落とすと途端に怪訝そうに傾いた。
「なんですのん。鼠」
「ああこれ。帰る途中、千本四条の隼のお社で小鬼から虐められとったんです。それで小鬼どもを追い払ったらこうして着いて来るようになったんだ」
 草が生い茂った鼠は少しばかり怖がっているのか、秀二郎の裾の裏に隠れてなかなか顔をツルに見せなかった。そこで秀二郎が玄関を上がって隠れるものがなくなると観念したとばかりに、おずおずとツルを見上げた。
「あらまあかわいらしい」
 怪訝そうに歪んでいたツルの顔がぱあっと光るように明るくなった。
「変わった動物なぁ。それとも妖の類どすか?」
「分からん。俺もこんな動物見たことも聞いたこともないし、妖でもこんなのは初めてだ。小鬼どもに何か知らないか訊こうとも思ったが、奴ら俺がこいつに驚いとるうちにさっさと逃げよったわ」
 秀二郎は草の生えた鼠をそっと抱き上げた。見た目に伴ってずっしりと重いが、疲れているのかそれとも秀二郎のことが気にいったのか大人しく腕の中でじっと丸まってる。ツルが鼠の綺羅とつぶらに光る眸を覗きこんで笑った。鼠がきゅうんと鳴き返す。
「ほんにかわいらしいなあ。どこから来たんでっしゃろ」
「さあなあ、少なくともここらへんで見る顔ではないな」
 夕餉の刻となり、一家全員が食卓を囲むと否応なしに不可思議な鼠の姿は成員皆の目に触れた。
「また妙なもんを引き連れてきたな、シュウよ」
 最初に兄の聡一が口火を切った。
「あら聡一さんったら、かわいらしいじゃないですか」
 そう言葉を引き取るのは兄嫁の祥子である。当の草の生えた白鼠は間の隅にある竹籠に敷いた座布団の上で丸くなって眠っていた。時折顔を上げてはうつらうつらとまたそのまま座布団へ埋める。半年ごろ前までその席はトラ猫のサブロウのものだったが、ここ最近はどういう気まぐれか、本来の住処である床の間の襖絵の中へ戻ってしまっていた。
 揃っての「いただきます」の後に、秀二郎は改めてこの面妖な生き物を拾った事情を話した。一通り説明が終えた所で、秀二郎は兄へと目を移した。
「兄貴には何なのか分かるか」
「いや、分からんな。しかしただの動物ではなさそうなのは確かだ。小鬼どもが興味を持ったということが何よりもそれを証明している」
「というと」
「少なくとも人世の者ではあるまい。しかし妖とも何か気色が違うな」
「はっきりせんなあ。こういう時親父が居れば何か教えてくれるだろうに」
 秀二郎は鯵の開きを骨ごとばりばりと口に入れながらぼやいた。
「ほんなら、今度お手紙ついでにその子のことも知らせときましょ」
 ツルが空になっている秀二郎の茶碗におかわりをよそいながら云った。
 その時、「あの」とどこからかか細い女のような声が聞こえた。
「うん、どうしましたお義姉さん」
 秀二郎が声に気づいたが、てっきり兄嫁が何か云ったものかと思って目を注いだ。
「ん、うちは何も云いませんよ」
「あれえ、今確かにおなごのような声が聞こえたがなあ」
「シュウ、まさかまだ他になにか連れてきてるんじゃないだろうな」
「馬鹿いえ」
 兄からの茶化しを笑い飛ばしている所へ再び、また女の声が。
「あの、みなさん」
 今度は皆の耳にもはっきりと聞き取れた。皆が皆声の聞こえた方向へ一斉に視線を注ぐ。皆の視線が一致した場所、それこそ秀二郎に拾われてきたあの草の生えた白鼠であった。
 秀二郎は味噌汁を啜っている所で、聡一は大根の煮物を摘んでいる所で、祥子は鯵の開きを箸で持ち上げた所で、ツルは胡瓜の糠漬け口に含んだ所で、ぴたりと固まった。一家揃って石のようになっている前で、鼠は顔を上げた。そして言葉が続いたが、よく見ると鼠の口は動いていなかった。
「驚かせてごめんなさい」


 二、柏木

「どうして話せることを黙ってたんだ」
 秀二郎が尋ねた。
 食事の後片付けも終わり、改めて一家で食卓を囲むと、その上に竹籠ごと白鼠が載っていた。
「突然こちらの世界に飛ばされてすっかり戸惑ってしまってましたし、元いた世界でも私みたいなのがこうして人と言葉を通わすのは滅多に無いことで、むやみに使っていいものではなかったからです」
 これまた奇妙奇天烈摩訶不思議といったもので、白鼠の声は耳に届いて聞こえるというよりも、胸の内に直接届いていると云える。
「元いた世界。すると君はつまり異界の者だというのか」
 聡一が目を白黒させながら身を乗り出した。しかしあとの三人はいまいち意味が飲み込めておらずきょとんとしていた。
「兄貴、何を驚いているんだ」
「つまりだな、今我々の目の前にいるのは人の世の者ではないし、ましてや妖でもない。我々のすむこの世界とは全く異なる別の世界、別の宇宙から来た生き物ということなのだよ」
 聡一の説明で一同はようやく納得し、同時に目を丸くした。
「しかしそう云ったものの、己れ自身まだにわかには信じがたいのだが。もし良ければ君の言う『飛ばされた』という事情を説明してくれないか」
「分かりました。これから皆さんにご迷惑となるかもしれない以上、私のいた世界で起きた出来事をお話します」
 そして白鼠は食卓の上を舞台とするように話を始めた。
「まず元いた世界には強大な力を持った二体の竜が太古の昔から諍いを繰り返していました。二体の竜の争いは大抵中心にある高い高い大きな山のてっぺんで繰り広げられるのですが、時々はずみで山の下まで降りてくることもありました。私が仲間とともに暮らしていた場所は花の楽園と呼ばれていて、最果てにある小さな島です。そんな場所ですから二体の竜の戦いからは最も縁遠い土地だったはずなのですが、どういうわけかその竜が私たちの島まで来たんです。仲間はすぐに逃げたんですが、私だけ逃げ遅れてしまって。それで竜達の力に巻き込まれて、次に気がつくとこの町に来ていました」
 初めは淡々と語っていた白鼠であったが、話の終わりごろ、殊に仲間とはぐれてしまったというくだりに差し掛かると鈍雲が天道を隠して時雨ていくように悲しげな色を顔に宿した。なるほど感情が表情となって現れる所は、確かにただの獣とは一線を画している。
「それで、何が何だか分からない内に見たこともないような怪物に襲われて、どうしようと困っていた所に秀二郎さんに助けられたというわけです」
「あらあ、秀二郎さんったら悪鬼に襲われてるか弱い乙女を助けるなんて、男前ねえ」
 祥子がほほほと口元を隠しながら茶化した。秀二郎はかっと顔を赤くして、
「よせやい」と、手を降った。
 すると一同が笑いの花を咲かせたのにつられてか、白鼠も雲がかかっていた顔を綻ばせた。
「もしみなさんが良ければ、帰る方法が見つかるまでここに身を置かせてもらってもいいでしょうか」
 白鼠は一同一人ひとりに顔を合わせながら申し訳なさそうに訊いた。
 次に皆の視線を集めたのは母のツルであった。秀二郎たちの父で家長である善治が不在である以上、この家の物事の決定権は妻であるツルが所有していた。ツルは前に出て白鼠に咲いている桃色の花にそっと手を差し伸べると
「良いどすえ。この家のもんはあんたはんみたいなのには慣れっこでおすしなあ」と毅然として答えた。
 白鼠の顔が光が灯るように明るくなった。すると背中の草の中にある黄色い粒がひとつ、ぽんと音を立てたかと思うとそれは一輪の花と化した。同時に花からなんとも云えぬ芳しい香りが漂い鼻孔をくすぐった。
「ありがとうございます」
 おもしろがるやら可愛がるやらで、皆が白鼠を愛で撫でていると、聡一が思いついたように云った。
「そういえば君のことはなんと呼べばいい」
「元いた世界の人たちからはシェイミと呼ばれてましたが、これはあくまで種の名前なので、みなさんで好きに呼んでいただければ」
「そうか。じゃあシュウ、お前が決めろ」
「なんで俺が」
「お前が連れてきたからだ。案ずるな、下手な名付けなら即刻代わりの名を用意してやる」
 聡一は腕を組んでにやりと笑った。
 そう云われるとなにくそとばかりにすっかり考えこんでしまう秀二郎である。シェイミとかいう白鼠も秀二郎の名付けに期待して目をじっくりと注いでいる。ええい儘よと秀二郎はぽんと頭に浮かんだ言葉を口にした。
「柏木」
 一瞬しんと森閑したが、聡一が顎髭をさすり、ほうと息を漏らした。
「お前にしては雅な名だな。由来はなんだ」
「さあな、適当に頭に浮かんだだけだ」
 秀二郎はそう嘯いた。白鼠を見ると目を輝かせていた。
「素敵な名前。ありがとうございます」
 その鼠と背中に背負ってる葉草との色合いが柏餅を連想したから、なぞ云えようはずもなかった。


 三、鷹峯

 一夜が明けた。草を背負った白鼠、柏木の一幕で小さな騒動となっていたこの家も夜が明けてしまえば、日々送る日常の内へと戻っていく。長男の聡一は朝も早くから広小路の大学の研究室へと赴いていた。家にいるのは秀二郎と兄嫁の祥子、母のツルである。
 秀二郎が起き抜けに体を掻きながら入ってくると、台所ではツルと祥子が朝餉の用意に勤しんでいる所だった。ふと竹籠の中が空になっていることに気がついた。
「柏木はどこに」
 するとツルは味噌汁の入った鍋をゆっくりと掻き混ぜながら「お庭に」と答えた。
 縁側越しに庭を見やるとなるほど、柏木は確かに庭の真ん中に体を丸めて座っていた。そして背中の葉っぱをいっぱいに広げて、気持ちよさそうに空を仰いでいた。
「不思議なもんどすなあ。なんでも、よお晴れた日はああしてお天道さんの光をたっぷり浴びるだけでお腹一杯になるさかい、ご飯はいらんのやて。こら助かるなあ」
「はあ、それはおもしろいな」
 框を跨いで縁側に座ると柏木に声をかけた。
「どうだ、気分の方は」
 柏木はくるりとこちらを振り返り、頭の花を揺らして小さく笑った。
「おかげさまで、ここは日が良くあたっていい気分です。でも正直に申しますと私のいた島と違ってちょっぴり煙っぽいですね」
「絶海の孤島と違ってここは人の住む街だ。それに前はそうじゃなかったらしいが、この街も維新からこっち工場があちこち出来たからな。まあそれは人の営みって奴だ。勘弁してくれ」
「大丈夫です。このくらいならなんともありません」
 柏木の背中の葉草に朝日が燦燦と当たる。その様子はげに心地よさげで、見ている秀二郎の方も陶然さが移るようだった。その内、まだまだ暑い日は続くのだぞと言わんばかりにミンミン蝉が大声で鳴き始めた。それが合図であったかのように台所の方からツルが朝餉に呼ぶ声が聞こえた。
 食事を終えて手を合わせると、茶碗にまだ半分ほどご飯を残しているツルが秀二郎に声をかけた。そしておもむろに竹の皮で包んだおむすびを三つ差し出した。
「秀二郎さん、今日は鷹峯(たかがみね)まで行くのでっしゃろ。これ、お昼に」
「すまんなあ」
「すまんと思うならそろそろ秀二郎さんも聡一さんを見習って身い固めて、あての仕事を減らしてもらいたいもんやわ。懸想している娘さんの一人や二人いやらへんの」
「堪忍してくれ」

 *

 かつては羅城門から大内裏の入り口朱雀門まで都の中心を走った広大にして壮麗な朱雀大路。その位置に走る千本通をひたすら北に歩き、北山通との三叉路を過ぎるとやがて小高い丘を登るやや急な坂道となる。頂きまで登ると左手から囲い込むように北山杉の植わる三つの山が連なる。これを鷹峯三山と云い、それぞれ鷹峯、鷲峯、天峯という名を持つ。そしてこの鷹峯という山の名から肖り、この近辺の丘陵地帯を鷹峯と呼ぶ。
 秀二郎が柏木と共にやって来たのはこの鷹峯の丘にある一山の寺だった。千本通の坂道を登り切るとやがて三叉路に突き当たり、そこを右に折れた所にこの寺はある。名を寂光山常照寺と称した。
「随分と遠い所まで来ましたね」
 柏木が修二郎の肩の上から眼下に広がる街を見下ろして云った。
「俺らの家がある中堂寺はずっと向こうのあの辺だからな」
 秀二郎は無数の矩形を繋ぎあわせたような街のずっと向こう側を指さした。
 柏木が秀二郎と一緒にやって来たのは、いつまでも家の中にいてもさぞ退屈だろうと祥子が気をかけたためである。秀二郎は最初難色を示したが鷹峯までの往来の道中、知古の者がいるわけでもなし、話し相手にでもなれば退屈しのぎにもなろうと思い直し肯んじることとした。
 実際往きの途上、あれは何か、あの生き物は何と言うのか、あの人達は何をやっているのか、などなど事あるごとに柏木は秀二郎を質問攻めにするので、中堂寺から鷹峯までの一刻ばかりの時があっという間に過ぎ去ってしまった。
 朱色の山門をくぐると本堂の前にもう何日前からそこで待っていたかのように僧が数珠を片手に佇んでいた。歳の頃は六十半ばから七十ほどと見えた。二人は互いに頭を下げ、順に簡単な自己紹介を済ませた。僧はやはりこの寺の住職で質素な鳶色の衣に鶯茶の袈裟を付けていた。
「存外お若い方ですのお」
「親父が東京のお偉いさん所へ招聘を受けてるんで、こっちは俺がやりくりしてるんです」
「頼もしいですな」
 住職は秀二郎の肩に乗る柏木に目を留めたが、特に何も意に介さずくるりと背を向け、奥へ来るよう促した。綺麗に剃り上げられた頭が白く光る。
 通されたのは庭園の端にある茶室だった。三和土で雪駄を脱ぎ、用意されていた座布団に腰掛けると住職が自ら茶を点てた。ゆったりとした、それでありながら芯の通った動きで茶釜から湯が柄杓を通して湯が注がれ、茶筅が回る。
 そうして差し出された茶と茶菓子に秀二郎はとつおいつ声をかけた。
「和尚さんあんまりいじめんでください。俺はこういうことにはてんでからっきしで」
 尻込みする秀二郎に住職はほっほと晴れやかに笑った。
「なに。偉そうにやっとるがこれでも我流なもんで。そちらの白い方も茶は飲めんだろうが口に合えばお茶菓子でもお召し上がりなさい」
 住職の目が秀二郎の隣で丸まっている柏木へと向かい、柏木は鼻先をぴくりとした。
 それからしばらく秀二郎と住職は他愛もない談笑にふけった。鞍馬の方から天狗が降りてきて碁を打っただとか、今年の春先にお参りにやってきた遊女がえらい別嬪さんだったとか。その間柏木は秀二郎に差し出された碗に残った抹茶の匂いをくんくんと嗅いでみたり、砂糖と米粉を花弁の形に固めた茶菓子ぺろりと舐めて口の中にじわりと広がる甘みに驚いていたりした。そんな折、茶室の底だけがわずかに欠けている月のような丸窓の外がさっと暗くなった。
「和尚さん、そろそろ俺をお呼びした理由をお話してくれませんか」
「そうであるな。そろそろ頃合いでもあろうし」
 すると住職は暗くなった丸窓の外へ視線を移した。その向こうには鬱蒼とした竹藪が広がっている。
「下の泉の観音様のお側に、蓮の蕾が現れましてな。それがなんとも珍しい白蓮なんでございますよ」
 住職はぼんやりと遠くを見つめるような目をして云う。
「現れたのは七日前。通り雨がざあっと酷く降る夕暮れでございましたな。稲妻が恐ろしげにゴロゴロと鳴りまして、ちょうど下の泉のあたりに飛び切り大きい奴が落ちたんです。ごろごろがしゃーんと寺が吹き飛んでしまうかと思いましたわ」
 そこで住職は話の接ぎ間に自分で点てた抹茶をおもむろに啜った。
「泉の畔には今云ったように観音菩薩様の像がありまして、よもやそれに落ちなかったかと心持ち不安になりまして降りて行きました。すると不思議なことに確かにこの辺りに落ちたはずなのに、その跡が何もない。もちろん観音様もご無事です。ところが、観音様のおみ足のあたりの水面をよく見ると泉には無いはずの蓮が生えておりまして、珍しい白蓮で蕾までつけている。さらに面妖なことに蕾は日に日に膨らんで今は丸まった赤子ほどにもなっておりまする」
 住職はそこまで云うと茶碗を丁寧に置き、改めて秀二郎の双眸をじっと穴が空くように見つめた。
「拙僧の見立てでは今日です。おそらく今日この後の夕立であろう」
 その声は今まで隠微していたのかと思うほどに強い響きがあった。
 柏木は何の話やらさっぱり呑み込めず、頭を傾けるばかりだった。そして秀二郎の方をチラと見やると彼は既に何やら合点がいっているらしく、口元を滲ませるように笑んでいた。
「白蓮ということは、さぞかし良くないものも集まってくるでしょうね」
「その通り。さて、不躾ではございまするが早速取り掛かっていただきたく。少々ここで時を潰しすぎたようで」
 住職が言い終えたと同時に、遠くの方からごろごろと遠雷が闊歩していった。そして外がさらに、もう日暮れ時かと見紛うほどに暗に染まる。分かった、と秀二郎は膝を打つと弾けるように立ち上がった。
「傘は要りますかな」
「いえお気遣いなく。かえって障りになります」


 四、白蓮

 茶室を出ると空はまるで重くのしかかってきそうな玄雲に覆われていた。ずっと遠くの南の空で雲が途切れ、その向こうに見える青空でようやくまだ昼時なのだと気づく。後に住職が続き、鈍色の空を見上げるとぽろんと零すように呟いた。
「その昔、菅公が雷神となって清涼殿に雷槌を落としたという雲も斯様な有様だったのでしょうな」
 庭園を横切ると伽藍の内にまだ種々のお堂が立ち並んでおり、化け狐の伝説が残るという菩薩堂の裏手にまわると杉の木の植わる急な斜面となっていた。その斜面を蛇行するように石段が舌を広げている。石段を下り、ようやく斜面が終わる所で木々の向こうから件の泉が姿を現した。泉の畔には住職の云う通り石を削った作った観音像が、まるで泉を通して違う世界を見つめているように水面を目を落としていた。そしてその観音菩薩の足元の水面に蓮華の葉が浮かび、その横から蕾が首を伸ばしていた。
「あれか」
「あれです」
「確かに大きいな」
 住職が話の中で云ったように、白蓮の蕾は大凡尋常とはとても云えないほどに大きく、なるほど確かに住職の云う通り赤子ほどの大きさにまで膨らんでいた。まるでその中に何かを宿して守っているように。
「では、拙僧は本堂で経を唱えておりますんで。成功をお祈りしますぞ」
 住職は剃り上げた頭をゆったりと下げるとまた石段を登って行った。
「柏木」
 秀二郎が低い声で呼んだ。それがなんとも威圧的だったものだから柏木はぴくりと驚きつつ返事をした。秀二郎は険しい目を下して諭すように云った。
「ここから先は危ない。和尚さんと一緒にお堂で待ってろ」
 これまで見せたことのない気迫に柏木は気圧されそうになった。しかしふると柏木もまた秀二郎に睨み返した。
「いいえ、私もここで秀二郎さんをお手伝いします。危険だというのなら尚の事。私だっていつまでも居候の身に甘んじるわけにはいきません」
 柏木の意外な返答に秀二郎は虚を突かれるが、すぐにまた目を厳しく光らせる。
「馬鹿云え、最初に小鬼に襲われていたことを忘れたか」
「あの時はまだこの世界のことがよく分かってなくて手出しのしようがなかったんです。私、こう見えて結構強いんですよ」
「本当か」
「本当です。少なくとも秀二郎さんの足手まといにはなりません」
 秀二郎は暫く逡巡するように顎をさすった。
「お前、案外剛情だな」
 その時、空に閃光が駆け抜け、直後に天の咆哮が轟いた。
「よし分かった。これから色んなものがあの蕾を盗ろうと狙ってやって来る。そいつらに奪われぬよう追い払って欲しい。ただし助けには入れない、自分の身は自分で守れ」
 柏木はこくりと頷いた。もう一閃雷が黒雲の向こうから牙を向いた。
 秀二郎と柏木はそれぞれ観音像を挟むような位置取りに立つ。彼らが位置に付くのを待っていたかのように直後、大粒の雨が滝の如く打ちつけ始めた。
「おいでなすったぞ」
 秀二郎は全身ぐっしょりと濡れるのも厭わず不揃いな枝を気ままに梢に拗らせている木々の向こうを睨んだ。そして言葉の通り、盗人たちはやって来た。
 木々の向こうから厚い雲による闇に紛れて、黒い影のような何かが次々と現れた。それは地面を這うようにしてじりじりと泉へとにじり寄る。
 秀二郎は口の中で小さく咒を早口に唱えると、まるで虫を寄せぬような仕草で空を払った。刹那、水際まで這い寄っていた黒い影がぴしゃりと弾かれるとそのまま形を崩し消え去った。ぴしゃり、ぴしゃりとさながら泥団子のように黒い影たちは次々と形を崩していく。その捌きぶりに柏木は目を見張った。依然として黒い影は茂みの向こうから次から次へと際限なく湧き出るが、秀二郎は泰然自若として次々に払っていく。
 轟く雷鳴、降り注ぐ滝雨。黒い影たちは悉く払わゆくのに全くめげることなく、まだまだ湧き起こる。その内影たちは木々の向こうからとばかりでなく、黒雲の闇と滝の如き暴霖とに紛れて空からも降りてきた。それでも泉の上五尺ほどの高さまで降りてくると、他の影達と同様ぴしゃりと形を崩す。柏木はまるで自分の出る幕が無いのではと感じ始めていた。しかしその時天より一際大きな黒い影が飛来する。しかもそれは他の影達と違って明確な輪郭を持ち、両端から骨ばった腕のようなものが生えていた。大きな影は他の影達と同様泉に近づいた所で止まり火に触れたように後退るが、それだけでは消えずまるで秀二郎と力競べするかのように両の黒い腕を伸ばした。
 柏木はぎらりと腕の生えた影を睨み、鞠のように跳ねると背中の葉のいくつかがが柏木から離れ、影の腕に向けて飛ばした。秀二郎の頭上まで差し掛かっていた腕が切れ味鋭い名刀で切りつけられたようにぱっくりと切断された。
 雷に紛れて獣の如き咆哮を散らしながらようやく大きな影は消え去る。
 咒を絶やさぬためか秀二郎は労いの言葉こそかけないが、ちらりと投げられた一瞥が暖かに光ったことを柏木は感じ取った。
 それからも雷鳴と打ち付ける雨とに紛れて影は止めどなく現れ、まるで淀みに浮かぶ泡沫のように湧くのを止めない。そうまでして影達が奪い去ろうとしている白蓮の蕾は一体何なのだろう。
 ふと蕾に目をやった柏木はハッとした。明らかに蕾がこのひと時の内にさらに膨らんでいた。天から降り注ぐ雨を飲み込み糧としているかのように。
 その時、柏木の頭上で怪鳥の如き吠え声が唸った。これまでで最も大きな影――それはもはや影という曖昧な存在ではなく、手足や血潮の如き紅い目、そしてぎらりと白く光る歯の並ぶ巨大な口がはっきりと見て取れた――が、柏木に手を伸ばしていた。秀二郎がすかさず咒を唱えるがそれよりも早く影の手が柏木に伸びた。間に合わないと感じたその刹那、須臾としてあたりが真っ白な光に覆われた。
 光をまともに浴びた巨大な影は雷すら掻き消さんばかりの断末魔を響かせながら、砂のように滅した。光は今や初め目にした時よりも何倍も膨らんでいる白蓮の蕾、その顱頂から溢れ出している。光はさらに強さを増し、浴びた影達が次々と消えていく。まともに浴びるのを逃れた影達も潮が引くように退いて、ついに姿を消した。
「おお、無事に蕾を守り通せましたか」
 いつの間にか上の本堂から降りてきたのか住職が片手に番傘を持ち、蕾の光を仰いで云った。
 すると蕾はゆっくりとしかし目に見えて開き始めた。そして次の瞬間、中から一本の閃光がまっすぐ空に伸びる。光は暗に染まった黒雲を貫くと、雷でもない影達の吠え声でもない、何か透き通った鈴音のような声があたりを満たした。柏木は、一瞬開いた蓮の中から長く白く、鹿のような角を持った何かが綺羅綺羅と鱗を光らせながら天を昇っていくのを見た。
 間もなく雲に切れ目が生じ、その隙間から晴空が戻ってきた。雲はまばらに途切れがちとなり、まるで今まで滝雨が嘘であったかのように太陽が顔を出した。
「生まれましたな」
 住職が固まったように空を仰いだまま呟いた。
「ああ」
 秀二郎もまた同じ格好でそう返した。髪の毛にしたたる雫が日の反射で玉のように輝いていた。そして少し疲れたと、尻に泥が付くのも厭わず彼は草叢に座り込んだ。白蓮の花びらも葉っぱもいつの間にか消えており、観音像の見つめる泉の水面は初めから何も無かったかのように木々から落ちた雫が輪を描いていた。
「あれはいったいなんだったのですか」
 柏木があぐらをかいている秀二郎に近づいて尋ねた。秀二郎はすっかり晴れ渡った空を再び仰ぎ
「白竜だ」と云った。
「ハクリュー、この世界にもハクリューがいるのですか」
「ほう、お前の所にも白竜はいるのか」
「ただ、私の知っているハクリューは蓮から生まれたり、あんなに真っ白じゃないのですけれど」
 そこへ住職が後を接いだ。
「白竜の誕生はこの上ない瑞兆。天より降った雷槌が白色の花の形で卵を成し、また雷槌と共に天へ帰って行く。しかしながらその身に宿す力は絶大なもので、殊に誕生間際の卵花を呑んだ者は千年を生きると云う。有難うお二方、おかげ様でもうこのまま往生しても未練はないほどに良きものを見せて頂きましたぞ」
 それから一刻半ほど秀二郎と柏木は寺に滞在すると、日が傾きはじめた頃合いを見てそろそろ失礼することとした。
 住職は山門まで送り、別れ際に手を合わせて深々と頭を上げた。
 秀二郎は住職から礼を沢山受け取った他に、雨と泥とで濡れ鼠となった着物の代わりに新しい服と羽織まで着せてもらっていた。
 鷹峯の丘を下る千本通の坂道を下っていると、ふと秀二郎が口を開いた。
「面目ない。柏木のおかげで助かった」
「いいんです。秀二郎さんこそ、自分の身は自分で守れっておっしゃっておきながら、最後の方で助けようとしてくださって嬉しかったです」
「結局白竜に出番を奪われたがな」
 秀二郎は小恥ずかしげに頬を掻いた。
 すっかり日も落ちて中堂寺の家に着くと、見知らぬお公家さんのような方から龍の鱗のように輝かんばかりの麗白の布をたくさん頂いたと、ツルが喜んでいる所だった。


 五、船岡山の主

「お父さんからお手紙が届きましたどすえ」
 そう云いながらツルが土間を上がってきたのは、柏木がこの家に居候を始めて二週間が経った朝の事だった。常照寺の白竜の一件以来、柏木は秀二郎の仕事について回るようになっていた。ある時は一乗寺の長の頼みで山の上にある不動院のいたずら狸たちを懲らしめ、またある時は六孫王神社の祭神である源経基の悩み事を解決し、またまたある時は愛宕の麓の念仏寺で坊主たちと五百羅漢像たちとの喧嘩を仲裁したりした。
 その間ツルは東京の善治へ手紙を出しており、内容を要約すると「異界からしえいみという鼠が迷い込んできたのですが、なんとか帰してあげられる方法はないでしょうか」というものだった。
 一家と柏木は早速朝餉を終えて片付けられた食卓を取り囲み、茶色の封筒の封を切った。中からは三つ折にされた半紙が入っており、広げると、型通りの挨拶も近況の報告のような文も無く、達筆にして雄渾な字でただ一言書かれてあるのみだった。

  船岡山ノ主ニ逢フベシ。

 善治の肉声がそのまま聞こえてきそうな字である。
「相変わらず親父らしい書翰だね」
 聡一が呆れるやらかえって感心するやらで顎髭をさすった。
「船岡山なあ。あすこの主さんなら確かに何か知ってそうやわ」
 そこで早速その日の午後、秀二郎は柏木を肩に乗せて上京にある船岡山へと赴いた。今回は連れとして聡一が付いてきている。聡一は蓋のある竹桶を携えていた。蓋が閉まっており、中身は何なのか知れない。秀二郎が尋ねる。夏も今や終わり、彼岸の近づく涼しげな風が往来を通り抜けていた。あれだけ五月蝿く鳴いていた蝉達もどこへ行ってしまったのやら、すっかり鳴りを潜めていた。往来では三日後に街で見られるという日蝕の話題で持ちきりで、往く人からは悉くこの又とない天体の催しを心待ちにしている空気が感じ取れた。
「兄貴、その中はなんだ」
「おふくろが船岡山の主への手土産にと持たせた物だ。中身は己れも知らん」
 船岡山までの道程はほとんど先の鷹峯と同じである。千本通を北へ歩くと今出川を過ぎたあたりで前方に小高い山が姿を現す。ここから千本通は船岡山を避けるようにわずかに斜めを向くので鞍馬口通を横切ったあたりで細道へと入る。低い山であるが、近くまで寄るとなんとも云えぬ静かな空気があたりに漂う。中腹には維新の頃、建勲神社という社が建ち織田信長を祭神としていた。
「船岡山の主ってどんな方なんでしょうね」
 柏木が現れた石段とその初めにある鳥居を見上げて云った。聡一が笑って云った。
「それは会ってからのお楽しみという所だろうな」
「ん。まるで会ったことがあるような言い方だな、兄貴」
「会うのは己れも初めてだよ。ただ船岡山と聞いて大方見当は付いている。言っておくが建勲の信長公ではないぞ」
 二人と柏木は石段を登り始める。まだ青葉の椛が残暑を遮り涼しい。
 最後の階段坂に差し掛かった時だった。石段の途中で道の両脇にそれぞれ平城風の朝服に身を包んだ女が立ち、こちらを見下ろしていた。
「あなた方が葉草を背負った白鼠とそのお付きの方ですね」
「どうぞこちらへ。主がお待ちかねです」
 二人の女は茫洋として霧のような声で交互に云い終えると、建勲神社へと続く階段ではなく、その脇から伸びる小道を恭しい一挙手一投足で歩きはじめた。
 聡一と柏木を乗せた秀二郎もその後へと続く。森を切り開くように抜け、しばらく歩くとごつごつと歩きにくかった細道はいつの間にやら荘重な石畳となっていた。そして足を取られぬようにずっと地に向けていた頭を上げると思わず息を呑んだ。
 そこには萱葺きを背負った絢爛な寝殿造りが聳えていた。こんなものは麓からは全く見えなかったはずである。
「なるほど、神さんの領域ってことだな」
 屋敷のきざはしには先ほどの女官が並んで立ち、そこで履物を脱いで上がれと促していた。きざはしを上がり、簀子を通り抜けると、南側の廂に通された。部屋の隅では伏籠を被せた香炉が焚かれ、なんとも絶妙に馥郁としていた。やがて母屋の簾が誰の手によるともなく開かれ、茵を敷いた厚畳の上に男が一人、脇息にもたれかかって姿を現した。
「待ちかねたぞ、善治の息子たちよ。まあ座れ」
 男は紫の指貫袴に亀甲文様の袍で身を包み、黒い烏帽子を被る、まさに平安貴族という出で立ちだった。
「父をご存知なのですか」
 聡一が秀二郎ともども廂の厚畳に腰掛けながら尋ねた。
「ついこの間から何度も世話になっているからな。尤も、我の云う『この間』とそなたらの感覚で云う『この間』はだいぶ開きがあろうが」
 柏木は聡一と秀二郎の間に座り、男の顔をまじまじと見つめていた。
「実は善治から文が届いたのだ。そなたらが近いうちに訪ねるから世話をしてくれとな。あやつめ、都を遷した公家どもと共に東下りをしておったか」
 男はくくくと絞るように笑った。そして脇息から身を離し、改めるようにして二人と一匹に目を固めた。
「さて、改めてようこそ善治の息子たちとしえいみとやら。我こそが船岡山の主にして嘗て都の北を守っていた四神。人は我のことを玄武と呼ぶ」
 男の目がぎろりと光った。空気が数瞬の間、裂けんばかりに張り詰めた。柏木は秀二郎たちと主とを交互に見やるが、明らかに緊張していることが空気から感じ取れた。
「まあ、都が東へ遷ったことでめでたくお役御免。今はここでのんびり過ごさせてもらってる」
 主は手にしている檜扇を開くと、それで己の身をゆっくりと扇いだ。聡一は持ってきた竹桶を母からの手土産だと、丁寧に前へ差し出した。
 すると主は背中の下あたりから何か長い帯のようなものをするりと伸ばしたかと思うと、帯は竹桶をしっかりと掴んで主の元へ寄せた。よく見るとそれは瑠璃色の蛇であった。主は手元に寄せた竹桶の蓋を開けた。
「ほう、鮎か。それも保津のだ。有難く後でゆっくりと酒の肴として頂くとしよう。善治は良い嫁をもらったな」
 主は扇を閉じ、ポンと手を叩いた。音もなく先の女官が現れ、桶を置くへと持ち去った。女官の姿が見えなくなると聡一と秀二郎はここへ来た目的、つまり柏木のことと父から柏木が元の世界へ帰る方法について船岡山の主に逢えと手紙で云ってきたことなどをごく掻い摘んで説明した。
「なるほど分かった。三日後の正午にこの地に蝕が訪れる。その時高まった霊力と我ら四神の力を持ってすれば異界の門はきっと開くだろう」
 聡一と秀二郎は互いに顔を見合わせ、その顔が明るくなった。
「それじゃあ」
 と秀二郎が頼もうと身を乗り出した所で、主は手を上げて制止する。
「その前に、本人に問いたい。柏木、そなたはこちらの世界での生活をどう思った」
 三人の目が柏木へと注がれる。柏木は短い足を立てて主の目を見た。深く澄んだ水を湛えたような目だった。
「とても楽しいと思いました。島での仲間たちとの暮らしも決して悪くはありませんでしたが、こういう生き方もあるんだって」
「そうか、異界者であるそなたがこの世のことをそう云ってくれて我も嬉しい。だが、元の世へ帰るということはこの世とおそらく永遠に別れを告げる事であるぞ。それでもいいのかな」
 水を打ったような沈黙が広がった。庭園の山水の音がじんわりと流れ込んでくる。
「異界の門が開くのはその三日後だけなのですか」
「そうだ。この機を逃せば次にこの地に完全な蝕が訪れるのはおそらく何百年と先になろう」
「少し、秀二郎さんたちとお話してもよろしいでしょうか」
「良い。大切な選択であるからな。どれ、我は席を外そう」
 そう云って主は腰を上げると、奥へと下がっていった。
 秀二郎は所在なげに柏木へと目を落とし、その名を呼んだ。柏木は聞こえなかったかのようにくるりと庭園の方へと向くと、簀子の廊へ出た。
「植物って種類によってはとても繊細なものがあるんです」
 秀二郎は急に何を言い出すのかと容喙しようとしたが、聡一が弟の肩を掴み言葉無く首を横に振った。
「元々生えていた土地から全く違う遠い場所に移されると、そこがどんなに元の土地の土・空気・水・棲んでいる生き物などが似通っていたとしても育たずに枯れてしまうことがあるんです」
 またくるりと柏木は体を回し、今度は兄弟の方へと振り返った。
 聡一も秀二郎もこの喩えで柏木が何が言いたいのか理解する。
「帰るんだな」
 秀二郎は思わず知らずそう問うた。柏木は小さく「はい」と返す。
「皆さんのお家に迎えられて、秀二郎さんと一緒に仕事をしてとても楽しかったです。島では到底味わえないような日々でした。今も出来ればずっとご一緒したいと思ってます。でも、やっぱりいけません。帰っておかなければ、たとえ今は何ともなくとも、この先お日様が何十回、何百回、何千回と昇り沈みを繰り返せば必ず望郷の念に掻き立てられるでしょう。そして『どうしてあの時帰っておかなかったんだろう』と永遠に悔やみ続けると思うんです」
 柏木の桃色の花が揺れた。
 聡一は何も言わなかった。ちらりと弟を一瞥する。ここで柏木に声をかけるべきは自分ではなく弟なのだと分かっていたから。
 秀二郎は腰を上げると柏木の横にどっかりと胡座をかいた。そしてポンとその頭に手のひらを被せる。
「そうかい。そこまで云うなら俺は止めない。暫くの間世話になったな」
「それは私が云う言葉です」
 柏木は秀二郎の顔を見上げた。
 そして話はついたと主を呼び、柏木は三日後の日蝕で帰るという意志をはっきりと伝えた。主はゆっくりと頷き「よくぞ云った」と扇を叩いた。
「ぬしら、柏木が最初に降り立った場所を覚えておるか」
「確か千本四条の近くにある隼神社だったな」
 秀二郎が記憶をたどりつつ答えると、主はやはりなと笑ってみせた。
「そこは平安京の心臓にして、あらゆるモノの流れが集まる場所、異界の門はその場所にある。ゆめゆめこの機を逃すでないぞ」


 六、縁

 それから三日間はそれこそ光陰矢のごとしそのままに過ぎ去っていった。柏木が三日後に元の世界へと帰ると知ったツルと祥子は見納めとばかりにあちこちへと連れだしたり、美味しいものを食べさせたりした。
 聡一は大学で受け持っている授業があるので二日間は日中いなかったが、帰ってくるとまるで我が子のように柏木をかわいがった。しかしただ一人秀二郎は、仕事先に柏木を連れて行くことはなくなり、帰ってからも早々と夕餉を平らげると柏木と目を合わせぬように自室に篭ってしまっていた。
 そして二日目の晩、いよいよ明日という夜、皆が寝静まった頃だった。最後の竹籠座布団の寝床で丸まっていた時、不意に誰かが入ってきて声をかけた。寝ぼけ眼で見上げるとそれは寝巻姿の聡一であった。
「眠そうにしている所悪いが、少し付き合ってくれないか」
 そうして聡一は柏木を縁側に連れだした。すっかり秋めいた夜長、涼し気な空気の中で松虫や蟋蟀が庭先で唄っている。月は出ておらず、満天の星空が玉石を散りばめたように煌めいていた。
「いよいよ明日だね」
「はい」
「結局親父に会わせられず仕舞いになってしまったのが残念だ。まあ、親父には今度帰ってきた時に君と逢ったことを散々自慢することにするよ」
 柏木は上の空で相槌を打った。それからも聡一は適当に話を振るが、柏木の視線をは庭の地面に降りたままだった。
「シュウのことか」
 不意に柏木の目線が少しだけ上がった。聡一は弟と似て分かりやすいなと、内心笑う。
「あれは昔からああなのだ。決して本当の気持ちを口にしない。祖父様が亡くなった時、皆が皆涙を絞っている中で、シュウだけは涙を流さず何も言わず、しばらく塞ぎ込んでいた。それは今も変わらない。祓いの力に劣る己れが身を引いて、奴がこの家の生業を継ぐことだって、本当はこの先のことが不安なくせして普段はあの調子でおちゃらけている。とんだ天邪鬼だよ」
 柏木は少しずつ顔を聡一の方へと向けていた。
「そして今回もまたこれだ。全くつくづく分かりやすい、馬鹿でかわいい弟だよ。あいつは君との別れを惜しみ、そして出会いに感謝している」
「そうなんですか」
「ああそうさ。ただそれで君があいつに情を覚えて残ってやることはない。人間誰しも喉元過ぎれば熱さを忘れる。ただあいつは呑み込むことが恐ろしく下手くそなだけだ」
 云い終えて聡一は大口を開けてカラカラと笑った。柏木も聡一につられて笑ってしまう。
「私、どうしてこの世界に飛ばされて来たんでしょうね」
 一通り笑い声が収まると、柏木が星を仰いでぽつりと呟いた。聡一は柱にもたれかかって耳を立てた。
「飛ばされたこと自体は、向こうの世界の二体の竜による事故だったんでしょうけど。でもそれだけじゃなくて、何か意味みたいなものがあったんでしょうか」
「そうだねえ。それはきっと答えのない問いだろうし、どれが正解というわけでもないけれど、有り体に言えば」
 そこで聡一は一呼吸起き、柏木の小さな双眸へと視線を注いだ。
「縁じゃないかな」
 柏木はそう云った聡一の最初の言葉を繰り返す。
「縁」
「そう」
 聡一は腕を組んで空を仰ぎ見た。
「誰かと誰かが関わるとそこに縁ができる。昔から『袖すり合うも他生の縁』と云ってね。どんな小さな出会いだろうと、その相手と喩え二度と再会することがなかろうと、一度出来た縁は消えることがない。やれ絶縁だ、絶交だと云って顔を合わせなくともその相手との縁は多かれ少なかれ互いに影響を与える。そうして巡り巡ってそれは輪となって己へと返ってくるんだ。それは喩え住む世界が違おうと変わらないはずだ」
 そしてまた聡一は柏木の顔へと目を落とした。
「君がこの世界で繋いだ縁は向こうの世界へと帰っても途切れることはない。いろんな人、モノ、そして心を巡り渡って輪となり君とシュウを繋ぎ続けるはずだ。それこそが、君がこの世界へ来た意味じゃないかな」
 柏木の中で何かがすとんと落ちた。庭先では相変わらず松虫や蟋蟀が唄い、いつの間にかそれに鈴虫までが加わっている。
「さて、いい加減眠くなってきたね。こんな夜中に付き合ってくれて礼を言うよ」
 のそのそと聡一は腰を上げ、両の腕を挙げてうんと背中の筋を伸ばした。
「じゃ、また明日。おやすみ」


 七、花

 間もなくだった。既に太陽は端の方から欠け始め、全体の四分の一ほどが月の向こうに隠れていた。
 一家は揃って千本四条の隼神社の境内に集まっていた。神主にはあらかじめ話を通しておき、賽銭をたんまりとはずむ代わりに部外者を人払いさせておいた。
 太陽が欠け始めたことで、周囲は次第に暗くなりつつあった。
「元気でなあ、向こうの世界に戻ってもたまにでええから、あてらのことを思い出してなあ」
「はい、ツルさんもお元気で」
「ごめんねえ柏木、こっちにいる間に源氏物語全部読み聞かせられんで」
「いいえ。祥子さんに読んでもらった分は全て覚えましたから」
 ツルも祥子もはらはらと涙を流して別れを惜しむ。聡一は交わす言葉こそ少なかったが、昨夜のことで互いに目配せし合った。そして聡一はくるりと振り返ると禊を終えた秀二郎に声をかけた。秀二郎は朱色の袴に真白の袍という出で立ちだった。
 異界の門を開くのにあたって秀二郎の力も必要だと船岡山の主から云われていた。日蝕によって集まった力を利用し四神たちは異界の門に干渉するが、それはあくまで門の閂を抜く役目であり、門扉を実際に開くのは秀二郎の仕事である。
 秀二郎はばつが悪そうに頭を掻きながら柏木の元へと歩く。そして奥から絞り出すようにぼそぼそと口を開いた。しかしそれを遮るように柏木は声を伝えた。
「秀二郎さん」
「なんだ」
「私、向こうに帰ったら島を出ようと思うんです。島を出て色んな物を見て、色んな人に会って。沢山の縁の輪をつなげ広げます。そう思えたのは、秀二郎さんのおかげです」
「買いかぶりすぎだ。俺はそんな薫陶な奴じゃない」
 秀二郎はやはり何を云うべきか迷っているらしかった。そこで柏木はきっと睨みつけ、ひときわ大きな声で呼びかけた。
「秀二郎さん」
「どうした、何度も。そろそろ刻限だぞ」
「私の前足を握ってください。他に言葉はいりません」
 そして柏木は片方の短く丸い足を懸命に差し出した。何をするつもりなのかと訝しむが、しかし秀二郎云われたとおりに腰をかがめ、柏木の差し出したその白無垢のような前足をちょいと握った。
 瞬間、何か胸の方から熱いものを感じ、それが繋いだ手を通して柏木の体へと注ぎ込まれるような感覚を覚えた。同時に柏木の方からも秀二郎へ向けて何かが雪崩れ込む。
 あっ、と声が漏れた。柏木の背中の葉草の中の蕾が次々に膨らんだかと思うと花を咲かせていく。開いた桃色の花々からは甘くさわやかな香りが花をくすぐらせる。
「私は向こうの世界でかんしゃポケモンと呼ばれてます。人に触れた所から沢山の感謝の気持ちを受け取ると、こんな風に体中の花が咲くんです。秀二郎さんの本当の気持ち、確かに伝わりました」
 秀二郎は一瞬呆気にとられて目を見開いていたが、やがて箍が外れるかのように大口を開けて腹の底から大笑いした。そして柏木の体をむんずと掴むと両の手で高々と掲げた。
「こいつめ、図りやがったな」
 秀二郎が柏木の体を抱き寄せたその時、柏木に咲く花の一つから光がこぼれた。漏れた光はやがて中空で一点に集まると、一粒の黒い種となり、秀二郎の差し出した手の上に落ちた。腕の中で柏木が僥倖とばかりに笑った。
「これは私からのささやかな贈り物です。秀二郎さんがこの先、本当に心の底から誰かに感謝の気持を伝えたい。そういう人を見つけたら、この種から咲く花を贈ってあげてください」
「な、どういう意味だそりゃ」
 秀二郎はさっと頬を紅潮させた。
 その時不意に空が暗くなる。仰ぎ見るともう間もなく太陽が完全に月の影に隠れようとしていた。
「シュウ、いつまでぼやぼやしているんだ。さっさと始めないと間に合わないぞ」
 聡一の笑い混じりの声が飛んできた。
 地に結界を張りその中に柏木が座す。秀二郎は結界の前で目をつむり、じっとその時を待つ。
 そしてついに蝕は完全なものとなり、闇の影が世を覆った。その瞬間、南は巨椋池から朱雀が、東は山陽・山陰道から白虎が、西は鴨川から青龍が、そして北は船岡山から玄武が力を都の心臓へと注ぎ込んだ。隼神社の上空で日蝕で場の力が不安定となり、そこに四つの方角より力の波が迫る。互いにぶつかり合って渦を巻く。
 虚空に歪みが生じ始めた。
 秀二郎は目を豁然と見開き、宙に九字を切った。
「臨兵闘者皆陣列前行」
 刹那、不安定となっていた場に刃を通したような亀裂が生じ、柏木の真上の空に円形の穴隙が生じた。その向こう側に天地が逆転した海と、そして島が見えた。
「あれです。あれが私たちの」
 すると結界の中にいた柏木の体がふわりと浮いた。そしてまるで吸い込まれるように虚空の穴へと引き寄せられる。
「柏木――」
 無意識に、秀二郎は叫んだ。その時柏木は見た。秀二郎の目尻から細い筋が光っていることを。
「ありがとな」
 最後に秀二郎は虚空の穴へと消える間際の柏木の顔を見た。花が咲いていた。
 間もなく雷鳴の如き轟音が響くと、虚空の穴は周囲の場が傷を埋めるように消え去り、一瞬飛ばされそうなまでの大風が吹き荒んだ。
 やがて風が収まると、太陽は再び月の裏側から顔をのぞかせ、蝕は終わりかけていた。
 柏木のいた結界の内は今は何も無く、ただ境内に敷き詰められている白砂ばかりが広がるばかり。
「行ってしまったな」
 兄がぽんと肩を叩いた。秀二郎は手のひらに残った一粒の種にじっと目を注いでいた。
「ああ。こいつを残してくれた」
「縁の輪は途切れぬ、ということだな」
「なんだそれ」
「なんでもないよ」
 聡一は秀二郎の肩を抱き、二人は歩き始めた。前の方でツルと祥子が待っていた。聡一は歩く傍らでくくくと絞るように笑う。
「それにしても今日はシュウの珍しい所も見せてもらったいい日だ」
「なんのことだ」
「お前、自分の頬を触ってみな」
 なんのことやら分からず、片手で云われた通り頬に触れる。その時になってようやく修二郎は雨でもないのに頬が濡れていることに気づいた。
「あああ」
「それにお前が誰かに素直に礼を云うのを見るのも初めてだしな」
 兄はカラカラと笑う。
「くそう。兄貴今夜は飲みだ。ベロンベロンに潰れるまで寝かせねえからな」
「おう、望む所だ。教授連の宴会で鍛えた己れの肝臓を甘く見るな」
 まるで雀の云い合いのように叫ぶ兄弟の頭上で、蝕の終わった太陽が大輪の花を咲かせていた。