缶コーヒーと秋の空 ( No.4 )
日時: 2013/11/15 13:54
名前: 鈴志木 メールを送信する

テーマ「石」

 多くのスポーツにおいて審判とはルールであり、いくつかの競技では物理的に石ころ同然の存在だ。頭にボールが直撃しようがプレーは続行しなければならず、残念なことに、それはポケモンバトルにおいても同じである。
「ネール、アイアンテール!」
 フィールドは常に戦場だ。
 バトルフィールドの領域を占拠する巨大な鉄蛇が、その鋼の身体を驚くほどしなやかに撓ませ、眼前のナッシーを薙ぎ払う。それと共に発生した突風が私の身体を揺らし、両手に握っていたフラッグが翻って取っ手に巻きついた。馬鹿でかいポケモンが技を繰り出す瞬間は、何度経験しても肝が縮む。特にハガネールなんて、技のとばっちりを食らうだけで命を落としかねない。
 そんなポケモンを臆することなくリードする、あの新人ジムリーダーは大したものだ。
「トドメです……ネール、ロックブラスト!」 
 フィールド外野から、その少女は凛とした静かな口調でハガネールに技を命じる。彼女はまだ十代半ばと聞いた。私の息子と同世代くらいだろう。学校に通いながら趣味としてポケモンバトルを楽しんでいる息子に対し、あの子は既にジムリーダーとして大いなる名声を手に入れようとしている。早いうちから子供の実力格差を目の当たりにするのは、親として酷なものだ。
 しかし、今はそんなことを考えている時ではない。 
 主人の命を受けたハガネールは重々しく口を開くと、足元もおぼつかないナッシー目掛け、岩石の砲弾を発射した。一つでも命中すれば気絶は間違いないだろう。十年以上ポケモンジムの審判をやっていれば、試合の流れというのは肌で感じることができる。審判とは挑戦者とジムリーダー両者の間に立ち、試合を最も客観的に見られる立場だ。自然と右手のフラッグを握る手に力が籠り、ジムリーダーの勝利を告げる準備はできた。
 しかし、時に予測できない事態も発生する。
 ジム挑戦者のナッシーは葉が生い茂る頭を振り乱しながら必死に岩石の弾丸を回避し、フィールド外で身構えている私の元へ接近した。まだロックブラストの攻撃は止んでいない。全身の神経が一斉に危険を感知する――このままでは石に当たるぞ、逃げろ。視覚が流れ弾を食らわない位置を見つける。両足がそこへ向かう。聴覚が少女の甲高い声を捉えた。
「危ない!」
 脹脛に鋭い痛みが走り、無我夢中で前方へ跳んだ。
 着地と共にハガネールの攻撃が止み、間一髪で直撃を免れたことに安堵する。だが命拾いしたことを喜んでいる暇はない。すぐに後方を振り返り、無数の石ころにまみれて気絶しているナッシーを確認した。
 これで、試合終了だ。
「ナッシー戦闘不能。勝者、ジムリーダー・ミカン!」
 私は右手に握り続けていたフラッグをジムの高い天井へと掲げる。その瞬間、ハガネールが歓喜の雄たけびを上げて室内を震わせ、挑戦者は項垂れ、申し訳程度しかない観客席に詰めかけていた報道関係者があの新人ジムリーダー向けてカメラを構え、一斉にフラッシュを焚いた。この旗の一振りで様々な行動、感情が連鎖していく。それを横目に私はフラッグを下ろし、余韻に浸ることなく控えの部屋へと向かった。
 今日はアサギジム新リーダーのお披露目なので、挑戦者は一人だけ。後は勝利インタビューや撮影取材などを行うそうだ。ジム審判というのは通常、少なくとも一日五試合はジャッジをこなしている。たった一試合のみに駆り出されるというのは物足りないというか、調子が乱れるというか。審判用の制服を脱いでいると、ズボンが脹脛に引っかかり、忘れていた痛みが蘇った。ロックブラストの流れ弾は五センチ程度の切り傷を作り、目を背けたくなる惨状になっている。すぐにパウダースプレー式の消毒薬を吹き付け、これで治療は完了だ。
 この程度なら、もうかすり傷みたいなものだ。脛毛で隠れているが、脚の至る所に審判人生十年分のとばっちりが刻み込まれている。この道二十年のベテランによれば、この程度はまだまだ甘ちゃんらしいのだが、四肢を残し丈夫なまま現役を退きたいものだ。まだ家のローンは二十年残っているし、一人息子を大学卒業まで世話する必要がある。
「アサギに可愛らしいジムリーダーが誕生しました! 鉄壁ガードの女の子、ミカンちゃん!」
 記者会見だろうか、遠くからやけに弾んだ会話が聞こえてくる。比較的近い距離にいるのに、私には別世界だ。あの少女は既にトレーナー界のスター候補で、町の羨望の的。かたや私と言えばポケモンリーグに所属する、四十過ぎのしがない中堅審判だ。
 あちこちのポケモンジムを一定スパンで担当していると、若いリーダーとの格差に絶望することが多々ある。若くして大成功を収め、既にダイヤモンドのように輝く彼らに対し、さしずめ私はそこら辺の石ころみたいなものだ。まあ石なりに安定感のある生活は送っているが、こんな仕事だ、突然蹴飛ばされて消えてしまう危険性だってある。ま、その辺はどの職種も同じだろうか。
 さて、着替え終わったから上に報告の連絡を入れ、帰宅するとしよう。荷物をまとめ、控え室を出た。制服を脱ぐと審判の威厳は残らず取り払われ、野暮ったい中年男が姿を現す。幸いにもどこのジムも審判控え室は裏口のすぐ傍に設置されており、リーダーやスタッフの目を忍んで帰宅することが可能だ。審判は公平であるべき存在、余計な馴れ合いは不要である。この配慮は有り難い。の、だが。
「……あ、あの。お、お疲れ様です……」
 裏口を開けた瞬間、私は度肝を抜かれた。そこに立っていたのは、緑色のワンピースに白いカーディガンを羽織った華奢で小柄な一人の少女。紛れもなくこのジムを司るリーダー、ミカンさんだ。もう記者会見は終わったのだろうか。近くで見ると大人しそうなごく普通の女の子で、武骨なはがねタイプを巧みに操っていた姿とはひどくギャップがある。
「お疲れ様です。初勝利、おめでとうございます」
 私は社交辞令的を述べ、素っ気なく会釈した。可愛らしい女の子の出待ちに喜ぶ年じゃない。それよりも、何かクレームを付けられるのではないかという危惧が先行する。職業柄、ちょっとしたトラブルが原因で異動になるケースは多いのだ。
 しかし、私の予想は見事に外れた。彼女ははにかみながら携帯消毒液と絆創膏を私の前に差し出したのだ。
「ありがとうございます。あの……さっきの試合で、お怪我されませんでしたか? こ、これ良かったら……」
「いえ、お構いなく」 
 私は反射的に拒否した。するとミカンさんは目を丸くし、二つ括りの髪を揺らして動揺を露わにする。この子は、上から何も聞いていないのかな。
「お気遣い、嬉しく思います。ですが理由は何であれ、審判がリーダーや挑戦者から物を受け取るのは規則で禁じられております」
 つまるところ、賄賂の防止だ。リーダーに就任すればそのようなお達しがあるはずだが、彼女の慌て様を見る限り、忘れているだけなのかもしれない。まあ若いから、仕方ないか。
「ご、ごめんなさい……規則、見落としていました……」
 ほら、やっぱりな。だがこんな年端も行かぬ少女を咎めるつもりはない。私はほんの少しだけ唇の端を持ち上げ、顔を緩めた。
「いえ、よくあることです。それに怪我は先ほど治療しましたし、問題ありませんよ。お気持ちだけ受け取っておきます」
 ハナダのジムを担当した時も最初に似たようなことがあった。本当によくあることだ。再び会釈して、彼女の傍を通り過ぎる。審判として公平性を保つため、ジムリーダーには極力関わりたくない。我ながら殊勝な心がけだ。本当は、近付くほど惨めになるのが嫌なだけなのに。
「す、すみません……あの、それと、あと一つだけ……よろしいですか?」
 おぼつかない台詞が私を再び引き止める。今度こそクレームだろうか。ヘマはしていないはずだが――覚悟を決めて振り返った。その直後、少女はさっと頭を下げ、私に旋毛を向ける。 
「こ、今後とも……よろしくお願いします!」
 再び、度肝を抜かれた。
「はい、こちらこそ」
 なんとか取り繕って三度会釈し、逃げるようにその場を離れた。彼女からすれば、不愛想に去って行ったように見えたことだろう。だが内心は穏やかではなかった。ジムリーダーとはあくまでビジネスライクな付き合いを徹底していたため、彼女のような丁寧な気遣いは一度もなかったのだ。勿論、他のリーダーが不遜だと言う訳ではない。むしろ彼らは非常にプロ意識が高く、私寄りの考えを持ち、馴れ合いは一切許さない。それはルーキーも同様だ。
 その距離感が正しいのだ、本来は。
 だがあんなふうに親切にされたら、戸惑ってしまうじゃないか。もう少し、プロ意識の高い人間を採用すべきだ。やや肌寒い清秋の空気に身体を震わせながら、ジム裏手の関係者駐車場へと急ぐ。敷地外に植えた銀杏の木は黄金へと色付き始め、いくつかの落ち葉がくすんだアスファルトを彩っていた。ほんの少し前まで、シャツ一枚で事足りる暑さだったような気がするのに、あっという間に気温が変化したものだ。こんな時は身体が自然と温かい飲み物を欲する。視線は駐車場入り口傍にある自販機へと向いていた。ズボンのポケットから小銭を引っ張り出し、ホットのブラックコーヒーを買って空を見上げる様に一口煽った。
 秋空は白く霞み、侘しく哀愁が漂っている。ブラックの苦みがさらにそれを際立たせていた。


 それからほぼ毎日、私が出勤するたびに彼女ははにかみながら挨拶してくれるようになった。医療品の差し入れ翌日の時はさすがに眉をひそめ、上に報告しようかと思ったが、直後に清掃スタッフへ同じように声をかける姿を見て、その考えを恥じた。
 ミカンさんは誰にでも分け隔てなく親切なのだ。
 ポケモンは勿論のこと、ジムの前を通り過ぎるアサギ住人らへの挨拶も欠かせない。若いのによくできている。きっと親御さんの教育が良いのだろう。事あるごとに人見知り傾向にある我が息子と比較してしまい、情けなくなった私は戒めのため、ますます仕事だけに注力するようになった。ジムの受け付け開始前に挨拶し、審判に没頭し、会釈して帰宅する――ビジネスライクで審判として正しい距離感を一ヶ月保ち続けた。
 この頃になると、そろそろ新人リーダーの実力が明確になる。私も十年の間に審判としていくつものジムを回り、様々なリーダーを見てきた。ジムリーダーになれる人間というのは皆共通してバトルのセンスが良く、ポケモンと意思がリンクしているのではないかと思う程扱いが上手い。それでもキャリアを長く重ねていられるのはほんの一握り。五年持てばいい方だろう。とはいえ、ここで名を馳せれば引退してもポケモン関連の仕事はいくらでも舞い込んでくるのだから羨ましい限りだ。
 さて、デビューから一ヶ月経過したミカンさんに対する個人的な見解だが――彼女は一流の素質がある。はがねポケモンは万遍なく鍛え上げられ、そしてこれ以上ない愛を受けている。それが絶対の忠誠へと変わり、勝利へと繋がっているのだ。敗北を見たのは、まだ両手で数えられる程度だろうか。彼女は強い。いずれセキエイリーグへの昇格さえ狙えるのではないだろうか。ホウエン地方の前チャンピオンははがねタイプを専門としていたし、後任はジムリーダーからの栄転だ。ありえない話ではない。
 ただし一つだけ欠点を上げるとするならば、それは彼女の親切心だろう。ポケモントレーナー界に限った話ではないが、お人好しは大きな成功に恵まれない。決して己が信念を曲げず、しかし柔軟で向上心ある人間こそ頂点に立つことができるのだ。この世界は特にその傾向が強い。今は問題なくとも、その優しさが仇になり、いずれ壁に直面する時がやって来るだろう。その時にどうやって乗り越えるか――そこが彼女の真価だ。
「ネール、ロックブラスト!」
 彼女の指示を受け、フィールド上に居座っていたハガネールがさっと口を開いた。一月も見ていればその攻撃範囲は不慮の事態を含め、大方予想がつく。すぐに流れ弾を受けない位置へと走り、その間にハガネールの放った岩石が挑戦者のマルマインを強襲する。
「わ、わああっ!」
 挑戦者も素っ頓狂な声を上げながら後退し、足を踏み外して後ろへ倒れ込んだ。その一連の動作を見て、彼が流れ弾を受けていないことをしかと目に焼き付ける。私はすぐに視線をマルマインへ移した。既に手負いだったため気絶は確実、挑戦者の手持ちはこのマルマインで最後になるため、この技は決め手になったことだろう。右手のフラッグを固く握り締め、首を伸ばしてボールポケモンの容体を確認すると、石に埋もれ、目を回して転がっていた。よし、間違いなく気絶している。
「マルマイン戦闘不能。勝者、ジムリーダー!」
 右手のフラッグを掲げると、ミカンさんは戦士の相貌を緩め安堵しながらハガネールに駆け寄り、労をねぎらっていた。彼女は一つの勝利も無駄にはせず、ポケモンたちを丁寧に褒め称えている。こういうひと手間が若くして成功する一因でもあるのだろう。それを見て私も安心したが、一つの罵声によってすぐに掻き消された。
「審判、見てなかったのか! この女わざと狙いやがったぞ!」
 挑戦者が靴を踏み鳴らしながら私の元へ詰め寄る。二十代前半と思しき、ややガラの悪そうな男だった。ああ、これは面倒なことになりそうだ。ハガネールを撫でていたミカンさんがきゅっと身体を硬直させているのが目の端に見えた。
「わざと……とは?」
 極めて冷静な口調で男を睨み据える。審判はいかなる時も怯んではならない。 
「さっきのロックブラストの時! あのガキ、俺まで狙いやがったんだ。だから俺は石が当たって転び、マルマインに指示が出せなかった。これは立派な指示妨害、ルール違反だよな?」
 男は下品にもミカンさんを指差しながら、乱暴に説いた。意見を無理にでも押し通そうとしているのが透けて見える。言いがかりであることは明々白々なので、毅然に対応するつもりだったが、顔を真っ青にしながら駆け寄ってきたミカンさんにより阻まれた。
「い、石が当たったんですか? そ、それは申し訳――」
「いえ。あなたが転倒された際、私も確認していましたがロックブラストの影響は見受けられませんでした。あなたが転倒したのは別の要因、ただ足を捻っただけです」
 ここでジムリーダーが下手に出ては、相手の思う壺だ。私は彼女の盾になるように立ちはだかった。当然、挑戦者は面白くない。眉間に深い皺を刻み付けながら、私の顔を覗き込むように睨み据えた。こういう状態をメンチを切る、と昔よく言ったっけな。
「ああ? ガキの肩を持つのか、このロリコン!」
 短絡的な罵倒ほど楽な処理はない。この男は理性を失い、試合中はいかなる発言にも責任を負わねばならないことを忘れてしまったようだ。私は勝ち誇った気分に浸りながら、挑戦者側の動作を司る左手でジムの出入り口を真っ直ぐに指差した。
「その暴言を審判への侮辱行為と見なし、強制退場処分を命じる」
「ざけんな! さっきのはどう見ても――」
 男は激高し、ついに右腕を振り上げる。殴られたって構わない。そんなことをして、ますます不利になるのはそっちの方だ。“短気は損気”とは、言い得て妙。歯を食いしばって殴られる覚悟を決めた時、ミカンさんの悲鳴がジム内に響いた。
「ネール、あの人を止めて!」
 ハガネールが巨大な身体を少しだけ伸ばすと、あっという間に男の背後にたどり着く。人間のいざこざにポケモンの首を突っ込ませるのは倫理的にも法律的にも非常に不味い。それ以上手を出させないように、気を張りながら男の前に仁王立ちしていると、彼は私とハガネールを交互に見て堪らず背を向けた。
「クッソ……! いつまで経っても上へ行けねえっ!」
 彼はマルマインを回収すると、フィールドに転がっている無数の石ころを蹴散らしながら捨て台詞を残し、ジムを後にした。くすぶっている故の苛立ちだったのだろうか。その気持ちは分からなくもないが、怒りを向ける先は間違っているし、こんな言いがかりをつける程度ではこれから先も知れている。
 何はともあれ一件落着、思わず息を吐いて後ろを振り向くと、ミカンさんは二つ括りの髪を揺らしながら丁寧にお辞儀をする。
「あ……ありがとうございました」
 相変わらず腰の低いジムリーダーだ。だが、今回の正義感や優しさは規律に抵触する。私は審判に相応しい毅然とした顔を作り、彼女の前で居住まいを正した。
「ミカンさん、いかなる理由があろうと人間同士の揉め事をポケモンで仲裁してはなりません。万が一相手を負傷させてしまった場合、あなたはそのトレーナーとして大きな責任を負うことになります。また、相手の主張を鵜呑みにし、すぐに謝罪することも立場を悪くする原因になりますよ。試合中のトラブルは我々審判に、それ以外はジムのマネジメント担当にお任せください」
 まだ十代でリーダー就任一ヶ月ということもあり、私は厳しくも誠実な口調で注意したつもりだった。ミカンさんは怯えた様子で顔を強張らせていたが、少女だからと言って加減するつもりはない。むしろ審判としての立場を見せつけなければ。
「ご、ごめんなさい……でも、殴られそうな姿を黙って見ていられなくて……」
 泣きそうになりながら掠れた声で弁解する姿に裏はないだろう。審判という職業柄、取り澄ました格好は見せなければならないが――やはり少しだけ、胸が痛む。それでも気を緩ませることができず、私は事務的に言い放った。
「審判はルールという立場ではありますが、物理的には石ころ同然なのです。このような危機管理対応は慣れておりますので、お力添えは必要ありません」
「わ、分かりました……」 
 腑に落ちない顔でミカンさんは頷く。
 私は居た堪れなくなり、会釈してすぐにその場を去った。彼女は優しすぎて調子が狂う。この仕事をもう十年もやっているのに、まだまだ上手くいかないものだ。まさに“中堅”。私は頭の固い、ただの石ころで在りたいのに――息子と同じくらいの少女に気を乱される体たらく。ベテランの言うとおり、私はまだ甘ちゃんなのかもしれない。

 もしくは、ミカンさんがいわゆる“天然”という可能性もある。

 そう考え始めたのは、あの注意した一件の後も彼女が変らぬ態度で接してくれるからだった。他のジムでも親切にしてくれるリーダーは稀に居たが、審判の立場を呈すれば皆察して距離を取ってくれた。それなのに彼女はいつも通り、他のスタッフへの対応と同じく笑顔で挨拶してくれる。これにはほとほと呆れたが、デビューして間もない頃から立て続けに苦言を述べるほど悪者にはなりたくなかったので、私は仕事が終わればすぐに控室へ戻る様にしていたが、そのささやかな抵抗は二週間と続かなかった。
「審判さん、お疲れ様です」
 その日全ての試合を終えた私は、労ってくれるミカンさんに会釈し、逃げるように背を向ける。
「あの、ちょっと待ってください」
 来た――今度は何を言われるのか。私はうんざりしつつも、きっとクレームではないだろうという妙な期待を抱きつつ振り返った。重厚感のあるハガネールを引き連れた彼女は、私の前にミツハニーのイラストが描かれた缶コーヒーを差し出した。確か商品名はコーヒーとは名ばかりの、苦みを抹殺した甘さのカフェオレ“マックス・ハニー”だったか。
「これ、差し入れです。良かったら」
 彼女はコスモスのように可憐な笑顔を見せてくれた。思わず戸惑うが、デビュー戦で差し入れは駄目だと言ったはずじゃないか。反射的に抵抗しようと口を開くと、彼女が微笑みながら先制した。
「ヤナギさんに聞いたんです。缶コーヒーくらいなら、たまに差し入れるって。先日は守っていただき、ありがとうございました。ささやかですが、お礼させてください」
 つい先程の試合で“かみつく”を仕掛けようとしたラッタをハガネールが“アイアンテール”で薙ぎ払った模様を見ていたが、今ならあのラッタの衝撃が少しは分かるような気がした。ルールを振りかざす中堅の私に対し、彼女はトレーナー歴四十年の大ベテランをぶつけてきたのだ。ヤナギさんと言えばチョウジタウンのジムリーダーで、ジョウト地方のリーダーでは一番の古株であり、地位も発言力も大きい。それ故に、ジムを担当する審判はセキエイリーグばりのベテランが充てられる。彼らが差し入れを受け取っているのならば、中堅の私もお咎めないという考えなのだろう。なかなかのやり手だが、コーヒーの子供っぽいチョイスから見るに、どこまで気を回しているのかは分からない。
「……ヤナギさんが差し入れされているのでしたら。お言葉に甘えて」 
 右手をズボンで拭き、受け取った缶コーヒーはじわりと温かい。ホットだなんて、この肌寒い季節には有り難いことこの上ない。私は会釈すると、軽く振ってからすぐにプルトップを開けてしまった。後で車の中で飲めばいいのに、早まりすぎだ――後悔しつつも欲していた温もりを身体の中へ取り入れると、追い打ちをかける様に眩暈を催すほどの甘さが襲い掛かってきた。
「も、もしかして甘いの苦手ですか?」
 口を付けた瞬間顔をしかめてしまったので、ミカンさんがそれを察して私を覗き込む。
「い、いや……それほどでは……」
 善意を無下にはできないが、理性に抗えない程甘ったるい。私は基本的に甘い物があまり好きではなく、妻や息子には手土産のケーキを選ぶセンスが最悪だと毎度文句を言われている。
「ご、ごめんなさい……自分が美味しいと感じたコーヒーなら大丈夫かなって思ったんです。次はもっと甘さ控えめのコーヒーを用意しますね……」
 ミカンさんは必要以上に悩むので、私は慌ててフォローした。
「あ、いや……ご厚意だけでも大変有り難いです。缶コーヒーは基本的に何でも好きなんですよ」
 本当はブラック以外受け付けないのだが。缶コーヒーという物はそれ以外、“微糖”と銘打っていても名ばかりに甘ったるい。
「大人の方ってよく飲まれていますよね。コーヒーは苦くって……私はそれしか飲めません。まだまだ子供です」
 私の嘘に騙され、ミカンさんは苦笑しながら肩を竦めた。それなりに年取った大人として、子供にこのような冗談を言われるのは好きではない。私の息子のような並の人間ならば単に気取った発言として流せるのだが、彼女のような優秀で既に名誉ある地位についている子供に言われると、大人げないが癪に障る。その年でしっかりされちゃ、四十過ぎでうだつの上がらない私の立つ瀬がないじゃないか。子供は子供らしくあってくれよ。
「背伸びしなくても、等身大でいいじゃないですか」
 やや怒りを含んだ穏やかな口調で告げると、ミカンさんは思いつめるように俯いた。
「だけど、もっと強くならなくちゃ……この間みたいな挑戦者の方にも対処できるようになりたいんです」
「前にも申し上げましたが、ああいう輩の対応は我々の仕事ですから。お気になさらず」
 子供だから、舐めてかかられるんだ。それを大人である私が対処する、このアイデンティティを保持させてくれ。中身までしっかりされちゃ、私はただの石ころでしかない。
 なんてちっぽけでくだらない思考だろう。こんな考えだから、私の人生はパッとしないんだ。ふと気付くと、ミカンさんは納得できないというような表情で、私をじっと見つめている。それでもまだ、対処したいのか。少し怖がらせてやろうと思い、私はいくつかの事例を上げた。
「あなたはまだリーダーに就任して間もないのでご存じないでしょう。結構多いんですよ、問題のあるトレーナーは。判定に文句を付けるのは基本ですし、わざと攻撃を受けリーダーに責任を負わせようとする“当たり屋”も存在します。テンポの良い試合を重んじるバトルマニアなんかはリーダーが持久戦に持ち込んだ時点で突然棄権し、挑戦料の払い戻しを要求することも少なくない」
「え、ええっ……こ、怖いね、ネール」
 思ったより効果はあったようで、ミカンさんは傍にいた相棒と顔を見合わせ、震え上がった。面白いことに、ハガネールまで戦慄している。フィールドで勇猛果敢な姿を見せているポケモンが、私の話で怯えるなんて。意外な懸隔に、頬が緩んだ。
「想像を超える人間が多い世界です。他のリーダーも相手にしていませんよ。勿論、“ヤナギさん”もね」
「ヤナギさんでさえ相手にされないのですね……では、大変だと思いますが今後もご対応よろしくお願いします」
 ミカンさんは申し訳なくなるくらい馬鹿丁寧に頭を下げた。実際にヤナギさんがクレーマーを相手にしていないのかは不明だが、反発したという話も聞かないし恐らく事実だろう。誤魔化すように甘ったるいコーヒーを口に付けると、顔を上げながら恐る恐る彼女は尋ねる。
「文句を言われるお仕事って……辛くはありませんか」
 ちょっと、質問が多い気がする。
「慣れましたから」
 話を広げないように短く答えたが、コーヒーの温もりも相まって、何だかこの空気感は心地良い。この百九十グラム弱の糖分を飲み干す間くらいは居座っても罪ではないだろうか。彼女も審判の仕事に興味があるようだし。
「大変ですね。私だったら、耐えられないかもしれません。実は急に大声を出された時、ちょっと泣きそうでした」
 ハガネールが彼女を慰めるように寄り添う。
 なるほど、私が思っているよりずっと真剣に、ミカンさんはあのトレーナーの件を思いつめていたのか。先ほど苛立っていた自分が恥ずかしい。コーヒーを煽り、脳を突き刺す甘さで己を戒める。
「ええ、分かります。だから、そういう時は我々にお任せください。一人で思いつめず、役割を分担しましょう」
 我ながら照れ臭くなり、だらしなく微笑むと、ミカンさんはようやく納得した様子で小さく頷いた。それで自分も安心し、嬉しくなってもう一度コーヒーを口にした。この甘さにも少しは慣れ、余裕ができるとメーカーロゴに視線が移る。その会社が打ち出している、印象的なCMが思い浮かんだ。もっと格好を付けてみたくなり、彼女の前にすっかり軽くなったコーヒーを掲げる。 
「落ち込むことがあれば、大人は缶コーヒーを飲むんです。どんなに落ち込んでいても、これを飲む時は上を向きますからね。それで気を持ち直すから、審判は折れませんよ」
「まあ、それは素敵ですね」
 どうやらあのCMは未見のようで、一安心。心から喜んで微笑んでくれる彼女は、まるで穏やかな秋風に揺れる白いコスモスのようだ。
 しかし柄にもないことをしてしまい、途端に気恥ずかしくなった私は会釈してその場を離れた。全く、調子に乗りすぎだ。すぐに控え室へと向かい、急いで着替えて逃げるようにジムを出た。
 裏口のドアノブに手を掛けた瞬間、静電気がぱちりと弾け、扉を開くなり晩秋の寒風が私の身体へ突き刺さる。これはジムリーダーと少しでも仲良くした私への報いだろうか。なんて、考えるのも馬鹿馬鹿しい。明日からはまた審判として、誠意をもって接するのみだ。口の中にまだ残る糖分が煩わしくて、足は自然と駐車場の自販機へ動いた。
 ホットのブラックコーヒーを迷わず選ぶ。
 取出し口へと落ちてきた缶は、ミカンさんから頂いたマックス・ハニーよりずっと熱かった。両手でお手玉するように持ち替えながら手を温めた後、軽く振ってプルトップを開け、大袈裟に空を見上げながら煽ってみた。
 そろそろ日も落ちる時間だ。くすんだ空に橙が滲む、そんな秋の黄昏に包まれてみると、心は妙に穏やかに変化する。秋風に撫でられた稲穂のように、ゆっくりと均されていくのだ――なんて、私は先ほどから気取りすぎだ。急に審判の仕事が誇らしくなり、どうも浮足立っているらしい。戒めとしてもう一度缶を口にした。やはりコーヒーはブラックに限る。
 

 それから二週間、私は審判のマスクを被り直して仕事に勤めた。気を緩ませると思わずミカンさんの好意に甘えそうになるからだ。審判歴十年、これほど情けないことはない。あまりにひたむきで純粋な彼女に、ジムスタッフも次々に親身になって接していた。専門とするはがねタイプの無機質さに反し、柔和な印象を与える彼女は地元の人間からの評判も非常に高く、アサギでは人々がコイルやコマタナを連れ歩いている姿を度々目撃するようになった。潮風の流れる港町にはがねタイプが溢れる様子はどこか滑稽だ。とは言え、僅かな期間でここまで支持を得た器量は大したものだ。私も彼女を見習い、息子の教育に尽力せねばなるまい。
 それと同時に、やはり自分が彼女に相当入れ込んでいることを反省する。勿論、女としてではない。審判はジムリーダーと挑戦者の間に立つ者として常に両者に対等であるべきだが、私は今、ミカンさんを贔屓していることを自覚している。これは審判としてあるまじき行為だ。今一度反省し、ルール、そして石に徹しなければ――何度も言い聞かせた。だが、やはり心の隅には彼女を寵する感情がどこかに残っている。審判失格だと、私は頭を悩ませるようになった。
「ネール、アイアンヘッド!」
 ただ一つ、助かったのはミカンさんが持久戦タイプではないという点だ。技構成は攻撃的で、挑戦者のポケモン一匹当たり平均五分程度で戦闘不能にさせている。相棒のハガネールが出てくれば、その時間はもっと短い。今回も、私の目の前で挑戦者のニョロボンを豪快に吹っ飛ばした。弾かれたニョロボンはフィールド外野で指示を出していた若い男の挑戦者と衝突し、崩れ落ちる。
「ああっ! だ、大丈夫ですか……」
 ミカンさんが悲鳴を上げるより早く、私は彼の元へ駆け寄った。
「怪我は?」
「ねーよ」
 ニョロボンの下敷きになっていた彼は舌打ちしながら身体を起こした。くたびれた革ジャンはすっかり土埃に汚れており、頬や手の甲には擦り傷が残っている。
「大人しそうに見えて、あのガキ……」
 その双眸に宿る闘争心は、ポケモンではなくミカンさんのみに向けられていた。刺々しい殺気を察知した私は、すぐに警告を出した。
「リーダーに怒りを向けないでください。ここではあくまでポケモンバトルを――」
 だが男は私など眼中にない、とばかりに余力もないニョロボンを嗾ける。
「ニョロボン、奮い立て!」
 左手に握ったフラッグが揺れたかと思うと、ニョロボンはハガネールの鼻先まで疾駆する。最後の切り札だからなのか、まさに目にも留まらぬ速さで飛びかかり、ニョロボンは真っ直ぐに腕を構えた。掌の噴気孔から水を発射させる気だと、察知する。しかしその位置では――ハガネールの後方にいるミカンさんも攻撃を受ける可能性があった。明らかな報復だ。
「トレーナー丸ごと飲みこめ、ハイドロポンプ!」
 ニョロボンは躊躇なく激流を発射し、すかさずハガネールが彼女を守るように立ちはだかった。
「君! トレーナーを狙うのは違反だ、直ちに指示を取り消しなさい!」
 私は声を荒げたが、彼は聞き入れる仕草すら見せない。ミカンさんの小さな悲鳴を耳にし、直ぐに振り返ると、彼女はびしょ濡れになって座り込んでいた。ハガネールが盾になってくれたとはいえ、そのハイドロポンプの水圧は凄まじいことだろう。蓋をしていた感情が、みしみしと音を立てながらせり上がってくる。駄目だ、冷静にならなくては――私は声を荒げていた。
「いい加減にしろ!」
「さっきのアイアンヘッド、ありゃ明らかに俺も狙ってたじゃねえか!」
「あれは事故だ。だが、君のハイドロポンプは明らかにジムリーダーを狙っている! その上こちらの警告も聞き入れないとは――これをもって、挑戦者を退場処分とする!」
「な……何様だよ!」
「審判はルールだ」
 私は有無を言わさず畳みかけた。間違った判定ではないが、頭はどうしようもなく煮え立っており、高圧的な物言いで威厳なんてあったもんじゃない。それは挑戦者の感情を逆撫でする結果になった。
「偉そうに口出しするな! ニョロボン、とどめだ!」
 私の制止を振り切り、挑戦者がニョロボンへ吼える。ミカンさんが危ない――私はフラッグを放り捨て、フィールドの中へ駆け出していた。ポケモンの放った草木や石が散乱し、水浸しのフィールドが足を取る。お前は介入し過ぎだと、引き止めているようだった。確かにミカンさんへ傾倒し過ぎたと反省している。だからこそ、この試合を私の手で収束しなければならない。
 試合の秩序を保ち、リーダーを守るのは審判の役目だ。
 右手が挑戦者のポケモンの肩へ届いた瞬間、同じように主人を守ろうとしたハガネールの尾が、私ごとニョロボンを振り払った。石ころを蹴散らすように軽々と吹っ飛ばされ、意識が頭から引き剥がされていく。
「審判さん!」
 ミカンさんの悲鳴が胸を刺激する。
 やはり私は彼女に情が移りすぎている。この試合が終わったら、異動願いを出そう。
 気を失う直前、私はそう決意した。


「退院おめでとう」
 青いパーティションに区切られたオフィスの一区画で、上司は私を労いながらポケモンリーグのロゴ入り大判封筒をそっと差し出した。すぐに頭を下げる。
「ご迷惑をお掛けして、申し訳ございませんでした」
「よくあることだ。健保に医療費の申請を出しておいてくれ」
 上司は気に留める様子もなく、デスク後ろの窓を見る。ポケモンリーグ本部の外には初雪がちらつくセキエイ高原の風景が広がり、奥にはうっすらと雪化粧を施したシロガネ山の峰々が並んでいる。二週間病院で過ごしているうちに、もう冬はすぐそこだ。
「これから寒くなるぞう、ポケモンリーグ本部は。ベテランのじいさん連中が悲鳴を上げる時期だ」
「ええ、相当冷えるらしいですね」
「冬の間は若手が担当した方がいいのかねぇ」
 含みを持たせるような上司の口調に、私は少しだけ期待してしまった。もしやリーグ審判への栄転かと期待し、こっそり封筒の中を覗いたが、そこには次の配属先“ニビシティジム”と大きく記載されていた。
「君にはまだ早いよ」
 上司はお見通しとばかりに、にんまりする。情けなくなり、意地を張るように苦笑した。
「冷え症なので、助かりました」
「ほう、それなら今後も考慮しないとな」
「撤回します」
 このように容易く言い包められ、リーダーに情が移る私は十年経ってもまだまだ二流である。中堅としてやや慢心していたのかもしれない。上司も同様のことを告げた。
「駄目だよ、ジムリーダーに入れ込み過ぎるのは。気持ちは分かるが、我々はあくまで公平性を保たないと。そんなことをしているから、いつまで経っても上に行けないんだ」
 返す言葉もない。
 私は上司に礼を言うと、封筒を手に本部を去った。粉雪が舞う初冬のセキエイ高原は、冬物の背広では耐え切れない寒さだ。何度やってきても慣れないことから、この場所はまだ私には早いのかもしれない。本部ビルに情けなく背を向けながら、軽の自家用車が置かれた職員駐車場を目指す。
 激高した挑戦者のニョロボンを身を挺して止めた――実際には、反撃したハガネールの巻き添えを食らっただけの私は、奇跡的に全治十日間の軽傷で事なきを得た。しかし怪我の程度が分かれば石ころにちょっとした傷が入ったようなもの、本部も家族もいつものことだと特に心配しなかった。あの試合も代理スタッフに旗を持たせて続行したらしいし、審判とはこういう仕事だ。
 だからこそ、ミカンさんの好意は有り難かった。彼女の存在は、仕事に新しい希望をくれたんだ。
「審判さん、ですか?」
 駐車場の入口へたどり着いた時、背後で耳慣れた声がした。振り向くとベージュの可愛らしいコートを着たミカンさんが立っている。私はまだ病院のベッドで夢を見ているのではないかと錯覚したが、それならば背後に武骨な警備員が何人も写りこんでいるはずがないので、これはやはり現実である。
「やっぱりそうですね。退院、おめでとうございます」
 彼女はコスモスが咲いたような可憐な笑顔を見せ、白い息を吐きながら、私の元へ駆け寄ってくる。
「どうしてここに……」
「今日のこの時間に本部に来られると聞いて、ご挨拶しようと」
 ミカンさんはそう言いながら私の一メートル手前で立ち止まると、ブーツを履いた足を揃えて恭しくお辞儀をした。
「ご迷惑をお掛けして、申し訳ありませんでした」
 小さな旋毛を見て、ほんの二ヶ月前の出会った頃を思い出す。彼女は何も変わっていない。最後もわざわざ私の所へやってきて、お礼を言ってくれるのだ。
「いいえ、こちらこそ出過ぎた真似をしてしまって……お怪我はありませんでしたか」
「はい、審判さんが守ってくださったお陰です」
 ミカンさんは嬉しそうに微笑んだ。私は途端に名残惜しくなり、窒息しそうな感覚に陥った。
「それはハガネールの功績だと思いますが、無事で良かったです。私は他のジムへ異動になりますが、今後もミカンさんの益々のご活躍、お祈りいたしております」
 胸の痛みを誤魔化すため、手紙の結び文句のように馬鹿丁寧で事務的な礼をした。ビジネスと割り切っていけば、少しずつ気は楽になる。
「あの、これ良かったら」
 だが、彼女はやはり天然だ。もしくは悪魔かもしれない。
 私の目の前に、鋼色の缶コーヒーが差し出された。マックス・ハニーのメーカーが販売している、微糖のコーヒーである。
「お餞別です」
「ありがとうございます」
 なんとか平常心を保ちながら、それを受け取った。セキエイで凍りついた指先を解かす、ホットの温もり。そればかりじゃない、この熱は十年間同じ業務を繰り返し、“仕事、そしてジムリーダーとはこういうものだ”と凝り固まっていた中年の石頭を解きほぐしてくれたんだ。
「次のジムでも頑張ってくださいね」
 彼女は最後にもう一度礼をすると、コートの裾をさっと翻して駐車場を去って行った。とても華奢な背中だったが、鋼の芯が通っているようにピンと背筋を伸ばしている。それを見て、すぐに自身のだらしない猫背を直した。彼女はきっと良いジムリーダーになることだろう。
 セキエイ高原を抜ける冬一番が身体を震わせ、堪らず握り締めていた缶コーヒーのプルトップを開けた。コーヒーを煽りながら見上げたポケモンリーグ本部ビルは、高原の頂からカントー・ジョウト地方を見下ろすようにそびえ立っている。
 ――そんなことをしているから、いつまで経っても上に行けないんだ。
 先ほど上司に言われた言葉を思い出す。私は明日からまた審判として石ころに徹するが、良い仕切り直しができることに期待していた。本部ビルの上空は雪が舞う鬱蒼とした曇り空、しかし乾いた空気が清々しい。そんな空を見上げながら、六分目まで残っている缶コーヒーを一気に飲み干した。名ばかりだと思っていた微糖は、あの甘ったるいコーヒーを思い出せば随分と締りがある味で、そしてほろ苦い。
 私は傍にあった自販機のゴミ箱に缶を捨てると、背広の襟を正して自家用車の元へ向かうことにした。