車輪は歩くような速さで ( No.7 )
日時: 2013/11/17 16:58
名前: 曽我氏 メールを送信する

テーマA「輪」

 その汽車の噂を知っているだろうか。新月の雪夜にしか現れないとされる特別な汽車――奔逸汽車のことだ。
 奔逸の文字通り、その汽車は何かから逃げている者の前にしか現れない。
 どうして現れるのかは謎だった。ただ唯一言えることは、その汽車が今私の目の前にあるという事だけだ。
 私は歩を進める。私の抱く恐怖から逃げるために。自由へと解放されるために。

 錆びついた車輪が悲鳴を上げて、汽車が緩やかに止まりだした。忙しなく流れていた汽車窓の向こうが雪深の道を踏みしめて歩く時のような速さに変わり、やがてぴたりと動かなくなる。
「それじゃあね、小説家さん。よい旅を」
 中身がぎっしりと詰まっているであろう旅行鞄を両手にぶら提げて、老婆は歯切れ悪くそう言った。顔は私の方を向いているが、既に意識と足は通路の方を向いている。
「はい、貴方も。よい旅を」
 私がそう言うと、老婆は軽く会釈をしてそそくさと去っていった。小説を書いている、の後の言葉から薄々そうなるだろうとは勘付いていたが、実際にやられると憮然とした感情を抱かざるを得ない。私は座席に深く座り直すと、溜息と共に曇り窓の外を眺めた。
 猫の額のような停留所には人の気配はなく、うず高く積もった雪白が半ばほどで闇に呑まれていた。駅員の姿も無い所を見るに無人駅なのかもしれない。逆側から望める窓の向こう、深淵の中にぽつりと浮かぶ幽光の粒は人の住処のものなのだろうが、ここまで無響が続くと狐火なのではと疑ぐってしまう。それはそれで趣深くもあるし、この辺りは北狐の住処らしいから本当に狐火なのかもしれなかった。
 四重に着込んだ着物の懐から古ぼけた記録帳を取り出して、慣れない左手で今の情景を描きつける。前回の作品も雪国を舞台にした心中劇だったが、今の景色を見ていると、もう一度雪国を舞台にしてもいいのではないかと考えてしまう。恐らく筆を執るのは来年の冬になるだろうけれど。
 脳内に浮かぶ雪月花に思いを馳せていると、ばうわうと汽笛が鳴った。瀕死の獣の唸り声のような、生暖かく籠った音。暫くして、再び窓の外が動き出した。
 寂しさが鳴る。そもそも辺鄙な山奥まで行こうという人間がそうそう居る筈もなく、今汽車の中には運転手と私、それから神錆びた車輪の音の他にはなにもない。つまるところ絶好の執筆日和――なのだが、腱鞘炎を患った利き手で文字を書くのは至難の業だった。腱鞘炎を直しに湯治に行こうと汽車に乗っているのに、悪化させては元も子もない。という名目で私は筆を休めている。腱鞘炎は其処まで酷いものでもなし、単純に書く気が起きないだけの話だ。
 かつん、かつんと乾いた靴音が向こうの方からやってきて、私の座席の前で止まる。おや、と思い顔を上げると、冬山の息吹が其のまま立ち込めたような、清々しく冷たい声がした。
「お隣宜しいですか」
 私はその声の主を見やる。稲穂色の長髪が一際目を引く、若い女性だった。麻編みの薄手の着物の他には何も身に着けておらず、個人の印象とは対極的に寒々しい出で立ちをしていた。硝子細工をそのままあてはめたような色の瞳も、どことなく寒々しさを連想させる。
「どうぞ、お坐り下さい」
 私は数秒あっけにとられた後、意を取り直して女性に声を掛けた。
「有難うございます。どうも、一人は寂しいものでして」
 小さくはにかむその姿は、金平糖に似て煌びやかで甘ったるい。かといって姦しい訳でもなく、どちらかというと杉目の木材に似た、力強い生命力の渦巻く娘という印象だった。
 彼女は小さな手提げ鞄を膝に乗せると、雪焼けしたのか赤く染まっている頬に両手を当てた。その両手すらも霜焼けで赤く腫れ上がっている。手袋を持っていないのか――と尋ねようとして、それが失礼になる事に気付いて、口をつぐむ。手袋をしようがしまいが彼女の勝手だ。
「あの、お名前をお伺いしてもいいでしょうか。わたし、はつのと申します」
「仮名でよければ。本名は少し……」
「ええ、構いませんよ。お呼びする際に“貴方”では寂しいと思っただけですので」
「成程、そういうことでしたか。私は宮端森彦と言います」
「森彦さん、ですか。素敵な冗談ですね」 
「と、言いますと」
 こちらの反応を図るように彼女は黙った。どう言い、何をすればわからなかったので、私も沈黙を貫くことにした。“君のやろうとしていることが分からない”という意思表示でもある。
「いえ、失礼しました。そうですね、そういう事だって、はい」
 ああそうか、と私は思う。同時に、彼女の純粋さが少し眩しく映った。このままの方が面白いので、私はそれに関して何も言わない。
「はつのさんは、どちらまで?」
「わたしは、えっと、映雪まで。森彦……さんは?」
 やはり抵抗があるのか、彼女は私の名前を口籠った。無理やり下の名前で呼ぶ必要もなければ一々口籠られるのもあまりいい気分はしないので、私が「宮端でいい」と告げると、心なしか彼女は憑き物が落ちたように暖かい息を吐き出した。森彦、という名前に浅からぬ因縁や心的恐怖でも抱いているかのような風にも見えるが、他人の諸事情に一々首を突っ込むのも褒められた行為ではない。私は今の一連を忘れることにした。
「私は雪華まで、湯治に」
 そう言って私が包帯に巻かれた右手首を見せると、彼女は痛々しげに眉を顰めた。
「ごめんなさい、わたし、そういうのは初めてみるもので」
「いえ、お構いなく。見せびらかされても良い気持ちにはならないでしょう」
 それから暫く、私と彼女は他愛もない会話を交わした。何気なく視線を投げた窓の外には雪が舞う。

 読み手の想像に委ねる、というのは小説を書く際に大切なことの一つである。どのくらいの大きさ、だとか、どれ程の長さ、だとか、述べてしまえばそこでお仕舞いだが、あえて読者に丸投げしてしまうことで想像の余地が生まれ、一つの物語を媒介にその人だけの世界が誕生するのだ。そうなってしまえばこっちの物で、筆者の中で漠然としかイメージを抱いていなかったとしても、後は勝手に読者の方が脳内補完してくれる。登場人物の顔、だとか住んでいる家の壁紙の色だとか、一々決める必要なんてない。彼女と交わした“他愛ない会話”も、つまりはそういう事である。
 曇り窓の外は暗澹が敷き詰められ、もはや何も見えはしない。窓越しに伝わってくる冷気と静寂とが、闇舞台の中で恐らく降り注いでいるであろう深雪をただ漠然と表しているだけだ。暖房の掛かった車内にいると忘れがちだが、外は既に氷点下、水すら静止する世界なのである。
 だが、それはつまり、今私の隣で寝息を立てている娘が、特にこれといった防寒対策をせずにその世界からやってきたという事になるのではないか。氷点下の世界を歩くのに、霜焼け程度で済んでいい筈がない。詮索は無粋、とはいえやはり職業病が邪魔をする。彼女は一体何者なのか問い詰めてみたいのだ。
 一線を越えて膨れ上がった詮索欲は、私の空想力を激しく刺激した。実は彼女は狐憑きで、妖力を用いたから極氷地獄を霜焼け程度で乗り越えられたとか、そもそも彼女は人間でないとか。馬鹿げた話だが、短編創作の種ぐらいにはなりそうだった。余りにありきたり過ぎるので、使われることは無いのだろうけれど。
 ぼっ、ぼおう。苦しげに喘ぐ二度目の汽笛は以前のより濁っていた。雪詰まりの黒煙が窓を擽るも、直ぐに雪原に染み込んで消える。
「宮端さん」
 寝起きの声は普段より霞がかって届いた。湿った絹糸のように優しい嬌声だ。私は窓から目を離し、彼女の方を向く。
「わたし、寝ていたのですね。いまは何処なのでしょうか」
「そろそろ立花町に着くと思います。映雪はまだまだ先、よほどお疲れになっていたのでしょうし、まだお休みになられていた方が」
「いいえ、お構いなく。すっかり目が醒めてしまいました」
 くっ、と体を伸ばすその姿は不思議なくらいに清潔で、指先からつま先に至るまでの全てがきれいであろうと思われた。白磁の陶磁器だとか、下したての牛乳石鹸だとかによく似ている。胸元からくっきりと浮き出た鎖骨の影が色めかしく、長い間見ていると目をやられてしまいそうな淫らさがあった。
「余り見詰めないで下さい」
 彼女は冗談めいた口ぶりで笑いながら、私の鼻頭をつつく。初対面の際に感じた微妙な距離感はお互い既に氷解していた。濃く効いた暖房の熱にでも当てられたのかもしれない。
「穴が開いたらどうなさるおつもりですか」
「これは失礼」私は急に神妙そうな面持ちになると、大げさに非礼を詫びる振りをした。「お怪我はありませんか」
「ふふ、お上手ですね」
 彼女の瞳が細められるとほぼ同時に、ゆったりとした力が私を座席に押し倒す。窓の外を流れる細雪の形がやや大雑把に見えるようになってきた。既に錆びた車輪は動きを止めている。
「立花町、ですね。灯篭流しが有名だと聞いています」
「まあ、お詳しいのですね」
「職業柄です」
 私の前作『雪花に咲く』の舞台になった――とは、言わなかった。心中劇の事を嬉々として喋るのは倫理的に宜しくないと思ったからだ。増してや、子供が鸛に運ばれてくるだとか甘藍畑からこんにちはだとか、そういう類の言い聞かせを未だに信じていそうな彼女に私の本は猛毒でしかない。初雪に墨の足跡を付けるのはもう少し後にしてやりたいと思った。 
「やだなぁもう。この汽車はおいらの事をちぃとも考えてない。これだから人間は」
 生一本、汽車の汽笛に負けず劣らずよく通る声がした。少し舌足らず気味なところが如何にもあどけなく、絵に描いたように少年らしい。この汽車に途中乗車してくるとは、なんとも珍しい事だ。
「モシ、そこのお二方。どうやら傷心旅行の最中とお見受けいたしますが、どうぞ一つご教授願いたい。ここは奔逸汽車に違いないのか、それともただに良く似た普通行か」
 私とはつのさんは目を瞬かせて、顔を見合わせた。それも其の筈、饒舌に喋繰るその姿は想像していたような人間の少年ではなく、どこからどう見ても獣のそれであったからだ。濃紅と銀白、稲妻模様に仕分けられた毛色が何かに似ていると思えば、正月飾りの熨斗紙だった。
「奔逸汽車……ええ、確かにそうです。ね、宮端さん」
「ええ」
 奔逸汽車、という言葉自体に聞き覚えがある訳ではなかったが、言葉の意味を察して私は頷く。
「アァそれは良かった。と、それにつけても一匹狼は寂しいもので、どれお二方さえ良ければちょいと相席でも」
「構いませんよ」
  と、彼女が言い終わるや否や、その獣は私の前の座席にどっぷりと腰かけた。よく見るとかなり恰幅がよく、その素直な声とは裏腹にふてぶてしい眼つきをしている。両腕にそそり立った黒爪がぎろりとにらみを利かせたように怪しく光り、暖房に当てられて火照った背筋がいい塩梅に冷えた。
「そんなに括目されても穴しか開かねえや。ひょっとかしてこの良く回る口の事ならおいらにだって分かりやしねェ。そうさな、言葉を話してるのは人間だけじゃねえってことでさあ」
 私なら二三度は噛んでしまうに違いない早口で捲し立てられると、否応にも納得せざるを得ない。狂言と共によく回る舌だ、と私は感心する。
「ずっと人の言葉を御喋りになられているのですか?」
 彼女が問うと、獣はぷっと噴出した。壺に入ったのか、地の底から這うような意地の悪い笑みをくつくつと浮かべながら
「まさかァ! 冗談はその薄ッぺらい召し物だけにして欲しいねえ、目の遣り所に困るってぇの」
 と言ってのける。
「なっ……獣畜生に欲情される謂れはありません!」
 売り言葉に買い言葉、彼女にしては小汚い言葉を振りかざしての反撃は届かない。
「かかっ、こりゃ手痛いこったな。可憐なだけの雌しべかと思いきやぶっ飛んでやがる。畜生だってよ、実にその通りさ」
「もう……!」
 はつのさんはそれ以上何を言うでもなく、前屈みになっていた体を起こし座席に深くもたれ掛った。彼女曰く“獣畜生”の言葉を真に受けているのか、少しばかり顔が赤い。
「ところでよぉ、おいらはワッカって呼ばれてる。あんた等はなんてよびゃあいい」
「宮端森彦。宮端って呼んでくれればいい」
「……へええ、あんたが。ま、ここに乗ってるっつうことはそれなりの事情があんだろ? 短い間だけどよろしくな、モリヒコ」
 差し出された手を握ろ――うとして、随分鋭利に発達した爪の事を思い出した。今は引っ込んでいるけれど、いつ飛び出してくるか気が気ではない。
「そんな汚ねえもんじゃあるめえし、もっと強く握ってくれたって良かったのによお。ああ、便所の後手ぇ洗ってないとかだったら遠慮して欲しいが、そういう訳でもねえんだろ」
「ふさふさ恐怖症、という事にしておいてくれないか」
 沈黙。まるで喋る獣を見るときの様に訝しげな視線をどっぷりとぶちまけられた後、ワッカは苛立ち気味に鼻を鳴らす。
「へいへい。んで、そっちのふて腐れ娘っ子は?」
「獣畜生に名乗る名などありません!」
「ほー、じゃあこっちで勝手に呼ばせて貰わあ。そうさな、薄っぺらなのは当然として……」
「はつのです! 分かったらもう薄っぺらとか卑猥な目線で私を見つめるとかしないでください!」
「してねえよ。おいらは出るとこ出てる雌の方が好みだしなあ」
「もおおお!」
 真っ赤っかに破裂するはつのさんを見て、ワッカは痛快そうに笑う。彼女は完全に弄ばれていた。
 それから暫くして、ちんからりんと鈴が鳴る。錆びついた車輪が苦痛に満ちた呻き声を上げ、窓の外がゆっくりと動き出した。
「今からちょいとばかし独り言を喋繰るが、適当に聞き流してくれ。言葉にしないと不安なんだ」
 今までの喧騒が嘘のように、彼は苦みを帯びた声でそう呟く。古びた窓枠に頬を押し付け、彼は暗幕の降りた外を見つめる。溜息が窓を白く染めた。
「おいらはもうすぐ死ぬ。死ににいかなきゃなんねえんだ」
 絞り出す声が震えていたのは、寒さの所為ではないのだろう。ふてぶてしく恰幅の良い獣の肉体が、私にはひどく縮こまって見えた。


「……わたし達には聞くことしか出来ません」
「それでいいさ、止めて貰おうだなんて思ってねえしよ」
 その言葉の真偽は推し量れなかったが、気だるげな表情の内側が微かに揺れているのは何となく読み取れた。心に波風一つ立っていない――というよりは、生じている筈の波を無理やり手で押し留めているように見える。唇と瞳、それから尻尾が水を浴びた子犬の様に震えているのもつまりはそういうこと、あちらを立てればこちらが立たずとは言いえて妙。揺れの余波が感情の束がそちらに流れているだけのことだった。
「あー……何から話しゃいいか分かんねえけどよ、おいら達の種族はちょっと特殊なんだ。普通、野生動物ってえのは生きる為、食う為に何かを殺す。どこぞの人間様と違って損得だとか感情だとかで何かを傷付けたりはしない。でもおいら達の種族は違う」
「それはつまり、人間の様に損得やら感情やらで何かを傷付けるということですか」
「いんや、そういう事じゃあねえよ。ああ、まあ感情は無きにしもあらずって感じだが……損得で考えても無意味だろうな、おいら達の場合。過去の確執というか、本能に刻まれた使命っていうか、見たら殺したくなるっていうか……なんてえの、こういうの。上手い言葉が見当たんねえな。近しいのは……不可抗力とかそんなとこ。勿論動物全部って訳じゃなく、ある種の蛇との確執」
 何となく私は察した。図鑑や古い本で読んだことがあるだけでその情報は到底正味を帯びたものではなかったが、そうかあれは本当だったのか。私の目の前で苦虫を噛み潰したような表情を広げている彼が猫鼬と呼ばれる種族であるなら彼の発言も全て納得できる。確かに、あれは不可抗力の域というか、本能がそうせざるを得ないというか。
「あの、わたし良く分からないんですけど、それってつまり人間より愚かってことですか。貴方がたも、その蛇さん達も」
「そいつぁ――」
「ちょっと違うでしょうね」と、ワッカより早く私は口を開いた。はつのさんも、それからワッカでさえも予期せぬ方向からの答えに目を丸くしている。
「愚かではないですね。人間と違って、その殺し合いにお互いの意思はないでしょう」
「そういうこった」
「じゃあ止めればいいじゃないですか! お互いにそうする理由がないのなら、する意味なんてどこにもない」
「ん、まあそうなんだがよ。じゃあ聞くが、あんたは川の水に流れないでくださいってお願いできたりするのか」
「それは、無理です」
「そういうことなんだよ。ま、おいらが言うのも変だがなァ」
「……」
 納得がいかないのか、彼女は口を尖らせたまま何も言わず俯いた。非利己的で非論理的、感情論としても機能していない、謂わば納得してはいけない物を納得しろというのはやはり難しいのだろう。彼女が、これは“そういうものだ”と理解して飲み込むまでにはもう少し時間が掛かりそうだ。
 そんな彼女を尻目に、私は声を上げる。先程のワッカの発言に、一つ気になる部分があったのだ。
「ワッカ。君はさっき“死ににいく”って言った。それはどういうことなんだ」
「こっちが聞きたいねえ。どういうことってどういうことなんだィ、モリヒコ」
「失礼、説明が足りなかったかな。君がさっき話し始めた事との関連性を察するに、今から君はその蛇と殺し合いに行くのだろう」
「ああ、そうさ」
「なら、君は“殺し合いに行く”と言うべきだ。“死ににいく”というのは、まるで君が負けるのが前提みたいになっている。いや、君は諦めているといった方が正しいかもしれない」
 嫌な奴だ、と呟く声。ふてぶてしさの中に一種の諦観を含んだ瞳で、ワッカはこちらを見つめていた。睨むでもなく微笑むでもないそれは、無常感と類義されるものだった。
「お前、心理学者って奴か」
「違うさ、職業柄だ」
 投げ付けられた言葉を丁寧に包装して返送すると、彼は死んだ目のまま仄かに微笑んだ。私は続ける。
「ただ、人の感情を扱う仕事であるのには変わりない」
「なるほど。それがお前がモリヒコである所以なんだな」
「ご明察」
「おう」
 鞄の中から干し葡萄の入った巾着を取り出して、ワッカの腹に放る。何故かぼすん、と膨らんだ布団を叩いた時の音がした。
「こいつは?」
「ご褒美だよ。口封じともいう」
「そりゃーありがてえこって」
 皮肉気に言葉を交わす、その隣。はつのさんは私とワッカの一連のやり取りを一片たりとも理解していない様子で、私達の顔を交互に見回していた。そういう間の抜けたところがなんとも彼女らしいのだが、多分本人にそれを言ったら憤慨するだろうから沈黙を貫いておくことにした。今は彼女をからかって遊べるような空気でもない。
「モリヒコのいう事は至極ごもっとも。おいらはこれから死にに行くし、生きることを諦めてるよ」
「……それって、どういうことですか」
「殺し合いは普通差しで行われる事になってんだ。で、どういう事かおいらみてえな餓鬼んちょが向こうの長と戦うことになっちまったのさ。到底叶いっこねえけど、逃げたら種族一同皆殺し」
 干し葡萄をちまちまと齧りながら淡々と述べる彼の内には、大きな葛藤が渦巻いているような気がしてならない。石の様に強張った、意志の固いその顔から彼の感情を上手く読み取ることは出来なかったけれど、言葉の一句一句が上ずっているところを見るに、単に虚勢を張っているだけなのかもしれない。暴いてやろうとは思わなかった。私には思えなかった。
「おいら一匹のエゴで群れを危険に晒す訳にはいかねえ。おいらが死んで皆が救われるなら、それでいい」
「そんなの、そんなの嘘です……!」
 拳を握り締めて、俯いて、彼女は震えていた。頬を伝う涙滴。それはどこまでも淡々と、飄々とした佇まいを崩さないワッカとは、様々な意味で対照的に映る。
 ただ、他人の為に尽くすことが出来る――という点は、綺麗にまでに一致していた。彼女も彼も、優しいのだ。私が忘れてしまった力が、彼女達には備わっている。それだけのことだ。
「誰かが死んだら、それは幸せなんかじゃありません!」
「優しいのな、あんた。こんな獣畜生の為に泣けるってそりゃすげえ才能だぜ。誇ってもいいさ、たっぷりとな」
 薄紅色の声が泣き崩れる彼女を包んだ。
 そしてまた、車輪が悲鳴を上げる。この音が意味する所は三人とも既に理解していた。私とはつのさんの視線が、ワッカの干し葡萄を貪る手に注がれる。
「車輪ってのは残酷なもんだ。ずっと快調に回ってると思いきや、突然ぱたんと止まっちまう」
 ワッカは笑っている。
「しかも自分では回せないときたもんだ。ああ、やりきれないねえ」
 ワッカはまだ笑えている。
「……ああ、なんつーかさ、おいらさ、やっぱさ――」
 ワッカはもう、笑えていない。
 
「まだ、生きてえよ」
 慟哭。
 汽笛の掠れ声は、残響にかき消されて届かなかった。


 汽車が止まったのを肌で感じた。
 立って、歩いて、外に出なければならないのに、どういう訳かおいらの体は動こうとしねえ。寒さに似て陰湿な、でも寒さとは違う種類の震えが襲ってきて体中が痺れたように痛みやがるんだ。体中の水っ気が全部費やされてるんじゃねえかと思っちまうぐれえに流れ出してやがる涙は、留まる所を知らない。そうか、これが怖いって事なんだろうか。畜生薄っぺら娘の奴、最後の最後でとんでもない種を植え付けやがってよお。折角押し殺して納得してたのに、全く酷い目に逢わせやがる。最後の最後で恐怖を知っちまったらよお、おいらはもう戦えねえじゃねえか。
「ワッカ。顔は上げなくていいから、良く聞いてほしいことがある。君がどうしてこの汽車に乗れたのか、私なりに一つ考えてみたんだ」
 顔を上げると、モリヒコの整った顔立ちが目に飛び込んできた。口を真一文字に結んで、しっかりとした面持ちでおいらを見つめている。
「どうしてお前がこの汽車に乗れたのか、ずっと考えていたんだ。私や、恐らく彼女も、何かから逃げてこの汽車にやって来たのに、お前は違った。最初から覚悟している風に見えた」
  モリヒコの張りつめた声。今まで生きてきた中でも、こいつの様に何でも見透かしてくる奴は居なかった。だからなのか、こいつの声は今まで聞いたもののどれでもない感じ――言うなれば、すげえ不気味な声だ。おいらの葛藤とか、苛立ちだとか、そういうもんを全て見通して、その上で何もしてこない諦観者であるってことが、多分モリヒコの一番不気味なところだ。
「……続けてくれ」
「でも、この汽車には“何かから逃げている”者しか乗れないことになっている。その規則自体が紛い物だという可能性もあるから堂々とは言えないが、もしその規則が本当だった場合、お前は何から逃げているのかという疑問が浮かんでくるんだ」
 モリヒコは続ける。
「これは私の推測だが、思うにお前は車輪から逃げているんじゃないか。いや、物理的にではなく精神的にな。車輪は避けられないし、ぶつかっても自分が傷付くだけだから逃げるしかない、と」
「それで……何が言いてえんだ」
「逃げろよ。そんなもんはとことん逃げちまえ。死の運命から逃げる――ってことは、裏を返せば生きようと立ち向かってるって事だろう。何をそう卑下する必要がある。生きたいと願う感情に獣畜生と人間の違いはあるか、いやない。自己を正当化しろ。群れの為だとかどうとかで、在りもしない自己犠牲精神を振りかざすな。嫌なら嫌だと、生きたいなら生きたいとはっきり思え。自分に嘘を付いてまでわざわざ苦しむ必要がどこにある」
 ねえよ、そんなもん。分かってんだよ。そんな目でおいらを見るな。ああそうさ、生きてえよ。こんなとこで死にたくねえよ。痛いのは嫌だし怖ええのも嫌さ。おいらは普通の雌と恋をして、気ままに暮らして、何の悩みもなく平和に生きるつもりだったのに。何でだよ、何で選ばれちまったんだよ。
 そうか、分かっちまった。こうなったのも全部あいつらが悪いんだ。選んだあいつらが悪くて、おいらは只の被害者だ。だから逃げてもいい。全部おいらを選んだあいつらが悪い。勝手に生贄羊をおいらに押し付けた、その報いだ。死んだって仕方ねえだろう。いいさ死んじまえ、おいらは生きる。楽しく、平穏に、生きてみせる。全部全部悪いのはあいつらだ――
 
 ――なんて、違えだろ。そんな訳ねえだろ。選ばれたとき、おいらは首を振らなかった。振ったら他の奴らに白羽の矢が立つって分かってたもんな。エトロだとかピリカだとかオイナだとか、あいつらが死ぬのは駄目なんだよ。あいつ等の死に顔拝むぐれえならおいらが死んでやるって決めたんだろ畜生が。
 ああもう、分かってんじゃねえかおいらのバカ野郎。もう良いだろ、納得しただろ、立てよ。どうして立てねえんだよ。まだ怖がってんのかよ。そうだよまだ怖いんだよ。死にたくねえよ。じゃあ逃げようぜ。何もかも忘れて、このまま汽車に乗って、どっかその辺で降りて、気ままに平和に暮らそうぜ。そうだ、でも、そうだよ、でも。でも。でも……。
 
 ――それって、生きてるって言えるのか。
 
 

「決めた」
 立ち上がった彼の瞳にはもう複雑怪奇な情は渦巻いていない。実に簡単な感情。それこそ漢字二字で表せてしまうぐらいに。
 私は心の中で口角を釣り上げる。多少乱暴な発破――もとい言葉責めはそれなりの成果を見せたらしい。私が高等学校に在籍していた頃の、多分どうしようもなく行き詰っていた時に書いたであろう小説の一節なのだが、まさかこういう場所で日の目を見ることになるとは思わなかった。物理的には焼き払ったが、脳裏に留めておいて正解だった。役目を終えたからには即刻処分しなければならないが。
「そうか、それは良かった」
「まァな。……これで本当に良かったのかは分かんねェけどよ」
「良かったんですよ」
 落ち着きを取り戻したのか、荒いでいた筈のはつのさんの声は湿った絹糸のようにへたりと柔らかくなっていた。
「貴方がそれで良いなら、きっとそれが最善の道です」
「へえ、薄っぺらの癖に中々良い事言うじゃあねェか。見直したぜ薄っぺら!」
「もうその手の挑発には乗りませんよーだ」
「けっ、かわいくねえの」
 お互いに舌を出すその姿を、私は窓枠に頬杖を突きながら眺めていた。喋る珍妙な獣とうら若き薄っぺら娘の組み合わせも中々良いのでは、と遠目で思いを巡らせる。当然彼女達には内緒だが、次の物語の主役に抜擢してみてもいいかもしれない。問題はどちらが動くか、というところだが、まあそれはおいおい考えていけばいい問題だ。
「さて、そろそろおいらは行くさ」
「死にに、行くんですね」
 神妙な面持ちで唾を呑んだ彼女を、ワッカは鼻で笑い飛ばす。
「違えよ」
「生きに行くんだ」



「結局、彼は逃げたのでしょうか」
「生きにいっただけですよ」
「……はあ」
 どうも腑に落ちないらしく、訝しげに眉を顰めながら彼女は唸った。服と中身だけではなく、思考まで薄っぺらい娘だということに今更驚きはしないが、少し呆れてしまう。
「ちょっと、なんですかその目は」
「はつのさんはもう少し本を読むことをお勧めします」
「じゃあ、貴方の本を教えて頂きたいです。ね、小説家さん」
 おや、と私は口を開けた。作家であると私は言ったか。いや、言っていない。というか言えそうにもないのだが。
 となると、彼女は憶測で物事を言っていることになる。分かりやすいとはいえ、彼女の憶測に当てられてしまったというのはなんだか複雑だ。
「何故、私が小説家だと」
「簡単ですよ」
 得意げにふふん、と鼻を鳴らす。その笑顔を例えるならば、静かな湖にさざ波が広がっていくようだと思った。
「ずっと気になっていたんです、どうして女性である筈の貴方が“宮端森彦”とかいう男の名前を扱っているのかが。仮名にしても男の名前を使うのは不自然ですしね」
「それで?」波打ち際のうねりよりなお柔らかに波打つ冷えた黒髪を掻き上げると、私は彼女を試すように軽く睨みつけた。「どうして、私が作家だと」
「簡単です。女でも男の名前を使うのはどういう時か、を考えれば良かったのです」
「で、思い当たるのは小説家だったと」
「はい」
 ご名答。別に試したつもりも試されたつもりも無かったのだけれど、まあいいかと私は思う。だけど、その推理には若干の穴があった。重箱の隅を突くようで悪いけれど、このまま彼女にやり込められてしまうのも面白くないだろう。私は意地悪気に微笑みながら、彼女に向かって口を開く。
「結論から言うと正解です。ですが、台本作家や劇作家など、女でも男の名前を使う時は幾らでもあります」
「苦し紛れですね」
「全くです」
 返し刃の意外な鋭さに遣り込められて、逃げるように視線を窓の外へ持っていく。夜明け前が一番暗いとは正に言えて妙、わずかに薄墨が混ぜ込まれたであろう霞がかった白色の薄明が遠方に聳え立つ山肌の影法師を創り出していた以外には何も見えない。星すらも、月すらも――と考えかけて、今日が新月だったという事を思い出す。
「夜が明けましたね」
「随分と長い間乗っていたのですね。この汽車とも、もう直ぐお別れです」
 彼女がゆるりと視線を動かす。それに追従して顔を動かすと、長年暖房の熱気に当てられてきたのだろう、酷く風化して黄ばんだ時刻表が目に入った。
「次は、映雪ですね。もうすぐお別れですか」
「そうですね。一期一会とはいえ寂しい事です」
「あら」何を言っているのですか、とでも言いたげに私の瞳を見つめる。そして、微笑んで、「貴方の小説を読むのですから、わたし達はずっと繋がっているはずです」と大仰そうに言葉を発した。
 私は露骨に顔を顰め、逃れられないことを知る。いいさ、どうなっても知らないからな、と私は心の中でふてぶてしく呟いた。
「分かりましたよ。『雪月花に咲く』『幼き鹿の子に花束を』『石寞のむじな』辺りがお勧めです。書店の隅っこで売っていると思います」
 願わくば売っていてほしくない訳だが。
「ところで、はつのさんはどうしてこの汽車に」
「急になんですか?」
「答えたくないのであれば良いのですが」
「内緒にして頂けるのであれば、お話します。決して話の種に使わないのであれば」
「勿論です」
 彼女の瞳には、毒々しく苦々しげな気迫があった。つらい事なのか、或いは思い出したくないのかもしれない。申し訳ないことをしただろうか。
「わたしは、世間一般的に見て富豪の娘だと思われます。博識な貴方ならご存知でしょうが、父は切先家三代目当主辰房と申します」
「地主さんの娘、ですね。切先町の」
「やはりご存知でしたか」
「職業柄です。非常に家柄に厳しいと聞いていましたが、まさか」
「其のまさかです」
 承知の上での踏み入った会話ではあったが、彼女の皮肉気に唇を歪めるその仕草を見ていると心がむず痒くなった。
「わたしは逃げてきました。家柄とか、規則だとか、そういうのが嫌で。映雪には叔父が居ますから、そこに暫く厄介になるつもりでいます」
「良いんですか」
「わたしが良いなら、わたしにとってそれが最善の道です。悔いはありませんよ」
 私はどうやら、一つ撤回しなければならない事があったようだ。彼女は確かに薄っぺらだが、精神力は同時期の少女たちと比べるまでもなく強靭であるという事実だ。
「今までに、躊躇したことはありますか。親の事とか、切先の事とか考えて、自分が幸せになるのをやめようとしたことは」
「勿論ありますよ」
 映雪の町が見えてきた。聞き飽きた車輪の悲鳴を劇半に、茜色の朝焼けに濡れた街並みを二人で拝む。
「でも、だからといって自分の意思を殺すのは、やっぱり間違っていると思うんです」
 いつの間にか雪は止み、地表に広がる羽毛色の絨毯だけが一晩続いた雪華吹雪の場景を語り継いでいる。雪詰まりで重苦しくなった汽笛の音が、何故だかとても清々しく聞こえた。
「本、楽しみにしています。また何処かでお会いできたら良いですね」
 そして車輪が止まる。

 それから雪華までは、驚くほどに早かった。静寂と寂寞に時折車輪の擦れる音が混じる以外に動くものはなく、忘れていた寂しさが再び鳴り出す。
 今日の出会いの事は、恐らく生涯忘れることは無いだろう。名誉の死と恥辱の生の狭間で揺れ、結局自分らしく最後まで生きぬくことを決めた獣の事も、周囲を思いやりながらも自らの意思で歩を進める事を決意した少女の事も決して霞んだりはしない。汽車の中で自身の抱く恐怖から逃げ続けている私には、眩しすぎて見えないけれど。
 ところで、一つ言いそびれていた事があったのを思い出した。以前老婆にも顔を顰められたように、私の小説は少し特殊例であるということを。言動を振り返るに、あの彼女には少し刺激が強すぎるかもしれない。いつか再び出会うことがあったら、出会い頭に顔を真っ赤にして叩かれるに違いない。しかし、それもまた一興。
 まあ、要するに官能小説である。それも、とびっきり刺激の強いもの。女性だからそういうのは書かない――とか、偏見を持たれていたからあそこまでがっつかれていたのではないかと考えると、少しだけ後ろめたい気持ちになって、そのすぐ後に愉快さがこみあげてきた。箱入り娘の彼女だってそろそろ濁りを知るべきなのではないか、なんて自身を正当化するための独りよがりな考えが浮かんできたので慌てて脳裏に沈める。

 雪華に着くと同時に、誰かに肩を叩かれた。明確な殺意の籠った視線を背中で受け、私は錆び付いた車輪の様にぎこちなく首を後ろに向ける。
「ずっと後部車両に居ました。さ、これから言われることは分かって……いますよね?」
「本当はすぐに声を掛けるべきでしたけど、何か乗り合わせが来ちゃいまして声を掛けるに掛けられなかったのです。まさか官能小説を書いている、なんて周りの人にいいふらせやしませんものねえ」
「11月17日必着。これが意味する所は何か、もうお分かりですよね。だから逃げたんですね」
 弾丸のように飛んでくる強烈な言葉に私は意識を失いそうになりながら、只々頷くしかできない。担当が青筋を立てて私を睨んでいる。これは間違いない、下手に出たら絶対殺される。
「ですがね、甘いですよ。いくらあれが奔逸汽車だからって逃げられない物はあるんですから」
 逃げられない物。そう、例えば。
 締切とか……――

 私の後ろで、奔逸汽車の扉が閉じる。
 神錆びた車輪が悲鳴を上げて、汽車は緩やかに動き出した。
 
 
 
 
 
 
 真新しい運命が悲鳴を上げて、汽車は緩やかに動き出した。