Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.1 )
日時: 2010/10/10 22:33
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Page 1 : 本日は快晴なり

 太陽が長い時間を経てようやく顔を出す。眩しい光が辺りを真っ直ぐに照らしていく。
 そのあまりの眩さにその少年はかったるそうに、苛つきつつ深緑の眼を細めた。冷たい空気が創り出した風に身を震わせ思わず縮こまる。

 何の音もしない。いや、音はしている。
 彼の乗っている真っ白な美しい毛並みのポニータが、乾燥した地面を優しく蹴りながら歩いている音だ。
 そのポニータの瞼も彼と同じように少し閉じぎみである。太陽のせいか、あるいは眠気のせいか。恐らくの原因は二割が朝の太陽に対する眩さで、八割は眠気である。時々何かを訴えるように頭だけ振りかえっては少年の方に大きな目を向ける。

 照らされた風景はなんとも平凡で静かな田舎である。
 田圃ばかりがただひたすらに辺り一面に広がっており、変わったものは何もない。それが尚一層眠気を増幅させるきっかけとなっている。
 道も舗装されているわけもなく、細い砂の道だ。だがポニータにとっては舗装された固くて冷たい道よりも、砂や草原などの自然のままの道の方が好みなので、好都合である。
 だがそんなことも言っていられないくらい、ポニータはいよいよ不機嫌そうに鼻息を荒くしている。
 少年はそれを見て見ぬふりをし、少し眠たげに軽いあくびをした。

「何もないところだな……」
 彼のその言葉に賛同するように、ポニータは眠たげな声を細々とあげ、ゆっくりとうなづく。
 少年はその様子にそっと微笑んで、ポニータの柔らかな頭を優しく撫でる。そして、もうすぐだから、と耳元に声をかけた。
 若干不満げな表情のポニータだが、諦めたように溜息をついた。

 ふと、少年の目にある家が目に入る。地震が起これば、あるいは突風が起こればすぐに倒れてしまいそうな小さなボロボロの木造の家である。
 詳しくはその家の前にいる人に、目がとまった。

 子供だった。
 七、八歳といったところかくらいの、小さな女の子である。黒い髪の毛は整えておらず、自由奔放に跳ねていた。
 泥で汚れた服を着ていて、裸足であった。可愛らしい顔も汚れている。真剣な顔つきでせっせと身体を動かし何かをしているようだが、何をしているかまでは遠くにいる少年の瞳に明確に映らなかった。
 けれど自然と理解はできた。ふうと溜息をつく。

「ここも、か」
 その声は憐れみでも悲しみでもなく、
 諦め、に近かった。


 *


 ―今日もウォルタはとてもよいお天気に恵まれ、絶好のお出かけ日和となるでしょう―

 小さな部屋の机の上にある小さなラジオの中からお姉さんが、恐らく満面の笑みと共に言葉を発している。
 そしてその声に呼応するように、窓からのぞく空は雲ひとつない青空が広がり、太陽はサンサンと地上を照りつけている。確かに絶好調すぎるくらいに眩い太陽。
 時計の針はもうすぐ朝の九時を指そうとしているところだった。

 彼女は、ラーナー・クレアライトは栗色の長い髪を懸命にくしでとかしていた。
 部屋の中の机に少し大きめの鏡を置き、それを見ながら必死に身だしなみを整えている。その動きはおぼつかない。

「ああーもうっ時間がきちゃうじゃんっ」

 寝坊をしてしまったのだ。昨日夜遅くまで部屋で遊んでいたのがいけなかったのだ。
 世間一般では休みの日だけれど、朝早くから予定がラーナーにはある。チラチラと壁にかけてある人気のキャラクターの時計を見る。
 無情にもそうしている間にも時間は過ぎていく。秒針は小さく音を立てながら時を刻む。


 ―それではおまちかねの、今日の占いにいきましょう!―
 時計はもうすぐ九時を指そうとしている。ラーナーは赤いゴムを取り、鏡を見つつ急いで髪を高い位置で一つに束ね、結ぶ。

 ―今日の一位は! 魚座のあなた!―
 残念ながらラーナーは魚座ではない。耳をちらりと傾け、自分の星座が何位かを気にする。
 次々と早口でお姉さんは星座の名前やらラッキーアイテムやらを読んでいく。早口言葉が苦手なラーナーは、どうしてお姉さんはそんなに早口で話ができるのか、永遠の疑問である。
 しかしなかなか自分の星座は出てこない。まさか。嫌な予感が脳裏を走る。いやそんなことあってたまるか。そうは思うもいよいよ十二番目まで出てくることは無かった。


 ―残念ながら最下位のあなたは、双子座のあなた!―

「――っ」
 思わず彼女は手を止め、ラジオの方を見る。

 ―いろんなところで転んじゃうかも。足元には気をつけて!家の中にいた方が安全?―
 どういう意味だ、と心の中で叫ぶ。今これからまさに家を出るというのに。

 ―そんなふたご座のあなたに、もやもやを吹き飛ばすラッキーアイテムをご紹介!―
 その言葉にラーナーはぴたりと急かしていた動きを止める。
 急いでいるのにもかかわらず手を止めて、ラーナーは全神経をラジオに集中させる。お姉さんは少し間を置く。


 ―赤いキーホルダーを常に身につけて! そうすれば運命の出会いがあるかも……?―

「……」
 ラーナーは決して占いを信じているわけではない。けれどそんな風に言われると、信じていなくともやりたくなるのが人間。
 彼女は前に友達とお揃いで買った赤い星のキーホルダーを机の右の引き出しから出して、デニム生地の短パンのポケットに乱暴に入れる。
 キーホルダーとしての役目とは全く関係のない可哀そうな使われ方である。


「……出会い、か」
 何かを思い出したように、彼女はぼそりと呟く。俯いた瞳がおぼろげに光る。
 とても近くで聞こえているはずなのに、彼女にとってはどこか遠くで発せられているような電子音が部屋に空しく響く。


 数秒、彼女の中で、時間が止まる。
 現実の時は、ただ過ぎてゆく。

 賑やかな占いのコーナーが終わる。その瞬間唇を軽く噛んで、乱暴にラジオの主電源を叩くように切るラーナー。
 と同時に時計は九時を指す。どこか彼方の方でそれを知らせる鐘の音が鳴り響いていた。ウォルタ市内中心にある名物の古い時計台の鐘だ。
 それに呼応するように窓の外で白い小鳥達が可愛らしい鳴き声で羽ばたく。青々とした木の葉が優しく揺れる。

 風の音。


「……行かなきゃ」
 絶対に間に合わせなければならない。何が何でも。
 一年に一度だけ来る大切な日。大切な時刻。
 椅子に置いていた荷物を取る。ベージュのショルダーバッグだ。それは小さく簡素なもので使い古されている。
 彼女は急いで、まるで逃げるように部屋を飛び出した。そう、止まっている場合などではないのだから。


 外の世界は朝から活気づいていて、人々の笑顔が溢れんばかりに走り回っていた。
 水の町と呼ばれるウォルタは今日も大勢の人で賑やかで平和。それは日常的な景色。
 今日もいつもと同じような平凡な休日になる。そんなこと、当たり前すぎて誰も考えてすらいない。

 それでも物語は、既に始まっているのだ。
 例えそれが、どんなに先の見えない暗闇の中に歩いていく道だったとしても。
 それでも物語は、既に始まっているのだ。
 例えそれが、どんなに涙を止めることのできない道だったとしても。

 It continues...

Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.2 )
日時: 2010/10/11 15:46
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Page 2 : ウォルタ

「……んぁあねむ」

 大きな欠伸をしてその少年は呟く。かれこれ何時間起きているのだろう。考えるだけでも寒気がしそうだ。
 何しろ寝ようとすると瞬時に彼の乗っているポニータの怒りが襲いかかる。機嫌やら寝不足の度合いにもよるが、最悪だと振り落とされる。
 自分が頑張って眠気を堪えて人間を一人乗せて歩いているというのに、何の苦労もしていないからといって乗っている人間が寝るのは気に入らないらしい。
 過去に少しうたた寝をしただけで、丁度渡っていた川に前触れもなく落とされた経験がある。幸い軽傷で済んだが、川によっては溺れるかもしれないし、重傷患者として病院に運び込まれていたかもしれない。
 その恐怖から、それ以来彼がポニータに乗っている間に眠ったことはない。

 時間はあれから随分と経ち、太陽はだいぶ高い位置に昇り、周りの雰囲気も明るいものになってきている。寒ささえ感じた気温も上がってきた。
 町が近いのだ。現にもう目に見える先には建物の集落がある。あと数分歩けば町の中に入れるだろう。

 ウォルタ。
 巷では別名水の町、とも呼ばれている。
 そう言われているのは、その名の通り水が豊かであるがためである。
 近くの山から流れる川がいくつもあり、その一本一本が透明に透き通っていて、太陽の光に星のように煌めく。夏になると子供が水遊びをするようになるそうだ。
 町の中心地にはウォルタのシンボルとも言える巨大な噴水があり、そのデザインもなかなか凝ったものだと聞いている。
 人口が多い都市であるが古い街並みが未だに残っており、中心部のやや東の地点には、市内一の高さを誇る時計台がある。少年が歩く場所からもそれはもうよく見えた。


 そんな事を思い返している間に、ポニータは町の中へいよいよ歩みこもうとしていた。
 心なしか足取りが速い。恐らくは早く休みたい、眠りたいという願望からだろう。しかしそれは少年も同じ。
 何しろ夜中からずっと起きて歩いていたのだ。歩いていない少年も同じ姿勢だったために、そろそろ尻が限界というほどに痛みがじんわりとあった。

 ようやく町の中に入る。道の端にある小さな標識には「ウォルタ」と短く書かれてあった。
 ウォルタは石でできた家が多く、道も滑らかに削られた石が並べられてできている。そこを様々な人達が笑顔で行き交っている。
 石でできているせいか、落ち着いた印象のある町であった。そして視界には川が入ってくる。
 自分たちの歩いている場所より少し下の方。石の壁に沿って、爽やかな音をたてて流れていた。噂で聞いていた以上に美しかった。爽快感溢れる水の音に心踊らされるものがある。
 川岸は石でできた段で固められ、子供が遊んでいるのか叫びながら走り回っていた。見ている方としては少し危なっかしい。
 車が軋むエンジン音と共に石の道路を次々と走り去ってゆく。

 人が多い町だった。時間帯的に見ればまだ休日の朝だというのに大人も子供もまんべんなく歩道を歩いている。
 しかしその間を縫うようにやってくる自転車は相当危ない。気をつけないとそのタイヤにひかれてしまいそうだ。
 けれど少年にその心配はなかった。ポニータは慣れているように器用に人も自転車も避ける。あちらも勿論避ける。その過程でほとんどの人が物珍しそうに見ている。
 ポケモンをモンスターボールに入れずに歩いていると、必ず同じ反応をされる。それはどの町も共通していた。そもそもポケモンを持っているという時点でその人間は珍しい存在になる。そういう国なのだ。
 出会う人々の眼は興味ありげな光をともしていたり、あるいは迷惑そうに睨みつけていたり、反応は様々だ。

 高くそびえ立っている町の自慢の種の一つ、古く白い時計台は、少し九時を過ぎたところだった。

 少年は溜息を吐きながら自然とその時計を目を細めて見た。その表情には疲労の色がはっきりと表れている。
 とりあえず一休みしたい。いっそここで今日は一日を過ごしてしまおう。
 たまにはいいだろう。
 そう思った彼の心をまるで読んだかのように、ポニータは嬉しそうに喉をうならせた。
 少年は優しく、柔らかいポニータの長い首をそっと撫でてやった。燃え盛る炎は彼にとっては熱さなど感じさせなかった。
 と、この町の地図と思わしき木の看板を見つける。少年はそっとポニータに声をかけ、慣れた足取りでスルリと降りる。
 やはり地図。ウォルタの一部が大きくピックアップされ、詳しく載っていた。誰でも分かるようにするためか、低めに立てており点字等も御丁寧に打ってあった。バリアフリーという言葉が連想される。

「宿屋は……と」
 彼は目で地図を見回した。できればホテルのような所ではなく、落ち着いた雰囲気の宿屋が丁度いい。
 町の中心を最初は探していたがどうも理想のものは無さそうで、徐々に探す範囲を外側へと広げていく。

「……あーここでいっか」
 ポニータが覗きこんでくる。温かい吐息が少年にかかる。草の匂いも一緒に吐かれている。ポニータは食事として普段は雑草を食べているせいだ。
 少年は右手の人さし指でその場所を指す。町の端の方にある、辺りがあまり賑やかでないことを予感させる場所だった。あらゆる建物の名前が密集している中心地に対して、そこはむしろ過疎地のように空白が多かった。
 幸いここから近そうだ。少年は道やその周りにある建物を入念に見て頭の中に焼き込む。
 こういうことには慣れていた。ずっと、ずっと前から。


「行こう」
 ポニータに声をかけた。今度は自分の足で地を歩く。
 少し帽子を深く被り直す。前髪が顔面を覆うようにかかる。まるで誰にも顔を見られたくないかのようであった。
 ほんの少し遅れてポニータも彼の横を歩く。炎がそっと揺れている。

 ここは賑やか過ぎて、彼には少し眩しい場所だった。


 *


「ありがとうございましたー」

 笑顔でお礼の言葉を交わす。硬貨を払う音。チャランチャラン、と耳に何故か心地よい音。そしてラーナーは軽い足取りでバスを降りた。
 降りるのはラーナーの一人だけで、乗りこむ人も居なかった。だから、ラーナーが降りた途端に扉は音を立てて閉まり、バスは発進した。
 少し砂を巻き上げてその場を離れていく。
 ラーナーはしばらくその汚れた赤い小さなバスを見送る。どんどん小さくなっていく。他に車はない。

 改めてラーナーは周りを見渡す。太陽の日差しが強く、手を額に当て目元に日陰を落とした。
 何とも静かな場所だった。ウォルタ市内でありながらも、中央区とはかけ離れたような田舎。人でさえ一人も見当たらない。
 柔らかな緑が風に揺れてサラサラと音を奏でている。と共に川の流れが作り出す美しく爽やかな音のハーモニー。
 耳を傾けると自然の織りなす様々な音が跳びこんでくる。これは都会では得る事の出来ない安心感を誘ってくれる。
 空気は柔らかい。自然の息吹を感じる。夏の度を超えた暑さを持つ太陽の光さえも、何故か心地よく感じられた。
 家も少ない。見渡せば数えるほどしかない。所狭しと建物が並ぶ中心地とは大きく違い一つ一つの家が点在している。実に落ち着いた場所だった。
 ラーナーは思いっきり深呼吸をして身体中に新鮮な空気を満たすと、口元に笑みを浮かべながら歩き始める。

「ン〜……ンンンン〜」
 鼻歌までしている。気分は好調。何しろバスに遅れると思ったのに、見事に間に合ったからだ。あやうく発進しかけたが、運転手が運良く気付いてくれたおかげだ。
 人間、全力で走ればなんとなるものだ。その過程で恐らく沢山の人に迷惑をかけたのだけど。脳裏にぶつかりかけた人々の表情が浮かんでくる。
 軽い足取りで乾いた地面を進んでいく。右方向に小さな古い家が立っていてその横を抜けていく。

 曲がり角。見慣れた道。風が流れる。草が揺れた。折り重なるように波打つ木々。


「……あ」
「あ」


 思わずはっと立ち止まる。
 いわゆる反射というやつだ。

 彼女にとって見たこともない男の子と、ポニータだった。


 それが、彼と彼女の出会い。

 It continues...

Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.3 )
日時: 2010/10/16 22:00
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Page 3 : 時

「すいません」
 そう軽く言ってからラーナーはヒョイと少年とポニータの横をあっさり通り抜け、また普通に歩きはじめた。

 変な人。こんなに暑いのに長袖に長ズボン。しかもポケモンを出してる。
 一瞬だけそう思いはしたラーナーだったが、すぐに脳から忘れ去られる。
 道端で出会っただけの全くの赤の他人同士で、そんなに干渉し合うわけがないのだから。
 彼女の乾いた地面を歩いていく軽い音が、消えては出てきて、消えては出てくる。足元から飛び出すリズム。
 だんだんと少年から遠ざかっていく。行き先はとうの昔に決まっているし、そこに何度も彼女は行ったことがあるから道に迷うこともない。
 温い風が正面からやってきて、長い髪がふわりと揺れた。

 それに対して少年は、立ち止まっていた。動こうとせずに、ラーナーの向かっていった方を呆然と見つめていた。
 息を呑み、深緑の目は先程までの眠気を忘れたように見開いていた。彼女を見た途端に跳ね上がった心臓は今も激しい鼓動を続けている。
 頭の中に甦ってきた鮮明な記憶に沿いながら自分の状況を確認するように考え込む。
 強い日差しが彼らを刺すように当たり、立ち止まっているだけで汗が流れる。が、その汗もただ単に暑さから来るものだけではなく冷や汗も混じっていた。
 もちろん彼の瞳には、もうラーナーの姿は映っていない。彼女は角の向こうに姿を消した。

 太陽を反射して、彼の帽子の上にある大きめの黒いゴーグルが太陽の眩さを受け光る。


「……今の人って」
 思わず喉から飛び出してきた呟き。その言葉にポニータは少年を振り返る。
 彼女はただすれ違っただけの赤の他人。それは彼にとって何一つ間違いのないことだ。
 けれど。

「……チッ」
 軽い舌打ち。ポニータはそれを見て、不思議そうに首を傾げる。
 それが視界の片端に入った少年はポニータに視線を移すとそっと白い首の毛並みを撫でて、下から視線を真正面から合わせる。
 何かを語るかのようにじっと。ただ、じっと見つめる。
 数秒、ずっとその状態のまま固まっていた。そのうちに、ポニータはさっきの少年と同じようにラーナーの消えていった方を見つめた。元々大きな瞳が、更に開かれている。
 風がそっと通り過ぎて、少年の髪を撫でるように揺らす。

「ほんとかどうかは分からない。だけど、顔が瓜二つだ。それに、あのブレスレットは」
 そこで一度言葉を止めて、ポニータと顔を見合わせる。それから厳しい表情を崩して溜息をついた。

「行くか」
 少々諦めたような声に、ポニータは溜息をつき、続けざまに欠伸をした。
 それにつられ眠気が戻ってくる少年の瞳。瞼が半分閉じているが、覗いている瞳は何か決意したように、一種の獣のように光っていた。
 歩き始める。方向はラーナーの向かった方。
 本来の彼等の行き先は、それとは全く逆の方向にある、静かに寝ることができそうな宿なのに。
 “赤の他人”を追いかけるように、少年とポニータは元来た道を辿っていくことにしたのだ。

 角を曲がる。が、ラーナーはもう既に見当たらない。
 不意に立ち止まる少年だったが、唇を噛みしめて目を閉じ、耳を立てる。その瞬間、凄まじい集中が辺りを呑みこむ。彼の周りの空気が急速に冷えていくような雰囲気で包み込んだ。
 ポニータは何も気にしていないのか、穏やかな目で少年を見つめていた。
 と、また瞼をそっと開ける少年。途端に、彼の周りの空気が何もなかったように正常に戻る。糸をピンと張ったような刹那の緊張感が消えた。
 しばらく静止していたが突然また歩き出し、ポニータは慌てて少し遅れて追う。


 独特の石の道路には人が誰もいない。
 川のせせらぎが彼方で流れている。涼しげで清流を思わせるような透明の音だ。
 近くに茂る林の青々しい木の葉が風に揺れ擦れ合い、音を立てる。自然の音と彼らが歩く音しか辺りには無い。

 荒々しい足取りは速い。
 そのうちに二つの右と左の分かれ道に出会う。正面には少し深そうな広葉樹の林が広がっていた。
 しかし彼は一瞬も迷う素振りを見せず、左には目も暮れずさっさと右の方へ歩みを進める。右は少しなだらかな上り坂。
 彼は正にラーナーの歩いていた道を辿っていた。彼女の行き先を知らないのに。彼女の足跡が残っているわけでもないのに。
 その道は、確かにラーナーの目的地への道だった。

「……くそっ」
 彼は苛立ちを露わに、少し歩くスピードを進めた。額から落ちるのは暑さに対する汗かそれとも冷や汗か。
 空は眩しいほどに青く、雲一つない日本晴れ。


 *


 彼女の腕の中には、数えきれない位のたくさんのシロツメクサがある。
 道中で咄嗟に草原から摘み取ったものだ。あまりにも急いでいたために花を用意しておくのを忘れていた。
 せめて、昨日にでも買っておけば良かったと後悔はした。が、きっと許してくれるだろうとあっという間に開き直った。
 それでもさすがに何も無いのは悪いと思ったから、溢れんばかりの白い花々を摘んできたというわけだ。歩いてきた道沿いに群れているように咲き誇っていたのだ。

 軽い足取りである。光と影の織り成す綺麗な木漏れ日の中を、絶えず笑顔をこぼしながら歩いていく。何がそんなに楽しいのか、それは彼女自身もよくわかっていない。
 風で木が揺れると、木陰も同じように柔らかく揺れる。それと同時にポニーテールの彼女の髪もさらさらと風になびいた。
 今までとは一転して砂利でできた道だったため、足音が辺りに分かりやすく響く。
 その彼女の歩く道沿いに連なるようにあるのは、紛れもなく墓、だった。灰色の大きな個体が静かに並んでいる。それはある意味で不気味だった。
 ラーナーが来ているのは、ウォルタ市街の外れにある、比較的小さな墓地である。
 朝早いせいなのかそれともただの偶然か、ラーナーの他に人はいない。いると言えば朝に可愛らしく鳴く小鳥くらいなものだ。
 少し時間がずれると、お年寄りが数人訪れ手を合わせている風景が日常的になるのだが、今は彼女一人。
 それはこの日だと毎年のことだから、ラーナーは何も気にしていないけれど。

 油蝉の声が辺り一帯に響き渡る。夏の真っ盛りの時期に比べればそれほどうるさくはないが、聞くだけで暑苦しくさせるのはどんな時も同じだ。
 よく聞いてみれば油蝉の他にもミンミン蝉の鳴き声も遠くからしている。
 鼓膜を揺らして頭の中を鳴らすようなその声だったが、もう彼女にとってはそれも慣れたことだ。


 ようやく、彼女の求めていた場所に来る。
 そこは広い墓地の中でも、かなり奥の方だった。

「ふう」
 少し安心したようにしゃがみ込む。同時にそっとシロツメクサの束を墓前に置く。他に比べると黒いその墓に対する花の白さは、少し眩しすぎるくらいだった。
 と、思い出したように慌ててベージュのショルダーバッグの中を右手で探る。
 そして右手に握られて出てきたのは花の絵が掘られた懐中時計。金属製だが所々が錆びていて、とても新しいものとは思えなかった。
 かち、と上のボタンを押す音と同時に、閉じた貝がぱっと開くが如くに蓋が開く。
 時計の文字盤。古いものだが働きは現役である。立派に秒針がかちかちと音をたてながら、時を刻んでいた。
 九時三十四分。もうすぐ長い針が七の文字を指そうとしているところだった。
 ほっとしたように彼女の口から安堵の息が漏れ、再び笑みがこぼれる。
 そして改めて墓を見た。灰色の石でできたその小さな二つの墓を。


 右の方には、リュード・クレアライト。
 左の方には、ニノ・クレアライト。

 そして両方に、ここに眠る、と彫られてある。


 ラーナーには秒針による時を刻む音が木が揺れる音よりも油蝉の声よりも何よりも大きく感じられた。
 その時、時計の長針が何事もなく七の文字を指した。 
 それを彼女は視界に入れると、そっと手を合わせた。静かに。

 風がそよそよとただ吹いていた。暑いけれど柔らかな空気。
 時が止まったようにただ静かで。
 瞼を閉じて祈るその表情は今までの笑顔とは一変して切なげで、悲しげである。
 ラーナーの周りだけ世界が、次元がまるで違うかのように。


 その間もひたすらに時は過ぎていく。立ち止まることのない時間の中、ずっとラーナーは止まっていた。
 息が詰まりそうなくらいに、ずっと。 

 人の名を刻まれた石碑は何も言わない。何も動じない。
 なにも。





 ザッ

 そっとラーナーが瞼を開いたそれと同じタイミングで、彼女の背後で砂利を踏む音がした。
 ほとんど無意識で彼女は振り返る、と同時に目の前の光景に眉を少しひそめた。

「……こんにちは」
 ぼそりと呟くように挨拶したのはラーナーではない。相手の方だ。少し苛立ちと戸惑いが混ざり合った低めの声。仏頂面を構えてラーナーを見つめている。
 彼女の目の前にいたのは、先程ラーナーと角でぶつかりかけた少年と、連れのポニータだった。

 It continues...

Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.4 )
日時: 2010/10/17 15:34
名前: ID:

Page 4 : 忠告

 砂利の音を出したのはポニータの方。そっと気配を消し、音を立てないようにラーナーに近づいていたのだった。
 一瞬息を詰まらせるラーナー。見覚えのある人だった。少し間が空いて目を見開く。思い出したのだ。数分前にすれ違った人がどうしてここにいるのか、彼女には理解できなかった。
 少年はポケットから手を出して更にラーナーに歩み寄る。
 改めてラーナーは彼を見た。濃い緑の帽子に大きなゴーグルが付けられ、その下から除くのは少し長めの深緑の髪とそれと同じ色の瞳。
 柔らかな緑のフードの付いた長袖の上着の下には、灰色のTシャツ。そして下に伸びる黒い長ズボン。
 肌がほとんど見えない。手と顔、それ以外には見当たらない。顔だって帽子と髪のせいでよく分からない。
 夏のこの暑い時に着る服装ではなかった。見ていても暑苦しい。そんな服装であるために体格を知るのは困難である。

「こんにちは……」
 彼女の喉から出た言葉は誰が聞いても明らかなくらい、不信感に満たされた低いトーンだった。 
 少年はその挨拶を流すと、ラーナーの前にある二つの墓を見やる。ゆっくりと目だけで墓に刻まれた文字を追う。
 そして読み切ると眼を細め、軽く唇を噛んだ。軽く眉間にしわを寄せたその顔は、悔しそうに少し歪んでいた。
 その様子を見たラーナーは更に怪しく思い、思わず口を開いた。 

「あの」
「あんた、もしかしてニノ・クレアライトの娘?」
 彼女の言葉が全て出てくるのを突然制し、彼は先に自分から質問を彼女に叩きつける。
 唐突な質問に怯むラーナー。動揺して、目が泳ぎ始めた。
 同時に身体の奥底からぐるりと溢れ出してくるのは苛立ちと憤怒。歯を強く噛み、突然立ち上がって少年と正面から向き合った。
 あくまで強気な姿勢だった。栗色の瞳は怒りを交えた強い光を灯している。

「なんですか、あなた。初対面の人に対して。ていうか、さっきすれ違った人ですよね!? なんでここにいるんですか、ストーカー!?」
 その言葉を聞いた途端に、ひく、と少年の眉間に更に皺が刻まれる。ラーナーの発言は彼の機嫌を損なったようだ。
「……先に質問したの俺なんだけど」
 少年は氷のように冷たい声だった。表情の苛立ちがそのまま声に表れていて、思わずラーナーはその迫力に気圧されてしまう。
 そんなラーナーの表情を横目に、ちらりと彼の深緑の瞳がラーナーの右の手首を見る。

「その手首にあるブレスレット」
「はい?」
「それ、ニノ・クレアライトのだろ。彼女がすごく大切にしていたものだ」
「……」

 ラーナーの息が詰まる。思わず左手で右の手首を隠すように覆う。包まれたのは白い小さな石がワイヤーで繋がれているブレスレット。
 太陽の光を反射すると星のように可愛らしく光る。
 少年の言う通りだった。それはラーナーの母親であるニノが生前とても大切にし、いつも身につけていた。ニノが死んでからは、ラーナーが形見として毎日必ず右の手首につけている。
 ラーナーは何も言うことができなかった。何も言葉が出てこなかったのだ。
 目の前にいる赤の他人として記憶から忘れられるはずだった少年が、ラーナーの内面に突然切りかかってきたのだ。その攻撃をラーナーは防ぐことができなかった。
 敬語を知らないかのようにずげずげと話すその口調と態度は、ラーナーを黙らせるのを手助けしている。
 先ほどの強気の威勢はどこへやら。形勢は完全に少年の方が有利だった。

 見た目は二人とも同年代と思われるのに、余りにも少年は冷静沈着である。一種の慣れさえも伺える。
 瞳は真っ直ぐに、刃物のように鋭くラーナーを見つめている。一方のラーナーは少し顔を俯かせて少年と目を合わせようとしなかった。
 どうして、と細々と小さな線香の煙のような声が、彼女の口元から漏れた。少し顔を上げる。

「どうして知ってるんですか……お母さんの、知り合い?」
 その言葉を聞いた途端に、少年とポニータはちらりと目を合わせ、やっぱり、と少年は呟いた。あまりにも小さな声だったから、ラーナーの耳には届かなかったけれど。
 ラーナーは少し首をかしげ、眉をひそめる。その様子を見て、はぁ、とあからさまな溜息を彼はついた。

「まあそんなところ。それより」
 ブルン、とポニータは鼻に葉が付いたのを取ろうと頭を振った。
 音をたてて強い風が過ぎ去っていった。ポニーテールの長いラーナーの髪が風の吹くままに踊る。ポニータの体で舞う淡い炎。
 重なり合う林の音が耳に障る様に響いた。絶えることなく鳴り響いていた蝉の声が突如、途切れた。
 揺れる前髪の下で少年の表情が一層引き締まったものになる。

「……なんですか」
 何か嫌な予感がラーナーの脳裏をよぎった。空気が濁っているような息苦しさを彼女は感じた。
 少年は何かをためらう様に一瞬目線を落とす。唇を噛んで拳を強く握ると、またラーナーの目を見た。
 深緑の瞳と栗色の瞳の視線が再び絡み合う。

「忠告しとく」
 決心した少年の目は、とてもその外見からは想像できないほど冷徹な光を帯びていた。冷たく鋭い氷の刃が深緑の奥に潜んでいる。
 金縛りにあったように、ラーナーはその視線から目を逸らすことができなかった。
 冷たい生き物が背中を這いつくばって走るような感覚がラーナーを襲った。一瞬、けれど確かに彼女の体が震える。
 けれど対照的に太陽は高熱の光を地に浴びせている。それなのにどうしてこんなに寒いのか。ラーナーの半袖から伸びる白い肌に、今にも鳥肌が立ってしまいそうだった。
 少年の唇が小さく動いた。



「あんた……このままじゃいつか、殺されるよ」



 しばらく沈黙が続いた。ラーナーは呆然として言葉も出ないでいた。ゆっくりと言われた言葉を消化して理解しようとする。
 ただあまりにも彼の吐いた言葉が現実味を帯びていないように彼女には感じられて、とても信じられなかった。
 震えている唇を魚のように小さく開閉していたラーナーだったが、そのうち僅かに気持ちが安定してくる。聞き返すほどの力が戻ってくる。

「どういう……意味?」
「そういう意味だ」
「訳分かんない!」

 即答した少年にラーナーはいらつきを露わに怒りを彼にぶつける。
 もはやラーナーの言葉に敬語というものは失せていた。

「殺されたくないならなるべく静かに暮らせ。……勇気があるならウォルタを出た方がいい。それだけだ」
 口調はかなり早口で、少し焦っているようにも感じ取れた。呆気にとられてまたラーナーは言葉が出なくなる。彼が何を言っているのかさっぱりだった。
 温い風が吹き抜けて木々が騒ぎ始めた。
 少年はいくぞ、とポニータに呟くように声をかけて、ラーナーに背を向けた。
 頭をうなづかせ、、ポニータも後ろを向く。ただラーナーを気にしているのか、ちらちらと彼女を見ながらだ。
 その様子を見たラーナーにはあっさりと逃げていくように見えた。一気に湧いてくるのは怒り。止められるものではなかった。

「ちょっと待ってよ! 言うだけ言って帰るわけ! 殺されるって、何の根拠もなしに……ふざけないで!!」
 少年の背中につばを吐くようにラーナーは叫んだ。
 一瞬その言動に足を止めた少年だったが、少し顔を振り向かせただけですぐにまた砂利道を歩きだす。耳障りな蝉の声と石を踏む音が絡む。

「ちょっと……」
 言葉と同時にラーナーは自然と足が動いていた。小走りで少年に近付く。それに気付いていた少年だがあえて無視を貫く。
 ポニータだけ足を止めてラーナーの行動に目を見開いていた。
 ラーナーは右手を伸ばす。その手首にはめているブラスレットが激しく揺れた。きらきらと太陽を反射する。
 その手は少年の右腕を掴もうとしていた。白く細い指が彼の上着を、腕目がけて伸びる。
 途端、沈黙を貫いていた少年の様子が豹変した。振り返ると同時に目が鋭く光る。

「さわるなっ!!」
 反射とも取れそうなほど、瞬時に少年は右腕を振り上げる。パン、という鋭い音と共にラーナーの手は弾かれていた。
 ラーナーの右手に痛みが走り、思わずその手を抑え込む。表情は痛みに歪んでいた。言葉はない。
 同時に少年の目も見開かれていた。肩が上下にゆっくりと動き、唇を強く噛む。帽子と髪に隠された額に冷や汗が滲んでいた。


「……すまない」
 早口で小さな声で彼は謝り、そそくさと逃げるように足早にその場を離れた。
 ラーナーの顔を心配そうに覗き込んでいたポニータはそれに気づいて、慌てて追いかける。彼等の足音がだんだんと遠くへ過ぎ去っていく。



 その場に残ったのはラーナー一人だけ。
 急に操り人形の糸が切れたように、ラーナーは地面に座り込んだ。足元のごつごつとした道が露出した足に当たり痛みを伴う。
 もう痛みは右手に無い。しかし顔はただ呆然としていた。

 小さくなっていく少年の背中を呆気にとられて見つめる。もう追おうとは思っていないようだ。
 風が吹く。冷たい風だった。暑い毎日の中で珍しく心地よさを感じさせるほどの風。
 が、ラーナーにとってそれは悪寒を増幅させるものの他ならなかった。まだ体が小刻みに震えている。それを抑えるように、彼女は左手で右腕をきつく抑える。
 まだ鮮明に思い出せる。少年の瞳。冷たくて鋭くてそして真剣だった。恐怖さえ覚えるほど。
 彼の言葉がラーナーの頭の中でひたすらに繰り返される。殺されるよ、殺されるよ。頭の中で重く響きわたった。

「なんなの……」
 ようやく出てきた独り言は霞んでいて、誰に届けられることもなく空気に消えた。


 *


 ブルン、とポニータが頭を振る。
 木陰。少年は淡いブルーのベンチに座って何かを頭の中で考えていた。さっきラーナーに掴まれかけた右腕を押さえながら。
 表情は浮かない。心配そうにポニータは、少年の顔の前に頭を少し突き出す。それを見てハッと弾かれるように顔をあげた少年はハハ、と力無く笑い立ち上がった。
 場所は錆びれたバス停のベンチ。青々と風に大きく揺れる林を背にしている。
 別にバスを待っているわけではない。ただ座れる場所を探していただけだった。どこかに座って落ち着いて考えたいだけだった。少年は目の前の広い田舎を見つつ、口を開く。
 瞳は相変わらずあの時ラーナーに忠告をした時のような、真剣な色を帯びている。

「あの感じを見てると、まだ気付いてないみたいだな」
 ポニータに話しかけ、その言葉にポニータは一度だけ深く頷いた。
 軽く舌打ちをする少年。

「奴らもそろそろ気付くだろ。……容赦ないからな。むしろ今まで何も無かったのが不思議なくらいだ」
 右手に力がこもる。ポニータの目付きが瞬時に険しいものになる。
「…俺らも長くはここに居られない。けど、ほっとくわけにはいかない。恩を仇で返せない」
 ちらとポニータを見る。真剣な眼。ポニータはこくりと頷き、一歩踏み出してクロが立ちあがるのを促した。
 少年は思いっきり腕を上に伸ばし背伸びをする。自然と喉から漏れる声。そして腕を勢いよく下ろす。
 改めて夏の青空を見る。真っ白い雲がどこまでも続く、吸い込まれてしまいそうな青の中、フワフワと心地良さげに浮かんでいる。
 眩しそうに眼を細める少年。

「……とりま、まだ当分寝れそうにないな」
 一変して笑って言う少年に、ポニータは少々残念そうにうなだれる。それを見た少年はポンと背中を叩いてやった。
 とりあえず宿だけはとっとこうと少年は重い、白い石の道をポニータと並んで歩き始めた。


 *


 そこは真昼にも関わらず、暗闇に包まれていた。異臭が部屋に漂い、普通の人間ならまずそれに耐えられずに逃げ出してしまいそうだ。
 闇の中で何かが蠢いていた。人間である。光のないその場所では、恐らく人間であるだろうという憶測しかできなかった。
 時を正確に規則通りに刻む時計の音だけが、恐ろしく冷えた部屋に響く。それは夜の足音のようだった。しかし時計があったところでこの暗闇では今何時かは分からない。
 かちゃ、という音がした。金属が何かに当たった音だ。
 数秒たってからクッという笑い声。声というよりはただの音に近く、喉から思わず跳び出した、というそんなものだった。

「随分と丁寧に磨いているな」
 闇の中で突如皮肉を吐いたのは、男の声。若さが伺えるが少し低めの声である。直後、先程同じような笑いが漏れた。
「ずっと待ってましたからねえ、この時を」
 その声に反応し楽しげに、今度は少しはっきりと笑う声が部屋の中を泳ぐ。
 もう一人の男。先程の男に比べると若干年齢が高いか。笑う彼の手元でさっきから金属が掠れ合う音がしている。

「長かった」
 笑う男の声。後に彼のふうという溜息。少し震えている。
「実に長かった」
 声は高揚している。息遣いまでが手に取るように分かりそうだ。

 木の床を踏む足音がした。続いて一方の男が何か古い戸を開け、ぎぃという軋む音が響く。
「これは……」
 若い男の驚いた声。どうやら戸を開けたのはそちらの男のようである。
「言ったでしょう、待ってたって。…準備はとうの昔に出来ています。シナリオは完璧ですよ」
「そうだな。これなら少しは安心してもいいか」
「心配して来てくれたんですか」
「ただの様子見だ」
「そうですか」

 何の抑揚もない平らな会話。
 敬語の男は相変わらず笑っていた。やはり今のこの状況を楽しんでいるようだ。暗闇の中で狂ったように笑うのは不気味であるほかない。
 戸をそっと音が部屋に響く。その後、男は敬語の男に歩み寄り、紙袋と思われる物を乱暴に置く。恐らくは机の上に。

「手土産だ」
「……これはこれは。有り難く頂戴します」
 途端金属を擦る音が止み、椅子から立ち上がる音。紙袋を探り、中の物を確認しているようだ。真っ暗にもかかわらず、だ。
 次々と机に物がそっと置かれていった。古い机なのか、ギシギシと呻いているような音を出している。
 重いものではなく軽いもののよう。物が置かれていく音は決して大きいものではなかった。
 音が止む。全部で8つ。フゥという溜息にも似た空気を男は吐く。

「……気合が入っていますねぇ」
 男は出し終えてからの感想を少し呆れたように言う。
「当然だ。重要性はAランク…Sに限りなく近い、な。全く、今までどうしてここまで放置されていたのか不思議なくらいだ」
「A……そりゃあ報酬も期待できそうだ。こんなに簡単そうな任務なのに」
 また跳び出してきたクックッという笑い声。が、さっきよりも高らかだ。きっとその表情にも満面の笑みが浮かんでいるのだろう。
 ギシ、という床の沈む音。物の一つ一つが古いようだが、この建物自体もかなり危ないようだ。
 その中を若い男は歩いているようである。

「……油断はするな。失敗は許されない」
「ハイハイ。分かってますよ。……万が一に誰かに邪魔された場合は?」
「分かっているだろう?」
 冷たい声だった。氷のような、冷え切った声。闇の中で言っているものだから、恐怖さえも覚える。
 時計の音。床を踏む音。と、足音がとまる。
 一瞬の静寂が辺りを凍らせる。時計の針が動いたその後の一瞬。緊張の糸がピンと一直線に張られたような息の詰まる空気。


「殺せ」


 吐きだされた言葉は刺々しいが何の感情もこもっていない。ただ平坦な言葉。
 再び始まる金属を擦る音。耳障りなものの他ない。
 足音が再び部屋の中に響く。ドアノブが周り、ギィという乾いた音で戸が開く。その奥にもまた光は無い。この部屋に光が差し込むことは今後あるのだろうか。
 鼻をつく異臭が開けられた扉の向こうの別の部屋へとゆったり流れていく。
 完全に外の太陽のある世界とは遮断されたような場所だと再確認させられる。

「りょーかい」
 声は笑っている。

 少し遅れてドアの閉まる音がした。


 It continues...

Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.5 )
日時: 2010/10/21 18:06
名前: ID:

Page 5 : 日常

 休日の溢れんばかりの人混みの中をぶつかりながらもくぐり抜け、レンガ造りの住宅が連なる道をラーナーは歩いている。
 時はあれから随分と過ぎ去って、太陽は赤く燃えるような光で町を照らしながら、西の向こう側に沈んでいこうとしていた。
 朝は東の海から顔をのぞかせ、夕方は西の山に隠れていくウォルタの太陽の風景は、国内では美しいと有名らしい。
 ただ小さい頃からここに住んでいるラーナーにとっては、これが他と比べても綺麗なのかどうかは分からない。この景色が普通で日常で、慣れてしまったのだ。だけど、確かに美麗なのは認めている。
 ラーナーの右腕の中には大きな茶色い紙袋があった。中には食料品がどっさりと入っている。
 左手には大きく光り輝いているようなひまわりが二輪、白い紙に包まれていた。
 花はともかく紙袋は持っているというよりは抱え込んでおり、一見女の子が持つにはかなりの重量がありそうだ。が、ラーナーにとってはもうそれさえも慣れたものである。
 しかしその表情は沈んでいた。足の運び具合もどことなく重い。
 石の敷き詰められた道を歩くたびにコツコツと硬い音。右の方に長く黒い影が平らかに伸びて、建物にぶつかると沿うように屈折した。

 彼女の頭の中はやはり朝のことでいっぱいになっていた。
 気を紛らわせていっそさっぱり忘れてしまおうと思い、無駄にウォルタ市内を歩き回り最終的にいつもの買い物をした。
 けれど結局は忘れることもできず、植物が地面に根を張るようにしっかりと記憶に残っている。
 目を閉じても閉じなくても、鮮明に思い出せる。優しい炎の揺れも冷たい緑の色も、流れた風も木の動きも蝉の声も。
 彼女の横をサッカーボールを持った小さな男の子が走って行った。
 近づいてきた音はすぐにまた遠くへと消え去っていく。


 やがて道の右側のある背の高いアパートの中にラーナーは足を踏み入れる。
 上へと続く階段には目もくれず、少し長い廊下を歩く。そして一階の一番奥にある黒いドアの前に立った。
 チャイムのボタンを押す。途端中からリン、という小さな鈴の音が一回だけ聞こえた。
 続けざまに中から鳴り響くのはバタバタと忙しそうな足音。外まで聞こえてくるということはよほど急いでいるのか。
 鍵の開く音のすぐ後に、ドアが滑らかに開く。中から顔を出したのは、十二歳くらいのまだ顔が幼い男の子だった。
 黒い半ズボン。鮮やかな青い半そでのTシャツには、黒で何やらアルファベットが敷き詰められたようなプリントが大きく前に描かれている。
 髪の毛はラーナーよりも少し暗めな栗色で、瞳の色は彼女と同じだった。
 ラーナーの弟、セルド・クレアライトだ。

「なんだ、姉ちゃんか」
 彼は少し何か落胆したような声を出した。
「なんだって何よ。ただいま」
「おかえり」
 ラーナーがドアノブを取り更に扉を開いた瞬間に、待ちかねたようにセルドは扉から離れ部屋に駆けこむ。
 とりあえず中に入り、ラーナーは扉を閉めて鍵をかけた。そして重い荷物を持ってセルドの言ったリビングへと向かう。
 この国には部屋で靴を脱ぐという習慣がないため、靴を脱ぎ捨てる場所はない。そのため靴を履いたままだ。

 リビングに入ると賑やかな音が耳に入り、見ればテレビがついていた。テレビの中ではアニメがやっている。それをセルドは椅子に座り真剣に観ていた。
 そういえばこの曜日のこの時間はいつもセルドはテレビを見てたな、とラーナーは思い出す。
 何やら人気の少年漫画の映像化バージョンらしく、彼も数えきれないファンの一人だ。42巻にわたる現在も連載中らしいその漫画を友達に借りて、そしてラーナーにも自慢げに見せていた。
 以前熱くその漫画の内容をラーナーにも話してくれたのだが、よくストーリーが理解できず、すねられたことがある。結局ラーナーに実物は見せてくれていない。

 そんなアニメの音が響く中、ラーナーは少々呆れた顔でセルドを見やり、持っていた荷物をようやくテーブルに置いた。鞄はセルドの正面の椅子の上に置く。
 ぎしりという怪しい音こそしなかったが、叩きつけたような大きな音が一瞬だけ響いた。
 花束だけは別にする。台所に持っていき流し台の前に立つと、置いてあった小さな花瓶に蛇口から水を入れる。透明な冷たい液体が流れ出てきた。
 ひまわりは少しはさみで茎を切って、短くする。花瓶の中が水でいっぱいになり、今度は湧き出すように水が花瓶から零れていく。
 慌てて蛇口をひねり水を止める。一瞬にして水は止まり、ラーナーはひまわりを花瓶の中に二輪とも入れた。

 少し笑顔を零すと、布巾で花瓶をそっと優しく撫でるように拭いて、台所から出る。
 明るい色の木でできたテーブルの上に、花瓶を乗せる。こと、という固い音がした。
 テレビの中から何やら明るい歌が流れてきた。ふと何気なく見やると、白い文字の羅列のスタッフロールが流れ始めている。
 どうやら物語は終わったようだ。気に入っている曲なのか、セルドは笑顔でそっと自分の鼻歌を重ねていた。

 時間は七時を回ろうとしている。身体の重さをラーナーは確かに感じていた。気分が乗らず、できればシャワーを浴びて寝てしまいたかった。
 けれどそろそろいい加減に夕食を作らないと、またねちねちとセルドに文句を言われるのが目に見えている。
 仕方がない、そう思って紙袋をもう一度の中を覗き込み、トマト、茄子、肉など次々と買ったものを出してテーブルの上に並べていった。暑いが今日はカレーを作ろう、そう思って買いそろえた物々である。


「あ」
 米をまずは炊かなくては、そう思い出して、少し急ぎ足で台所に戻り下の戸棚を開ける。
 その中の一番下の段にあるのは透明の少し大きめのケース。クレアライト家の米の保存場所だ。
 しゃがみ込むとそれに手をかけて、一気に床に引きずりおろす。その時ラーナーは違和感を感じ、思わず眉をひそめる。米が入っているにしては、いくらなんでも軽い。

 嫌な予感がして蓋を開けた。途端深い溜息をついた。案の定ドンピシャ、だった。
 中には米を量る計量カップと、数粒の米粒しか無かった。
 これではカレーもルーだけになってしまう。

「……セルドー」
 堪えられなくなって弟の名をそっと呼んだ。
 セルドはその声に気付いたが振り向かなかった。

「何」
「あのさ、米買ってくる気とか……ない?」
「ない」
 視線はテレビのまま、間髪入れずにセルドは即答する。

「……」
「姉ちゃん、まさか買うの忘れたの? あんなに昨日の夜米買わなきゃって連呼してたのに」
「……買って、きます」
 セルドは幼い見た目以上に冷静で、生意気でもある。
 人の嫌なところをピンポイントについてくるのが得意なのだ。本人に悪気があるわけではないが。

 テレビの中では文字の羅列が消えて、歌も終わったようだ。すぐに次回予告が映し出される。
 ラーナーは椅子の上にあった茶色の小さめの鞄を手に取った。

「じゃ、ちょっと行って来る。鍵よろしく」
「ん」 
 バタバタと忙しそうにリビングを出ていくラーナーの姿を、セルドは横眼でそっと見送った。
 窓の外は夕日が沈みかけて、薄らと暗くなり始めている。

 鍵を開けて扉を開く。いってきます、と声をもう一度リビングの中に向かって言ってからラーナーは出ていった。
 米を売っている店は近くの商店街にある。走れば五分と経たずに着くだろう。
 走る必要はないかもしれない。けれど彼女はダッシュをかけて、アパートから出る。

 東の果ての空には明るい星が見え始めている。


 *


「そろそろ夜だ」

 帽子を深く被りなおすと、少年は呟いた。その声にポニータは軽く頷いた。
 彼等は今ウォルタ市街の住宅街が立ち並ぶ道を歩いていた。住宅街、といっても古いものが多く、夕方にしては人通りは極めて少ない。
 一度立ち止まると、持っててとポニータに声をかけてから、背負っていた黒い片方の肩にだけかけるタイプのリュックサックをポニータの背に乗せる。
 そして来ていた白めの上着をそっと脱ぐ。現れたのは灰色のTシャツ。やはり長袖だが。
 ありがとう、と言って鞄を取りチャックを開け、乱暴に上着を入れ、被るように再び背負う。いよいよ彼の見た目はほぼまっ黒だった。

「感覚ちょっと尖らせる。ちょっとでも異変がきたら行く」
 目は少しも笑っていない。ポニータは目を細めて、暗くなり始めた空を見上げた。

 七時を示すチャイムが街中に響き渡る。町の時計台は、毎時間このチャイムを高らかに鳴らすのだ。

 彼の周りの空気が少しずつ冷えていく。瞼を閉じていた。涼しい風が彼を揺らした。激しく踊るポニータの淡い炎。
 瞼の裏で広がる世界。暗闇の中で耳を立て、匂いをそっと探る。



 蠢く闇を、捉えるために。

 It continues...

Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.6 )
日時: 2010/10/21 18:15
名前: ID:

Page 6 : 暗転

 セルドはテーブルの上にあったリモコンに手を取ると、赤くて一番大きなボタンを押した。見えない赤外線がテレビまで一瞬にしてたどり着き、急に死んだようにテレビは静かになった。
 音が止む。途端に部屋の中は静寂に包まれ、一種の寂しささえも感じることができた。
 先程までずっとアニメを見ていたがそれはとっくに終わった。ラーナーに頼まれていた鍵を閉めると、つまらないし他の番組でも見ようと思ってテレビをつけていたが、どうも面白そうな番組が無く、切ってしまった。
 何となく辺りを見回す。壁にかけられた小さな時計に目を向けると7時20分と指していた。
 そういえば買い物に行ってたな、と思い出し彼は浅く短い溜息をついた。
 テーブルの上に投げ出された食材達の存在にセルドは気づくと顔をしかめ、少し考えてから大きな溜息をついた。
 しぶしぶ椅子から立ち上がり、出してある食材をとりあえず全て紙袋の中に入れなおすと、それを持って冷蔵庫へと近づいた。
 冷蔵庫の扉を開けると紙袋を床に下ろし、野菜や肉などカラフルな食材を次々と中にしまっていく。どこに何を入れるかが分かっているようだった。やけに慣れた手つきで作業は進んでいく。

 最後に残ったのは箱に入ったクッキー。それを見つけるとセルドのしかめ面は一気に明るくなる。冷蔵庫の扉をとりあえず閉めると、厚紙でできた箱を開けて中にある袋に包まれたクッキーを一つ出した。
 それは適当に台所に置いておくと、クッキーの箱の方は別の戸棚の中へと入れる。さっきラーナーが米を取った戸棚だ。
 仕事を終えると満足そうにセルドは笑って、さっき取ったクッキーを取り、袋を開ける。
 バニラクッキーで、表面は柔らかさを感じさせるほど綺麗な色で焼けていた。
 夕食前にお菓子を食べるといつもラーナーに口うるさく怒られるので普段はしないが、彼の腹の虫はテレビを観賞していた終盤から大合唱を続けているのだ。もう我慢できない様子である。
 歯で半分くらいかじり、奥歯でゆっくりと噛む。まろやかな甘みが口の中に溶け込み、食べている方を幸せの渦に誘う。
 ケーキ屋等で売っているような少し高いものではなく市販のものであるが、この味がセルドは大好きだった。今も大好物を味わえて彼の気分は高潮している。

 食べながら椅子に戻る。そこでようやくテーブルに置かれたひまわりに気付く。
 夏の代名詞とも言えるその大きな花は、黄色い花びらを堂々と広げ、エアコンの涼しい風に微かに揺れていた。
 セルドは目を細めた。高揚していた心は少し冷えて、力無く手を膝に乗せる。
 窓の外から夏の虫の声が小さく鳴っているのが彼の耳に届いた。
 今日が特別な日であったということを、改めて実感する。だからラーナーが朝早くから家を出た理由もセルドはよく知っている。


「母さんと、父さんの、命日か…………」
 そっと出てきたその言葉。


 ひまわりは彼等の両親の好きな花だった。
 漢字で書くと向日葵。別名日輪草。また英語ではサンフラワーと呼ばれる。その名の通り、黄色い花びらを持つその大きな花の姿は、確かに世界を照らす太陽を連想させる。
 セルドにとってはその煌びやかさや堂々たる姿がむしろうっとおしくて、そんなに好きな花ではない。
 どうしてこの花が好きだったんだろう、そう思ったことが今まで何度あったか。手で数えられる数はゆうに超えている。
 けれど聞くことはできない。聞いても答えてはくれない。何故ならもうこの世の人ではないのだから。

 一度だけラーナーに聞いたことがある。何故か、と。
 けれど彼女は少し驚いた顔をして、すぐに薄い笑顔で分からない、と言葉短く答えた。
 その時の目がセルドには印象的だった。淋しそうに揺れるその栗色の瞳が、セルドを拒絶しているようにも見えた。その瞬間怖くなって以後は聞いていない。
 今ではその時の様子をいまいち覚えていないというのが事実だが、子供心で何かを感じ取ったのだろう。

「なんだかなあ」
 少し虚ろな視線を向日葵に向けたまま一枚目のクッキーを食べ終えて、二枚目にかじりつく。一袋二枚入りのクッキーは、いつのまにかもう終わってしまいそうだ。

 外はすでに暗闇に包まれていて、そろそろラーナーも帰ってくる頃だった。むしろ少し遅いくらいだった。
 恐らく商店街の米屋に行っているだろうから、あそこならさほど時間はかからずに着くことができるはずだ。

 彼のクッキーを食べるその硬い音だけが部屋に響いていた。
 その時。


 リン、と鈴が鳴った。訪問者を示す音だ。外のドアの横にあるチャイムのボタンを押すと、この音が部屋中に高らかに鳴る。
 ようやく帰ってきたか、と思い慌ててクッキーを全て口の中に入れると、急いで胃に流し込む。
 リビングから出ると、エアコンのかかっていない廊下は相変わらず暑かった。もう一度鈴が鳴る。慌てなくてもいいのに、と半ば思いつつ鍵を開ける。
 が、扉を開いて目の前に居たのは、ラーナーではなかった。

「宅配便でーす」
 夜の暗闇をバックに、緑と白を基調とした専用服に身を包み深く帽子をかぶった男性だった。若いとも老いてるとも言えない微妙な顔つき。体つきが良く、腕で大きな段ボール箱を抱え込んでいる。
 なんだ姉ちゃんじゃないのかと思いつつ、はい、と彼は男性に応答する。
「サイン宜しいですか?」
「あ、ちょっと待ってください」
 一度扉をセルドは閉めると、扉のすぐ傍にある靴入れの棚の上に手を伸ばす。
 花の入っていない綺麗な小さな花瓶の隣にあるこれもまた小さなペン立て。セルドはそこに入っている黒いボールペンを手に取った。
 その後扉を再び開く。お願いします、と男性は笑顔で言って段ボール箱を少し前に突き出す。

 ラーナー宛てだった。シーザー・アボットという人から来ているようだ。心当たりがないが、ラーナーの知り合いなのだろうと思いつつサインを書く場所を探す。

「ここです」
 男性は人差し指である場所を指す。サインを書く場所らしく、点線で四角く区切られた空白があった。
 なるほど、と思い彼はサインをしようとボールペンのノックを押し、自身の名前を書き込もうとする。

 早く姉ちゃん帰ってこないかなとそんなことを頭の片隅で思いつつ。

 男性は、ニッコリと笑みを浮かべた。


 *


 結局こんなのに何の意味があったのだろう。いや意味がないのは最初から分かっていたけど。ラーナーは心の中で自身に毒づく。
 ラーナーの手のひらには、朝に自分がポケットに乱暴に入れた赤い星のキーホルダーがあった。
 運命の出会いがあるかもなんて言うし何より十二位という悲惨な結果だったし、信じては無いと思いながらも何となく心の片隅で占いを信じていたのだろう。
 少し遅くなっている足取りで彼女は深い溜息をついた。道を行く人が思わずラーナーに視線を何となく当ててしまうほど大きな溜息であった。
 馬鹿みたい、と小さく呟いて、再びポケットに戻した。

 本当に今日は彼女にとって、十二星座中十二位という結果にぴったりな一日だった。
 寝坊。花の買い忘れ。米の買い忘れ。変な男の子。
 米の買い物だってこんなに時間をかけるつもりは彼女にはなかったのに、米屋の主人の妻と時間を忘れて話をしていたのだった。
 主婦の話はためになる。特に両親のいない彼女にとっては、家事全般の大先輩でもあるのだ。今日もたくさんの事を教えくれたが正直無駄話も多く、いつもより幾分長く感じられた。
 おかげでこんな暗い夜道を歩くことになった。
 空には星が煌めいており、道は街灯のおかげでようやく辺りが見えた。市街地の中心ならもっと明るいだろうが、住宅街はさすがに暗い。
 彼女の腹の虫が鳴る。五キロの米は重い。いつもならここまで感じないのに、今日はやけに重く感じていた。

 ようやくラーナーの住むアパートの前に来る。米の入ったビニール袋を持ち直し、自分の扉へ向かおうとしたその時目を丸くする。
 自分の部屋のドアが開いている。こぼれた光に照らされて、見覚えのあるユニフォームを着た男の人がいた。段ボール箱を持っていることから、宅配便の人だと気付く。
 セルドが応答しているようだ。急ぐ必要もない。ラーナーは米を持っていくのを最優先に、重い足取りで廊下を進もうとする。

 瞬間。








 帽子の下で男性は口元に笑みを浮かべた。
 セルドは目を見開いた。

 遠くのことだから何の事だか詳しくは分からなかった。
 けれど分かったのは遠くだったからだろうか。近ければ灯台下暗し、見えなかったかもしれない。

 段ボールで隠されているようにさえ見える。けれど確かにその茶色い箱の下から見えたのは、赤いもの。
 噴き出しているようだった。セルドの顔がだんだんと蒼白になっていく。そして彼の口から突如飛び出したのは、鮮血。ラーナーの体がびくんと震えあがり、突然のことに目を見開かせた。息が止まり身体が固まる。
 前かがみに倒れ始めるセルド。全てがスローモーションで動いているようにラーナーには見えた。
 なんのことだか分からない。体はぴくりとも動かない。脳が状況についていかない。ただ呆然としていた。

 床に、落ちたような音がした。セルドが一度ダンボール箱にぶつかってから床に倒れ、血が弾け跳んだ。




 男性は段ボールをセルドの手前側に置く。他人から見えないようにしたいのか。
 彼の右手には、明りに煌めくナイフが一本、血塗れになって握られていた。持つ手も赤黒く染まっている。男性は相変わらず笑っている。ラーナーは息を呑んだ。
 どうやら男性はラーナーには気付いていないようで、セルドの横を通り抜けると、中へと素早く入っていった。
 弾かれたようにラーナーの眼に意志が戻り、米を乱暴に廊下に投げるように置く。
 一番奥の部屋であったことに彼女は後悔した。こんなにも廊下が長く感じたのは初めてだった。走る、走る。息遣いは荒い。
 声が出ない。セルド、そう叫ぼうとしても悲鳴をあげたくても、何故か彼女の喉から声は出てこなかった。ただ心臓が高鳴っている。心拍数が激しくて苦しさがまとう。嫌な予感が胸をよぎって離れない。
 そしてドアの前に来る。肩が上下し、口を右手でそっと押さえた。その光景は、彼女には重すぎるものだった。

「せるど……?」
 辛うじて出てきた声だった。誰が聞いても明らかなくらい、震えた言葉だった。彼女の体も小刻みに震えている。

 横に向いた顔は血の気がなく、目はどこか彼方を見ているようで。
 口から飛び出していたのは赤い血。刺された胸から飛び出しているのもまた血。赤く煌めいて、生温かい。
 床に弾かれたような返り血がいくつもあって、彼女の踏んでいる場所もまた血があって、少し捻るとぬるりと気味が悪い感触が襲う。背筋に寒気が走る。思わず跳ね上がる肩。
 異臭が辺りを漂っていた。鼻を突く血の匂いにラーナーは思わずせき込んでしまう。猛烈に襲いかかってくる吐き気を押さえると、再びセルドをゆっくりと見る。


「あ…………あ……あ」


 首を軽く振りながら、しゃがみ込み弟の顔を覗き込む。見開かれて意志の無い瞳はどこも見ていない。
 どうしたらいいのか彼女には分からなかった。思考がついていかない。目の前がグラグラとしている。
 セルドはほんの少しも動かない。周りにあるのは血だけ。ただ、少し開かれた口から虫のようなか細い呼吸をしているように見える。

 突如脳裏を掠めたのは、少年の瞳。暗転、氷が背中に突き刺さったような感覚。
「殺されるよ」
 何度も響き渡る声。頭が痛い。ラーナーは手で頭を抱え込む。髪を握る様に乱した。目からこぼれてくる熱くて透明なもの。
 恐怖が包む。




「なんだ、こんなところにいたんだ」
 男の声。ラーナーは反射的に顔を上げた。涙が中の部屋の明かりに光る。
 逆光でよく見えないが、帽子の下に浮かんでいる不気味な笑みがラーナーには分かった。服には返り血と思われる赤いものが幾つもついている。右手に握られたナイフは血を拭きとったのか、刃が鮮明に光っている。
 彼は唇の横に付いた赤い液体を、舌を伸ばしそっと舐めた。舌の先についた血は彼の口の中へ潜り込む。ラーナーの心臓が跳ね上がり背筋が凍った。

 男性とラーナーの視線が合う。途端に彼女が感じたのは息苦しさ。首を絞められたような感覚。唾が口の中に溜まっていく。
 逃げないと。彼女は本能でそう感じ、素早く立ち上がり、後ろに走りだした。ラーナーにとって恐らく今まで生きていて一番のスタートダッシュ。
 廊下を駆ける。足跡として血が残るが構わなかった。アパートを彼女は夢中で飛び出して、なるべく人のあるところへとウォルタの中心地への道を走った。
 走らなければ。逃げなければ。そうしなければ、確実に死ぬ。

 It continues...

Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.7 )
日時: 2010/10/21 18:20
名前: ID:

Page 7 : 恐怖

 どれだけ走ったのだろうか。もう体力は限界に達している。大きく開けた口でする呼吸の音は掠れている。
 足が重い。けれど走るしかない。ラーナーは涙を零しながら必死に暗い夜道を走る。
 左に入る横道がぼやけた視界の中に入り、ラーナーは唇を噛みその曲がり角を覗いた。

「……っ」
 目に入ったのは、細い道の真ん中にいる赤い目を光らせた何か。恐らくは生き物である。大きさ的には人間ではない。
 ラーナーはもう一度走り始めた。曲がらずだ。疲れが起こす、心臓が切り裂かれたような痛みが呼吸を苦しめる。
 先程からずっとこうだった。
 ウォルタの中心地に向かうにはそれなりに道を曲がらなくてはならない。が、彼女が曲がろうとする道の行く先々にいつも何かが待ち伏せている。赤い目をした獣だ。
 彼女の瞳には敵と映っている。眼の光が尋常ではないからだ。餌を狩ろうとする獣の眼の他ならないからだ。

 しかし曲がらなければ一方的に暗い道へと入っていく。すでに彼女にとって見覚えのない地域へと入っていた。
 電灯は光っていないものばかり。明かりは夜空の月と星の灯ししかなく、足元はほとんど見えない。
 周りには高くそびえる今にも崩れそうな木の建物。現在のウォルタ内ではほとんど見ない木の設計。風に押されては不気味な音を立てている。どれも地震でも起これば崩れ落ちてしまいそうだった。
 人はいない。建物に人が住んでいるという気配はない。夜の廃墟は彼女の恐怖心を更にあおぎたてる。
 涙が落ちる。止まらない。かき回された濁流のような心境だった。
 誰でもよかった。とにかく助けてほしい。今すぐに。けれど叫ぶほどの力は彼女には残されていない。大きな声をあげればそれと同時に体内のものを全て吐きだしてしまいそうだ。

「あっ」
 声が零れた。と同時に彼女は石の敷き詰められた床に向かって前に倒れる。ラーナーの足元には、少し盛り上がった石が一つ。
 そこに足を引っ掛け、転んでしまった。少し大袈裟なくらいに地面に転がる。地に打たれた痛みが襲う。と同時に、彼女は力が全て抜け切ってしまったように、脱力感に満ちた。
 動けなかった。走ろうとも思わなかった。肩が激しく上下している。顔が熱い。息が苦しく思わず咳きこむと口から何かが跳び出した。唾液の塊だ。
 汗が身体中から噴き出していた。外は暑かった。もやもやとした湿気に包まれている。
 音はない。誰かが追ってくるような気配も感じなかった。逃げ切ったのだろうか。そう思いラーナーはそっと安堵する。
 きっとこれは夢なんだ。そう思うしかなかった。彼女に残る期待。セルドのところに戻らなきゃ。冗談やめてよって言わないと。でも、少し休んでから。






「やったー逃げ切れたー……なーんて、思った?」

 後ろから声がした。ラーナーの心臓が大きく跳ね、反射的に起き上がり後ろを振り向いた。
 涙で顔がぐしゃぐしゃになった彼女を見て、男はにやりと笑う。
 手にはナイフ。慣れているのか右手で遊んでいるようにそれを回している。その姿にラーナーは驚くしかなかった。
 顔は楽しげに笑っている。けれど黒い眼は殺気に溺れていた。
 残り僅かしかない力を振り絞り、彼女は起き上がり逃げようとした。

「逃げようったって無駄だ。結界を張らせてもらった。――もう飽きちゃったんでね」
 ラーナーの身体が凍りついたように止まる。恐る恐る振り向いた彼女の瞳に、笑顔の男の姿が映った。途端寒気が背中を襲う。
「けっかい……?」
「そうそう。まあバリヤードの力を利用した……って理屈なんだけどね」
 男は笑いながら言い、一歩、また一歩とラーナーへ近づいた。
 彼女の額から冷汗が噴き出す。身体が動かなかった。脳は動けと確かに命令しているはずだった。しかし動かない。縄で縛りつけられたようである。
 立ち上がったそのままの状態で、彼女はピクリとも動かなかった。動けなかった。

「金縛りのされ心地、どう」
 男はスキップをしているような軽い足取りでラーナーに近づき、そっと見下ろす。 
「君は運がいい。それ、されながら逝けるやつなんてなかなか居ないよ、きっと」
 つい先程まで激しく動いていた彼女の肩は止まっていた。呼吸はできる。が、荒い。
 ラーナーは男を揺れる視界の中で見つめた。ぼやけている。改めて見たその姿は、本当に普通の人と何も変わらない。右手のナイフを除いては。
 呼吸は震えて、口の中に唾液がたまるのをラーナーは感じた。
 さっきまで被っていた帽子は取っていた。そのおかげで、顔がよく分かる。
 ぼさぼさの黒髪。汚れた瞳も黒だった。宅配便の専用服も脱いだようで、代わりに黒い上着を着ていた。前のファスナーは開けられていて、その中から灰色のTシャツが覗く。
 見た目は20代の半ば、というところか。肌の色は明るく、や皺があまりないことから若さが伺える。
 ラーナーは体の内面が冷たくなっていくのを感じた。走ったせいで頭はのぼせている。涙と走った汗と恐怖に対する冷や汗とが彼女の顔をひどく潰しているようだった。

「怖がることはない。……すぐ、終わるから。一瞬で君の弟クンのところへ連れて行ってあげるよ」
「――ッ!」
 ラーナーは鋭い睨みをきかせ、噛みつくように男を見た。

「なんで……なんでセルドを! どうしてこんなことするの!! あたしたちが……あたしたちは何もやってないのに!」
 涙が滝のように止まることなく、彼女の瞳から零れ落ちていた。
 表情だけはいくらでも変わるのに、体は動かない。焦がれる想いが溢れんばかりに満たされる。
 その時、突然男はラーナーの目の前に右手のナイフを突き出した。月明かりに刀身が鈍く光る。ラーナーはひっとしゃくり上げ、怖気づく。
 ナイフと彼女の顔との距離は目と鼻の先だった。ナイフがそのままゆらゆらと見せびらかすように揺れる。ラーナーはその刃先を追うように見つめた。

「知る必要はない。君は誰に見られることもなく、闇に葬り去られる――そういう運命だった、ということだけさ」
 刃の先がラーナーの透きとおるような白く柔らかい頬に当たる。尖った感覚は冷や汗を呼んだ。
 そっと横に動く刃。途端、鋭い痛みが彼女に走る。思わず目を咄嗟に閉じた。
 薄い傷が頬に軌跡を残す。それはナイフの通った道を鮮明に浮かび上がらせていた。
 少し時間が経った後に細い線から滲むように出てくる赤い血。ナイフにも微量の血が付いている。
 男はナイフを持っていない左手でラーナーの傷を撫でるようになぞる。彼の指の皮膚は厚く固く、冷たかった。彼女は背中が跳び上がったような気持ちに襲われた。
 彼の親指に少しだけ血が付いたのにラーナーは気付いた。それが彼女の血であることは、言うまでもない。
 震え上がるような笑みが男からこぼれた。快楽以外の何物でもない。男はそっと親指の先についた血を舌で舐める。
 ラーナーの心に、一層激しくサイレンが鳴り始めた。それは彼女の中の、危険信号。

 暗闇、建物無き場所から覗く夜空、月を背に彼の眼は意気揚揚と光っているようにも見えた。
 ラーナーは必死に体を動かそうとする。心臓が全力で走っているように脈を打つ。涙とともに零れる抑えきれない感情、声。

「動け……動いてよおっ……!」
 もどかしさが体中を駆け巡る。自分の体ではないようだった。心だけが残ってしまった、動く電気エネルギーを失ったロボットのようだ。


「さて……と、そろそろこの世への別れの挨拶もすんだかな」
 男はそう言い、右手を少し後ろに引く。刃の先がラーナーの胸に真っ直ぐ向けられている。勢いづけるつもりのようだ。
 しゃっくりをあげるラーナー。逃げたい、逃げなきゃ、想いだけが向こう側へと独り突っ走っていく。
 風が吹く。湿気を多く含んだ生暖かい風だ。周りの木の建物が唸り、どこかの落ち葉が音をたてて宙を舞う。
 月が黙って世界を見下ろしている。
 男の口元が裂けたように笑った。


「さよなら、ラーナー・クレアライト。……恨むなら、君の母と父を恨むがいい」
「――え?」

 突然彼の口から飛び出した思いがけない単語に、ラーナーは目を見開く。
 と同時に、彼の右手が動く。狙っているのは彼女の心臓。ラーナーは瞬時に強く目を閉じた。考えも何もかも爆発して吹き飛んだ。









 数秒、たった。
 彼女は何も感じなかった。痛みは、ない。音もない。これが死というものか。なんとあっけないものだろう。
 恐る恐る瞼を開いた。そこにはさっきと同じ光景があった。ただ、時間が止まったように、ナイフは彼女の胸の寸前で、固まっていた。
 しかし、少し振動している。微妙だが、少しだけ。

 そして突如彼女の体が軽くなり、かと思えばすぐに重くなって、急に地に落ちるように倒れた。
 何が起こっているのは彼女には分からなかった。ただ、体が動かせるようになったのは確かだった。驚きの視線を頭上にいる男に向ける。

「……」
 対する男は無言だった。視線はラーナーではなく自分の右腕に向けられていた。
 白いゴムで出来たようなロープが彼の腕を縛っていた。締め方が強く、血流が止まるのではないかと思うくらいだ。
 ぴんと張られたロープの先に男は少しずつ視線を移す。それに合わせるように、ラーナーは目でロープを追った。
 暗闇の中にロープは溶けている。しかし月明かりでその行方は微かながら分かる。男は目を細め、抵抗するように右腕を引いた。
 その時足音が響き、月明かりに照らされて闇の中から人がゆっくりと現れる。
 ラーナーは息を詰めた。大きく見開かれた瞳には、見覚えのある人物の姿がぼやけながらも映っていた。

 帽子の下から覗く長めの前髪とその下で光る瞳。
 昼間に来ていた白めの上着は脱がれ、灰色の長袖のTシャツとまっ黒なズボンを身にまとっている。
 思い出される。脳裏に浮かび上がってくる、忘れるはずのない記憶。
 その瞳と今の瞳の光は違った。冷たい闇が渦巻いているような目。それを見たら、あの時の瞳に少しでも優しさが宿っていたことに今更彼女は気付かされた。
 吸い込まれそうになる。
 彼の元に近付けば瞬時に殺されそうだ。


「……間に合った」


 It continues...

Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.8 )
日時: 2010/10/21 18:28
名前: ID:

Page 8 : 名前

「誰だ」
 今までラーナーを誘うような口調とは打って変わって、男は低く重い声を発した。
 数メートル先に居る少年に聞こえるよう、少し大きめの声だった。少年は一歩前に警戒しつつ出た。少年の足元から微かな道を摩る音が聞こえた。
 空気が冷たかった。気温としては蒸し暑いが、雰囲気が氷柱のように冷たく鋭いのだ。刺激を与えれば、瞬時に爆発してしまいそうだ。
 ラーナーはその空気に耐えられず、地に身を投げたまま、少し後ずさりをした。

 少年はしばらく唇を噛んだままだった。目は男の動きを探っているようにも見える。
 と、更に少年の後ろから音が聞こえた。歩いてくる音だ。男は眉間にしわを寄せ、音の主に目を配る。
 奥からはまず光が見えた。温かみのある光。黄色と赤、そして橙の折り重なって風に揺れる光は、炎によるものだった。四本の脚でまっすぐに歩く大きな生物。白い体毛は暗闇によく映えている。
 黒く優しい瞳を持つポニータだった。長い首には少年が背負っていた鞄が下げられている。
 ポニータの背中にも何かが乗っている。それに男は気付くと目を丸くして、軽い舌うちをした。
 白と青、そしてピンクというカラフルな体をしているポケモン、バリヤード。その上に重ねられているのは、片手にスプーンを持ち、五芳星を象る額を持つポケモン、ユンゲラー。
 どちらも干からびたようにのびており、すでに指を動かす力すらもなく気を失っているようだった。

「バリヤードを倒してバリアを破り、ユンゲラーも倒して金縛りを解いたか」
 それなら今ここに少年がいる理由も、ラーナーは動けるようになった理由も理解できる。
「やってくれる」
 男は吐き捨てるように言葉を投げた。
 少年はずっと口を閉じたままだったが、もう一歩彼は足を出して、そっと唇を動かした。


「……黒の団、だな」
 低く重い声は、確かに男とラーナーの耳に届いた。
 その言葉を聞いた途端に男は目を見開き、硬直した。
 しばらく沈黙が凍りついたように続いていたが、そのうちに男は口元を釣り上げて嘲笑した。

「どうやら、君の方から始末しなければならないようだな」
 そう男は言いながら、ナイフを左手に持ち替えてロープに刃を向ける。
 勢いよくそれを振りおろし、それと同時にロープは不気味な音を立てて二本に分かれた。
 反動で少年は少し後ろに体をのけ反らせる。男は右腕に巻かれていたロープを器用に解く。右腕は血が先程まで通っていなかったせいで、死人の様に蒼白になっていた。
 きつく残ったロープの跡。血がまたゆっくりと男の右腕を流れ始め、男はぶらぶらと軽く右手を振る。
 少年は右手に持っていた用済みの物と化したロープを道端に投げ捨てる。ポニータは足を畳み、背に乗る二匹のポケモンをそっと道に優しく滑らせるように下ろした。
 男と少年の身長差のある視線がぶつかる。
 音が消え、空気がしんと凍る。
 薄い雲が月の下を通過し、月光がそれに伴い小さくなる。影が夜の闇に溶ける。ラーナーは背筋に寒気が走るのを感じ、思わず後ずさった。
 それでも彼女は何故か、逃げようとはしなかった。栗色の瞳は真っ直ぐに少年に向けられている。
 少年は目を細め、少し体勢を低くした。男は右手が正常に動くようになったのを、手を閉じたり開いたりしながら確認し、ナイフを再び右手に持つ。
 刃が鋭く光る。それは肉体を貫く獣の爪のようだった。
 静寂が辺りを押し潰す。月が雲から再度顔を覗かせる。ほぼ満月に等しいくらい美しい円の形だった。

 先に動いたのは少年だった。
 スイッチが入ったように突然地を蹴り、気づいた時には男の目の前に飛び出していた。
 右足が後ろに反る。反ったかと思うと勢いをつけ男の顔面に向かう。回し蹴りだ。
 男はぎりぎりで左腕でそれを受け止める。が、代償にまともに腕がそれを食らう。ハンマーで殴られたような衝撃が男を襲い、思わず男は歯を食いしばった。
 しかし少年が止まることはない。足を一度下ろすと瞬時にある程度後方に下がり、強く地面を蹴る。重心が低い。右手に力がこもり、視線は男の腹に向けられていた。
 ドッという鈍い音。男は目を見開き息を詰まらせる。少年の右手が男のみぞおちを直撃した。男の口から呻き声が漏れた。
 続けざまに少年は左足を浮かす。男は危険を本能で察知し、右腕でガードしようとする。
 が、腹への凄まじい衝撃が男に苦痛を与えていた。ガードは甘い。少年の力が男の防御に勝り、男は横によろめき咳きこむ。

「くそっが……このっ」
 男は左手で腹を押さえつつナイフを少年に向ける。腕が直線状に伸びる。が、少年は頭を少し下げて避ける。刃は空を切った。
 舌打ちをしつつ男は素早く間合いをとる。肩が激しく上下し、表情を歪めている。
 それに対し少年の顔は冷ややかだった。疲れを感じさせない。男よりも体つきは小さく細いというのに彼の方が上手であった。
 ラーナーは一体何が起こったのか分からなかった。彼らが動き始めてから一分も経っていない。信じられない速さで目まぐるしく戦いは進んだ。

 男は口の中に溜まった唾液を道端に吐く。彼は呪文のように油断は禁物だと言われ続けてきたが、子供に無様にも押されていることになるとは思ってもいなかっただろう。
 彼の黒い瞳が真剣に少年をとらえる。先程までのどこかちゃらけたような雰囲気は虚空に消え去っていた。
 一種の獣の瞳。

 次の攻撃を仕掛けるつもりか、少年は右手を少し前に突き出す。
 男は唇を噛み、動きをよく見ようとする。月光に照らされ風になびく少年の髪。その時、男は何かに気づいたように目を見開いた。
 と、少年が走りだした。男は体を少しも動かさず、ただ唇のみを小さく開く。

「お前もしかして、笹波、白……か?」
 ぴくり、と少年の耳が動き、一瞬、本当に一瞬だけ動きが鈍る。
 しかしその一瞬が隙となった。男はすかさず右足を回し、少年に攻撃を仕掛けた。少年は咄嗟にしゃがみ込み、すぐに再び間合いをとった。
 少年の目が槍で貫くかの如く男を睨みつける。それに怯む男だがすぐにその口元が怪しくつり上がる。

「そうか……お前か! 探してた、ずっと!!」
 そして男は狂ったように大声で笑い出した。その声が高らかに周りの建物に反響する。
 ポニータ、と少年は呟いた。男とは対照的に、彼の瞳はただ冷えていた。少年に呼ばれた声をポニータは聞き逃していなかった。ポニータの眼もまた、暗闇に冷徹なまでに光っていた。
 男は少しずつ笑いを押さえつついた。ひっひっ、という喉から零れる声。
 笑いを隠すように左手で顔を包み込み、もう片方の手はナイフを持ったまま空へ向かって真っすぐと伸びた。
 途端殺気が辺りを冷やした。空気が重くなる。少年は少し後方に下がり腰を若干下げ、目だけを動かし周りの様子を窺う。周りの建物と建物の間に目を配りソレらの数を数える。
 一匹二匹、……八匹。四方八方から追い詰めるように奴等は来ていた。
 白と赤の毛を持つモノ。
 ザングースの群れ。どれも鍛えられているのだろう、瞳には力強さが宿り、爪は月光を反射して鈍く光っている。
 ひ、という小さな悲鳴がラーナーの喉から零れた。思わず後ろに後ずさる。だが逃げてはいけないような気がした。だから彼女はこの場に留まっていた。

「貴様からだ笹波白……その女を守ったこと、後悔するんだな。行け、ザングース」 
 男が右手の人差し指を少年に向ける。
 その時、ザングースが奇声を張り上げ、強く地面を蹴る。八匹の動きは殆ど見えない。瞬間移動にも等しい。
 思わずラーナーは叫び声をあげそうになる。あぶない、そんなありふれた言葉は喉を越えて今にも声として出そうだった。
 しかし少年は動じることもなく、その眼でザングースの動きをしっかり捉えていた。

「炎の渦」
 途端、ポニータの体の炎が燃え盛り、首を後ろに捻り思いっきり口を開いて頭を突き出した。男は表情を一転させると危険を感じ後方に跳ぶ。同時に少年も逃げるように前方へと走った。
 ポニータの口から突然真っ赤な炎が飛び出した。それはカーブを繰り返しポニータの周りを回り、大きな火柱が上がる。
 勢い余って止まることの出来なかったザングース達がその中に巻き込まれ、次々に悲鳴が耳につんざくように届く。
 男は熱から頭を守るように腕で顔を隠しつつ様子を見た。汗が彼の頬を伝った。
 熱風がラーナーの栗色の挑発を狂ったように躍らせている。
 炎の渦はポケモンの動きをしばらく止めることが可能な炎の技。その名の通り炎で出来た渦が敵を襲う。
 だが少年のポニータのそれは、威力がそこらのポケモンの炎の渦とはまるで桁違いだった。何より大きさが見る者を圧巻させる。天にまで届きそうだ。

 少年は逃げる途中で熱風に押されたためにしゃがみ込んでいたが、ゆっくりと立ち上がり目を光らせた。熱の光が逆光となり表情はよく見えない。熱風で彼の髪や服が暴れていた。
 そっと右手で少年は腰を探る。ズボンのベルトをかけるところに引っ掛けていた黒い袋。そこから何かを取り出す。
 二十五センチくらいの長さで、直径約五センチくらいの円筒だった。ゴム素材なのか、彼の右手に柔らかくフィットしている。
 男は警戒し少し足を後ろに下げる。嫌な予感が男の体中を一瞬の内に巡った。


「……火閃」


 少年は呟くようにその言葉を綴り、手に力を込めた。
 その時円筒の両端から何かが真っ直ぐに跳び出す。光を鋭く反射するソレは、四十センチほどの両刃の他ならなかった。
 そしてその刃の周りの空気が揺らぎ始め、それはだんだんと炎を形成する。オレンジの光、熱が揺らめく。ただ少年の手が持つ黒い円筒の部分は炎が無い。
 しかしそれは男を怯ませるのには充分だった。
 ラーナーは目を見開き、口を手で覆った。何故か涙が眼に込み上げてくるのを感じた。本当に昼間に出会った人と同一人物なのかと目を疑ってしまう。

「それは……やはりお前は」
「違う」

 少年ははっきりと声を発した。今まで彼が話した中で一番大きく、重い声だった。
 男は息を呑み、ナイフを強く握る。少年の深緑の眼を見て、直感した。――殺らなければ、殺られると。

「笹波白は死んだ。俺は――」
 慣らすように、あるいは男に対する威嚇か、少年は器用に円筒をバトンのように回し始める。炎が円を描くように回る。

「藤波、黒だ」
 少年――クロははっきりとその名を飛ばした。

Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.9 )
日時: 2010/10/23 10:58
名前: ID:

Page 9 : 炎

 刃の炎はクロ自身を今にも包み込み焼けきってしまいそうなくらい、暴れまわるように燃え上がっていた。
 元々現在の季節は夏であるのに加えこの炎。気温は跳ね上がり、気をしっかりと持たせなければすぐに倒れてしまいそうだった。
 だがクロだけは異例だった。彼だけを見ればまるで暑さは感じさせない。涼しい顔で、汗も何もかいていない。
 ラーナーはさすがに身の危険を感じた。このままでは炎に呑みこまれてしまう、そう思い立ち上がり近くにあったドラム缶の陰に隠れる。
 長い髪の毛先が焦げていた。干からびたように乾き、黒く細くなっている。
 それでも様子が好奇心から気になり、陰からそっと顔を出し息を呑む。
 クロは円筒の動きを止める。そして空いている左手を首にそっと当てて頭を軽く回す。軽いウォーミングアップといったところか。
 尚も刃から炎は噴き出している。燃える物などないはずだ。なのに何故あんなにも絶えず炎が暴れまわり、刃は無傷なのか。
 男は自分の目を信じることができなかった。彼の脳裏にある人物が走る。目の前にいるのはそれと全く同じ外見、攻撃方法。なのに同一ではないというのか。
 だが迷っている場合ではない。男は腰のベルトに付けていた焦げ茶の鞄から、数個のナイフを取り出す。両手にそれらを持つと、少し後ろに下がってから一気にクロに向かって投げる。
 刃先は真っ直ぐにクロへ向かって飛ぶ。クロは落ち着いてそれを見、左へ素早く避ける。
 が、その間にまた男は両手にナイフを用意していた。速い手の動きは戦いの慣れを感じさせる。

「まだだっ」
 男はすぐさまナイフを投げつける。今度は若干一つずつずらしながらだ。
 それもクロは避ける。がクロの足元に一本のナイフが突き刺さり、クロの動きは狂わされる。
 そのチャンスを男は見逃さなかった。今だと言わんばかりに男は左手に残っていたナイフを一斉に飛ばす。一直線にクロの体を狙って襲いかかる。
 しかしクロの判断は冷静で俊敏だった。クロはその右手にもっていた円筒を前に突き出すと、素早く空を横に切るように振る。
 鋭い金属音が三回鳴った。そしてクロの足元に無残にも力を失ったナイフが三つ、音を立てながら落ちた。

 それとほぼ同時に、クロの後ろ側で盛んに燃え続けていた炎の渦が弱まり始める。
 オレンジと黄色の混ざり合ったような不安定な光がだんだんと薄れていく。光に潰されていた影がだんだんと長さを伸ばしていき、周囲は暗闇を少し取り戻していく。
 炎の回転は上の方から無くなっていき、虚空に火は消えていく。風に押されては何も無かったように死んでゆく炎の中から、身体に大きな火傷を負いか細い呼吸を微かにしているザングース達が次々と姿を現す。
 目は誰も開けている者は一匹として居なかった。身体は力を完全に失ったようにだらりと地に伏せ、美しくも逞しかった白い毛並みは焦げていた。
 ただ黒い爪だけが鈍い光を反射させて、空しく倒れていた。

 そして渦が全て消え去ったとき、ポニータが涼しげに頭を軽く振る。つい先程まで炎を口から吐き続けていたのにもかかわらず、その顔に疲れは伺えない。
 普通では持ち得ない尋常ではない体力、そして攻撃力をポニータは持っていた。


「……さて、ザングースは皆気絶……でもないかもな。ただ体力は残っていても、あれだけ大火傷を負えば体を動かすことさえできない。ナイフの本数もかなり失った……。まだやるか?」
 クロは男に向かって挑発するように言う。口調は男を舐めているように感じさせる。
 それを聞いた男は肩を軽く上下させつつも、口元を釣り上げた。それを見た途端クロは不快だったのか少し眉間に皺を寄せた。

「くっくははははははははは!! ……藤波黒、といったな。その力は認める。だが、少々油断が過ぎるな」
 その言葉を聞いた瞬間、クロは自分の耳に何か不審な音が届いているのを感じた。
 何か迫ってくるような音だ。小さい。だが、少しずつ近づいてきているような。ただ何の音なのかが分からない。
 ポニータは駆け寄るようにクロに近付く。音は大きくなっていく。ポニータの地を蹴るような軽快な音ではない、もっと重く底からくるような音。
 その時、クロは直感した。そして瞬時にその仮定を肯定し、血相を変えて後ろを向いた。

「ポニータ、来るなっ――」
 忠告は遅過ぎた。
 ポニータの足元から何かが飛び出す。それは丁度ポニータの腹の下の位置にいた。
 手に持つ白く大きな爪がポニータの白い腹を切り裂く。途端ポニータは悲鳴をあげつつも、クロの忠告を聞いていたおかげか急所は避ける。が、続けざまに背中にある重なるように生えているハリで、ポニータの前足に力強く体当たりをする。
 大きな黒い瞳を持つそれは、サンドパンだった。穴を掘るで相手の動きを止めてから背中のハリを使った体当たりといった攻撃。
 加えて地面タイプの技である穴を掘るは、炎タイプであるポニータにとって相当の痛手だった。ポニータは腹の痛みと前足のバランスを崩されたことで、勢い任せに地に倒れた。
 ポニータの前足から血が出ていた。サンドパンのハリをまともに食らった足は、恐らく自在に動かすことは到底無理だろう。

「ポニータ!」
 クロは悲鳴にも近い叫びをあげ、二メートル程後方のポニータのところへ駆け寄ろうとした。
 が、瞬間男の方から殺気を感じ円筒を回す。思った通り、男がナイフを投げてきていた。一体いくつ持っているのか。舌打ちをしながらクロはそれらを円筒でいなす。
「サンドパン、砂かけだ」
 男はすかさず命令し、サンドパンはその言葉を聞いた瞬間動いた。鋭い爪で地面に埋め込まれている石を削る。
 みるみるうちに石は削られ粉と化し、それなりの量が出来あがるとサンドパンはそれを発達した後ろ脚でクロに向かってかける。
 クロは右に避ける。が、少々体にかかり気をとられる。その隙に男は再び懐からナイフを右手に持つと、それを素早く投げた。
 ナイフの先がクロの左腕を掠る。が、掠っただけで十分だった。刃先はクロの黒い服を引き裂き、更には腕にも浅い傷を残していった。傷口に血が少しずつ出てくる。
 大した傷ではない。が、突然の怒涛の攻撃を守りきることができなかったことに対しての、精神的ダメージがクロに出来た。
 陰から見守るラーナーは初めてクロが押されているのに気づき焦った。だが自分が出たところで何もできない。

「油断は戦場では命取りだよ。持っているポケモンはポニータだけか?」
 男は形勢逆転したことで声が上ずっていた。
「…………」
 クロは左腕に出来た三センチほどの傷をしばらく見つめていた。表情は静かだった。風も波紋もないただ平らな湖のように、落ち着いていた。
 ただ目の光だけが冷えていくようだった。

「おい、なんとかいったらどう――」
「黙れ」
 クロの氷のような声が男を無理矢理黙らせる。声の重みが男を震えさせ圧倒していた。
 凛とした空気が流れ、クロは火をまとった刃の片方を地に荒々しく付けた途端、素早くそれを回す。自分を中心とした円を描いていた。まるでクロ自身がコンパスになったように。
 地面に傷が付き、描き始めと描き終わりの線が重なった時、円は完成した。その時、円の線から炎がちらつき始める。
 ぞくり、と男の背中に恐怖が走った。笑みが張りついたような表情が凍りつき、足は何故か動かなかった。

「一気に終わらせてやるよ……」
 その声は怒っているようにも笑っているようにもとれた。ラーナーは息をつまらせた。



「炎渦鳳来(えんかほうらい)」

 クロは呟くように言葉をなぞる。その瞬間円の炎が消え、途端同じだけの大きさの炎の円が男とサンドパンの周りに現れた。
 気付き逃げようとした時にはもう遅かった。その円から突如赤い炎が飛び出し、火柱が地面から天へ伸びる。勿論彼等はその中に巻き込まれた。
 ラーナーは悲鳴をあげそうになった。だが声は出てこなかった。涙は驚きで止まっていた。

 男は悲鳴をあげた。手が足が頭が腹が全てが炎に在る。耳の中を訳の分からない音が暴れまわっている。自分の体が燃えてしまう。死という言葉が今はっきりと脳に浮かぶ。
 が、すぐに気が付いた。おかしかった。
 ――熱くない?


「ポニータの炎を知ってるか?」
 クロは男の入っている火柱に近づきながら問う。

「ポニータは背中に火を持っている。だけど、自分が心を許した奴にはその炎を熱く感じさせない能力がある。――それとこの炎の原理はよく似ている」
「――っ」
 男は何か言おうとしたが言葉には出来なかった。
 クロは円筒を反回転させて改めて持ち直すと、少し右腕を上げた。右手は柔らかく包むようにその黒い円筒を持っている。
 熱風によって帽子の下から覗く髪が弾けるように舞っている。

 刃の炎と火柱、辺りは炎で包まれているのにもかかわらず、周りの木造建築の建物は燃える気配は微塵も感じさせなかった。

「俺は、自分の意思で炎で対象を“燃やすか”“燃やさないか”を操ることができる。……結構コントロールが大変だけどな。だから今あんたが入ってる火柱は見かけ倒しってとこだ。……ああでも出ない方がいい。外側は本物だから。サンドパンも同じだ」
 その声は男の耳にはっきりと届いていた。だんだんと荒くなっていく男の呼吸。胸の中に何かどす黒いものが滝のように流れてくる。


「戦いで自分の手の内を明かすのは死活問題。なのに今なぜ俺があんたに話したか。それにこんなにゆったり話してる……分かるだろ?」
 男は全身が震えあがった。目が見開き、呼吸が今までになく激しくなる。疲れているわけではなく、すぐ起こるであろうことに対する焦りと恐怖と苦痛からだ。
 外からまだその男の姿がよく見えた。炎の壁が邪魔になりながらも。クロは冷ややかな目でその様子をただ見つめた。
 唇を噛みながらもクロは右手を強く握り、口をそっと開いた。


「さよなら」




 二つの火柱の威力が増したかのように、少し炎が膨らんだ。
 男の姿はもう外からは見えなかった。声も聞こえなかった。無理矢理かき消された二つの悲鳴だけが、余韻としてほんの少しの間だけ残っていた。
 ラーナーの声にならない悲鳴も確かにそこに響いていた。

Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.10 )
日時: 2010/10/23 12:38
名前: ID:

Page 10 : 静寂

「火閃、」
 火柱がだんだんと小さくなっていこうとしている時、クロは呟いた。
 同時に刃の炎が溶けるように消えていき、円筒の中に滑らかに入っていった。明らかに円筒より刃の方が長い。なのに何故か全て納まってしまった。それを元の腰の袋に戻す。
 気温が下がっていく気配がした。炎がどんどん消えているからだ。こうなれば、元の夏の暑ささえも寒く感じられてくる。
 クロはふぅと息をつき、ポニータの傍に歩いて行った。屈みこみポニータの足の怪我の様子を診る。
 切なげにポニータは喉の奥で鳴らしたような声を発した。白く美しい毛並みは乱れ、いくつかは地面に散らばるように落ちていた。
 そして何より眼を瞠るのが、血。右の前足から湧き出るように出ている。ハリが直撃したのはやはり痛手だった。赤がはっきりと浮き出ているようだ。更に違う異変に気付きクロは顔を歪ませる。
「……毒か」
 苦々しげに彼は言った。同時にポニータの口を手で無理矢理開かせて、口内の様子を診る。ポニータは抵抗する素振りさえも見せず、ぐったりとしていた。
 ビンゴである。クロの予感は正に的中だった。舌が紫色に染まっている。クロのポニータは体の調子がおかしくなると、舌にまず異変を見せるのだ。
 クロは慌ててはいないものの素早い対処を始めた。右手で腰を探りその手に握られてきたものは、赤と白の球体、モンスターボールだった。

「頼む」
 声と同時にボールが開く。途端中から白い光が飛び出し、クロの近くにそっと降り立つ。
 光はだんだんと確かな形を形成していき、その中から実体が姿を現す。大きな羽が花咲くようにパッと目に着く。その模様はまるで巨大な瞳を思わせるものだった。
 それとは対照的な可愛らしい淡い水色の身体、黒い瞳。アメモースだ。

「水遊びだ。軽く。ポニータにダメージを与えちゃだめだ」
 言いながらクロは立ち上がる。軽く周りを見回すと小走りでバリヤード達が倒れている場所へと向かう。そこには彼の鞄があった。
 黒い鞄だけを持ち上げると急いでポニータの元へと戻る。
 その間にアメモースは身体を細かく震わせ、小さな口から水を出す。水遊びは他の技“水鉄砲”ほどの威力はなく、元々攻撃用の技ではない。
 本来は一面に勢いよく水を撒くようににして炎タイプの技の威力を削減させるための技だ。

 が、今回は勝手が違う。アメモースは水をポニータの足にそっとかける。血が絶え間なく水と共に流れていく。
 クロはその場に戻ると、鞄の中から青いタオルと茶色の小さな瓶、それに包帯を一つずつ出した。

 まずタオルをポニータの右足の付け根の方できつく結ぶ。何度も引っ張りながらちゃんと結ばれたことを確認する。
 タオルから手を離すと瓶の蓋を開けてそれを少し下に傾けて揺らす。すると錠剤が数個出てきた。いくつかは瓶に戻し、二粒だけ掌に残す。
 ポニータに一言声をかけてから、小さな錠剤をポニータの口に入れる。アメモースの水遊びの水を少し貰って呑みやすくし、ポニータは特に難なく錠剤を呑み込んだ。
 いわゆる毒の効果を消す錠剤だった。
 休む暇なくクロは動く。
 アメモースに水を止めるように手を差し出して指示すると、途端水の出が止まる。
 クロは包帯を手に取り、ポニータの足を器用に包んでいく。白い包帯に痛々しい赤がくっきりと浮かび上がり、すぐにその上に新しい布が巻かれていく。
 血の出が思っていたより早く止まりそうで少し彼は安堵した。ポニータの顔色は相変わらず悪いが、もうじき戻るだろう。
 回復系の技を持っているポケモンがいれば一番手っ取り早いのだが、生憎彼はそのようなポケモンを持ち合わせていないようだ。
 包帯を巻き終わる。残り少なかったせいなのか丁度全て使いきった。
 きつめに結んでおき、ようやく処置が終了した。ふぅとクロは息をついて腰を下ろした。一気に緊張の糸が緩み、疲れも同時に圧し掛かってくる。
 炎がほとんど弱まったと同時に少し異臭が漂い始める。それが何なのか、クロは知っている。
 クロは少しだるそうにしつつも思い出したように目を開き、そっと立ち上がった。
 ズボンに付いた汚れを手で軽くはたくと、腰をかがめてポニータの頭を撫でてから背を向けて歩き始める。

「……」
「へぇ……あの熱風と炎圧の中で意識を保てれたんだ」

 クロは少し驚いた風に言った。本当に心の底から驚きがあるのかどうかは話し方からは伺えない。
 ラーナーはドラム缶の上を手で持って立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。すぐに崩れるように座り込んでしまった。
 目が泳いでいる。どこも見てはいなかった。長くて綺麗だった髪は熱風のせいかぼさぼさになっていた。
 息は荒く汗が噴き出すように出ていた。クロは目を細めつつ少しそらした。やり切れない思いが込み上げてきたのだ。
 ようやくラーナーは顔を上げる。視線の焦点が今しっかりと合う。月明かりを背に、彼女の前に立つ少年がひとり。
 話す力も動く力ももうほとんどラーナーには残っていなかった。何もかも動き出す前に諦めてしまっている。
 それでも訊きたいことは山のようにある。今言わなければいつ言うのだろう。そう思いラーナーは震えながら唇を動かした。

「あのひと、は、その……死んだ、の?」
 一つ一つの言葉を絞り出すように言うラーナー。
「生存はしていないだろ。あの炎に生身の人間が耐えられるはずがない。ポケモンなら耐性ついてるから気絶してるだけだろうけど」
 ラーナーの心の奥から何かこみあげてくるものがあった。
 あまりにも淡々と言うクロの言葉の数々。自分が人間を一人手をかけたということにまるで気付いていないかのように、ただ無表情で変わらぬ抑揚だった。
 信じられなかった。目の前にいる人は顔に幼さを残した、ラーナーと同じくらいの人間。

 同じ?
 本当に同じ?

「なんで……」
「なんでって……お前、よくそんなことが言えるな。ああもしなかったらお前、確実に殺されてたんだぞ。分かってんのか?」
 クロ自身も彼女の言っていることが分からなかった。彼の言っていることは正しかった。
 実際、もう一秒でもクロが来るのが遅かったら、ラーナーの心臓は男のナイフによって貫かれていただろう。
 事態があまりに速く動きすぎていたから、待ったと言う時間も待つ時間も残されていなかった。勝つのは決意が固く、殺意が強い方。
 ラーナーの脳裏に笑みを浮かべてナイフをかざす男の姿が映る。途端に身の毛のよだつ冷たいものが体中を走りまわる。

「あのひと……」
 男の口の動き、言った言葉。全てがラーナーの中に流れ込んでくる。
「お母さんと、お父さんのこと知ってた」
「……!」
「恨むなら、君の母と父を、恨むがいい……って言ってた。どういうこと? お母さんとお父さんがどうしたっていうの? だってお母さん達は車に……私は……セルドは」
 完全に頭の中の回線が絡まっているようだった。クロはそっと息を吐いた。何故か安堵しているような溜息だった。
 ゆっくりとラーナーに更に近付き、しゃがみ込んでまっすぐにラーナーの瞳を見た。近くで見れば、彼女はとても綺麗な栗色の瞳をしていた。とても、あの人に似ていた。
 右手でポケットから何かを出すと、そのままラーナーに手を伸ばす。

「なに……っ」
 しゅっという軽い音の後、ラーナーは目を見開く。が、すぐに瞼が閉じてしまい、力を全て失ったのか雪崩れ込む様に前に倒れた。
 それをクロはしっかりと受け止める。彼の右手には、小さな手のひらサイズくらいの白いスプレーがあった。
 中にはポケモンの技、眠り粉のパウダーが含まれている。かなり即効性のあるもののようだ。
 証拠にラーナーは既に眠りについてしまっている。彼のやわらかな温もりに包まれながら、小さな寝息をたてている。
 同時にこぼれてくるラーナーの温もりが、クロにも伝わってくる。
 すでに身体から忘れ去られていた、あたたかなもの。目に見えない、光のような。


 数秒そのまま動かなかったクロだが、一度ラーナーは近くの建物の壁にもたれかけさせる。スプレーはポケットに戻す。
 自分にはまだやらなければならないことが残されている。しかも相当な力仕事だ。
 ポニータに期待できないとなると、かなり辛いが仕方がない。少しでも早く始めなければ、時間がない。

「アメモース、悪いけどもう少し手伝ってくれ」
 クロはアメモースに近付きながら言った。アメモースは笑顔で頷いて、その大きな羽を広げて低いながらも上空に飛ぶ。
 とりあえずは、騒ぎになる前にここを片づけなくては。
 クロは表情を引き締め、再び動き始めた。

Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.11 )
日時: 2010/10/24 15:01
名前: ID:

Page 11 : 弟

 彼女は瞼が自然と開いていくのを自分で制御せず、ただゆっくりとその瞳を覗かせた。
 木の優しい茶の天井。時を刻むキャラクターの時計。電源の入っていない小さなテレビ。見たことのある、いや、見慣れた景色がそこにあった。
 布団の温もりはベッドの上にいることを分からせた。ゆっくりと体をおき上げる。途端に首に激痛が走り表情を歪ませる。変な姿勢で寝ていたようだ。
 首を動かさないようにそっと部屋を見渡す。
 本やノートが積み重なった机。縫いぐるみがいくつか乗っているタンス。引き出しは一つ開きっぱなし。中から服が覗いている。
 部屋は暗い。外も暗い。白いカーテンの隙間からは月光と思われる柔らかな光が注いでいる。

 頭が回転していなかった。
 自分は今まで何をしていたんだっけ。
 自分は今までどこにいたんだっけ。


「――!」
 ラーナーは弾かれたように布団から飛び出す。服装は変わっていない。所々に点々と黒く焦げている部分がある。
 ここは彼女の自室だった。部屋の匂いも温もりも、全て今までと同じで慣れきった部屋だった。
 何故今ここに自分がいるのか。さっきまで確かに外にいて、炎が舞っていた。記憶は突然途切れている。彼がどこか悲しそうな顔で自分を見ているところから覚えがない。
 ラーナーは部屋を駆けるように飛び出した。隣り合わせのリビングに直接出る。今日は月光がとても明るい日だった。電気が点いていなくとも窓から光が零れてくる。
 柔らかな光に照らされているリビング。静かだった。夏でも夜中だと少しひんやりとした空気を漂わせている。
 冷たいフローリングの上を裸足でそっと彼女は歩いた。あまりにも音が無くて、自分の家のように思えなかった。昼と夜で随分と表情が違うことに驚きを感じさせられる。

 壁に掛けられた小さな時計を見る。秒針が音を立てずに滑るように盤面を走っていた。三時二分。随分と眠っていたようだ。
 体に気だるさが残っている。足取りは重い。ゆっくりと歩いていた足を止める。
 テーブルの上に目をやった。今日自分が買ってきたヒマワリの入った花瓶と、ラップのかかった青い皿とコッペパンが乗っていた。
 更にその皿の下に、白い紙を四つ折りにしているものがあるのを見つけた。暗い中で白はとても映えていた。
 彼女は右手を差し出し、それを慎重に引く。皿が音をたてて、ようやく平常のバランスをとる。
 しばらく紙を見つめたまま動かなかったが、やがてそっと紙を開く。薄く白い紙で、B5サイズほどの小さめなサイズだった。
 黒い文字が敷き詰められている。鉛筆かシャーペンで書かれている。筆圧と太さからいって恐らくはシャーペンだ。
 小さな文字で走り書きで書かれていた。けれど中心がとても整えられ、読みやすい文字が並べられている。
 ラーナーは立ったまま、目で文字を追いかけはじめた。


「今日はいろいろあってかなり頭が混乱してると思う。
 勝手ながら、あんたのこと、いろいろ調べさせてもらった。
 だからまあ部屋も確定できたんだけど。
 もうあんたも部外者とはいえないから、ある程度知っとくべきことはここに書いておこうと思う。
 まず、セルド・クレアライトのこと。
 部屋にはいないし、周辺にも「いる」という情報は無い。
 殺害されて、連れて行かれたという可能性が高い。
 証拠隠滅のためにね。恐らく血も何も残ってはいない。まるで何も無かったかのように。
 セルドが殺されたのは、そしてあんたが殺されそうになったのは、ニノ・クレアライトの子供だからだ。
 俺の予想では、多分あんたが身に付けているブレスレットも奴等は狙ってる。
 そして、今日あんたを殺そうとしたのは、黒の団という組織だ。
 奴等はあんたを殺そうとしている。今日に限ったことじゃない。脅すようだけど、確実にこれからも狙われる。
 どうしてこの長期間何の音沙汰も無かったのかが分からないけど、これだけは確かだ。
 あまり詳しくは書けない。
 この手紙を読み終わったら、粉々になるまでちぎって捨てるか、燃やしてしまってほしい。
 なるべく周囲にはこのことを言わない方がいい。言ったところで何も解決しないし、逆に危険だ。
 昼間にも行ったことだけど、とにかく逃げろ。
 もうウォルタから出た方がいい。死んじゃいけない。
 まとまりのない手紙ですまない。
 ただ、今は少し休んだ方がいい。テーブルの上に食べ物を置いておく」


 最後に小さく彼の名前が書かれて、そこで手紙は終わっていた。
 ラーナーは呆然と手紙を見つめていた。一度読んだだけでは理解が出来なかった。何度も何度も文を、言葉を一つ一つを噛みしめるように読み直す。
 数秒後、思い出したように突然走りだした。弾かれたようにリビングを出て、玄関に向かう。
 扉の鍵はかかっていない。不用心極まりない。しかしそんなことはどうでも良かった。ドアを勢いよく開けて、そして息を詰めた。


 何も、無かった。
 確かに、ここにセルドが、居たはずなのに。


 本当に血痕の一つも残されてはいなかった。ただ普段と同じコンクリートで出来た無機質な廊下が横に伸びているだけ。
 冷たい風が彼女の長髪を揺らす。夏でも夜の風は涼しい、寒すぎるくらいだ。
 手が小刻みに震えていた。目の前にある現実を信じられなかった。確かにラーナーの記憶の中で、セルドはここで倒れていたのだ。
 嘘だ。
 そう思い、扉から離れる。途端に扉はゆっくりと動き、音をたてて再び閉まる頃には、彼女は別の部屋へと走っていた。
 セルドの部屋だ。普段は彼が極度に嫌がるため、入ろうとも思わなかったこの部屋。久々に扉を開ける。

「セルドっ!」
 それはほんの一筋の希望を願っての言葉だった。これに反応して彼が驚いて、そして怒ってほしいと。その存在を確かめようと。
 しかし現実は理想とはかけ離れていた。
 電気がついていない月光に照らされたその部屋は、人など一人もいなかった。
 意外に綺麗な床。白い布団が乗ったベッドに、漫画が積まれ、鉛筆やペンが放りっぱなしの机。古くなって傷だらけになってしまったけれど、彼がとても大切にしていたサッカーボール。
 何もかもいつだったかに見た部屋と同じだった。そう、この部屋の主がいないことを抜いては。
 呼吸が震えているのがラーナー自身でも分かった。
 突如込み上げてくるものがあった。言葉では言い表すことのできない、黒くて重いものが胸の奥で膨らんでいった。
 そっとセルドの部屋に入る。小さな掛け時計の音が部屋の中で淋しくこだましている。
 机の上にある漫画を手に取り、ぱらぱらと力なくページを捲る。先程セルドが楽しそうに見ていたアニメの原作だ。それぐらいは彼女にも分かった。
 読む気にはとてもじゃないがなれなかった。再びそれを机の上に置く。

 風を感じた。思わず目を窓に向ける。暑かったのだろうか、窓は開けっ放しにしていて、白いカーテンが流れるように揺れている。
 窓に近寄るとそれに手をかけ、ゆっくりと閉める。だんだんと風が無くなっていって、最後には消えた。カーテンもおとなしくなる。

 呆然としていた。そして見つめざるを得ない現実というものが彼女の目の前に立ちはだかっていた。
 立っていられるのが自分でも不思議なくらいだった。本当は足も震えている。今にも折れて、倒れてしまいそうだった。それなのに彼女は立っていた。
 ふと、彼女の視界の端に金属的な光が映る。無気力のままに、それに視点を合わせようと体ごと再び机の上に向ける。
 月光を浴びて鈍く光る、ハサミがそこに放置してあった。

 その光り方が彼女に記憶を強制的に思い出させる。黒の団の男が持っていたナイフが脳裏を走る。
 恐怖が再び彼女を襲い、思わず右手で服の胸元を握る。その上に左手を乗せ、落ち着かせるようにそっと深呼吸をする。
 青いプラスチックの持ち手であるそのハサミを、彼女は心を沈ませながら手に取る。使った跡が傷となって刃に残っている。恐らくは、切れ味も鋭いものだろう。
 ラーナーの頭の中にセルドの顔が映る。
 楽しそうに笑った顔も怒った顔も、何かを我慢しているのか今にも泣きそうな辛い顔も、全てが思い出せる。
 記憶を呼び戻せば、何もかも思い出せる。
 親を早くに失くし身内も他にいないラーナーにとって、ずっと支え合って生きていた唯一の血の繋がった家族だった。
 決して切ることのできない、固い絆があった。
 今でも頭の中で彼の少し低めの声が響きわたる。
「おねえちゃん」
 とラーナーを読んでいる声がする。



 光る刃。弟の声。外で吹く風。時計の小さな音。
 ラーナーはハサミを動かして、首の近くまで右手で持っていく。
「死んじゃいけない」
 そう書かれた文字が脳裏を掠める。

 彼女は一瞬その目に光を宿した。決意の光だった。
 そして瞼を閉じ、その右手を動かした。

Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.12 )
日時: 2010/10/30 12:39
名前: ID:

Page 12 : 暗

 同じ頃、先程まで激しい戦闘が行われていた場所。
 月はもうとっくの昔に西の果てに落ちていった。月光を失った深夜の町は、何時ものように静けさと暗闇に包まれるはずだった。
 警察やそのポケモン達、それに野次馬の人々が、あれやこれやと言葉を発している。誰もが不安そうに顔を歪めていた。
 とてもじゃないが深夜とは思えないほどにざわついている。
 そもそも昼であろうと夜であろうとこんな人気の無いところに人間がこんなにいること自体も、異常事態であった。
 ガーディなどの警察犬としての役割を持つポケモンが、地面に鼻を当てて懸命に匂いを探っている。
 警察は現場を調べるのと同時に、野次馬を追い返すのに躍起になっていた。どうやらあまり捜査は上手くいっていないようで苛立ちの表情が垣間見える。
 それを遥か上の方から見つめる者が一人、いた。
 高い木造建築の屋上、夏の生暖かい風に髪を揺らす男が一人、立ったまま人混みを見下ろしていた。
 濃い茶髪で、それと同じような色の瞳。そして、さっき戦っていた男の来ていた黒い上着と同様のものを着用していた。
 歳は十代後半と言ったところで、まだ若さが顔に、そして身体に満ち溢れている。両腕を組み、唇を閉じたままただ黙っていた。
 と。


「バジルさん!」
 幼げな雰囲気を残す声がした。男子の声だが、声変わりがまだなのか高めのトーンだ。
 バジルと呼ばれたその男は右方向に体を向ける。すると、暗闇の中で高い建物の屋根を軽快に跳びながら、人が来た。
 金髪のその人は、バジルの前に来るとすばやく膝を折り頭を下げる。十三、四歳ほどのまだ成長途上の男子だった。上着はバジルの着ているそれと全く同じ。
 彼はそっと頭を上げた。頭には怪我をしているのか、包帯を巻いている。その上を覆うような長い髪の毛の下、金色ながら不思議な雰囲気を持った瞳があった。それは人間というよりは、獣に近い瞳をしている。
「……遅かったな」
 低く呟くようにバジルは金髪の彼に向かって言った。
 途端に彼はハッとして、弾かれるように頭を再び下げた。
「申し訳ありません! 予想していた以上に難航しました」
「難航、か。まあそれは置いておく、どうなっていた」
「はい」
 彼は腰に巻いていた灰色のウェストバッグから、白い布に巻かれた少し掌より大きめのものを取り出した。
 撫でるように布を彼は広げる。すると、ナイフが一本姿を現した。下の光で刃が真っ直ぐに光っている。
 バジルは眉間に皺を寄せる。ほんの数秒だけ金髪の男子はバジルの様子を伺ったあと、一回だけ頷きながら口を開いた。
「形状から見て、シーザー・アボットの持っていたものと見て間違いないかと」
「どこにあった?」
「この下です。警察が来る前に探したところ、一つだけ残されていました。……若干ながら傷もあります。しかも、火花に当たったような焼けた跡も」
 彼は立ち上がり、布に乗せたままバジルにナイフを差し出す。バジルはそれを受け取り、目を細めて観察する。
 彼が言っている通り、暗いために詳しくは分からないが傷がある。右手でなぞるように触ると皮膚がそれを感じ取る。
「周辺を捜しましたが、シーザーは見つかりませんでした。……ラーナー・クレアライトも」
「そうか……」
 バジルはナイフを再び布に包んでから、それを持ったまま再び地上を見下ろす。
 慌ただしそうに、けれど規律のある動きで警察が捜査を続けている。だがそれが意味のないことだということを、この二人は知っていた。
 その場に残っていたものは彼等が全て処分した。処分したといっても見つかったのはナイフだけだが。他には何も残ってはいなかったのだ。
 誰かが故意に片づけたとしか、思えない。
 しかし、ウォルタにいる情報屋を訪れても、ほとんど何も情報を得ることは出来なかった。分かったのは、突如巨大な火柱がこの場所に上がったということだけ。
 それもかなり不可解だった。彼等が今立っている建造物は木造。その周りにあるものもまた同じ。火にあてられたという割には焼けた跡も燃えた跡も残っていない。
 そんな芸当が出来るものだろうか。常識で考えてもおかしい。しかしナイフには焼けた跡がある。
 靄のかかった真実。不審な現実。
 けれど、彼等の脳裏にはこの現実を可能にすることができる人物が浮かび上がっていた。

「……笹波白、の可能性がある」

 バジルの言葉を聞いた途端に金髪の彼が息を詰まらせた。
 その様子を見たバジルは彼の方を向いて、少し眉をひそめた。慌てて金髪の彼は頭を垂れる。
 浅い溜息をついてからどこか遠くを見つめるようにバジルは空を見上げた。薄い雲が少し出ている。風もどこか強めだ。無数の星が埋め尽くしている。いつもならもっと暗いがためにはっきり見えるのだが、今日は少し地上が明るいせいで少しばかり薄らいだ光のように思える。この時間の星など誰もが見れるものじゃあない。
 けれど彼等にとって夜は昼間と同然。動き回れるのは、むしろ夜の方だ。

「もしも、笹波白がこれに関連しているなら……全ての辻褄が合う」
「そう、ですね……」
「確かめる必要があるな」
 バジルのその言葉を聞いた途端に金髪の彼はそっと頭を上げる。
 横風に髪が揺れる。ずっと切っていないがために伸びた上に増えた髪は、彼の顔を覆いかぶさってしまいそうな勢いだった。
 警察の怒鳴るような声が辺りをちらつく。深夜なのに張りのある声だ。いつの間にか野次馬は減っている。

 金髪の彼の脳裏に、いつだったかの小さな背中が映る。
 当時にとってはとても大きな背中だと思えたのに、今ではとても小さな背中となってしまった。
 今、その背中はどれほど大きくなったのかが彼には分からない。知ることが出来なかった。もしかしたら、そのまま消えてしまっているかもしれない。
 本当のことが知りたかった。真実をこの眼に焼き付けたかった。
 彼は固く結んでいた唇をそっと開いた。

「僕が、行きます」
 その言葉を聞いた途端、驚いたように眼を見開いてバジルは彼に振り返る。
 そこに居たのは、強い決意の光を灯した瞳を持つ少年が一人。さっきまでとは雰囲気がまるで違う。
「僕が確かめてきます。この目で」
「……何もお前が行かなくても、もっと下っ端に行かせればいい」
「僕は地位的には最下位同然です。出来損ないですから。それに、万が一あの人だった場合、ただの人間が太刀打ちできるでしょうか」
「……」
「行かせてください」
 沈黙が二人の間に流れる。数秒ほどの間だったが、金髪の彼にとってはひどく長い時間のように思えた。
 風が吹き付けては通り過ぎていく。張りつめた冷たい空気が彼等の周りを覆う。
 睨みあうようにぶつかる目線を先に逸らしたのは、バジルの方だった。

「好きにしろ」
「!」
 金髪の彼は思わず目を見開く。
 バジルははぁと深い溜息をつきながら、左手を上着のポケットの中に入れる。

「随時報告を怠るな」
「はい!」
 明らかにトーンの高い声にバジルは顔をしかめる。それに気づいたのか金髪の彼は急に顔を引き締める。そして同時に強く握られた両手の拳。肩にも力が入っている。
 バジルは右手に持っていたナイフの包まれた布を金髪の彼に差し出す。それを金髪の彼はゆっくりと受け取った。
 再び二人の視線がぶつかる。バジルは複雑な心境で金髪の彼を見つめていた。
「……忘れるなよ。笹波白がした行いを」
「……分かってます」
 バジルはゆっくりと動き始め、金髪の彼に背を向ける。少し大きめの背中は、彼の身長もあるが、彼の持つ威厳に近い何かも助けてそう見える。
 顔だけを動かし、横眼で金髪の彼を見やる。

「――俺はもう行かないと。この件については、任せた。……“疾風”」
 金髪の彼の返事を聞く前に、バジルは腰からモンスターボールを一つ取り出し、それを軽く投げる。するとボールが開いて白い光が飛び出し、光はものの形を形成する。
 大きくたくましい翼とクリーム色をベースとした羽毛を持つ、ピジョットだった。
 それにバジルは素早く乗ってまたがり、もう一度確認するように金髪の彼を見る。金髪の彼は唇を噛むように結んでいたが、それをほぐすようにそっと開く。
「はい」
 その言葉を聞き届けた後、バジルはほんの少しだけ頬を緩め、が、すぐに引き締め直し、ピジョットと呟く。
 ピジョットは一度軽く頷いた後に畳んでいた翼を広げる。広げた翼は迫力を更に引き出す。翼を開いた瞬間の風に、金髪の彼は一瞬吹き飛ばされそうな感覚に襲われた。
 翼がゆっくりと羽ばたきはじめる。ピジョットの力強い足が屋上を離れたかと思うと、大きく羽ばたいて、空へとのぼる。
 無数の星の煌めく夜空へと、その姿はあっという間に溶けていった。


 それが本当に見えなくなってしまうその時まで、見送るように金髪の彼は空を見つめていた。
 独りになった屋上。
 空を仰ぐその瞳は、今までバジルの前では決して見せなかった、弱弱しく悲しげな光を灯していた。

「白、さん……」
 呟いた小さな言葉は、空に消えた。

Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.13 )
日時: 2010/11/03 12:43
名前: ID:

Page 13 : 旅立ち

 太陽が東の空から姿を現わしてから一時間ほどのまだ早朝の時間。詳しくは六時を少し回ったところ。
 鳥のさえずりも少しばかり聞こえてくる。可愛らしい鳴き声は心を震わせる。
 まだ人はさほど外には出ていない。が、休日を終えて平日となった今日は、もう少ししたら大人も子供も混じって道を歩くだろう。
 朝とはいえ日光に当たり続けていると自然と汗がにじんでくる。たまに吹いてくる風が涼しい空気を運んで来てくれるのが救いだ。
 ラーナーの住んでいるアパートから徒歩約一分というとても近い場所。
 住宅が寄り添うように立ち並んでいる団地の中の一つの家。レンガの暖かな壁の、大きいとはいえないがそこそこの大きさのある一軒家。
 そこには、二人の夫婦が住んでいた。
 姓を、エイリー夫妻といった。
 どちらも五十を過ぎた位の歳。とても仲が良いが、子供を授かってはいない。妻の方の体の関係だった。
 そして、ラーナーの住むアパートの管理人でもあった。
 そんな家の中に、今彼女はいた。

「こんな早朝に来るから、何事かと思ったけど……そう。あそこを出るの」
 エイリー婦人は白く花の絵が描かれたティーカップに紅茶を入れて、木の四角いテーブルに置いて彼女に差し出す。
 会釈をしながらありがとうございます、とお決まりの言葉を彼女は口から滑らせた。
 ミルクは今ないの、ごめんね、お砂糖はここにあるから、と言ってエイリー婦人はテーブルの真ん中にあった白い皿を寄せる。砂糖の入った透明のガラスの入れ物が上に乗っている。
 その後エイリー婦人は一度彼女の傍を離れ、彼女の正面にあたる椅子に腰かける。そして優しい茶色の瞳で彼女をそっと見た。
「はい。セルドが、……とても、遠くに行ってしまったみたいなんで。連れ戻しに行かないと」
 彼女、ラーナーは薄く笑いながら言った。苦しそうな笑顔だった。
 無理をして笑っているということに、エイリー婦人は気付いていた。ただ、敢えて何も言わなかった。言えなかった。
「もう出なくちゃいけないの」
「少しでも早く行かなくちゃいけないんです」
「そうなの……淋しいわね。あなたは私たちにとって本当の子供のような存在だったの。勿論、セルドもよ」
 エイリー婦人は自分のティーカップに右手を伸ばし、そっと口に運ぶ。
 婦人は茶色で肩まであるふわっとした髪をしていた。彼女の温厚な性格をそのまま表現しているように優しい女性らしい髪型である。
 窓から入る朝の光に包まれた部屋は先程からつけた冷房のおかげで、少しひんやりとしていて夏には丁度いい温度になっていた。
 紅茶を少し飲んでから、エイリー婦人は溜息をつく。温かな息と共に紅茶の良い香りが口の中から零れる。

「懐かしいわね……こうやって話すの、いつぶり?」
「さあ……言うほどじゃないですよ。お正月以来じゃないですか?」
「約半年じゃない。まあ、年寄りになるとあっという間になっちゃうんだけど。なんだか、あなたたちが小さい時の姿だってほんの昨日のことみたいに思い出せちゃうわ。覚えてる? 大雨の日の時、ほら、セルドとラーナーがレト川の近くで」
 婦人は喉を鳴らすようにククッと笑う。同時にラーナーの頬が少し赤くなる。
 レト川というのは、ウォルタに流れる川のうちの一つ。比較的浅いために夏になると毎日子供たちで賑わっているスポットだ。
「セルドが大雨なのにこっそり外に出てって、ラーナーが最初に気付いたよね。慌てて探しに行ったんだっけ。あたしたちも探して、ようやく見つけたときにはもうラーナーが見つけてたわねー。二人とも頭から足まで泥だらけだったからびっくりしたけど」
 はぁとラーナーは溜息をつく。
「川の近くに出来た大きな水溜りで二人して転んだんですよ。すごい雨だったから大変でした。ほんと、セルドが出なかったら……」
 自分の口から自然と弟の名前が出てきたのに自分で驚いた。そして同時に後悔する。名前を呼べば、また頭の中に思い出が駆け巡る。思わずラーナーの顔がかげってしまう。
 それを見たエイリー婦人は眉をひそめて、何か言おうとしたが、唇を紡ぐ。妙な緊迫感に襲われる
「……ニノやリュードがいたらそうはならなかったかもね」
 呟くようにエイリー婦人は言った。ラーナーは更に少し顔を俯かせる。けれど無理に頭を上げるとひきつったような笑みを浮かべて言う。
「エイリーさんには……本当に、お世話になりました。小さい頃から、色々と気にかけてくださって」
「いいのよそんな。あなたたち二人とも良い子だったから、何にも困らなかったわ」
 優しく微笑むエイリー婦人の顔を見て、ラーナーはようやく本来彼女がいつも見せる笑顔を顔に浮かべた。
 リラックスしたのだろう。婦人もその様子を見て、思わず安堵してしまう。
「部屋のことならいいわ。面倒なことはやっておいてあげる」
「すいません。最後の最後まで、迷惑ばっかりかけてしまって……」
「最後なんて言わないの。縁起でもないだから。――本当に行くのね」
 念を押すようにエイリー婦人は言う。まだ事が整理できていないのか混乱していることが伺える。
 ラーナーの答えは一つだった。もう心は決まっていた。栗色の瞳が強く光る。決意の光だった。

「はい」

 そんな瞳で言われたら、誰ももう止めることなどできない。
 エイリー婦人はふぅと浅い溜息をついた。いつの間にこの子はこんなに強い瞳をするようになったのだろう。
 行動力の良さも瞳の強さも父母にそっくりだった。彼女の親を知るエイリー婦人は、ラーナーを見ていると自然ともうここに居ない存在を思い出す。

「……ちょっと待ってて」
 そう言うと婦人は席を離れて、ブラウン管の大きなテレビの隣へと歩み寄る。そこには背丈の低い本棚があった。
 本棚の上には白い布が敷かれ、更にその上に様々な小物が置いてある。その中で壁にもたれさせている二つのものに手を伸ばす。
 二つの、モンスターボールだった。
 小さくなっている状態なので、二つとはいえど楽々右手の中におさまる。
 それらを少しの間だけ婦人は見つめて、振り返る。そして今度はラーナーの傍へと歩み寄る。
 ラーナーは不思議そうに婦人を見つめていた。婦人は優しい瞳でまっすぐにラーナーを見て、膝に乗せていた彼女の左手をそっと手に取る。
 温かな手にラーナーは心が休まる。婦人はそっと開かせたその中に、モンスターボールを二つとも置く。
 そして、婦人は両手で包みこむようにラーナーの左手を優しく握る。

「これは、あなたのお母さんとお父さんのものよ」
「!」
 ラーナーは驚いて目を見開き、思わず自分の手にあるボールを凝視してしまう。
「ずっと預かっていたの。いつか、あなたとセルドに渡そうと思って。――中には、ニノとリュードのポケモンが一匹ずつ入ってるわ。大切にしてあげて」
 ゆっくりとエイリー婦人はその手を離す。ラーナーの手の中に二つの命が残される。
 ボールはどちらも綺麗に磨かれていた。けれどそれでも消えない、無数の傷があることは触ればよく分かった。
 外からじゃあ何の生き物が入っているのかはまるで分からない。けれどラーナーはそれを婦人に聞こうとはしなかった。
「……ありがとう、ございます」
 絞り込むような声がラーナーの喉からこぼれてくる。
 やりきれない思いになったエイリー婦人は、そっと腕を伸ばし、ラーナーの体を抱き包んだ。
 突然のことに少し驚くラーナーだったが、嫌がってはいなかった。素直に受け入れ、ラーナーも婦人の体をそっと抱く。

 二人の温もりがお互いを包み込む。
 それは命のあたたかさだった。
 ラーナーは涙を必死に堪える。
 泣かない、ということも彼女がまた決意したこと。
 泣いてしまうと、思いと共に全てが吐き出されて、自分が見えなくなりそうだったから。弱い自分が浮き彫りになってしまいそうだから。

「また、帰ってきてね」
 そう言う婦人の声は、少しだけ震えているようにラーナーは思えた。ただ、何も言わなかった。
 少し間が空いてから、ラーナーは一回だけ頷いた。声を出したら泣いてしまいそうだったから。
 絶対に戻ってきたいと思うけれど。
 戻れない方が大きいということは、ラーナー自身がよく分かっていた。
 左手にある二つのモンスターボールを、彼女は強く握った。その手は小刻みに震えていた。
 ずっと、このままでいたいというどうしようもない願い。このまま時間が止まっていたらいいのにというどうしようもない願い。
 それでもほんの少しの間だけ。この大切な温もりを、体が、心が覚えていてくれますように。信じていない神様。それくらいはいいでしょう? ああ、零れてきそうな涙を止めてくれたら、もっと嬉しいです。
 心の中で呟く彼女の思いは誰に届くこともなく光る。

 長かったラーナーの綺麗な髪の毛。
 彼女が自分で切ったったがために散切りのボブスタイルになった栗色の髪は、彼女の決意の証だった。


 *


 誰もいない朝の墓場。夜なら恐怖も生まれてくるかもしれないが、日の光がある今は何も感じない。
 まだ冷えた空気が凛として肌に刺さる。これも時間が経つにつれて温く湿ったものとなっていくのだろう。
 目的の墓の前にクロは来ると、右手に持っていた赤い名前の分からない夏の花を差し出す。
 彼の前に墓は二つ。どちらの前にもたくさんのシロツメクサが置かれている。あまりの真っ白さに眩しささえ感じる。
 しゃがみ込んでその隣にその赤い花を置く。白の隣に置くと、やけに際立っている。これなら白い花を摘めば良かったと心の中で落ち込む。
 目立つのは嫌だった。
 立ち上がるとしばらく二つの墓を見つめた。
 クロは片方の墓に眠る者には一度も会ったことがない。ただ顔だけは写真で見たことがある。薄らとしか覚えていないが、優しげな顔つきをしていた。
 帽子の上につけている黒いゴーグルが太陽を反射し光っている。
 大きく口を開けて、欠伸をする。開けすぎて、口の両端に痺れるような痛みが走る。
「……ねむ……」
 深緑の瞳のすぐ下、薄いながらもクマができていた。
 結局折角宿をとったにも関わらず、そこで寝てはいない。朝になってから訪れて、キャンセル代だけ払ってまた出ていった。
 本当に眠い。瞼を閉じれば一瞬で夢の世界へ吹っ飛んでいける自信がある。瞬きがやけに重い。
 何しろ一晩中彼はずっとラーナーの住むアパートの屋上で、ポニータと交代しながら見張りを続けていたのだ。
 交代は一時間ほど。片方が見張っている間に、もう片方はひたすら寝る。一時間をただ重ねていった睡眠は、当然だが深くない。
 よって今も睡眠不足だ。

 もう一度欠伸をしようとする、その時。
 クロは欠伸をするのを忘れ、耳に入ってきた音に敏感に反応し後ろを振り返る。
 敵かもしれない、と思ったのだろうか。そして現れた者の存在に、思わず目を見開いた。

「……お、はよ」
 呟くような声で彼女、ラーナーは彼に向かって朝の挨拶をする。突然クロが振り返ったおかげで驚いたらしい。
 白い半そでの薄めのシャツ。更にその上に薄い灰色で下に長めののタンクトップ。胸元に大きなボタンが一つ、飾りでついている。
 濃く青いデニムのショートパンツを穿いており、黒いハイソックスと灰色のスニーカーを履いている。
 そして肩にかけれる青くて小さなボストンバッグ。 どう見てもちょっとそこらにお出かけ、というような荷物の量ではないことが鞄の膨れようから分かる。
 クロは呆然としていた。時間が止まったかのように口を少し開いたまま、動かなかった。
 空は白い雲が薄く張ったように伸びている。
 ラーナーはクロの視線が自分の頭に注がれているのに気づき、少し笑いながら自分の髪を少し掴む。
「切ってみた。……自分で切ったから変だけど」
 彼女の言っている通り、とても美容院のようなきちんとしたところで切ったような感じはしない。散切りで、量のすき方もなんだかアンバランスだ。
 風を受けて揺れる様子も、今はやはりどこか寂しく感じられる。髪を切っただけでこんなにも人の印象は変わるのかとクロは衝撃を隠せなかった。
 ラーナーは改めてクロを見ると、何かに気付いたように目を丸くする。
「あ、でもあなたも切ったんだね。ちょっとだけ毛先が」
「ああ……まあ。ちょっと焦げたし」
 その瞬間、ラーナーは少し吹き出してしまう。右手で口を抑え、体を震わせて笑った。
 クロは急に笑い出したのに驚いて、顔を赤くしながらもどうして笑っているのか分からず、動揺する。
「え、えっと……」
「ああごめんっなんか笑っちゃって……焦げたって……ははっ」
 ラーナーは口を押さえていた手を離し、そのまま右耳に髪をかけた。
 つぼにはまったのだろうがそろそろ彼女の笑いもおさまってきた。クロは複雑な表情をして、溜息をつく。
 今だに顔は柔らかく笑っているままで、ラーナーはポニータに近寄る。凛とした黒い瞳でポニータはラーナーを見つめる。ラーナーはその白い体毛の頭をそっと撫でてやった。
 気持ちよさそうに眼を細めるポニータ。炎がオレンジ色にゆらゆら揺れている。いつの間にかポニータはラーナーに心を許していたようだ。
 思っていたより動揺していないようで、クロは内心安堵する。まあ、それは表面上だけのことだろうけど。
 本当の心は、きっと暗くて深くて、もっと涙に溢れているはずで。

「あたし、もう今日ウォルタ出ようと思うんだ」
 ポニータを撫でながらラーナーは声を出した。張りのある声だった。
 少し下げていた顎を上げるクロ。ラーナーは一度腕を下ろし、真っ直ぐにクロの方に体を向ける。
「アパートのことは、知り合いに任せちゃった」
「……やつらのことは?」
 クロの眼の色がその瞬間に変わった。
「言ってないよ。危険な目に会ってほしくないし。……すごく、大切な人達だから」
 遠くの方を見るような目でラーナーは少し上を向く。空の方から涼しい朝の風が通り抜け、短くなった彼女の髪をなびかせる。
「セルドを探しに行くって言ってきたんだ。もう、いないって分かってるのにね」
 悲しそうな眼をするラーナー。思わずクロは絶句して、唇を噛みしめ顔を俯かせる。
 それを見てラーナーは困ったように笑うと、ニノの墓に歩み寄る。硬い石の物体を大切そうに撫でる。とても愛おしげに。

「で、さあ……ものは相談なんだけど……」
 急にもじり始めるラーナーに、クロは眉をひそめる。
 ラーナーは少し唇を噛んでいたが、決意したように急にクロの方を向く。クロは思わず身体を震わせる。
「一緒についてっちゃダメかな?」
 かなりの早口でラーナーは言い切る。普通の早口言葉並みのスピードで言われ、クロは一瞬耳を疑ってしまった。
 しかし聞き取れなかったわけではない。少し彼は頭の中で整理をする。数秒の間が空く。妙に気まずいような空気が彼等を包む。

「……はあ?」
 思わずクロから出てきたのは、そんな間抜けな声でしかなかった。
 ラーナーはそれを聞いて浅い溜息をつくと、睨むような強気な姿勢でもう一度クロと対峙する。
「一緒に行かせてって言ってるのっ」
「……お前、それが人にものを頼む態度か」
「行かせてくださいお願いします」
 ラーナーは少し苛ついているような声で言うと、即座にクロに頭を垂れる。
 まさかそんな態度に出るとは思っていなかったクロは、目を丸くしてあからさまに動揺する。
 ゆっくりと頭を上げるラーナー。ほっとしたようにクロは肩を撫でおろす。
 そして、ようやく心が静まっていき、二人の視線が絡み合う。重なるように生きる木々が音をたてて揺れ始めた。

「正直、一人じゃ、ちょっと……怖すぎて。ごめん、ほんと……自己中だってわかってるんだけど……」
 力無く彼女は笑った。話している途中から彼女の目がおびえているのも、体が震えているのもクロにはわかった。
 ラーナーから飛び出した本音は、昨日の夜の出来事を思えば当然の事だった。
 ポニータは軽く喉を鳴らすような声を出す。クロは目を細めた。

「どうしたらいいんだろう」

 ラーナーはぼそりと呟いた。本当に小さな声だった。そして同時に、今にも泣いてしまいそうな声だった。
 耳の良いクロは一字一句聞き逃すことは無かったけれど。
 薄い雲が太陽の下を通過する。同時に少しだけ日光が遮られる。気持ちほど涼しくなったような気分にさせられる。
 夏独特の、蝉の声が聞こえ始めた。この声は、アブラゼミの鳴き声だ。
 彼女の気持ちは彼はよく分かっているつもりだった。けれど、彼女の悲しみの大きさを彼は計ることができない。
 むやみな言葉は時に人を傷つけてしまうから、彼は分からなかった。
 今までにも何回かこんな気分にさせられることはあった。何を言えば彼女は笑ってくれるのだろうか。何を言えば彼女は傷ついてしまうのだろう。
 答えは見えない。

「……いいよ」
 考えている間に勝手に口から滑って出てきたクロの言葉。
 その瞬間にラーナーははっと顔をあげた。ポニータも今までラーナーに向けていた視線をクロに移す。
 風がやんで、木の葉の踊る音は聞こえなくなった。相変わらずアブラゼミは鳴き続けている。
 声を発した本人は、自分で驚いたような顔をしていたが、時間は戻らない。それに、それが本音だとも分かってる。
「いいって……」
「一緒に来ても」
「そ、そんなにあっさり決めちゃっていいもんなの?」
「別に……ポニータは見るからにいいって言ってるし」
 ポニータは軽く頷いた。
 ラーナーは未だに信じられない顔のままで口を開けている。
「ほんとにいいの?」
「……付いていきたかったんじゃないのか」
「そうだけど。本当についてくよ」
「好きにすれば」
 素っ気ない言葉ばかり彼からは出てくるけれど、ラーナーは気にしなかった。
 徐々に彼女の顔に笑みが広がっていく。空気が明るくなっていく。
「……ありがとうっ」
 彼女の心からの笑顔だった。とても輝いている顔がそこにあった。
 クロは息を詰める。頬の温度が凄まじい勢いで上がっていくのが分かった。
 それに気付かれてほしくなくて、クロは急いで隠れるように背を彼女に向けた。
「そうとなったら、さっさと行くぞっ」
「え、あ、ちょっと待ってよ」
 ラーナーは彼を呼び止める。しかしクロは逃げるように歩くのを止めない。ポニータは付いていっていないが。
 クロがどんどん遠くなるのに焦るラーナーは、それでも落ち着いて二つの墓を見やる。
 心なしか急いで手を合わせる。両目を閉じて心の中で必死に言葉を並べる。一方的な彼女から肉親へのメッセージ。
 彼女の耳から彼の足音が消えていくのがわかる。
 雲は太陽の下を通り過ぎた。影がこゆくなる。夏の暑さは時間が経つにつれどんどん本性を見せるだろう。
 青空が透き通るように眩しくなってきた。

 ラーナーはそっと目を開いた。
 ほぼ同時期くらいにクロの足音が止まる。少し遠いがまだラーナーの目の届くところにいた。
 ポニータはラーナーの背中を鼻で軽く押す。ラーナーが動くのを促しているのだ。
 軽く笑みを浮かべながらもう一度彼女は墓を見て、口を動かした。それは、先程彼女が亡き両親へ向けて送った一番大切な言葉。

「行ってきます」


 もう一度、戻ってきたいから。

Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.14 )
日時: 2010/11/03 13:34
名前: ID:

Page 14 : 行先

 約二時間前、ウォルタを二人は出た。
 朝日は高くまで上がっていた。照りつける日差しが痛いようにも感じる。
 道は市街を出て最初の方こそ整備されていたが、今はもう自然の乾いた地面の道。歩くと砂を蹴る音がする。
 この道に入ってから、ラーナーは何度水の町を振り返ったのだろうか。もう数えるのも億劫になるほどだ。その度に悲しげな瞳をするのを、クロは見ていられずにいつも目を逸らしていた。
 だいぶんウォルタからは離れた。街の中心にそびえる高い時計台だけが、今は見える。
 きっと今頃街の中は人と車で溢れているだろう。町を流れるほとんどの川は子供たちで溢れているはずだ。笑い声を携えて。
 クロとラーナーが現在歩いている辺りには、真っ直ぐに伸びる道の外側には草原が広がっていて、木々がぽつぽつと点在している。
 それぞれが生温い風を受けて、海の引いては寄せる波の動きのようにうねっている。
 またラーナーは振り返った。その瞬間に、クロは大きな溜息を思わずついてしまった。

「なによ、そんな溜息ついて」
 歩くのを止めて少し怒ったような声でラーナーは言い、クロを睨む。
「あんたさ、……いい加減そうするのもやめたらどうなんだよ」
 クロは帽子を右手で少し深くかぶりなおしながら、うざったそうに言う。
 その途端にクロの後ろにいたポニータが彼の背中を鼻で押し、うわっ、と声を出してクロは前につんのめる。
 ポニータは怒っているのか鼻息を荒くして、じっとクロの方を見ている。
 クロは顔をしかめて、ポニータと睨み合う。
「お前、あいつの肩持つのかよ……」
「故郷を離れるんだよ。これくらい分かってよ」
「故郷ねえ……」
 また溜息をついて、クロは両手を頭の後ろで組んで空を見上げつつ歩き始めた。
 もう、とラーナーは頬を膨らまして、小走りでクロの元に駆け寄る。
「なんかこう、クロはデリカシーないよね」
「別にどうでもいいだろ」
 唾を吐き捨てるように彼は言う。
 ラーナーはこれからの旅が激しく心配になってくるのを感じた。思っていたよりうまくいきそうにない。
 ポニータがいるとはいえ、ポニータは人間の言葉を喋れない。話し相手がクロしかいないのは分かっていた。
 不安が襲いかかる。けれど一人で旅をするのはそれと比べようがないくらい怖い。
 今は少しでもコミュニケーションをとって、仲良くなることが必要だとラーナーは結論した。

「あと、あんたっていうのもやめようよ。ラーナーでいいって。あ、ラナでもいいよ。友達にはよくそう呼ばれるの」
「よく喋るな……」
「なに?」
「いや、何も」

 それから数分間、しばらく二人は何も喋らなかった。ラーナーは最早何を話せばいいのか分からなくなってしまった。それはクロも同じ。空気を自分が重くしたという自覚は彼の中にあった。
 太陽が熱い。気温がみるみる上昇していくのが体中で感じる。こうも暑いといつか倒れてしまいそうだ。まだ暑くなるなんて信じられない。
 照りつける光、風の無い道。ラーナーは後ろ髪を両手で束ねて、少しでも首に空気に触れさせる。
 暑いのに加えて二時間以上の歩行は、ラーナーの足取りをだんだんと重くしていく。確実に遅くなっているのが自分でも分かった。
 先ほどまで隣同士にいた二人だったが、ラーナーが徐々に後退していく。
 ポニータはクロの頭を軽く突く。クロは相変わらず苛立ったような顔で振り向く。
 視線をポニータに移す経過で、クロはようやくラーナーの顔色と足取りの悪さに気づく。彼は少しだけ目を見開いた。
 頭を突いたのはクロにラーナーの疲れを気付かせるため。彼女の隣にいたクロより先に後ろにいたポニータは気付いていた。
 唇を固く結ぶクロ。両手を腰に当ててさり気無く周りを見渡す。
 あからさまに頭を動かさずに眼で周りの景色を追い、少し大きめの木が彼らのいる十数メートル先の左側にあるのを見つけた。
「あそこで休もう」
 ラーナーは若干俯いていた顔をぱっと上げる。
 クロが右手で指さす方向を見て、少し安心したように笑みを浮かべて頷いた。
 自然と彼女の足取りは軽くなり、彼の隣に戻った。ほっとしたのはクロも同じだ。
 後ろから風が押し始めてくれる。ぬるい風だがどこか心地よく感じさせられる。目標が目に見えるというだけで心が躍る。左にいたラーナーはいち早く乾燥した地面の道から草原へと足を踏み入れた。
 今までかたい地面ばかり歩いていたおかげで、草の絨毯は異様に柔らかく感じられた。
 花がちらほらと咲いている草原。夏の日差しは更に生き生きとした眩しい青さを演出させている。
 道からそんなに離れていない場所にその木はあった。ラーナーはその木陰に入る。瞬間に体中が急に涼しさに襲われる。特別涼しいというわけでもないが、これまで直射日光に当たっていたことを考えると、十分な涼しさだった。
 遅れてクロも木の下に入る。やはりクロも疲れが無かったわけではない。涼しさのあまり溜息をついた。
 その後ポニータも中に入った。

「涼しー」
 ラーナーは鞄を下ろして伸びをしつつ言った。体を絞って出したような声だった。
 クロも鞄を置き、木の幹に背中を当てて座った。この木だけ周りに比べると少し大きい。おかげで木陰も広い。
 涼しくなると頭も冷えてくる。クロは帽子をゴーグルがついたままで取った。途端に何ともいえない心地よさが頭を撫でる。
 帽子を取ったクロを見るのが初めてのラーナーは目を見開いた。そして自分も座り、まじまじと彼の髪の毛を見る。
「すごい、本当に深緑なんだね」
「そんなじろじろ見なくても」
 少し不快気にクロは言って目を下に向ける。ごめんごめんとラーナーは笑った。
「でもこんな髪の毛の人、初めて見た。染めてるって感じじゃないよね。なんか、外国の人みたい」
 ラーナーは言いながら微笑んで、服の襟元を手で掴んであおぐ。服の中に涼しい空気が入っていく。
 クロは少し顔を硬直させる。ポニータはクロの隣に四足をゆっくりと畳んで座り込んだ。
 それにしても休憩を始めただけでこのテンションが戻ってくるとは。クロはそう思うばかりだった。
 風が木を揺らす。木の葉と木の葉の間から生まれる日の光が踊っている。クロとラーナーの髪も風に揺れる。
 ラーナーの足の痛みが急速に冷えるように引いていく。
 二人とも額から汗が流れ落ちている。それを手や腕で拭う。
 大分落ち着いてきたのは事実。ラーナーの顔色が戻ってきたのは、木陰で暗くなっていても分かる。クロは安堵した。

「ね、これからどこにいくの」
 ラーナーはずっと気になってはいたがなかなか口に出せなかった質問をした。
 ああと思い出したかのような声を出すクロ。そして自分の脇に置いていた鞄のファスナーを開けて中を探る。
 すぐに折りたたまれた紙が出てくる。それを広げて草原に置いた。それは、他でもなくこの国――アーレイスの地図だった。
 右側と下側、つまり東側と南側は海に面し、北と西はまた別の国と面している。
「今がここ」
 クロはウォルタの南に少し外れたところを指さす。ウォルタは東の海に沿った町。
 もう少し南に位置していたら、南の海にも面する位置にある。ようするに角のところに近い。
「ここからこう行って、――バハロに向かう」
 指が左――西へゆっくりと動く。それはこれから歩いて行く軌跡。再び止まる。そこには一つの町がある。
 小さな町だった。というのも、書かれている文字の大きさでわかる。ウォルタは比較的都会であるために大きめの文字だが、バハロはとても小さい。
 ふぅん、とラーナーは喉の奥で声をだす。
「バハロならここからまあ割と近いし……小さいから奴らの手も薄い」
「……うんっ」

 クロはラーナーの言葉の弾みの良さに、自分ではよく気付かずに安心していた。


 *


「緊急任務、ですか!?」
 彼は驚きを隠せず、思わず大きな声を張り上げてしまう。その後すぐに、自分の口をそっと塞ぎ辺りを見る。

『すみません。一番近くにいる信頼できる人があなただけなんです』
「でもさっき僕……」
『バジルさんから話は聞いてます。でも、あそこには派遣人数も少ないですし、手薄なんです』
 話しているのは金髪の少年だった。ポケギアと世間で呼ばれる機械ごしに電話をしている。
 ポケギアと言っても名ばかりで、見た目は変わっていなくとも中身はかなり改造されてはいるようだが。
 相手も男。しかも声質からして、彼と同じくらいか。幼さの残る、けれど何か芯を持ったような声。
 彼はウォルタ市内の人のいない暗い場所で壁に背を寄せていた。壁の高い建物ばかりで、日があまり入ってこない。
 おかげで暑さはあまり感じない。けれど彼の中で何かたぎるものがあり、それでだんだんと暑くなる。
 少年は周りを見渡し改めて人がいないことを確認すると、深い溜息をついた。
『そんなあからさまに溜息つかないでください』
「すいません……」
『ココ・ロンドを見かけた、という情報が入りました』
 その瞬間、金髪の少年の表情が引き締まる。
 冷汗が額に滲むのを感じた。頭に巻いている包帯が熱を帯びている気がした。
『偽情報かもしれないですが。本当なら普通の人間がどうこうできるはずがありません。……行ってくれますか』
 金髪の彼は唇を噛む。本当の心の底は、あまり気が進まなかった。折角バジルから任をもらったというのに。
 ふぅと息をはく少年。ポケギアを持っていない左手を腰に当ててしばらく無言で考えた。
 けれども分かっている。自分の立場は低いがために、断りきることなどできないということは。
 固く結んでいた唇をそっと開く。

「――どこですか」

 電話越しに、緊張の糸が張られる。金髪の少年の声は低く、真剣なものだった。
 獣に似た瞳が光る。彼の気持ちが緊張に走るほど、少年の目はより獣に近くなり恐怖を感じさせられる。
 しばらく電話の向こうの男の声はしなかった。代わりに紙をめくるような音がした。恐らく資料を見ているのだろう。
 何秒かしてから紙をめくる音が消える。


『バハロです』

Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.15 )
日時: 2010/11/09 22:01
名前: ID:

Page 15 : 追憶

「ったく、お前、女が乗ってんなら寝ても何もしないのか」
 クロは大きな溜息をついてからポニータに向かって言った。
 あれからずっと歩き続けて、時に休憩を挿みながらいつの間にか太陽は西へ傾き、大分薄暗くなっていた。オレンジ色の光が赤々と周りを照らし、森に目を移せばまるで燃えているかのようにも見える。
 西側には山が連なっている。この国、アーレイスの北西には、山脈があり夏になると登山客で賑わう。
 彼の右にいるポニータの背中に乗っているラーナーは、つい数分前から夢の中へと旅立っていた。微かに聞こえる寝息は、女の子らしいというか小さく可愛らしいものである。
 以前に説明したように、ポニータは背中にクロを乗せている時にクロが眠った瞬間、川に落としたという経歴がある。
 自分は起きてずっと歩き続けているというのに、背中に乗っている人間は楽して眠っているというのが気に入らないらしい。しかし今はラーナーが眠っているのにまるで落とそうなどという気配はまるでない。どうやら女が乗っているなら話は別らしい。ポニータはふふんと鼻を鳴らした。
 けれど返ってこの方が歩きやすいと言えばそうだった。ラーナーは歩いてすぐにばてる。歩き慣れていないのもあるだろうが、クロはそれに対して少し戸惑いと苛立ちを感じていた。
 これでスムーズに進める、それは確実だった。まあ今日一日が終わってしまいそうだけれど。

「なあ、ポニータ」
 クロは呟くように火の馬の名を呼んだ。ポニータは隣で歩くクロの方を見る。
 再び溜息をクロはついた。そして目を閉じて気持ちよさそうに眠っているラーナーの顔を見つめた。
「これが……普通、の人間だよな」
 彼は目を細めて言う。ポニータは彼をじっと見つめ、少しうつ向き気味になる。
 “普通”という言葉が無意識に強調気味に発音されていた。
「いや、なんでもない」
 首を軽く振りながら少し砕けた笑いをした。
 ポニータは心配そうに目を細めた。クロはそれに気付いて、長い首を丁寧にゆっくりと撫でてやる。
 気温は低下中だが風は相変わらず温いまま。揺れるポニータの炎は、柔らかく赤々と燃えていた。
「……なんか、変な感じがするな。こんな風に、普通の人と長い間いるなんて」
 長いといっても共に歩き始めて一日も経ってはいないが。クロは軽く笑って、ラーナーの寝顔を見やる。
 無防備なその姿は、昨日命を狙われていた人物とは思えない。よっぽど安心したのだろう。
「ニノはこうなるって分かってたのかな。だから、俺にあんなことを――」
 瞬間、クロの表情が変わる。暗みが差し込み、恐怖に怯えたように目を見開いた。そしてそっと右手で左腕を掴みさする。自分で自分を落ち着かせているつもりなのだろうか。
 左の長袖の袖が少しまくれる。若干でも見えたのは、生々しさの覗く赤にも似た黒い痕。
 彼は大きく深呼吸をした。体全体で息をするように呼吸をし、鼓動を速める心臓を落ち着かせるように。
 もう、昔のことだ。それに彼女はもうどちらにしたって死んでしまったのだ。心の中でクロは自分に言い聞かせる。

「……クロ?」

 はっと目を見開き警戒した瞳でクロはポニータの背中に乗る人物を見た。
 そこには怯えたような目でクロをじっと見つめているラーナーの姿があった。
 冷たい沈黙が流れる。
 クロの足が止まったのに合わせて、ポニータの足もすぐさま止まる。
 数秒間ぶつかり合っていた視線を先に逸らしたのはクロの方だった。何かを嫌がるように顔を歪めている。
 小さく声を漏らすラーナーは、自分が起きた時に見たクロの様子が気になって仕方がなかった。今だって明らかにクロの様子はおかしい。

「クロ、どうしたの?」
「どうしたって……別にどうもしてない」
「嘘。何考えてたの。顔色すごく悪いよ!」
「なんでもないって言ってるだろ! そんなに言うならついてくるな!」
 相変わらずラーナーから顔を逸らしたままクロは叫んだ。その言葉に思わずラーナーは怯んでしまう。
 その瞬間、クロの右足に鈍い痛みが走る。
「いっ」
 思わず声をあげるクロの右足を、ポニータの足が踏みつけたのだ。脚力があるポニータの突然の踏みつけに、クロは痛みを堪えられずにはいられなかった。
 クロは右足を急いで引っ張る。なかなか抜けなかったが、数秒後ようやく引っ張り出す。ポニータの足が音をたてて地面に沈んだ。
 抜けた拍子でクロは後ろに尻もちをつく。いって、と声を漏らしながら踏まれていた右足をさする。ポニータは目を細くしてクロを見下した。
「ポニータ! お前、さっきからこいつの肩ばっか持って!」
「ポニータはクロが悪いって分かってるんだよっ。私、心配してるんだよ」
「はっ」
 クロは言葉を吐き捨てて、足の感覚を確かめるようにゆっくりと立ち上がる。

「心配なんかいらない」

 ラーナーに少し背を向けた状態で、呟くようにクロは言った。その背中が一瞬少しだけ小さくなったように思えて、ラーナーは息を止めた。
 生ぬるい風が吹き、青い空に少し大きな白い雲が浮かんでいた。
 ポニータの足が動き始め、立ち止まって少し俯いているクロの横をゆっくりと抜いていく。ラーナーは後ろを振り返ってクロを見つめた。暗い影が顔に差し込んでいるように、彼の表情は暗かった。帽子をしていることと今の時間帯が夕暮れであるゆえに、それは尚更そう見えた。
 彼の名前を呼ぼうとしたが彼女は躊躇った。クロが自分から全てを遮断しているかのように思えたからだ。
 ポニータの足は止まることなく歩き続けている。どんどんクロから離れていくのにラーナーは焦りを感じずにはいられなかった。
 クロは気付いていないのかそれともどうでもいいのか、ただ立ち止まったまま頭の中でひたすら回るものに浸っていた。
 確実に遠くなっていく彼の姿に、ラーナーは勇気を出して言葉を発した。
「……クロー?」
 降りようとも思ったが、ポニータは止まる気配を少しも見せない。ゆっくりではあるが、確実に進んでいく足。
 彼は名前を呼ばれても耳を貸さなかった。瞳にはラーナーの姿が映っていないようにも見えた。どこか違う、もっと空の向こう側を見ているような、そんな瞳だった。目の前の世界を彼は見ていないのだ。
「……ポニータ」
 ラーナーは呟いて自分の乗るポケモンの名を呼んだ。一瞬ポニータは足を止めたが、目を閉じて首を振り、また歩く。ポニータの長いまつ毛が風に揺れる。
 この状況に慣れているかのような素振りだ。静まった湖のような落ち着きがある。
「クロを追いてっちゃうよ、このままじゃ」
 不安そうに言う彼女の声は確かにポニータの耳に届いている。
 が、ポニータは何も答えなかった。答える術を持っていないのだ。ポケモンは高度な知能を持ち、人間の言葉がある程度分かっても自らがその言葉を口にすることは叶わない。それ故に、ラーナーにはポニータの考えていること、思いを理解することができない。
 地面を蹴る音が耳に響く。


 *


 遠くなっていく音。風が髪を撫でては去っていく。
 広い草原に一人、クロは佇む。その目には力が無く、微かな呼吸がかろうじて彼がこの世界と繋がっていることを示していた。全身の力は抜け、突風が吹けばそのまま抗うことなく倒れてしまうのではないかと錯覚するほどだ。
 オレンジ色の太陽を反射して帽子の上にあるゴーグルを光らせる。踏まれた足の痛みはとっくの昔に消えていた。
 頭の中で響く声。瞳の裏に移る色あせない映像。彼の心を切り裂くように掻き回し、過去へと連れ戻していく。それは遠い記憶。

『どうなってるんだ、こんな……』
『だめ、こんなところで死んだら』
『あのまま死んでた方が楽だったのかな』
『ふざけないでください! 何をするつもりですか!?』

 叫びが聞こえてくる。
 自分の声と他人の声とが激しく重なりあい、当時の風景が色鮮やかに蘇る。
 今にも崩れそうな建物達。自分を引く手。氷のように冷たい床。その中で少しだけあった笑顔。衝撃と決心、ただ走り走り休むことなど無い。
『笹波白は死んだも同然なんだよ』
 猛スピードで駆け抜けていくそれが終盤に差し掛かったころ、クロは目を細めて唇を小さく動かした。

「……死んだんだ。笹波白は」
 クロは言葉を噛みしめるようにゆっくりと呟いた。
 右手で左腕を痛みを感じるほどに強く握った。下唇を噛みしめると、舌に血の味が流れ込んできた。
 力の宿っていないその瞳を、そっと瞼が世界から隠した。
 あの頃に戻りたいとは決して思わない。けれど、過去を忘れることはクロには出来なかった。過去を隅々まで思い出そうと思えば思い出せるが、それをしないのは彼が過去を拒絶しているから。それでもふとした拍子に雪崩のように襲いかかってくるのだ。
 刻み込まれた日々の記憶は彼を今もなお縛り付けている。


 バハロをまだもう少し先に控えた頃、夕日がもうじき山の向こうに落ちようとしていた。

Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.16 )
日時: 2010/11/10 18:51
名前: ID:

Page 16 : 新たな仲間

「クロ……来ないなあ……」
 ラーナーは目の前で赤々と燃える火の中に、自分の横にあった枝を投げ入れた。
 焚火というのは彼女自身したことがなかったが、ポニータという存在は非常に便利だった。わざわざ火を自分で起こさずともポニータの吹く炎が十分に効果を発揮してくれた。
 オレンジのかかった綺麗な炎である。炎の先からは灰色の煙が細々と黒い空へ上がっている。
 こうしていれば煙を目印にクロが気付くかもしれない、そう思ったのだ。この光が火の他に無い暗い夜道で煙に気付くことができるかは分からないが、可能性が無いわけじゃない。
 さすがに草原で焚火をするわけにはいかないから、あれからポニータにはもう少し頑張ってもらってようやく草が減ってきたかたい砂地に今いる。
 火の熱気に彼女は慣れていない。時々弾ける火花に体を跳ねさせつつ、少し火から離れた場所でラーナーは溜息をついた。
 炎を見ていると昨日のことが自然と思い出されてしまう。昨日というよりもうずっと昔のことのような気がするが、昨日の現実なのだ。セルドは殺されてしまった。そしてセルドを殺した人もまた殺された。
 あの時の炎は今ラーナーの見ている炎とはまるで違う質のものだった。もっと猛々しく、全てを飲み込む勢いの凄まじいものだった。
 獲物を食いつくす獣のような。
 それからよく覚えていない。炎が消えていってクロが近づいてきて、そしていつの間にかベッドの上にいた。

 あの間に何があった?

 起きて、手紙が置いてあって、そこに少しだけ真実が書かれていた。
 ラーナーは右手首につけているブレスレットに視線を移した。彼女の母親にもらった品だ。白い石は少し傷がついているがきれいなものばかりだった。
 狙われているのはラーナーの命だけじゃない。このブレスレットも同じく狙われているのだ。何の目的で? そして母親は一体どういう人物だったのか。ニノの存在は自分の全く見たことのない赤の他人によく知られている。
 黒の団とは一体なんなのか。
 あんなメモ書き程度の説明ではラーナーが納得するわけがない。考えれば考えるほど、謎が生まれてくる。

「はああぁぁ……」
 大きな溜息をついた。思わず声も出てしまった。足を休めているポニータがラーナーの方を振り向く。
「あぁ、ごめんね。なんでもないよ」
 ラーナーは愛想笑いをする。へらっと笑った力のない笑いに、ポニータは目を細めた。ポニータをじっと見つめて、ラーナーは突然思い出したようにあっと声を出して立ち上がった。
 集めた木の枝の隣に置いていた自分の鞄を掴みあげると、右膝を上げてその上に乗せる。ファスナーを動かし鞄が開いていく。その中には様々なものが所狭しと入っている。鞄の内ポケットに手を入れると、その中から二つの丸くて小さな物を取り出した。ポニータは目を丸くする。
 モンスターボールだった。そう、今朝エイリー夫人からもらった、ラーナーの父母のポケモンの入ったボールである。
「あたしの叔母さんからもらったんだ。お母さんとお父さんのポケモンなんだって。すっかり忘れちゃってた」
 鞄のファスナーをしめ直して足元に下ろすと、ボールの開閉スイッチを押した。すると手のひらに軽く入っていたボールが大きくなる。
 ぎりぎり手で持てるサイズだった。外からは中の様子が見えない。ただ、手で持っていると何かを感じる。
 生命の鼓動か、それとも他の何かか。とにかく何かが動いているリズムをラーナーは感じた。
「えいっ」
 テレビで見たことがあるトレーナーがしていたように、彼女は二つのモンスターボールを上に投げた。
 ボールは上に上に行き約三メートルほどのところで頂点に達すると、突然口をあけたように開いた。
 中から白い光が飛び出す。光は猛スピードで地上へと走り、地面に達した途端に大きな円になり、やがて形づくりはじめた。
 ラーナーは息を呑む。二つの光は形成を終えると吸い込まれるように消えていった。
 あっけにとられてラーナーは戻ってくるボールを受け止めるのを忘れてしまう。
 ボールは受け皿無しにそのまま地面へと落ち、音をたてて地面を転がった。衝撃には強い仕組みなのか、少し傷が加えられたくらいで壊れてはいないようだ。
 光が消える。

 片方は柔らかな紫の体毛である。大きな耳を持ち、額には赤い宝石のようなものを埋め込んでいる。
 細く長い尻尾が途中で分かれ、ふわふわと揺らしていた。瞳は、見た者を吸い込むような綺麗な紫色をしていた。
 エーフィ。

 もう片方は全体に黒い体毛をしていて、額には大きな黄色の輪を模っている。
 黄色の部分は足や尻尾にもある。黒の中でその眩ささえも覚える色は、浮き出ているようにも思える。赤い瞳はじっとラーナーを見つめていた。
 ブラッキー。

「う……わぁ、すご……」
 ラーナーは感嘆せざるをえなかった。目の前に現れた二匹のポケモンは、素人のラーナーが見ても分かるくらい、鍛えられているようだった。時々ウォルタで見たトレーナーの連れているポケモンとは顔つきや毛並みが違うのだ。ポニータとその点では似ている。
 二匹は不思議そうに周りを見渡し、最後にラーナーに視線を止める。
 エーフィがまずラーナーに歩み寄る。ラーナーは呆然としていて身動きができなかった。エーフィは何かを確かめるように足から頭までラーナーを見て、そして目を細めた。
 唖然としていたラーナーだったが、はっとしてしゃがみ込み、そろりそろりと右手を伸ばす。
 もうあと少しのところで少し手を止めたが、また伸ばしそっと指先にエーフィの温もりを感じると、柔らかな笑みを浮かべた。猫を撫でるように首のところを触ると、エーフィは気持ちよさそうに目を閉じた。
 ブラッキーも暫く様子を見ていたようで遠くにいたままだったが、やがてラーナーに歩み寄る。合わせてポニータもラーナーの隣にやってくる。
 三匹のポケモンに囲まれたラーナーは、ブラッキーの頭も左手で撫でてやりながら、ポニータを見上げて笑った。
 ブラッキーは少し睨みつけ気味の鋭い瞳をしていたが、少しずつその冷たさは無くなっていく。
 彼女は両手から感じるあたたかなものに心が安らいでいくのが分かった。
 だからこそ気付かなかった。だんだん近づいてくる足音に。
 ポニータはラーナーから目を離し、後ろに首を回した。

「何やってんの」
 ラーナーは突如後ろから声をかけられて、心臓が飛び上がる。
 慌てて後ろを振り向くと、そこには半ば呆れたような顔つきの藤波黒の姿があった。
 ブラッキーは彼の姿を見た瞬間に目を大きく見開き、真っ直ぐにクロから視線を外さなかった。クロはそれに気がつき少し驚いた顔をする。
「ニノのポケモンか」
「え、えっと、お父さんのもいるよ。……どっちか分かんないけど」
「じゃあブラッキーがニノのポケモンだ。雰囲気が変わってない」
 懐かしそうに目を細めて、クロは足元に鞄を下ろしラーナーに近付きブラッキーを見下ろす。
 ブラッキーはラーナーの手からするりと抜けると、クロから相変わらず視線を外さないようにしながら彼の足元に来る。匂いを嗅いでいるのか鼻を動かすブラッキー。そっとクロは笑うと、腰を折りブラッキーの頭を撫でる。
「相変わらず鋭い目だな。大丈夫、こいつはニノの子供だから」
 ラーナーの方をちらりと見ながらクロは言う。ブラッキーは目を細め懐かしむように手に頭をすりよせた。
 手に温もりが伝わってくる。思わず口元がほころんでしまう。優しい顔つきになったクロに、ラーナーは不本意ながら心が揺れ動いた。
「あたしの知り合いが預かってたんだって」
「へえ、良かったな。こいつ強いから、もしもの時に助けてくれるさ」
「怖いこと言わないで」
 少し唇を尖らせてラーナーは言う。

「真面目な話だ」
 クロの口から出てきたのは低く冷たい声だった。
 思わずラーナーは肩を震わせて、立っているクロを少し怯えたような目で見上げた。丁度クロと視線が真っ直ぐに合う。
 クロの表情は見方によっては怒っているようにもとれるかたい表情で、ラーナーを見つめた。ブラッキーからそっと手を離した。
 しばらく沈黙を保っていたクロだが、そのうちに口を開いた。

「俺がお前のそばにいないとき、奴らに襲われたらどうするんだよ」
「……」
「昨日襲われた場所が俺のいた場所の近くだったから良かった。あれがもっと遠くだったらお前、確実に死んでたんだ」
「やめて」

 呟くような声がラーナーから漏れる。
 それにクロは気付き、少し躊躇いを見せつつも続ける。

「いつまでも俺が一緒にいれるとは思わない方がいい。もし俺が先に死んだら――」
「どうしてそんなこと言うの!?」
 ラーナーは全力で遮るように突如大きな声を出した。傍にいたエーフィは思わず体を飛び上がらせて固まる。
 ポニータは少し目を丸くしてラーナーを見つめた。
 ゆっくりと立ち上がりラーナーはクロを睨みつける。しかしクロはそれに動じることはなく、平然と立っていた。
「そんなこと言わないで」
「現実をみろ。とにかく、そういう時にこいつらがお前を助けてくれるように、ある程度連携ができるようになってないと」
 ラーナーは眉を潜ませ細い首を少し傾ける。
「れんけい?」
「まともにバトルが出来るようになっとくってことだよ」
「バトルって、ポケモンバトル?」
「それ以外に何があるんだよ。お前が戦う気か」
 深い溜息をついてクロは目を閉じる。
 暑くなったのか帽子を取る。その時帽子の上につけていた大きいゴーグルが音を立てて地面に落ちる。
 深緑の髪が垂れた。ブラッキーがゴーグルに近付く。ゆっくりとクロは手を伸ばしゴーグルを取った。

「まあ、そういう話は明日以降にするか。明日にはバハロに着くつもりだから今日は早く寝よう」
「……うん」
 ラーナーから漏れた声は重いものだった。
 暗い影が差し込んでいるような表情のラーナーにクロは目を細めたが、地面に置いた鞄に手を入れる。
 その中を覗きながら数秒後右手にものをつかんだ状態で鞄から手を出す。
 出てきたのは少し大きめの缶詰だった。一つ地面に置いてからもう一つ取り出す。そのラベルにラーナーは見覚えがあり、缶詰をじっと見つめる。
「まあちょっとこってりしたスープみたいなもんだ」
 言いながら更に鞄から出てきたのは持ち手が折りたためる小鍋。持ち手も銀色に光っている。
 彼は右腰を探り、一つのモンスターボールを出す。開閉ボタンを一度押すと大きくなり、もう一度押して中からポケモンを出す。
 彼の隣に光が着地し、アメモースが現われる。ラーナーはあっけにとられ、口をあんぐりと開ける。

「アメモース、みずあそび」
 クロは指示をしながら腕を伸ばし小鍋をアメモースに差し出す。
 こくりと頷きながらアメモースは足と思われるところで小鍋を受け取り少し遠くに飛んでいくと、小鍋を地面に置き、躍る様に身体を動かし口から発する水を散らせた。
 必要な量も大したことがないため、数秒後には戻ってくる。
 さんきゅ、と言いながらクロは小鍋を受け取り、アメモースをボールに戻す。そして小鍋は手に持ち焚火の上で熱し始める。
「夕飯はもう少ししたらできるから、沸騰するの待って」
 クロは小鍋を少し揺らしながら言う。揺らすと小鍋の底についていた水滴が焚火に落ちた。
 ラーナーはこくりと頷きつつも内心その水に不信感を抱かざるを得なかった。その後栗色の瞳でエーフィとブラッキーを交互に見やり、地面に落ちたままにしていたボールを二つとも拾う。
 戻って、と小さな声で呟くように言った。開閉ボタンを押す。赤い光が飛び出し二匹に当たると二匹を包み込む。
 急に場が寂しくなる。クロとラーナー、そしてポニータという同じ面子に再び戻る。
 何気なくラーナーは空を見上げる。今日の空は少し雲が覗いているだけでほとんど晴れていた。瞬く星がよく見える。 
 クロは手に熱が伝わってくるのが分かった。が、炎を扱い慣れている彼には焚火の熱さは大したことではなかった。

 夜がまた過ぎてゆく。

Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.17 )
日時: 2010/11/11 18:32
名前: ID:

Page 17 : 話

「ん」
 クロはラーナーに薄いハンカチで包まれた缶詰、そして銀色のスプーンを差し出す。お湯の入った缶詰は相当熱いようだから、ハンカチのようなものがないと触れれないことが分かる。
 ありがとうと言いながらラーナーはそれらを受け取る。手にこんもりとした熱が伝わる。
 白い湯気が絶えることなく上がっている。中を見ると、コンソメスープに似たようなものであることが匂いと色などから分かる。
 具材が意外にもけっこう大きくて、美味しそうな匂いは見た者の食欲を沸かす。
 昼は持ってきたおにぎりを食べたが、かなりの長距離を歩いたこともありラーナーのお腹は限界に近かった。スープのお湯の元はアメモースの放出した水であることはもうどうでもよかった。
 クロは缶詰の端に唇をあて、慎重に缶詰を傾けていき熱いスープを飲んでいく。
 その姿をかみつくように見つめていたラーナーは眉をひそめながら、同じようにスプーンを使わず直接飲もうとする。
 ゆっくりと傾斜が緩くなっていく缶詰。液体がラーナーの口の中に徐々に近付き、少し入ったその瞬間にラーナーは唇を離した。
「あつっ!」
 思わず声が飛び出した。大きい声だったためにクロは驚いてラーナーを凝視する。
 それに気付いたラーナーは舌を冷ますように口を少し開きながら右手をたてて謝る動作をする。
「だって熱くて」
「……猫舌?」
「うん。ちょっと冷ましとく」
 そう言ってラーナーは地面に缶詰を一度置く。スプーンだけは置くところがないため、自分で持っておくことにした。
 クロは無言でまたスープを飲む。彼にとってはもう飽きてしまうほど慣れてしまった味だった。
 風味はコンソメだが、入れたお湯は少しこってりとした味に仕上がっていて、具もかなり入っているのでこれを食べただけでお腹が意外と膨れる。が、所詮はインスタント食品。
 成長期であるはずのクロだが、少食であることに加え普段もこのような栄養の足りない食事が続いているために痩せていることが分かる。
 ほとんど肌の露出していない服装だが、手や顔の形から何となく察することができる。
 ラーナーは近くで寝転がっているポニータの頭を撫でた。気持ちよさそうにポニータは目を閉じた。

「クロー」
「何」
「ポニータはボールに戻さないの?」
 思えばポニータはずっと外に出ている。アメモースは普通にモンスターボールに納めていたが、ポニータは例外だった。
 普通ポケモンはボールに戻し、必要時以外はその中で暮らしている。原理はよく分からないが、どうも中は意外と心地よい空間になっているらしい。テレビ番組の特集で誰かが言っていたのをラーナーは見たことがあった。
 どうであれボールに戻すことは、ポケモンにゆったりとした休息を与えるのとイコールになっている。
 だからこそ、彼がポニータをボールに戻さないことはラーナーには理解し難いことだった。
「……必要な時は戻すけど、基本は戻さない」
「なんで?」
「色々と大変なんだ、ポニータが外に出てないと」
 彼はだんだんと冷めてきた缶詰を一気に飲み始める。彼の喉に焼けるような痛みに似たものが流れる。
 ラーナーは自分も、と缶詰に触れてみたが彼女にとってはまだ熱いので、もう少し置いておくことにした。
「大変って、何が大変なの?」
「……まあ色々」
「またそうやってぼかすんだねー」
 口をとがらせるラーナー。誤魔化すようにクロは少し目を俯かせ、焚火に枝を一つ放り投げた。枝の弾ける音が響いた。
 まあ昨日今日の付き合いなのだから、何でもかんでも言い合える方がどうかしている。
 クロは焚火の炎を見つめる。火花が弾ける。炎の光は柔らかにクロたちを照らしている。これを消せば暗くなるんだ、とラーナーは心細くなった。

「……聞かないんだな」
 ラーナーは首をかしげた。クロはラーナーの方を向き、少し間を置いてから口を開いた。

「黒の団のこと」

 その瞬間、ラーナーは心臓が跳ねたかのような驚きに襲われた。息を呑み、まっすぐにクロを見つめた。
 クロは俯きがちに目を動かし、スープを今度はスプーンを使って口に一気に入れる。具も一緒に吸い込まれていく。ラーナーは唇を強く噛んで、それから少しだけ開いた。
「知りたいけど」
「だろうな」
 缶詰を地面に置くクロ。静かな沈黙が流れる。生ぬるい風が吹いてくる。夏の焚火は必要以上に暑さを感じさせる。
 ラーナーは髪の後ろの方を結ぶような手の動作をして、少し首に風を送る。

「話すよ。少しだけ」
 その言葉はラーナーが密かに待ち焦がれていた言葉だった。
 しかしそれから迷っているようにしばらくクロは口を閉ざしたままだった。けれどラーナーは根気強くその口から言葉が発せられるのを待った。
 ポニータが頭を上げ、深みのある優しい瞳で彼を見守る。
 数分してから、彼の唇がようやくゆっくりと開く。

「黒の団は、普通の社会とは違う――まあ、裏社会とでも言っとくものの中で強い力を持ってる組織だ。といっても」
 少し間が空く。
「意外とまあ、人数は他と比較すると少人数なんだ」
「?」
 ラーナーは首をかしげる。基本的に彼女に所謂裏社会の事情など皆目見当もつかないのだが。
「今がどうとかは詳しく分からないけど。ただ、根源は相当な腕利きの科学者の集まりから始まってて、そういう感じの技術力に長けてるんだ」
「でも……人、ころ、しちゃったりとかしてるんでしょ?」
「なんでそんな科学者の集団なんかが裏社会の一角を牛耳る組織に発展できたと思う?」
 ラーナーは答えない。
 クロは彼女の様子をじっくりと見ながら、話を続ける。
「非人道的な実験を行うために集まった組織だから、とでも言っとこうか」
「……非人道的?」
「詳しい内容は伏せとく。興味をもった実験を自分達の好奇心が動くままに――。公の場に出せばたちまち非難の嵐になるであろう数々のもの。最初は下火だったんだ、何もかも。集まった人数も数人程度だった。だけど……」
 頭を少し俯かせるクロ。
 ラーナーは無意識に缶詰に手を伸ばす。冷めてきていた。さすがに猫舌の彼女でも食べられそうである。
 けれど持って膝に乗せただけで、まだ食べようとはしなかった。
「実験内容の情報がある日ネットを通して少し漏れて、それを聞きつけたある別の組織が手を組まないかと言ってきたんだ。金とそれなりの人も持っている――アーレイスの西の隣国、李国の組織が」
「え、李国?」
 ラーナーは少し驚いたような声をあげ、クロは一回深く頷いた。

 李国。
 クロが先程言った通り、アーレイスの西隣に位置する国だ。
 もっとも隣にあるとはいえ、二つの国の間には大きな山脈があり言語をはじめとしてあらゆる文化が異なる。
 また数年前まで続いていた内戦によって治安は悪い。それ故に経済力や技術力に欠け、他国との交流も薄い。ほとんど閉鎖状態だ。それは今も続いている。
 隣国であるアーレイスだが、アーレイスも急速に経済発展しているところであり、李国に救済の手を差し伸べる余裕はない。

「李国は当時二つの勢力が戦っていた。お互い裏社会の組織だったけど、規模が少し大きかったから、李国の治安も揺るがした」
 ラーナーもそのことは学んだことがある。少し前まで通っていた学校で、隣国である李国の歴史も少しかじったのだ。
「その二つの組織の名前が白の団と、黒の団」
「!」
 息を止めるラーナー。
「その一方の黒の団が交渉をしてきた。金と引き替えに、実験を黒の団で行わないか、と。金欠は確かな事実だったから、その科学者たちはそれに同意した」
「……そんなにすごい実験だったの?」
「まあ、そうだな。黒の団の目には魅力的に映ったんだろう。これで白の団に勝てるってな。それから、実験内容は熱を急速に帯びていった。それを元に黒の団は軍事力をつけていった」
「なんの実験、なの?」
 聞きたいようで、聞きたくない。真実を知る恐怖が彼女を襲う。その一方でまとわりつく好奇心。
「……言ったろ、詳しい内容は伏せるって。……ほぼ均衡していた二つの組織の力だったけど、黒の団の力は白の団を上回るようになっていった。その中で、実験に人間が必要になった」
「人間?」
「それまでは数少ないポケモンを使った実験も行っていた。だけど、ある新たな実験では人間でなければいけなかった。予想以上に使っていた金を必要以上に出したくなかった黒の団が手を出したのは――」
 クロは唇を強く紡ぐ。
 苦しそうに顔を歪めていた。ラーナーは彼を急かそうとはしなかった。内心は続きが知りたいが、彼の顔を見ていてはそうも言えない。
 一度目を閉じてから、クロは再び話し始めた。

「子供」

 冷たい沈黙が辺りを襲う。
 現実には身体にまとわりつく生温い空気なのに、彼らの体感温度は急激に下がっていくようだった。
 ポニータがクロの傍に身を寄せる。言葉なくともさりげなく彼を支えていようとしている。
「李国は貧しい国で、多くの子供たちが身寄りを失い、路上で暮らしていた。店から食べ物を盗んで、ひどい時にはそこらにいる虫を摘まんで食べるような生活だ。家族のいる子供も、金がなくて満足に食べれない。そこに黒の団は目をとめたんだ」
 ラーナーは声も出なかった。何か重いものが喉に引っかかっているようだった。
「子供は扱いやすいんだよ。特に食べ物に飢えた子供は……。たくさんの子供が李国の町から消えた。たくさんの命が実験で消えた。勿論その中で生き残ったやつもいた。けど生き残ったやつも生き地獄の始まりだ。戦いに雇用されて、そこでまた死んでいく」
「……」
 ラーナーはいつの間にかクロから視線を逸らし、自然と地面の方に目を向けていた。
 決して視線は定まってはいなかった。動揺しているのが表情から分かる。口を少しだけ開けて、かろうじて息をしているようにも見えた。
 限界か、クロはそう感じて軽く息を吐いた。だがその静かさとは裏腹に、沸々と彼の中から黒いものが渦巻く感覚があった。

「結果的に――黒の団が白の団を壊滅させ、戦いは終わった。けど、黒の団はそこで勢いを止めなかった。――しばらくしてから、アーレイスに足を伸ばしたんだ!」
 語尾が上がる。言いきると両手を強く握りしめて突然クロは立ち上がる。
 ラーナーは驚いて思わず彼を見上げた。彼の顔は影が入り込んで、憎々しげに歪んでいた。

「奴らのやっていることに耐えきれずに逃げ出そうとした奴らは皆殺された」
 彼の言葉にラーナーは息を呑む。
 淡々と話していたそれまでと違い、段々と彼の感情が言葉に混ぜ込まれるようになっていた。
「黒の団の存在を深く知る者、関係のある者……そういうやつが“表”にいる場合、誰一人として例外なく危険人物の対象だ」
 クロはラーナーを見下ろす。透き通っている目が、どこか濁っているように見えてしまう。
 不意に表情が緩む。それは諦めに似たものだった。
「あんたも、あんたの弟もその対象だったというわけだ」
「なんで。私もセルドもそんな、黒の団とか全然知らなかったし、関わりも全然ないのに!」
 先程までしばらく声も出なかったラーナーだが、さすがに理不尽なことに対しては声が出る。
 声は震えていた。溢れて零れ落ちてしまいそうな重い怒りが彼女から沸き起こっていた。
「どうしてセルドが……どうして! 意味分かんないよ!」
「もう何を言ってもしょうがないんだよ! 弟はこの世にはいないというそれだけはほぼ確実だ」
 ラーナーの言葉を遮断するように少し大きめの声でクロは言い放つ。
 彼女の心が大きく揺れていた。吐き気さえも襲ってくる。手に持っているスープの良い香りが鼻につく。飲む気にはなれなかった。
 だんだんと重い疲れが彼女に圧し掛かり、怒りはだんだんと治まっていった。自然と丸くなる背中。

「クロも……狙われてるの?」
「え?」
 面食らったようにクロは思わず声を漏らす。
 怒りが消え、更に生気さえも失ってしまったかのような彼方を見つめる目でラーナーはクロの方を向く。
「それだけ知ってるんだから、クロも……」
「俺は別にそういうわけじゃない」
 クロの言葉は早口だった。
「ただ、顔は覚えられたくないね」
 苦々しげに言う。
 ラーナーは不思議そうにクロを見つめる。

 重い沈黙がしばらく続き、その中でクロはラーナーに背を向けると、鞄の中から一つ大きくなったモンスターボールと同じくらいの大きさの白く長細いカプセルを出す。
 それを捻るような動作をすると丁度真ん中で二つに別れ、中から白い光が飛び出す。
 それは彼の左腕に着地し、形作る。深い青色をして、触れば気持ちよさげなふわふわとした印象をもたせるそれは、寝袋だった。
「道具カプセル持ってるんだ」
 先程まで暗い話をしていた故に声に張りはないが、ラーナーは心の中で興奮していた。
 口元で乾いた苦笑いをするクロ。ポニータは彼をどこか冷たい横目でじっと見る。
 道具カプセルとは、モンスターボールの技術を応用した製品だ。ある程度の重さまでの道具を一つだけ縮小し、中に入れて持ち運ぶことができる。
 最近売り出されたばかりのもので、値段はまだ高いし収納の制限はあるものの便利さゆえにすぐに売り切れて、入荷してはまたすぐに売り切れる、という状態なのだ。
「あたしも知り合いにもらったんだ。寝袋大きいからね。野宿した時用に」
「悪いけど、大抵は野宿のつもりなんだ」
「……なんかそんな気は少ししてたよ。ほんと、叔母さんに感謝だね」
 少し残念そうな重い声だった。
 言いながらラーナーはスープを足元に置き、鞄から彼と色違いの、薄いピンクという可愛らしい女の子モデルの道具カプセルを取り出した。
「スープぐらい食べたら?」クロは問う。
「なんかちょっと食べる気がしなくて……」薄く笑うラーナー。
 強制的に食べろということはできなかった。クロは目を俯かせる。その途端に眠気が彼の瞼を重くする。

「……俺、眠いからもう寝る。ポニータ、こいつについてやってて。明日は早いからさっさと寝ろよ」
 大きな欠伸を右手で覆ってした後に言う。ポニータはラーナーを見やり、またクロの方を向いて頷いた。
 彼は昨日、ほとんど寝ていないに等しい。夜の戦闘やラーナーとの旅の始まりは、彼にとっては負担が重かった。
 ラーナーは少し寂しくなったが止めることもできないため、軽く頷いた。
 クロは少しだけ笑って見せて、ラーナーの左肩をぽんと叩いた。その後にポニータの頭を優しく撫でようと、少し腰を折り曲げた。
「おやすみ」
 小さく呟くような彼の声だった。優しくその手がポニータの白い体毛を撫でる。頭の炎が柔らかく揺れている。

 それから彼はラーナーに背を向けて少し離れたところに行き、丁度焚火をはさんでラーナーとは反対側の位置で、腕に持っていた寝袋を地面に落とす。
 下ろした瞬間に風が上がり、焚火が大きく揺れた。その火もだんだんと下火になってきているようだった。
 彼は上着を脱いで、黒く長袖のTシャツ姿になる。そうなると、彼の細さが更に際立つように思えて、ラーナーは息を呑んでしまう。
 靴を脱いで、足から寝袋に入っていくクロ。さわさわと寝袋のこすれ合う音が耳を掠める。頭だけは袋から出た状態で、彼は顔は決してラーナーには見せずに眠りについていった。
 急に音が無くなったような感覚にラーナーは襲われる。本当は消えていない。火花は散っているし、草の中でささやかに歌っている虫もいる。
 けれどラーナーは突如暗い穴の中に入り込んだような、そんな一人ぼっちの感覚に襲われた。
 彼の説明はラーナーにはまだ不十分だった。完全に消化されていない疑問のかたまり。しかし、あれ以上聞くような元気がラーナーに無かったのも事実だった。
 ゆっくりと噛みしめるように頭の中で先程クロの話したことを思い出す。そして脳裏に映る弟の姿。セルドはいない。つい一昨日までは確かに彼女の傍にいた。手を伸ばせば触れることができた。正直でズバリと真ん中を射る言葉にいらつきを感じたこともあった。けれど今思い出してみれば、何もかも愛おしくて、そんなことに気付いたのは皮肉にも彼がいなくなったからだった。
 もういないのだ。

 目を俯かせていたラーナーの頬に、ポニータの鼻が当たった。驚いたラーナーは目を見開いて肩を飛び上がらせた。
 ポニータは首をかしげていた。大きな真っ黒い瞳がまっすぐにラーナーを見つめている。ラーナーの目尻には微かな涙があった。それにポニータは気付いたのだ。とても人を気遣う気持ちのあるポケモンだった。

「セルドは……遠いとこに行っちゃったんだなあ……」
 熱いものが彼女の目から零れ落ちた。拭こうとはしていなかった。涙に気づいていないかのようだった。
 あの時救急車でも呼んだら、助かったのかな、と彼女はひそひそと口元で呟いた。誰にも聞こえないように、ひとりごと。そんなこと出来るわけがなかったことくらい、彼女が一番よくわかっていた。だからこそ、誰にも聞かれたくなかった。
 今さら何を言ったところで、セルドが彼女の元に帰ってくるわけじゃない。
 ポニータは聞こえたのか聞こえていないのか、目を細め頭を少し下げる。
 少し眉を困ったように傾けた状態で、ラーナーは涙を手で拭くと、ポニータの体をさする。
「一緒に寝ようね。私、一人じゃ寝れる気がしないや」
 声がポニータの耳に吸い込まれて、ゆっくりとポニータは頷いた。
 涙の通った後が炎に照らされて少しだけ光っている。焚火は時間をゆったりとかけて少しずつ小さくなっていく。煙はか細くなっていき、ポニータの炎が明るく感じられてきた。
 ああそうか、とラーナーは気づく。ポニータがいれば、真夜中も光がある。

 ラーナーの言葉は、ほんの少しだけ瞼を開いていたクロの耳にも確かに届いていた。声をかけようとは思わなかった。言葉も思いつかない。
 雪崩れ込んでくる眠気の渦に身を浸らせるほかに、彼の選択肢は無かった。深緑色の目が完全に隠される。闇の中に彼はおちていった。それから少しして本当に眠りについた。

Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.18 )
日時: 2010/11/12 18:02
名前: ID:

Page 18 : バハロ

 まだ太陽が出たばかりの朝早い時刻。どこまでも広がる草原に朝露がついていた。遠くの景色は何となく霞がかっている。
 ラーナーは心地よさそうな寝息をたてていた。青い寝袋のすぐ傍にはポニータもいる。ぐっすりと寝ているようだ。
 焚火はとっくの昔に消えた。煙も立っていない。音も風もない朝の世界。
 ラーナー達とは少し離れたところにある一本の木に寄り添って、クロは一人顔を俯かせていた。
 視線の先には、手に握られた黒いボディのポケギアがあった。トランシーバーでも持つように、顔にかなり近い位置である。

『何やってるんだか。あれだけ言ったってのに』
 溜息の混じった声がポケギアから発せられる。電話をしているようだ。
 相手の声は男の子の声だった。変声期をまだ迎えていないようで、少し幼さのある声がスピーカーから出てくる。

「仕方ないだろ。そうでもしなきゃ耐えられなかったんだ」
『はいはい。でも分かってるだろ。やりすぎは体に毒。中毒症状になっても俺は知らないから』
「そんなのにはならない」
『どうかな。というか、普通の人間ならもうすでにぶっ倒れてるレベルだろうから、そんなんじゃすまないかもな』
 電話の向こうで喉の奥を鳴らすように笑う声がする。
『で、どうすんの。そんな調子じゃもうすぐ切れるだろ』
「今バハロに向かってるから、近いうちに向かうことになると思う」
『まあ、それならいいよ。死んでもらっちゃ、せっかくの金づるが消えちゃうからな』
「……お前、一応俺は客だって分かってる?」
『なんだよ今さらだろ。兄弟みたいなもんなんだから気にすんなって』
 ふぅとクロは息を吐く。柔らかな風が吹き、頭上に茂る葉が大きく揺れる。
 思わず上を見上げ、目を細める。若々しい緑の色だ。夏を感じさせる鮮やかな緑。一枚一枚の葉っぱの動きを見るように目を離さず沈黙が続く。

「……で、何か分かったこととかある?」
 彼が言った後しばらく沈黙があり、スピーカーの向こうで何かを探るような音がする。
 時々何か重いものが一気に雪崩れ落ちたような音もクロの耳に突き刺さり、思わずクロは口元を歪ませた。
『……いんや、悪いな。何も情報はないよ』
 その言葉を聞いた後、クロは唇を少しだけ噛みながらも、乾いた笑みを浮かべた。
「そうか。じゃあいいよ。引き続きよろしく。そろそろ切らないと、ポニータが起きそうだ」
 少し遠くのラーナーとポニータが寝ている場所をちらりと見ながら彼は言った。
 悪いな、ともう一度小さく言う声が彼の耳に届いた。こういう返事だろうなとクロは内心思っていたから、そこまでショックではない。

『クロ』
「ん?」
 また沈黙が訪れる。電話では相手の表情が見えないから、沈黙の間にどんなことを思っているのかが全く読めない。
 だからクロにはただ、電話の向こうの彼が口を開き言葉を待つしかやることはないのだ。
 数秒してから声が聞こえた。

『頑張れよ』
 思わず息を呑んでしまうクロ。突然どうしたんだよ、と苦笑しながら言おうとしてやめた。
 その声に真剣な重みがあったからだ。それを笑うことなどできない、許されない。
「ああ」
 低い声だった。顔が少し俯いていたせいで前髪が大きく顔にかかり、彼の表情はよく見えない。
 じゃあなと声をかけて電話の通信を切った。ぶつりという音と共に相手の声は聞こえなくなった。
 しばらくポケギアの小さな画面をクロは見つめていた。アラン、という文字がその視線の先にある。
 瞼を数秒閉じながらポケギアを腰に付けている黒い小さな袋に入れる。そこには火閃も入っているが、一緒に入れているようだ。
 木の陰から出る。太陽の光が異様に眩しく感じられた。クロは一つ軽い咳をして、ゆっくりと草原を踏みながらラーナー達の場所へ向かう。
 ラーナーとポニータが起き次第出発しよう、そう思いながらクロは小さく欠伸をした。


 *


「あ、何か家が見えてきたよ!」
 ラーナーはいきいきとした声で言う。指差した先には、古びた町があった。

 バハロ。
 ウォルタの少し西にある小さな町だ。
 観光ができるといえる場所はほぼ無いに等しく、観光客は年中を通してほぼ皆無。
 古びた建物が身を寄せ合うように固まっている住宅街。中に住んでいるのは大体がお年寄り。
 かつては比較的栄えていた商店街も今ではシャッター街というなんとも切ない風景になってしまっている。
 利便さは欠けるが静かという点では住む人々に優しく、住民達は住宅街の外れに作った畑などで老後の生活を楽しんでいるらしい。
 都会の華やかさとは大きくかけ離れたその町では、黒の団のような裏の人間も住んではいない。そこをクロは知っていて、バハロを次の目的地に選んだのだ。

 先程まで疲れが表情にありありと出ていたラーナーだが、ここに来て元気を取り戻したようだ。
 広い草原の道から家が点々と出てきた程度の道になっただけでは、風景も大して変わらないし精神的にも体力的にも苦痛だったのだろう。
 空は青く、太陽は高い場所に上がっている。遠くに目を移せば遠くには大きな入道雲。
 ラーナーは暑そうに髪を軽く手で揺する。帽子をしているクロとは違い、長時間夏の日光がラーナーの頭に直射している。
 乾いた地面を蹴る音が響く。町にだんだんと近づいていき、ただひたすらに歩を進めているといつの間にか家の集落の目の前へと来ていた。
 バハロと書かれた小さな看板の前に来るとクロは歩くのを止めた。それに合わせてラーナーとポニータも止まる。
 クロはラーナーの方を見ると、口を開いた。
「多分安全だとは思うけど、一応様子を見てくる。ポニータは置いていくから、ここで待っててくれ」
「え、あ、うん」
 急に話を振られたために流されるように返事をするラーナー。
 クロはポニータによろしくな、と一声かけると帽子を一度かぶり直し、バハロの中へと歩を進めていった。






 中に入ってから注意深く辺りを鋭い目つきで確認するクロ。耳を傾けつつ歩く。
 本当に寂れた町である。歩いていてまるで人に会うことが無い。真昼だというのに。
 皆家の中に入っているのだろうか。クロは一つの古い家を見るが、よく分からない。物音はほとんど聞こえない。静かな場所である。
 と、ようやく一人曲がり角から現われる。しわが顔中にある白髪のお婆さんだ。腰を低くして手を後ろで組んでいる。
 思わず目で追うクロ。お婆さんはクロの目の前に来ると、あらこんにちは、としわがれた声で挨拶をする。
 クロは少し驚いた風に身体を震わせると、数秒後に会釈を返す。にっこりと彼女は笑い、クロの横をゆっくりと通り過ぎていった。
 何だか拍子が外れたような気分にさせられたクロは溜息をつく。白くも古びた色をした小さな車が、少し危なげにクロの後ろから来る。都会ではもうあまり見ることのない古いモデルだ。
 改めて強く思わさせられる。ここは田舎だ。

 先程お婆さんが出てきた曲がり角に来るとクロはその角の先を見る。
 住宅街の途切れが見える。もっと先に視線を持っていくと田圃と畑が混在しているのが見える。そこに点々とお年寄りがいた。そういえば先程出逢ったお婆さんの手にも野菜の入ったビニール袋があったような、とクロは思い出す。
 角で立ち止まったままクロは深呼吸をする。空気がどこか澄んでいた。クロは二度ほどバハロを訪れたことがある。ここは初めて来たときから何も変わっていない。
 入ってからまだ十分も経っていないが、これ以上詮索することに馬鹿馬鹿しさを感じたクロは身をひるがえす。
 その瞬間。

 目を見開いたクロは思わず先程見ていた角を曲がり、家の陰に背中を張り付け、そっと角から顔をのぞかせる。
 細めた目を凝らし対象のモノをじっと見つめ焦点を合わせる。そして彼の目にはっきりとソイツの姿が映った。
 クロはやはり見間違いではなかったことに歯を食いしばる。
 視線の先には、金髪の男の子がいた。
 見覚えのある黒い上着に灰色のズボンを履いて、こちら側にゆっくりと歩いてくる。
 その目は獣のような金色の瞳だった。普通の人間の目ではない。彼のことをクロは知っている。だからこそ分かる――黒の団だ。
 クロは目を背け足音を立てないようにそっと足を動かし、神経を張りつめさせその場を離れる。ある程度のバハロの地図は頭の中にある。
 その脳内の地図を信じ少し小走り気味に途中で角を右に曲がる。田圃が広がる場所の一歩手前だ。建物と建物の間の狭い空間。
 足を止めることなく、後ろを振り返ることもなく、いつの間にか本気で走っていた。焦りが彼の中に芽生えていた。
 路地裏は普段誰も通ることがないのだろう。道に落ちているゴミは埃を被っている。鼠が驚いて逃げる声がした。
 彼の足は速かった。とても狭いところを走っているとは思えない速さである。
 クロは唇を噛む。
 多分安全だと思う。ラーナーにそうは言ったが、彼の中では百パーセント黒の団はいないと踏んでいた。過去二回訪れてその二回ともいなかった。
「くそ、しかもアイツかよ……」
 独り言が漏れた。落ち着け、落ち着けと心の中で叫ぶ。走りながらまた曲がり、表通りに出る。明るい日光が目を刺す。が、それに戸惑っている場合ではない。
 辺りを見ながらなおも走る。遅くなることはない。かつ人気も気にする。今のところ追手はいなさそうだ。
 クロは走りながら目的の場所が目に入ったのを確認する。
 白い建物の前でクロは足をようやく止める。洋酒を売っている小さな店だ。彼の肩は激しく上下している。
 クロは息を切らしながらそっと扉を開ける。りん、という鈴の音が店内に響いた途端に洋酒の匂いがぷんと鼻につき、思わず顔をしかめる。
 落ち着いたシックな雰囲気の店。バハロの中ではやけにおしゃれな店内だ。濃い茶色の木の棚にはたくさんの洋酒の入った瓶が並んでいる。
 彼の知らない名前ばかりの洋酒だ。それはそうだ。洋酒などクロは飲んだことはない。

「おや、いらっしゃい」
 クロは顔を上げ、声のしたカウンターの方へ向かう。ぎしぎしという音が足元から聞こえる。
 カウンターには白いタオルでせっせと机を拭いているひょろっとした男の老人がいた。
 近づけば近づくほど洋酒の匂いが強くなる。クロが不満げな表情をしているのに気付いた老人は笑った。老人の手元のタオルは濃い紫色に染まっている。
「悪いね、さっきちょっとだけこぼしてしまってね。今拭いてるんだ。小さなお客さん」
「いや、まあいいんですけど」
 クロはカウンターに手を置き、一瞬後ろに目を配るが人の気配はない。ほっとすると黒い椅子に腰かけた。
 息は最早安定していて、心臓の鼓動も元の速さに戻っていく。ただ汗だけは噴き出している。額の汗を服の袖で軽く拭う。
 老人は改めてクロを見ると、ほぉ、と感嘆しながら目を細めた。
「久しぶりだね。えーっと、クロ、フジナミ……だったか」
「……覚えてるんですね」
「まあねえ。ここに来る若い人なんて、君くらいなもんだからなあ。嫌でも印象に残るものさ」
「はあ。……そんなことより、ちょっといいですか」
 クロは身を乗り出して、老人の茶色の瞳を正面から睨むように見つめる。
「ああやっぱり洋酒目当てではないんだね」
「当然です。お金ならそれなりにあるんで、いいですか」
 せっかちだねえ、と老人は苦笑しながら洋酒くさいタオルを畳むと横に置く。
 クロはリュックを背中から下ろし、それを隣の黒い椅子に乗せる。そしてリュックから黒く古ぼけた財布を取り出す。
 中から二枚ほどお札を出して老人の前に出す。老人は少し驚いた顔をして、一枚手に取るとクロに差し出す。
「こんなにいいよ。大切なお金なんだから」
「あ、はあ」
 クロは不思議そうに首を傾げながら老人と札を交互に見やり、おずおずとお札を受け取る。
 さて、と老人は切り出すとお札を胸ポケットの中に無理矢理突っ込んでクロを見下ろす。

「いつから、どうしてこの町に黒の団がいるんですか」
 老人は目を細める。
 クロの瞳は憎々しげに光っている。机に置いた右手の拳は強く握られていた。何もかも握り潰してしまいそうなくらいに。
 ふぅと老人は息を吐くと、カウンターに置いていたグラスを手に取り、白いハンカチを懐から出してそれを拭く。
「昨日からさ」
「昨日?」
 クロは思わず聞き返す。老人は真剣な顔で僅かに頷く。
「ああ、昨日の夜に。四人ほどかな。一人とても目立つ子がいるそうだ。子供まであんな組織に入っているとは驚きだよ」
「子供……」
 クロは先程自分が見た金髪の少年を思い出す。自分より少しだけ年下ほどの少年。あどけなさの残った顔つき。
 目立つ、というのは恐らくあの金色の髪に金色の瞳のことだろう。老人の言う子供は間違いなくあの少年のことだ。
「来てから二十四時間も経っていない。だから“どうして”という質問には答えづらいな。まだ何も分かっていない」
「そうですか。……じゃあ、調べといてもらえますか」
「やれやれ。骨の折れそうなことになりそうだけどねえ。まあ、ぼちぼちとやってみるよ」
「なるべく早くお願いします」
「……やれやれ」
 溜息を少しだけつく老人。クロは机に肘をつき、顔の前で手を組み眉をひそめる。
 先程見た少年の他に三人はいる。ラーナーの傍にはポニータがいる。ラーナーはブラッキーとエーフィを持っているが、彼女が戦闘を指示できることは期待できない。
 ポニータがいればいざという時に逃げる事もできる。でもそうなれば、クロとラーナーがばらばらになってしまう。それはまずい。
 クロは懸命に頭の中で考える。情報が少なすぎるのだ。下手に動けばあっちに見つかり、しかし早く手を打たなければ危険性は高まるばかり。
 困ったことにラーナーと連絡は取れない。それが一番の厄介な点だ。

「くそっ」
 気持ちばかりがはやる。

Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.19 )
日時: 2010/11/13 16:20
名前: ID:

Page 19 女の子

「クロ、いつ帰ってくるんだろー」
 バハロの中で何が起こったかをつゆも知らず、ラーナーはバハロの町を見つめる。
 ラーナーは大きな木陰に入り、木の根元に腰を下ろしていた。涼しい風がラーナーに当たり、心地よい気分にさせる。
 先程一台白い車が出ていったっきり、何も町から出てくる人も車もない。しかもその車は、ウォルタじゃ見た事のないものだった。
 どことなく危なっかしい動きで出ていき、そのうちガス欠かパンクでもしそうな気がしてならない雰囲気だった。
 のどかで、耳に入ってくるのは鳥の鳴き声や風の音だけ。ウォルタの隣だから多分近くに川でもありそうな気がするが、水の音は耳に入ってこない。
 ポニータはラーナーから時々目を離し遠くの方を見つめている。それはバハロ市内であったり、青い空の向こうであったりする。
「暇だなー。もう入っちゃっていいかなー」
 ラーナーは不満げに言うが、ポニータはその途端にラーナーを軽く睨む。そしてはいはい、とラーナーは諦めたように呟いた。
 しかし本当に暇であった。何もすることがないのだ。時間はただ進むばかりで、勿体なく感じられる。
 どれだけ経ったのか時計が無いラーナーには分からない。まだ少ししか経ってないのだが、彼女の心の中ではもう数十分が過ぎている。

「クロのばかー自分だけー! そのまま忘れたら承知しないんだからー!」
 少し叫び気味にラーナーは言う。慌ててポニータは彼女を落ち着けさせようと傍に寄る。
 唇を尖らせたままラーナーは背中の木にゆっくり体重を乗せ、一つ深い溜息をついた。溜息と共に気分も下の方へ落ちていく。
 何となくに自分の横髪を軽く掴み、毛先を観察する。自分で切ったおかげで雑になっている。枝毛こそ勿論無いが、こんな生活を続けていたら枝毛ができるのは時間の問題だ。
 滑らかに髪の毛が指から落ちる。
「分かってるよ。クロが何で一人で行ったかくらい……」
 目を俯かせて言うラーナー。青い木の葉がさわさわと揺れる。
 ラーナーは傍に置いていた青いバッグの外ポケットに手を入れ、中を探ると数秒後に手を出す。その手にはブレスレットが軽く握られていた。
 今はいない、彼女の母親ニノの形見の品だ。ラーナーはブレスレットを軽く上に持ち上げて、下から見上げてみる。太陽の光を反射してきらきらと白い石達が光る。
「それ、隠しといたほうがいい」
 クロから今日の道中で忠告され、渋々とバッグの中に入れた。どうも黒の団はこれも狙っているらしい。
 溜息をつくラーナー。ブレスレットを自分の胸の前に持ってくると、じっと見つめる。よく見ると石はけっこう傷がついていて、少し古いものであることが伺える。
 何も知らないんだ。彼女は心の中で呟く。ニノを、自分の母親のことを自分は何も知らない。どうして母の大切にしていたものが狙われているのだろう。母と黒の団が関係とは一体何なのだろう。頭の中でもやもやと思い描くラーナー。途中でそれを振り払うように頭を二、三回振る。
 少し俯き加減だった顔を上げて、無造作にブレスレットをまたバッグの中に入れる。クロが来る気配は一向に無い。そもそも人が出てこない。車一台しか今のところ出入りがない。ある程度都会であるウォルタじゃあ考えられない。ウォルタをほとんど出た事がないラーナーにとって、ある意味で驚くべき過疎化具合だった。
 それほどウォルタから離れていないはずなのに。

 ポニータが顔を上げて後ろを見る。その時、ラーナーの後方から草を踏む音がした。
 驚いてラーナーは振り向く。木々の生える中で歩いてくる人がいる。思わず木から背中を離しポニータに無意識に寄り添うラーナー。
 風が止み、木の葉は音を鳴らすのを休憩する。
「!」
 ラーナーは目を見開く。前方から訪れてくるのは、ラーナーとさほど年齢が変わらなさそうな女の子だ。茶色の髪を高い位置でポニーテールにしている。
 近づいてくるほどにだんだんと明確になっていくその姿は、女の子にしては背が高い。そして足が長い。思わずラーナーは息を呑む。
 程よい筋肉が引き締まっていて、綺麗な体型をしていた。半袖にホットパンツという多少露出が目立つ姿をしているせいなのかもしれない。
 女の子はラーナーが自分のことを穴をあけるのではないかというくらいに見つめているのに気付き、笑った。 

「珍しい! ポケモン持った女の子だ!」
 明るいトーンで話しかけてくる女の子。思わず身を震わせるラーナーを見て、声をあげて笑いながら一歩一歩ラーナーに早歩きで近付く。
 ポニータは大きい黒い瞳を更に見開いていた。
 女の子は軽やかな足取りでラーナーの隣へとやってきて、見下ろす。綺麗な顔をしていて、ラーナーは心臓の鼓動が早まるのを感じた。
 可愛いというよりはかっこいい雰囲気をかもし出している。
「バハロに用があるの? ぶっちゃけ何もないよ。お婆ちゃんにでも会うの?」
「え、あ、まあそんな感じです」
 へぇと女の子は呟く。黒と白の太いボーダーの服の上に、薄い黒の半袖の上着を着ている。両手首にはオレンジのリストバンド。
 思わずまじまじと見つめてしまう自分がいることに、ラーナーは一人で頬を赤くしていた。
「そんなにじろじろ見られてもなあ」
 女の子はくくっと喉の奥を鳴らすような音を出す。ラーナーの頬がまた一段と紅潮する。
 とても社交性のある女の子に、ラーナーは戸惑いを隠せない。女の子はポニータを見ると、にっこりと笑った。
「このポニータ、すごくよく育てられてるね。毛並みが綺麗だ」
 感嘆する女の子に対し、ポニータの息は少し荒くなっている。女の子は少し目を細めた。
「あたしの友達にもさ、いたんだ。ポニータ持ってるやつ」
「そうなんですか」
「そうそう。超曲がってる奴だったけどね。もうずっと会ってないし。いやあ、なんか触ってやりたいけど、火傷するからやめとこ」
 ラーナーは思わず苦笑する。ポニータの炎はポニータが認めた者にだけ触る事ができるのだ。
 女の子は少し視線を逸らしてバハロを一目見やる。その瞬間に茶色の瞳が冷たくなった様な気がして、ラーナーは少し驚く。
 睨むような目つきだった。が、すぐにそれはなくなって、ふぅと息を吐く。
「なんだろうな。あなた不思議な感じがするなあ」
「え?」
 ラーナーは呟くように聞き返す。女の子は優しく微笑む。視線は再びラーナーに向いていた。
「気にしないで」
 首を傾げるラーナー。女の子は軽く笑う。
「可愛いねー」
「え、いやっそんなことないです!」
 慌ててラーナーは首を振る。これでもかというほどに振った為にくらくらとした感覚が彼女を襲う。
「あなたみたいに可愛い子は、狙われないように気を付けなよ」
 その言葉の意味をラーナーが理解する前に、女の子はさて、と呟いて後ろを振り返る。目線の先にあるのは、先程ラーナー達が通ってきた平坦な道だ。
 女の子がラーナーに背中を見せた時に、ラーナーは女の子が肩に鞄をかけているのに気付く。紫色の鞄だ。中身が多いのか膨らんでいる。もしかしたらこの人も旅をしているんだろうか、という考えをしつつもすぐに払う。
 ポニータが声を出す。軽く呼びとめるような小さな声だった。女の子はポニータを見やると、軽く微笑んで見せた。
 ラーナーは立ち上がり、ポニータの背中を撫でてやる。そういえば、ラーナーは女の子はこのポニータは自分のものではないと言っていない。
「まああなたには関係無いだろうけどね。ちょっと変な奴がこんな田舎にもいるみたいだからさ」
 女の子は表情を崩す。複雑な表情をしていた。口元は笑っているけれど、顔全体を見れば本心から笑っているようにはとても見えない。
 そのすぐ後に女の子は右手を軽く振って、じゃあね、とラーナーに明るい声で言う。
「あ、さよならっ」
「固い固い」
 女の子は苦笑する。ラーナーは少し頬の熱さが抜けていくのを感じた。女の子が日光の強く当たる木陰の外へと出ていく。ポニーテールが光を受けて上下左右へ自由に揺れる。
 ポニータがまた鳴く。ラーナーは落ち着かせるように慌てて首をさすってやる。炎の色がどこかいつもより赤い。
 段々と遠くなっていく背中。一瞬のことのようであった。実際たった数分間の出来事だった。とても初対面とは思えない口調で話しかけてきた女の子は、一体なんだったのか。ラーナーには分からない。
 静けさがゆっくりと戻ってくる。風はまだほとんど無いが、木々はまた揺れ始めている。木漏れ日が躍っている。
 女の子が見えなくなるまでラーナーはずっと見届けていた。やはりあの道を行くようで途中で曲がる。
 不思議な人だ。
 ラーナーは心の中で呟いた。それに尽きる。
 と同時に足の長い人だ、と思うのである。







 女の子はちらりと横目で小さくなっていくラーナーを見やる。そして同時に目に入るポニータ。
 日光が強く彼女を照らし、影が色濃く足の下で動く。目を細めて、少し考えるように眉をひそめた。
「似てたなあ……」
 ぼそりと呟いた声は彼女の口元で消える。女の子の頭の中で残像が掠める。
 少し重みのある鞄の紐が肩から落ちかけて、慣れた風に持ち直す。重い音が鞄の中で揺れた。しかし彼女の様子を見ていると重いようには見えない。
「気のせいだよね。うん、気のせい気のせい」
 一人でただ喋り無理矢理に自己完結させると、少し遅くなっていた歩きを速める。足の長さ故に元々歩幅は大きいが、それにスピードも加わる。
 早くバハロから遠く離れたいとでも言いたいかのように、早歩きで道を歩く。地面は夏の太陽によって干からびている。
 顔を上げると日光が視界を刺した。痛みに似た感覚が瞳に走る。

 本当に束の間のひと時であった。

Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.20 )
日時: 2010/11/13 16:31
名前: ID:

Page 20 : 走

 クロは数分間カウンターテーブルの前で考えていた。手を組み顔を歪ませたままにただ案を練っている。
 だが、何もせずにただここに居るわけにもいかない。本当はバハロである程度休憩を兼ねて持ち物を整えたいというのが本音だったが、そう悠長に構えていられない。今までの彼の旅とは違い、これからはラーナーという一般人がいるのだ。一刻も早くバハロから出ていく必要がある。
「すいません、さっきの取り消してください」
「え?」
 老人は少し驚いて聞き返す。
「さっきのって」
「調べといてくださいってやつです。もう今すぐバハロを出ていくことにします」
「んん、また急だねえ」
「ありがとうございました。失礼します」
 椅子から降りるとクロは老人に軽く礼をする。はいはい、と少し適当な返事を背中に、クロは乱暴に床を歩く。洋酒の並ぶ棚の間を抜けていく。
 老人は目を細めてクロの姿を見届ける。その背中は小さい。まだ大きくなっていく途上だと思いたい。彼のような子供がこのような場所に来る理由が解決する日は、来るのだろうか。グラスを拭いていたその手を止める老人。
 クロはドアに手をかける。鈴の音が鳴った。可愛らしい音が店内を叩く。
 外の暑い空気が、冷たくひんやりとした部屋の中へと入ってくる。クロは一度振り返り、少しだけ頭を下げた。老人はそれに合わせて微笑みを浮かべた。
 ドアをそっと閉めるクロ。蒸されているような重い空気だ。照りつける太陽が暑い。全ての影の色は真っ黒に近く濃い。
 クロは目を細める。耳を傾けて、ドアに触れていた手をゆっくりと離す。踏み出す足が影の中から日光の照る道路へと出る。
 風は止んでいる。人の話声も何もしない。店の正面の家の白く色あせたポストから手紙が一つ、落ちた。溢れているのだ。

 その瞬間、クロは目を見開いた。体勢を低くしその場を思いっきり蹴り離れる。素早く振り向いたその時、クロが先程いた場所に小さなナイフが三本、音を立てて刺さる。明らかに上から、人の手がかかって降ってきたもの。人間の身に刺されば死ぬ可能性は十分。
 クロは弾かれるように上を見上げた。その瞬間に太陽の光がクロの瞳を突き刺す。思わずくらんでしまう。
 考えるよりも先に彼の手は動いた。帽子の上にかけていたゴーグルのゴムを伸ばし、目の前に持ってくる。少し陰った視界になる。太陽の光は邪魔してこない。洋酒店は三階に伸びているが、その屋上。そこにクロは目を止める。人を視界に入れた。
 ゴーグルを帽子の上に戻す。太陽の下にいる遠くのその人と、ぶつかる様に目が合う。
 黒い服のフードが髪を隠しているが、長い故に分かる。綺麗な金髪が光っている。瞳もまた金色、先程の少年だった。
 彼はクロを見下ろしている。手元に何を持っているかはクロからは見えない。クロは歯を食いしばった。
 クロは踵を返し元来た路地裏へと跳び込む。金髪の少年はその姿を目で追い、すぐに足を動かす。隣の家の平らな屋根に向かって跳び、クロの逃げていった暗く細い道を覗き込む。もう目には映らない。
 金髪の少年は眉をひそめた。が、その後また走り始める。建物と建物の屋上を渡っていく。目には見えなくとも、まだ彼にはクロの居場所が分かっているように迷いがない。
「やっぱり」
 呟いた声は見た目通り、やはりまだ幼い。


 クロはただひたすらに走る。今さっき走ってきたルートとは少し変えている。が、湿った雰囲気はどこも変わらない。
 戦うにしてもここは狭い上に住宅街だ。ポニータもいない。閃火は、今なるべく使いたくない。彼の頭の中で考えが揺れていた。
 とにかく今は金髪の少年から少しでも離れてラーナーと合流するために、バハロの外で待つラーナーとポニータの元へと向かう。
 最悪もうすでにどちらも逃げている可能性もあるが、それはそれで大丈夫だろう。ポニータがいる分、そこそこ遠くまで逃げる事ができる。
 自分は一人でも、なんとかなる。心の中で呟いた声は心地よく身体中に浸透する。だがそれも一瞬の事、すぐに振り払った。
 途中で足を転がっていた空き缶に少しとられ、体勢を崩す。スピードが落ちる。が、すぐにまた走る。足は動く。何度か曲がりつつ後ろは振り返らない。追ってきていることは確認せずとも彼は分かっていた。
 路地裏から出た。光の中へと彼の身体が包まれる。
 初めの場所だ。ここで見知らぬおばあさんに出会い挨拶され、金髪の少年を見つけた。
 足を止めることはなくまっすぐにバハロの外へと向かう。走った所から細かい砂が散っている。


 バハロと書かれた簡素な看板。それを通り過ぎる。右方向に目をやると、ポニータが目に入り次にラーナーに目をやる。
「クロ! 遅いよー」
 不満げに声をあげるラーナーにクロは苛立ちを感じずにいられなかった。が、そんなことにいちいち構っている暇など寸分もない。
「早くポニータに乗れ!」
 怒った表情で叫ぶクロ。ラーナーは目を丸くした。
「へっ?」
「早く逃げるぞ、早く!」
 ポニータはラーナーの頭を軽く突く。ラーナーは動揺を隠せずにいたが、渋々ポニータの首に手をかける。
 が、まだポニータに乗り慣れていないためにうまく乗ることができない。
 クロはそれを見て我慢できず、手早くラーナーの傍に寄り両手を組んでラーナーの前で膝を立てる。
「ここ足場にして、早く乗れ!」
「え、でもっ」
「いいから!」
 クロの必死な形相に押されたラーナーは戸惑いながらも手をポニータにかけたまま、恐る恐る左足をクロの腕に乗せる。服に隠された腕は力強かった。十分足場になる。
 そこに体重を思いっきりかけて、右足をポニータの背中の向こうにほおり上げる。クロは少し顔を歪めたが、腕は微塵と動かさまいと力を入れる。
 ラーナーの左足がクロの腕から離れる。ラーナーは鞄を背中に回した。盛る炎の上にいるのに熱くないのは未だに慣れない。
 その後クロは手早くリュックサックを軽く回しファスナーを開けて、中の一番上にあった簡易な手綱を乱暴に出す。
 手綱の先はポニータの口を入れるようになっていて、そこをポニータに促すとポニータは自ら口をそこに入れた。手綱はラーナーに渡す。
「これを持って、振り落とされないように気をつけろよ。ポニータ、行くぞ!」
 ポニータは声をあげた。先にクロは走りだす。スタートダッシュで力強く地面を蹴り、バハロの街を横目に木々の中へと潜っていく。先程ラーナーが出逢った女の子の出てきた方向だ。
 続いてポニータの足が上がる。途端にラーナーの上半身が激しく反り、彼女は慌てて手綱を強く持つ。
 少しでも油断すればすぐに落ちてしまいそうだった。ポニータの足がリズム良く地を走っている。そのリズムはあっという間に加速していった。
 ポニータはクロの隣に並ぶ。そこで少し速度は落ちたもののまだ速い。
 木々の中を潜り抜けていく。蝉の声が彼等の耳の中を激しく暴れまわる。今どこへ向かって走っているのか、ラーナーには皆目見当がつかなかった。必死に枝を避けながら前を見ようとするラーナー。風のせいで眼が激しく乾燥していくのが分かる。木漏れ日が揺れる中でラーナーは少し前にいるクロを細めでちらりと見た。口を開こうとしたが風圧でうまく話す事ができない。
 クロは真っ直ぐに前を見つめている。眉間にしわが刻まれている。
 彼の速さをラーナーは信じることができなかった。いくらなんでも速い。且つ、それだけ走っていて疲れがあまり見えない。


 しばらくその状態は均衡していた。速さに慣れてきたラーナーはようやく心に余裕を持ち始めていた。
 木々の中を抜ける。太陽がぱっと広がった。木が点在する中、川の傍にやってきていた。少し流れの速い川で、水の音が周りを包んでいる。川沿いに進みながら少しずつスピードを落とすクロ。途中でさっと振り向いた。眼には金髪の少年の姿は無い。
 遂にクロはその足を止める。ポニータは止まり切れずその前まで走り、しかしすぐに旋回しゆっくりとクロの隣へとやってくる。
 止まった途端にクロは苦しげに呼吸を荒くしていた。汗が止まることなく流れている。この暑さに加えてそこそこ長い距離を走れば、仕方ない。一方のラーナーは落とされないように神経を集中していたが、自らが走っていたわけではないため汗はない。
 速い心臓の鼓動が頭に響くのをクロは感じ、顔を歪ませる。膝に手をつき、顔だけは今まで走ってきた方角に向いていた。
 ラーナーは右足を上げて両足を揃える。その時、ポニータがゆっくりと膝を折る。ラーナーの足が地に着いた。すぐにまた足を伸ばすポニータに、ありがとうとラーナーは感謝の言葉を述べる。
 少しずつ整っていくクロの呼吸。肩の上下も収まりつつあった。その様子を見て、一度固く結んだ唇をラーナーは開く。
「クロ、どうしたの、突然」
 ラーナーの問いかけには答えようとしないクロは、袖で顔の汗を拭う。
 ポニータはそっとクロの隣に寄る。それに気付いたクロはポニータを見やると、視線を合わせた。
 びくん、とポニータは身体を大きく震わせた。軽く頷いたクロは、腰を伸ばしてずっと遠くの方を見る。

「黒の団だ」
 その瞬間ラーナーは身体を凍らせる。背中が冷えていくのを彼女は感じた。
 沈黙を数秒置いた後に、え、と掠れた呟きを漏らした。見開いた大きな瞳を動揺しつつもクロに向けている。
「バハロに、昨日からだ。何でかはわかんないけど」
「追われて逃げた、っていうこと?」
 恐る恐る尋ねるラーナー。声は震えている。
「そうだ。大分離れたけど……相手が相手だ。早く行こう」
 クロはようやくラーナーの方を見る。流されるようにラーナーは慌てて頷いた。
 河原のすぐ隣の草原の上、クロはバハロに背を向ける。それに続いてラーナーも止まらない震えを抱えたまま、俯きに振り返る。
 大きな風が吹いた。それはラーナーの髪を激しく揺らす。クロは乱暴に歩んでいた足を不意に止める。
 ポニータは声をあげる。少し近くの方で、砂利を鳴らす音が空気を震わせる。
 後方の川の向こう側にゆっくりと目を向けるクロ。帽子の下から少し漏れた髪が、風によって更に彼の顔を覆い尽くそうとしている。
 川の音が沈黙と緊張の中を流れている。

 金髪の少年が、クロの視線の先で立っていた。

 ラーナーは始めてその姿を目にした。彼の着用している黒い上着には見覚えがあった。
 頭の中に雪崩れ込むつい数日前の夜の記憶。頭を力強く、ハンマーのように叩いてくる。身体は硬直し、顔は青ざめている。
 しかし金髪の少年はそんなラーナーには目も暮れていないようで、ただ睨むようにクロのことを見つめていた。
 それを真っ向から受け止めるクロは、唇を噛む。
 金髪の少年は、一度口を開いたがまた閉じる。一歩その足を踏み出し、その瞬間にラーナーは少し後ずさる。
 クロはラーナーを守る様に少し彼女の前に身体を寄せる。ポニータは少し腰を低くしている。今にも少年に跳びかかっていきそうな様子であった。
 ラーナーにはクロの背中がいつもより一段と大きく見えた。
 金髪の少年はそっと、唇を開けた。

「白さん……ですよね?」
 怖々と、しかし芯の通ったその言葉にクロは顔を歪ませる。金髪の少年はその様子を見て、少し表情を明るくさせた。
 獣に似た金色の瞳が爛々と光ったのが分かる。

「やっぱりっ」
 幼い男の子の声がそこにあった。それは、まとっている黒の上着から連想される人間の姿とはまるで裏腹である。

Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.21 )
日時: 2010/11/13 16:44
名前: ID:

Page 21 : 頑な

 クロは右手をそっと腰にかざす。その指先には火閃の入っている袋がある。
 金髪の少年は足元を蹴り軽く跳ぶと、川の真ん中の少し大きな石に足を乗せる。軽やかな動きであった。表情もつい先程までの硬いものではない。柔らかな笑顔が見られ、ラーナーは息を呑んだ。震えは既に止まっている。
 その中で尚も警戒を弱めないクロ。足を少し動かしてラーナーに身を寄せる。一瞬ポニータに目をやり、ポニータはそれに頷く。
「白さん、僕です! 覚えてますか?」
 明るい声が響く。クロは火閃を手に持つ。鈍い重みが彼の手にかかった。
「こんなところで会えるなんて……ウォルタでのあれもやっぱり」
 金髪の少年は足を動かす。石の上を跳ね、あっという間にクロ達の目の前へとやってくる。

「閃火!」
 クロは金髪の少年が跳んだや否やその言葉を発し、持っていた閃火を突き出した。刃が筒から素早く出てきて、炎がそこから噴き出る。ラーナーはその武器の突然の出現に驚き、顔をひきつらせた。
 刃先が少年の方へと向かい、少したじろぐ金髪の少年。炎が風に揺れて、赤々としている。クロは少年を睨み続けている。
 金髪の少年はさすがに表情を引き締めた。自分に向けられている刃とクロとを見比べるように視線を動かす。
「勘違いするな」
 クロは低い声で言い放つ。
「俺は……笹波白じゃない」
 温い風が通り抜ける。金髪の少年の瞳が丸くなる。
 川の音だけが辺りに流れ込んでくる。いや、遠くに耳を傾ければ蝉の声もある。走ってきた林の中からだ。
 緊張の時間が彼等の間に訪れているその中で、金髪の少年は軽く息を吐きそっと唇を開いた。

「嘘をつくのはやめてください」
 クロは眉をひそめる。金色の瞳が少し憐れみを込めてまっすぐにクロを見ている。思わずクロは目を逸らしてしまいそうになった。
「その武器は……火閃は、白さんしか扱えないもののはずですよ」
「そう勝手にお前が思ってるだけだろ」
「嘘だ!」
 金髪の少年は一蹴するように大きな声をあげた。それにたじろぐラーナーだったが、クロは微動だにしない。 
 歯を噛みしめてじっとクロを観察する金髪の少年。クロは嫌悪感を表情に出し、ポニータに一瞥する。それに気付いたポニータは軽く頷いた。
 ポニータの足が少しだけ動く。ポニータはラーナーの肩を鼻で叩き、それにラーナーは気付いて急いで振り返る。
 大きな黒い眼がラーナーを見て、次に自分の背中の方に必死に眼球を動かす。その姿にラーナーはよく分からず首を傾げた。
 クロはその様子を見て口をきつく締める。そして息を少し深く吐くと、強い眼光を金髪の少年に向けた。その視線の強さに金髪の少年は思わず身体を震わせた。
 瞬間、クロの身体が動く。火閃を軽く後ろにそらせて金髪の少年の懐に体勢を低く飛びこんだ。火閃が振られる。が、金髪の少年はすぐにその場を後ろに跳び川の向こうに移動する。刃から出た炎が大きく円を描いた。金髪の少年はある程度の川からも距離を取って、手を地面につけしゃがみ込んだ。間髪入れずにクロは勢いよく後ろを振り向いた。
「ポニータに乗って逃げろ!」
 クロは声を張り上げた。ラーナーは一瞬の事に硬直していたが、その言葉にはっとする。
 ラーナーはポニータを振り向くとポニータは深く頷き、素早く足を畳んだ。少し迷っているのかラーナーはクロを見やった。クロはその視線に気付き大きく頷き再び金髪の少年と対峙する。
 両手を強く握るラーナー。早く乗るよう促すようにポニータは一声鳴く。仕方がなかった。遂にラーナーはその片足をポニータの身体の向こうに投げると、腰を柔らかな背中に乗せ紐を持つ。すぐにポニータは立ち上がる。
 今まで来た道に向かって走った。その様子を金髪の少年は見ていたがまるで追いかける様子は無い。クロは目を細め、その場を跳んで更に相手へと近づいた。


 どんどん遠くなっていく地面を走る音。数メートル先にいる金髪の少年を見るクロは火閃を振った。それに警戒する金髪の少年。
 地面に刃で円を描く。それに気付いた金髪の少年は目を見開き、少し足をあげる。
「炎渦鳳来!」
 叫んだ途端に金髪の少年の周りに炎がちらつく。しかしその直前に金髪の少年はその場を離れる。空中に炎の柱が上がった。
 クロは舌を打ったが攻撃の手は緩めない。炎の柱が金髪の少年の逃げる先々にいくつも上がる。その攻撃に段々と足のスピードをあげていく金髪の少年。
 炎は金髪の少年に掠りもしない。何も無い場所から噴火が起こったようなその攻撃は、十発程度やったところで一度止まった。
 少しスピードを緩めた金髪の少年だが、振り返った瞬間にクロがすぐ傍まで間合いを詰めた。火閃を振る。素早く金髪の少年は腰にあった大きいナイフを出した。刃がぶつかった。鋭い金属音。炎が二人の間で燃え盛る。
 お互い譲ることなく刃を交わらせて、しばらく硬直していたが金髪の少年は途中で後方に跳ぶ。
 大きく息を吐いた金髪の少年は、ナイフを握っていた右手を軽く叩く。衝撃で筋肉が硬直して痺れたような感覚が腕にかかっていた。
 額を流れる汗。炎による攻撃は金髪の少年の体力と気力を奪う。攻撃は当たらなくとも熱は嫌でも受ける。
 その様子にクロは再び足を蹴ろうとした。



 瞬間、クロの身体中に衝撃が走った。
 痺れと痛みが、一瞬だけ。
 一瞬で十分だった。それにクロは目を見開いた。火閃の炎は勝手に消えて刃は円筒の中へと吸いこまれる。
 その様子に驚いた金髪の少年は息を止めた。だが何よりこの状況に驚いているのはクロ自身の方だった。膝を地面につけ額を右手で抑える。
「白さん!?」
 叫ぶ金髪の少年はナイフを腰にある革の入れ物にしまい、駆け寄る。
 その言葉に弾かれるように顔を上げたクロは金髪の少年を睨みつけた。が、それにたじろぐことなく金髪の少年はクロの元に辿りついた。
「白さんじゃなかったら誰なんですか! こんな……白さんそのものですよ!」
「黙れ!」
 あらん限りに叫んだクロ。左手で腰の袋から素早く出したのは、小さなナイフだ。それを大きく振る。
 金髪の少年は驚き少し顔を動かす。直後、顔に痛みが走るのを感じた。右の頬から赤い血が滴り落ちる。
 大きく息を荒げるクロは金髪の少年が殆ど逃げなかったことに驚きを感じているようだ。目を見開いて、ただまっすぐに少年を見る。
 金髪の少年は手で血を拭うと、首を軽く振った。まるで力が無くなった様に静かに、落ち着いて。
「出来損ないの僕を見てくれた白さんは、じゃあどこに行ったんですか……」
 悲しそうに零れた声にクロは息を止めた。少し目を逸らす。
 少し間を置いて口を開くクロ。微風が流れていった。
「笹波白は死んだんだよ」
 平坦に言い放ったその言葉は、クロ自身はもう使い古した言葉だった。
 それに身体を固まらせた金髪の少年。突如として何か重いものが金髪の少年に圧し掛かったような、そんな不思議な感覚があった。
 ゆっくりと立ち上がるクロ。立ちながら金髪の少年から数歩離れる。もう呼吸は落ち着いていて痛みも何もない。

「僕は」
 呟いた声が金髪の少年から漏れた。少し顔は俯いている。

「信じない」
 その小さくも芯の通った声にクロは目を細めた。
 そっと顔を上げてクロを少し見上げる金髪の少年。拳は強く握られている。
「僕には、あなたが白さんに見えて仕方がないんですよ」
 頑なにそう言う少年は、少し口元を笑ってみせた。優しい表情は相変わらずその服装に合わないのだ。それを見るたびクロは動揺してしまう。
 どうしてこいつは笑っているんだろう。クロは頭の中で問う。さっきクロは金髪の少年に攻撃を仕掛けたのだ。
 思い出してみれば、金髪の少年は常に逃げるか防御の姿勢であった。最初バハロで会ったその時以来、攻撃はまるでしようとしなかった。
 クロは深い溜息をつく。
「お前、黒の団だろ」
 その言葉に少し戸惑いながらも、金髪の少年は頷いてはいと答えた。
「何が目的でそんなに笹波白にこだわる」
 少し気だるそうに言うクロ。金髪の少年はそっと笑う。
「自分でもよくわかっていませんから」
 その言葉にまた一つ小さな溜息をつくクロ。なんだか振り回されている気がしてならなかった。
 痛みは消えてもだるさは残る身体。クロは様々な考えを頭の中で駆け廻らせる。このおかしな場をどうやって切り抜けるか。
 少し灰色の雲が空に広がってきていた。
「ただ、白さんがいなかったら今の僕はいないので」
 相変わらずクロを見たままの少年。やはりクロを笹波白と断定しているのだろう。クロは火閃に力を入れる。
 距離はさほど離れていない。踏み込めば切れる距離だ。クロは視線を金髪の少年に刺し、それに少年は気付いていた。
「僕、あれから随分速くなったと思うので、避けれますよ」
 少し自慢げな部分も入ったその言葉に目を細めるクロ。自信があるようで、金色の目も輝いていた。
「随分自信があるんだな」
 皮肉を入れて言い放つクロに鼻を鳴らす少年。と同時に少し表情を曇らせる。
「僕にはこれしかないんですよ」
 自分を卑下するように吐きだした。その口元は薄らと笑っている。
 クロはじっとその姿を見つめた後に火閃に精神を傾ける。その途端また頭痛が走った。小さなものだが、脳内を叩いて響きわたる。明らかに自分の身体が異常であることをクロは悟る他無かった。だが、いつまでこの状態が均衡しているかどうか分からない。
 バハロの洋酒屋の老人の言葉を思い出した。少なくともバハロにはまだ三人黒の団がいる。その三人がどんな人間かは分からないが、クロの目の前にいる少年のような生温い人間ではない。
 時が経てば経つほど危険性は高まってくる。高鳴るクロの心臓の音。

 火閃は使えない。
 これ以上使えばどうなるか、クロ自身はあたりがついていた。

Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.22 )
日時: 2010/11/14 11:55
名前: ID:

Page 22 : 激動

 林が始まるあたりでポニータは木の陰に隠れてクロと金髪の少年の様子を見つめていた。
 その背中の上で不思議そうに同じく覗きこむラーナー。逃げろと言われたがポニータが足を止めてしまったのだ。
 どうしてなのか理由はラーナーには分からなかった。そして今クロが何をしているのかもよく分からない。
 遠くからでも耳に入ってきた金属音の後、しばらく戦いが止まったように見える。
 ポニータは目を細めて必死に遠くに焦点を合わせる。
「ポニータ」
 遂に出てきた言葉にポニータは後ろを振り返る。少し不安そうなラーナーの表情。
 彼女の紐を握る力が強くなる。視線をクロに向ける。しかしうまくラーナーの目には映らない。距離が遠すぎるのだ。
 風が流れてくる。瞼を少し閉じるラーナー。火閃の炎が消えているのが分かった。クロの傍に金髪の少年がいる。会話をしているだろうか、しかし何も聞こえてはこない。
 服装を見ると、まるで正反対だ。白い上着を羽織ったクロと黒い上着を羽織った金髪の少年。あの黒い上着はラーナーにとってトラウマともいえる。あれを見るだけで、記憶が甦ってくる。
 けれど混乱している彼女がいた。あの時自分に刃を向けた不気味な笑みを浮かべた男と、幼く憎めない笑顔をした少年。同じ黒の団だ、それはラーナーも分かっている。しかしラーナーは本当に悪い人なのだろうかと疑うのだ。

 笹波白。沸々と彼女の頭に浮かんできたワード。
 前も聞いたことがある。あの時、ウォルタでの出来事の時にも男はクロを見てそう言った。そしてクロは言った、笹波白は死んだと。クロと笹波白がよく似ているのだろうか、とラーナーは当たりをつける。けれど分からない。訳が分からないうちに事が走っていく。
 彼女を置いてきぼりにして全てが走り去っているようだった。そのことにラーナーは確かに不安を感じている。


 *


 クロは一つ大きな息を吐き、足に力を入れてみる。確かに感じる地面の固さを確認して、その場を後ろに離れる。
 顔を上げて目を丸くする金髪の少年。そして少し淋しげな顔をして、それにクロは眉をひそめた。同時に胸の奥が揺れる。
 火閃は一度袋の中に戻し、ナイフを右手に持ち替える。細い呼吸をして精神を集中させる。耳鳴りがひどいがそれも遠くなっていく。
 いつでも跳び出せる、隙を与えてはいけない、そう心に言い聞かせる。クロの肩は軽く上下していた。

「白さん、僕は」
「笹波白じゃないって何度言ったら分かるんだ。ものわかりが悪い奴だな」
 金髪の少年は唇を少し噛む。
「あいつは死んだよ。とっくの昔に」
「あなたは白さんが死んだところを見たというんですか」
 その言葉にクロは息を止める。少し動揺したが落ち着かせようと深呼吸をして、もう一度まっすぐ少年の瞳を見る。
 金髪の少年は深緑の瞳を改めて見て表情を歪ませる。吸いこまれそうなくらいにまっすぐな視線、緑の奥に潜んだ歪んだ色。
 ずっと追ってきた人じゃなければ誰だというのか。金髪の少年の心臓は大きく鼓動を打っている。
「そうとも、言えるかもな」
 呟いたような声は少し笑っているようにも聞こえる。
 金髪の少年は言葉を探したが絶句したまま、握っていた拳の力を少し緩めた。生温かい風が横に流れていく。
「僕は、僕は……白さんとずっと会いたかったんです。ようやく願いが叶ったと思ったんです。あなたを見て絶対白さんだって思ったんです。今でも信じられない。白さんが死ぬなんて、あの人が死ぬなんて、そんなこと信じられない」
「人は死ぬものだ」
 静かに滑らせた言葉。クロの心は落ち着いている。言葉で金髪の少年の心をかき乱す。
 金髪の少年は動揺しているのがそのまま表情に表れている。正直クロにとってはやりやすかった。金髪の少年は本当にらしくない黒の団の団員だった。
「曲がりなりにも笹波白も人間だったんだよ」
 そう言い切った時、金髪の少年は身を震わせた。浅い眠りから突如目がはっきりと覚めたような衝撃が少年を叩く。
 その瞬間の隙をクロは逃さなかった。顔を引き締めて一気に接近しようと足に力を入れた。
 が、それは叶わなかった。踏み切る直前、冷たい気配を遠くに感じた。まだ遠いが確実にこちらに向かっている。高いところだ、空を飛んでいる。
 その気配に金髪の少年も気付いた。そして同時にそれが何なのか理解した。動揺が走る。
 雲が西の方角からどんどん空を覆い尽くしていく。ゆっくりと時間をかけて辺りが少しずつ薄らと暗くなっていた。風が僅かに強くなっている。
 クロの脳裏に危険信号が閃いた。早くこの場を離れなければ。そう思ったのと足が動いたのはほぼ同時。金髪の少年ははっとした。急接近してきたクロに対応しようとしたが、間に合わない。近づいてくる気配に気を取られすぎたのだ。クロのナイフが振られる。せめて急所だけは避けようと金髪の少年は咄嗟に身体を後ろに反らせる。



 その瞬間にクロの体内で燃え上がるような痛みが彼を一蹴した。次瞬、頭のてっぺんから足の先までそれは駆ける。
 金髪の少年は目を見開いた。
 一気に頭が熱くなっていくのをクロは感じた。雪崩れるように込み上げてくるものを抑えきれずに口から吐き出した。せめてもと手で口を抑えたが、そこからも噴き出る。
 草が薄らと生えた地面に落ちたのは異様に鮮やかな赤い液体。金髪の少年の身体は固まった。
 クロは掌を離す。温かな血がべっとりとついて、そこからまたたれる。口の周りについた赤を拭くところまで彼は頭が回らない。
 遠くなっていく意識。熱くて痛い。痛い、熱い痛い。頭が割れんばかりにただ痛い。ナイフが彼の足元に落ちた。少しでも痛みを抑えようと左手で額を押さえるが意味は無い。
 途端にふつ、と何かがクロの中で切れた。

 足の感覚が無くなる。
 その場に崩れ落ちる。

 金髪の少年は絶句して動けずにいた。痺れて動かない。先程確かに様子が一変したが、今度は訳が違った。かろうじてか細い呼吸をしている。震えていた。顔中が赤くなっていて高熱であることが分かる。
 白さん、とせめて呼ぼうとした金髪の少年だが、後ろから聞こえてきた走ってくる音に振り向いた。
 ポニータとラーナーだ。その姿に金髪の少年は驚く。確かに林の中に消えていった筈なのに戻ってきた。
 ポニータは険しい形相だった。ラーナーは突然走りだしたポニータに戸惑いを隠せなかったが、クロの姿をはっきりと捉えると息を止めた。震えが起こった。クロの傍にやってきた。ラーナーはすぐに下りた。少し高さがあったおかげで足に痺れが走ったが堪える。
 目の前の状況を呑みこめなかった。少し手を差し伸べて途中で止める。激しい血の匂い。頭の中がぐるりと回り、気分を悪くさせる。思わず咳き込んでしまう。その間にセルドの姿がラーナーの頭に甦った。右手をクロの額につける。
 熱い。凄まじい熱であった。驚きに思わずすぐに手を引いてしまう。そしてその掌にはクロから噴き出している汗が付着する。
 ラーナーの少し冷たい手に反応するように薄らと瞼を開くクロ。ポニータが顔を覗きこませ声をあげる。それに応える余裕などクロには無い。
「クロ、どうしたの。こんな、すごい熱だよ!」
 しかしクロの口から声は出てこなかった。息だけが震えている。
「あなたがやったの?」
 疑いの目を金髪の少年に向けるラーナー。その途端に金髪の少年は慌てて首を振った。
「違いますっでもさっきもこれに近いことがあって」
「さっきも? そんな突然にこんなことって……ポニータは分かっててずっとクロを見てたの?」
 その言葉にポニータは頷いて応える。
「そんな……どうしよう、病院、病院? バハロに病院ってあるの?」
 明らかに動揺しながらラーナーは呟く。
 クロは力無い手を動かしてポニータの足を指先で叩く。それに気付いたポニータはクロを見る。クロとポニータの視線が絡み合う。
 軽くクロは頷いた。ポニータは空を仰ぎ遠くに耳を傾ける。遠くにある気配。
 金髪の少年は立ちすくんでその様子を見下ろしていた。手が震えているのが分かった。近づいてくるのは彼の知った人。だからこそどうしたらいいか分からなくなる。
 ポニータは足を畳むとラーナーに視線だけを向けてクロを鼻でさす。
 その仕草に首を傾けたラーナーだったが、突然に浮かんできた。クロを乗せる、と伝えたいのかもしれないと。
 ラーナーは腕をクロの身体の下に入れると力を入れて少し持ち上げる。が、やはり同じくらいの年の男の子を運ぶのは苦難だった。
 金髪の少年は唇を噛み、その後ラーナーの隣にしゃがみ込むと一緒にクロを持ち上げる。それに驚くラーナーだったが、懸命にポニータの背中へと持っていく。
 クロの血がラーナーの素肌に少しついたが、仕方がない。ラーナーは金髪の少年を見る。彼は少しはにかんでみせた。

「あなたは本当に黒の団の人なの?」
 思わずラーナーから零れ落ちてきた言葉に、金髪の少年は力なく笑った。
「そうですね。でも僕は、白さんは僕の恩人ですから」
 目を丸くするラーナー。空はいつの間にか厚い雲が大部分を占めている。
「この人は白さんと密接につながっている。本当は僕はこの人が白さんじゃないかって思ってますけどね。ただ、どうであれこの人には生きていてほしいんです」
 ラーナーはその言葉に息を止めた。強い風が髪を揺らす。改めて見ると綺麗な金色の髪だった。
 最初はその服装のおかげで恐怖しか感じなかった相手だが、もうラーナーにはその気持ちは微塵も残っていない。寧ろ淡い信頼すら寄せている。
「行ってください。多分ポニータならどこに行くべきか、分かると思いますから」
 ラーナーの心を押す金髪の少年。それに数秒経ってから深く頷くラーナー。そしてポニータに乗ろうと身体を構える。
 その時、金髪の少年ははっと思い出したように顔を上げる。
「あと、白さんが起きたら伝えてくれますか?」
 白さんとはきっとクロのことだろうとラーナーは解釈して一つ頷いた。
「ありがとうございます。……ブレット・クラークが今“疾風”です、と」
 その言葉の意味が理解することはできなかったが、ラーナーは少年の発言を心の中で繰り返す。

 ポニータは空に視線をやった。金髪の少年もはっとして上を見上げる。合わせてラーナーも顔をあげる。
 雲の下、ピジョットがこちらに向かっていた。その背中には人が乗っている。黒い衣装は黒の団の印だった。
 茶色の少し長めの髪の少年。クロやラーナーと同じくらいか、少し年上くらいの風貌である。
 ピジョットは軌道を少し変えると急降下してくる。ラーナー達の方へ向かっている。ラーナーは身体が震えあがった。ポニータが鳴いた。
「はやく行ってください!」
 あらん限りに叫ぶ金色の少年の声。ポニータがラーナーの身体をつつくと、ラーナーは急いでポニータに乗る。
 二人分の体重を乗せたポニータだが少し力を入れて立ち上がる。走ることは難なくできそうだった。
 ラーナーはクロの後ろに乗ってクロの体勢を少し直してちゃんと座らせる。クロの意識はもう飛んでいた。細い呼吸だけをしている状態である。ポニータは走り出した。方向はバハロとは反対側の方。林を背に走る。ピジョットの空気を切る音。明らかにポニータ達を狙っていた。
 金髪の少年は歯を食いしばる。ピジョットの動きをよく見て足に力を入れ、その場を跳ぶ。ピジョットは大分地上近くまで下降していた。
 右腕を振る金髪の少年。ピジョットは目を丸くする。それは背中に乗っている人間も同じ。
 空中でピジョットを捉えた金髪の少年は眼にも止まらぬスピードでピジョットの首の付近を腕で殴る。それで体勢を崩すピジョット。そこで金髪の少年は止まらずに更に身体をねじり、蹴りを入れた。
 突然の味方の攻撃に防御を取れなかったピジョットは地面に叩きつけられる。乗っていた少年は咄嗟に離れて軽やかに地面に足を下ろした。
 驚きと憎々しさが混ざりあった表情で、金髪の少年を見つめたのはウォルタで金髪の少年と共にいたバジルだった。
「疾風、何のつもりだ」
 金髪の少年は地面に降り立つ。ピジョットはよろよろと身体を起こした。
「お前、自分が何をしたのか分かっているのか」
「分かっています」
 即答する金髪の少年の言葉は冷めている。
 遠くに消えていくポニータの駆ける音。気配が遠くなっていくのを金髪の少年は確認する。
「奴は笹波白と、この前取り逃がしたラーナー・クレアライトだ。この目で確認した。それを逃がすとは、どういうつもりだ?」
 低い声は怒りがありありと出ていた。金髪の少年は小さな溜息を吐いて、力強い眼でバジルを睨む。
「僕はずっと会いたかったんです。白さんに」
 少し間をあける金髪の少年。
「白さんに僕は生きていてほしいと思ったんです」
「ふざけるのも大概にしろ」
「ふざけてはいません。僕は本気ですから」
 金髪の少年は片足を出して体勢を低くする。怒りで高い声をあげたピジョットをバジルは見やると、腰にあったモンスターボールを出してその中に戻した。
 かき消えた鳴き声。途端に静かになる周辺には、川の音だけが響く。遠くに意識を投げる金髪の少年。まだポニータは近い場所だ。
 バジルはボールを元の位置に戻すと、また金髪の少年と向かい合った。
「俺はお前の努力を知っていた。だからこそ、様々なことにお前を起用した。出来損ないでも」
「その事に関してはとても感謝しています」
「だからこそ、今回のことは許せない。許される筈がない」
 バジルは手首の骨を軽く鳴らす。金髪の少年は一瞬流れ込んできた恐怖を振り払おうと頭を振る。

「お前はこの場で俺が始末する。ブレット・クラーク」
 その言葉に金髪の少年――ブレットは唇を噛んだ。

Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.23 )
日時: 2010/11/14 12:09
名前: ID:

Page 23 : 討ち合い

 ブレットは細い息を歯の間に通して吐きだした。こうすると自然と頭が引き締まっていく。
 研ぎ澄まされていく神経。本当に集中すれば今流れている川の音も風の音も、そして揺れる草原の音も全て吸いこまれるように聞こえなくなる。無音の世界に自分を溶け込ませることができる。
 けれど今はそこまで集中させるような余裕は彼に無い。ブレット自身の精神的にもそうだし、きっと相手も与えてはくれないだろう。
 バジルはブレットのように明らかに臨戦体勢に入っているように見えない。が、ピリピリとした空気はバジルから発せられていた。ただ立っているだけなのに隙が見えない。二人の間の距離は五メートルほど。
 強くなりだしてきた風、今にも雨を落としそうな雲。重くなってきた空気の中、ブレットは口の中が乾燥しているのが分かった。
 その時、沈黙を弾き飛ばしたのはバジルだ。
 先手必勝か、一気に間合いを詰めると足を回す。ブレットは警戒していたおかげで上に跳んでそれを避ける。大きなジャンプだ。高いが、加えて距離もとった。
 それを眼で追うバジル。ブレットは空中で一回転して着地する。バジルとブレットの位置が変わった。地面に着いたその瞬間、ブレットは走りだす。方向はバジルとは正反対の林へと。それに驚いたようにバジルは目を丸くする。
「疾風、逃げるつもりか!」
 挑発の意を含めてそう叫んだバジルだったがブレットは足を止めない。その様子を見るとバジルは舌打ちをしてその後を追う。
 ブレットは軽く後方を向いて、相手が追ってきているのを確認した。何とか自分が思った通りに事は進んでいる。
 少しでもがクロが安全になれるように時間稼ぎをする、それがブレットの狙いだ。それに隠れ場所が無い広い草原よりも、木々が茂る林の中の方がブレットは得意だった。
 林の中に跳び込む。それと同時に地面を強く蹴り空中に跳び上がるブレット。一つの太い枝に手をかけると一気にその枝に足を乗せた。
 休む暇は無い。軽い足取りでどんどん木から木へとジャンプして移動していく。
 すぐ後にバジルも林の中に入り上を見上げた。木の葉がざわめいている。大きく枝が揺れていてそれがほぼ直線状に同じように続いていた。ブレットの通った形跡だと確信する。
 バジルはブレットが向かう方向へと足を走らせる。木々の間を抜けながら追った。しかし段々と離れていく二人の間の距離。流石の速さにバジルは脱帽せざるを得ない。
 と、その途中でバジルは急ブレーキをかける。急に空気が静まり、バジルは辺りを見回す。五感を研ぎ澄ませるが、求めるものは無い。ブレットの気配が突如として消えた。走っているような音もしない。一歩ずつ静かに歩を進めながら様子をうかがう。
「気配を消したか……まだ近くにいるはずだ」
 ぼそりと呟く。真上に目をやると背の高い木々の間から厚い雲が顔をのぞかせる。
 バジルは下に視線を向け、そっと目を閉じて地面に右手をつける。細い呼吸をして、集中する。風が彼の髪を揺らした。



 その様子をブレットは少し遠目ながら観察していた。人が手をつけない故に上へとひたすら伸び続ける木に身を寄せて。
 全神経を集中させて無の静寂を創り出す。息は細々としていて決して音は立たせない。身動き一つしない。瞬きさえもなるべくしないようにと心がける。
 金髪である故に普段目立つが、高さに加えて青々しい木の葉がブレットの身を隠している。
 ブレットは唇を噛んだ。こうして何もしていなければ動かない。あっちが何をしてくるか分からない。――そう、分からないのだ。
 幾度となくブレットはバジルに任務を任されて信頼を得てきたものの、ブレットはバジルについて何も知らなかった。
 彼が持っている潜在の力、それがどれほどでどんなものなのか、ブレットは知らない。あれほど近くにいたのに。けれど、少なくとも自身より上なのは確かだ。黒の団においては一部を除き戦闘の実力順に優劣がつけられる。ブレットはバジルよりもずっと下の層。バジルの地位は少し特殊なものでもあるが。
 どうであれ迂闊に戦えば危険だ。バジルはブレットの立場とは逆にブレットの事をよく知っている。
 今バジルのしている行動もブレットにとっては何をしているのかさっぱりだ。どんな意味があってやっているのか全く当てが無い。が、意味のない行動である筈がない。
 クロに出逢った時のようにナイフを投げるか、いや、そうすればきっと避けられる。そしてこちらの居場所が突き止められる。
 思わずブレットは溜息を吐きたくなってしまう。それでも結局自分には足しかないのだ。どんなに考えようとやれることは随分と限られている。自分の力のことなど自分が一番よく知っている。この戦いだって勝ち目が無いだろうという諦めは薄々とついていた。
 それでも、ブレットは自分がやるべきことを貫く他無い。戻ることができないのなら進むしか無いのだ。
 バジルが今ブレットの位置を把握していないのは分かっている。枝を蹴り一気に跳び下りる。引力も助けてスピードは更に乗るだろう。
 一気に決める。

 強風に煽られる木の葉のいくつもの音。すっと息を吸い込むブレット。
 相変わらずの姿勢のままで、バジルは閉じていた瞼をゆっくりと開いた。乾いた唇を無意識に舌で舐める。
 右手を地面から離れさせる。
 それを見届けたブレットは足が小刻みに震えているのを感じた。頭の中が一瞬ふらついて、が、すぐにそれを押さえようと確かな意識を保つ。
 獣に似た瞳が光る。枝に両手を当てて、顔を俯かせた。今にも跳び出してしまいそうであった。見開かれた眼の瞳孔が少し縦に伸びる。
 両手の指先の力が強くなり、爪が変形する。一気に五センチほど伸びて先が鋭く尖り更に硬化する。ぴりぴりとした痺れのような痛みが一瞬で全身に行き渡る。
「グ……」
 思わず若干零れ落ちた声。低い声だった。震えながらゆっくりとバジルを見下ろす。視線の先、一直線上に彼はいる。
 ブレットは一気に息を吸い込んだ、その直後、枝を思いっきり蹴った。電光石火の如く恐るべきスピードだ。
 バジルはそれに気がついて弾かれるように上を見た。が、上を見上げたと同時にブレットはバジルのすぐ傍にいた。息をつかせる暇もない。瞬間移動でやってきたかのようだった。身体をひるがえすバジル。ブレットは逃さまいと言わんばかりに目で追う。バジルの動きは手に取る様にブレットには分かった。ブレットの方が速いのだ。手を振り上げた、そしてすぐにそれを一気に下ろす。尖った爪が立ち、バジルの身体、左肩から下へと引き裂く。叫び声をあげるブレット。その声は今までとはまるで別人のようだった。
 バジルは鋭い痛みに顔を歪ませる。が、歯を食いしばって後退すると、着用していた黒い上着を剥がすように脱ぐと、それをブレットに向かって投げつける。一瞬視界が黒くなったブレットだが、咄嗟に避けた。バジルは右手で肩を押さえながらも眼だけはブレットを追う。灰色の無地の長袖のVネック、一番ダメージが大きかった左肩からは赤い血が吹き出ていた。
 右の袖からブレスレットが覗く。黒いものだ。バジルは右手に力を込める。
 ブレットは再びバジルに近付こうと足を動かした――が。

「!?」
 ブレットは眼を見開く。前に倒れ込む。足は動かない、いや動けないのだ。必死に動こうと身体をねじるブレット。その様子を見たバジルが思わず口元を上げる。
 掴むようにブレットの足元に巻きついているものがあるのだ。それは、近くの木から伸びた太い根であった。
 荒かった呼吸が少しずつ落ち着いてくるブレット。飛んでいた自制が戻ってきて、急速に心が冷えていく。爪も瞳も元のように戻る。
 倒れ込んだままブレットは動けない。根が巻きついているせいでうまく起き上がることさえできない。体内を流れる血を止める勢いで根は更に引き締めを強くする。
 ブレットはそれにするどい痛みを感じ、抜けようと必死に足掻いた。
「一瞬でも本物の獣になり下がるとは、堕ちたものだな。疾風」
 その声に顔をあげるブレット。うつ伏せで倒れているブレットを見下すバジルは、嘲笑するように身体を震わせる。
「所詮お前は出来損ないだ。足さえ封じてしまえばこちらのもの」
 ブレットは地面が僅かに揺れているのを感じた。が、それを察知したのも束の間、地下から手元に木の根が顔を出し、一気にブレットの両手の手首に巻きつく。
 強く締めつけられ、痛みが襲う。手首と足首を封じられたブレットは、身動きを完全に取れなくなった。
 ぽつり、と一筋の水が真上から落ちてくる。ゆっくりと雨は降り始めて、少しずつその量は多くなっていく。二人の身体が急速に冷えていった。
 バジルの服の左肩の部分は彼の血で染まっていた。
「死に急いだな」
 ブレットは雨の音が耳に痛く感じられた。夏故に暑い筈なのに、だんだんと寒くなってくる。
 量の多い金髪が濡れてしなり、顔に張り付く。頭についている包帯も濡れる。熱くなっていた頭の中がふらふらとしている。
 バジルは一歩ブレットに近付いて、じっと見つめる。
「これが、あなたの力ですか」
 ブレットは震えた声で問う。バジルは少し間を置いてから軽く頷く。
「そうだな」
「初めて見ました」
「初めて見せたからな。少しはその身で分かっただろう」
「そう、ですね」
 ブレットは足に違和感を感じた。痛みが激しかったが急にそれが消えて、何も感じなくなった。足という存在が消えたのではないかと疑うくらいに、感覚が消えた。
 ゆっくりとしゃがみ込むバジル。視線が絡み合い、バジルは溜息をつく。その音は雨で掻き消された。
「何もかもお前は中途半端だ。これを使えば、一瞬で終わっただろうに」
 そう言うと、バジルはブレットの首元に手を運び、ソレを引っ張る。細い細いチェーンのペンダントだ。丁度引っ張った所には加工された石のようなものがついている。
 ブレットはそれを持たれた途端に心臓が大きく高鳴るのを感じた。金髪の下の顔が引きつる。バジルはそれから手を離して、またブレットに向き合う。
「本気で俺を殺そうと思えなかったんだろう。その中途半端な気持ちで俺に勝てるとでも思ったのか。お前は気持ちまで出来損ないだとは思わなかったけどな」
「く……」
 激しく罵倒されるブレットは反撃をしたかったが自身は動けないし、返す言葉も見つからない。
 確実に強まっていく雨。水が地上に叩きつけられる音はブレットの鼓膜を引っ掻くように響く。
 どうしてあんなことをしたんだ。
 バジルは声にもならないような呟きを零す。勿論それはブレットには聞こえていない。ただ口が動くのだけはブレットにも分かり、少し首を傾げる。
 唇を噛みしめるバジル。両手を震えるほどに強く握りしめるとその身をひるがえした。
「毒を入れた」
 ブレットの耳に届くように言い放つバジル。
「すぐに身体を回る。そう長くない。……一人で、誰にも見られず死ぬんだな」
 濡れた草原を踏みしめる音が始まる。雨の中少し遅いテンポで僅かに辺りにこだまして、そしてブレットから遠ざかっていく。
 雨の霞の中に溶けていくバジル。その姿を呆然とブレットは見つめる。



 ひとり、ブレットはその場に取り残された。
 手足の木は緩む気配なく、その場にブレットを縛り付ける。けれどそれがもしも解かれたとしてもブレットは動くことは叶わないだろう。足の感覚が全くないのだ。
 恐らく毒を入れられたのは足。木の先にでも付いてブレットの足を突き、直接体内に流れ込んだのだろう。
 戦闘の疲れと毒とで体力と気力を完全に失ったブレットの視界は、もやがかかり始めていた。
 彼の耳に流れて込んでくるのは雨の音だけ。
 冷えていく身体。遠くなっていく意識の中で近づいてくる自分の最期に、ブレットは瞼を少し閉じた。
 だけど、これで終わりにできる。
 心の中でぼんやりと光る思い。瞼が重くなる。急激に眠気が襲いかかってきたのだ。疲労が身体中に重く圧し掛かる。
 片隅で思い出される少年の姿。小さくなっていく背中、その後に映るのはクロの姿だった。ブレットが長い間求めていた瞳と同じ瞳を持った少年。
 雨は絶えず彼を叩く。
 その音もブレットから離れていく。

 彼は瞼をそっと閉じた。
 眠気に任せて沈んでみると、とても心地よい感覚が彼を包んだ。

Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.24 )
日時: 2010/11/14 12:18
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Page 24 : 目覚め

 ボロボロのカーテンの隙間から差し込んでくる太陽の光。
 古い本に鉛筆で黒く書き殴りがしている紙が床中に散らばって、更に衣服といった生活用品なども加わって部屋の中は混沌としていた。足の踏み場も無い、とは正にこの部屋のことを言うのだろう。が、かろうじて人の通った跡のような物がどけられた場所もある。まるで獣道のようだ。
 電気がついていない為に太陽の光のおかげで少しだけ明るくなっている部屋。ただ古い小さな扇風機が危なげな機械音と共に稼働していた。
 風が送られている先は低く小さなベッド。詳しくはその中の人へ向かって。

 ベッドの上、クロはゆっくりと瞼をひらいた。
 彼の目の前に広がるのは木の低い天井。一瞬戸惑ったがクロにとっては見覚えのある景色だった。何度も見た天井だ。
 だから彼がいる場所も、少し頭を整理させて考えてみればクロは分かった。だけど今どれくらいの時刻なのかは分からない。
 起き上がろうと思い身体を動かそうとしたが痛みが全身を麻痺させる。どうにも動けそうにない。
 溜息をつく。額に浮き上がっている汗を拭くことすらできない。指先なら動くが腕を上げることは叶わなかった。
 もう一度瞳を閉じて眠りに戻ろうとしたが眠れるような気がしなかった。全身がだるさで包まれているが、眠気はどうも吹き飛んでしまったらしい。それでも無理矢理に寝ようと暗闇の中に自分を落とす。
 その時、ドアが軋みながら開く音が響き、クロは目を開けて視線をそちらに向ける。
 思った通りの人物だった。ドアを開いた男の子はクロが起きているのに気付き、目を丸くした。
 黒い短髪、濃い青の半そでのパーカーに白いプリントTシャツ、それにジーンズを穿いている。
 クロは首を少し動かして彼と向き合った。ドアに立つ男の子はにやりと笑って見せて、ベッドに近付いていく。途中で机の上に持っていた本などを置いて、クロの傍らに立つ。
「よぉ起きたか。今回こそはまじで死ぬんじゃないかなって思ったわ」
 両手を腰に当てて笑いを含みながら彼は言う。それに応えるようにクロは少し笑みを浮かべた。
「そんな簡単に死んでたまるかよ」
「目ぇ覚ましたから言える台詞だよなー。お前今回どんだけ寝てたか分かってんのか、分かってないだろ。二週間だよ二週間。最高記録を一気に塗りつぶしたんだよ。なげえよ長すぎるよまじこっちの身にもなってみろ。いっそ死んでくれた方がましだぜ。いや死んじゃだめだな、折角の稼ぎ相手が消える」
「二週間、か」
「そうだ二週間だ! その間飯がいらなかったのに今日からはお前の分が必要なのか……くっそ面倒くさいな。まあ今日はまだそんな食えねえか。二週間も寝た寝坊野郎に食わせる飯なんざ大してないぞ」
「……お前、今日はやけに喋るな、アラン」
 少し呆れたように言うクロに、相手――アランは眉をひそめる。
「そうか? いつも通りのつもりだけどな」
 大きく溜息をついてアランは小さな窓に近づいてカーテンを一気に開け放つ。途端に部屋が眩しい光で照らされて、クロは目を細める。光によって細かい埃が舞っているのがよく分かった。いつから掃除をしていないのか、想像もつかない。
 固い窓を開けるアラン。油でもさした方がよいのではと薦めたくなるくらいに開けるのに手こずっていたものの、開けると僅かながら空気が循環し始める。
 二階の部屋であるが故に景色は少し高く、日当たりも悪くない。それなのにこの散らかり具合なものだから、勿体なさを感じずにはいられない。
「で、お前に聞きたいことは山ほどあるんだ、もう、本当に――お前、なんで女の子と旅なんかしてんだよちゃっかりと!」
 言いながらクロの頭の上にアランは顔を近付けた。一種の怒りにも近い形相で、クロは思わず顔を引きつらせる。
「なんだお前突然」
「しかもあれだ、普通に可愛いし性格もいい子だしなんなんだ、お前あんだけ人嫌いしておきながら女の子と……ラナちゃんと二人きりで旅とか……信じられねぇ今でもまだ信じられねぇ」
「おい勘違いしてる。二人きりじゃない、ポニータがいる」
「ポニータがなんだって言うんだポケモンじゃん! くっそおなんだろうなこの敗北感っていうのか、くそ。で、なんでだ、どういう経緯でそういう関係になったんだ!」
 ますます顔つきが険しくなっていくアランに目を逸らすクロ。ただでさえ気温が暑いというのに尚更暑苦しさが増す。
 クロはだんだんと頭痛がしてきたのを感じ、確実に嫌気がさしていた。
「色々あったんだよ。色々」
「そんな簡潔なことですまされるようなことじゃないだろ絶対に! 基本的に人と仲良くしないお前が、どういう風の吹きまわしだよ!」
「ああ分かった分かった。そのうちちゃんと話すから。まだ起きたばっかでけっこう辛いんだよ。静かにさせてくれ」
 できるならアランのどこかを殴って黙らせたいという衝動に駆られたクロだったが、相変わらず身体は動かない。
 それを聞いて少し落ち着いたのか諦めたのか、アランは深い溜息をついて体勢を伸ばした。
 急に静かになった部屋。風に飛ばされた数枚の紙が音を立てて空を舞う。
 アランは身をひるがえすと部屋を出ていこうと足を動かす。その途中で足を止め、クロを振り返った。
「早く動けるようになれよ。ラナちゃんが相当心配してんだ。お前知らないから言うけどな、あの子も大変だったんだ。三日間くらい風邪で寝込むわ足は痛めてるわ痛々しいにもほどがあったんだよ。それでもずっとお前のこと心配してたんだ。自分が辛くても」
「……」
「心配させんじゃねえよ」
 最後に吐き捨てるように言うとアランはそそくさと部屋を出ていき、勢いよくドアを閉める。
 本当の静寂が訪れる。部屋に一人取り残されたクロ。
 ようやく静かになってクロは息をついた。アランのおかげで若干頭痛がしていたがそれもようやく治まる。
 目を閉じて静寂の世界に浸かり、外から少しだけ聞こえてくる微風の音に耳を傾けた。
 そうして心を落ち着けさせようとする。けれどやはり眠気は来ない。かといって動くことはできずもどかしさが彼に訪れる。

 何もできずそのまま数分時間が経った後にクロはぱっと瞼を開く。耳に入ってきた廊下から何かが近づいてくる音。
 二度ノックの音が部屋に響き、ゆっくりとドアは開く。クロは少し目を丸くした。部屋に入ってきたのはポニータだ。
「ポニータ……家の中に入ってきちゃだめだって前から言われてたろ」
 そう言いながらも満更でもなさそうな表情をクロは浮かべていた。少し嬉しそうである。
 ポニータは部屋に足を踏み入れると再び鼻を使ってドアを少し開けながらもほとんど閉める。ドアノブ無しだからポニータでも開閉可能なのだ。
 ゆっくりと床にある物を踏まないように慎重にクロの元にやってくるポニータ。少し細めた目の睫毛は相変わらず長く、安心しているように見えた。
 身体に燃えている優しい炎が風に揺れる。その頭を撫でてやりたいクロだったが痛みに堪えることはできない。
「今回は許してもらえたってやつか。アランの奴、なんだかんだいってあいつも心遣いはあるんだよな」
 ポニータは顔を近付ける。
「あいつ、風邪ひいたって本当か。足も痛めたって」
 その言葉に少し間を置いてからそっとポニータは頷いた。それに深い溜息をつくクロ。
「俺が寝てる間に随分と色々あったみたいだな。といっても俺もまだ動けない状態なんだ。身体が痛んで手も満足に動かせない。もうちょっともってくれるかと思ったけど、予想外に黒の団と会ったせいだな。やばかったのに火閃を使いすぎた」
 力無くクロは笑う。それから急に顔を淋しげに曇らせる。
「自分の身体だってのに暴れ馬でうまくいかなくて、馬鹿みたいだ」
 口元で息を吐くように呟いた。

 しばらく声を発さず静かな空間になる。この部屋の中でクロしか話すことはできないから、クロが話しかけなければ静かになる。
 ポニータは足を運んで窓の傍にやってきた。部屋から下をそっと見下ろす。
 ポニータの目に入ってきたのはラーナーの姿だ。家の前の狭い道路の掃き掃除を行っているようである。小さな竹箒を持っていた。服装はウォルタを出た時のものではなく、青と白のボーダーのTシャツにジーンズを着ていた。少しサイズが大きいようだがラフで涼しげな格好だ。
 黙々と掃除に取り組むラーナーは、まだクロが目を覚ましたという事を知らない。アランは彼女にそのことを話していないのだ。
 今でこそ肌の血色も良く元気な姿を見せているラーナーだが、ポニータは先週のことを頭に思い起こすと更に頭を俯かせる。
「そろそろ……」
 呟いたクロの言葉にポニータは振り向いた。
「少し眠くなってきた。ちょっと、寝るよ」
 既に声はほとんど眠りに落ちていて、一分もしないうちに部屋に彼の寝息が小さく浮かび始めた。
 ポニータと話すことで安心したのだろうか。一方のポニータも安堵を浮かべて音を立てないようにそっとドアに近付いた。あらかじめ数センチ開けておいたドアの隙間に鼻を入れるとそれを引いて、部屋を後にする。残念ながら部屋から出ていく時にポニータはドアを自分で閉める事ができない。
 が、ドアは閉められた。傍で待機していたアランによって。
 アランはクロの様子をちらりと覗いた後にドアを閉めて、ポニータに向かって微笑む。
「悪いなポニータ。やっぱさあ、クロを落ち着かせるのはお前が一番いいって思ったんだよな」
 言いながら木の床の廊下を歩くアラン。その横について歩幅をポニータは合わせる。
 と、途中でアランは足を止めた。少し唇をきつく締めてからそれを開く。
「ラナちゃんにはもうちょっとしてから言おうと思うんだ。そりゃあ今すぐにでも教えてやりたいけど、あいつまだ動けないじゃん。動けるようになってから会わせてやらないと、下手になんかあったらクロが困るし。どこまでラナちゃんが知ってるか知らないけどさ」
 アランは途中で言葉を区切ると大きく声も入れて溜息をついた。
「くそ、あいつはこれだけ俺が気ぃ使ってるってことも知らないんだろうな。腹立つほんと腹立つ」
 ポニータは少し喉を鳴らして笑う。アランはそう言うが、クロは気付いているのだから。
 アランは腕を頭の後ろで組んで低い天井を見つめる。廊下にある窓は開け放たれて、外から少し強い風がやってきた。

「ほんとに、腹立つよなあ」
 言葉を噛みしめるようにアランは言う。その後思いっきり伸びをして再び歩き出し、クロのいる部屋から遠ざかっていった。

Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.25 )
日時: 2010/11/14 21:37
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Page 25 : 笑い

 日陰に身を置くと、ラーナーは小さな溜息をついた。つい落としてしまう視線を上に向ければ、柔らかな青い空が覗く。
 レンガを所狭しと並べた道路はそこまで広くなくて、車が二台ぎりぎり通れるほどである。雰囲気が彼女の故郷ウォルタと少し似ていて、ラーナー自身はここにいることに安心感を覚えていた。
 手にしていた竹箒を建物の壁に寄りかからせると、大きく伸びをする。固くなっていた身体がリラックスする。
 と、彼女の後方の方から何かが軋むような音がした。ラーナーはそれに気付いて右に歩く。建物の隣には小さな駐車場のスペースがあり、そこをラーナーは覗きこむ。
 すると建物の駐車場に面したドアが開いて、中からもうラーナーも見慣れた顔が二つゆっくりと出てきた。
「アランくん」
「おーラナちゃん。箒持ってないってことは掃除終わった?」
「うん。今終わったとこ。ポニータまで中にいたんだね。どこに行ったのかと思ってた」
 ラーナーはアランの元に歩み寄る。ポニータが身体を全て出したところでアランは木のドアを閉めた。軋む音は少し遠くでも聞こえるくらい大きい。
 油でもさせばいいのにとラーナーは何度か言ったが、この家の者達は一向にそういった気配を見せない。いつも軽く笑って流すのだ。
 アランは一つ大きな欠伸をして、肩を回す。するとよっぽど肩が凝っているのか、大きな音が何度か跳び出してきた。
 ラーナーは苦笑いをした。
「肩凝ってるね」
 思わずそう声をかけてしまうラーナーに、力無くアランは笑う。
「まあなー肩凝ることやってるからなー。あー早くもじいちゃんの仲間入りだ」
 言いながらアランは大きな伸びをすると、やはり身体のあちこちから身体の悲鳴とも取れそうな音がする。
「おつかれさま」
「あーありがとー。でもまたそろそろ戻らねえといけないし、まだまだこれからだよ」
「相変わらず大変だね」
「まあな。でも全部俺が決めた事だしやりたい事だし、ちょっと辛くても苦しくはないさ」
 ラーナーはその言葉に目を細める。無意識だろうが彼はその言葉をもう何度も口にしている。本当の心情をラーナーがはかることはできないが、まるで自らに言い聞かせているようにラーナーには聞こえた。
 ただ実際彼がやりたいと思っていることなのは真実なのだろう。そうでなければこれだけ一生懸命にならないだろうから。
 ポニータが眠たげに欠伸をする。瞬きの回数が多い。
「なんか、アランくんもポニータもちょっと眠たそうだね」
 その言葉に苦笑するアラン。
「ちょっとは休んだら? 身体壊したら元も子もないし」
「大丈夫安心しな。この程度で身体壊すほど弱くないから」
 そう言いながらアランは手を顔の手で振り、その後ポニータの頭を一度撫でてからラーナーに背を向ける。
 彼はドアを開いて建物の中へと踏み出した。がんばってね、とラーナーは一言声をかけるとそっとアランは笑って、中に姿を消した。
 急に静かになった雰囲気にラーナーは息を吐いた。少し後ろに下がって日陰から出て、建物の屋根の方に目を向ける。
 二階建ての建物の屋根は薄く汚れた茶色で、緩やかな斜めのラインを創り出している。その上に寝転がっている一匹のポケモンの姿があった。
 エーフィだ。日光浴をしているようで心地良いのか目を閉じて、寝ているようだった。ラーナーからして見ればどうしてこんな暑い中日光に当たれるのか疑問だった。
 もう一匹のラーナーの持つポケモン、ブラッキーの姿はそこに無い。が、ラーナーは知っている。彼女はすぐ近くの大きな木に視線を移すと、やはり鬱蒼とした木の葉の中にブラッキーはいた。
 少し目をこらさないと見えないが、太い枝にその身を下ろしている。
「皆のんびりしてるねえ」
 ポニータに声をかけるラーナー。ポニータは頷いた。
「なーんか、何にもなくて平和ボケしちゃいそうだね。全然危ないこととか無いし」
 存分に羽根を伸ばしている彼女は、その言葉を幸せそうに吐き出していた。自然に優しい微笑みを浮かべている。
 視線の先にいるブラッキーが、寝ている為に少し足のバランスを崩して落ちそうになったが、すぐに戻して何事もなかったかのように過ごす。
「早くクロも起きてくれればいいのに」
 ぼそりと呟いた声はポニータの大きな立った耳に届いて、ポニータは少し彼女から視線を逸らした。
 ラーナーはくるりと身体の向きを変えると竹箒を取りに行く。それを取るとアランの入っていったドアに手をかける。
「中の手伝いしてくるね」
 一応ポニータに一言残して、ラーナーは中に入った。

 残されたポニータは顔を俯かせて、数歩建物から離れると一つの開いた窓を見つめる。その窓の部屋の中にいるクロはすでに意識を取り戻している。ラーナーが知らないだけで。
 それを彼女に教えることができるのは今現在はアラン一人。高い知能を持つポニータも人間の言葉を話すことはできない。
 それはポニータにとってはもどかしいものであった。


 中に入ってドアの傍の傘立ての隣に竹箒を置き、ラーナーはそのまま廊下を歩く。
 落ち着いた焦げ茶色の床、眩しくない柔らかな白の壁の内装。廊下をそのまままっすぐ行くと右や左に様々な部屋へと続いている。が、そこにはラーナーは目を配るだけで入ろうとはしない。
 途中で廊下の角に当たりそこを右に曲がった。だんだんと人の声が耳に入ってきた。視線の先には大きな部屋。
 ドアは無くそのままそこに入ると何人かその部屋にいた。


「はいお釣り」
「ありがとうね、じゃあまた来るわ」
 明るい会話にラーナーは目を向ける。そこには少し小太りの女性がカウンターに立ち、その正面には老婆がいた。老婆は小さな茶色の紙袋をもらって、背を向けた。
 中にはカウンターの他には二つの小さな丸い焦げ茶の木のテーブルと、同じ色をした椅子がそれらを囲むように全部で六つある。
 少し高めの天井といくつもある窓のおかげで解放感のある部屋だ。
 カウンターにいる女性はラーナーの姿に気がつくと途端に満面の笑みを浮かべて彼女に近づいた。
「ラーナー。掃除やってくれた?」
「はい。今日はあんまりゴミが無かったので、早めに終わりました」
「いっつもありがとうね」
「いえいえ、このくらいどうってことないです。それより、こっちで何か手伝えないかなって思って」
 そう言いながらラーナーは軽く辺りを見回す。
「アランも働き者だけど、あなたもよく働くわよねえ。助かるけど、たまには休まないと過労死しちゃうわよ」
「ははっ大丈夫ですよーそんなに働いてないですから」
 楽しそうに笑いながら会話を弾ませている。すると、カウンターの後ろからアランの顔が突如覗く。
「おばさーん薬できたよー何話してんのさー」
 その声に女性は振り向いて大きく笑いながらアランに近付いた。
 それからアランの右手が持っていた白い紙袋を受け取り、そこに書かれた文字とカウンターに置かれたメモとを見比べる。
「ありがとありがと。えーっとこれは……アレクシさんか。アレクシさーん!」
 そこまで大きな声を出さなくても部屋の広さを考えれば相手に聞こえるのだが、癖なのだろう。叫びにも似た大きな声だ。
 その声に椅子から立ち上がる中年の男性。カウンターに来ると持っていた茶色の革財布に手をかけた。
 女性はアランからもらった小さな紙袋をさらに別の、先程老婆に渡したものと同じ紙袋に入れるとレジの前に立つ。それから慣れた手つきでレジのボタンを素早く押していく。
 アランは再びカウンターの奥へと消えた。それを見守るラーナーにお金を探っている男性は目を留める。
「エリア、新しいお手伝いさんかい?」
 男性はラーナーに手を向けながら女性――エリアに尋ねる。その言葉にエリアは嬉しそうに笑う。
「そういうわけじゃないんだけどねえ。ちょっとワケありでうちに泊まってんのさ。すごく良い子だよ」
「へえ、かわいい子じゃないか。この家にはもったいないな。アランが連れてきた彼女かとも思ったけどなあ」
「この家にもったいない、は余計だねえ。アランは彼女を作る暇なんてないよ。出会いが無いしね」
「それもそうか」
 そう言いながら二人は大きな声で笑う。それにつられてラーナーも思わず笑ってしまう。
 男性はお金をカウンターに出すとエリアはその金額を確認しレジに打ち込んだ。打ち切ると心地よい高い音がレジから放たれる。
「丁度だよ。また来てね」
「はは、早く来なくなれるようになるのが一番じゃないか。じゃあ、ガストンの旦那とアランによろしくな」
 袋を受け取ると軽く手を振り、その場を後にする男性。ラーナーは自然とお辞儀をした。ドアが開くと鈴が鳴る。このドアは流石に滑らかに動くようになっているようだ。
 ふぅと息をつくと、エリアは再びラーナーの方を向く。
「ほんとに休んでいいんだよ」
 先程までの高いテンションから一転、優しい撫でるような声。それにラーナーは横に首を振る。
「何かやりたいんです」
「そうかい? じゃあ棚の整理してくれる? そこの棚の。どこに何を置くかとかは全部書いてあるから」
 エリアは人差し指でカウンターのエリア側にある棚を指す。
「はい!」
 ラーナーは花が咲いたように顔を明るくさせるとカウンターの中に入り、棚の前に立つ。
 少し背の高い棚で、一番上の所はラーナーの背丈では届くか届かないかくらいだった。
 棚に並んでいるのは、ラーナーも見覚えのあるたくさんの種類の、いわゆる市販の薬である。所狭しと並んでいるが倒れたりばらばらの種類が何故か重なっていたりしている。
 それに手をかけるラーナー。こうやって力になれることが彼女にとって幸せだった。



 トレアスの町。程よく賑わった落ち着いた町。
 その町の中心近くにあるガストン・オーバンとエリア・オーバンの二人が経営する薬屋。
 そこにクロとラーナーは身を置いていた。

Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.26 )
日時: 2010/11/14 21:55
名前: ID:

Page 26 : 料理

 夕日は沈み、辺りが暗闇に包まれていく。西に残る光がかろうじて町を照らしているが、真っ暗になるのも時間の問題だろう。
 オーバンの薬屋も店を閉める時間になった。それを示す為にアランは正面の扉を開き、扉に付いた紐がかかった小さな木の看板を回す。「OPEN」と書かれたものが引っくり返って「CLOSE」の文字を示す。
 それから扉の近くにある電灯に手を伸ばすと上にある大きな黒いネジを回す。するとそれに合わせて淡い白い光が灯った。
 電灯を付けると、アランは扉を開けて家の中へと戻る。
 中ではラーナーがせっせとカウンターを布巾で拭いているところだった。
「ラナちゃん、それはもういいからさ、そろそろ夕食だ」
「あ、うん」
 ラーナーはアランに言われると布巾をカウンターの端に置く。
 その後アランはカウンターの後ろに回ると奥の部屋を覗き中を見回す。
 六畳程のその部屋の壁は沢山の木の棚がおおい尽くしていて、大きな木のテーブルが真ん中に置かれていた。
 そのテーブルの上には様々な草や紙、小鉢などが乱雑としていた。独特の鼻をつく匂いが漂っており、机の向こう側で椅子に座りながら居眠りをしている、白いTシャツと黒いジーンズを履いた中年の男性がいた。
 しっかりと掃除をされた床をアランは歩き、その男性の元へと近づく。木を歩く音が響くが、男性は小さないびきをかいていて気付かない。
「師匠いつまで寝てるんですか、夕食です!」
 大きな声を張り上げるアランだが、その言葉を吐くと同時に狙ったのではというぐらいのタイミングで大きないびきを男性はあげた。そのおかげでアランの声は男性に届かなかったようだ。
 その様子を覗き見していたラーナーは苦笑いをする。
 アランは全く起きる気配がないことを確認すると溜息を吐き、その後思いっきり息を吸った。
「師匠、夕飯ですよ!!」
 男性の耳元でアランは叫んだ。その途端男性の目がはっきりと開き、次の瞬間男性は椅子から転げ落ちていた。
 絵に描いたようなオーバーリアクションにラーナーは思わず顔を引きつらせた。が、それに動揺することなくアランは手を腰に当てて男性を見下ろす。
「疲れても食べないとエネルギーは出ないっていつも言ってるじゃないですか。早く食べましょう」
「……あ、ああ……耳がジンジンする」
「おばさんが待ちくたびれますよ」
「す、すぐ行く。ちょっと待て」
 少し慌てたように男性は立ち上がり、机の上を軽く片づけ始める。目に眠気は欠片も消えていた。
 アランも続くようにその片づけを手伝う。

 思わずラーナーは口元で笑い、身をひるがえすとその部屋を後にし廊下を歩く。途中でまた別の部屋に入る。大きなテーブルがまず目に入るダイニングルームだ。
 濃厚な匂いがラーナーの鼻を通り、一気に空腹感が増した。
 白いテーブルクロスがかかったテーブルの上には既にいくらか食事が並んでいる。
 キッチンからエリアが出てくると手に食事の乗った皿を持っている。その顔は上機嫌であった。
「手伝いますよ」
「ああ、いいのラーナー。これでもう終わりだし」
 そう明るく言うとエリアは皿をテーブル上に置いた。ラーナーは改めて今夜の食事の献立を見回し歓喜をあげた。
「これは何のお肉なんですか?」
「鴨肉よ」
 ラーナーが指差した先にはソースのかかった少し薄めに切ってある鴨肉があった。傍にはレモンや鮮やかなハーブも添えられ彩りもばっちりである。
「このソースはお隣さんから貰ったものなんだけど、ぴりっとしてるんだけどちょっと甘くて、美味しいの」
「へえー」
 他にはスモークサーモンと様々な菜っ葉のサラダやコーンスープ、カットされたフランスパンなど色取り取りな食事である。
 どれも少しラーナーにとっては量が多めだが、アランは育ち盛りで非常によく食べるから問題は無い。
 それにしても、とラーナーは感服する。約二週間ここに身を置き当然の如く食事も食べさせてもらっているラーナーだが、勿論これまでも美味の料理であったが今日は一段と格別だった。上機嫌なエリアの様子がそのまま表れているように料理も生き生きとしているように見える。
 高揚した気分を少し押さえると、ラーナーは呆気にとられて思わず出たような小さな溜息をはいた。
「今日はなんか豪華っていうか、気合入ってないですか?」
「ふふ、ちょっといいことがあってね。腕によりをかけてみたって奴よ」
「そうなんですかー。でも、すごく美味しそうです!」
 ラーナーは再び目を輝かせ満面の笑顔を見せた。
 ウォルタでは料理を行っていたラーナーは料理の上手なエリアは尊敬している存在であった。時々手伝うが同時に彼女自身が学ばせてもらっている。
 と、足音がしてきてラーナーは部屋の入り口を見る。すると先程の男性と、少し遅れてアランがやってきた。二人はテーブルに並ぶ料理に目を配る。
「おおおっ!」
 真っ先に感激の声をあげたのはアラン。目を光らせてテーブルの傍に駆け寄ると自然と笑みがこぼれていた。
 キョロキョロと目を泳がせて視界がまるで定まっていない。今にもそのまま料理に突っ込んでしまうのではと思うくらい身を乗り出している。
「すごい! なんですかおばさん、今日ご馳走じゃないですか! こんな料理しちゃって家計は大丈夫ですか!」
「余計なお世話だよ、あんたは時々一言多いんだから」
「全くだ」
 男性は大きく頷きながらアランの頭を軽く叩く。男性の身長は180センチと高く、アランを完全に見下ろしていた。
 少し頭を押さえるアランだが全く痛そうではなく、むしろ顔は小さな少年のように笑っている。
「ガストン、ワイン飲む?」
 エリアは男性――ガストンに声をかける。
「ああ」
 即答であった。エリアはキッチンに入っていき、何度か音がするとすぐに戻ってくる。ワインの入った瓶とワイングラスを手に持っている。

「さ、人数も揃ったことだしそろそろ食べようか」
 エリアは笑顔を浮かべて手に持っているものを置くと、腰エプロンの後ろで結んでいた紐をほどく。
 アランは早く食べたいと言わんばかりに誰よりも早く席に着く。その様子を見て他の3人は大声をあげて笑った。


 *


 月光が部屋をさす中、少し寝がえりをうとうとするクロだったがやはり身体の痛みは続いている。めんどくさいものだな、と心の中で呟いた。強制的に動かせば全身の骨が折れるような痛みに見舞われそうな予感がしたから、さすがにそれはやめておくことにした。
 しかし余りにも長く寝過ぎてしまったせいで、もうこれ以上眠れなくなってしまった。これ以上ないくらい暇で、苦痛である。
 どんなに目を閉じてもまるで寝れる気がしないのだ。静かで気温も適度で、布団がどこか埃っぽいことを除けば寝るには快適なのだが。
 若干布団のせいで暑く感じられてきた。が、それをどけることもやはり叶わず、クロは溜息をついた。
 どうにか頭は動かせるから首を回して部屋を見る。相変わらず汚い部屋だと彼は毒づいた。何も変わっていない。積み重なった本や壁の角の蜘蛛の巣が目についた。今にも壊れそうな小さな扇風機が回る。
「掃除しろよ」
 思わずクロはぼそりと言葉に出していた。
 と、ドアをノックする音が部屋を叩き、クロは思わず身を固める。
 軋みながら開いた扉から入ってきたのは彼が予想していた人物ではなかった。エリアが右手にスープの入った皿、左手にはスプーンを持って入ってくる。

「クロ、本当に起きたのね。良かったわ」
 柔らかく笑うエリアの姿を見て、クロは自然と心が安堵する。
「エリアさん、お久しぶりです」
「もう、そういう敬語はいい加減やめなさいっていつも言ってるのに。あなたはもう家族みたいなもんなんだから」
「ははは」
 クロは苦笑する。
 エリアは左手で部屋の電灯をつけようとする。が、スイッチを入れても明るくならない。どうやら電球がエネルギーを使い果たしたようだ。
 思わずしかめ面になるエリア。スープの皿にスプーンを入れて机に置くと、机にあるランプをつける。小さな光が部屋をささやかながら明るくした。
 それから両手を腰に当てて大きな溜息をついてエリアは部屋を見渡す。
「ほんと、この部屋掃除しないと。よくこんなところで生活なんかできるわね、アランは」
「全くです」
 机の傍にあった椅子をベッドの傍までエリアは運ぶと、再び皿を持ってそこに座る。
 小さな虫の声が開いたままの窓の外から届いてくる。空高くで月がおぼろげに白く光っていた。
「起きれる?」
 エリアの問いにクロは軽く首を横に振った。
「首と指先しか今は動かないんです。ここまで痛いのは初めてなんですけど……」
「無茶をした証拠ね。身体は嘘をつかないってホントなんだから。じゃあ口を開けて」
「……えぇ」
 思わずクロは怪訝な表情を浮かべる。エリアはスープをスプーンで一掬いするとにっこりと笑う。スープを息で軽く冷まし、クロの口元に寄せた。
「え、あの、エリアさん、えっと」
「しょうがないでしょ、食べなきゃ治るもんも治らないわよ。プライドなんてどうでもいいじゃない。はい飲む」
「……えぇ、わっ」
 もう一度不満の声を漏らした瞬間をエリアは逃さなかった。開いた口に無理矢理スプーンを入れると彼の口内に流し込む。
 直後、思ってもいなかったためにクロは思わず咳込んでしまう。が、温かさととうもろこし独特の甘さとが自然と舌に溶け込み、少しクロの顔が緩んだ。その美味しさに口は欲求を強くする。
 咳によって吐きだしたものの若干口の中に残ったスープを飲みこむ。
 エリアはふわっとしたロングスカートのポケットを探ると白いハンカチを取り出し、クロの口周りを拭く。その力が少し強いのもあってクロは露骨に嫌な顔をした。
 拭きとるとエリアは白い歯を見せた。
「動ければねえ、こんなこともしてもらわなくて済むわねえ。ま、今は我慢しなさい。美味しいでしょ、今日は気合入れたからね」
「……はい」
 クロは仕方なく諦めた。何しろ彼女の言っていることは残念ながら真実だし、何よりお腹がスープを欲している。
 おとなしく運び込まれたスープを力なく口の中に入れてもらうクロは、心の底から早く身体が動いてほしいと願った。彼の中に育っているプライドがこの状況を嫌がり、恥ずかしがっていた。そのため自然と頬も赤くなる。
 しばらく沈黙が続く。スプーンがスープをすくう度に金属音が時々跳ねる。扇風機の音が鼓膜をひっかくように鳴っていた。
 沈黙を破ったのはエリアの方だった。

「いつ頃動けるようになりそうなの」
 エリアは問いかける。それに対しクロは何度目かのスープを飲むと沈黙しながらも、口を開く。
「分かりません。こんなにきついのは初めてなので」
「そう……ラナちゃんにはまだ言ってないの、あなたが起きたって。早く報告できるようになりなさいね」
「はい」
 少し悲しそうに顔を俯かせたエリアは、スプーンを皿に置く。その中身は綺麗に無くなっていた。元々そんなに量は無かったために早い。
 エリアは椅子を立ち上がる。その動作からクロはスープが終わったのだと知り、ほっと息を吐いた。ようやく終わった、と。
「じゃ、後はゆっくり休みなさい」
 微笑みを浮かべるエリアにクロは大きく頷いた。
 エリアはランプを消す。途端に部屋が再び暗くなる。月の光でエリアの姿がなんとか見える状況だ。
 ドアを開こうとするエリアは思い出したように目をはっと開くと、くるりと振り返ってクロに向かってにやりと笑う。暗闇も手伝ってその笑みがどこか不気味なものに見え、クロは顔を引きつらせた。
「良かったらお風呂入れてあげようか?おばちゃん頑張っちゃうわよ」
「いっいいです遠慮しときます!」
 クロは顔を真っ赤にして全力で否定したが身体に力がこもったせいで全身に大きな痛みが走った。その途端声にならない声をあげる。
 それを見てエリアは大きな声で笑う。冗談だよ、ゆっくり寝なさい、そう言うと部屋を後にした。
 痺れるような痛みを我慢しながらクロはほっと息をついた。エリアの冗談に聞こえる言葉は冗談でないことであることがしょっちゅうなのだ。クロは動けないのだから無理矢理連れていかれたら反抗しようがない。
 全身に疲労が圧し掛かってきたのをクロは感じる。けれどそれとは裏腹に気持ちが軽くなったのも事実だった。


 *


 キッチンで皿洗いを済ませ少し落ち着いてきた頃、裏の玄関から物音がしたのをラーナーは耳に入れてダイニングルームから出る。
 玄関の方へと向かっていくとアランが扉を開けて出ていこうとしている所だった。
「今日もバイト?」
 黒いショルダーバッグの中身を確認しているアランに向かってラーナーは声をかける。それに気付きアランは顔を上げて力無く笑う。
「まあな。そろそろ行ってくるよ。おばさんには言ってないけどまあいいや」
「聞かれたらそう言っとくよ」
「よろしく。まああの人も知ってるだろうから別に聞いてこないだろうけどな」
 そう言った後に思い出したようにアランはそうだ、と言うと傘立てから青い傘を適当に取る。
 ラーナーは首を傾げてアランの横を通り抜けて夜の空を仰ぐ。月が光り瞬く星が散らばっているが、民家の隙間の遠くの方で雲があるのが何となく分かった。
 それが雨雲なのかどうかは夜であるために判断しづらいが、アランが傘を持つということは恐らく水分を多く含んだ雲なのだろう。
「今日の天気予報で、夜に雨が降るって言ってたんだ。一応傘持っていっとく。じゃ、遅刻しないようにもう行くから」
 軽くラーナーに手を振るとラーナーはワンテンポ遅れてから頷いた。アランは軽く笑って右方向へと道を進んでいった。
 少し顔を曇らせるラーナー。前で組んだ手をもじもじと組んで、唇を噛みしめる。何かを迷っているように見える。アランの姿が十メートルほど遠くなった頃、思いきって口を開いた。

「アランくん!」
 叫んだ声は少し距離が遠くなったアランの耳に届き、アランは足を止めて振り返る。そこにラーナーは駆け寄った。
 何、と呟くように言うアランに対してラーナーは未だに迷いながら、顔を上げる。
「出掛ける時に言うのもあれなんだけど、その……クロは、まだ起きないの?」
「……」
 息を止めるアラン。沈黙が訪れ、その間に言葉を探るアランはまず深く頷いた。
「まあ、気長に待ちなよ。あいつなんだかんだで異常に丈夫なんだからさ」
 嘘をつくのは辛かった。誰が一番クロのことを心配しているかどうかなんていうことは比べるべきものではないが、ラーナーはいつもクロの様子を気にしていた。これまであまりそのことは言葉に出さなかったが。
 アランはじゃあ、と言ってその場を半ば逃げるように後にした。ラーナーはその背中を追いかけようとは思わず、その場に立ちすくす。
 溜息すらも出てこず自然と顔を俯かせる。風の無い静かな夜だった。大分夏の気が取れた夜は暑くなくかといって涼しくもなく、平温である。

 少し時間が経ってからラーナーの背後から足音が響く。ポニータが歩いてきていた。ずっと家の外で待機していて、ラーナー達の様子を観察していた。

「クロ、死なないよね……」

 ポニータとラーナーの距離が1メートルを切った頃にラーナーは呟いた。
 その言葉に思わずポニータは足を止めてしまう。
 ラーナーは両手を組み合わせて力を入れる。その身体は小刻みに震えていた。

Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.27 )
日時: 2010/11/14 22:12
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Page 27 : 再会

 ラーナーはリビングルームにある木の椅子に腰かけ、疲れたように頬を下げて溜息をつく。部屋には彼女以外誰もいない。ラーナーは壁に掛けられた時計に目をやると午後十時を丁度回った所だった。
 余程疲労が溜まっているのかラーナーは椅子から滑る様におりると傍にあった背の低いテーブルに顔を伏せる。そしてテーブルの上に置いてある、二つの小さくなったモンスターボールを何となく見つめる。
 時計の秒針の音が部屋に響き、遠くで足音が鳴っている。それがガストンのものかエリアのものかはラーナーには分からない事で、彼女が無意識に確定しているのはそれはクロのものではないということだ。
 彼女の瞳は虚ろでそのまま眠りに落ちてしまいそうな勢いである。見えない重いものが瞼に纏わりついているのを感じ、なんとか耐えようと瞬きを素早く繰り返していた。
 少し頭を傾けてリビングルームの窓を見やると、外が暗くよく見えないが確かに雨が降り始めていた。そういえば、とラーナーはアランが傘を持ち出ていったのを思い出す。天気予報もよく当たるものだ、昼は日向ぼっこが楽しめるほどに晴れていたというのに。
 もうシャワーも浴び、服装は彼女には大きなサイズの白いTシャツと柔らかい素材の短パンに変わっていた。もういつでも眠りにつける状態だった。
 ゆっくりとラーナーはその場を立ち上がり二つのモンスターボールを拾うとそれをポケットにしまい、部屋を後にする。彼女の顔には影が入り、重い足取りで階段を上がっていく。
 二階に足を踏み入れる。ラーナーが眠っている部屋は廊下の奥の方なのだが、それよりもかなり手前の方でラーナーは足を止める。
 微かに聞こえる雨の音をバックに、立ちすくむラーナー。目の前のドアの向こうにいるのは、ベッドに眠り続けているクロだ。
 ラーナーは右手をドアに傾けるがノックをする直前で固まってしまう。ドアの向こう側を見つめるように目の光は虚ろに揺らいでいた。
 唇を軽く噛むと小さくドアを叩く。固い音が響き、その瞬間ラーナーは心臓の鼓動が大きくなったのが分かった。少しだけ後悔の混じったような複雑な心境のまま、このまま引き下がることはできないためにノブに手をかけた。なるべく音をたてまいと慎重にドアを開くと、中は真っ暗である。廊下の光で部屋の様子がうかがうことができ、部屋の床にラーナーの影が大きくおとされていた。

 小さな部屋の奥、ラーナーの正面のベッドに横たわっているクロの姿をラーナーは見つめると、部屋に入りドアを閉める。窓が放たれたままで雨の音が今までより一段と大きく聞こえる。それでも暗闇が静けさを演出している。
 足元がほとんど見えずいくつかの物を蹴ったり踏んだりしながらラーナーはベッドへと近づいていった。
 暗闇に少し目が慣れてきて、ラーナーは何とか認知できるクロの顔を見下ろす。雨の音の中で耳をすましてみれば、静かに聞こえる呼吸音が彼女の心をかろうじて安堵へと導く。
 ラーナーは今度は窓に近づくと、その固さに苦戦しつつも窓を閉める。その途端音がこもったようなものにかわる。ラーナーは向こうの空をガラスに手を当てて見つめる。降り続ける雨はそこまでひどいものではなく、雨粒はむしろ小さい。
 しばらくしてからその場を離れるとベッドの傍にある椅子に腰を下ろす。閉じられた瞼のクロは無表情で、それはずっとラーナーが見続けてきた表情。何ら変化も無く、ただ彼は眠っている。

「クロ」
 小さく掠れた声でラーナーは呟いた。数秒間の空白。彼女が待っている返答は無い。
 ラーナーは目を閉じて俯いた。膝に乗せている手を強く握ると少しそれは小さく振動していた。


「……ラーナー?」
 目を瞑っていたラーナーの見る暗闇の中で、まだ少し幼い声が跳ねた。
 ラーナーははっと目を開き慌てるようにクロの顔を見た。
 先程まで閉じられていた瞳は少しだけ開き、真っ直ぐに少し驚いたようにラーナーを見つめてきていた。二人の視線が絡み、ラーナーは息をとめる。

「クロ……?」
 呆然とした声を漏らすラーナー。決して視線を逸らそうとはせずに、椅子から立ち上がろうとしたが足がふらつき床にしゃがみ込んでしまう。
 その様子に思わずクロは身体を動かそうとしたが痛みが走り一人悶絶する。
 ラーナーはすぐに立ち上がりもう一度確かめるようにクロを見た。
「クロ……クロ、クロ!」
 何度もその名前を呼ぶ。自分で自身に言い聞かせるように、確かめるように。
 今にも泣き出しそうな表情でラーナーはベッドに両手をつき、少しだけ首を振ったり唇をかんだりすることで何とか涙をこらえていた。けれど額に寄せられた皺は濃く刻まれ、目頭は熱く堪えるのも限界だった。
「そんな何回も呼ばなくても、聞こえてるから」
 クロは苦笑いをした。その表情は柔らかく、そしてその何気ない言葉にラーナーは本当にクロが起きたのだと実感する。
 唇を固く横に締めて、ラーナーは何度も頷いた。それから、口を開いた途端に遂に瞳から涙が零れ落ちた。
「クロ、よかっ……良かった! ほんとに、良かった……」
 鼻水を時々すすりながらラーナーは涙を拭った。だが崩壊したダムの水のように、涙は溢れだし止まる気配がない。
 しばらく声も出せず、彼女の泣く音が部屋中に響き渡る。クロはどう声をかけたらいいかも分からず、沈黙を保っていた。
 少し落ち着いてきた頃、しゃくりあげながらもラーナーは頭の中で言いたい事を整理して会話を切り出した。
「あたし、本当に……こんなことを言っちゃだめだと思うんだけど、本当にクロが死んじゃうんじゃないのかって心配になったの」
 クロは相槌を打つように軽く頷いた。
「あの時、クロが倒れた日、すごい熱で……いっぱい血も吐いてて、それを見たらあたし、セルドのことを思い出しちゃって……それで」
「うん」
 それから数十秒間沈黙が続く。クロは急かすこともなく次の言葉を待った。
「もう、なんだろう、何言ったらいいのかわかんないや」
 涙を顔中に散らせて、ラーナーは少し笑った。
「また一人になっちゃうような気がして、怖かった……ほんとに、起きてくれて良かった」
「……別に、俺はあんたの家族でもなんでもないし、まだ会ってから一カ月も経ってない」
「そうだね、うん、そういえばそうだ。一カ月か、そう言われてみるとまだ全然時間経ってないんだね。でも、問題は時間じゃないと思うんだ、クロ」
 少し冷たいクロの言葉を難なく受け流したラーナーは、少し彼の言動に慣れてきたのだろうか。逆にクロは彼女の言った意味を追おうと次に出てくる言葉を待つ。
 ラーナーは幸せそうに笑った。ずっと聞けずにいた声と、会話をしていることに自然と笑みがこぼれるのだ。
「とにかく、クロは大切ってこと」
「なんだそれ」
「なんだろうね、私にもよくわかんないや。へへ」
 そう言って笑う顔を見てクロは不思議そうに首を傾げながらも、そっと微笑みが漏れた。
 その顔は今までラーナーが見た事の無い彼の表情で、心の底から喜びが溢れてきてまた嬉し涙を流すのだった。





 数時間後、夜のトレアスの町を歩き続けたアランは溜息をしきりに吐きながら、雨の中オーバン家へと戻ってくる。
 全身に疲労の塊が圧し掛かっていて、傘を閉じ鍵を開けて中に入るという一つ一つの動作すらも彼には億劫に感じられた。
 扉を開き傘を壁に立てかけると、床に敷かれた汚れきったタオルを踏み靴の泥や水分を取る。その後吸い込まれるように二階へとまず向かった。
「あら、アランおかえり」
 階段を上がりきったところでアランはエリアとはち合わせる。エリアは丁度クロのいる部屋、つまりアランの部屋を出たところだった。
「あ、ただいまっす。こんな時間まで起きてるなんて珍しいですね。師匠じゃあるまいし」
「ははは、ちょっとね。ほら、見て見て」
 そう言って手でアランを寄せる動作をするエリア。それに従うようにアランは近付くと、エリアは扉を音を立てないように慎重に開ける。
 小さな隙間から中を覗き込むと、アランは息を呑んだ。
 床に座り込み、クロのベッドに腕を折りそこに頭を埋めてラーナーが気持ちよさそうに眠っていた。その身体には毛布が一つかけられている。
 アランは思わず頭を抱えたくなった。今までラーナーがクロの様子を見に来たことは何度もあるが、今回はいつもと違う。恐らくクロが起きたのに気付いたのだろうとアランは直感した。
 エリアは満足そうに笑う。
「遅かれ早かれこうなるわ。それにラーナー、ずっと辛そうだったからこれで良かったのよ」
「でもおばさん、クロは」
「アランの言いたい事も分かる。でも、きっといつかは全て分かることなのよ」
 そう言って遠い景色を見るようにエリアはクロとラーナーに視線を投げかける。思わずアランは口を紡いだ。
「ラーナーがこれからもクロの傍にいるというなら、知るべき時が来る。それがいつかは分からないけどね」
「……それは、そうですけど、でも少なくともクロはまだ知ってほしくないんじゃないんですか、自分の身体のことを。見る感じラナちゃんはけっこうクロに近づこうとしてますけど、クロはそう簡単に心を開くような奴じゃないんですよ」
「分かんないわよお」
 エリアはにやにやと笑窪を作る。
「だってラーナーってなんだか安心できるじゃない。本当に優しい子だから。クロも案外さっと心を緩くするかも」
「そう、ですかね」
「クロの方だって私達と初めて会った時より大分柔らかくなったんだから。ま、何とかなるわよ」
 ぽん、とエリアはアランの肩を叩く。その後おやすみと声をかけて階段も向かっていく。アランはおやすみなさいと返し、彼女が一階へと吸い込まれていく背中を見つめた。

 一人廊下に残されたアランは呆然と立ちすくしていたが、そのうちにゆっくりと自室へと入る。
 机のランプを付けてから扉を閉める。柔らかな光が部屋を照らし、安眠の世界へと潜っている二人の姿をアランは見た。
 脳裏に様々な映像が映っては消え、彼の記憶が走り廻っていく。それを振り払うようにアランは首を横に軽く振った。
「俺は、俺がやらなきゃいけないことをやるんだ」
 小さく呟き、持っていた鞄を床に放り出すと、机の中に積まれている本の山を探る。その中から一つ青いノートを出しすぐにページをめくる。様々な文字の羅列が並べられており、それは紛れもなくアランの字である。
 真ん中のあたりでめくる手を止めると、そのページをアランは凝視する。そのページは何度も消しゴムで消しては鉛筆で書いた跡が残されており、そのために皺が大きく寄せられている。
「オシの葉は確かある。けどブショウは……」
 独り言を並べながら別の小さなメモ帳に鉛筆で文字を書いていく。視線はノートに向けられている為にそのメモはめちゃくちゃな字体になっていた。

 その部屋の電気が消されたのは、その約一時間後のことであった。

Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.28 )
日時: 2010/11/14 22:36
名前: ID:

Page 28 : 衝撃

 クロが目を覚ましてから三日目の朝。
 皆朝ご飯を済ませ薬屋を開く準備を進めていた。
 ラーナーはいつものように店の前の道の掃除を済ませた後に中へ戻り、ふぅと息をつく。カウンターではガストンがアランと共に新しく仕入れた市販の薬を棚に並べていた。手伝いましょうかとラーナーは声をかけたものの断られ、彼女は暇になっていた。
 少し口をとがらせながら廊下をうろうろとしていると二階からゆっくりとした足音が響き、顔を上げる。そしてその音の主を見つけるとラーナーはぎょっと目を見開く。

「クックロ」
「え、ああ」
 クロはラーナーに気がつき少し気を緩めると、突然足の力が無くなったようにその場に崩れると一気にそこから大きな音を立てて転がり落ちた。
 幸い大した高さではなかったが、クロは全身に受けた打撃に声にならない悲鳴をあげ身体を震わせる。
「クロ、だめだよ無理しちゃあ!」
「おいなんの音だ」
 大きな音を聞きつけてアランがやってくる。少し遅れてからガストンも来るが、二人ともクロの姿を見ると驚きを隠せず口をあんぐりと開けた。
「クロ。お前な、まだ対して動けねえくせに何やってんだ! まだ起きてから三日しか経ってないんだぞ、お前は馬鹿か、いや馬鹿だろ!」
「とにかく大丈夫か、階段から落ちたのか」
 ガストンは溜息を吐きながらクロの隣にしゃがみ込みクロが押さえている腰をさすってやる。
「いつもより長く倒れてるかと思えば、いつもより随分と早く動けるようになったもんだな。だけど無理はするな」
「別に、無理してるつもりはないです。多分今日一日で普通に歩けるようになると思います」
「なんだその根拠の無い推論は。まじ意味わかんねえよ」
 毒づくアランをクロは軽く睨む。それに負けじとアランは睨みかえす。
「アラン、俺はあっちに戻る。早く準備済ませないといけないからな、クロが無理しないように見てやってろ」
「えぇ……はい」
 思わず不満を最初こそ漏らしたアランだったが、ガストンの大きな威圧感に負け渋々了承する。その後アランは立ち上がったガストンに代わってクロの傍に寄り彼に肩を貸す。
 クロは少し痛そうな呻き声をあげたが、ゆっくりと支えられながら立ち上がる。その額にはじんわりと汗が滲んでいた。
 ガストンは様子を伺うようにしばらくクロを見ていたが、少し溜息をつくと身をひるがえす。少し早い足取りで仕事場へと戻っていった。
 痛々しげに若干顔を歪ませるクロに、ラーナーは唇を横にきつく締める。
「おいクロ、ぜんっぜんまだ無理じゃねえか。何が今日一日で歩けるようになるとかなんとかだ。寝過ぎたからって寝言もいい加減にしとけ」
「うるさいな、今はちょっと転んで身体が痺れただけだ」
「そんなに言うか。そうだなお前はちょっと無理するくらいがちょうどいいリハビリだなそうだったなはいはいはいでもな俺にとっちゃそんなんどうでもいいわけで病人ってのは寝てるのが基本なんだよ無理ってのはした方がいい時と悪いときがあるんだわかるかおい」
「アラン、いっつも思うけどよくそんなべらべらと一気に喋れるな」
「滑舌の良さには定評があるからな」
 そう話しながらアランは無理矢理身体をねじると階段へと足先を向ける。それにクロは気付いていないわけがなく、抵抗するように身体を引く。その力はアランの力より大きく、アランは思わずよろめいてしまう。
「クロお前なあっ俺より力があるからってパワー勝負に出るなんて卑怯な……」
「クロ!!」
 突然の強く張った声に男子二名は思わず身体を固まらせた。声の出所のラーナーは身体を小刻みに震わせ、きっとクロを睨みつけた。その視線の強さにいつになくクロはたじろぐ。

「アランくん、アランくんもお店の準備しないといけないでしょ。クロはあたしが見とくから」
「え」
「いいから、あたしが肩貸すから」
「ちょっとまっ……」
 クロが突然慌てたように動こうとする。痛みを我慢しながらも揺らいだ身体を支えようとラーナーが腕を伸ばした。その時クロは大きく身体を震わせ、次の瞬間には彼女の手を鋭く弾いていた。
 その音が廊下中に響き、一気に空気が凍りつく。
 誰もが声が出せなかった。ラーナーの手を拒んだクロ本人も。弾いた右手は痺れたように震えた。
 アランが歯を食いしばり何かを叫ぼうと口を開けたが、ラーナーはその直前にそれを制するようにアランを見て首を素早く横に振った。それからラーナーはクロに視線を向ける。クロはその少し悲しげな瞳に気圧されたように息を止めた。

「知ってるから」

 ラーナーがはっきりと言い切ると、クロは目を丸くした。
「知ってるって何を」
 低い声で尋ねるクロ。その声は恐る恐ると言ったようだが目は睨みをきかせているせいで迫力がある。
 ラーナーは一旦口ごもりクロから目を逸らす。

「……クロが、肌を隠してる、理由」


 *


 ラーナーはクロの肩を持ち外に出た。その途端、クロはその腕を払うようにして潜り抜け、よろめきながら家の壁にもたれかかる。
 階段での騒動の後、クロは一言もラーナーと口をきこうとしなかった。表情も濁り、雰囲気は最悪である。
 その様子に戸惑いながらも、その雰囲気に流されたおかげか自然とラーナーも心の中が苛々と煮える。
 外の気温は徐々に上がってきていているが、太陽がまだそこまで上がっていないおかげで彼等のいる場所は大きな日陰となっていた。涼しい風が流れるがそれを心地良く思えるほど二人の心に余裕は無い。

「……さっきの」
 先に開口したのはクロの方である。
「言葉の意味、どういうこと」
 相変わらず眉間に皺を寄せたままのクロの質問を聞くと、ラーナーは唇を噛んで突然クロの左腕を乱暴に取った。
 突然の行動にクロは驚きが隠せなかったが、全身に痺れるような痛みが走り拒むことができなかった。ラーナーはもう片方の手でクロの袖を無理矢理まくりあげた。
「!」
 クロはその腕を乱雑に引こうとした。が、彼が想像している以上にラーナーの力は強い。
 露出した肌をラーナーは見るがすぐに目を背ける。彼女がずっと目に当てていられるものじゃないのだ。
 姿を見せた彼の腕は、青黒く、場所によっては赤く染まっていた。滑らかではなく少し隆起しており、焦げたように乾燥している部分もある。それはまだ見えない袖の中まで続いている、広範囲の熱傷だった。
 沈黙が流れる。クロは何かを言おうとして口の開閉を続けていたが、遂にラーナーの手から無理矢理自らの腕を引きはがす。
「……なんで」
 震えた声でクロは問う。
「いつ知ったんだ」
「あの時、クロが倒れた日に」
 ラーナーはようやくきちんと声を出した。
「クロが一瞬落ちそうになったの。身体を掴んだ時に少し見えたの。……腕だけじゃない。全身でしょ、その火傷」
「……」
「そんなひどい火傷、見た事無いよ……」
「だろうな」
「だろうなじゃないよ。どうしてこんな傷で、何をしたらこうなるの!? あのクロが持ってる火閃っていうやつのせい?」
「どうだろうな」
「濁さないで。クロがずっと隠してきて、ばれたくなかったのも分かる。分かるけど、知ってしまったのものはしょうがないんだよ!」
「これ以上知ることなんて無い!」
 クロは声を荒げた。その声にラーナーは震えた。普段冷静な彼の感情がここまで表に出るのは滅多にないことである。
 思わずラーナーは押し黙ってしまい縮こまる。クロは袖を戻し、もたれかかっていた背中を壁から離して自身の力だけで立つ。
「知ってどうするんだ。あんたは何も分かっていない。だけどそれが一番良いことなんだ。知らない方が良いことなんて腐るほど世界にはある! 殺されたくないだろ、ならそれだけ考えればいい。余計なことに首をつっこむなよ!」
「余計なことなんかじゃない!」
 すかさず言い返すラーナー。二人のボルテージが急上昇していき、最早止まる所が見えない。
 怒声が行き交う場所に、ポニータが建物の影からそっと顔を出す。が、その険悪なムードに入っていくことはできなかった。
 ラーナーは一歩前に踏み出す。二人の強い視線が激しく反発し合う。
「あたしとクロは一緒に旅してるんだよ。秘密事ばっかりしていて一緒に生活なんてできっこないよ! しかもこんな重要なこと……知らない方が良いこともあるかもしれない、だけどこれはあたしが知るべきことだよ!」
「ならこれからここに残ればいい!」
 クロの声が辺りに突き刺さった。
 その言葉の意味が一瞬分からず、ラーナーは声を詰まらせる。
 それに驚いたのはラーナーだけではない。ポニータもだ。クロがその言葉を叫んだ瞬間にポニータは意を決しその場を飛び出した。二人はポニータの出現に驚いたようにそちらに目を向けた。ポニータはすぐにクロの元に寄りじっと彼を見つめた。
 汗が顔中から噴き出しているクロは、少し顔を俯かせた。

「そうだよ、そうすればいい。あんた、ここの生活に満足そうだったじゃないか。エーフィとブラッキーがいれば、なんとかなる。ここなら奴等の目だって届きづらい。……そうだよ、そうすればいい」
「クロ、なんで」
「あんたも俺もその方が良いよ」
 その時、ポニータはそのクロの脳天を口で思いっきり殴った。渾身の一撃にクロは地面に叩きつけられた。ラーナーは思わず駆け寄ろうとしたが足が動かなかった。
 殴られた箇所を手で押さえながら、震えつつゆっくりとクロは立ち上がる。片手を壁に付けて、ラーナーを見やる。
 ポニータの攻撃でようやく頭に上った血が冷めてきたのか、クロの呼吸が落ち着いてきている。ただ視線は忙しなく僅かに動きまわり絶句していた。
 ラーナーは首をほんの少しだけ横に振る。すくみそうな足で辛うじて立っていることだけで精一杯だった。
 日陰が織りなす涼風がいつになく冷たく吹いていき、近くに植えてある木が揺れる。
 震える足をクロは回し、黙ってラーナーに背を向けた。そのままゆっくりと歩き、建物の角へと曲がり吸い込まれていった。ポニータは二人に目配せをしながら、少し間を置いてから急ぎ足でクロの元へと向かっていった。


 独りその場に残された時、ラーナーは初めてクロに会った時の光景が記憶を掠った。
 ラーナーは壁にもたれかかり、目を伏せた。身体の芯が刻まれたような強いショックが胸の奥で震撼し、呆然と虚空を見る。涙は出てこない、突き放されたことは哀しみよりももっと強い衝撃を与えた。思考は停止し、最早虚脱感すらも覚える。
 混乱と気だるさに任されるままに壁に沿ってその場に座り込む。

「どうして……」
 今にも消え入りそうなローソクの如く震えた小さな声が漏れた。

Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.29 )
日時: 2010/11/14 22:38
名前: ID:

Page 29 : 遺跡

「おいアラン、ラーナーは一体どうしたんだ?」
 ガストンは怪訝な顔つきで店の机に突っ伏すラーナーを指差す。
 開店したものの朝はまだ客は居ない。薬屋の客など少ない方が良いことに越したことはないが、朝はいつもこうである。近所の病院も開いた頃から、処方箋を手にやってくる客がどっと増える。
 誰も座っていない椅子に座ってラーナーは必死に眠ろうとしているようだった。目を閉じ心を落ち着かせようとするが、やはりクロの言葉を振り払うことはできず目ははっきりと覚めたまま。
 奥の部屋からゆっくりと顔を出したアランはラーナーの姿を見ると顔を引きつらせた。何が原因かアランには不明だが心当たりがあるからこそのリアクションだろう。
 どう声をかけたらいいのか分からない男二人は彼女の姿をじっと見つめる。
「師匠、こういった場合どうすればいいんですか」
 アランはカウンターに背を向けてひそり声でガストンに尋ねる。つられるようにガストンも身体を百八十度回転する。
「どうすればいいかなんて分かるわけがないだろう。今実際困ってるんだから」
「おばさんを射止めた師匠なんですから、女性の気持ちは俺より分かるんじゃないんですかっ」
「馬鹿言え、エリアとラーナーを一緒にするな。ラーナーの方がずっと繊細だろう」
「た、確かに……」
「アラン、お前はバイト先でこういうのには慣れっこじゃないのか」
「何を言うんですか。確かに接客業ですけどあそこに来る人であんなに落ち込んでる人が来るなんて滅多にないっすよ」
 巨体のガストンがひそひそと話す様はいつになく動揺しているのが分かる。小さな会話が進められていく中で、来客が現れたことを示すドアの鈴の音が鳴った。
 慌てて男性二人は背筋を伸ばすと、客に向かって朝の挨拶を行う。中年の女性と五歳ぐらいの幼い男の子が手を繋いで店内に入った。具合が悪いのは男の子の方のようで、マスクの下で苦しげな咳を繰り返し鼻をすする音も聞こえる。
「アラン、カウンターの方を頼む」
 ガストンはアランに耳打ちしてカウンターを任せると自分は奥の部屋へと入っていく。
「これ、お願いします」
 女性はカウンターに対峙すると鞄からさっと一枚の小さな紙を渡した。近所の医者の処方した薬の内容が書かれている。
「分かりました。ではそちらの椅子にかけてお待ちください」
 アランは処方箋を受け取ると左手で女性を促す。女性は軽く礼をすると椅子へと向かう。
 その時勿論ラーナーの存在にも気付き、思わず顔をひそめたが見て見ぬふりをして少し遠くの椅子にかけた。
 が、男の子はじっとラーナーを見つめたまま視線を動かさない。彼の咳の音が部屋中に何度も何度も響く。
 その音に起こされるようにラーナーはゆっくりと身体を起こす。アランはガストンに処方箋を渡してから彼女が起き上がったのに気付いたが、その表情を見て思わず呆然とする。
 涙が伝ったような薄らとした跡が頬に残り、既に疲労困憊といったような酷い顔になっていた。ラーナーは男の子の存在に気付くと薄く笑って少しだけ手を振ってみせた。男の子は首を傾げ漸くラーナーから目を逸らす。
 様子を瞬きもさほどせずに傍観していたアランは唇を噛みしめる。
 と、その時オーバン家の生活間と繋がっているドアが開きアランは顔をぱっとそちらに向けた。エリアがエプロンを外しながら入ってくる。
「おばさん、カウンターお願いしますっていうか今日は一日休みをください! ちょっと野暮用が」
「はあ?」
 突然の頼みにエリアは眉をひそめた。が、その返事を聞く前にアランはばたばたと奥の部屋に入り同じことをガストンに願い出る。ガストンも突然の事に戸惑い手元に持っていたものを落としそうになる。
「すいません師匠、明日からまた頑張るのでお願いします! では!」
「お、おいアラン」
 アランは鼠のように素早く逃げ去る。カウンターに置いてあった自分の物が様々に入ったリュックを持つと、カウンターから跳び出し、ラーナーの元にやってきてその腕を掴んだ。思わずラーナーは身体を大きく震わせた。
「アランくん?」
「ラナちゃん、ちょっと来て」
 半ば無理矢理引っ張ってラーナーを立たせると、乱暴に店の入り口から直接外に出た。普段はこの出入り口を使わないため珍しい。それほどに急いでいるようだった。
 呆気にとられたエリアはぽかんと口を開け、その場に立ちつくす。部屋からオーバンも出てきてドアを見つめた。いつもより大きめの鈴の音が未だに響く。
 客の女性も何が起こったのか理解できず入口を見つめる。
 急に静かになって取り残された部屋に、男の子の咳がまた一つこだました。





 ラーナーには何が起こっているんだかさっぱり分からなかった。手を引かれるままに行動し、今現在はバスの中に身を置いている。
 バスの中は混んでおり、座ることが出来ずに立っている人もいた。ラーナーとアランは一番後ろの席に腰を下ろし、ひとまず落ち着く。アランは額に光る汗をリュックから取り出したタオルで拭く。
 大きく揺れるバス。今はトレアスの市街地の中心を走っていて、窓から外の景色を覗けば多くの人が歩き車が走っている。トレアスは坂に面した町で、この市街地以外は基本的に厳しい坂が続いている上、住宅が寄せ合うように立っている為道も狭い。だから自転車はほとんど見かけず人々は車、特にバスを重用する。市街地はオーバン家の周りと違って車線がいくつもあり、趣のある淡い色の石でできた背の高い建物が立ち並ぶ。
 途中ゆっくりとバスは停車し、待ってましたと言わんばかりにバスの中の殆どの人々がそのバス停で降りていく。通勤や通学目的の人が多いのだろう。
 一気にバスの中はがらんとして、窮屈だった空気も軽くなる。ほっとラーナーは一息ついて背中を丸めた。
「ね、アランくん。どうしたの突然」
 小さな声でラーナーはアランに尋ねる。
「ちょっとな。あまりに酷い顔をしていたもんだからちょっと見ていられなくなったっていうやつだ」
「酷い顔ってひどーい」
「そう思うんだったらまず鏡を見てみたらどうだい。まあ泣き顔も可愛いっちゃ可愛いけど、男の目の保養はやっぱり女の子の笑顔ってやつ。今笑えてないじゃん」
 言い返せないラーナーは押し黙り、何となく自分の膝に視線を落とした。
 バスは大きくカーブして少し細い道に入っていく。
 しばらく沈黙が続き、その間に二人ほどバスから出ていく。今バスの中にいるのは彼等二人を含めて四人。流石に殺風景である。
「クロに何言われたんだ」
 アランは呟くように問う。その瞬間にラーナーは驚いたように目を見開き、次に軽く笑った。ああやっぱり、そういうことか、心の中で哀しくあざ笑う。
 その表情を見たアランは目を細める。
「ここに、トレアスに残れって」
「……ほうほう」
「ここに居たほうがあたしもクロも良いからって。なんか、言われた時はショックでどうしようもなかったけど、落ち着いてみると……そうした方が、いいのかな」
 相変わらず下を向いたままぼそぼそと話すラーナー。口を少し尖らせてアランは大きな息を吐き、腕を組んだ。
 また沈黙が続き、途中で何人かバスに乗り込んではまた降りていく。人が入れ替わる中、ラーナーとアランだけは変わらず残る。坂は更に急になり、バスはトレアスをどんどん上がった。
 ラーナーは行先を知らない為バス停が過ぎるたびに不安が積っていく。
「どこで降りるの?」
「トレアス名物の坂の一番てっぺん、カミスラ遺跡前のバス停だ。世界的にも有名な遺跡でけっこう綺麗なんだぜ」
 ふーん、とラーナーは首を少し傾げる。あまりウォルタの外を知らないラーナーには、世界で有名であっても聞き覚えの無いものであることに変わりは無い。
 どうしてそこに突然行くことになったのか、ラーナーは思わず尋ねたくなったがやめた。もうここまで来たらただ流されるままにアランについていくことにする。それより他に仕方がないのだから。




 最後の会話から二十分ほどバスに揺らされ、ようやく目的地にたどり着く。財布どころが荷物を一つも持ち合わせていないラーナーがバス代を払える筈も無く、アランが二人分を一気に払う。申し訳なさそうに謝罪するラーナーをアランは気さくな笑顔でかわした。
 バスは近くのバスの止まる駐車場へと向かう。どうやらここが終点のようだった。それを見送った後、ラーナーは改めて顔を上げ遺跡の姿と対面した。
 カスミラ遺跡。
 大きく開けた青空を背景に、豊かな緑の中に古い褐色の建物が並ぶ風景は壮大である。かつてここにあった王宮の跡、それがカスミラ遺跡。風化などが原因で荒廃し崩れている塀や建物もあるが、今もなお原型をとどめているものも多く見える。以前は栄えていたのだろう、今は自然に覆われているような有様だがそれこそがこの遺跡の美。重々しく荘厳な歴史そのもの。そしてメインは坂の半ばにある宮殿だ。ラーナー達の居る場所から少し左側に見え、大きな木に囲まれながらも何よりも高く、堂々としている。
 頂上は遠く首を大きく曲げてようやく正面に見えた。あそこまで行くのだろうかと思うとラーナーは少し狼狽する。平坦な道ならまだしも急な上り坂だ。体力の消費は激しいだろう。
「ラナちゃん、勿論観光はしてもらいたいんだけど、今日の目的はそれじゃないんだ」
 遺跡に見惚れていたラーナーはその言葉ではっと我にかえった。遅れてその言葉の意味を噛み砕き、首を捻る。
 それからアランは遺跡の入り口へと先導するように身体をひるがえし、ラーナーも慌てて後を追う。淡い石でできた道が遺跡の世界へと誘い、それを少しずつ辿っていく。
「ラナちゃん、クロのことどう思ってる?」
 アランはラーナーを隣に来るよう手で招いてから問う。思いがけない質問にラーナーは困惑した。どう思っているか。それは自分でもよく分からなかった。彼は自分の命の恩人であり、共に旅をしている仲間。友達という言葉とは違う。仲間の方がしっくりと落ち着く。そんな存在。けれど結局はよく分からない。分からないのだ。自分でも。
「分からない」
 結局言葉を濁してしまうラーナーは、自分のことが何故だか惨めに思えた。
「よく分からないよ」
「そっか。そうだと思う。俺も未だによく分かんないし、あいつのこと」
「え、でも、アランくんはずっと前からクロのことを知っているんでしょ?」
「あいつはまだまだ俺にも沢山隠しごとしてるよ。基本的にポーカーフェイスだし、その上言葉少なに語るから説明になってねえし、ぎょっとするような無茶を何の苦もなくやったりするし、まじ分かんねえ意味分かんねえどうしようもない」
「……」
「俺が初めてクロと会ったあたりはもっと酷かった。一カ月一言も喋らなかったし物も殆ど食わなかったしずっと無表情だったしまじ酷いもんだった。今はまだ柔らかいって思える。まあそんな比較をしたところでラナちゃんにはしょうがないんだけどさ」
 ひび割れた石の道。風に揺れる花々。周辺にあるのは砕けた塀ばかりで、視界が非常に開けている。
 なだらかな坂だったのが石の階段へと途中から変わった。上を見上げれば階段は緩いカーブを描きながらずっと上まで続いている。三人ほどの観光客がカメラで風景を撮影している隣をそっと通り過ぎた。
 階段の道はラーナーの想像以上に身体に疲れを与える。対してアランは体力があるのかまだ十分余裕という風に見える。
「クロは変わっているようで、やっぱり変わっていないんだ」
 アランは少し疲れて遅くなってきたラーナーの歩行スピードに合わせる。
「表面は変わったというか、ね。根っこの部分はずっと冷たいままだ。俺と師匠とおばさんはそのクロの心を開きたいと思いながらずっとあいつと付き合ってるけど、結局あいつは本当に心を開こうとしない。笑うようになっても、こっちを本当に信頼してるわけじゃないのかな。俺達はもうあいつのこと信じてやれるのに、一方的だよ」
 ラーナーはそっと頷いた。その言葉は彼女が強く共感できるものだった。まさにその通りである。ラーナーだってクロのことを信じている。冷たいながらも自分の事を守ってくれる彼の存在はラーナーにとって大きなもので、弟のセルドを失ってからは彼女の心の大黒柱のようなものである。けれど、クロにとってはどうだろうか。先程の言動からして、クロがラーナーを信頼しているとはとても思えない。ラーナーもこの件のおかげでクロへの信頼は欠けてしまった。支柱を失った彼女の心は脆く崩れ、今に至る。
「だけど俺も師匠もおばさんも今までで一番びっくりしたのが、ラナちゃんをクロが連れてきたことだよ」
「え」
「まあ最初に来たときはどっちかっていうとラナちゃんがクロを連れてきたって感じだけど。どっちでもいいや。とにかく、あいつとにかく他人とつるむのはほんとだめだから、しかも女の子だし、ほんとびっくりした。ありえねえって思った。だけどなんかさ、こういうと変だけどさ、クロが変わってきている象徴なのかもしんないとか思ったりしてさ」
「象徴って、大袈裟な」
「まじめな話さ。お茶飲む?」
「あ、うん」
 アランは歩きながらリュックを回し中から一つ麦茶の入ったペットボトルを取り出す。バスに乗り込む前に付近で購入したものだ。暑さに加え運動するのだから汗をかき水分はみるみる消費されていくと分かっていたのだろう。ラーナーはそれを受け取りぐんぐん飲む。アランももう一つ買っていたもので喉を潤す。
 途端に疲れが和らいだような気になり、二人の歩く速さが心なしか速くなる。
 少し周りを見渡せば、意外と高い位置まで来ていた。頂上までの道のりはまだまだ遠いが、トレアスの趣のある風景を一望することができる。思わずラーナーは感嘆した。
 連なるような塀と屋根の無いものが多い建物は、物寂しさを残しながらもその静寂が一層遺跡の崇高な美を漂わせる。
「ずっと昔、ここに人が住んでいたんだよね」
 ぽつりとラーナーは呟く。
「……そうだな。ここに沢山の人がいて、色んな話して。きっと今とそう変わらない雰囲気で」
「今とは違うんじゃない?」
「そうでもないさ。根本的な部分は人間なんてずっと変わっちゃいねえって、きっと。友達作って恋もして、誰かと結婚したりして。ああ、もしかしたら今よりもっとポケモンは沢山いたかもな」
「推測だね」
「大昔の話だぜ。俺の専門外だし。ま、全然分かんねえけどロマンは感じるよ」

 それからしばらく無言で、ただ時々ぽつぽつと会話を交わしながら、二人はひたすらに歩を進めていく。
 まだ、と聞くといつもアランはもう少しと言って言葉を濁す。さっきもそんなこと言ったじゃんと言い返すと気のせい気のせいと言ってかわす。時々お茶を飲みつつも疲労は重くのしかかりラーナーの足は棒のようだ。身体だけが勝手に動いているように作業風に上っていく。

「着いた」
 そう言ってアランは足を止めた。合わせてラーナーも歩を止め、辺りを見回し何か声をあげようとするとアランは口の前で指を立てる。静かに、というサインだ。ラーナーは息を止め、アランの視線の向こうを見る。

 百メートルほど向こう、二メートル程の高さの城壁の上に器用に座っている人間の姿があった。ラーナーは目を見開いた。帽子を脱いで風になびく深緑の髪、まさしく藤波黒だった。壁の傍にはポニータも佇んでいる。
 彼はずっと向こうを見つめていた。カスミラ遺跡、トレアスの町、町の向こうにあるなだらかな山々、そして上に広がる青く雄大な空。自然と人間の文化、全てを受け入れようと全てを見つめている。
 全てを。



「何か思うことがあると、いつもあいつはここに来るんだ」
 ぼそりとアランは言う。
「あいつが倒れる前、何かもの思いに浸っているようなこと、無かったか?」
「あ……うん。バハロに向かっている途中で」
 旅が始まった日に突然クロは何かが切れたように立ち止まり、黙り込んで虚ろになったことがあった。
「それは一種のあいつのサインなんだ。俺達もよく分かってねえけど、身体が限界に近くなった時やいっぺん倒れてから数日は精神が不安定になるんだ」
「そう、なんだ」
「うん。異様に気持ちが激昂したり、かと思えば突然静かになったり、めんどくさいんだ。だけど本人もそれを自覚してて、しょっちゅう後悔してる。安定しない心を落ちつかせるために、ここに来るんだ」
 ラーナーはクロを見つめた。こちらに気付いている様子はまるでない。全身を遺跡の自然に同化させているように静かで落ち着きがある。朝の彼とはまるで正反対だ。
 大きな風が吹く。しかしクロは全く動じることはない。
 ポニータは待っている。彼が気持ちを整理して満足しまた地に立つことを、ただ待っている。それまでポニータはずっと彼の傍についているだろう。
 胸の奥がしんと静まっていくのをラーナーは感じた。言葉にならないものが身体の中を巡り、口からは何も出てこない。

「ラナちゃん、明日のトレアスの市場で朝市があるんだけど、クロと一緒に行ってくれないか」
「……え?」
 唐突な提案にラーナーは聞き返す。
「本当は毎朝俺が行くんだけど。そこで仲直りしてほしいんだ。クロには俺から言っておくから」
「そんな、あたし、うまく話せる自信ないよ」
「大丈夫だよ。クロだって分かってる筈だ」
 ラーナーは黙り込み、もう一度クロの姿に目をやる。彼は遠い存在だった。今実際に物理的に離れている距離以上に、心の距離は一層離れてしまった。これを縮めるかそのままか。答えは決まっている。けれど勇気を出すことは怖いことだった。また突き放されてしまいそうな気がするのだ。けれどこのままでいいのかと問われればラーナーはそれはだめだと即答できる。今はそういう状況だった。
 傍にあった遺跡の塀にラーナーは触ろうとしながらも少し躊躇し、けれどそっと触れる。ざらざらとしていて、かたく冷たい。

「……うん」
 唇を噛みしめて彼女は頷いた。

感想 ( No.30 )
日時: 2010/11/18 19:21
名前: でりでり ID:m.Fgik6I

でりでりがお邪魔します。
いやぁもうめちゃくちゃ面白い。描写も話の流れも綺麗で、読んでるこっち側としてもどんどん進んでいきます。
伏線もめちゃくちゃ張ってますな><
白のこと、黒の団のこと、李国のこと(も関係するのかな)、アランのバイトの内容のことなどなどいろんなことが気になる!
まだまだ目が離せないことばかりで、これからも更新が楽しみです!
アラン、めちゃくちゃ気に入ってます。こういうなんだかんだで超友達想いなヤツいいですよね。あとキャラクター的にもおいしいしw
次回はクロとラーナーの仲直り。一悶着あるか、そして無事仲直りできるか! わくわくが止まらないぜ!
ところでラーナー、ブレットの伝言伝えたのかな……?

以上、短い感想ですがここで終わらせていただきます。応援してますので頑張ってくださいb

感想 ( No.31 )
日時: 2010/11/19 19:24
名前: レイコ ID:/oSSWVns

こんばんは、レイコです。移転作業お疲れ様でした。
※未読の方ネタバレ注意




今回久しぶりに最初から読ませて頂いたのですが、何分乏しい記憶力でして少々忘れていた部分もありました……
そう。何を隠そうアメモースの存在です。手当や料理といった場面で物凄く役に立ってくれているのですが、なんと出番に恵まれないことか……
滅法強いクロ、優秀なポニータ、定評のあるエーフィ&ブラッキーという頼もしいメンツに囲まれたアメモースが戦う必要性はほとんどなさそうですが、
水道水や温かい人間の皆さんというライバルの出現に、その癒しポジションすら奪われつつあるような……と、よからぬ心配をしてしまいました;

そして回収されていない伏線の中で俄然気になったのが、ラーナーがバハロで会った足長少女です。そういえば彼女、あれから音沙汰無しですよね。
思えば当時、バハロの酒屋のマスターが出てくるなり「この人がニコ・ロンドだな」と決めつけて読んでおりました。
お恥ずかしい話です。どう考えても擁護のしようがない盛大な勘違いです。

最近の分ですと、トレアスはいい場所だなに尽きます。明るく接してくれるアランや夫妻の存在は本当に救いです。エイリー婦人も親切でしたが、すぐ別れてしまったのが惜しいです。

……哀しい場面を語ると憂鬱になるので今回はパスしますね。

まとまりのないコメントですが、お気を悪くなさいませんよう。これからも楽しみにしています。それでは。

感想返信 ( No.32 )
日時: 2010/11/21 13:01
名前: ID:X6Ski.o6

感想返信です。本当にありがとうございます!モチベーションがぐぐーんとあがりました!

>でりでりさん
ふわわベタ褒めで恥ずかしいくらいです><
伏線は沢山張っている分回収忘れをしそうで怖いです。今後でりでりさんが気になっていることも明らかにしていけたらいいなあと思っておりますがいつになるか……。
アランは作者の私もとても好きですwクロとラーナーはまだお互いかたいですし、特にクロとはしょっちゅう喧嘩しているようなものですから書き辛いことがよくあります。それに比べアランは自然体で性格も良い奴なので書きやすいです。あの二人に挟まれているのは、ポニータもそうですが若干振り回されてる感があるので可哀想とは思っていますがw
ブレットの伝言はどうでしょうか、それもまた今後……。
応援ありがとうございます><また更新スピードは鈍くなりますがモチベーションは高まっているのでなるべくすぐ更新できるよう頑張ります!

>レイコさん
レイコさんは旧掲示板から数えると二度目の感想ですね。本当にありがたいです。
アメモースが最近全く出ていないのは理由があるのです……。私自身アメモースは好きなのでそのうちどうしたんだというくらいの活躍場面を出したいですが、読者方に忘れられているのは大問題ですね。危機感を抱きましたありがとうございます。
足長少女は一度出たからにはまた出てきますが、いつになるのか……。酒屋のマスターと間違えられていたとは誤算でしたw分かりづらくて申し訳ないです><あと「ニコ・ロンド」ではなく「ココ・ロンド」なのです><
トレアスはクロとラーナーの休息できる良い場所にしたいと思ってこうなりました。二人がまだぎくしゃく状態なので、アランやオーバン夫妻は私にとっても助け船のような存在です。
楽しく読んでもらえるように今後も精進していきます!



お二人ともありがとうございました!まだ物語は始まったばかりのようなものなので、もうしばらく付き合ってくださるとありがたいです><

30話更新 ( No.33 )
日時: 2011/03/27 23:08
名前: ID:pMzOchoo

Page 30 : 賭博

 日は完全に山の向こうへと落ちて辺りは暗闇に包まれている。市街地はまだ少し賑わっているだろうがオーバン家の前は沈黙を保っている。
 オーバン家の二階の端の部屋の明かりが点いている。アランの部屋であり今はクロも寝泊まりしている部屋だ。先日電気が点かなくなっていた事をエリアに指摘され、変えたばかりのところであった。
 ラーナーとアランが帰ってきてから数時間後、夕方のあたりでクロは帰ってきた。それからまた時間は経ち、部屋にはクロとアランの姿がある。
「本当に身体は大丈夫なのかよ」
 床に乱雑に置いてあった本を手に取っては本棚に戻しつつアランはクロに声をかける。
 ああ、とクロは頷く。そしてこれ見よがしに十冊以上の分厚い本を一気に持ち上げてみせ、アランの元へと持っていく。それを見たアランは複雑に顔をしかめ、溜息をついてからその本を棚に戻していく。
 足の踏み場も無かったこの部屋もようやく本来の姿が見え始めているが、凄まじい埃が撒き上がっていた。窓を開けているものの空気の循環は悪く、部屋にいるだけで鼻水が暴走しそうである。もっとも二人はこの空気に慣れたものなのか身体に異変はさほど起こっていない。
 クロは整然されている本棚の全貌を見やる。どれもこれも分厚く背表紙を見るだけで難しいことが手に取る様に分かる。クロは見てもさっぱりだろう。内容は様々なものがあるが根本は大して変わらない。医学関係のものだ。
 アランはガストンを師匠と呼び、彼の元で薬学を学んでいる。
 一見すれば家族のように親しんでいるオーバン夫婦とアランだが、実際のところ彼等に血の繋がりは殆ど無い。遠い親戚同士の関係である。それをクロは知った時ひどく驚いたものだった。言われてみれば確かに顔に似通ったものはあまりないが、それ以上に仲の良さが家族といえるそれだったのだ。
 本来医療系の技術を学ぼうと思うなら大きな学校に通うものだがアランには金が無く、今だってアルバイトをしてぎりぎり繋いでいるようなものだ。アルバイトの金は殆ど本などの勉強のために回し、一部はオーバン家に御礼のものとして贈っている。朝は早く昼はこの薬屋で働き夜はバイト。間の時間を使って勉強。身体は大丈夫かと尋ねるともう慣れたといつも笑ってみせる。それがアランだった。
 クロは身体をぐっと伸ばすと口を開いた。
「さて、掃除はこのへんにして、俺はそろそろ行くよ」
「本気かよやめとけ。俺は別にどうでもいいけどな、途中でガタがきてその隙にぼっこぼこに殴られたらラナちゃん泣くぞ。別に今日じゃなくたっていいだろ。まだ完全に身体が回復したわけじゃねえのにハードなことする必要はねえっていうかハードなことすんじゃねえ馬鹿野郎」
「もうこれ以上ここに長居するわけにはいかねえよ。さっさと出ていく」
「お前なあ」
 呆れた声をあげたアランは持っていた本を全て片付けると机の傍に歩いていき、一つノートを開き挟んでいた一枚のメモ用紙を取り出す。それを渋々といったようにクロに向ける。クロは一度アランの目を疑うように見やるとそれを受け取る。
「前に行ってた所とは別の場所だ。聞けばあそこは潰れたらしい。適当に詮索してみたらその手に詳しいお客さんが居てな。あっさり教えてくれたよ」
「……お前ってそういうの上手いな。ただのコーヒーハウスだろ」
「まっ神様が俺に授けてくれた唯一の才能ってやつかねえ。別にそんなん必要ねえんだけど」
「自分で言うなよ」
 メモ用紙を乱暴にズボンのポケットにしまうと、部屋の角に置いてあるクローゼットを開き中にかけてある黒いニット帽を取り出しそれを被る。その際深緑の髪が全部隠れるように丁寧にする。
 アランは引き出しを開き小さな箱を取り出すとクロに差し出した。途端クロは露骨に嫌悪感を表情に出す。
「ニット帽はまだ許すけどこれは嫌いだ」
 ぽつりと呟いてそれを乱暴に取る。渋々机の上に置いてあった伏せてある鏡を立てると、箱を開ける。中に入っていたのは青と白を基調としたコンタクトレンズのケースだ。
 その片方の蓋を取り中に満たした液体に浸っているコンタクトレンズを取り水分を切ると、人差し指に乗せ鏡をじっと見る。大きな溜息をついて鏡に映った自分の顔を見つめる。
 が、意を決したように指を使って左目を大きく見開き、そこにそっとレンズを乗せるように装着する。ゆっくり何度か瞬きを繰り返しレンズを安定させる。左目を改めて開いて右目を覆いきちんと着いたかどうかを確認すると、その目を細めた。鏡に映るクロの瞳は深緑から黒色へと変貌していた。同じ要領で右目にも付けて両方とも見た目は黒目となる。
 鏡を再び伏せるとアランの方を見る。アランは椅子に座ってその様子を少しにやけながら見物していた。
「いつ見てもおもしれえなカラコン」
「俺は嫌いだ。こんなの俺にはただの障害」
「それはお前だけだろ。それに緑の髪に緑の目なんて珍しすぎて相当目立つんだから一晩ぐらい我慢しろ」
 分かってるよ、とクロは適当に返事をして足元に置いていた自分の鞄を背負う。その後先程アランから受け取った用紙をポケットから取り出し目的地を再度確認する。ここからさほど遠い場所ではなく、市街地の端の方にある。少し人通りがありそうだが中心街に比べればなんてこともないだろう。それをまたしまい、今度はベルトに着けているポーチ、普段は火閃が入っているものの中身を取る。火閃は無く、代わりに入っているのは二つのモンスターボールだ。
「アメモースはちゃんと回収したか」
「ああ。こいつまたコイビトの所へ行ってた。毎度探すのに苦労させられる」
「ポニータも今はボールに入れてるんだろ」
「ああ」
 クロは話しながら二つのボールを手元で遊ぶように投げる。数秒後には飽きたように元の場所に戻した。
「おいクロ」
 半ば怒っているような、或いは気だるそうな声でアランはクロを呼ぶ。それに振り向いたクロはなんだよとぼそりと呟く。
「ラナちゃんにここに残れって言ったんだって? お前馬鹿だな」
 思ってもいなかった話題が飛び出してきてクロは身体を震わせ固まった。
 溜息を吐くようにゆっくりとアランは話し始める。
「仮に、もし、万が一ラナちゃんがここに残ることがあった時、ヤバい奴がここに来たら誰がラナちゃんを守れるんだよ。誰も守れねえよ。この家にポケモンはいねえしお前みたいに変な力があるわけじゃないし、ごく普通の一般家庭なんだよ。前に色々あった時何とかなったのはお前が居たからだろ」
 諭すような言い方でアランは話しながら、椅子を立ち上がる。殆ど同じ高さの目線がぶつかった。強く鋭い視線に思わずクロはたじろぐ。クロの瞳には迷っているような弱い光しか灯っていない。
 クロは過去の話を聞かされるのは苦手だった。どうしても縮こまってしまう。そこで感じるのは罪悪感。
 弱みを握るようだがチャンスだとアランは確信した。
「仲直りしてくれ」
「……」
「頼むから、仲直りしてくれ」
 クロを抑え込もうとしているように強く圧力をかけて言う。クロは遂にアランから目を逸らし、下の方を虚ろに見つめる。冷たい沈黙が流れ、アランはクロの返事を待つ。しかし一向にクロの口が開きそうな気配は現れない。時を刻む時計の音が部屋に異様なまでに鳴り響く。
 どれだけ時間が経ったのだろうか、よく分からない。待ちきれなくなったアランは机を思いっきり叩いて沈黙を突き破った。クロは驚いて身をびくんと震わせた。これほどにクロが動揺を見せるのは珍しく、そしてアランが露骨に苛立っているのもまた珍しい。
「明日の朝、近くで休日にやる市場がある」
 唐突なことにクロは顔を顰める。すぐに頭を整理し何のことを指しているのかは分かった。以前自ら赴いたこともある市場だ。朝にも関わらず多くの人で賑わい、人混みが苦手なクロには少し心を狭くさせるものがあった。
「ラナちゃんにも言ったんだけど、そこで仲直りしてくれ。ちゃんと向き合って、今後どうするかは話し合って決めろ。勝手にお前が決めていいことじゃない。そんなの当たり前のことだろうが」
 気持ちの高潮を無理矢理押さえつけて静かに怒りを込めているアランをクロはようやく再び見た。
 すぐに返事をすることはまたもできず、しばらく熟考する。いや、クロの頭の中はふわふわと浮遊しているような状態で深く考えてはいなかった。考えるのを放棄して、早くこの部屋を飛び出してしまいたいという気持ちの方が今は強い。
 クロはアランに背を向けた。
「考えとく」
 呟くような言葉を残して、クロは窓枠に手をかけたかと思うと開かれた窓から外へと飛び出した。思わずアランは目を見開き窓にかけよる。
 下を覗き込むと何事もなかったようにクロは着地し、埃を取る為に軽く服をはたく。ほっとアランは肩を撫でおろすと少し苦々しげにクロを見る。それに気付いたようにクロは二階を見上げるとすぐにひるがえして歩き始めた。
 アランは深い溜息をついてその場にへなへなとしゃがみ込み顔だけを窓に出す。外は完全に暗闇に包まれていて、今日は星が綺麗な夜である。風も穏やかで過ごしやすい気温だ。夏は過ぎつつあるのだろうと察しがつき、少しだけ心が涼しくなる。
 時間は確実に進み、季節は巡っている。当たり前のことだ。
 本当に、当たり前の事だ。



 *



 トレアスの賑やかな町並みを抜けて、涼しい風から逃げるようにいつもとは違う黒い上着のポケットに手を入れて、クロは目的地を見渡す。
 耳に入ってくるのは籠った打撃音。荒々しさの中に歓喜のこもった叫び。尤も、敏感なクロの耳だから聞こえてくる音なのだけれど。
 少し広めの道に所狭しと並ぶ廃墟のような建物。実際殆ど廃墟だが、その中で声が聞こえてくるのはただ一つ。クロはそこに歩いていく。目的の建物は見上げれば三階建て程度のものだ。如何にも重そうな扉の傍には金髪の柄の悪そうな男の若者が立っている。鼻につく煙草の匂いは彼から発せられており、鋭い目つきでクロを睨みつける。が、クロはそれを軽くスルーした。
「おい」
 声をかけられてクロは仕方がなさそうに男性に目を向ける。クロよりも身長は二十センチ程高いため傍から見れば少し滑稽なものに見えた。
「てめえ、ここはガキが来るとこじゃねえぞ」
 脅しのつもりなのだろうがその声に迫力は無く、むしろ気だるそうなトーンである。
「知ってる。知ってるから来た。ちょっと荒稼ぎにな」
 少しにやりと笑うクロの顔を男性はじっと見つめると、その後くっくっと喉の奥で押し殺すように笑い始めた。そして無造作にポケットから煙草を出した。
「お前みたいなのは相手になんねえ。いや、相手にすらしてもらえねえかもな」
「ポケモンさえ持っていれば問題無いだろ」
「ただのカモだな」
「それはどうかな」
 男性は煙草にライターで火をつけてそれを口にくわえる。その匂いは慣れたものだがあまり好ましいものではなく、クロは顔をしかめたくなったがそこはぐっと我慢し表情を保つ。
 クロは扉に手をかける。一度引いてみるがどうも逆だったようで、すぐに押す。思っていたより重たい扉で、石の塊のようだ。少し体重をかけると開いた隙間から多くの人々の先程より大きな声が飛び出してきた。
「さっさと入れガキ」
 大量の声にかき消されそうな男性の言葉がクロの耳に届いて、言われたようにすぐに入る。

 中は狭くそして見た目通り古い。埃が宙を舞っているのか鼻が少しだけ騒ぐのをクロは感じた。
 声の在りかを探すようにクロは辺りを見回した。ほぼ真っ暗に等しいが小さな窓から覗く月光で辛うじて障害物の所在ほどは感知できる。と、クロは正面二メートルほどの部屋の右端に地下へと続く階段を発見した。
 まっすぐにそこへ向かい階段下を見下ろす。下は暗くてよく見えない。何段あるかすらもよく分からない。自然と息を止めながら探る様に階段を一段一段慎重に降りていく。それは思っていた以上に長い長い階段だった。が、そのうちにようやく地下の間へと辿りつく。階段を降り切った所には扉があり、些細な隙間から僅かに光が零れている。そして耳に障る歓声。間違いなく目的の場所はここだった。
 クロはドアノブをそっと捻る。瞬間一層声の量が増し空気がびりびりと伝わって、まずそれに酔ってしまう。明らかに気分を害されたように表情をしかめ、部屋の中を見渡す。
 そこは広いフィールドだった。小さな扉からは想像もできない。天井の高さは今まで降りてきた階段の段数の多さを納得させる。面積もそこそこな広さで、そこに人がざっと数えて三十人ほど。そしてやはり目についたのは、その部屋の中心に当たる場所を広く使ったポケモン同士の戦いだ。今戦っているのは炎を体現したようなブーバーンと全身が眩しい黄色の刺で覆われているサンダース。が、優勢なのは明らかにブーバーンで、サンダースは必死に立っているがその足は震えていた。痛みが酷いのだろう、前足からは血が流れている。
「とどめだ、火炎放射!」
 嬉々とした野太い声が響き、その瞬間バトルフィールドにいるブーバーンの口が大きく開くと、次の瞬間炎の柱が口の中から吐き出されサンダースに真っ直ぐ突き刺さる。ふうんとクロはその戦いぶりを傍観する。サンダースは悲鳴を上げて力強い炎に押されるがままに吹っ飛び、壁に叩きつけられた。サンダースのトレーナーが唖然とする。サンダースは力無く床に崩れ落ちた。
「ははっこれで九連勝だ!」
「くそっ」
 くっきりと分かれた両者の顔色。
 場に出ていたポケモンがそれぞれボールに戻されると、フィールドの傍に立っている、周りとは一目置いたような小奇麗なスーツに身を包んだ男性が動く。彼の周りにある机の上には金の札が積まれていた。二つに分けていたそれらを一つにまとめる。

 ここは賭博場。
 ポケモンバトルを使ったカジノ。
 この国アーレイスを含む世界でポケモンバトルは基本的に“スポーツ”として扱われている。そして、金が関わることは基本的に禁止されている。勿論プロが参加するような公式大会になれば上位選手に賞金が贈られることはあるが、賭博などもっての外である。今まで同じようなことで検挙された例が世界でいくらかある。けれど無くならないのが実情だ。実際こうして目の前で行われている。けれどクロにとってもこれは大切な収入源だった。旅をするのに当然金はかかる。賭博はリスクが高いが一気に大きな収入を得る可能性もある。それがクロの目には魅力に映り、ずっとそうして稼ぎながら旅を続けてきた。今更禁止されていることに参加することに後ろめたさなど感じていない。

 ブーバーンの使い手がスーツの男性の元に寄り自分の手に入れた金を数えている。その間にクロはちらりと右に横目を流して一番近くにいた小太りの若い男性の元に寄る。
 足音に気付いた彼はクロを見た瞬間まずぎょっと目を見開く。
「ここルールとかあるの?」
 構うこと無くクロはさらりと話しかける。
「は?」
「だからここルールはあるの? 何匹使うのかとかシングルなのかダブルなのかとか」
 少し呆然としたように男性はクロをじっと見つめる。頭の中を整理しているのかしばらく何も言わない。クロの苛立ちがつのる。
 どこに行っても大抵最初はこうである。大人達に混じって臨むクロの小さく細い姿は珍しく、まず驚かれて馬鹿にされる。その後実力で黙らせてきたのだけど。ただこういう状況になる度に気分は淀む。
「別にない。バトルする度にその場で決める……お前戦うつもりか?」
「そうじゃなかったらここに来るわけないだろ」
「まじかよ。はははっ! おい聞けよ、ガキが参戦しに来たぜえ!」
 小太りの男性はその身体から叫ぶような大きな声をあげた。その声は当然室内に響き渡り、部屋にいる人間の耳に跳び込む。皆クロを見た途端にどよめき、そして笑いが誰かから起こると連鎖するように部屋中に嘲笑の声が満ちた。
 さすがにクロは眉をひそめる。
「お前ガキのくせにポケモン持ってんのかよ! それにここで賭けれるだけ金があるのか? お坊っちゃんか? ハハッ」
 わざとらしく顔を覗き込んでくる男をクロは不快気に睨み付けると、頭が痛くなりそうなくらいに大きなからかいの篭った笑いの中で一つボールを出した。その途端誰かが甲高い口笛を吹いてみせる。歓迎ではないのは承知である。指をさしてくるのが目に入り、本当に居心地の悪い空間だと心の中でクロは溜め息をついた。
 クロはフィールドの側に座っているスーツの男の元に向かう。スーツの男はクロを不審そうな視線でとらえ、右手をクロに差し出す。何かを要求しているようだ。その何かが何であるかは簡単に想像がつく。賭ける金だ。
 黒い上着のポケットに手を入れて、適当に探り当てた枚数の金をクロは机に叩きつけた。その瞬間スーツの男と、傍にいた先程戦闘を終えたブーバーンのトレーナーは目を疑った。飛び出してきた金額をスーツの男は慌てるように数え、確認した後にクロを見やる。クロの表情はいたって平常である。
「オイオイ、ガキのくせに無駄に持ってやがんなあ。むかつくぐらいだ」
 ブーバーンのトレーナーは顔を少し引きつらせて言葉を吐く。
「相手してよ。一対一?」
 クロは少し笑いながら尋ねる。場の人間がまず耳を疑ったように空気が冷えた直後、巻き起こったのは野太い歓声。ただしやはり嘲ったもの。突然跳びこんできた挑戦者はまだ随分若い少年、迎え撃つは現在九連勝中の男。絵柄は随分と滑稽なようだ。
「いいや二匹だ。まあお前が一匹しか持ってないなら話は別だがな」
「問題無い。じゃあ二対二で」
 さらりと流したクロは勝手に自分の立ち位置へと向かう。

 トレーナーの立つ場所にクロはやってくると落ち着かせるように深呼吸をした。傍観するようにフィールドを広い視野でとらえる。目の前の線で区切られた空間は神聖な場所であるかのように誰もいない。もう間もなくそこで戦闘が始まる。心に沸き立ってくるのは興奮、衝動。彼をかきたてる。口元が少しだけ上がる。
 クロの相手も位置につくと、にやりと笑いながらボールを投げた。クロはその途端眉間に皺を寄せる。
 ボールから飛び出してきたのはブーバーンではない。白くフサフサとした大量の毛が顔を包み、手は大きな葉の団扇であるダーテングだ。大きな口から威勢のよい叫びを上げ、その瞬間一気に会場のボルテージは上がる。
「ハンデだガキ、先に出してやるよ!」
 ハンデという部分を異様に強調させ、歓声の中でもクロに届くように叫ぶ。
 先程までのクロの興奮はどこかへ消え失せ、代わりに満ちるは苛立ち。クロの相手は自分の手持ちにブーバーンがいることをクロが知っていると分かっておきながら別のポケモンを出してきた。クロを舐めてかかっていることが明らかだ。
 クロは先に出していたボールをしまい、別のものを取り出す。中身を確認するように見てから上へ放り投げた。中から光が飛び出し出てきたのは大きな特徴的な触覚を持つアメモースだ。
 アメモースが出現した瞬間、目玉のような触覚に気圧されたのかダーテングは少し怯む。
 が、当のアメモースは威嚇などするつもりはなく、威嚇どころか戦闘に興味がなさそうに項垂れている。
「アメモース、面倒臭がるな! 今日が終わればしばらくまた戦わせないからさ!」
 恨むような目つきで振り返ってきたアメモースにクロは声をかけた。
 クロのアメモースは戦闘をあまり好まない。好戦的だった時期もあったが今はまるで違う。原因はクロのアメモースの恋愛相手であるトレアスに住む野生のアメモースだ。最初に出会った時に何故か喧嘩になり戦ったが意外な強さに負けてしまい、それ以来自信を失ったのか戦闘を面倒臭がるように避けるようになった。酷い時には戦闘を放棄してどこかへ飛んで行ってしまうこともある。だからクロはこのように本当に必要な時以外はアメモースを戦わせなくなった。
 はぁとアメモースは溜め息をついた。やる気がまるで感じられない。きっと戦闘本番になれば気合も入るだろうという期待を持ちながらもクロは肩を落とす。

 タイプだけを見れば優勢なのはアメモースだ。けれど周りの観客はアメモースが勝つとは思っていないのか、アメモースに見下したような台詞を口にする。もしもこの場に虫ポケモンを好む子供でもいたら虫を馬鹿にするなー! と怒りを叫ぶだろう。
 視線を外に向ければ場外でも賭けが行われているようだ。が、クロの方に賭けている者はいるのだろうか。いなければ賭博は成立しない。
「始めようか」
 クロは溜め息をついてから声をかける。
 スーツの男性がやる気なさげに右手を挙げたのが見えた。彼は審判も兼ねているのだろうか。
「ダーテング、猫騙し!」
 相手がそう叫んだのとほぼ同時にダーテングは強く地を蹴るとあっという間にアメモースの元に跳びかかり、二つの葉の団扇を思いっきり叩き合わせた。その瞬間何かが張り裂けるような凄まじい音が弾けた。同時に巻き起こる強い風。アメモースは風圧に耐え切れず上空へ吹き飛ばされる。突然の攻撃に反応できずアメモースの体は動かない。
「触覚を広げろアメモース!」
 クロの叫びが耳に入った時、アメモースは風で閉じ気味だった目を見開いて触覚を広げた。何とかバランスをとる。風も少し和らいで壁にぶつかるという事態は回避する。
 アメモースは四つの羽を動かし上空へと舞い上がった。その瞳に強い光が宿る。猫騙しで目が覚めたかのようだ。クロはにやっと笑う。
「蝶の舞」
 クロの宣言と共にアメモースはゆっくりと飛びながら回転する。羽と触覚が風に流れるように揺れ、空中でゆったりと踊っているようだ。そしてその舞は少しずつ速くなっていきながらアメモースは地上へと飛行する。
「ダーテング、騙まし討ち」
 ダーテングは一度手の団扇で大きな風を起こしアメモースの飛翔のバランスを崩す。そして向かってくるアメモースと対峙するように跳び上がった。少しアメモースの軌道とはずれ、体を捻る。右手を使った裏拳を狙う。
「回転してエアスラッシュ!」
 少し傾いた体を無理矢理捻り、触覚と羽が大きく羽ばたいた。飛び出すはダーテングの作り出す広がる風とは違い、小さくも鋭い風の刃。それが四方八方に走った。当然ダーテングは避けられずそれを食らう。が、もう既にアメモースに接近していたため、風の刃を振り切るようにアメモースの小さな体を右手の裏で殴った。体重が軽めのアメモースは横方向へ真っ直ぐ飛ばされ、壁に激突した。一方のダーテングも地にうまく着地できず転がり落ちる。
 エアスラッシュによって体に切り傷ができたダーテングは少しよろけながら立ち上がる。ダーテングのトレーナーは眉をひそめる。彼が思っていたよりダメージは大きかったようだ。
 アメモースは壁を蹴って再び飛ぶ。まだ安定して飛べている。クロは胸を撫で下ろす。
「もう一度蝶の舞だ!」
 空中を乱舞するように飛ぶ。くるくると廻ったり触覚を大きく広げたりしながらまた加速していく。目の錯覚か、アメモースの周りを小さな光の粉が舞っているかのようだ。それほどに洗練された美を踊る。
 しかし今は戦闘中。それに見惚れるような状況ではない。
「痺れ粉!」
 クロは叫んだ。途端アメモースは舞をやめ、素早く触覚を一度畳んだ後に花開くように広げた。金色に煌く粉が精製され、空中を飛び回りそれが地上へと粉吹雪のように降り注ぐ。
「ダーテング、返してやれ! 風を起こすんだ!」
「こっちもだ、銀色の風!」
 トレーナーの指示通り、ダーテングはまず腕を大きく広げるとその両手を思いっきり内側へと降った。瞬間、轟音と共に凄まじい風が爆発した。
 負けじとアメモースも痺れ粉を降らせる体制から一転、触覚と羽を後ろに反らせると一気にそれを羽ばたかせた。銀色の輝きを携えた風が巻き起こる。
 両者の作り出した風が激突し、部屋中を巻き込む大きな風がまるで火山が噴火したように暴れまわった。辺りから悲鳴が飛ぶ。クロは帽子を押さえて髪が出ないようにする。あまりの強い風に耐えるのが精一杯で、目も開けていられない。
 痺れ粉による金色と風の銀色とが交じり合い、それが乱舞する。が、アメモースによる銀色の風の方が強い。銀の光がそれを物語るように部屋を掻き毟る。
 少し風も落ち着き始めた頃、クロはようやく目を開いて上空を見上げた。アメモースは大きな風のエネルギーに煽られていたが体勢をぎりぎり保っている。耐久力もあげる蝶の舞の効果が表れていた。
 対するダーテングは風に押され、手を地に付け耐えている。痺れ粉は辺りに吹き荒れて散り散りになり効果がほとんど薄れてしまったが、チャンスだった。
「電光石火!」
 クロが叫んだ瞬間アメモースはまだ暴れている風の中を安定してまっすぐ突き進んだ。そのスピードは目にも留まらない。距離があったにもかかわらず一気に間合いを無くし、ダーテングに激突した。出発点が高い位置であることにスピードが上乗せされ、ダーテングに重く鋭い攻撃が圧し掛かる。その大きな身体がふらりと揺れた。
 しん、と音が完全にやんだ。
 誰も息を呑んで声を発さない。
 アメモースが軽く羽ばたいてダーテングを見下ろす。土煙が少し漂っている中で、ダーテングは何とか立ちあがろうと震えるが、もう限界であることは誰の目にも明白である。
 そして沈黙の中で、重い石が地上に落とされたような太い音が響いた。
 ダーテングは立つ力すらも失い、その場に伏した。

 予想もしていなかった事態に、周囲は少しずつざわつき始めた。ダーテングのトレーナーは自分の目を疑いしばらく立ちすくしている。

「早く戻しなよ。使用ポケモンは二匹だろう」
 少し楽しそうにクロは小さな笑窪を作って言い放った。その言葉で夢から帰ってきたように相手ははっとすると、顔を歪ませてダーテングをボールに戻す。
「調子にのんじゃねえぞ! いけ、ブーバーンッ」
 投げられたボールから再び姿を現したブーバーン。腕の先から炎が飛びだし、その口から吐く息すら燃えている。気合は十分、破壊力は言うまでも無い。さすがにクロは身を固くする。
 アメモースはブーバーンの発する熱を嫌がるように少し地上を離れた。
 先程とは一転、不利なのはアメモース。タイプの相性は勿論、アメモースはダーテングとの戦闘で体力を削られている。
「ブーバーン、煙幕!」
 指を突き出したトレーナー。ブーバーンは体勢を低くして腕を前に突き出した。そして腕の先からは炎の代わりに黒い煙が勢い良く噴出された。一瞬でブーバーンは見えなくなり、数秒後には視界が完全に黒に遮られる。クロは口を思わず押さえたがすぐに離す。
「アメモース、煙幕を吹き飛ばせ!」
 アメモースの姿はクロから全く見えないが、アメモースの耳にはクロの命令が届いた。羽根を素早く羽ばたかせ一気に煙幕を一掃する。
 が、煙幕を払った途端にブーバーンがその中から跳び出してきた。アメモースの起こす風などもろともせず、脅威のジャンプ力でアメモースのところまで来た。気付かなかったクロは目を見開く。
 大きなその腕をブーバーンは振りあげた。アメモースは羽ばたきを止め、咄嗟に避けようとした。その重い腕が振り下ろされる。次の瞬間、若干かわしたアメモースだったが大きな触覚は捉えられ、地上へと一気に叩きつけられた。クロは素早く腰に手を回し二つのボールを取りだした。
「決めろ! 大文字!」
「バトンタッチ!」
 二人の声が重なる。アメモースは目を見開くと痺れ、痛む身体を無理矢理動かし飛んだ。クロは開閉スイッチを押した二つのボールを突き出す。片方からは白い光が、もう片方からは赤い光が飛び出した。アメモースは真っ直ぐに赤い光へ飛び込み包まれると、そのスピードのまま白い光に一瞬絡みついた。混じり合った二つの光は再び分かれ、アメモースはボールの中へ。代わりに姿を現したのはポニータだ。
 地上に着地したブーバーンは充填を完了させ、片腕から炎の柱が猛烈な勢いで噴き出した。その威力にブーバーン自身も少し後ずさった。炎は途中で五つの方向へ分かれ、それは正に大の文字を模した炎。
 ポニータは足に力を入れた。瞬間、身体が震える地響きを伴った大文字がポニータに直撃した。ポニータは炎に包まれ、姿が見えなくなる。しかしクロは慌てる様子も無く冷静にそれを見つめた。
 数秒後、炎が吸い込まれるように急速に消えていった。相手のトレーナーは息を呑んだ。ポニータは攻撃のダメージを全く受けていないのかぴんとしていて、それどころか背中に燃え盛る炎は一層大きくなり輝いているように見える。
「特性貰い火だ。ポニータ、煉獄!」
 ポニータは走り出した、かと思えば一瞬でブーバーンの元に辿りついていた。元々速いが、バトンタッチによってアメモースの蝶の舞の効果が継承され、スピードが上乗せされている。
 反応しきれないブーバーン。ポニータからすればブーバーンの動きはスローで再生されている動画のよう。その動きが手を取る様に分かった。
 ポニータの背の炎が暴れ、口の中からオレンジ色の炎が飛びだした。それはブーバーンを囲うようにカーブがかかる。炎が一気にブーバーンに跳びかかった。それを払うようにブーバーンは腕を振った。
「そんなものがなんだ! ブーバーン、雷パンチッ」
 ブーバーンの右腕に電気が走った。直後一気に増幅された電気エネルギーを腕に纏い、接近しているポニータに殴りかかった。咄嗟にポニータは顔を横に振り避けた。拳は止まらず地面へと激突しそこにひびが入った。喰らえば骨が数本折れる事は確実だろう。
 電気を装填しているのは右腕だけでは無かった。攻撃の最中に左腕も電気を纏い始めていた。今、充電が完了する。素早くポニータに振り下ろした。ポニータは今度は落ち着いて後ろに軽く跳んで避ける。しかしブーバーンの攻撃は止まらない。連続でパンチを繰り出してきた。それをひたすらポニータは避け、どんどん後方へと下がっていく。
 クロは目を凝らし、ブーバーンの様子を見守る。その時、ブーバーンの尾が不自然に鈍く光るのが目に入った。
「アイアンテール!」
 相手の声が響いた。その指示を予期していたようにブーバーンは即座に右に身体を捻り、硬化した尻尾を大きく振る。
「高速移動、左!」
 クロの指示は俊敏だった。そしてそれに応えるポニータは更に素早い。
 尻尾が振られなかった方へポニータは一瞬で駆けるとすぐに静止。丁度ブーバーンも振り返ったその瞬間、ポニータは後ろの足を高く蹴りあげた。鍛えられた力強い後ろ足が捉えたのはブーバーンの顔面。足が減り込んだ、直後まるで豆が弾かれたかのように巨体が転がっていった。ぎりぎりフィールドの枠で止まるが、その顔は歪んでいる。鼻血が止まらない上目も開けられてはいない。丈夫な足腰に加え、ポニータのひづめはダイヤモンド以上の硬さと言われている、凶器そのものだ。その衝撃は想像を絶するものがあるだろう。
「跳びはねる!」
 ポニータは少し助走をすると前足に力を入れた、かと思えば一気に跳び上がる。その高さは危うく天井にぶつかるのではないかと思うほどのもの。
「煙幕!」
 咄嗟の指示にブーバーンは大きく息を吸い込むと、電気エネルギーを引っ込めた腕を伸ばし先から煙幕を噴き出した。あっという間にブーバーンの周りが煙で覆われる。
 一番上の到達点に達したポニータは十数メートルの高度から煙幕の中へと急降下する。空気を切り裂いていくその速さは瞬く間に地上へと向かう。が、やはり煙幕に跳び込むのは不安か、少し軌道にブレがある。
「ブーバーンはまだ動いていない、そのまま行け!」
 クロは助言するように叫ぶと、ポニータは軽く頷いて底の見えない闇のような煙幕に突っ込む。刹那、強烈な鈍い音が破裂した。
 煙幕がポニータの軌道に沿って広がるように晴れると同時にポニータはブーバーンから間合いを取る。ブーバーンは相変わらず目を閉じたままその場に膝を付いていた。相手トレーナーは唖然とする。それは周囲の空気も同じであった。
 冷たい目でブーバーンを見つめるクロ。ブーバーンがまだ動こうと震えながら立ち上がる様子を見ると、右手を上げた。
「ワイルドボルト」
 ポニータは全身に力を込める。数秒後火花が散り始め、一気に電撃がポニータを包み込んだ。それを身体に纏ったままポニータは声をあげると走り出した。間合いなど瞬く間に詰めてしまう。
「雷パンチで応戦だ!」
「遅いよ!」
 その二人の声が飛んだ時、電撃を衣にした馬は標的に激突した。防御など取りようがない。ブーバーンの視界は真っ暗なのだから。
 ブーバーンは吹っ飛んで壁に激突した。容赦など欠片も無い攻撃に完全にやられ、そのまま力無く頭をうなだれる。

 気絶した様子をじっくりと見極めたスーツの男性は、息を呑んで腕を上げた。室内に重い沈黙が流れる。
 電撃が消え去るとポニータはクロの元に駆け寄った。クロは優しく微笑んで受け入れると、その白い身体をそっと撫でる。そしてその場を離れ、スーツの男性がいる所へと向かう。相手は金をまとめるとクロに差し出した。が、クロはそれを手を振って拒む。
「それ全部もう一回出す」
 途端、周囲がざわつきを取り戻す。明らかに動揺した様子で、それぞれ顔を見合わせている。
「次来いよ。俺に勝てば、この金全部手に入れられるぜ。ただし、それなりにそっちも賭けてもらわないと勝負は受けない」
 騒いでいる室内によく通る大きな声でクロは言い放つ。その口には不敵な笑みが含まれていた。

31 理由 ( No.34 )
日時: 2011/03/08 18:17
名前: ID:J0kOgnWo

Page 31 : 理由

 騒動のあった一日は明け、いつものように朝は巡ってくる。
 清々しくひやりと肌に刺さる朝の空気を一身に受けて、ラーナーは透き通る青い空を見上げた。日光の暖かさが今は心地よいくらいだった。周りも静かで落ち着いている。休日だからまだ起床していない人もいるだろう。これから向かう朝市は少し早い時間から始まる。新鮮な農産物が並ぶとアランがあらかじめ話したが、ラーナーの故郷のウォルタには無かったものだから自然とラーナーの胸は高鳴っていた。勿論、心の中で光っているのは希望ばかりではないが。
 玄関口の扉が開いた音にラーナーは振り返った。まず目に入ったのは苛々した表情を見せているアラン、すぐにその後ろに手をひかれて出てくるクロ。旅の際にずっと被っていた帽子を身につけ、前髪にほとんど隠れている瞳は半分も開いていない状態だ。
「待たせて悪いなラナちゃん。くっそこいつ案の定まだ寝てやがった。ちゃんと俺は朝市の話をしたにも関わらずなんだこの意欲の低さは。お前そんなに寝なくても割と平気な体質じゃねえのかよ」
「うるさい耳に響く。人間だから睡眠意欲には勝てないこともある」
「はいはい文句は後で聞いてやるわけないからさっさと行け。これ買い物メモ。けっこう大量だからまあ頑張れ。ラナちゃんは朝市初めてなんだからクロ、お前がしっかりしろよ!」
 そう言って思いっきりクロの背中をアランは叩いた。叩くというよりは平手で殴ったという方が表現としてはやや正しい。爽快感すら覚えるような音が跳び、その痛さにクロは思わずその場にしゃがみ込む。無言の悶絶をするクロを無視してアランはそそくさと家の中へとまた戻ってしまった。
 あっという間に二人は取り残される。言い知れない気まずさが辺りを満たす。アランが二人のパイプラインを果たしていたことを実感させられる。
 クロは大きな溜息をついて未だに眠たそうな目で買い物メモに目を通す。小さなメモ帳のうちの一枚だが、アランの言った通りなかなか種類豊富に書き綴られている。朝市に売り出される食べ物は、普通のマーケットで売られるものと違って生産者と消費者が直接リンクする。生産者本人が売り出すため、売り専門の業者が間に挟まない分値段も安くなる。それを狙って早朝にも関わらず沢山の消費者が集まる。その人混みがクロは気に入らないのだが、今はもう戻ることはできない。
 ゆっくりとクロは立ちあがる。
「……行くか」
 その掛け声にラーナーは小さく頷いた。早足で歩きだしたクロの後を慌ててラーナーはついていく。


 *


 朝市はクロが予想していたよりも人が少なかった。というのもまだ始まったばかりだからである。もう少し時間が経てばどんどん人で溢れてくるだろう。
 トレアス市街地の中央にある市民会館に隣接した広場に所狭しと屋台やビニールシートが並び、そこで様々な食べ物が売られている。意気の良い声が辺りを跳び回り、それだけでラーナーは目が回りそうになる。あちらこちらで声をかけられ、慣れていない上にお人好しな部分もあるラーナーはその度に視線を行き交わせる。加えて人々の中にいることでぐんぐん上昇する気温が一層疲れを誘う。一方クロは勧誘の声に惑わされずに淡々と買い物を進めていく。どんどん市場を進むクロにラーナーはついていくだけで必死になり、会話など挟む余地は無かった。仲直りどころか、まともなコミュニケーションをとっているような会話は家を出てからまだ一度もできていない。
 クロの両腕は大きな紙袋で埋まり、ラーナーも少し持っている。疲労の一方で、鼻に香る乾いた紙の匂いがラーナーの心をささやかながら僅かに和らげた。
 沢山の物が入ったクロの紙袋にまた一つ何かが入って、ふぅと彼は息を吐いた。その表情には少なからず疲労が見えている。
「大丈夫?」
 思わずラーナーは尋ねる。荷物をもう少し持ってあげるべきだろうかと思いつつも、クロの持っている荷物を自分が持てるとはとても思えないほど、見た目からして重量感がある。巨大な米袋を一つずつ両手で持っているよう。
「別に、これくらい」
 ちらと話しただけでまた会話は終了する。確かにそれほど苦労しているようには見えないが、少し前まで歩くのすらままならない状態だったというのに、いつの間にここまで回復を遂げたというのか。
 額からたれる汗を拭うラーナーをちらりとクロは見やると、肩を落として辺りを見回す。と、あるものに目を止めた。方向を少し転換して、行き交う人の声を潜り抜け、市場の少し外れになると若干寂れたように店の数が減少する。背後に騒ぎ声を残して、クロが向かった先は朝市が開催されている広場の端にある木のベンチ。ようやく休憩だと悟ってラーナーは安堵する。丁度良く今は建物の創り出した影がかかっていた。
 クロはベンチの向かって右側に荷物をまず一つ下ろすと、その重みでベンチが悲鳴をあげる。クロは少し静止してからもう片方の荷物は仕方なさそうに地面に置いた。
「座ったら。疲れたんじゃないの」
 ぶっきら棒にクロは言うと、ラーナーは少し縮こまる。威圧感のようなものがクロから発せられていて、座れと命令されているかのような口調にラーナーは感じ、そっとクロの置いた荷物とは反対側に座る。その瞬間ラーナーに足の痛みが雪崩れ込み、頭に熱があっという間に上ってきた。肩の荷が一気におりるようにラーナーはほっと息をついた。
 クロも身体の緊張を弛緩させるように背伸びする。日陰の中に入ってくる風は冷たくて心地が良く、雰囲気を自然とクールダウンしていく。視線を上げて見える空は青く、朝の太陽が輝いている。忙しいが爽やかな朝のスタートとなっている。
 しばらく沈黙が流れる。ラーナーは持っていた荷物を自分の左隣に置く。その後、クロがようやく座った。その距離は荷物を挿んで近いようで少しだけ遠い。けれど、本当の狙いである仲違いの解消をするためには、他に機会はない。気まずい雰囲気の中で互いに言葉を探す。
 こうしている間にも朝市にはまた人が入っていき、一層騒ぎは大きくなる。家族連れも多く、子供達が見ていてハラハラするほど走りまわっている。楽しそうな声が空を跳ねまわる。
 クロ、とラーナーは呟くように小さな声で呼んだ。クロは小さく返事をした。
「……火傷のこと、ごめんね」
 呼んでから数秒置いた後にラーナーはゆっくりと噛むように述べる。
「無神経だったと思う。ごめん。隠したいに決まってるのに、問い詰めようとして」
 クロは視線をようやくちゃんとラーナーに向けて、大きな溜息をついた。
「別にもうどうでもいいよ」
 頭をだらりと後ろに傾けて、クロはリラックスしているように見える。やはり本調子ではないのだろうかとラーナーは少し心配になる。もっとも、色々な面でクロは一般とは違うから、どのくらいが彼にとって普通であるのか計れないが。
 また間が空く。クロはその間に朝に寝ぼけ状態の中でアランに言われたことを脳内で噛みしめていていた。彼はこの場にアランがいたらどんなに楽だろうと痛感するが、生憎アランもいないし、また同じく二人の橋渡しをしていたポニータもいない。自分の意志で会話を始めるしかない。
「……なんていうか」会話を今度はクロが切り出す。「俺も言いすぎたし」
 ラーナーははっとしてクロを凝視する。一方のクロはそれに気付いて背けるように右腕を顔に乗せ、表情を隠す。
「ここに残ればいいとか、それが一番良いどころか一番危険なのに」
 小さく紡がれるその言葉をラーナーは聞き逃さなかった。そしてその言葉の意味を呑みこむことができず、首を傾げる。
「どういう意味?」
「……どこにいたって黒の団の目にいつか捉えられる。あんたがここにいると知られて、でもその場に俺がいなかったらあんたは勿論、アラン達だって皆殺される。誰も戦えないんだから」
 淡々と出てくるが内容は身も凍るほど恐ろしいもので、ラーナーの記憶にまた弟の姿が焼きつく。
 一方のクロの脳裏にも、別の情景が浮かび上がっていた。
「以前、俺が初めてアラン達に会った時」
 クロはゆっくりと話を進める。
「その時はトレアスじゃなくリマっていう町にいた。色々あってオーバン家に身を置いていたんだけど、ある日の夜に黒の団の襲撃を受けたんだ」
 ラーナーは息を呑んだ。
 腕の下でクロは目を閉じた。甦る記憶はいつでも彼を揺さぶる。爆発するような悲鳴と興奮が風景を満たし、そして血の飛沫が走る。様々なものが割れたり倒れたりする音が掻きむしる。暴れまわる。全てが引っくり返る。泣き声と叫びの不協和音が金きり音のように響き、やがて訪れる平穏の時。その時クロに残るのは、空虚。手に握られた閃火の炎は小さい。全身に付きまとう血の色と匂いが彼を後悔へと導くと同時に、静かな歓喜に似た衝動で心中は満たされるのだ。
「俺しか戦えないから、俺だけで戦った。正直大変だった本当に。無力な誰かを守りながら戦うのは動きが制限されてすごく辛い」
 そうは言うけれど実際今こうして生きていることが、彼が勝ったという何よりの証拠。
 だらりと右腕をクロは下ろした。閉じていた瞳は姿を見せて、虚空を見つめる。
「その後オーバンの人達は今のトレアスの家に引っ越した。血みどろの家になんか住めないし。……」
 クロは一度口を閉じる。
「……もうこれ以上、あの人達を巻き込むわけにはいかない。だから、あんたを置いていくわけにはいかない」
 強い意志が言葉の芯となっている。
 安堵と戸惑いが混在した心中で、うんとラーナーは小さな相槌を打つ。うん、そうだねと続ける。独り言のようで、クロは不意にラーナーを見やり、その顔が少し俯いているのを確認した。量が増えて少し重くなった髪が垂れて、日陰の中で更に影が落ちているようだ。その胸中をはっきりと察することができないクロは、黙って自分も視線を上へと戻した。こうしてどう言ったら良いのか分からない時には黙っておくのが彼にできる最善の手だった。
 ラーナーは目を閉じて思考を整理する。クロが原因であるが黒の団に襲われたアランとオーバンの夫婦。クロのおかげで、生き延びた。そして一カ月程前、黒の団に襲われたラーナーとセルド。セルドは死んだ。そしてクロのおかげで、ラーナーは生き延びたのだ。そうして今、まだ標的として狙われたままウォルタを離れ、またここを離れ逃亡の旅が再開する。
「また逃げる旅が始まるんだね」
 ラーナーは思わず口を滑らせる。
「なんかね、いつになったら終わるんだろうとか考える。未来とかそりゃ、以前も考えてなかったけど今は本当に不透明すぎて不安ばっかり」
「……いつ終わるか、か。それは分からないな」
 ぶっきら棒にクロは言い放つ。
 数秒置いてから突然ラーナーは音を立てて立ちあがった。クロは驚いて思わずラーナーの方を凝視した。影に包まれたラーナーの身体、その目が光る。見下ろしたその目力は少し強い。
「……ねえクロ、クロはどうして旅をしてるの?」
 深緑の目が大きく見開かれた。それまでの思考が一度リセットされ、身体が硬直する。その後ぐるりぐるりと脳内が回転して、視線も自然とそれる。傍から見ればそれは長い静寂の時間だった。日陰の外を見れば人混みは大きくなり、一層強くなる日差しの元で賑やかさは駆けあがるように増す。
 クロは重い唇をゆっくりと開いた。

「探している人がいる」

 テンポはスローに重々しく。

「生きているかも、死んでいるかも分からない。けど、探さなきゃいけないんだ」

 それまで不安定だったクロの目力が急にきっと定まる。その視線の先にいるのはラーナーではなく、遠い青空を睨みつけているかのようだった。その表情にラーナーの中に息が止まるような恐怖すら走った。それほどに険しく、そして決して崩れることはないであろう決意の表れが彼を支配している。ラーナーはウォルタでの騒動時やバハロでブレットと対峙した時のクロの姿を思い出した。それは、その時とどこかしら似ていたからだった。
 声をかけようとするラーナーだが、次の言葉は浮かんでこない。クロの様子はまるでラーナーを見ておらず、それがまた自分の世界に浸っていることを示しているのが分かったからだ。こうなれば外界からの介入を許さず、しばらくはそっとしておくしかない。
 溜息をついた後に、ラーナーはまた先程の場所に仕方なさげに座った。そうして目を閉じ、自分の思いを整理する。クロの旅の理由は分かった。そして理解できたのは、クロの旅にはいつしか終わりがあるということだった。あの視線の強さは、本当にクロは見つけ出すつもりで旅をしていることを物語っている。いつしかクロは辿りつくだろう、自分の求めているものに。それがどんな形であろうと。そう考えていると、ラーナーは自分の心が締め付けられる感覚に襲われた。それは不安以外の何ものでもない。



 どれほど経ったろうか、数分の時が流れた頃、待っていたラーナーの耳に音が入ってくる。見ればクロがようやく動き出して、朝に渡された買い物メモに目を通していた。先程の冷たい雰囲気は消え、少し間が抜けたようでラーナーは少し微笑む。
 時々荷物の中のものを確認しながら、そのうちメモを閉じてまたポケットに戻す。
「買い物終わってた。帰らないと生ものは腐る」
「あ、うん」
 クロは立ちあがって地面に置いていた荷物を右腕で回すように持つ。
 その様子を見つめていたラーナーは、いつの間にかクロの名前を呼び掛けていた。それにクロは視線を上げた。
「何?」
「……もし、クロの探してる人が見つかったとしたら、クロの旅は終わりだよね」
 押し黙るクロを余所に、ラーナーは力無く笑う。
「ごめん、突然。ちょっとさっき考えてたの。気にしないで」
 ぎこちない言葉にクロは目を細める。ラーナーは自分の持ち分の荷物を手に取ると、その場を立つ。その様子の一つ一つを見るようにクロはラーナーを凝視する。その視線に気付いたラーナーは首を傾げ、無言で帰ることを促すように歩き出す。
 数歩進んで日陰から出てから、クロがついてこらずに立ち止まっているのにラーナーは気付いてまた振り返る。クロは重く何かを考えているように少し俯いて表情を固くしている。
 ラーナーが声をかけようとした瞬間、その顔が上がり思わず押し黙る。が、何を言い出すこともなく片方の荷物を持ちあげて歩き出した。相変わらず当たり前のように重い荷物を持ち上げて苦しそうな顔色を欠片も見せない。が、ラーナーの隣までやってくる間際で再び立ち止まる。
「ラーナー」
 出てきた声は少し低いものだった。
「明日……できれば今日にでも、トレアスを出よう」
「ええっ」
 突然の宣告にラーナーは思わず素っ頓狂な声を出してしまう。が、クロの顔は真剣そのものである。
「行先はこの後すぐに決められると思うから」
「ちょ、ちょっと待ってそんな急な」
「いや、もう出るって決めた」
「わけわかんないよもうっ」
「旅は急に始まるものだって覚えときなよ。とりあえず帰ろう」
 さっさと日陰から出て歩き出したクロの後を慌てるようにラーナーはついていく。
 と、またすぐにクロは立ち止まり、ラーナーも合わせて止まる。今度はなんだと言わんばかりにラーナーはクロの表情を覗く。
「あのさあ」
 クロは言いながら左側の荷物を少し下ろす。
「一番上に多分ジュースあるからとって」
「え?」
 戸惑うラーナーだったが急かすようにクロは荷物を動かす。両手が塞がっているためクロは自力で荷物の中身を取り出せないのだ。ラーナーは背伸びをして中を覗くと、確かに上にジュースの入った瓶がある。橙色をしているからオレンジジュースだろうと見当がつく。が、取り出してラベルを見てみると味はどうやらマンゴーのようだった。
「飲んでいいよそれ」
 クロは荷物を持ち直しながら言う。ラーナーは表情を固め、思わずジュースとクロの顔とを交互に見やる。
「あたしが?」
「他に誰もいないじゃん。俺ジュースだめだから」
 その時ラーナーは自身に買ったものなのだと分かり、空の雲が一気に消えるように心が晴れる。どこか暗かった表情に笑みが広がる。
「ありがとう」
 そう言いながら瓶を見て、勿体ないのか開け辛そうにしていたがやがて栓を手で捻って開けてそっと飲む。独特の濃厚な味が口の中に広がって喉が潤う。甘さが幸福感を呼び、表情もやはり笑っている。
 単純だな、とクロは聞こえないように少し呆れて呟いた。単純なことで、あっさりと修復されるものがあるのだと実感する。
 そういえば昨日アランもミストラ遺跡に赴いた時にお茶をくれたことをラーナーは思いだした。
 いつもクロは唐突だ。突然黙って外界との関わりを遮断したかと思えば、話を勝手に進めて歩き出す。自分勝手なところがあっていつもラーナーは振り回されている。勿論クロに悪気は無いのだが。でもそれがクロらしい部分なのだと受け入れてしまえば、こうして普通になったことはいつものクロに戻ったということであり、ラーナーは少しは仲直りできただろうかと考えて少し笑うのだ。
 人が多くなった朝市を横目に、二人は帰路を辿り始めた。少しクロが前を歩いてちょっとずれながらも歩く、それが旅でずっと保ち続けてきた並び方だった。


 *


 帰宅後、アランが慌てるように様子を聞いてくるのをさらりと流して、クロは荷物をアランに押しつけるように任せた後にアランの部屋に入る。夜中掃除していただけあって二四時間前では想像すらできないほど部屋は整理され埃は無い。ただすぐに汚くなるであろうこともクロは分かっていた。アランは掃除を得意としていないし汚いことにそこまで嫌気はないときているから、すぐに物が散乱してしまうのだ。
 ベッドの傍にクロはやってくると、置いてある自分の鞄を手にとり中身を探る。すぐに出てきたのは、一カ月程前にアランとの電話に使っていた黒いポケナビだ。少し古いが今でも現役として働き続けている。
 それだけ手に持つとベッドに座り慣れた手つきで操作を進める。
 その途中でぴたと指の動きが止まる。現在の画面を凝視し、唇を噛みしめた。きしりとベッドが軋む。今彼の置いている親指で強く決定を選択すれば次のステップに進む。それを躊躇うようにクロは表情を固くした。珍しく優柔不断な部分が露呈し、迷いを捨て切れずに時間だけが経っていく。
 目を閉じて溜息を吐いた後、決心したように一人頷くと親指でボタンを押した。直後、ポケギアは通信を始めて、すぐに電話のコール音が部屋に響いた。それはしばらく続き、一つ一つの音を聞き流すたびにクロの緊張は高まっていく。五回程鳴った辺りから落ち着きのなさのあまりその場を立ち、固い動きで部屋の窓を片手で開ける。外の風が部屋内に流れ込んできて、ほんの少し気分が楽になる。新鮮な空気は心を多少は沈静化させるが、一方でそれ以上に電話の音が彼を緊張させていく。
 十回目の音が通り過ぎた辺りでクロは一度通信を遮断する。深い溜息をついた後、もう一度電話をかける。二回目は一回目の迷いは一体何だったのかと問いたくなるほどあっさりとしたものだった。が、問題の話し相手はなかなか答えてくれない。
 時間を変えるべきだろうかという考えが頭を過った直後、六回目のコール音がぷちんと切れて静寂が訪れた。クロは息を呑み、画面を見る。目的の相手と通信が繋がっていることを示している。けれどお互い無言のままで、クロは声が出てこない。
『……もしもし』
 小さな声がスピーカーから零れてきた時、クロの心臓は一度大きな鼓動を刻んだ後、不思議と急速に落ち着いていった。聞き慣れた声。けれどしばらく聞くことは無かった声。幼さの残る少し高い男の子の声が、クロの耳に届いて懐かしさに彼を浸らせる。
『クロ?』
 尋ねるような口調にクロの口元はいつの間にか緩んでいた。それは殆ど見せることは無い優しい表情である。

「……ああ。久しぶり、圭」

感想 ( No.35 )
日時: 2011/03/27 13:34
名前: とらと ID:si3Kayhw

こんにちはお邪魔します、「まっしろな闇」一気に読ませていただきました!

もう本当に面白かったです……読み始めから終わりまであっという間すぎて次が待ち遠しくて仕方ありません(*´∀`コメント残してスレ妨害することさえためらわれました
なんでしょう、タイトルの印象が強いからかもしれませんが、本当にまっすぐで「まっしろな」お話だなぁと思います。ラーナーをはじめとした主要登場人物たちの純朴さといいますか(ちょっと言葉が見つからない!orz)、素直できれいな感じがいじらしくてかわいらしくて、こっちまで心が洗われるような気分です。凄く海さんだ、海さんの人柄が表れてるってそんな感じ! 海さんの何を知ってるんだって感じですが本当に、あぁ海さんの作品だわって思いました。

いやしかしクロ素敵ですね。バトン見た時からきっと素敵なんだわと思ってましたが紛うことなく素敵でした
何より無愛想なところが素敵ですっ(*´ω`*)それでいて仲直りのしるしにジュースプレゼントしちゃうとことか萌えます 単純だなとかいってほっとしてるくせに!かわいい^^ごめんなさい
そしてアレンも素敵ですよね。バトンry
ちゃーちゃー言いながらもめっちゃ気遣いのできるところとか薬の調合(?)とかできちゃう頭の良さとか素敵です。切れ者ですね トレアス旅立ってしまうようですが今後の彼の出番はいかに……
更にブレットが好きです ブレット……ブレットぉぉぉ(´;ω;男の話ばっかりだな

ラーナーの両親や『黒の団』、白を含めたクロ自身にまつわるお話など、旅の終わりはまだまだ先のようで少し気の早い言葉ですが、ラーナーとクロの二人には、本当に本当に幸せになって欲しいです……これだけ心からお前ら幸せになれって思えると非常に清々しいですね(*´ω`幸せになれ畜生
拙いにもほどがある感想で申し訳ないですが、このあたりで失礼します。
続き楽しみにしております、更新がんばってくださいませ!

感想返信 ( No.36 )
日時: 2011/03/27 22:13
名前: ID:pMzOchoo

感想返信です。

>とらとさん
こんにちは。こちらでは初めてですね、感想本当にありがとうございます!あわわ、少し長めの感想で本当に驚きやらなんやら、有難い限りです。
面白いと言ってもらえると嬉しいですし安心します><作者もどうしたら良いのか時々分からなくなるクロとラーナーの性格ですが、素直なのは確か、なんですよ、多分。とらとさんの豊かな感受性で感じ取っていただけて嬉しいです。
文に作者の好みや心などが表れると聞きますが、私の人柄が表れているのでしょうか^^;正直そこは自分じゃ分からないのでどうとも言えませんが、私は曲がってますよー。
クロもアランは私も大好きです。クロは無愛想なところがいつも苦戦させられていますが、楽しいですよ。難しいですけど^^;反面アランはもっと単純な子なので書きやすいです。単純に良い子を書きたくてこんなことになりました。
ブレットは自分でもちょっと可哀想だったなあと思っています。好きなんですけどね><
男ばかりが出ているのはラーナーがあまり活躍していないのと男性率が高すぎるせいだと思います。もっと女の子を出して華やかにしていきたいですね。目立った女の子はラーナーしかいないので><
もうしばらく話は続きますので、良かったらおつきあいくださいませ。貴重な感想、ありがとうございました!

32 ( No.37 )
日時: 2011/03/27 22:17
名前: ID:pMzOchoo

Page 32 : 出発

 朝市から戻ってから時間は経ち、今は昼食を済ませたところだ。少ない荷物を整えて、ラーナーとエリアは男性陣より一足先に家の外に出た。店とは別の身内用の扉を閉めてからエリアは溜息をつく。
「まったく突然な話よ。もう出ていくなんて!」
 エリアは腰に手を当てて呆れたように言い放つ。その言葉にラーナーは思わず失笑する。それは彼女自身もクロに言ってやりたいことだった。そうとしか言いようがないのだ。
 でも慣れた事よねとエリアは呟く。
 固い足音が後ろから聞こえてきてラーナーは振り向くと、鮮やかな炎を絶えず身体に燃やし続けるポニータの姿があった。穏やかな表情でラーナーに近付くとその頭をラーナーの頬に擦り寄せる。温もりが伝わってきてラーナーは笑みを漏らし、素直にそれを受け入れて自身もポニータの頭部をそっと撫でる。美しい毛並みで触れるだけで心は自然と落ち着く。
 エリアもポニータの背を撫でる。彼女にも心を許しているから、ポニータの炎はエリアには熱く感じられない。ポニータがいかに懐っこい性格であるかを物語っている。クロに対しては厳しいこともあることをラーナーは知っているけれど、それはクロが真っ直ぐと進む為に誘導しているのだということも理解している。
 扉の開いた音がして、ラーナー達はそちらの方を向く。先にアランが登場して、後にクロ、ガストンと続いて出てきた。大きく固い図体をしたガストンには扉が狭く窮屈なものに見える。
「クロ、本当にもう大丈夫か?」
 ガストンは不安そうにクロを見下ろす。クロはその言葉に深く頷き、これ見よがしにとわざと両腕を大きく振って見せる。と、その腕がアランの背中に勢いよくぶつかる。途端アランの顔色は変わり反射的な仕返しか、クロの頭目がけて右手を横へと尖らせた。が、その攻撃をクロは少ししゃがんであっさりと避ける。
 悔しそうにアランが舌打ちを鳴らす横で、クロは片手を立てて謝罪の意を示す。
「悪気は無いんだから、そう怒らないでくれ」
「ったく、お前のは時々洒落になんねえくらい痛いんだから周りには気をつけろよ」
 アランは口を尖らせながら手に持っていた小さな茶色い紙袋をクロに差し出す。それはオーバン家の薬屋が薬を包装するのに使っているのと同じものである。掌ほどのサイズのそれをクロはごく当たり前のように受け取ると、中身を確認した後にそれをポケットに無造作に突っ込む。
「何度も言うようだが、服用のしすぎは厳禁だ。ブショウの葉はクロの身体に効く反面、副作用は勿論、服用を誤ればその代償がある。身体の一時的な麻痺や熱、中毒症状の報告もあるし」
 くどくどと説明を始めるガストンを制するようにクロは何度も頷いて手を前に出す。
「もう何度も聞きました。大丈夫ですよ」
 面倒くさそうに声を漏らすクロにアランは顔をしかめると、クロの肩に手を置いて不機嫌な表情を近付ける。
「前もそう言ってたよな。今回長期間ぶっ倒れたのは短期間で服用し過ぎたのも原因の一つだってことは分かってんだよ。ちゃんと肝に銘じとけ。そんでもって無くなりそうになったら無くなる前にここに来い。分かったな」
「なんでそんな偉そうなんだよ……分かってるから、もういいだろ」
 肩に置かれた手をクロは振り払い、ラーナーやポニータの元へと足先を向けて歩く。
 クロもラーナーもここにやってきた頃と同じ服装をしている。服に沁みついていた身も震えるようなおびただしい量の血はエリアの努力によって見事に跡形も無く消え去り、使い古したようなくたびれた雰囲気だけを持っている。それが妙に懐かしく感じられ、ラーナーは目を細めた。
 秋を少し感じられるようになった涼しげな風が通り過ぎていく。空は晴れ、いつもより高く感じられる。季節がまたゆっくりと時間をかけて移り替わろうとしていた。まだ厳しい暑さは残っているが、ウォルタを出た頃のような蝉の鳴き声はもう殆ど聞こえてはこない。
 いつの間にか時は随分と過ぎていたのだ。彼等がここにとどまっていた間も。そして彼等はまた再び歩もうとしている。終わりの見えない旅を続きを始めようとしている。
「今度はどこへ行こうとしているんだ?」
 ガストンが尋ねると、クロは背負っていたリュックを回してすぐに中から使い古されたアーレイスの地図を出した。平たく広げるとその場にいる全員がその紙上を覗き込む。
「まずトレアスから鉄道に乗って首都に向かって、そこからまた鉄道を乗り継いで更に西へ向かってトローナへ行きます。ランドラから出ているバスを使って、最終的にはリコリスへ向かうつもりです」
「リコリス? また随分田舎というか、山に行くのねえ」
 驚いたようにエリアは顔を上げてクロの顔をまじまじと見つめる。クロは頷いてから地図を畳みリュックへ戻す。
「乗り物を使うなんて珍しいな。確かにトローナはここから遠いけど、余程急いでいるのか?」
 アランが尋ねるとクロはまあなと適当に返す。
 その時ラーナーは朝市を出る直前のクロの表情を思い出した。固く決心したような視線は目に映る全てを掴んで離さないような強さを持っていた。あの時考えていた事の答えが今度の向かう町にあるのだろうかとラーナーは内心推測を立てる。そして同時に、今度は鉄道に乗ってずっと遠くへ向かうということで彼女の期待へと膨らむ。通過するだけとはいえ首都へも向かう。首都はアーレイスの中で飛びぬけて発展している街で、人口も他の町とは桁違いである。
 クロはポニータの頭を撫でると、トレアス中心街へと向かう道を辿る様に視線を移した。少し狭い下り坂のこの道を抜ければすぐに車通りも人通りもそこそこ多い中心街に出る。そこにある駅からいくつか鉄道が出ていて、乗ってしまえば後は座って目的地へと向かうだけ。自分で歩き続けるよりもずっと楽である。欠点を述べるとすればポニータをボールに戻さなければならないことだ。
 気が沈むような重たい沈黙が流れる。誰もが惜しむように思い口を開いて言葉を発することができないでいた。それはクロも同じで、先程から止まることなくポニータの身体を撫で続けていた。
 その静寂を一気に破ったのは、アランだった。時間が経つにつれてその顔に不快感が広がり、突然クロの背中を力の限り叩きけたたましい音が跳び上がった。クロはそれに驚いて心臓が飛び出そうになる。
「さっさと行けよ、うじうじしてたってしょうがねえだろうが! ぼやぼやしてっと今日の分の鉄道全部出ちまうぞ!」
 突き放すような言葉にクロは打たれたように呆然とした。それはクロに限らずその場にいる全員がそうだった。皆アランの顔を食い入るように見つめる。
 続いてアランはラーナーの方を向く。ラーナーは思わず少し震え、唇を噛みしめる。が、彼女が恐れていたのとはまるで反対に、アランは今までとは打って変わって優しく微笑んだ。
「こいつは何かと無茶すること多いしこの間みたいに突然倒れたりすることもまたあると思うけど、今度はラナちゃんがいるから、いつもより俺は安心して送り出せる」
「……アランくん」
「何というか、こいつめんどくせえし訳の分からんことばっかりするけど、変な方向に行こうとしたらちゃんと止めてやってくれ。ポニータもな」
 ちらっとアランはポニータに視線を移すと、ポニータは即座に頷いた。アランも深く頷いて手を伸ばしてその頭を撫でる。今日のこの十分にも満たない短時間でポニータはどれだけ撫でられたのだろうか。
 ラーナーは噛みしめるようにアランの言葉を呑みこむと、ゆっくりと了解する。
 それを見てきっと大丈夫だとアランは思った。全く心配しなくなったわけではないけれど、少なくとも今迄よりもずっと安心できると。ぎくしゃくとした関係ではあるけれどポニータの穏やかな性格が二人を繋げる。人付き合いを苦手とするクロが理由はあれど他人と旅をしていること自体が奇跡であり、そして何かがクロの中で変わっていることの象徴であるとアランは勘付いている。なんとか支え合っていけるようなそんな気がして、安堵の表情をアランは浮かべた。
「よし、じゃあさっさと行けよ。そんでしばらくは帰ってくんな」
「言われなくても行く」
 クロは少し淋しげに笑うとゆっくりと遂に重い足を踏み出した。続くようにポニータも歩き始める。ラーナーは慌てるようにアラン達にお辞儀をした。
「短い間でしたけど、ありがとうございました!」
 ラーナーは頭を上げてぱっと光るような笑顔を見せた。
「いいんだよ、あたし達も十分楽しかったから。またおいで、いつでも待ってるから」
 エリアは心温かい微笑みを浮かべてラーナーの左肩をぽんと優しく叩く。ラーナーは深く頷いてその場に背を向け、クロやポニータの背中を急いで追った。
「クロ! ここはお前の家だと思ってまた帰ってこいよ!」
 ガストンは遠ざかるまだ小さめの背中に向かって声を張り上げた。その言葉にクロは振り向きそうになるが敢えて止め、右手だけを高く振った。別れのサインを送り、高く上がる手首の下に痛々しい火傷の跡がちらりと顔をのぞかせる。
 爽やかな青い空の元、彼等を挿む距離はどんどん遠くなる。空気がしんと静まった頃、クロ達の姿はアラン達の視界からゆっくりと時間かけた末に姿を消した。



 オーバン家からの距離は少しずつ伸びていき、しばらく二人の間に会話が行われることはなかった。お互い無言のまま緩い下り道を辿っていく。
 そうしているうちにラーナーは自然とトレアスに来た日の事を思い返していた。思い出すうちに更に過去へとさかのぼっていき、脳裏にクロが吐血した映像が映し出される。そして同時に出てきたのは、黒い服装をした金髪の少年の姿。その時ラーナーは眉を潜め記憶を探る。当時の音声を引っ張り出した時、自身に頼まれていた伝言の存在にようやく思い至った。
「あっ」
 しんみりとした空気の中、ラーナーは思わず声をあげる。その声にクロとポニータはついラーナーの方に視線を向けた。
「あー忘れてた」
「何を? 忘れ物なら今帰れば間に合うけど」
 クロが足を一旦止めると慌てるようにラーナーは首を横に振る。
「そうじゃなくて、クロに言うの忘れてたの。……ほら、クロが倒れた日に会った黒の団の服装をした男の子がいたでしょ」
 その瞬間クロの顔つきが一変し、警戒するように目を鋭く光らせる。ラーナーは突然の変化ぶりに怖気づきそうになるがそこを踏ん張る。いつまでも今迄のように彼に対して引いているわけにはいかないと彼女の中でも決心がついていた。
「あの子からクロに伝言を言付かってたのに忘れてた。……ブレット・クラークが今の疾風です、だったかな? どういう意味かあたしにはよく分からないけど、クロは分かる?」
 クロの厳しい視線が弱まり、彼は絶句する。少し開いた口からしばらく声が出てくることは無い。何か言葉を選んでいるようにも、何も考えられずただ呆然としているようにも見える。いずれにせよ、少しの戸惑いを見せていることは確かだ。
「さあな」
 時間を置いてようやく言葉が出てきたが、予想外の答えにラーナーは眉をひそめた。
 クロは遠くの彼方の方を見つめる。過ぎ去る風が髪を揺らし、瞳がそれによって完全に見えなくなるほど覆われる。帽子の上のゴーグルが鈍く光った。その反射具合も夏の頃に比べると気のせいか、弱く静かなものになった。
「少なくとも、俺には関係のないことだよ」
 ぼそりと呟いただけでラーナーはそれをうまく聞き取ることが出来なかった。が、聞き返すのも躊躇ってしまうほどクロの表情に影が差していた。周りの雰囲気さえもぴりぴりと緊張させて、全身でこれ以上の介入を拒否しているようである。
 何がそれほどに彼を嫌がらせるのか、ラーナーには欠片ほども想像することはできなかった。代わりに、そういえばあの男の子は今頃どうしているだろうかと思いを馳せた。黒の団は敵だ、それは分かっている。けれどもあの金髪の少年はクロやラーナーを襲うどころかクロを助けてくれた恩人でもある。逃げる際に追ってきたピジョットと敵対して戦っただろうか、それとも彼も逃げただろうか、いずれにせよ無事でいてほしいと願っているラーナーがいた。
 一方のクロは別の記憶を思い返していた。色褪せることの無い過去は彼に留まったまま、離さない。
 止まっていた足が再び動き始める。ぼーっと考えごとをしていたラーナーはクロが歩き出したことにしばらく気付かず、数秒後慌ててすぐに追いかけた。
 トレアス中心街はもうすぐそこだ。



 *



 そこはトレアスから少し遠く離れた場所にある。少し広めの部屋に窓は一つも見当たらない。その部屋の奥に大きめのテーブルが置かれ、その奥にある黒いソファに深く腰掛けている人物がいた。まだそう年老いていない黒毛の男性で、黒ぶちの眼鏡をかけており、長めの少し汚れた白衣に身を包んでいる。白に染みついている中で特別目を引くのは、赤黒い鮮やかなもの。既に乾いてしまった血である。
 彼の座る前、つまり部屋の手前側に直立しているのは、黒い服装に身を包んだまだ随分と若い青年の姿。黒の団の一員であるバジルだった。他にも、バジルから見てテーブルの左に置いてある木の椅子に、男性と同じく白衣を着た長くてゆるくカールをした茶毛の若い女性が腰掛けていた。
「納得できません」
 バジルから出てきたのは明らかに不満気なトーンの言葉だった。
「この数週間やろうと思えばいつでも襲撃できたのに、どうしてラーナー・クレアライトを襲撃するよう命じなかったんですか。トレアスにいたのは分かっていたのに!」
「まあそう声を荒げるな。色々僕も考えていてね、あのウォルタ襲撃の時からずっと」
 宥めるように白衣の男性は言うが、バジルの勢いが止まる気配は無い。むしろバジルの心を更に苛立ちへと向かわせる。
「ニノ・クレアライトに情でもあるんですか? だから数年間ラーナー・クレアライトとセルド・クレアライトを生かしていたのですか?」
「落ち着きなさいなバジル。あなたは彼に向かってそんなに意見言えるような立場じゃないのは分かってるでしょう?」
 テーブルにそっと肘を置いて女性はバジルに向かって言う。途端悔しそうにバジルは顔を歪ませる。沸々と彼の中で湧き上がるのは疑問に対する苛立ち。ダムが今にも決壊してしまいそうなくらいに、それは彼の中では限界に達していた。
 男性は小さく溜息をつくとテーブルの上にあるティーカップに入った紅茶を薦めるようにバジルに差し出す。紅茶の心を落ち着かせるような香りが漂っているが、バジルの心中は暴れ続けている。それを必死に制することでバジルは精一杯だった。ゆっくりと首を振って拒否し、呆れたように男性はソファに背を倒す。
「まあいいか。それより今は君に言いたい事があってここに呼んだんだよ」
「……言いたい事?」
「ブレット・クラークのことよ」
 女性は会話に口を出し、その椅子から立ち上がりバジルの元に歩み寄る。少しヒールのある靴の床を叩く音が閉塞とした部屋に響く。その音が一つまた一つと跳ねるたび、バジルは心は急速に冷えていくように感じた。その理由はバジル自身には理解できなかった。
 バジルのすぐ傍まで女性はやってくる。身長はバジルより少し高く、身体つきもふくよかで成熟したものだ。バジルとの歳の差は少し開いているだろう。
「あなたの報告通りバハロの近くの林にブレットの死体を確認しに行ったんだけど、残念ながら彼の姿はどこにもなかったのよ」
「――なっ!?」
 思わずバジルは大きな声を上げ、考えてもいなかった現実に動揺を隠せず視線があちらこちらを彷徨う。嘘だと思いたかったがこの場でわざわざ嘘を吐かれることなど無いと分かっていたから、すぐにその希望は消え失せる。
 女性は困った様に頬に手を当てて小さく溜息をつく。
「あなたの力を使ったような跡はあったんだけど、その木の根は切られていて、しかも傍にはこんなものがあったのよ」
 そう言うと女性は白衣の右ポケットから透明の掌サイズほどの袋を出す。チャックで占められているが、中に入っているものは容易に見て取れた。銀色の細いチェーンのネックレスだ。それが誰のものであると女性が言いたいのかバジルには一瞬で理解できたが、未だに信じることはできなかった。
 あの時確かにすぐに止めはささなかったが、すぐに死ぬだろうとバジルは信じて疑わなかった。強力な毒をブレットには打ったのだから。バジルが場を去ったあの時点で動くことすら困難だったはずなのに、事実は彼が思ってもいなかった方向へと進んでいる。
 女性は袋の封を開けるとネックレスを取り出す。そうすると、ネックレスが切れていることが分かった。誰かの手でチェーンが切断されているのだ。
「分かるわね。ブレット・クラークが生きている可能性がある。誰かに生かされたかもしれない。残念ながら断言できないのがもどかしいところだけどねえ」
 ネックレスを元の右ポケットに入れてから女性は舐めるようにバジルを見る。バジルにあった先程までの激昂は無くなり、代わりに姿を現したのは回るような戸惑いと恐怖だった。突然暗闇が果てしなく続いている穴に突き落とされたような恐怖感が彼を支配する。それは、この後自分にどのような仕打ちが待ち受けているかを理解しているからである。
 今は、バジルは獲物をとらえんとする獣を眼前にして逃げる事ができない羊のようなものだった。
「めんどくさいことになっちゃったわねえ。これを切ったということは、黒の団を寝返ったということに等しいわ。そもそも切れた事の方も驚きだけど。それより今は、こうなったからにはあなたには少し反省してもらおうかと思ってるのよね」
 バジルの少し縮こまった左肩に女性はそっと右手を置く。その途端バジルの心臓は大きく跳ねた。その手がラインをなぞるようにやがて首へと移動し、ひやりとした感覚が彼を襲う。背筋がすっと冷えるのが分かった。けれどその手を振り払うことは彼にはできない。
 女性の口元がそっと上がる。
「あなたこそ、彼に情があったんじゃない?」
 ゆっくりと囁いた直後、女性はバジルの肩に置いていた手を離すとバジルの後頭部の下を地面に平行に立てた手で強めに叩く。瞬間、バジルの目は一瞬だけ見開かれ、しかしすぐに力を失ったように前のめりに倒れる。それを女性は自分の身体で受け入れた。バジルの瞼は閉じられ、気を失っていた。
 直後、数回の拍手が部屋に響いた。
「なかなか勇気のいることやるねえ。それやると死ぬこともあるのに」
 男性は感心したように笑う。つられるように女性もにっこりと笑みを浮かべた。
「なめないでください。だってこれは手っ取り早いじゃないですか。この子はとりあえず牢に入れておきますわ。起きてからどうするかは後でじっくり考えます」
「程々にしておきなよ。彼は重要な人材なんだ、一応」
「身体は強いんですから、多少きつくても耐えますよ」
「ふふ、おっかないね」
「あなたが言えることではないでしょう」
 互いに軽く笑いあっているが表面上のものだ。不気味な雰囲気が部屋に漂う。
 小さな笑い声が収まってきた頃、そういえばと女性は思い出したような言葉を口にする。男性はバジルに差し出していた紅茶を自分で軽く飲んでから女性の方を再び見る。
「ラーナー・クレアライトの傍に笹波白がいたという報告はご存じですか?」
「ああ、勿論。驚きだよね、これも運命というやつか」
 言葉とは裏腹に男性は随分と落ち着いていてまるで驚きを見せていない。
「この子の言い分も分からなくもありませんわ。早急に手を打っても良いのでは? 笹波白がいるとなれば、尚更」
 女性の進言を受けて男性はふむと身を乗り出して頬杖をつく。彼の眼鏡が蛍光灯の白い光を反射してきらりと光る。そうだねえという言葉を何度か独り言として繰り返し呟く。悩んでいるのだろうか、しかしそれほど深く考えているようには見えない。考えているふりをしているように女性には見えた。
 数分後に男性はまたソファに寄り掛かった。
「時が来たらまた動くよ。僕だってこのままにしておくつもりは無いさ。その時には、君にも動いてもらうことになるかもしれないが、いいね」
 男性は試すように女性の顔を見上げた。それに臆することなく女性は肯定の返事を述べる。
「何を今更、むしろ楽しみにしています」
 いかにも楽しげに女性は冷たく薄笑いを浮かべた。

33 ( No.38 )
日時: 2011/04/01 18:20
名前: ID:bBqJsiuI

Page 33 : トローナ

 クロが宣言した通り、トレアスを鉄道で出た後に首都へ、すぐに乗り換えてトローナへ向かった。ひたすら身体を揺らされる中で車窓から見える景色は一日でめまぐるしく変わる。トレアスの趣のある歴史的な町並みから、首都らしい高層ビルの立ち並ぶ大都会の風景へ、そしてトローナへ向かう旅路にて瞬く間にビルは減っていき、山沿いで緑がよく見え、建物は点在しているほど。畑が続いている様子はバハロを彷彿させ、のどかな田舎町の風景が広がっていく。首都にいる期間が短かったことに少しラーナーは残念そうに俯いたが、仕方が無いとクロは宥める他なかった。
 太陽が西に傾こうとしている頃にトローナに到着して、今は駅の近くのバス停で目的のバスを待っている所だ。トローナの駅は非常に小さな駅で、クロとラーナーが着いた頃には年老いた男性が一人、駅員として改札口に座っているだけである。眠っていたところをクロが起こし、老人に直接小さな切符を渡すことで改札口を抜けた。駅から出てすぐそこにバス停はあったが、そのバス停も随分と古びていて、申し訳程度に貼ってある時刻表は汚れていて今にも風に煽られ剥がれてしまいそうだ。
 鳥の声が彼方から聞こえてくる。それ以外に聞こえてくるのは、少し歩いた先にある道路を走る車の音だけ。それも断続的なものである。無音の世界に陥ることもしばしばだ。
 クロはつまらなさそうに周りを歩き回り、駅の壁に沿って立てられている掲示板を見る。そこにはいくらか張り紙が並んでおり、有名人が来るお知らせから飼い猫を探しているというものまで種類は様々だ。が、殆どが半年以上前のものである。その中で、この駅が一カ月後に廃止されるという比較的新しいものがあり、クロは淋しげに神妙な面持ちで目を細めた。
 都会から離れた場所で、発展についていけず寂れていった町といったところか。恐らくクロやラーナーは久しぶりの町に訪れた客であるだろう。
「バス、いつ来るんだろうね」
 ラーナーは古びた木のベンチの埃を手で払ってからそこに腰かけ、溜息をつくように言う。
 さあ、とクロは呟いた。時刻表通りに来るならばバスはもう十分ほど前に来る筈なのだがまるで訪れる気配はない。今日の最後のバスらしく、これを逃せば明日になるところを運良く捕まえられたことに喜んだが、あまり待たされると今度は苛立ちが募る。待ち始めてから二十分が経過しようとしていた。
 背を倒すとぎしりとベンチは音を立てる。ラーナーは座り心地の悪さに仕方なく再び立ちあがる。
「クロの探してる人が、リコリスにいるかもしれないの?」
 クロの眺めている掲示板の元にラーナーもやってくると、ふと尋ねる。クロはラーナーの方をちらりと見てその目を少し丸くすると首を軽く横に降る。
「いや、それとは全然関係ない。俺がずっと探してる人がここにいる期待は殆どしてない」
「あ、そうなんだ」
 それからまた声は消えて、暇をゆっくりとすり潰すような時間が続く。時が経過するのは随分と遅く、駅の壁に掛けられた時計を見てもなかなか分針は進まない。
 ゆっくり、本当にゆっくりと過ぎていく時間の中で、傾いていく太陽の光で町の景色はオレンジ色に染まろうとしていた。空に視野を広げると、不思議な色をしていた。青と赤が混ざり合い、紫にも近い色合いをした雲が薄く伸びている。
 クロは時刻表をもう一度見直す。けれど何度見ても当然ながら書いてあることは同じ。
 その時彼の背後でぽんと弾けるような音が二つ聞こえてきて、クロは咄嗟に振り向いた。音の正体はラーナーがエーフィとブラッキーをボールから出したものだというのはすぐに理解できた。二匹は軽く身体を伸ばし、辺りを興味津津という風に見回す。その二匹の背をラーナーはしゃがみ込んで撫でる。
「ずっとボールに入れてても可哀想かなって。外の空気に当ててあげたくなったの」
 ラーナーはクロを見上げて笑う。もうラーナーに随分と懐いている様子が見て取れる。
 ここは物寂しい場所ではあるが都会の喧騒とはかけ離れていて、その静かさがエーフィやブラッキーには心地よいのかもしれない。気持ち良さそうに伸び伸びとして、ラーナーの手をすり抜けるとそれぞれ辺りを散策し始めた。その様子をラーナーは微笑ましく見つめていた。頭の良い二匹であるから、それほど遠くには行かないであろうことを前提にできて慌てることも必要もない。
 一方のクロは手持ちのポケモンを出すことはなく、ブラッキーの歩いている様子を何となくに見ている。
「リコリスには」クロは相変わらずしゃがんでいるラーナーに向かって話し始める。「別の人に会いに行くんだ」
「別の人?」
 ラーナーは咄嗟に彼を見上げて聞き返した。
「ああ」
 一呼吸置いた後、もう一度口を開く。
「紅崎圭っていう奴」
「こうざきけい……」
 ラーナーはゆっくりと繰り返す。クロと同じくアーレイスではあまり聞かない名前の種類だ。アーレイスの人間というよりは西の隣国の李国の人間を連想させる。ラーナーはクロにどこの出身であるかを言及したことは無い為はっきりと断言することはできないでいるが、李国に何らかの関連があるであろうことは彼女自身何となく想像していた。
 クロはふいに帽子を取る。長めの髪が完全に露わになって垂れる。伸びた前髪を煩わしがるようにクロは少し分けた。随分と伸びたものだと思い前回切ったのはいつだったか記憶を辿ると、丁度ウォルタを出た日だったと気がつく。ラーナーも同日に伸ばしていた髪をばっさりと切った。ボブになって一カ月程経っているが、量が増え暑い日々が続く中では鬱陶しいと感じることも増していた。
 帽子の中にあって蒸していた状態だった髪を風に当て、少し涼しさを感じることでクロは心を落ち着かせる。
「友達というより、俺の仲間っていうのかな。俺が一番信頼してる奴なんだ」
 静かに平然と言ってのけるクロとは反対に、ラーナーは驚き呆気にとられたようにクロを凝視した。その視線にクロはすぐに気が付き、不審げに眉をひそめる。
「何?」
「いや……クロが自分から他人のこと話すだけでも珍しいのに、一番信頼してる人だまで言うなんて凄いなって」
 今度はクロがぽかんと停止し、数秒後に僅かに苦笑いをする。
「そうだな……そうかもしれない。けど、言葉の通り」
「そりゃあ、よっぽどだね。会うのが楽しみなような、不安なような」
 少し意地悪げに言うラーナーにクロは少し顔をしかめた。不安ってどういう意味だよ、と不満そうに小さく呟いたが、口元で消えた言葉はラーナーの耳にうまく届かない。けれど何を言っていたのかおおよそ検討はついているから、ラーナーは楽しそうに笑うだけで何も問い返そうとはしなかった。
 クロは眠たげに一つ大きな欠伸をした。鉄道から見える風景を終始飽きることなく楽しんでいたラーナーと違い、クロは数時間にわたる旅の大部分を顔を俯かせ睡眠に割いていた。それにも関わらずまだ眠気があるというのだからラーナーは呆れすら感じる。恐らく今夜も何の苦もなく眠りにつくだろう。ここ最近はクロは一日の多くを睡眠に使う日が続いている。まだ出逢って間もないため断言はできないが、それは本調子ではない印ではないかとラーナーは内心疑っていたりもした。
 古びた時計の長針がまた一歩踏み出して間もなく、駅の中から年老いた駅員がゆっくりと外に出てきた。いち早くそれに気付いたクロは反射的に振り返った。老人は老眼鏡を少し上げて目を凝らして二人を見つめ、あぁと間の抜けたようなしわがれた声を発する。
「あんた方もしかしてバス待っとんのか?」
「え、あ、はい」
 内向的なクロに代わってラーナーが慌てるように返事をすると老人は細い目を更に細めて、杖を突きつつ外に歩き出す。その足取りはおぼつかず、今にも転んで倒れてしまいそうである。思わずラーナーは立ちあがって駆け寄るが、老人は軽く手を突きだして遠慮する仕草を出した。
 老人はバス停に貼ってある時刻表に顔を近付ける。その距離差は十センチにも満たないほどで、しばらくゆっくりと目を通した後に落胆したように声を落とす。
「やっぱりなあ」
「何がですか?」
 クロは少し大きめの声ですぐに尋ねる。彼の脳裏に一抹の不安が走った。
「次のバスは廃止になったやつだあ。この時刻表はもう古いけんねえ。まあ、明日の朝になりゃあまた来るけんそん時また来るだな」
 突如明らかになった事実に愕然とするクロとラーナーを余所に老人は再び時間をかけて駅に戻っていく。
 少し開いた口が閉まらず老人の姿を凝視していたクロは今日で一番大きな溜息をついた。今回ばかりはラーナーも同じ気持ちになり、肩を落とす。
「無いなら無いって書いとけよ」
 呆然とした状態で怒りを静かに込めて呟いた言葉にラーナーは何度も深く頷いた。それなりに長い時間待っていたのにも関わらずそれらが無駄になってしまったのだから仕方がない。しかしその理不尽さに気を落としたまま、しばらく立ち直れないように二人はその場に立ちすくんでいた。
 その様子を不思議に思ったのか、少し近くを歩いていたエーフィとブラッキーが元の場所に戻ってきて大きな瞳を彼等に向ける。ラーナーが二匹に向かってできたのは力無く笑うことだけだった。
 結局その日はトローナで過ごすことになり、リコリスに辿りつくのはもう少しだけ先の話になってしまったのだった。




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※リコリス編は方言が頻繁に出てくる予定ですが、もし言葉の意味がよくわからなくてもそこはフィーリングで何となくわかってあげてください作者の趣味です。

休止のお知らせ ( No.39 )
日時: 2011/04/05 10:19
名前: ID:qA8BghYs

受験のため更新休止とさせていただきます。
どうせならトレアス編が終わったところできれば良かったかなあとか思いながら、まあまだきりが良い方でしょうというところで。
ポケノベは四月中に移転するそうですが、その際も新スレは建てず、合格が決まったらぼちぼち再開しようと思っています。
ただ春企画には参加する予定なので、まだもう少しお世話になります。チャットにも時々出没すると思います。(既にちょっと我慢気味ですが)

では、また一年後に再開できることを願って。