04
雪の上にひいたシートの上に老人をおろして、ヤトは右腰に提げられたモンスターボールを手に取った。ラプラスが興奮してボールを揺らすのがてのひらごしに伝わってくる。一度ぎゅっと握り締めて、ヤトは目の前の二人を見据えた。
「手加減なしだ。急いでるからね」
ヤトの手から離れたモンスターボールから光が溢れて、純白の上にラプラスがおりた。それとほとんど同時に、少年たちのキャタピーとコラッタが現れる。自分の何倍もあるラプラスに、コラッタが飛び掛かった。陸地ではあまり速くはないラプラスが『でんこうせっか』を避けきれずによろけたところを、キャタピーの糸がまとわりつく。キャタピーが吐く糸は見た目の細さよりもずっと頑丈だった。
「ラプラス!」
ラプラスがちらりとヤトを見て、いたずらっぽい笑みを浮かべる。ラプラスはひかえめな性格ではあるけれど実はいたずらをしたり、人をからかうのが好きな面も持っていた。
人間の声でも楽器でもない不思議な音でラプラスが歌うと、キャタピーの目が眠そうにとろけた。糸による拘束のおかげで好き勝手に攻撃できていたコラッタが、その糸がゆるむのを見てたじろぐ。
「ラプラス、『こおりのつぶて』!」
ここしばらくの雪よりずいぶん大きい氷の粒が、二匹にむかって真っ直ぐに飛んでいった。避けようとしたコラッタの足に力がはいる。けれど冷たい風はコラッタを襲った。
短い悲鳴をあげて、コラッタは雪の上に転がった。もう戦う意思がないのは誰の目から見ても明らかだ。キャタピーに至っては、眠りが深すぎて自分が戦闘不能なことさえわかっていなかった。
「凍えるといけないから、すぐポケモンセンターに連れていったほうがいいよ」
また老人を背負いながらヤトは言った。久しぶりのバトルに興奮したラプラスが、モンスターボールをかたかたと揺らす。
「いや、強いのう。うちの孫もポケモンの学校に通ってるんじゃが、そこの先生がとても強いらいんじゃ」
君とどっちが強いかの、なんて優しく笑いながら話す老人からは、孫への愛が溢れていた。
キキョウシティまではあと半分だ。
***
吹雪の中を歩いてきたにもかかわらず、ヤトは汗だくになってポケモンセンターのドアをくぐった。体は熱いのに、冷えた汗に体温は急激に奪われる。
なるべく衝撃を与えないようにゆっくりと老人をおろしてすぐ、ヤトの膝から力が抜けた。力の入らない足と手を必死に動かして、なんとかソファーまでたどりつく。しきりに謝る老人に大丈夫だと微笑んで、ヤトはゆっくりと息を整えた。
キキョウシティにつく直前にはほんの少しではあるが吹雪が弱まっていた。鋭い刃物のような冷風もいくぶんかやわらぎ、漏れだした太陽の光が分厚い雲の輪郭を明るくする。けれどポケモンセンターのモニターは、雪は夜から明日早朝にかけて激しさを増すと告げていた。現在時刻は午後五時少し前。老人を送り届けたら、今日はこのまま宿をとろう。そう考えていたときだった。
「じいちゃん!」
ざわつくポケモンセンター内にいてもはっきりと聞こえたその声は、ヤトを自分の世界から引き戻しす。声がしたほうを見ると、短髪の少年が駆け足で近づいてきていた。そのままの勢いで老人に飛び付くと、満面の笑みを浮かべてまたじいちゃん、と繰り返す。
「じいちゃん、久しぶりー!」
「前に会って一ヶ月くらいしかたっとらんぞ!」
微笑ましい二人の再開に、ヤトもつられて微笑む。
老人からの紹介によると、少年はジンというらしい。真っ黒で艶のある短髪と、燃え盛る紅蓮の瞳が印象的な少年だ。
ジンは老人にいろんな話をしていた。ポケモン塾で教わったことや、トレーナーになったときのこと。ひとしきり話したあとでジンはちょっと待っててと言ってどこかへ走って行った。言葉通りすぐに戻ってきたジンは誰かの手をしっかりと掴んでいて、その誰かをまるで引きずるように連れてくる。
「じいちゃん、この人、おれの先生! ヒミちゃんって呼んであげて!」
ヒミ――その名前の人物こそ、ヤトが探していた人に他ならなかった。しかし想像していた「ヒミ」とはずいぶん違う。姉と同じアイスブルーの瞳、わたあめのようなふわふわした髪はレイよりもくせがある柔らかそうなプラチナだ。華奢な体つきで、あまり近づかなくてもわかるまつげの長さ。――レイはたしかに、「弟」と言ったはず、だ。
「こらジン! ちゃん付けして呼ぶなって何回も言ってるだろ!」
「そうじゃよジン、年上の女性にはさんを付けなさい」
老人がまた微笑みながら言うと、ジンとヒミは黙った。ジンはその顔にいたずらが成功したみたいなにやついた笑みを浮かべている。
「じいちゃん、ヒミちゃんは男だよ!」
今度はヤトと老人が黙る番だった。見た目だけで言えば間違いなく少女と呼べる顔立ちだが、目の前でため息をつく人物は少年らしい。はっきり女性と言ってしまった老人はとたんに慌てふためいてヒミにすまないと謝り、ヒミはいつものことだからと笑った。
「――あの。レイから、これを預かってるんだけど」
ようやく体の疲れが抜けてきたヤトが、ショルダーバッグから紙袋を取り出した。突然飛び出した姉の名、ヒミは差し出されたものとヤトを怪訝そうな顔で交互に見た。
「俺はヤト。ちょっとわけありで、レイにこれを渡すように――」
「――ヤト……?」
――あれ、なんだ、これ。
彼の口から自分の名が呟かれた瞬間、頭の中で何かがはまりかけた。氷にかこまれた世界と、子どもの声。いまある一番古い記憶と似ている。頭が痛んだ。もう少しで思い出せそうなのに。
「兄ちゃん?」
ジンの呼び掛けで、ヤトはまたはっとした。ヒミと目が会うと、気まずそうにそらされる。
「もしかして兄ちゃん、ヒミちゃんに惚れちゃったのー?」
にんまりと笑うジンの頭をヒミが軽く小突いた。
ヒミはもう一度ヤトを見ると、僅かに微笑む。その笑い方には見覚えがあった。レイも同じように笑う。哀しみを抑えた、はかなげな笑み。
しかしすぐにそれは消えて、ヒミは真剣な眼差しでジンを見据えた。
「ふざけてる場合じゃないだろ」
ジンの顔から笑顔が消える。今にも泣き出しそうな顔を隠すようにうつむいた。
「じいちゃん、おれのポケモンが……きえちゃった」
ぽたりと一滴、カーペットに吸い込まれて消えた。