03
『……年に、度の…雪は、未だ止む気配が……せん』
電波が悪い。大雪のせいなのか、ここが田舎なせいなのか。おそらく後者ではないだろうが、どっちにしろポケナビに影響が出ることはかなり困る。ニュースが聞けないし、なにより通話が困難だ。
キキョウシティについて荷物を渡したらとりあえず電話すべきだろうし、そもそも「ヒミ」という少年がどんな容姿をしているのかがわからないから渡しようがない。それを聞くためにもポケナビの電波は好調でいてほしいのだけれど。
「ポケモンセンターの電波状況がいいことを祈るだけ、だな……」
呟きは強い北風のせいで驚くほどかすかなものとなった。
それにしても、足場が悪い。このあたりの町はあまり積雪量が多くはないらしいが、雪の少ないホウエン地方で育ったヤトにとって、三十センチを越える積雪はかなりのものだ。
とは言っても、ジョウトも普段はあまり雪が降らないらしいと聞いた。だからこれは、この地方に住む人々にとっても異常なのだろうか。
通常なら一時間もあればフタバタウンと往復できるらしいヨシノシティについたのは、レイと別れた二時間後だった。
ヨシノシティはもうすでに除雪作業がすまされていて、ポケモンセンターやショップまでの道ができている。
滑らないように注意しながら一先ずポケモンセンターまで向かおうとしたところで、ヤトは視界が悪い中、視線の先で丸まる影を見つけた。初めこそあまり気にしていなかったけれど、近づくにつれてそれがうずくまった人であることがわかる。
「大丈夫ですか!?」
駆け寄ってみるとその人物は老人で、腰を押さえながら苦く笑った。
背中に積もった雪を払って、バッグから取り出した大きめのタオルをかける。立てますかと尋ねるとなんとか立ち上がろうとする老人を背中におぶり、ヤトはポケモンセンターまでの道を急いだ。
ポケモンセンターで温かい飲み物を貰ったヤトは、ソファーに待たせていた老人にマグカップを差し出した。頭を下げながらそれを受け取る老人はまだ痛そうに腰に手をあてていて、ヤトは隣に座ってゆるくさする。
「いや、申し訳ない……若いときに負った古傷が冷えると未だに痛みだすもので」
「大丈夫ですか? よかったです、通り掛かれて。家はヨシノシティですか? よければお送りしますよ」
言ってから一口、カップに満たされたココアを飲む。市販のものとは違う味がした。自分もよく隠し味にとシナモンを入れるけれど、それとは少し違う味わいだ。
時計を見ると今はまだ昼前だし、人ひとり家まで送るくらいの時間は十分ある。
そうしている間にちらりと横目でその老人を見てみると、その人はやはり申し訳なさそうにしていた。
「家はこの近くなんじゃが……孫に会いにキキョウシティに行こうとしておったんです。でも今日は諦めるよ」
そう言って笑った目は深い悲しみをたたえていて、今日じゃなければいけない、早くしなければいけない理由があるような、そんな気がした。きっと、何か大切な用事があるに違いない。ヤトは直感的にそう思った。
「ちょうど俺もキキョウシティに行く途中なんです。おじいさんが寒さにたえれるようでしたら、俺がおぶって行きますよ」
「ありがたいが、しかし……」
「それに俺、実はジョウトの人じゃなくて。キキョウシティまでの道がわからないんです。だからもしよかったら、道案内でもしてほしいんですけど」
老人はしばらくうつむいたままで、それでも震えた声でありがとうと呟いた。
ポケモンセンターで少し休息をとった後、再び外に出た。
やはり遠慮する老人を背に負ぶって、積もりたててでまっさらな雪を踏みしめる。ブーツの下で雪がかたまってぎしぎしと軋んだ音をたてるのが、だんだん楽しく感じられた。
びゅうびゅうと唸る風が雪をまとって、遠慮なしにヤトの体を打ち付けた。前方からこちらに向かって吹き荒ぶ吹雪のせいで視界が悪い。ヤトは愛用のゴーグルを目元まで下ろした。少しはましになるだろうと考えての行動だったけれど、あまり変わらないような。それでもやはりないよりはマシだった。
背中越しに老人に話し掛ける。たわいもない世間話。お孫さんはおいくつなんですかとか、もうトレーナーなんですか、とか。どれもこれも本当に嬉しそうに言葉を返してくれて、送ると言ってよかったな、とヤトは思った。
聞くと、その孫は今日からようやく「ポケモントレーナー」を名乗ることがききるようになったらしい。そんなめでたい日だから、無理をしてでもキキョウシティまで行きたかったのだ、と。老人は再びヤトにありがとうと言った。
ざくざくと雪を踏み締める。誰かがつけた足跡も吹雪に消されてしまって、自分が初めてこの地に足を踏み入れたみたいだった。踏まれて圧縮された雪が靴の底にくっついて重い。
それにしても、と開いた口の中に雪が吹き込んだ。
「本当に、すごい雪ですね。ジョウトでもあまり降らないんじゃないですか?」
老人が深く息を吐く。
ラジオの電波が一瞬だけ戻った。
「――神の嘆きじゃ」
呟く声は震えていた。
空がくらい。
神の嘆き。ヤトは口に出さず繰り返した。どういうことだろう。
老人はまるで小さな子供に語り聞かせるように、ゆっくりと口を開いた。ヤトからは見えないその目は、なにをたたえているのだろう。
「この地方には、大きな鳥の姿をした神が二柱、高き空と底なしの海に別れておられた」
肩越しに振り返って見たその目は遠くを見つめていた。感情を汲み取ることはできなかったけれど、口調とは違ってあまりやさしいもはなかったように思う。
ジョウト地方に住む神々は、常に現実として語り継がれてきた。火事に巻き込まれた小さな命を救った話なんかは、今でも本当のこととして幼い子供たちに語られる。
けれどそのほかにも神がいることを、人々は神話の世界としていた。
この世界とは違う、氷でできた世界に住む。
それは大空をはばたく華やかな鳥の姿ではなくて、地を駆る強く美しいけものの姿をしていた。
人々がポケモンを慈しむ気持ちを薄めたころ。もしくは神の存在を忘れたころ。
人々の前に現れて、すべてを雪と氷で隠してしまうという。
神の怒りを鎮めるための人柱となった人たちがいることですら、今ではもうお伽話だとされている。
真実を教えられている老人たちは皆、何百年に一度の大雪が降れば「神の嘆きだ」と泣いた。
ああ、また人々の知らぬ間に、人柱が冷たい水底にのまれてしまう。
話し終えた老人は、少し涙ぐんでいるようだった。
ヤトはこの地方の出身ではないから、神々の話を聞くのはこれが初めてだ。裏では未だに生贄の制度が行われていて、本当にあるのかわからない神の嘆きのためにその尊い命を奪われているなんて。そんな、なんて馬鹿げたことを。
そうは思うのに、その話を否定できない。老人が重く語るその物語には、信じざるを得ないリアリティがあった。
雪は相変わらず容赦なく降り積もる。つい先ほどは少しましになったかと思ったけれど、そんなこともなかったようだ。
何を言えばいいのかわからなくて、言葉が出てこなくて、重たい沈黙が続いた。
それからしばらく歩いて、ヨシノとキキョウの中間ほどまできたときだ。前方にかすかな影。それも二つ。人がいるのだろうか。振動が大きくならないように気をつけながら早足で近づく。姿が確認できたのは、もうずいぶん近くにきてからだった。
口論をしているようで、二人の声だけが風にのって聞こえてくる。
除雪されてできた細い道のど真ん中を陣取る二人にそっと近づく。譲り合えばいいものの、先にその道を通るのは自分だとかそうじゃないとか。
「困ったのう……この道を通らなければ、あとは林を進むしかないのじゃが……」
「それじゃあ、まあ……あの中に混ざるのは気が進みませんけど、行くしかないですね」
ヤトたちに気付かずじゃんけんを繰り返したりしているその二人に近づく。かなり遠慮がちに話し掛けると、つい先ほどまでの険悪な雰囲気とは裏腹に、息のあった動きで二人はヤトを見た。
「通らないなら、先に通してほしいんだけど」
「いや、おれが先だ!」
「僕のほうが先にきたんだから僕だよ!」
ああまた振出に戻った、なんて思っていたら、背中からそれでは、と声がする。
「ポケモンバトルで順番を決めたらどうかね?」
ラプラスを入れたボールが、嬉しそうに揺れた。