02
目が覚めたとき、初めに見えたのは見覚えのない白い天井だった。清潔感はあるものの薬品の匂いはしなくて、そこが病院ではないことを悟る。
すっかりあたたまった羽毛の布団からはい出て上体を起こし、あたりを見渡した。見慣れない風景、だけどなぜか懐かしい。
ベッドわきのサイドテーブルに置かれていたモンスターボールが、ことことと小さな音をたてて震えていた。ボールの中では、ラプラスが嬉しそうに鳴いている。だけど室内で体の大きいラプラスを出すわけにはいかない。仕方なく、ボール越しにそっと指で撫でた。
こんこん、とドアが鳴る。何も言わないでいると、遠慮がちにゆっくりとそれが開いた。隙間からふわりといいにおいがする。
「よかった。目、覚めたんだ」
入ってきたのは、背の低い少女だった。大きな丸い瞳が愛らしく細められて、身長のせいもあり、ずいぶんと幼そうな印象を受ける。顎の少し上までの長さの淡い茶色の髪がふわふわとはねて、暖房の風でゆれていた。
白い湯気をのぼらせた皿をトレーに乗せて、少女がゆっくりと近づいてくる。距離が縮まるにつれて、食欲をそそるにおいがした。すっかり忘れていた空腹が頭をもたげてきて、胃がうなり声をあげた。
「お腹へってるよね。あたしが作ったわけじゃないけど、味は大丈夫だと思うよ」
サイドテーブルの上にトレーを置く。少女はベッドのそばに椅子を引っ張ってきて、それに座った。
「シチュー好きかな? 熱いから気を付けてね」
「……いただきます」
久しぶりに出した声はひどく嗄れていて、それに驚きつつも、食欲に逆らうことはできなかった。
サイドテーブルから膝の上へと動かされたトレー上、真っ白い皿の中を見つめる。濃厚そうなクリーム色の中に、鮮やかな星形にんじんのオレンジ、やわらかそうなじゃがいもの黄色、ブロッコリーの緑。そんなたくさんの色が沈んでいる。ながめるだけでも楽しいそれは、もちろん味も極上だった。
「……うまい」
思わず、といったように呟くと、少女は嬉しそうに笑った。
「それね、うちの弟が作ったんだ。女のあたしより上手く作れるなんてさ、なんか間違ってるよね」
それでも少し誇らしげに微笑むのを見て、見た目ほど幼くはないのだと思った。幼い子供にできる顔じゃない。十四、五才くらいだと思っていたけれど、むしろ自分よりも年上かもしれない。
そこまで考えて、そういえばまだ名前を聞いていないことに気付いた。名前はなんていうの。そう聞こうとしたのに、いたんだ喉は言うことをきいてくれなかった。
「あ、自己紹介がまだだね」
目で訴えたのかどうかはわからないけれど、少女はそう言うとやはり笑った。ただ、その笑顔が僅かに陰っていたのは気のせい、だろうか。
「あたしね、レイっていうの。弟はヒミ。……たぶんヤトくんここがどこなのかわかってないだろうから言っておくけど、ここはフタバタウンだよ」
「あれ、俺の名前……」
「……ごめんね、トレーナーカード見ちゃった。あ、荷物は全部そこのソファーの上だからね」
ヤトはベッドから少し離れた場所にある、ダークブラウンのソファーに目をやった。その上には、白いショルダーバッグとポケナビ、愛用のゴーグルがまとめて置かれていた。見た限りでは何もなくなっていなくて、ヤトはほっと安堵した。レイを疑ったわけではないが、いかんせんこの家にたどり着くまでの記憶、というかここしばらくのがない。覚えているのは自分と、ラプラスのことだけだった。
――そういえば、どうしてここにいるんだろう。フタバタウンというとジョウト地方だ。ヤトはホウエン方出身だし、トレーナーとしての活動だってそっちでしている。いったい何があった?
思い出そうとすると、頭に鈍い痛みが走る。けれどそれに耐えて、記憶の溝を探る。
氷の世界。
けものの唸り。
ねがいごと。
うつくしい、ぎんいろの――
「こお、り……」
ぽつりと漏れた言葉に、傍らに置いたままだったボールの中でまたラプラスが動いた。その顔はさきほどまでの嬉しそうなものではない。真剣な眼差しは、鮮やかな畏怖に支配されていた。
……何かを伝えようとしている?
だとしたら、いったい何を。何を伝えたいんだ。
「なあ、このあたりに氷でできた洞窟とかあるかな?」
「うーん……洞窟はないけど、チョウジタウンの東に氷の抜け道があるよ」
チョウジタウン。そういわれても土地勘がないせいでよくわからなかったが、それでもそういう場所があることだけでもわかったのなら、何か記憶を蘇らせる手掛かりを見つけられるかもしれない。
ヤトのきんいろの瞳が、ぎらりとした。行きたくてしかたがない、行かなきゃいけない。
けれどその目をみたレイが、申し訳なさそうに苦く笑った。
「抜け道を通った人が野性ポケモンに凍らされてしまう事件が最近多いの。だからあそこには今、チョウジタウンまでの七つのバッジを持った人じゃないと入れない。フスベに行くのだって、強いトレーナーと一緒じゃなきゃ行けないよ」
確かに危険だとは思うけど、と笑う。
バッジ一つ二つならまだしも、七つとなると時間的にも厳しい。早く記憶を取り戻したい。早く思い出さなければいけない何かがある。早く、早く。
喉に痛みはあるものの、動けないほどではない。足も手もしっかり操れるし、目だって見える。頭も、思い出そうとさえしなければなんともない。
ヤトはレイをしっかりと見据えた。シトリンのような瞳は輝きを増し、強い意志で揺らがない。
「……行くんだね」
レイは立ち上がると、塞いでいた道をあけるように、ヤトの視線の先からずれた。
「うん、いいと思うよ! 男はちょっと無理してでもでっかいことしなきゃね。あ、そうだ! ちょっと待っててね」
慌ただしく部屋を出ていくレイの背中を見送ってから、ヤトはベッドをおりた。部屋は暖房が効いていたけれど、それでも布団の中ほどではない。今まであたたまっていた体が、ふるりと震えた。
ソファーの上に置かれた荷物をもう一度見る。覚えている限りのものはすべてあって、ヤトはまず耐熱性で電気も通さない優れもの、愛用のグローブに手を通した。旅の準備を着々と進めていると、再びレイが走ってくる。
「ヤトくんマフラーしてなかったよね? これ、よかったら使って!」
そう言って差し出されたのは、お伽話の猫にありそうな紫とピンクっぽい縞模様のあたたかそうなマフラーだった。
ありがたくそれを受け取ると、もう一つ何かを渡される。
「ジムに挑戦するには、まずキキョウシティに行かなきゃね。それでお願いなんだけど、ポケモン塾にいるうちの弟に、これ渡してくれないかな?」
世話になったこともあるしなにより断る理由もなくて、ヤトはそれを受け取った。バッグにスペースがあったためその荷物を入れる。
腰のホルダーにモンスターボールをしまって、ようやく旅の準備が終わった。
「気をつけてね」
「いろいろありがとう。シチュー、おいしかった」
大きく手を振るレイに手を振り返して、ヤトは雪に覆われた地を踏み締めた。