泣き言なんてやめちまえ
9
シラの意識は明滅していた。
意識を失っていたという事実を、数秒経ってから認識出来た。
(………ぅ………)
時間の経過と共に鈍い痛みが続き、安らかな眠りのそれとは程遠い真逆の感覚が巡っていて、物事を考える頭の方もそれに遮られて思考がおぼつかない。
答えを求めようとするだけで鈍い痛みを発する頭の中をそれでも回転させてみると、少しずつ現在に至る経緯が想起されてきた。
(……確か……あのチンピラコンビを打ち負かしてから、グレイ……って名前のポチエナの『大切なもの』を取り戻して、それで……その後は……)
どうにも記憶が断片的で、多数のピースをはめ合わせてパズルを完成させようにも肝心のピースの方が何処かへ吹き飛んでしまったかのような、地道に文字を書き足して一冊の本を書き上げたと思えば次の日に数ページ丸ごと破かれたとでも言えるような、奇妙な感覚だった。
シラは最初に目を覚ました時点で記憶喪失の身の上だが、『それ』で思い出せない記憶と『これ』では、思いだせるか思い出せないかで明確な差異が存在している。
前者は欠片も思い出す事が出来ないが、後者は断片的だが覚えられている。
……それでも『完全に』と言えない状態なのは、まだ思考が正常と言い切れないからなのか、それとも単に『見ていない』だけなのか。
どちらにせよ、覚えていない事について、今はどうしようも無いらしい。
(……ん……)
そんな事を、睡魔に侵されたかのようにボケた頭で考えていた時だった。
ふと、自分の口の中に『何か』が入り込んで来ていた事に、シラは気が付いた。
それは何やらドロドロとした舌触りで、所処に固形の物体が幾つか混ざりこんでいて、何とも違和感を感じる食感だったが味自体は『甘い』と感じられるものだった。
どうやら何らかの食物らしいが、今のシラには『それ』の正確な詳細を察する事も出来ない。
(……えっと、これって……木の実、だったわよね……)
抵抗せずに『それ』を喉の奥へ流し込むと、不思議な事に体中に巡っていた鈍い痛みが和らいで来たように感じられた。
何らかの解毒作用でもあったのだろうか――そこまで考えた所で、
(……あれっ)
痛みが治まり、冷静な思考が可能になった事でシラはふと思った。
ずっと考え事しかしなかった所為か、自身の視界がほぼ完全に黒一色に染まっている事――というより、目を閉じたままであるという根本的な部分を忘れてはいないか? と。
そして、そこまで考えた後でシラは明確に一つの疑問を頭に浮かべた。
……口の中にドロドロとした謎の食べ物を入れたのは、いったい誰なのだ?
「…………ッッッ!!?」
答えを知るために目を開けた、その瞬間に答え合わせがあった。
何の比喩表現でも無く、シラの視界は9割近くが黒に染まっていて、残りの一割は黄色や赤に白といった物を目視するためにある瞳の色――つまりは特定のポケモンの瞳の色というわけで――シラの目前に居たと言うよりは顔を覗き込んでいたのは、つい少し前に知り合ったばかりの相手――ポチエナのグレイだった。
視界いっぱいに広がった顔に驚いて声を上げる事は叶わなかった。
何故なら、グレイは顔を近づけてきたと思えばシラの(いつの間にか開いていた)口の中に、自分の口から『何か』を移してきたのだ。
状況を理解出来ぬまま様々な味がする『何か』を流し込まれ、既にシラの思考はオーバーヒート寸前だった。
何故なら、それがどういう意図を含んだ行動だったにしろ、人間が持ち得る道徳心的にはカンペキにアウトな所業だとしか感じられない物だったからだ。
しかし、味があまりにも不味いというわけでは無かったからなのか、突然の出来事に思わず口移しされた『それ』をシラは全部飲み込んでしまう。
「………………」
吐き出す事もせず喉の奥へ飲み込んでしまった事実は、もうどうしようも無く。
現実逃避しようにも、舌の上に残った感触と味は否定のしようも無く。
何より、その全てを記憶としてしっかり覚えてしまったわけで。
なんというか、もう色々と諦める以外の道が無かった。
と、
「……ぷはぁ、うん。体力も戻って来たみたいだね。木の実の口移しなんて、多少難しかったけどやってみれば簡単だったね。やってみてよかっ……」
もしこれがポケモンではなく人間同士だった場合、とてもゴールデンタイムに電波には出来そうに無い体勢でシラの顔を覗き込んでいたグレイは、ひとまずシラが回復した事を確認すると、安堵した表情で呟いていた――が、一瞬でその表情と呟きは固まっていた。
それもそのはず。
つい数刻前の時にはいっそ『優しい』という印象さえ受けたシラの表情が、やけに平坦な物に変わっていたからだ。
解りやすく怖い顔をしているわけでは無い所為なのか、いっそ不気味とさえ言えるその表情にグレイは猛烈な不安を覚えた。
しかし、グレイにはシラがそのような表情をする理由を自覚も出来なければ想像も付かないため、シラの背後に守護霊よろしく『腕が四本の一秒間に千発ぐらいパンチが打てそうな怪物』の幻影が見えているその理由さえも解らない。
その一方で、一つだけ確信を持てる事はあった。
シラは、確実に怒っている。
「……シ、シラ……さん……?」
思わず敬語で声を掛けたグレイに対し、シラは表情を変えぬまま口を開いた。
「……ごごごごごごごごねぇグレイ今のサプライズ感マックスの口付けというかゲロよろしくな状態のゲテモノをぶち込んでくれた行いはどういう事なのアンタそんなド低俗野郎だったのアタシ記憶が無いけど何が良くて何が悪いのかとかそういう部分の認識ぐらいはあるんだけどこれはセクハラ扱いで訴えてもいいレベルだと思うんだけど通報する相手に心当たりが無いからこれはアタシがジャッジを下してもいいのよねきっとそうなのよねごごごごごごごご……」
「なんかすごく早口な上に擬音が口から出てるっ!? ちょ、ちょっと待って、落ち着こう? 冷静になって話し合おう!? というか何でそんなに怒ってるの!?」
シラは答えない。
どうもこんにちは通り魔ですといった調子でジリジリと近付いて来るその姿を見て、グレイの脳裏には一つの選択肢しか浮かばなかった。
逃げる。
そのために一瞬で回れ右して全力で駆け出し、とにかく時間を稼いでその間にシラを落ち着かせるための方法を考える!! 何よりもとりあえずこの場から離れるッ!!
……そうしたかったのだが。
「いだいいだいいだい!! ちょっとやめて万力みたいに耳を掴むのはやめて!! ちぎれるちぎれる!!」
回れ右の『ま』の辺りで、ガシィッ!! と恐ろしいスピードでシラに耳を掴まれてしまい、殆ど悲鳴に近い声でグレイが叫ぶ。
必死に言葉で訴えかけようとするが、どうにもシラはシラで感極まっているらしく。
「ごごごごごごごごごご」
「ヒィッ!? も、もう正常な言葉が入る隙間さえ無くなってるし!? よく解らないけどとりあえずごめん!! 何か気に障ることを言っちゃったんだよね!? あ、謝るからそのカタく握り締められた物を振り下ろすのだけはァァあああああああああああ!?」
直後に、ゴッ!! ゴッ!! ゴッ!! と打撃音が連続。
せめてもの慈悲があったのなら、それが『わざ』によって生じたものでは無かった事ぐらいだった。
10
数分後、シラとグレイの間には気まずい空気が流れていた。
別に数分後になってもシラがグレイに対して苛立っているだとか、汚物でも見るような視線を向けているだとか、原因はそういった物でも無いのだが――――事実として、二人の間には会話を切り出す事にも勇気がいるような雰囲気が発生していたのだ。
割と元凶だったりするシラが口を開く。
「……いや、その、ごめんね? まさかあの二体を打ち負かした後、あたしのために毒を治療するための木の実を探そうとして、その途中であたしが気絶したからこの場所まで引き摺ってきて、意識が無くて嚙む事も出来そうに無い状態だったから、グレイは自分の歯で細かく柔らかくした木の実を口移ししていただけだなんて考えが及ばなくてさ。ホントにごめん。グレイの事は本当に感謝してるのよ? だからとりあえずそんな風にいじけるの止めてよ謝るからさぁ!!」
シラの視線の先には、何か色々な物を放棄してしまったかのように、四つの足で地に立つ事さえせず横になっているポチエナ――グレイが居た。
何と言うか、もう、いじけまくっていた。
数分前の自身のヒステリーをひたすらに後悔するシラに対し、彼は倒れこんだ姿のまま口を開く。
「……九回もぶった。お父さんにもぶたれたこと無いのに」
「うぐ!?」
「……せっかく助けるために頑張ってたのに……こんな目に遭うとかね。何だろうね。僕って何のために君の事を心配してたんだろうね」
「いやっ、そのっ、人間だったら確実にヤバい方向に進まざるも得ない行動だったわけだし、えっと、その……」
「……なに馬鹿な事考えてんの? 目の前で危機に陥ってるポケモンを見て、助けようと努力する事っておかしい事なの? あぁ、僕の方が馬鹿だったんだね。そうなんだね。うん、ごめんね。僕がおせっかいでうっとおしかったんでしょ?」
「だからそういう事言うのやめようって言ってんでしょうがよぉ!!」
もういっそのこと瀕死状態のポケモンか何かのように横たわったまま、グレイは涙目で呟いている。
「ていうか、アンタあのチンピラコンビを前に張り合ってた時とか結構カッコいいこと言ってたじゃん!! ほら、お前達はただの臆病者だとか、あくタイプがどうとか!! わーあたしあの時感想しちゃったわよー!!」
と、事実を織り交ぜて思いっきり持ち上げてみようとしても、
「……あんなのを真に受けてたの? あんなの所詮は即席の作り物だよ。戦う相手に自分の心を読ませないようにしたり、他でもない自分自身の恐怖とかを誤魔化したりするための物。あと、そんなに無理して持ち上げようとしなくていいよ。むしろ一層情けなく思えて逆効果だから」
「あらやだ手厳しい!?」
「そんな解りやすい言い方じゃあねぇ……特に最後の方とか、騙されるポケモンが居るのかさえ怪しいよ……」
意図を見抜かれた上に思わぬカウンターを受けて、恥ずかしそうに顔を赤らめるシラ。
一方でグレイの方は、本当に呆れたかのように、
「第一、一番最初に言った台詞がただケンカを売っただけだと思ってたの? アレも一応『わざ』だよ」
「えっ」
「『挑発』って言ってね。『わざ』としての効果は『攻撃の技しか使えなくする』事と、相手と言葉の内容次第で行動を単純にすること。苛立ったり怒ったりした相手って、攻撃が大振りになったりする場合が多いからね」
「……もしかして、最後の最後にドガースが『スモッグ』じゃなくて『体当たり』をした理由もそれ? アンタ、そこまで考えて……」
「……まぁ、少し想定外な所もあったんだけどね。本当は使うと思っていた『毒ガス』や『煙幕』を封じるためだったんだけど、あの『スモッグ』って技は『攻撃の技』でもあるらしいから、実際には防げていなかったんだ。あの時のズバットの言葉がブラフなのは解ってたけど、あの時ドガースは使おうと思えば『スモッグ』を使う事が出来たんだよ」
「でも、実際に使わなかったのは……」
「攻撃の威力を優先したんだろうね。もしもまた目晦ましされてたら、流石に危なかったよ。今回は運が良かっただけさ……」
と、自分を卑下するような声でグレイは言うが、シラは語られた内容に驚いていた。
勇気を振り絞って立ち向かおうとした――グレイの最初の行動は、シラからすればそのような意味合いしか感じられなかったのに、実際には後の事を考えた上での布石であった事を知ったからだ。
思えば、グレイの言葉を聞いたズバットとドガースの二匹も、グレイの発した言葉に対して怒りの感情を見せていたが、あの怒りも単なる言葉の内容『だけ』による物では無かったのかもしれない。
(全然わからなかった……戦うと決めたその時から、既に後々の事を考えた上で言葉も選んでたなんて)
現実にグレイはドガースを圧倒し、ズバットだって打ち負かす事が出来ていた。
グレイ自身は今でも自身を過小評価しているようだが、実際の実力を見たシラからすれば、過小評価なんてとても出来なかった。
だから、
「……いや、やっぱりアンタは凄いと思うよ」
「無理して褒めようとしなくてもいいのに……」
「だってさ、何だかんだ言ったってアンタが戦わなかったらアイツ等には勝てなかったじゃん。アタシが突っ込んだだけじゃどうしようもなかった場面で、アンタはアタシと違って活路だって開けてた。どんなに自分を卑下しようと勝手だけど、この事実だけは否定出来ないしさせないわよ」
「……それを言うなら、礼を言うのは僕の方だよ」
グレイは、そこで明確に視線をシラへと向けて、
「君が戦わなかったら、きっと僕も戦おうとしなかった。自分自身の『大切なもの』を奪われると解っていても、多分……ただ震えてただけだったと思う。君が僕に『勇気』を与えてくれたんだ。本当に……『これ』を取り戻せて良かった」
そう言いながらグレイは起き上がり、首元に吊り下げている『大切なもの』を見せた。
それは、一見すると変わった石ころか何かに思われてもおかしく無い石の|欠片《かけら》だった。
「『遺跡の欠片』って僕は呼んでる」
「……『|遺跡《いせき》の|欠片《かけら》』って……何処かの遺跡で落ちてたの?」
「いや、遺跡とは全く関係が無い所に落ちてた物だよ。もう結構前に手に入れた物なんだけど……ほら、これの真ん中を見てみてよ」
言われるがままに『遺跡の欠片』の中央を見てみると、そこには白く中央に丸の形と、そこから派生するように八つの方向へ規則的な意匠が刻まれている模様が見えた。
「僕は、これが何かの『鍵』なんじゃないかって思ってる」
そう語るグレイの声には、まるでこの事を言いたくて仕方が無かったかのような嬉しさを感じられた。
「僕、前から昔話や伝説とか、そういう物が大好きでさ……そういう話を聞く度に、ワクワクするんだ。未知への探究心って言うのかな。まだ見ぬ何処かに、凄いお宝や財宝が眠っていると考えると、思わずニヤニヤしちゃう」
「……楽しそうね。アンタ」
「シラはロマンとかそういうのに興味は無いの?」
「正直『記憶』が無いから『元の自分』がどうだったかは解らないけど、興味あるわよ」
「でしょ? でしょ!!」
本当に楽しそうに、本当に嬉しそうにグレイは言う。
「……それで、いつかこの『遺跡の欠片』の秘密を自分自身の手で解き明かしたい!! そう思って、ついさっきもとある探検家に弟子入りして、『探検隊』になりたいと思ってたんだけど……」
しかし、そこで急に声の調子が落ち始めた。
過去形の言葉と共に、再び自身を卑下するような声で言う。
「……僕って意気地なしでさ……ちょっとした事でビビってしまうんだよね。その所為で、耐えれば大丈夫かもしれなかった関門すら越えられなかったし……」
「……なるほどね」
具体的な理由こそ解らないが、どうにも度胸を要する事情があるらしい。
そうなると、自分を見つける過程で海岸に来た理由にも、少なからず関連性があるだろうとシラは思った――が、特に追求しようとは思えず、ただ頷くだけに留めた。
すると、グレイは『そういえば』と相槌を打ってから、シラに向けてこんな問いを出してきた。
「……シラは、これからどうするの? 記憶を失って、何故かポケモンになっちゃってるって話だけど……この後、何処か行く宛とかあるの?」
「……んー……」
聞かれて、シラは冷静に考えてみた。
自分が何故ポケモンになってしまったのかという根本的な『理由』を知るためには、どの道自分の目と足で原因を探る必要が出てくるが、現状『人間だった頃』に得たのであろう『知識』こそあれど、たったそれだけで生計を立てていけるとは思えないし、ポケモンとして生きる術を知らない以上は一匹で過ごしていく自信だって生まれない。
と、なると。
「……無い、かな。そもそも人間の存在を疑うような事を言った時点で、『この世界』自体に人間が居るのかさえ解らないし……多分、闇雲に歩いても望む答えは得られないだろうしね」
「そっか……」
本当の事をそのまま言うと、グレイはまるで納得したかのような反応を示していた。
グレイも海岸で出会った当時は疑いの目でシラの事を見ていたが、いつの間にか怪訝そうな表情は消えていて、今ではシラの言葉に信頼を置けているようだった。
グレイは、少し考えるような素振りを見せると、やがて一つの案を口にする。
「……ねぇ、行く宛も帰る宛も無いのならさ…………おねがい。僕と一緒に『探検隊』をやってくれないかな? シラと一緒なら、勇気を振り絞ることが出来ると思うし、良いコンビになれると思うんだ」
「……良いコンビ、ねぇ……」
シラは今一度考えてみた。
グレイの言う『探検隊』の事は詳しく知らないが、少なくともそれは色々な場所へ足を運ぶ事になる『職』の一種だろうと推測出来る。
不安要素こそあるが、それでも『探検隊』になればグレイと一緒に行動する理由作りにもなるし、何より自分自身の事を知るための手がかりを掴むチャンスだって巡ってくるかもしれない。
(……何だかグレイの事を『利用』しているようで心苦しいけど、今はこうする以外に無いのよね……)
「……ええ、解ったわ。アタシもグレイと一緒にやってみる……『探検隊』を」
「本当?」
「本当よ。実際それが一番だと自分でも思ったし」
「本当の本当に?」
「二回も聞く必要は無いと思うんだけど」
「………………うぅ」
「…………え?」
急なテンションの落差に、次に何を言えばいいのかどうか迷い出すシラ。
まさか、感動でもして泣いているのか? あるいは自分の言葉が傷を作ってしまったのか? などと疑心を抱いたが、直後にグレイはシラの予想を軽々と跳び越えてきた。
低い声で何かを呟いていた彼は、突如として間欠泉の如く顔を涙と鼻水塗れにしてきて、
「やった……よかった……こんな僕でも、出来たんだ。一緒に探検隊が出来るぐらいの友達が作れたんだ。うわわわああああああああああああああん!! やっダァァァバアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
「え、ちょ、待って抱き付くな色々と汚いっていうかおいやめろ変なところ触るな――――ッ!!?」
直後の出来事は、主に男性読者の皆々様がアブナイ方面へ妄想を働かせてしまいそうなので、ある程度割愛する。
結論だけを言うと、グレイは嬉しさの余り凄まじいスピードでシラにじゃれ付き始めた結果、激怒したシラから割りと本気のグーが顔面に飛び、マジ泣きを越えたオーバー泣きに至ってしまうのだった。