一か八かのワンステップ
5
さてさて。
正義感を持ってケンカを売ったところまでは良いのだが、実を言うとシラはポケモンとして殴る蹴るなどのバトルをやる以前に、決して無視出来ない問題を抱えていた。
それは、
(……そういえば、リオルってどういう『わざ』を使えたんだっけ?)
初歩的な部分であり、そもそも正真正銘のポケモンであれば生まれた時点ですら『それが出来る』と『理解』が及んでいるはずの知識。
シラの頭の中で、これまでの経験や体験を司る『記憶』は死んでいるに等しいのだが、その一方で何らかの形で学んだのであろう『知識』は物の見事に生きている。
右も左も解らないわけでは無いし、自分に声を掛けてきたポケモンの種族名が『ポチエナ』である事も知っていたし、地球には重力という物があってジャンプしてもすぐ脚が地に降りるという事も、今現在の自分が抱いている感情の名が『怒り』という物である事も――全て『知っている』事としては認識出来るのだ。
知識とは、ある意味においては辞書と同じ物である。
しかし、頭の中にある辞書は現在の自分が自らの手で築き上げてきた物ではなく、記憶を失う前の自分が刻み記したものでしか無い。
言ってしまえば、赤の他人が書き上げた辞書を無意識に流し読みしているに等しいのだ。
つまる所、シラはリオルというポケモンが経験を積めば覚えられる技の詳細を知ってはいても、実際にそれが『どういうもの』なのか、そして何より『どうすれば』使えるのか――――単語としての知識を有していても、明確な答えを導き出す事は出来ないのだ。
(……『でんこうせっか』は『目にも留まらぬもの凄い速さで相手に突っ込む』技らしいけど……え、そんな事を実際に出来るの……? それ以外には……えっと……あぁよく解んない!!)
とにかく速く動けばいいのか、と自己判断しようにも現実的なイメージが浮かばない。
そうこう考え事をしている内に、どうせなら先手を打って嬲ってやろうとでも考えているのか、ズバットとドガースの二体は動き出そうとする。
魂胆こそ見えないが、シラはそこで考える事を止めた。
その代わりに、拳を握って構えてみせる。
(……とにかく『殴る』と『蹴る』が出来るのなら戦える。打つ手があるのなら、戦えないわけじゃない)
「来るなら来なさいよ。その膨れ顔をもっと膨れさせてあげるからさ」
「言ってろ。すぐに後悔する事になるだろうからな!!」
言葉と同時、ドガースは口から茶色と緑色が混じった濃霧にも似た煙を吹き出して来た。
スモッグ――そんな単語が頭を過ぎり、その意味を理解するよりも早く、風に乗って一気に迫って来た煙はシラの視界を覆ってしまう。
(多分、吸い込んだらマズイ類の物だとは思うけど……!!)
口元に右手を当てて明らかに有害な色の煙を吸ってしまわないように気を付けるシラだが、攻撃の手が緩むとは思えない。
そもそも、ドガースとズバットの居場所が『今は』何処なのか――とりあえず記憶を頼りに真っ直ぐ走ってみようとしたが、その前に煙の向こう側から白色の『何か』が飛んでくる。
咄嗟に横方向へ動いて避けようとしてみたが、角度が悪かったのか二本ほどシラの右足に刺さってしまう。
「いッ……ッ!!」
鋭い痛みに声を上げかけるが、何とか我慢して走る。
迷彩にも似た煙を突破して、勘を頼りに全力で突っ込む。
だが、
(……いない……!?)
既に煙を吐き出した時点から位置を変えたのか、ズバットとドガースが元々居た位置へ向かっても彼等の姿は見えない。
当然と言えば当然なのだが、だとすれば次は何処から――そこまで疑問を抱いた所で、次の襲撃に備える事は出来なかった。
目にも滲みる煙の向こう側――即ち煙を抜けたシラから見て背後の方から、ズバットが低空を滑るように飛んで襲い掛かってきたのだ。
風を切る音に反応して振り返ろうとした時には、既にズバットの翼がシラの脇腹に直撃していた。
「ぐっ、ああああああ!?」
体格の差が嘘のような威力だった。
体の大きさや速度だけでは説明出来ないダメージが、シラの――より正確に言えばリオルの体を駆け巡る。
(ぐうっ……くそっ、あんな小さい体なのに何て威力……!?)
背後から何の防御も出来ずに食らったのもあってか、起き上がっても体力をごっそり持っていかれたかのように体が重い。
気付けば、バサバサと翼をはためかせながらズバットが弱っているシラを上空から眺めていた。
もう終わりかよ? とでも言いたげな笑みと共に、今度は口から嫌悪感マックスの『嫌な音』を放つ。
思わずシラは両手で耳を押さえるが、
「何処見てるんだよ? ほら!!」
視線をズバットの方へ向け、更には嫌な音を聞かないように耳まで防いだ所為でもう一方――つまりドガースの存在を考慮する事を忘れ、真正面から突っ込んで来るにも関わらず対処が出来なかった。
そうして、シラはドガースの体当たりを物の見事に食らってしまう。
「ぐっ、うぅ……」
シラの体にダメージが蓄積されていく一方で、ズバットとドガースはまだ何もダメージを受けていない。
そもそもの問題として、シラが攻撃を当てるには腕一本分のリーチが届く距離まで接近しなければならないのだ。
(……アイツ等は両方とも飛んでたり浮いてたりする。飛び道具だって持ってるし、これは……まずいかな……)
「おいおい、大口叩いておいてこのレベルかよ。期待外れもいいとこだな?」
ズバットの嘲弄染みた声は無視しながら、シラは策を考えようとする。
だが、見ず知らずの単語と意味だけが記された頭をいくら働かせても、明確な対抗策が思い浮かぶ事は無かった。
この状況で、あくまでも勝つためには手数が足りなさ過ぎる。
「あ〜もう大丈夫!? 無理しないでよ!!」
ポチエナのグレイ――一応喧嘩の頭数には入っているはずのそのポケモンが話しかけてきたのは、そんな場面での事だった。
「あんな状況で馬鹿正直に突っ込んだら、そんな目に遭うのは決まってる。いいんだよ、アレは僕の物だったんだから、さっき僕と出会ったばかりの君が無茶して戦う必要なんて無い!!」
「……アンタはいいの? アレ、あたしはよく解らないけど『大切なもの』なんでしょ?」
「そりゃそうだけど……だけど、だからってそれを理由に誰かが傷付くなんて事になったら、僕は嫌なんだよ……」
消え入るようなその声からは、何かを押し殺しているような――その一方で戦いたがっているような、二つの感情の名残をシラは感じた。
傷みという物を根の部分で恐れてしまっていて、何よりそんな自分自身が嫌になっている。
何故そんな感情を直感的に理解出来たのかどうか、その理由は今のシラには解らなかったが、そんな事はどうでも良かった。
本当はグレイも、諦めたくは無い。
それさえ解れば、次に何を言えばいいのかも解ったのだから。
「……だったら、余計に諦められないわね」
「え……」
「アンタにとって『アレ』は、こんな事で失っていい物じゃないんでしょう。そりゃあ縁は浅いかもしれないけど、正直な所……ああいう悪ガキを相手に黙って見ていられるほど薄情にもなり切れないのよね」
「で、でも僕は君の事を散々疑っていたし……それに、君だけじゃアイツ等にはとても勝てないよ。実力とかそういうもの以前に、手数が違うんだ。だから……」
「アンタ、自分で正解を言い当ててる事を自覚してる?」
そう言われたグレイは、少しの間だけキョトンとした顔になっていた。
シラはそれ以上の言葉を語ることも無く、再びズバットとドガースを真っ向から見据える。
「まだまだこれからよ。自分から倒れるつもりなんて、サラサラ無いんだから!!」
6
シラと名乗る元はニンゲンだったらしいリオルが、ズバットとドガースに立ち向かおうとしている、その状況の中で。
ポチエナのグレイは、心の中で自分自身に対して問いを出していた。
(……僕は……)
彼にとって大切な物である『あの欠片』は、あくまでも偶然手に入れただけの物だった。
その価値だって、一目見て解る『ある一点』を除けばそこら辺に落ちている石ころと大差も無い程度の、生きる上ではむしろ必要では無いと断じる事さえ出来る代物。
だけど、
(……不思議だと思ったんだ。もしかしたら何の意味も無い物かもしれなくても、知りたいと思ったんだ)
彼にとってそれは、生まれて初めて見つけた『宝物』でもあったのだ。
他者にとって価値があろうが無かろうが、馬鹿馬鹿しい妄想話に映ろうが、それでも確かめたくなる物。
ロマンと言える物を、彼は胸に抱いたのだから。
それを確かめるために彼は群れからもはみ出て、この地域まで来たのに――諦めていいのか。
そう思う一方で、彼はこうも思った。
(……でも、そのために他の誰かを巻き込んでいいのかな)
事実的に考えても、彼が抱くロマンは現状彼だけが抱ける物なのだ。
それはあくまでも私情であり、我が侭でもあり、簡単に他者へ押し付けていい物では無いとグレイ自身も思っている。
目の前で戦ってくれているシラというリオルも、本来なら巻きこむべき相手では無かった。
にも関わらず、見返りも何も要求せず――ただ自分の事を見捨てられないというだけで、シラは戦ってくれている。
その一方で、自分はいったい何をやっているのだろう。
せっかく自分のために戦ってくれる相手が居るにも関わらず、自分自身にも可能性が宿っているにも関わらず、何も出来ない――いや、何もしていない。
(……そんなの、嫌だ)
改めて状況を認識する。
戦える者は今、自分独りだけなのか。
(……やるんだ)
恐怖と言える物は確かにあった。
だが、それ以上に戦おうと思える勇気が湧き出ていた。
(独りで戦うわけじゃないんだ。群れの中で過ごしたいた頃には実感が湧かなかったけど、一緒に戦ってくれる誰かが居るという事は勇気を与えてくれる)
だから。
ここからは、反撃の時間。
臆病風ではなく、追い風に乗って突き進むべき場面。
不満があるのであれば、打開を求めるのであれば、改善を求めるのであれば、
「シラ!!」
まずは自分の口から言葉を伝えなければ始まらない!!
7
もしも、自分に記憶があったとして。
相手はズバットとドガースの二体であり、どちらも今の自分が接近戦に持ち込むには厳しい相手である事に変わりは無く、どんなに頭をフル回転させた所で手数の差は覆せない。
もしも、必死な思いで二体を殴り飛ばせたとして。
相手がたった一発の拳で降参してくれるという保障は無く、そもそも攻撃を当てるまでに自分がどれだけのダメージを受けるのか、相手は真剣勝負に付き合うような性根の持ち主かどうか――とてもそうは思えない。
だから。
突破口を開く鍵は、別の誰かが担っていた。
「シラ!!」
その瞬間。
シラが右の拳を硬く握り締め、無謀にもドガースに向けて全力をもって駆け出そうとした、まさにその時。
「わざわざ不利な状況を選んで自滅する必要なんて無い。そんな事をしなくたって、あいつ等には勝てるんだから!!」
「……へぇ?」
その声に対して第一に反応を見せたのは、言葉を向けていたシラではなく、ズバットの方。
「突然面白い事を言いやがるな。ついさっきまで端っこでビビってた弱虫くんと、ただ足掻きまわってるだけで既に消耗してる付き添い。対して俺達はまだ何もダメージを食らってねぇ。どうやって勝つつもりだ?」
嘲弄混じりに告げられた言葉は、確かな事実でもあった。
戦況から普通に考えた所で、グレイとシラがこの状況で逆転出来る可能性は乏しい。
にも関わらず、明らかに戦況の面でも実力の面でも『勝てる要素』が見当たらず、確信など持てるはずが無いはずなのに。
グレイは、いっそふてぶてしいと言ってもいいほどの笑みまで浮かべ、こう言ったのだ。
「そんなの、わざわざ教えてあげるような理由も無いよ。臆病者め」
「……あ?」
「……最初に攻撃してきた時、君達は思いっきり視界の外から攻撃してきたよね? それを卑怯とは言わないけど、その後からも煙とかで目晦まししながらシラの事を虐めていた。たったの一度さえも、真っ向から攻撃してきた事は無かった。まるで、僕達の事を恐れてるように」
「笑わせんな。臆病者はお前だろ? そこの連れが傷付けられてんのを黙って見過ごして、ビクビク震えていたのは何処の誰だっけなぁ」
「そっちこそ笑わせないでくれる? じゃあどうして、僕も喧嘩の頭数に入れておきながら狙ってこなかったのかな。君達からすれば最低限戦うことが出来るシラを狙うより、マトモに戦おうともしなかった僕を狙っていた方が『弱い者いじめ』の構図になって楽しかったはずなのに」
その言葉が、明確に怒りを促す物である事はグレイにも解っているはずだった。
恐怖を押し殺しているのか、額からは少しだけ汗が滲み出ている。
「君達は、臆病者だ」
それでも、彼はそう言った。
「自分達にとって有利な状況でないと何も出来ない、ただのチキンだ!!」
「……上等だこの野郎……」
そこまで言われて、ズバットとドガースは一つの決定事項を立てたようで。
明確な怒りの感情と共に、ドガースはこう言った。
「そこまで大口を叩くんなら、喧嘩を売っているって思ってもいいんだよな。戦わないなら不戦敗って扱いにして見逃してやろうとも考えたが、もう決めた。お前等二人ともボコしてやるよ!!」
敵意と言える物がグレイに対しても向けられ始めた事を、シラも感じていた。
だから彼女も、グレイに対して確認を取るために問いを出そうとしたのだが――それよりも先に、グレイの方が口を開く。
「……大丈夫だよ。心配しないで」
その声だけでも、無茶をしている事は明らかだった。
だけど、
「僕も、勝つために戦うから」
それだけで、意思の疎通は十分だった。
ここから先は、本当の意味で二対二の喧嘩。
それを認識した上で、彼等はほぼ同時に前へ進む。