嵐が去った後の一難
4
率直に言って、状況を飲み込めと言われる方が無理だった。
目に映る景色自体は、砂浜とオレンジ色に焼けた空と蒼い海という、さして常識の域を出ていない物だったが――場所というものを認識した直後に、猛烈な非常識は襲い掛かってきた。
自分が――人間が『認識出来る言葉』で話してくるポケモンの姿があった。
グレイという名前らしいポチエナ曰く、自分はこの砂浜で気を失ったまま倒れていたらしい。
しかし、それ自体も正直なところ理解は出来なかった。
「……えっとね、二回も確認させておいて悪いんだけどさ……」
そして何より、自分自身が知る『過去』と『現在』の決定的な相違点を、グレイは指摘してきたのだ。
自分が『人間』であるという、生まれた瞬間から不動とさえ言えるはずだった事実を述べた直後に。
「……キミの姿、何をどう見たって『ニンゲン』じゃなくて『リオル』だよ?」
――――は?
しばし、意味が解らなかった。
つい呆然として思考が真っ白になっていた事を自覚するのに、数秒。
自覚し、その直後に視線を下げて自身の両手を見て、更に数秒ほど硬直してしまう。
「………う、そ………」
本当は、意識を覚醒させたその瞬間から、気付いていたかもしれない。
怪訝そうな視線を向けられた時点で『その可能性』を考えなかったわけではないが、どうしても信じることが出来ず、現実から目を逸らしていたのかもしれない。
両手の形が、人間特有の五本指で小麦色のそれとは全く異なっていた。
それどころか、両手を見ようと視線を下げた結果、視界の端に同じく人間のそれとは違う形になっている両足まで見えていて。
ふと焦りながらも周囲を見回すと、何やら雨水か何かがボウルのようなくぼみを形成している岩に溜まっているのが見えて、人間であるはずだった『彼女』は何も言わずに天然の鏡で自分の顔を見てしまって――――それが決定的だった。
事実を認識するには、十分過ぎるほどに。
水面に映るその顔は、青かった。
ペンキを頭から足まで満遍無くぶっ掛けたような見せ掛けのレベルではなく、根本的に皮膚や体毛そのものが色を宿している、生まれ付きと言っても過言にはならないレベルで。
青以外にも、黒の色が主に目元や両足――そして腹部に宿っており、人肌の面影など何一つ存在していなかった。
頭から脚まで完ッ璧に人外と化している自分の体を改めて認識し、思った事をそのまま口にする。
「……あたし、リオルになっちゃってる……ッ!!?」
なんで。
どうして。
……そういった『疑問』を浮かべていると、ふと背後からグレイが声を掛けてきた。
当然ながら、突然走ったり焦ったりしていたリオル――『彼女』の事を怪しむ、あるいは心配でもするように。
「……キミさ、本当に大丈夫? ウソを言うにしろ、それで油断を誘ってたにしろ……いくら何でも『ニンゲン』は無いんじゃない? 流石に信じられないし、怪しすぎるよ。何のつもりがあって自分の事を『ニンゲン』だと言ったの?」
「……違う……あたし、あたしは……人間、だった……はずなのに……」
「……はずなのに……?」
怪訝そうな表情から一転、疑問符を浮かべたような声を漏らすグレイ。
実の所、リオルになってしまっている『彼女』は自分が人間『だった』という事実こそ覚えてはいるが、現在に至るまでの過程――それどころか過去の記憶が思い出せない状態にあった。
記憶喪失、という言葉が頭の中に浮かぶ。
いったい何故――そう疑問を浮かべても、答えが出ない以上は無意味な思考のループを形成しているだけだった。
「う〜ん、じゃあ名前は? 種族としての名前じゃなくて、自分自身の名前はあるの?」
「……名前?」
咄嗟に出された問いに、半ば思い出すような形で彼女は名乗る。
「……シラ。それがあたしの名前……のはずよ」
「何だかハッキリとしないなぁ。さっきからどうしたの?」
「仕方無いでしょ……これ以外、何にも思い出せることが無いんだから」
「……ふーん……」
リオルになってしまった元人間こと、シラの回答を聞いたグレイの目から怪しむ素振りが消える。
彼は彼で考えながら問いを出していたらしく、直後にこんな事を言ってきた。
「妙に疑ったりしてごめんね。最近、悪いポケモンが増えてて物騒な世の中だからさ……いきなり襲い掛かって来るポケモンも少なくないんだよ。気がたっている場合もそうだけど、何より盗賊とかヤクザとか、そういう|類《たぐい》のとかが……」
「……そうだったんだ」
どうやら、やけに怪しんでいた理由は意図の解らない言葉だけでは無かったらしい。
あまり合点があるわけでも無いが、生き倒れを装って持ち物を盗んだりするような輩がいないとも言い切れないのだと、シラは記憶が無くとも思えた。
騙すという行為自体は、さして珍しいと思えなかったのだろうか――何故『思えた』のかどうかまでは、記憶が無い今のシラには理解が出来ない。
と、そんな事を考えている時だった。
シラもグレイもお互い考えながら話をしていたからなのか、周りの状況に対して意識を向ける事を忘れていた。
だから――突如、風を切り裂くような音と共に飛来してきた『それ』に対処出来なかった。
ドバァッ!! と、会話をしていたグレイとシラのすぐ傍の砂が撒き散らされ、視界が砂色に遮られる。
「うわっ!! な、なに!?」
明らかに冷静さを欠いた声を漏らすグレイは、突然の出来事に思わず動く事を忘れていた。
シラもまた、目覚めた直後で頭の回転が鈍っていた所為か、そもそも考える事が間に合っていなかった。
そして、第二のアクシデントはやって来る。
何者かが砂煙の向こう側から奇襲を仕掛ける形で体当たりを仕掛けてきたのだ。
「ぶあっ!?」
「グレイ!!」
ドガァッ!! という鈍い音と共に、グレイの体が砂浜の上を二転三転しながら転がっていく。
近場から刺さった叫び声に、思わず目元を両手で覆いながらも叫び返すシラだったが、そちらの方にも手は及んでいて――――直後、バチィン!! と甲高い乾いた音と共にシラの体もグレイと同じく砂浜に横たわる。
何が、どうなって――そんな疑問の答えは、一時的に形成されていた砂煙の向こう側から文字通り顔を出す。
そこに居たのは二体――ドガースとズバットの、見るからに毒々しいポケモンのコンビ。
突然現れ、悪意を伴った表情でグレイを見据えているのを見るに、明らかに襲撃者の部類だった。
「……っぅ……!! いきなり何すんのさ!!」
当然ながらグレイは吠えるように怒るが、張本人の片方――ズバットは涼しい顔でこう返した。
「へっ、解らねぇのかい? お前に絡みたくてちょっかいを出してるのさ」
「えっ」
「それ、お前のものだろ?」
そう言うズバットの視線(目は無いけど)の先には、紐の付いた布の袋――グレイが首にぶら下げていた物が落ちていた。
恐らく、体当たりを受けて二転三転した際、首からすっぽ抜けてしまったのだろう。
シラはその中身に何が入っているかどうかを知らなかったが、グレイのハッとした表情を見るに大切な物である事は理解出来た。
それを。
「悪いが、これは貰っておくぜ」
ズバットは、小石より少し大きい程度の『欠片』を、口で咥えて奪い取った。
ああーっ!! と、グレイの声が甲高く響くが、このズバット――だから返すなどという生易しい性格をしているわけでは無いようで、意地の悪い笑みを浮かべている事はすぐに理解出来た。
相方のドガースが、慌てた様子のグレイを見ながら言う。
「ケッ、大切な物だってのは解ってたし、てっきりすぐ奪い返しに来ると思ってたが……何だ、動けないのか?」
「うっ……」
馬鹿にされている事は理解出来ているはずだった。
目の前で「さっ、行こうぜ」とズバットに向けて言い、明らかにこの場を立ち去ろうとしているのが解っていても、
それでも、グレイは動かなかった。
「じゃあな、弱虫くん。ヘヘッ」
グレイにとって大切な物であろう『欠片』を口に咥えたまま、ズバットは器用にもそう言った。
そして、そこまで言われてもグレイは動く事が出来なかった。
だから。
「……待ちなさいよ」
「あん?」
ズバットとドガースが向かおうとする先に、シラは通せん坊していた。
立ち塞がり、その目に静かな怒りの感情を織り交ぜながら。
「そういや、連れが居たんだったな。さっきから反応が薄すぎたから無視したが、何のまねだ?」
「返せ」
シラは、ただそう言ってから言葉を紡ぐ。
「……別にあたしとしては赤の他人みたいなものだけどさ。目の前で『大切な物』を一方的に奪われているのを見て、黙っていられるほどあたしは利口じゃないのよ」
「それで? 黙っていられないんならどうするんだ」
ドガースは、あくまでも態度を崩さぬままシンプルな問いを出した。
だから、シラもまたシンプルな返事で返す事にした。
「力づくで取り戻す」
「……へっ」
唾でも吐くような調子でズバットはそう言うと、自らが口に咥えていた『欠片』を近場に捨て置いた。
好戦的な笑みと共に、言う。
「じゃあこうするか。俺達とお前等でバトルをして、勝った方が『それ』を頂く。黙って見逃すつもりも無いだろうし、十分に痛め付けてから行くとするぜ」
「まぁ、もっとも……」
ドガースはその視線をグレイの方へと向けながら、
「そいつが戦えるかどうかは微妙だと思うがなぁ」
「構わない。二匹同時に相手してやるわよ」
「言いやがるな。すぐに後悔させてやるよ!!」
そうして、互いに言葉をぶつけ合った直後に、表向きでは二対二となる喧嘩が始まった。
一体はマトモに立ち向かおうとする事さえ出来ないまま、もう一体は目覚める前の『記憶』を全て失った上で。