どうも、ブロローグっていうやつらしいです。
その少女は、ただ苦しんでいた。
か弱い瞳は瞼を開けるだけでただただ痛みを発し、閉じてしまえば暗闇以外に何も視えなくなり、理由の分からない恐怖に心は蝕まれ続ける。
自分が海中で溺れている、という状況さえも頭の中で理解する事が出来ない。
いや、理解出来たとしても、その理由が分からない以上は納得も絶対に出来ない。
どうして、こんな事になったのか。
どうして、こんなに苦しまないといけなくなったのか。
暗闇に等しい視界と、耳に入る海水は何も教えてはくれず、ただただ少女の体を流れに任せて弄ぶ。
痛い。苦しい。怖い。
この状況はいつまで続くのか。
自分を助けてくれる人は居るのか。
(……助けて……)
喉からは、掠れた声すらも出ない。
瞼の奥から出る涙も、海水と同化している。
少女自身、心のどこかで、理解してしまっている。
私を助けてくれる、都合の良いヒーローなんて居ない、と。
それでも、願ってしまう。
それは、生き物ならば誰でも持つ渇望。
(……助けてよ……)
生きたい。
死にたくない。
母や父とまた会いたい。
そんな願いさえ、口にする事は叶わない。
(……誰か……誰でも、いいからぁ……っ)
目の前が真っ暗になっている時点で、彼女は何を信じればいいのかさえも見失っていた。
ただ、それでも幼い体には遠い水面に力無く手を伸ばし、漠然と願っていただけ。
(…………け、て……)
返事なんて、あるわけが無かった。
助けなんて、来るはずが無かった。
・・・
なのに。
意識が途絶える瞬間の、ほんの少しだけ前の瞬間に。
ジュゥゥゥゥゥゥゥッ!! という、熱したフライパンに冷水を注ぎ込んだ時よりも激しい『水が蒸発する音』が、もう微かにしか音を聞き取れない少女の耳へ、それでも入り込んできた。
状況から考えても、環境から考えても、間違い無くイレギュラーであるはずの音だった。
何が?
誰が?
既に明滅し、まともに働いてもくれない頭を必死に動かしてみるが、答えは出ない。
だが、ぼやけてぐらつき、意識の最後で少女は確かに『それ』の姿を僅かながら目撃していた。
『それ』は、暗闇よりも黒い翼を持った――――
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
『彼』は、嵐の吹き荒れる海上で静かに浮遊していた。
「……ちっくしょう。ただ気分転換で『観光』に来たつもりだったのに、こんな場面を目撃しちまうとはな」
当たり前のように空中に浮遊している『彼』の背には赤色の膜が張った翼があり、一方でその全身は夜闇と言うよりも焦げ付きや墨に似た漆黒で、その輪郭はどう見ても『
人間』のものでは無かった。
顔は爬虫類を想起させる前に突き出した物で、頭部からは二本の角と思われる突起が生えていて、両手には用途次第で金属だって切り裂けそうな鋭い爪の生えた三本の指。
頭と胴体を繋げる首の部分は『
人間』のそれよりも長く、腹の部分は他と違い白い色を伴う膨れたもので、そういった部位から生じる重量を全て支えるためか『
人間』のそれより長くは無いものの丸太か何かのように太く発達し、手と同じく三本の爪が生えた両足。
そして、白い腹部の反対側に位置する腰元からは、太くしなやかな爬虫類特有の尻尾と――――その先端から赤い炎が、ほんの少し前に
海中へ着水していながらも、その激しさを衰えさせずに存在している。
一言に、『ドラゴン』と呼んでも違和感を感じさせない外見だった。
「……、」
彼は、その両腕であるものを抱きかかえていた。
それは、黒い髪の毛を生やした小さい女の子。
「……さて、どうすっかね……」
この少女を『ここ』まで流してきた海流を反対に辿れば、元々居た場所へと戻すことは容易いだろう。
だが、そこまで行ったとして、この少女が『無事』である可能性はどれほどの物か。
真下の海の荒れっぷりに視線を向けてみても、この少女は相当な距離を流され疲労し、意識を失っているという時点で既に命の危機と言っても過言では無い状態に陥っている。
『彼』は自身の飛翔速度と、それによって到達出来る最短の『目的地』を思考すると、即座に決断する。
海流の流れる反対側――少女の元居た場所から背を向け、『彼』はそれでも拾った少女を助けるために『
空を
飛ぶ』。
華奢な少女の体に負担をかけないよう、あくまでも『人間が乗っても負担にならない』レベルの速度を意識し、その上できっちり『間に合える』ように。
尻尾の先から松明のように炎を灯し、吹き荒れる嵐をその黒い翼で切り裂きながら、その一方で『彼』は少女自身とは別の事で一つの懸念を吐露していた。
「……あれ、途中でこの子が死んでしまっても俺無罪だよね? どの道助けるけど、死んでしまったらその時点で犯罪者扱いにされたりしないよな……世の中、目撃者からの第一印象次第で救助者が加害者に見える時だってあるらしいけど……やだよもしもガチでそうなったら『本当の加害者』の奴マジでこんがりロースト程度じゃ済まさねぇぞ!?」
悲しいかな。
もしも『彼』が人間であるのなら、素直に『ヒーロー』として扱われるのだろうが、『彼』は人間の言語を発する事が出来ても生物学的には人間ではなくモンスターそれもドラゴンそれも『あ、何かこいつ何となく悪っぽい』な第一印象を引き寄せやすい漆黒色な野朗なのであって、真っ当な善行を積んでもその度に第三者から『加害者』扱いされる危険性を考えて、筋の通った弁解の台詞をきちんと用意しておかなければいけない立場なのであった。
それを理解した上でも、彼は海水に浸って『冷たく』なっている少女を自身の両腕で抱きしめ、その体温をもってして現在進行形の救助活動(絵だけ見ると犯罪色が更に濃厚になりそう)を実行している。
こんな空中では、体の中に溜まった海水を吐き出させる事も出来ない。
人工呼吸をするにしても、『彼』の体の構造上『それ』はむしろ死亡させる要因にさえなりえる。
どうにも上手く進んでくれない世の中に対して吐き捨てるよう、最後に『彼』はこの状況をこう締めくくった。
(……ちっくしょう。今日も世界は不条理に塗れてやがるな!!)
◆ ◆ ◆ ◆
ここは、人間と『それ以外』の生き物たちが共に住まう少し奇怪な世界。
人間の頭脳の結晶とさえ言える科学技術が発展した末に、住居、食料、環境、種族など複雑な物を含んだあらゆる問題が解決される『はず』だった、蒼い球状の世界。
あらゆる『
限界値』がズタズタとなり、誰にも統御する事の出来ない、最上位のロマンと最上位の恐怖を内包『してしまった』世界。