同じ空の下で - 夕陽の下で
[目次表示]
BACK | INDEX | NEXT
夕陽の下で
「あー……疲れたー……」
 堅っ苦しいビジネススーツを脱ぐ間も惜しく、ふらふらと私の身体はベッドに吸い寄せられる。こんなことしてたらしわになると理性の欠片に押しとどめられて、なんとかかんとか上着を脱いだところで私の理性は吹っ飛んだ。ぶわり、と投げ出された黒い布地が部屋の片隅にあるえんじ色の斑紋をつけた深緑色の球体にかかったのを見届けて、「あ……まぁいいか」と背中からベッドにダイブ。ああ、極楽か。
 そんなことを思えたのは束の間で、素っ頓狂な叫び声が聞こえたと思ったらスーツが飛び上がって襲い掛かってきた。ぎゃふん、と今時マンガでも見かけなくなったうめき声を漏らしてベッドから転げ落ちる。フーッ、フーッと野生の獣そのものな唸り声を上げるそれからスーツをとっぱらって中身を掴み上げた。
「ごめんごめんヒノアラシ。どうどう」
 スーツの中身ことヒノアラシににへらと笑いかけて機嫌を取りにかかるも背中からボン、と炎を吹きだして振り払われた。「うわちゃ!」咄嗟に手を引っ込めて、解放されたヒノアラシは悠々と私の腹に痛恨の体当たりを決めて悠々と定位置に戻っていった。うぐう、乙女の敏感なぼでぃに体当たりをかますとはボーイの風上にも置けないやつめ。というか相当怒ってるねあれ。さすがに反省。
「悪かったってー。ほーらポケモンフーズだよー。モーモーミルクもつけちゃうよー」
 からころとポケモンフーズの箱を揺らして機嫌を取りにかかるもまるで反応してくれない。むう、お腹が減ってイライラしてるんじゃないのか。昔はもっと純真でかわいいやつだったというのに、エサで釣られなくなってしまったか……老けたなぁ。違う?
「んー……じゃ、明日は久しぶりに遊びにいこうか。それで手打ちでどうよ」
 ヒノアラシの背がぴくりと反応したかと思うと、また動きが止まる。もうひと押しか……と思い始めた頃にのそりと顔をこちらに向けて、てとてとと歩いてきた。ああもうかわいいなぁこの子は。ツンデレちゃんか。
 ぐにぐにと頭を撫でて迷惑そうな声を上げられつつ餌皿にポケモンフーズを流し込む。餌皿を押し付けてモーモーミルクをそっと冷蔵庫に戻そうとしたら鋭く呼び止められた。ちぇー、めざといなぁ。
 おいしそうにモーモーミルクを舐めるヒノアラシの姿を見ていたらまぁいいか、って思っちゃうけど。明日ももともとは家でごろごろしてるだけのつもりだったけど、たまにはそんな休日もいいか。


  ――――――――


 ヒノアラシにとって久方ぶりになる外出はやっぱり気分が良い物らしく、普段よりいくらか機嫌がよさそうに形の良いヒップをふりふりと――失礼、軽い足取りを踏んでいた。
 普段は家で留守番を頼んでいるし私はあんまり休みを取れないしで外に連れてやれる機会がほとんど無かったしね。ヒノアラシにとってボールの中で過ごすのと、家の中しか動き回れないとはいえボールの外にいるのとどっちがいいのか本当のところはわからないけれど。なんとなく、ボールの中よりはマシかなぁって出してあげてるけど。いつも部屋の隅で丸くなってるから大して変わらないのかもしれない。
 先を歩いていたヒノアラシの足が、不意に止まった。すっと視線を一方に向けていて、何事かと視線を追うと、そこではポケモンバトルが行われていた。ちょっとしたバトルの交流会なんだろうか、大人も子供も入り混じって、楽しそうな歓声が上がっている。
「ヒノアラシも、やりたい?」
 そう聞くと、ヒノアラシは嬉しそうにうなずいた。じゃあ、行こうか。公園のバトルフィールドを囲む人の輪に加わって、ヒノアラシを頭にのせて適当にトレーナーを物色する。
「お姉ちゃん、トレーナーさん?」
 きょろきょろと辺りを見回していたのが目に留まったのか、オタチをつれた10歳くらいの女の子に声をかけられた。一応ね、と答えてヒノアラシを頭から下ろす。声をかけてきたってことはもちろん、
「目と目があったら?」
「ポケモンバトル!」
 そのやりとりにわけもなく女の子と一緒に笑みを漏らして手近なバトルフィールドに。私側にはもちろんヒノアラシが、女の子側ではオタチが構える。
「ポケモントレーナーのユカリ、行きます!」
「そうね……おとなのおねえさんの、アキよ、よろしく!」
 口上を上げるのなんて何年振りかで、軽く言いよどんだのをもどかしそうに待ったヒノアラシは言い終わるや否や待ちきれないとばかりに飛び出した。見た目からは想像できないスピードで距離を詰め、オタチにタックルを決める。“でんこうせっか”、ね。
「わっ、わっ、速い! んーと、オタチ、“まるくなる”!」
 身を丸めるオタチにヒノアラシは一度距離を取る。一息ついてすぐさま、今度は“えんまく”。黒煙を背中の噴火口から噴き出させ、辺りを覆う。
「オタチ、見えるよね? “みだれひっかき”!」
 煙に身を隠し強烈な一撃を放とうと火炎を口に含ませていたヒノアラシが小さい悲鳴と共に煙からころころと押し出された。私からも見えない煙の中にいたのに、なんでそんなに正確に。
「あれ、なんでわかったの!?」
「へっへーん、オタチの特性は“するどいめ”なんだよ! めーちゅーりつを下げる技なんかへっちゃらなんだから!」
 ど、どうしよう。ヒノアラシの十八番が潰されたら私にできることなんて……。
 私が一人おろおろとしている中、ヒノアラシは構わず果敢に飛びかかっていく。改めて蓄えたらしい“ひのこ”をオタチに吹きかけ、背中から勢いよく炎を噴き出させてオタチを威嚇する。
「オタチ、セメセメで行くよ! “でんこうせっか”!」
 今度はオタチがお返しとばかりにヒノアラシを弾き飛ばす。技による補助がかかったオタチのスピードに対応しきれないヒノアラシは、されるがままに一方的にころころと地面を転がされてしまう。
「あのヒノアラシそろそろやられちゃうんじゃない?」
「トレーナーのねえちゃんの方は何やってんだ? 指示出してやればいいのに」
「ユカリちゃーん! がんばれー!」
 いつの間にか集まっていた野次の言葉が刺さる。指示を出せって言ったって何を指示すれば、私はもう何年もバトルなんかやってなかったんだから仕方ない、私が弱いんじゃない、きっとあの子が強いだけ。いつかの記憶がざわざわと疼いて、私の視線は野次を飛ばしてくる周囲へと向く。私が、何を、したって――。
 ボンッ! と爆発するような音が私の意識と視線をバトルフィールドに引き戻す。見れば、ヒノアラシが背中から噴き出させる炎がいつの間にか全身を覆っている。ころころと転がり回っていたのはこのためだったのか、ヒノアラシは回転の勢いはそのままに、音と光に驚いて動きを止めたオタチへと猛進する。
「オタチ、避けて!」
 ユカリの警告にはっとしたようにオタチは身を捻るが、一歩遅い。ヒノアラシの渾身の一撃が炸裂し、オタチは焦げ目をつけてぱたりと倒れた。
「あ、オタチ!」
 ユカリは倒れたオタチに駆け寄って、無事を確認するとほっとしたように労いの言葉をかけてモンスターボールに収納した。それから、私の方へと顔を向ける。
「対戦、ありがとうございました! もっと強くなって、次は勝ちます!」
「あ、うん、ありがとう。また、よろしくね」
 ぺこりと頭を下げたユカリはポケモンセンターに行くためか輪を抜けていった。しっかりしているし、幾人か一緒についていっている子がいる辺り、人望もあるんだろうなぁ。
「“かえんぐるま”か。良い隠し玉持ってたんじゃないか」
「さっさと使わせてやればよかったのに。あいつ、結構タイミング窺ってたみたいだぜ」
 野次は聞こえないふりをして、胸を張るように帰ってきたヒノアラシの頭を撫でてやる。まったくいつの間に“かえんぐるま”なんか使えるようになっていたのやら。昔は覚えてなかったと思うのだけれど。
「ねーちゃん! 次はオレとやろうぜ!」
 そう出てきたのは元気のよさそうな男の子だった。傍らに連れているのはウパー。確か……水タイプだったっけ。相性が悪いし疲弊したヒノアラシじゃ勝てないんじゃないかな。ここは素直に引こう。
「ごめんね、ヒノアラシも一戦した後だから休ませてあげたいし、また今度……」
「えー、そっちのヒノアラシはやる気まんまんだぜー?」
 見れば、確かにヒノアラシ本人は背中から炎を噴き出させて完全に臨戦態勢に入っていた。ずっとぼけーっとした姿しか見てなかったからすごい違和感あるな。
「ほら、ヒノアラシも無茶しない。さっき受けたダメージもあんまり馬鹿にならないでしょ」
 行けることをアピールするように、ヒノアラシは一際大きく炎を噴き出すけれど、無視。勝てない勝負に出す理由なんか無い。
「だーめ。ほらポケセン行くよ」
 ヒノアラシはそれでも動かずにじっと私の眼を見据える。いつも開いているのか閉じているのかよくわからないヒノアラシの瞳。この時は、それがほんの少し開いているような気さえした。
「…………」
 何秒か経った頃に、急にヒノアラシは炎を収めて目を逸らした。今度はてとてとと私に目もくれず歩き去って行く。
「ちょっとちょっとヒノアラシ! 待ちなさいって!」
 人ごみを縫って歩くヒノアラシを慌てて追いかけて、ようやっと人ごみを抜けた、と思った時にはヒノアラシの姿は消えていた。辺りを見回してもそれらしい影は無い、というかバトル会場なせいでそれらしい影がそこら中にあって目移りして探しににくいことこの上無い。
「う、嘘でしょ……?」


  ――――――――


 ヒノアラシとは私がバカみたいにポケモントレーナーに憧れてトレーナー修行の旅に出る時に、トレーナーズスクールから配給されて出会った。普段はやる気があるんだか無いんだかわからない態度ばっかりだったけれど、バトルの時だけは目を輝かせていたことを覚えてる。たまには待ってられないとばかりに勝手に飛び出すこともあったけれど、私のへたくそな指示でも懸命に応えてくれて、最初のうちは連戦連勝だった。もしかしたら、ヒノアラシにはバトルの才能があったのかもしれない。けれど、肝心のトレーナーである私には才能が無かった。才能だけじゃなくて、根性も。努力をする忍耐さえも、無かった。
 2つ目のバッジまではヒノアラシの力に頼って辛勝ながらもつまずくことなく手に入れていて、却ってそれがいけなかったのかもしれない。いや、仮につまづいていても今度は手に入れたバッジの数が減っただけかもしれない。とにかく、私たちは3つ目のバッジを手に入れるために3度目のジム戦に挑んで、ボロボロに負けた。ジムリーダーどころか、ジムトレーナーに。最初の一匹すら倒すことができず。その様を見たそのジムトレーナーに言われた言葉が、今でも心のどこかに突き刺さってる。

「お前さぁ……ジムバッジ二つも手に入れてきて今まで何してきたんだよ」

 今まで何もしてこなかった。その事実を突き付けられた言葉に、私は耐えられなかった。そう、私は何もしてこなかった。頑張ってきたのはヒノアラシだけ。私は、何もしていない。ヒノアラシをトレーナーとして鍛えるどころか、ヒノアラシにろくに指示を出すことすら私はできなかった。してこなかった。しなくてもなんとかなったから、しようとする努力すらしていなかった。なのに、その言葉でトレーナーでいる自信を無くしてしまった。元々トレーナーだなんて名ばかりみたいなことしかしていなかったのに。
 そして、私はあっさりとプロトレーナーを目指すことをやめた。もう一度ジムに挑戦しようとすることもなく、けれど、すぐに家に帰るのも情けなくて1年くらいは無駄に放浪してたっけか。
 あの時ヒノアラシがどう思ってたのかはわからない。バトルもろくにすることもなくなって、ただぶらぶらとしていた私をどう思っていたか。今も、どう思われているのか。何食わぬ顔でトレーナーの世界からあっさりと身を引いて、バトルとは指先一つ触れないようになっていた私を。


  ――――――――


「はぁ……はぁ……」
 もう公園の中は一周してしまった。ヒノアラシを見かけたという話自体はあちこちで聞けたのだけれど、いたという場所が聞く度にばらばらで足取りが掴めないままに目撃証言すらも聞けなくなってしまった。公園の外にまで行かれてるとさすがに探すのが大変なんだけれど。
 そもそもなんで急に出て行ったのか。そんなにバトルしたかった……にしてもこんな行動する子じゃなかったと思うんだけどな。そもそも睨み合いで根負けするようなヤワな根性の子じゃない。私と、違って。
 でも、けれど。
 あの子が本当にしたいことがバトルなのなら、私の存在はただただ鬱陶しいだけなのかもしれない。バトルから遠ざかるだけの私と一緒にいることなんて、苦痛でしか無かったのかもしれない。もう何年も一緒に居て、今更。だけど、本当にそうなら。
「あー……もう……」
 そんな湿っぽいことを考えるのは後にしよう。今は先にヒノアラシを見つける。それからにしよう。
「あれ、アキ姉ちゃん?」
 不意の声に振り向くと、ユカリちゃんがオタチを抱えていた。回復を終わらせてまた来た、ということだろうか。
「どうかしたの? 汗だくで」
「ちょっと……ね。ヒノアラシとはぐれちゃって」
 逃げられた、と言うのは躊躇ってしまった。子ども相手だからというのもあるけれど、言葉にするのが怖くて。
「そうなの? じゃあわたしもさがす!」
「え? ありがたいけど……ユカリちゃんいいの? せっかくのバトルイベント? なのに」
「いいのいいの! オタチならすぐ見つけちゃうんだから! オタチ、お願いね!」
 きゅう、と一鳴きしてユカリの腕の中から飛び出したオタチはあっという間に姿が見えなくなってしまった。「じゃあ、私はあっちの方さがすねアキ姉ちゃん! 1時間くらいで公園の噴水に集合ね!」とユカリの姿もまたあっという間に消えた。良い子だなぁ、なんて感心してる場合じゃなくて、私も探さなきゃ。なんでヒノアラシが消えたのか、ということからは目を逸らして。



「あ、アキ姉ちゃん……」
 結局収穫も無いままにのこのこと噴水の前までやってきて、いくらか意気消沈しているユカリと合流した。やはり見つけられなかったようで、わかったのはやっぱりもうこの辺からは遠ざかっているらしいということだけ、か。
「あ、オタチ!」
 ちょうど戻ってきたオタチは、くいくいとユカリの服の裾を引っ張ると先立って走り始めた。何をやっているんだろう。
「見つけたみたい! アキ姉ちゃん、早く!」
「うん、ありがとう」
 ああ、そういうことか。ユカリちゃんは本当によくオタチのことをわかっているなぁ。集合場所だって、オタチには伝えていなかったはずなのに、オタチはちゃんと来たし。違うなぁ、私とは。
 走りながら、思う。もしヒノアラシが本当に、ああ思ってたなら。
「ユカリちゃん」
「どうかしたの?」
 この子になら。
「ヒノアラシが見つかった後、もしかしたら一つお願いがあるかもしれないんだけど、いいかな」
「? うん、いいよ。なんのことかわかんないけど」
 不思議そうにしながらも笑顔で答えてくれるこの子は、きっと、良いトレーナーになるんだろうな。



「オタチ、ヒノアラシはこの先に行っちゃったの?」
 こくり、と頷いたオタチは街の外、つまりは道路の前で止まった。ここは、あの日から一度だって訪れたことがない。ここは、かつての私の始まりで、終わりだったから。
「……ユカリちゃん、オタチ、ありがとう。ここからは私一人で探すから」
「え、でもアキ姉ちゃん今ポケモンいないでしょ? 危ないんじゃ……」
「大丈夫。ここは私もよく知ってるから。さっきの話は……明日、1時ごろにポケモンセンターに来れる? お礼もしたいから」
「でも……」
「私一人で会いに行かないと、駄目だと思うから。今日は本当に、ありがとう。助かったわ」
 もう夕暮れだし、これ以上ユカリちゃんを連れまわすわけにはいかない。野生のポケモンが出てくる街の外を、しかも夜に近い中を身一つで出歩く危険性なんて仮にもかつて旅をしていた経験から百も承知だけれど。
 ユカリちゃんがついてくる前に、さっさと歩き出す。道は、わかる。まだ、頭の隅にこびりついて残ってる。
 ヒノアラシがいる場所は、きっとあの丘だから。



「……ヒノアラシ」
 運がよかったのか、野生のポケモンとも遭遇することなくたどり着くことができた丘の上、ヒノアラシはじっと夕陽を見つめていた。振り向くことはない。だから、私はヒノアラシの隣に座る。
「昔、色々あったよね、ここで」
 ヒノアラシは答えない。色々あった。けれど、私は昔のことは考えないようにしていた。思い出さないようにしていた。だから、オタチとユカリに導かれるまでここのことなんてまるで思いつかなかったのだから、そんなこと言う資格はないのかもしれないけれど。
 私たちはここで朝日を見て旅立った。そして、夕陽を見て戻ってきた。
「あの頃は、何も考えないでポケモントレーナーになるだなんて、言ってたっけ」
 けれど、何もせずに戻ってきた。戻ってきたあの日は、どうしてたんだっけ。ふと過去の記憶へと思いを馳せる。
 ああ、あの時は、そうだ。


  ―――――――


「ねぇ、ヒノアラシ。帰ってきちゃったよ、私たち」
 たった一言言われただけで、私は全部駄目なんだと思って。トレーナーを目指す資格なんか無かったんだって。あれからすぐ帰らなかったのは、親に恰好がつかないと思ったから。くだらない見栄。ただ、それだけ。
「私はあの時あんなにあっさり諦めたのにさ、なんでだろう、ヒノアラシ」
 なのに、そんなくだらない私なのに。
「なんで、涙が止まらないんだろう、私」
 本当は悔しかった。本当はリベンジしたかった。本当は努力したかった。本当は強くなりたかった。なのに、なんで私は諦めたの。なんで、なんで、私は。
「ごめんね、ごめんね、私は弱くって。私はすぐに諦めるから。私なんかが、あなたを引き連れちゃって、ごめんね」
 ヒノアラシはじっと夕陽を見つめていた。私はヒノアラシが何を考えてるかなんて本当にわかったことはきっと無い。こんな主人はさっさと見限って外に行きたかったのかもしれない。モンスターボールに縛られているから、仕方なく私と一緒にいるだけかもしれない。けれど、私はヒノアラシをボールから解き放ってあげる勇気も無くて、ヒノアラシを縛り続けている。
「ねぇ、ヒノアラシ。私は、これからつまんない人生を送ると思う。つまらない人生しか送れないと思う。だから、逃げてもいいよ。今なら。一緒に居たら、きっと、私、ずっとあなたを縛り続けるから。逃げるなら今のうちだけだと思う。だから」
 ヒノアラシは、夕陽を見ていた。じっと、日が沈むのを見続けていた。
そして、日が沈んだ。空が朱から藍へ、黒へと変わっていく。星が瞬き始めても、私は蹲っていて、ヒノアラシは地平線の彼方を見続けていた。私は、旅が終わってほしくなかった。私は、旅を止めたかった。私は、ヒノアラシに自由になってもらいたい。私は、これからもヒノアラシと一緒に居たい。私は、私は。
矛盾した本音が入り乱れる。どれか一つを自分で選べないで、ヒノアラシが選んでくれるのをただ待っている。自分の弱さに、吐き気さえしそうだった。
かさりと、ヒノアラシが動く音がした。審判を待つ罪人のような気分でいた私は、ただじっとしていて、叩き飛ばされた。
「え、きゃ、あああああああああああああ!?」
丸めていた身体はころころと丘をくだり、茂みの中に突っ込んでようやく止まった時にはもう右も左もわからない暗闇の中で、
「え、待、ここどこ、ヒノアラシィ!」
 情けない悲鳴を上げた私の前にぼんっ、と暖かい明かりが広がって、呆れたような顔をしたヒノアラシが私を見ていた。
「もう、酷いじゃな……暗くするのずるい!」
 叱ろうとした途端に背中の炎を消すヒノアラシに思わず拗ねるような物言いをしたらくつくつと喉を震わせたような声を出された。笑ってる、のかな。
 また火を出して明かりを灯したヒノアラシはさっさと歩き出して行ってしまって、私はついそれを黙って見送っていたら、それに気づいたヒノアラシが戻ってきて早くしろというように一鳴きした。
 私はまだ、あなたと一緒にいていいのかな。一緒にいてくれる、の。
 漏れた言葉は聞き届けられたようで、ヒノアラシは私なんかとは違ってきっぱりと声を上げて、私の一歩を待ってくれた。
 一歩、やっとヒノアラシに向かって進めた歩を見て、ヒノアラシは前を向いて道を先導してくれた。私はただ、暖かい光に包まれて。そうして私はつまらなくて息苦しい生活へと戻って行った。それでも、ヒノアラシが居てくれるなら。


  ――――――――


「あ、はは。私、何にも変わってないね、あの時から。何も、変われてない」
 すぐに諦める性質も、何もかも。だから、ヒノアラシも嫌気が差したのかもしれない。あの時はまだ見捨てないでくれたけれど、もう、今は。
「ねぇ、ヒノアラシ。もう嫌だったら、またバトルしたかったら、今度こそ、私のところからいなくなっても大丈夫だよ。私は成長できてないけれど、それでも打たれ強くぐらいはなったから。一人でも、きっとなんとかなるから」
 トレーナーを止めた後、普通に働く社会人になって、私は何度折れそうになったかわからない。要領も悪ければ根性も無い私に、社会は厳しすぎた。ずっとヒノアラシに支えてもらってきた。ヒノアラシがいなければ、きっと折れていた。細くて脆い私を、包んでくれていた。だからこそ、
「好きなことをやってもいいよ。私はもう十分助けてもらったから。きっと、ユカリちゃんなら良いトレーナーになってくれる」
 あの子になら、ヒノアラシを任せられる。
 ヒノアラシは、あの時のようにじっと動かないでいた。けれど、今回は日が沈むのを待つようなことはなく、すっと立ち上がる。私の方へ振り向いて、ゆっくりと歩み寄って。
「うぼぁ!?」
 全力の“たいあたり”をどてっぱらに決めてくれやがった。エネルギーの発光も見えたから間違いなく技としての補正もかけてきやがったよこいつ。
「ちょ……別に物理的には打たれ強くなったわけじゃなぐぼぉ!」
 聖母のような受け入れ態勢になっていた乙女になんたる仕打ち。電極を打たれたカエルのようにぴくぴくと蹲りながら顔だけをなんとか上げると、今までに見たことないほどヒノアラシに背中の炎が天高くと伸びていた。それはもう、怒髪天のように。
「え、待、なんで怒っていらっしゃるんです……?」
 黙れと言わんばかりに怒鳴り伏せられるも残念なことにポケモンの言葉は聞き取れない。自分で考えるしかないか。
 えーと……ヒノアラシが出てったのはウパー連れた男の子とのバトルをヒノアラシがやる気満々なのに私が無理に断ったからで、けど別にヒノアラシはバトルしたいのにさせられなかったから怒ったわけではなく……?
「私がすぐに、諦めたから……?」
 相手が水タイプだからって、勝てるわけがないって。ヒノアラシだって自分の属性に関するタイプ相性に関しては知識として理解しているかはわからないけれど本能的には察しているはずだ。それでもなお戦意を失わず、むしろ進んで受けて立とうとしたヒノアラシを信じることもせず、私は諦めた。だから……。
 不満げな顔を残しながらもヒノアラシは炎を納めてくれたので多分正解なんだとは思う。けど、だからって、なんで。
 そう思って、すぐに思い至る。ああ、あの時、諦めたことをあれだけ後悔していたのに、私はまだ諦めるのかって、怒っているのか。別に敵う必要がないことからさえも、逃げるのかって。あの時から何も変わっていないだなんて、何も変われていないだなんて、そんなことを、変わる努力もしてないのにほざくなって、怒ってるのか。
「ごめ……」
 ぴくり、とヒノアラシが眉をつり上げかけたのを察して、慌てて言葉を飲み込む。違うか、私が言うべきことは謝罪の言葉なんかじゃない。
「……私、ね」
 でも、その前に言っておこう。
「ヒノアラシがいなくなった時、本当にこわくなった。ヒノアラシに嫌われたのかって、ついに見限られたのかって。考えてみたら当たり前で、今まで見捨てられなかったのが不思議なくらいだったって、ヒノアラシを探しながら思って、それで、ヒノアラシが本当にバトルの道に進みたかったのなら、今からでも送り出してあげようって、さっきまで思ってたんだ」
 ヒノアラシが、すっと顔を上げる。やっぱり、バトルしたいって気持ちはヒノアラシの中に残っているんだと思う。それでもヒノアラシは昔も、今も、私を選んでくれた。
「でもね、やっぱり私の本音はヒノアラシと離れたくなんてないし、ヒノアラシに嫌われるのなんてもっと嫌。だから、」
 私はそれに応えたい。きっとそれは、私にできないなんてことはないはずだった。できないって諦めてただけだから。
「私は少しずつでも諦めないようにする。すぐに折れない心なんて持てないかもしれない。だから、わがままだけど、これからも私を支えてほしい。私に付き合ってほしい」
 ヒノアラシは、ほう、と一つ息を吐いた。それがどういう気持ちのこもった一息なのか、私には何年と一緒にいながら意志疎通できてないけれど、ヒノアラシは右手を差し出してくれた。いつの間にか覚えていた人間臭い挨拶。ヒノアラシは暖かくて小さいその手を、握らせてくれた。


  ――――――――


「あ、ユカリちゃん! 遅れちゃってごめんね……なかなか仕事を抜け出せなくって」
 翌日の午後1時半。約束より随分と遅れた私を笑顔で迎えてくれたこの子はつくづく良い子だなぁと思う。爪の垢でももらおうかしら。
「大丈夫だよアキ姉ちゃん! それで、ヒノアラシはちゃんと見つかった?」
「うん。ほらヒノアラシ、挨拶して」
 ボールから出されたヒノアラシはユカリちゃんの姿を認めると深々と頭を下げた。「うちの馬鹿が迷惑かけまして」と言いたげな背中に何も言えないのが悔しいけどあんたもわかりづらいのよ。というかつくづく人間臭いなぁ、うちの子。
「ご飯って食べちゃった? それならどこかでパフェぐらいご馳走しましょうか」
「え、いいの?」
「それじゃあ足りないくらいよ、本当は。他に何かあればなんでもどーんと来ていいわよ?」
「え、じゃ、じゃあ!」

 というわけで頼まれたのは高さ1メートルはあろうかというジャンボパフェでした。一度食べてみたかったけど高くて手が出なかったとのこと。物理的にも高いこれは空きっ腹に響く。
「おいしいね、アキ姉ちゃん!」
「う、うん……。おいしいけど食べきれるかなぁ……」
 口の端にクリームつけてパフェにがっつくユカリちゃんは可愛らしいのだけれどすでにだいぶペースが落ちているのが不安感を煽られる。まだ5分の1も消化してない……というか私の昼休みもそろそろやばい。
「そういえばわたしに頼みたいことってなんだったの、アキ姉ちゃん」
「うん? あ、そうだ、その話もしに来たんだった」
 とは言っても、昨日考えていたこととは違ったものになっているのだけれど。けど、彼女にお願いしたいこと、というのは変わらない。
「また、ポケモンバトルしてもらいたいなって。今日はちょっとできないんだけれど、来週、どう?」
「うん、いいよ! バトルならいつでも! 今度は負けないからね!」
「ありがとう。来週、楽しみにしてるね」
 私は、またポケモンバトルを始めることにした。また旅するトレーナーってなるにはまだ決心がついてないけど、少しづつ。ヒノアラシの気持ちも汲んであげたいから。それに、バトルへの諦めを乗り越えることから始めないと、駄目だと思ったから。それを乗り越えて、やっと進める、そんな気がして。
 その最初の一歩をユカリちゃんに手伝ってもらいたいなんて思ったのは、贅沢かもしれないけど。ゆっくり進ませてね、なんて誰にともなく言い訳しちゃうくらいは許してほしい。
 さて、後はこいつをどうやって片づけようか。もう手が止まったユカリちゃんと刻々と進む時計を見ながら切に思った。

BACK | INDEX | NEXT

流れ水 ( 2013/10/03(木) 22:20 )