同じ空の下で - 最後のバトル
最後のバトル
 炎が爆ぜ、闇がうねる。ブースターの放った火炎の蕾は身を屈めたブラッキーの毛皮をわずかに掠るが、咲くこともなく地に消えた。わずかにできるブースターの隙、それを逃がさずブラッキーは肉薄し、先ほど不発に終わった“だいもんじ”のエネルギーの残滓を吸い取るように濃さを増した闇を叩きつけた。
「ブースター!」
 衝撃に身体が浮く。けれど、声に応えるように、ブースターは倒れない。尽きそうな気力にしがみつき、ありったけの闘志を四肢に込める。
「決めてくれ、“ばかぢから”!」
 全身の筋肉を爆発させるように、地を抉り跳び上がる。渾身の力を込めて、振り上げた前肢をブラッキーに叩きつけた。
「これで……!」
 舞い上がった砂煙に目を凝らす。勝利への期待と不安。これで決まっていなかったら、もう、
「ブラッキー、“しっぺがえし”!」
 凛とバトルフィールドを通る声、砂煙を裂く黒いエネルギーの余波。ブースターに、その一撃を耐えることはもちろん、避けるだけの体力も残っていない。ふわり、と吹き飛ばされたブースターが目の前に堕ちてくる姿は何故だかゆっくりと見えた。
「ブースター戦闘不能!よって、勝者四天王カリン!」
 無慈悲に下されたその審判に、俺の頭の中は真っ白になった。
 これでもう、俺のトレーナーとしての生命は絶たれた。



「負けちまった…なぁ…」
 もう日が暮れかかり、街に戻るような元気もない俺はポケモンリーグの宿泊施設に泊まることにした。
 ポケモン達の治療も終わり、手持ち無沙汰になって、今はただリーグの外に広がる花畑に身を埋めて夕陽を眺めている。
 思わず洩れた俺の呟きを聞き取った俺の相棒、ブースターは俺を慰めるように顔をなめてくれる。それをこそばゆく感じながら、俺は旅に出た時のことを思い出していた。





  ――――――――――





「駄目だ。お前は将来私の会社を継ぐんだ。ポケモントレーナーになるなど許さん!」
 十年前、一般的に旅に出て良いとされる年齢の十歳になった俺は、親父に旅に出たい旨を告げたら容赦無くそう突き返された。理不尽だと喚いても親父は聞く耳を持たない。勝手に出て行こうにも、仕送りが無いのはともかく最初の元手すら無くてはさすがに無理があった。
 親父はポケモンにはビジネスに関する時を除いて全く興味を示さない人間ではあった。けれど、何の話も聞いていなかった会社を継げなどと言われ、夢を真っ向から否定されるとは思ってもいなかった。
「なんでだよ!父さんの会社を継ぐなんて聞いて無いし、なんでそんなことで俺がトレーナーになるのを諦めなきゃいけないんだよ!」
「馬鹿者が!ポケモントレーナーで飯が食えるか!そんなことをしている暇があったら勉強して社会に通用する力をつけろ!」
 いつまで経っても、話は平行線を辿るだけだった。そうこうしている間に、旅に出ることを決めた同級生達は続々と町を離れていく。旅に出るようなやつなんて全体の三割にも満たない程度ではあるけれど、それでも心なしか活気が少なくなった学校に、俺は「まだいるのかお前は」と言われているようでいたたまれなくなった。
 いっそのこと旅に出ることを諦めてしまえばこのいたたまれなさはなくなるだろうな、と一時は諦めかけた。

 けれど、そんな時だった。テレビで俺と同い年だという赤い少年を見たのは。十歳にして破竹の勢いでジムを突破しているという話に、俺の気持ちは再び燃え上がった。
 彼は一人で巨大な犯罪組織だったロケット団を壊滅させ、瞬く間にポケモンリーグチャンピオンまで上り詰めた。
 俺と同い年のやつがそんなすごいことをしている。そのことが俺を粘らせ、ようやく親父を折らせた。12歳になってトレーナーズスクールを正式に卒業したら旅に出ても良いと。
 けれど、親父は俺に一つ条件を課した。それは、“二十歳になるまでにチャンピオンになるか、それと同等の実績を残す”こと。
 正直な話、俺はトレーナーズスクールでもポケモンバトルの成績は芳しいものではなかった。それでも、可能性があるならとその条件に飛びついた。
 けれど、その結果はこの通りのものだった。俺は、もうトレーナーとして生きることはできない。





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「ごめんな…ブースター。一緒に最強のトレーナーになろうって約束したのにな。それこそ、あの“レッド”ってやつを倒せるくらいになろうって…」
 もうこいつとの付き合いも十一年くらいになるのか。思えば、最初はこいつとの他愛もない約束からだった。“最強になる”。トレーナーズスクールにいた頃“勝ち知らず”だった俺達は、いつかみんなを見返してやろうとそんな約束を交わした。途中からは、あの赤い少年という目標を持って。 子どもじみた約束。けれど、その約束を果たすために俺は親父に噛み付き続けて旅に出た。

 かつて俺が憧れた少年は、今はどうしているんだろうか。一時はチャンピオンクラスのトレーナーでも登ることは難しいと言われる霊峰、シロガネ山に篭っていたそうだが、今はもうそんな話は聞かない。
いつからだったか、確か6年前にレッドには及ばないものの、かなりの若さでチャンピオンになったという少年が現れた頃だったか。
 彼も確か、ジョウトで復活したというロケット団を再び壊滅に追いやっている。
 俺は、彼らの足元にも及ばなかった。
八年間必死に修行し、七年かかってようやく八つのジムバッジを集め、結局はチャンピオンにまみえることも叶わず終わった。
 あと一歩踏み出すことができていれば、あるいは彼らに追いつくことができたのだろうか。
 それとも一生追いつけない距離があったのか。それを確かめることすらできないまま、俺達の道は断たれた。

 八年だ。どれだけ、どれだけ頑張ったと思ってるんだよ。あの少年が一年で通った道を、八年もかけて通ってきたんだぞ。何回くじけそうになったと思ってる。才能の差をどれだけ感じながら這い上がってきたと。なのに、なのになんで、四天王を三人も倒せるほどになった。なのに、なんで、トレーナーを止めなきゃならないんだよ。あの親父はどうせお構いなしだ。なんで、なんで、
「くそ……くそっ……!」
 喉がしゃくり上がる。二十にもなってこんなのダセェ、と抑えこもうとしても、嗚咽は勝手に洩れ出てきた。
 ブースターは、何も言わずにただ俺に身体を押し付けてくれる。俺はブースターに甘えるように、その温もりに顔を埋めた。

 どれくらいそうしていただろうか。いつの間にか日は落ちて、星が瞬き始めていた。風が冷たかったけれど、まだ動く気にはなれずもう少しだけと夜風に当たる。
 いっそこのまま逃げ出してしまいたい。そんな気持ちが無い訳は無かった。親父の出した条件には満たなかっただけで、トレーナーとして食っていくには十分な力を付けた自信はある。このまま夜闇に溶けてしまえば―――そんな誘惑に、駆られないわけは無かった。
 けれど、親父にそんな不義利を働きたくない気持ちもあった。別に親父が嫌いな訳じゃない。旅を出たいと言った時のごたごたは確かにあったけれど、それ以外は良い親であってくれた。いざ旅に出る時には援助を金銭面では惜しまないでくれた。そもそも、あの少年という年齢的には比較対象にしやすい存在がいたにも関わらず、一年でチャンピオンになれなんて言ってこなかった。
 だから、それで? こいつらと一緒に旅することを止めるのか? それとも親父から逃げて後ろめたい気持ちを抱えながら届くかどうかもわからない「最強」を目指すのか?
 ああ、その夢を追うには半端に大人になっちまった。図体だけでかくなって、どうしようもない現実も見てきて。無邪気に「最強」を目指すだなんて言えなくなっちまった。その癖トレーナーを諦めて親父の跡を継ぐなんて割り切れる程夢を捨ててなくて。
 中途半端だ。四天王に勝つこともできなかったくせに。要は勝つか負けるかの話だったのに、負けた上でぐだぐだ言ってるだけだ。
「ブースター……俺、どうしたらいいんだろうな。いや、本当はわかってるんだ。でもさ、俺は、まだお前らと……」
 言いかけて、ブースターが不意に身体をよじって俺の腕から抜け出した。耳を立てて空を見上げ、警戒するように小さくうなり声を上げる。何が、と俺も立ち上がり空を見上げた瞬間、それは来た。
「ぶわっ!」
 それが降りてきた衝撃で吹き荒れた烈風に押されたたらを踏む。ばさり、と重く響く羽音に、俺は顔を庇っていた腕を解いて、そして目を見開いた。
 目の前にいたのは、山吹色の鱗に緑翼を持つ竜。海の化身とも呼ばれ、そして何よりセキエイリーグ・現チャンピオンの一番の相棒として知られる―――。
「あなたは……」
 カイリューの背から、ひらりとマントを翻らせて一人の男が降り立つ。
「セキエイリーグチャンピオン・ワタル。と言っても、君はもう知っているかな?」
 後一歩で届かなかった存在が、目の前にいた。
「チャンピオン、と言っても最強ではないかもしれないけどね。かつておれを倒したトレーナー達が腕を落としていなければ」
 そう言って、チャンピオンは口の端を上げる。それは、かつて惜敗を呑んだ人物と再戦しても負ける気はないという自信の表れか。
 事実、彼が公式戦で負けたのは6年前が最後。それまで彼を倒した少年達がチャンピオンの座を望まなかったということで落伍を逃れたチャンピオン、という中傷を、以前より磨き上げられた実力で叩き潰してきた。紛うことなき強者の風格を、確かに纏わせている。
「それで……チャンピオンが何の用ですか。敗者の俺に」
 刺々しくなった心情を押し殺すことができないままに言葉を紡ぐ。後悔の念も沸くが、挑戦権を持たない俺には、チャンピオンの存在はただただ目に毒だという感情が非礼を詫びる考えを押しつぶす。
「実は、君の父上から電話がかかってきてね。おれに電話を替わるように言われたらしくて、彼はスポンサーでもあって無下に扱えないし、話を聞くだけならと出たんだ」
「…………!」
 わざわざか。ご丁寧にそこまでして、俺を後継ぎにしたいのか。リーグ挑戦の様子は生放送でテレビに流れる。俺が負けたのを見て、嬉々として連絡をかけてきたのか。いや、それならなんでチャンピオンが出てくるのか。とりあえず話は聞くか、と耳を傾けた。
「それで、君がトレーナーを辞める……いや、辞めさせられる、かな? その話を聞いた」
「そう……ですか」
 それで、チャンピオンは何をしにきたんだろうか。俺に逃げないように言えとでも言われたのか。そんなことで直々にお出ましなさるのかと冷めていく心に、意外な台詞を投げられた。
「その後、頼まれたんだ。『もし貴方の目に留まる程あいつが強くなっていたなら、最後の手向けにあいつとバトルしてやってくれませんか』って」
「は……?」
 そんな事を、あの親父が?ポケモンのことなんかまるで関心がなかったあの親父が?
「『私はポケモンのことを、ましてやトレーナーのことなんか全くわかりませんが、彼らにとってはそういうことが光栄なことなんでしょう?なら、お願いします』とね。それで、僕はここに来た」
 つまり、それは、チャンピオンに戦ってもいいと思われたということか。
 それだけ、俺は強くなれたのか。
「おれとしては、それが本当なら君と戦える機会はこれで最後だろうからぜひとも戦ってみたいんだけれど、君はどうかな?」
 八年間待ち望んだ戦いが、目の前にあった。けれど、けれど、もし今戦ってしまったら、それはもうリーグの舞台でチャンピオンと戦うことなどできないと認めるということで、
「あ……」
 ここで、決めなければならない。ポケモントレーナーであることを辞めるか、それとも、逃げてでもトレーナーであり続けるか。トレーナーでありたいなら、こう言えばいい。「リーグで待っていてください。いつかそこに行ってみせるから」と。
 ワタルは俺の揺れる瞳を見据え、待っていてくれている。きっと、彼はわかっている。俺が迷っていることを。だから、親父の無茶苦茶な頼みに応えて来てくれたのだろう。
「俺は……ごふっ!?」
 まだトレーナーを、そう言いかけた時、腹部に強烈なタックルを受けた。濁った声を出しながら地面に押し倒されて、目を回して見上げればブースターが俺を見下ろしていた。
 鋭く一鳴きして、ブースターはじっと俺の眼を見据える。本当はわかっているんだろう、そう言われているようだった。
 ああ、そうだ。これは勝つか負けるかの勝負だった。ずっと前から、決めていたんだった。
「…………」
 目を閉じて、3秒。大きく息を吸って、吐いて、目を開ける。空にはすでに満天の星空が広がっていった。ああ、確かに、終わるならこんな日が最高だろうな。そう、思えた。
 ブースターはさっと俺から降りてワタルと、カイリューと向き合った。後は、俺が立つだけだ。
「ブースター、やるぞ!」
 ワタルが、少し驚いたように目を見開く。次いで、口の端が自然と上がった。
「チャンピオン。俺のトレーナーとしての最後のバトル、お相手お願いします!」
 目の前にいたチャンピオンは、先ほどまでとは全く違う雰囲気を纏っていた。穏やかさは塵と消え、竜が如き威圧感が空気を押す。これが、チャンピオン。ああ、最高だね。最っ高の幕引きだ。
「そうこなくっちゃ」
 チャンピオンが呟き、竜は吠える。俺はただ、相棒の名を呼ぶ。ブースターの雄叫びが、夜闇を震わせる。
 これほどまでに心躍るバトルは二度と無いだろう。だから、
「ブースター、全力で行くぞ!」
 きっと、これから俺はつまらないと思っていた大人になるんだろう。夢を終える少年の時代は終わるんだろう。だけど、俺は今この瞬間を忘れない。この気持ちを、あの星の輝きを。
 俺たちは確かにここに居た。そのことを空に刻みつけるように、ブースターの火炎は空を焼いた。

流れ水 ( 2013/02/15(金) 18:55 )