第2章 第2話 夢やぶれて
宿舎に到着したリーフとアカネはすべき事を迅速に済ませた。
自転車を置き、シャワーで身体の汚れを落とし、洗濯物を備え付けてある洗濯機に入れる。
簡単な食事を取り、部屋着に着替えると2人はソファに座り思い切り伸びをした。
「今何時?」
「7時ちょっと前位かなぁ。
旅の間は時間がかかるものとか作れへんけど、栄養だけはバランス良く取っておきたいわ」
基本的にその場所で捨てられるものか、外の場合はゴミをあまり出さないものが推奨される。
使い捨ての紙皿・紙コップの使用は勿論、移動に時間がかかる時は携帯食がかかせない。
今回の食事も缶詰やパックされた御飯、プラスチック容器に入ったサラダ等が中心だった。
「とりあえず、明日は自転車を見に行こか。リーフはんも自転車を持ってれば移動が楽になるやろ?」
「ええ。迅速に行動すると言う意味でも、自転車と言う『足』は手に入れておきたいわ。
お金に余裕があるワケじゃないし、なるべくなら無用な野宿は避けないと」
アカネはタウンマップを眺めながら欠伸をし、眠い目を擦りながら旅の行程を確認した。
「へぇ、カントーにも島にジムがあるんやね。
タクシーの様に使える高速船またはフェリーが便利って書いてあるけど」
「お金がかかる分、切り詰めていく必要はあるわ。
問題は自転車を買う余裕も無いと言う事よ。何とかこの街で稼ぐ方法を探さなきゃ」
ククイ博士から渡された金は1万。とても自転車を購入出来る様な額では無い。
この世界においての自転車は自動車よりも高級志向が強く、7桁の値段になる様な自転車も珍しくなかった。
「バイトみたいな気長な方法を考える事も出来へんし、そこは考え所やね。
ウチが買った時は買うのも大変だったんよ。20万位はしたかなぁ……」
リーフが驚き、働いて稼いだのかと尋ねようとした時にドアを叩く音が聞こえてくる。
「カスミさんかしら」
リーフが鍵を開けドアを開けると、両手に買い物袋を提げたカスミの姿があった。
「こんばんは!一緒に飲みながら話そうと思って一杯買ってきちゃったわ」
白いTシャツに灰色のジーンズ。腰にはモンスターボールが入ったポシェットが装着されている。
リーフはカスミを中に招き入れ、鍵を閉めた後彼女の方を見た。
「私達、未成年だからお酒は飲めませんよ」
「心配しないで。私も未成年だし。あと1年で飲める様にはなるけどね……
子供の頃から背伸びして、お酒が飲める様になる事をずっと待っていたものよ」
机の上に置いたビニール袋から瓶ラムネやスナック菓子を取り出すと、カスミは2人にそれぞれ瓶を渡す。
彼女も椅子に座り、ラムネを一口飲んだ後快活な笑顔を見せた。
「冷やしておいた甲斐があったわね。貴方達も飲んで飲んで」
リーフはラムネを飲むのが生まれて初めての経験だったが、その美味しさに頬が緩む。
「美味しいですね、コレ」
「冷たくてこの時期には良いでしょう。ハナダではよく飲まれているのよ」
ラムネはイッシュ地方から伝わり、『レモネード』を聞き間違えた事でこの名前になったと言われている。
ポケモンが好む『サイコソーダ』とは少し味が異なり、疲れた身体を癒やす清涼剤として親しまれていた。
「そういえばカスミさんは、自転車を購入した事とかあります?」
リーフはカスミから情報を得ようとしたが、カスミは首を横に振った。
「高いし、私には不要だからね……この街の自転車、本当に高いのよ。
一番目立つ所に飾られている自転車なんて100万円もするんだから」
「100万円!?それは、ちょっとやそっとの頑張りじゃ届かない値段ですね……」
リーフはソファに座った状態で拗ねる様に体育座りの様な姿勢を取ったが、カスミはフォローする様に話を続ける。
「ただ、噂によると『自転車引換券』みたいなものがこの街で出回ってるみたいね。
実際にサイクリングショップに行って店長のコルニちゃんから話を聞いた方が早いと思うわ」
カスミはソファにもたれかかり、また一口ラムネを飲んだ後両手を頭の後ろに回した。
「コルニちゃんは若くしてサイクリングショップを立ち上げて……刺激を沢山貰っているの。
彼女が頑張ってるんだから、私もジムリーダーとして頑張らないとね」
机の上に袋を開いた形で広げられているスナック菓子をつまみながら、アカネはカスミに質問する。
「カスミはんは……どうしてジムリーダーになろうと思ったんですか?」
「最初はジムリーダーになるつもりじゃなかったのよ。
私には遠く離れた所で水泳の選手として活躍している姉がいるんだけど、私も同じ道を歩もうと思ってた」
昔を懐かしむ様に、カスミの目は遥か遠くを見つめている様に感じられた。
「五輪でメダルを獲れる様な選手を目指して、一心不乱に練習を続けたわ。
タイムも徐々に縮んできて、これなら姉と一緒にやっていけると思っていた。
でも、忘れもしない2年前の合宿中。私は派手に足を攣ってしまったの」
カスミはふくらはぎの部分に手を当て、その後右肩にも手を添えた。
「姉に追いつきたい、追い越したいと思う気持ちが強過ぎたせいで起こしたオーバーワークが原因だった。
今でもスピードを出して泳ごうとするとふくらはぎが痙攣を起こしたり、肩に違和感が出たりする。
私自身の健康の為に、競技人生の幕を下ろさなければならなくなってしまった」
焦りが生み出した悲劇。リーフはカスミの情熱と苦難が他人事とは思えなかった。
彼女も急いだ結果倒れてしまっている。それでも焦る気持ちを抑えられない気持ちはよく解っていた。
「元々ポケモンと一緒に泳ぐ事が好きだったし、バトルも好きだったからそっちの方に転向して……
ポケモンに頑張ってもらう形でジムリーダーになる事が出来た。
オーバーワークなんてものが無いポケモンが羨ましいわ。
人間はポケモンと違って本当に脆い生き物。故障してしまったら、簡単には治らない」
カスミの目には何時の間にか涙が滲んでいたが、彼女は過去と決別するかの様にその涙を拭う。
「私の夢は不本意な形で終わってしまったけれど、他の人の夢は続いていく。
だから私はジムリーダーの仕事と同時にジムでのスイミングスクールを始めた。
私が教えた生徒の中から、私の様に世界と戦って、勝っていける様な人が出てきてほしい。
それが私の新しい夢かな。立ち止まっている暇なんか無いわ」
世界選手権で優秀な成績を収めている姉の背中は、今でも追い続けている。
カスミの中では『人任せ』と言う葛藤こそあれどその道にしか進めない事は解っていた。
だからこそ彼女は迷わずに、今選べる道を全力で歩んでいる。リーフは彼女の生き方に共感を覚えていた。
「貴方の夢は、聞かなくても解るけれど……そこに辿り着くまでには数多くの困難が待ち受けているわよ」
「カントーのリーグで優勝して、チャンピオンになって、トレーナーとしての価値を証明する。
少し前まではそんな事を考える事すら出来なかった私ですが、今は不可能では無いと思っています」
その真っ直ぐな瞳を、カスミは過去にも見た事がある。
姉と、自分自身が目に宿していたもの。その熱を持っている人間は誰よりも強い。
カスミは立ち上がりリーフのもとへ歩み寄ると、彼女の肩に手を置いた。
「陳腐な台詞かもしれないけれど、『為せば成る』と言うのは貴方にピッタリな言葉かもしれないわね。
平坦な道じゃない。私がかつて経験した様に挫折する事もあるかもしれない。
でも、走り続けていればきっと光が見えるわ。その事を忘れないで頂戴」
リーフはしっかりと頷き、アカネはリーフに対してエールを送るかの様に拍手した。
(ウチにはそこまでの覚悟、持てるんかな……どんな障害が待ち受けていてもそれを乗り越える様な力と覚悟を。
リーフはんの近くで学んで倣えば、その半分位の覚悟は得れるかもしれへん)
アカネもまた、カントーで自分の強さを証明したいと言う夢がある。
夢が実現しなかったとしてもその人間の人生は続いていき、戦いが終わる事は無い。
リーフはそう思いつつ、カスミとの対戦でも己に恥じない試合をしたいと強く願った。
「恋愛?10年前にちょっとそれに近い事があったかしら。
でもアイツ、そういう事に興味が無くってね。私と同じで強くなる事しか考えない奴だったから。
19歳にもなってデートした事も無いのよ?私。そろそろ身を固める事も考えなくちゃいけないのに」
他愛も無い話で盛り上がり、ラムネの瓶もどんどん空になっていく。
スナック菓子も無くなり、時計が9時を回った所で『歓迎会』はお開きとなった。
「リーフちゃんも、今はいなくてもきっと良い王子様が現れるわよ。
あのバトル馬鹿にもちょっとは可愛い女の子が付けばいいのに。
私にも言える事だけど、やっぱり1つの事だけ考えていると他の事なんかどうでもよくなっちゃうから」
瓶と袋をまたビニール袋に詰め、帰り支度をするカスミ。
リーフは彼女ともっと話がしたい位だった。彼女が自分と同じタイプの人間だったからだ。
(一生懸命に生きて、迷いが殆ど無い。でもカスミさんは私には無いものを持っている。
太陽の様な明るさと人の心に入っていける包容力と優しさ……
カスミさんの様な人になりたい。でも、私がなれるのかな)
羨む様な視線に気付いたのか、カスミは玄関で振り返りリーフをじっと見つめる。
「私は姉さんみたいになりたかった。寧ろ今でもそう思ってる。
でも……私は私なのよね。他の誰になれるワケでも無い。
だから私自身の生き方を模索しなくちゃ。今はまだ完全には見つかっていないけど、いずれきっと見つけてみせるわ。
貴方もきっと見つけられるわよ。それが数ヶ月後なのか、数年後なのかは解らないけどね」
扉を開け、自宅へと帰っていくカスミ。
「今日はどうも有難うございました!」
背中を向けたまま手を振るカスミの姿が見えなくなるまで、リーフは彼女をじっと見つめ続けていた。