第2章 第1話 ハナダの『おてんば人魚』
ココは ハナダシティ ハナダはみずいろ しんぴの色
夕闇が完全な夜に変わろうとする午後5時30分頃、リーフとアカネはハナダシティに到着した。
「ニビより人が多くて賑やかな所やね。一番栄えとる所と比べるとそうでも無いんやろうけど」
街の中央付近に巨大な貝殻を模した様な建物がそびえ立ち、その周囲を囲む様に様々な施設が並んでいる。
「あら、サイクリングショップで書いてあるわ。余裕が出来たら寄ってみたいわね」
「カントーの自転車は性能は抜群やけど高いって評判やんか。
ジョウトのはそこまでやないけど安いんや。どっちが悪いって話や無いで」
自転車と言っても、高級なマウンテンバイクは数十万以上するものがある。
そこにブランドが絡めば100万円を超えるものも現実世界では珍しくない。
「ニビシティと同じ様に宿舎に泊まる事になるのよね」
「ジムリーダーに許可を取るのが先やな。ジムが閉まってなければええんやけど……」
宿舎で休息を取る為にも、ジムリーダーに会う必要がある。
そう思った2人はハナダシティジムへと向かった。
ニビシティジムよりも大きなドーム型の建物は、見ているだけで人を委縮させてしまう。
「怖い人じゃ無い事を祈りましょう」
「怖い人なんて嫌やわ。そんなん戦うのも辛くなるで」
入口のドアが自動で開き、まだジムが閉館していない事が解った。
部屋の奥にある大きな扉の右隣に赤色の扉、左隣に青色の扉が見えている。
「受付の人もいないみたいだし……どの扉に入るのが正解なのかしら」
「まずは中央の扉から入ってみようや」
中央の扉も入口と同じ様に自動で開き、さらに奥の部屋の照明が2人を照らした。
2人の目の前に広がっていたのは巨大なプールだった。
遊園地にある様な流れるプールでは無く、飛び込み台やコースロープがある『競技用』のプールである。
「凄い、1度に10人以上の選手が泳ぎを競えそう。私、実際に見るのは初めてよ」
「本格的なスイミングプールやなぁ。多分50メートルはあるやろ。
ウチ、泳ぐのは苦手やからこういうのは見るだけで鳥肌が立ってくるわ」
2人は巨大なプールを凝視していた為、近付いてきた女性の接近に気付く事が出来なかった。
「あら、スイミングスクール入学希望?それとも、私に挑戦する為に来たのかしら」
歳の頃は恐らく20歳前後だろうか。
オレンジ色の髪は頬の辺りで跳ねており、純白の水着の上に薄手のジャケットの様なものを羽織っている。
にこやかな笑顔を絶やさず、厳格な人物と言うよりは愛嬌がある様に見えた。
「ジムリーダーに挑戦したいんですけど、この街に辿り着いた時間が時間ですし……
とりあえず、宿舎に泊まる為の許可を先に貰っておこうと思いまして」
たどたどしい標準語で丁寧に喋ろうとするアカネ。
それが可愛らしく見えたのか、2人の前に現れた女性はアカネの頭を撫でる。
「おっけーおっけー。このカスミさんにまっかせなさい!
……とは言っても、ジムリーダーの許可が必要なのはリーグ規定で既に決まってる事だけどね」
裏表の無さそうな、明るい女性だった。
彼女がそこにいるだけで周りが賑やかになり、彼女に関わった者全てが幸せになる。
人を魅了する天性の才能を備えているかの様だった。
「宿舎の方は2、3人泊まってるけど空きはあるから心配しなくていいわ。
あと私に挑戦するなら午前中にして頂戴。午後はスイミングスクールのコーチの仕事があるから」
「スイミングスクール……水泳を人に教えてるんですね」
「子供達に水泳の楽しさを教えるのと同時に、私が果たせなかった夢を叶えてもらいたいと思ってね。
世の中って言うのは全部が全部上手くいくもんじゃ無いのよ。
だからこそ人生は面白いって言えるのかもしれない」
カスミの笑顔が一瞬、暗い影に覆われた様な気がしたがそれは一瞬の事だった。
また人を安心させる朗らかな笑顔で初対面である2人にも気さくに話しかけてくる。
「じゃあ、そういう事で。宿舎は『D』を使って頂戴。
後でそっちに行くかもしれないから予定を開けておいてもらえると助かるわ。
最近話し相手がいなくてね。仕事ばっかりで疲れてて」
カスミはそう言うと踵を返し、プールサイドの奥に見える扉の向こうへ歩いていった。
彼女達は後に知る事となるが、受付とロビーがあった部屋の奥にある赤と青の扉の向こうにあるのは『更衣室』である。
当然男女別にする必要があり、それぞれにシャワーを浴びる事が出来るフロアが用意されていた。
「多分、彼女しか入れないスタッフ専用のルームやろな。流石にココには住んでへんやろ」
「ジムリーダーって御給料が凄く良いって聞いた事があるし、住居は別にあるでしょう。
……お金があって、慕われていて、皆の尊敬の対象になれる。
どれだけ幸せを積み重ねても、『夢』はずっと続くのね」
カスミは満たされておらず、何かを渇望している。
それが何かはまだ解らなかったが、ヒカリは彼女と話していた時彼女の中にある『自分』を見ていた。
(私と同じ様に、傷を抱えている。普段それを表に出そうとしないだけで。
私があの人を救う事は出来ないだろうけど、せめて愚痴だけでも聞いてあげられたら……)
リーフもまだ完全に闇から抜け出せたワケでは無かったが、自分と同じ様に何かを欲してもがき苦しんでいる人間を見るのは辛かった。
力になれないとは解っていても、何もしないと言う道を選びたくは無い。
リーフはアカネの顔を真剣な表情で見つめていたが、やがてアカネは頭の後ろで手を組み微笑んだ。
「ええよ。何を言いたいのか何となくやけど解るわ。
超が付く程の御人好しやねぇリーフはんは……ま、ウチはリーフはんがそういう人やからついてきたんやけど」
ロケット団と戦い、グリーンを相手にして相当に疲れている。
本来ならば宿舎に向かった後即座にベッドの中に飛び込んでも誰も咎めはしないだろう。
だがリーフはこれから互いのプライドを賭けて戦う事になるであろう相手の事を出来るだけ知っておきたかった。
外面では無く、内面。心の奥まで覗けるのならば覗いてみたかったのだ。
2人は一旦ハナダシティジムの外に出るとポケモンセンターへ向かった。
「こんばんは!ポケモンセンターへようこそ。ポケモンの回復ですか?」
「ええ、お願いします」
リーフもアカネもポケモンを回復してもらい、また突然バトルを申し込まれた時に備える。
(グリーンみたいに、こっちの準備が整っていようがいまいが勝負を挑んでくる人は必ずいる。
理不尽と言うよりも戦術と言うべきなのかもしれない。
私達はそういう向かい風にも、真正面から堂々と立ち向かっていかなくては)
センター内のロビーは人が多く、親子連れやカップル、バックパッカーらしき人物の姿もあった。
「主要な道路に囲まれた街っちゅう地理的な部分も関係しとるんやろな。
住むにしても仕事の為に来るにも便利な街やし」
『カントー地方はタマムシシティとヤマブキシティが街の規模のNo.1を争っている状態ロ。
タマムシシティには巨大なデパート、ヤマブキシティにはシルフカンパニーと言う超巨大企業があるんだロ……
その二大巨頭に比べれば、ハナダの賑わいはまだ静かな方だと思うロ』
今まで『外』を殆ど知らずに過ごしてきたリーフにとって、これよりも騒々しく人が群がっている場所があると言うのは信じがたい事だった。
通りを歩くのも億劫な程人が密集している光景を思い浮かべると、気が遠くなりそうになる。
(人との触れ合いは大切にしたいけど……人だらけの場所はハッキリ言って好きじゃないわ。
人の欲望までもが集まってくる感じで気が滅入ってしまうもの)
ポケモンセンターに長居する用事は無い為、すぐに外に出たい。
リーフがアカネにそう頼むと、アカネもそれが良いと賛同してくれた。
「宿舎でゆっくりしようや。人がいる所にいても旅の疲れは取れへんよ」
アカネの優しい言葉が、リーフにとっては何よりも嬉しいものだった。
そのまま入口に向かい、自動ドアをくぐる。
「!?」
それは本当に一瞬の事だったが、全身の毛が逆立つ様な『恐怖』が全身を走り抜けていった。
同じタイミングで隣を通り抜けた青年。
見た目はそれ程奇妙では無かったが、肌でとてつもない『違和感』を覚える。
「どうしたんや?リーフはん」
「……ううん。何でもないわ。先を急ぎましょう」
背の高い、黄緑色の髪の青年だった事は目で見て解った。
だがその見た目だけではない、彼から発される『空気』が異質なものだったのだ。
それは身体や心が無意識に『危険』だと訴える様な、科学では説明出来ない感情である。
ロケット団の幹部と相対した時に感じたものと、それは非常によく似ていた。
(あの人……誰だったんだろう。出来る事なら、あまりお近づきにはなりたくないわね)
見たばかりの『幻影』を頭から追い出し、リーフはアカネと共に歩き出す。
何か、良くない事が起こるではないかと言う嫌な予感がずっとしていた。
「こんばんは!ポケモンセンターへようこそ。ポケモンの回復ですか?」
「ああ、お願いするよ。ボクの『トモダチ』がかなり疲れていてね」
ポケモンセンターの職員に、青年は漆黒のモンスターボールを1個だけ差し出す。
瞳はまるで感情が宿っている様に見えず、発される言葉は綺麗で透き通っていた。
「御客さん、ポケモントレーナーですか?
パートナーが1匹だけだなんて、余程このポケモンを信頼なさっているんですね」
「フフ……そうだね。『トモダチ』はボクにとってかけがえの無い存在だからね。
トレーナーと言うよりは……『探究者』や『求道者』と呼んでほしいな。
世界がどうあるべきなのか、ポケモンと人間との関係がどうあるべきなのか、ボクはずっと答えを求め続けている」
ボールを受け取った職員は、ポケモンの『中身』がデータとしてスクリーンに表示されない事を疑問に思う。
順番に並んでいる後ろの客がいた為、職員はおかしいと思いながらも回復を済ませそのボールを手渡した。
「ありがとう。感謝するよ」
「御客様、どうぞ!回復ですか?」
青年がそのまま去っていく。
ボールを机の上に置いたバックパッカーの女性が職員の顔を見て驚いた。
「ねぇ、大丈夫?貴方、凄い汗だよ」
彼女は平静を装っていたが、本能的な恐怖には逆らえない。
冷や汗が滝の様に流れ落ち、ボールを受け取る手も小刻みに震えていた。
(わ、私どうしちゃったの?ただ二言三言彼と会話をしただけなのに)
ボールを手に取った時から自分の身体が普通とは違う反応を示している事に彼女は気付く。
それでもするべき事をプロとして全うした。それでも身体の震えは暫くの間止まらなかった。
「彼女の気配を感じる……そうだろう。キミも感じるだろう。
この場所に彼女がいるんだ。ボクはずっと彼女を追い続けてきた」
ボールを弄びながら青年はそう呟く。
彼はある女性を探していた。それは一方的な感情だったのかもしれない。
磁石の様に魅かれた。自分が持っているポケモンと『対になる』ポケモンを持っている少女。
彼女は大人になり、彼も大人になった。彼はずっと、決着を付けたかったのだ。
「どちらが強いのか、知りたいんだ。
彼女が『最強』に相応しいのか、それともボクが最強者なのか。
彼女はボクを避け続けてきた。でも、今度は絶対に逃がさないよ」
かつて、彼はその女性と共に『伝説のポケモン』を手に入れた。
とても大きな事件を解決し、女性は彼の前から姿を消した。
彼に構っていられなくなったのだ。それから長い年月が流れた。
「今度こそ、キミの『トモダチ』とボクの『トモダチ』のどっちが強いのか、ハッキリさせよう」
青年の中にある感情は複雑なものだった。恋なのか、痛みなのか、過去との決別なのか。
ただ、彼は彼女に会う事で答えが出るのだと頑なに信じている。
月明かりの下で、彼の姿は闇に溶ける様に消えていった。