日曜日 ポケモン料理のフルコース 前編
世の中には、2種類の人間がいる。搾取する側の人間と、搾取される側の人間だ。
搾取する側は当然金持ちになり、搾取される側の人間は貧乏人になる。
だが私は、こんな二元論だけで成功してきたワケでは無い。
搾取するのがどんなに上手い人間でも、得た金を全く社会に還元しない者は世間から妬まれる。
貧乏人の嫉妬だと涼しい顔でやり過ごそうとしてきた仲間達が、些細なミスから叩かれ失脚していく姿を私は何度も目の当たりにしてきた。
それでは駄目なのだ。得た金を全て自分の懐に入れようとする者はいずれ世間から攻撃され敗北する。
大切なのは、上手い方法で金を吐き出す事だ。金持ちでも善良な金持ちなのだとアピールする事で批判を避ける。
私はそういった方法で完全なる成功者となり、金と人々から敬われる心地よさを同時に手に入れてきた。
祖父の代から続けていた古い町工場。当時はシルフカンパニーの商品に使われる部品を製造する小さな会社だった。
私が子供の頃は社員が8名、祖父から社長の座を譲り受けた父を含めて僅か9名しかいないと言う状況。
このままではこの工場と会社自体が消えてしまう。幼い頃から危機感を持った私は、唯一無二の部品作りが出来る工場を目指した。
私が20代半ばで父親から社長の座を譲り受けた頃、シンオウ地方に拠点を構える『宇宙エネルギー開発機構』から依頼が舞い込む。
それは会社の威容を世に知らしめる為に打ち上げるロケットの部品を製造してもらいたいと言う内容の依頼だった。
宇宙空間と言う地上の常識が通用しない場所でも変形しない頑丈な合金の開発。
私達は寝る間も惜しんで調合を繰り返し、遂に『ヤブサキトモハル合金』、通称『YT合金』を作り出す事に成功したのだ。
YT合金の調合方法及び使用する金属の内容は私と一部の幹部だけが知る極秘情報となり、特許を取得。
さらにその合金を加工する事が出来る工場及び会社は私の所だけであった為、ロケットの打ち上げが成功した後続々と依頼が舞い込んできた。
10人もいなかった社員は特許取得後数千人規模にまで膨れ上がったが、産業スパイも多かった為苦労は絶えなかった。
現在でもYT合金の調合を行う事が出来るのは私と私の息子、それと数名の幹部のみ。まさに唯一無二の商品を生み出した事で私は大金持ちになった。
その後、私はあの辛かった小さな町工場時代を振り返り、町工場への支援活動を始めた。
伸びそうな所には惜しみなく投資を行い、成功した時には見返りを貰う。恵まれない子供達が暮らしている施設への寄付も積極的に行った。
また、『宇宙エネルギー開発機構』と共同して『緑の惑星計画』を打ち出した。
地球とは別の惑星に植物を植え、人間やポケモンが住める第二の地球を作り出そうと言うものだ。
成功する確率は低かったが、軌道に乗れば世界の人口爆発を救う唯一の方法になるかもしれない。
そうやって適度に金を吐き出す事で私は『類稀な金持ちにして偉大な慈善家』と言う評価を得たのだ。
『貴方の所で作っている頑丈な合金を、是非使わせてもらいたい』
資産家のリゾットが依頼を持ち込んできた時、私は二つ返事で承諾した。
彼もまた『ポケモンを食材にする』と言うアイディアで世界の人口爆発による飢餓を食い止めようとしている者の1人だったからだ。
世界があるからこそ、私は金持ちでいる事が出来る。謙虚な気持ちが無ければ、私が今この場所に立っている事は無かっただろう。
リゾットは私に『イートアイランド計画』の全容を明かし、海面より下にある船の部分の装甲及び様々な部品にYT合金を使わせてほしいと言ってきた。
数年前の狂気じみた時期を思い出すと今でも身体が震える。数千人の部下達が寝る間も惜しんで装甲作りに没頭した。
私も老齢ながら全体の陣頭指揮を執り、期日までの納品を徹底させた。間に合ったのが奇跡だと言える程の仕事量だった。
金持ちになる為には、そうやって立ちはだかる壁を乗り越える力が必要なのだ。多くの者達は乗り越える事が出来ずに挫折していく。
私は思う。金持ちになる為の条件は努力だけでは無い。運とタイミングが不可欠なのだと。
そして私は様々な重圧からやっと解放され、気儘な隠居暮らしを始める事になった。
「それにしても、今立っている場所が『船の上』とはとても思えないな。完全に街じゃないか」
「ええ、そうとしか思えないわねぇ」
人工島『イートアイランド』が完成してから数ヶ月後、私は妻と共にこの地に足を踏み入れていた。
10万人が居住する事が出来る巨大な船。居住地区と歓楽街を擁する程の広大な敷地。
当初は夢物語だと思ったこの計画も、完成してしまうと溜息しか出なかった。
「街と言うよりも、『海の上で移動する国家』かもしれんな……」
街のあちこちで誇らしげに掲揚されている『イートアイランド』の旗が、私の考えを裏付けている様に見える。
ポケモンを食べる事が出来る唯一の合法地区。いずれは世界展開していくのだろうか。
そればかりは私にも解らない。私と妻の目的は、この島にある三ツ星レストラン『オリオン』でポケモン料理のフルコースを食べる事だった。
「いらっしゃいませ、御予約されていたヤブサキ様ですね?」
「そうです」
黒く塗られたビルは、一見するとビジネス関係の会社かと思う程の威厳がある。
レストランの名前である『ORION』と金色の三ツ星が書かれた看板の真下にある入口の前で私は店員に話しかけられた。
「それではこちらへどうぞ。当店のシェフが腕によりをかけて作った料理の数々を御堪能ください」
完全予約制の店、ドレスコードの規定は最上級。
男性はシルクハットに燕尾服かタキシードの着用が義務付けられており、女性も帽子とフォーマルドレスの着用が必須と徹底されていた。
普通の客はお断りと言う意味でもこのドレスコードには意味がある。
妻も過度に肌が露出する様なドレスを着る様な年齢では無い為、フォーマルドレスを寧ろ喜んで着用していた。
入口に立っていた店員が玄関前で待機していた別の店員とバトンタッチし、もう1人別の店員がポーターとして私達の前に現れる。
「御荷物を御預かり致します」
私達は宿泊しているホテルに大きい荷物を預けていた為、丁重にお断りした後店員に連れられて席へと案内された。
「当店自慢の特別席でございます。窓から見える景色をお楽しみください」
席に案内されるまでの道のりもまた凄まじいものであった。
一流ホテルのロビーと見紛う様な1階の部屋から煌びやかな装飾が施されたエレベーターで上の階へ移動。
事前に予約しておいた完全個室の部屋はどうやら防音構造になっているらしく、静かに食事を楽しむにはうってつけの場所だった。
「いや凄いな。窓から街の景色が一望出来るとは……遠くの海までよく見えるじゃないか」
「落ち着ける部屋ね。五月蠅いと食事に集中出来ないから、貴方に任せて良かったわ」
妻が微笑みながら私に語り掛け、私は言葉で返さず同じ様に微笑み返した。
妻とは若い頃から苦楽を共にしている。苦しい時に私の背中を何度も後押ししてくれた。
彼女がいなければ、私は成功者としての道を歩む事は無かっただろう。
「いらっしゃいませ、本日は当店の御利用誠に有難うございます。
私は御客様の給仕を担当させて頂くピアリーと申します。御用の際はテーブルの上にあるベルを御利用ください」
ピンとした髭を生やした栗色の髪、青い瞳をした男が一礼してから部屋の中に入ってきた。
恐らくカロス地方出身なのだろうが、流暢な日本語を操っている。恐らく様々な国の言葉をマスターしているのだろう。
「当店のメニューは『オリオンのフルコース』のみでございます。メニューの一覧はこちらに。
当店は事前支払い制となっておりますが、御支払いの方法はどうなさいますか?」
「カードでお願いします」
一般人は手に入れる事が出来ないブラックカード。
ゴールドカードよりも上であるこのカードを持つ事が出来るのは限られた富裕層の人間だけだ。
「それでは御預かり致します。清算次第返却致しますので御安心ください」
ピアリーと名乗った男性が純白の手袋をはめている状態でカードを受け取りその場を去る。
何となくテーブルの上を見渡すとメニューを立てかけておく為の金具やフォークやスプーンを入れておく為の箱等の調度品の綺麗さに目を奪われた。
「食べる時に使うスプーンやフォーク、ナイフのデザインも細かいな。金具作りが本職のうちでも難しいかもしれん」
「ナプキンもとても綺麗ね。机や椅子も傷1つ無い新品だし、絶対に不満にはさせないと言う強い意志が感じられるわ」
この店のフルコースの値段は5万円。1回の食事の料金としてはとにかく高い。躊躇する者も多いだろう。
その値段の高さは諸刃の剣。客がつけば大儲け出来るがクレームが入っただけで大崩れする可能性が高い。
2人で1回の昼食をとるのに10万円と言う大金が必要になるのだ。
私はこの美しい空間と最高のサービスがあるからこそ、強気の値段設定に踏み切れるのだと思った。
「お待たせ致しました。カードでの清算が完了致しましたので御返却致します。
フルコースの一品目である当店自慢のアペリティフをお持ち致しますのでもう暫くお待ちください」
ピアリーは私にカードを渡すと、すぐにまた扉を開けて部屋を後にする。
「アペリティフ?」
「フランス語で『食前酒』と言う意味さ。最近ではカントーでもこの単語が浸透しつつある」
妻は聞き慣れない言葉に対して訝しんだが、私が意味を教えると安堵の表情を見せた。
そもそもフルコースは出すものと順番がしっかり決まっている。
一定のルールがあり、それを逸脱する事は無い。格式の高い料理店なら尚更だ。
「食前酒には発泡性のワインが用いられる事が多い。炭酸が胃の中に入る事で食欲を増進する効果があるんだ。
その後に前菜、スープ、魚料理、肉料理A、生野菜、肉料理B、甘味の順で料理が出てくる。
この場合前菜は生野菜じゃ無い事もあるし、肉料理の2つは扱う肉が違う事が多いんだ。
フルコースなのに似た様な料理を2品出すのは変だろう?生野菜と甘味は口直しとして提供されるのさ」
「あなた、随分詳しいのね」
「なに、ちょっと本で調べてみただけだよ。フルコースを食べるのに知識が全く無いのは困るだろう」
そう言いながら私はメニュー表を手に取り、フルコースのメニューに目を通した。
食前酒(アペリティフ) チェリンボのスパークリングワイン
前菜(オードブル) ラッキーの茹で卵マヨネーズ添え
スープ バケッチャの冷製カボチャスープ
魚料理(ポワソン) バスラオのソテー
肉料理(ヴィアンド) ケンタロスのステーキ
生野菜(サラダ) マラカッチのサボテンサラダ
肉料理 ピジョットのローストチキン
甘味(デセール) モーモーミルクのバニラアイスとトロピウスの実のパフェ
食前酒には発泡性のワイン。前菜は野菜では無い。
肉料理は牛肉と鶏肉の2種類。甘味は口直しも出来て料理の締めくくりとしては完璧。
まさにフルコースとしては無難。冒険していないメニューだった。
だがそれは悪い事では無い。寧ろ王道だからこそ5万円と言うお金を取れるのだ。
「お待たせ致しました。チェリンボのスパークリングワインでございます。
通常のポケモンを使用した料理と異なり、熟成に5年の歳月を必要とする珠玉の一品。
ツボツボの殻の中で寝かせたワインは深みを増し、御客様の喉を大いに満足させる事でしょう」
ピアリーがそう言いながらテーブルの上に2つのグラスを置く。
「どうぞ存分にお楽しみくださいませ」
一礼し、扉の奥に消えていくピアリーを見送った後、私は改めてグラスの中を見た。
実物を見るまではここまで色が濃いとは思っていなかったが、かなり色が濃い。
ルビーを溶かしたかの様な美しい赤色がグラスの中で泡と共に輝きを放っている。
「グラスの中に半分しか入っていないのね」
「食前酒だからね。本格的にワインを嗜むと言うより、胃に刺激を与える事が主な目的なんだ」
縦に細長いグラスの首の部分をつまみ、妻にも同じ様に持ってもらう。
「まずは、乾杯するとしよう。イートアイランドの件も無事に解決したし、息子は私よりも優秀だ。
きっと私よりも優れた社長としてYTコーポレーションを引っ張っていく事だろう」
「お疲れ様でした」
妻に優しい言葉をかけられ涙腺が滲んだ。何十年間もの労働があり、今ようやく平穏を手に入れる事が出来たのだ。
「今後の我々の未来に。健やかなる老後を祝って乾杯しよう。乾杯!」
2つのグラスが軽く重なり合い音を立てる。その後のマナーとして私はすぐに一口だけワインを飲んだ。
思ったよりも度数は低い。甘いがくどい程の甘さは無い。後味がすっきりしていた。
「結構甘いけど、炭酸が入っているせいか美味しく飲めるわ」
妻もワインの味に満足したらしく、再びワインを口にしている。
「少し、香りも楽しんでみようか」
本来、縦に細いワイングラスは香りを楽しむ為の形状では無い。
だが折角高い金を払って飲んでいるのだ。この部屋には私達しかいないのだから、罰は当たらないだろう。
少しだけゆるやかにワインを傾けながら、ワイングラスの縁を鼻に近付ける。
顔が思わずほころんでしまう程の甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「食前酒として飲むのが勿体無い程の香りと味だ。出来るなら購入して家でじっくり味わってみたい」
そう言いながら私はまたワインを口の中へと運ぶ。5年前と言えば、リゾットに話を持ち掛けられた頃だ。
あの頃は無茶な計画だと彼を諌めたが、結局彼は莫大な資金で大勢の人間を雇い、短期間で工事を終わらせてしまった。
そして5年の月日が流れて今私はその建造物の上でワインを飲んでいる。私は運命とは面白いものだと思った。
「お待たせ致しました。こちらは当店の目玉の1つ、ラッキーの卵を使用したオードブルです。
ラッキーの卵は栄養価が豊富で、マヨネーズとの相性は抜群。
卵の中身は白身のみなのですが敢えてくりぬき、そこに鶏卵の黄身とマヨネーズを和えたものを入れております」
舌の上で転がしながらワインの味を思う存分堪能し、飲み終わった頃絶妙なタイミングでピアリーが扉を開けて入ってくる。
今度はピアリーの他にシェフ帽を被った人物がワゴンを押しながら一緒に登場した。
「量がありますが重たくはありません。それでは次の食事の用意がありますので、失礼致します」
ワイングラスを回収した後、テーブルの上に蓋付きの皿が置かれ、シェフが蓋を開けて蓋も回収する。
てきぱきと作業は進められ、あっと言う間に2人は扉の向こうへ去っていった。
「いや、これは……見た目も凄いな」
「重たくないって言うけれど、私達に食べきれるかしら。かなりの量があるけれど……」
私と妻は流石に困惑した。それもそのハズ、卵の大きさが想像の域を遥かに超えていたのだ。
冷静に考えてみれば確かにラッキーの卵はこの大きさで正しい。
ラッキーの身長は1m10cm。持っている卵は、縦の長さならば身長の4分の1程もある。
「これは、縦の長さだと30cm近くはあるな。鶏卵の何個分の量があるんだろう」
計測してみたくなる程の大きさだったが、それよりも味を確かめる事が先決だ。
1つの卵が綺麗に二等分され、半球状にくりぬかれた部分にメレンゲの様な黄色い物体が盛られている。
恐らく鶏卵の卵黄とマヨネーズを泡立て器でかき混ぜたのだろう。卵の黄身を表現する為だと思われた。
「通常の鶏卵のオードブルなら、フォークで刺して食べる事も出来るだろうが……スプーンを使う必要があるな」
ココは私と妻しかいない防音の個室だ。規格外の食べ物を出されて、普通の食べ方が出来るハズも無い。
スプーンでまずは白身に相当する部分だけを取り、口の中に運ぶ。
「おお、思ったよりもずっと淡泊だ。鶏卵の白身を茹でたものよりも良い意味で味がしない」
食感こそ異なるが、まるで最高級の豆腐を食べているかの様だ。これなら量を食べても胃に響く事は無い。
妻も同じ感想を述べ、食べてもこの後の食事を食べる事が出来ると確信した。
「問題はこの黄身に見立てたメレンゲ状のマヨネーズだ。かなり量が多いが……」
同じ様にスプーンですくい、意を決して食べてみる。
実に上質なマヨネーズだ。コクとまろやかさはあれど、油を口にしている感覚はあまり無い。
カロリーカットのマヨネーズを使っているか、水を混ぜているかのどちらかだろう。
驚くのはその味の濃さだ。カロリーの少ないマヨネーズの場合、大抵味が薄くなってしまう。
それなのに白身部分と相性が良い味付けの濃さ。これがポケモン料理のマジックだとでも言うのだろうか。
「味が濃いのにくどくないなんて不思議ねぇ。でも、これなら大きな卵でも全部食べられるわ」
驚きの連続を感じつつも味わい深いオードブルだった。
一口目に驚愕し、二口目に白身と黄身の融合を堪能し、三口目からは止まらなくなる。
余計な雑味が一切無い、マヨネーズの純粋な旨味が口の中でとろけていった。
私達がオードブルを食べ終わったのを見計らったかの様にピアリーが姿を現す。
「お待たせ致しました。こちらはバケッチャの冷製カボチャスープでございます。
素朴な甘みと、濃厚な甘みが織りなす味わいを御堪能くださいませ」
シェフが手早く先程まで巨大な卵が乗っていた皿を片付け、スープが入った容器とその下の皿をテーブルの上に置いた。
カボチャのスープ。一見見た目は単純な料理に見えるが、調理が難しい事で知られている。
ラーメンのスープの様にその味の根底を成すのは濃いコンソメのスープ。そこにカボチャと生クリームを合わせていく。
少しでも分量を間違えれば味のバランスが崩れてしまう。繊細な作業が無ければ美味しいスープを作る事は出来ないのだ。
「それでは次の料理の準備がありますので、私共は失礼致します」
私と妻だけが部屋の中に残された後、私は新たに机の上に置かれていたスープ用のスプーンを手に取る。
「スープは飲むと言う意識で食べると、啜る音が出てしまう。
カレーのルーだけをスプーンですくって口の中に運ぶイメージだ。そうすれば音は出ない」
私はそう言った後、スープを口の中に入れた。
妻も同じ様にスープを『食べた』が、その瞬間目を丸く見開く。
「とても味わいが深いのに、口の中に残る『くどさ』が全然無いなんて。とても不思議だわ」
「うむ。カボチャのほのかな甘みと、生クリームの重厚な甘みが共存している。
このスープを飲む為に店に足を運ぶ価値は充分あるな。記憶に残る味とは、こういうものの事を言うのだろう」
本当に美味しいものを食べた時、人はその食べ物に夢中になるものだ。
他の食べ物の事は食べ終わるまで意識しない。オードブルの卵もこのスープも、私達を夢中にさせてくれた。
「フルコースでスープをかき混ぜる様な野暮な真似はしない。それは当然向こうも解っているだろう。
だからこそ、表面と底とで微妙に味を変えている。何種類もの食材を用いるスープだからこそ可能な技だ」
それは料理と言うより、科学的な側面を含んでいる。つまり、液体の重量の差による沈殿だ。
液体の成分量が異なり攪拌されていない場合、Bの液体の内容物がAより重ければ当然Bは皿の底にたまる。
清涼飲料水でも『飲む前に振ってください』と書いてある場合があるが、その底にたまる現象を逆に利用しているのだ。
まるで地層の様になっている味の重なり。当然混ざって味が変わる事もある。
だがどう味が変わろうと、美味しいと言う状態を生み出す技術の高さに、私はただただ感服する他無かった。
「コンソメも生クリームもポケモンが使用されているんだろう。だがポケモンと言う素材の良さだけで金は取れない。
次の料理がどんな素晴らしいものなのか楽しみにさせてくれるじゃないか」
「ええ、そうね」
ついつい感激して饒舌になってしまったが、私も妻も解っていた。理屈よりも、旨味をただ味わえと。
私は妻にそう諭された様な気がして、それ以降は静かにスープを食べ続けた。
スープを食べ終わった後、再びピアリーがシェフを連れて姿を現した。
「冷製スープ、お楽しみ頂けましたでしょうか?」
「とても美味しいスープを『食べさせて』もらったよ」
「有難うございます。フルコースに対して理解のある御客様と触れ合える事は私共にとっても大きな喜びです。
引き続き、料理をお楽しみくださいませ。こちらはポワソンの『バスラオのバターソテー』でございます」
皿があっと言う間に片付けられ、手際の良さが光る。半球状の蓋がされた皿がテーブルの上に置かれ、蓋が取り除かれた。
「おお……」
魚は身体の中央に体全体を支える骨がある。それは人間であっても同じだ。
骨を取り除いた魚の身体を2つに切ったもの、つまり半身が焼かれている状態で2つ皿の上に乗っている。
「ソテーにしたバスラオの身体から出た残り汁は、バターソースを混ぜた後上からかけております。
その隣には素材であるバスラオの味と調和させる様に、玉葱とピーマンのソテーを添えました。
上質な脂とバターソースが奏でる味の二重奏をお楽しみくださいませ」
ピアリーがシェフと共に退出した後、私はまじまじと皿の上で己の存在を主張しているバスラオのソテーを見つめた。
「バスラオと言えば釣りの愛好家から好まれている魚。だが好まれている理由は『美味しい』からでは無い。
『釣るのが面白い』からだ。特有の生臭さを持っている為、食用にされる事は殆ど無いと聞いている」
イートアイランドにおいてポケモンが食べられる様になってからも、その考え方は根強く残っていた。
「それを敢えてフルコースの魚料理として客に出すのか……随分と店側が『攻めて』きたな」
今まで出されてきた食事の内容からして、不味いとは思えない。だが、人生の中で培ってきた経験や知識が疑問を投げかけている。
バスラオは美味いのか?生臭さを取り除いた所で、5万円のフルコースの魚料理として提供出来る程の実力を秘めているのか?
勿論その答えは食べてみなければ解らない。そんな事を考えていた私とは違い、妻は既にナイフとフォークを使ってソテーに手を出していた。
「あら、淡白だけど脂があるのね。バターソースが濃いけれど、それが丁度良いわ」
魚料理があまり得意で無い妻が、店を信用する形ですぐにバスラオを口にし、その結果大絶賛している。
私もそれに呼応する様にナイフで身を切ると、一口大にカットした身にフォークを刺して口に運んだ。
「これは凄い!味自体は淡白なのに、これ程美味いものなのか……」
私は想像していた味と実際の味のギャップに驚き、そして唸らされた。
臭みも、どろっとした様な食感も一切感じられない。焦げている部分も無いが中までしっかりと火が通っている。
バターソースの濃さも、添えられている玉葱とピーマンのソテーを食べる事で綺麗に中和された。
人生で得た知識が間違っている事もある。私はバスラオのポテンシャルを見誤っていた事を素直に認めた。
ソテーされた身が発揮しているインパクトは絶大だ。食べれば食べる程に旨味が口の中で溢れ、喉の奥へと消えていく。
さらに半身と言ってもスライスされた状態だった為、腹がそこまで膨れないのも良い点だった。
何しろこれからメインの中のメインである肉料理が出てくるのだ。ココで腹をいっぱいにするワケにはいかない。
私は残った玉葱とピーマンのソテーを食べながら、そんな事を考えていた。
バスラオのソテーを食べ終わった後、数分が経過していた。
「さっきまで食べ終わったのを見ていたかの様にすぐ次の料理を持ってきていたけど、何かあったのかしら」
「メインの肉料理だからね。色々と準備があるんだろう」
私は薄々感づいていた。この少しの待ち時間すらも店側が仕掛けている『演出』であると言う事に。
次に出てくるのはフルコースのメインなのだ。メインは今までの『前座』を吹き飛ばす程の『スター』で無ければならない。
勿論、今までの料理も美味かった。クオリティは非常に高かった。だがそれらを超える程の何かが無ければメインとして認められないのだ。
だからこそ、今までの様にすぐに出すと言うのは逆効果だ。少し待ってから客に出す事で、『これからが本番』と言う店側の狙いを明らかにする。
客を待たせないのもサービスならば、待たせるのもサービス。一流のレストランは客の心理まで考えていた。
「お待たせしてしまい申し訳ございません」
ピアリーが2人のシェフ帽を被った男性と共に扉を開けて入ってきた。
配膳車代わりのワゴンの上には鉄板の上に乗ったステーキがじゅうじゅうと音を立てている。
「こちらが当店のヴィアンド、ケンタロスのステーキでございます。肉汁が滴る珠玉の一品です。
シェフによるカットサービスを行った後、御客様に提供する形になりますが、宜しいでしょうか?」
「構いませんよ」
シェフの2人が食事用のナイフとは異なる長めのナイフを使い、食べ易い大きさにカットしていく。
ステーキの横にはマッシュポテトが盛られていた。
「こちらのステーキは様々な味をお楽しみ頂けます。
赤ワインをベースに醤油で仕上げ、隠し味にニンニクを使用した当店自慢のステーキソース。
玉葱と大根おろし、オレンの実から作ったポン酢を隠し味に使用したオニオンペーストソース。
そしてイッシュ地方で採れた岩塩の中でもごく僅かした採取出来ないと言われている『幻の塩』。
この3種類の調味料は、ステーキの味を引き立てる事請け合いですので、どうぞお試しあれ」
シェフが客の前で料理を『完成させる』為に、切った後のステーキを軽く鉄板に押し付けていく。
焼き加減の微妙な調整を食べる直前に行う事で、まさしく焼きたてのステーキを客に提供する事が出来るのだ。
ピアリーと2人のシェフが退室した後、私達はステーキの量に圧倒され、少しの間ステーキを見つめた。
一口サイズに切られているので今は解り辛いが、このステーキは間違いなく2ポンドの重量がある。
肉料理は一般的に知られているグラムでは無く、1ポンド単位で客に出す事が多い。
1ポンドは約450gなので、2ポンドだと900g。つまり1kg近い重量の肉が鉄板の上に置かれていると言う事だ。
「見ているだけでお腹がいっぱいになりそうな量だが、これを食べた後果たして最後まで食べられるのだろうか……」
「そうね、この後も食べるんですものねぇ」
私と妻は暫くの間圧倒的な存在感を放ち続ける肉を見ていたが、意を決して食べ始める事にした。
「まず一口目は何もつけずにいただくとしよう」
横長の肉をナイフでさらに2等分した後フォークで刺し、口の中へと運ぶ。
噛んだ瞬間肉汁が口の中で溢れ出し、私は慌てて口をしっかりと閉じた。
実に上質なリブロースだ。リブロースは霜降り肉になり易い部位で、きめ細かな肉質と濃厚な旨味が味わえる。
焼き加減はミディアム辺りだろうか。肉の焼き方には大まかに3つの項目があり、生に一番近い状態がレアだ。
しっかりと中まで火を通した状態がウェルダン。
ミディアムはその中間、つまり生焼けでは無いが赤身の旨味を客に味わってもらう為に生っぽい部分も残している。
「リブロースは硬い部分がある場合が多いが、調理が素晴らしいんだろうな。とても柔らかい」
肉を柔らかくする方法は多々あるが、余計な味が肉についてしまう事を防ぐ場合は玉葱を使用する事があると言う。
オニオンペーストソースを使用している場合、その可能性が高いかもしれないと私は思った。
有名なのはヨーグルト、パイナップル等の果物。意外にも蜂蜜を肉に塗ると言う方法もあるらしい。
「ただ食材を切って焼くのでは無く、必ずひと手間をかける事が重要だ。客に見えない部分での努力が料理を美味くさせている」
そして、驚いた事に食べている時の『重さ』が無いのだ。
これだけ重厚感のあるステーキを食べていると言うのに、食べた後が異様に軽い。
「これなら、3ポンドでも4ポンドでもいけそうだな」
「貴方、これは『フルコース』なんですから」
妻に窘められ、私は苦笑いしながらステーキに味を付けていた。
通常のステーキソースは味付けが濃いが、ステーキの味を考えるとこの味付けでつり合いが取れている。
オニオンペーストソースはステーキソースが甘いのとは逆に、酸味がある為さっぱりとした味わいに変わった。
塩は素材を際立たせてくれる。ステーキと一緒にマッシュポテトを口に運んだ時の幸福感は格別だった。
「いやぁ、美味い。このステーキソースは癖になるな」
「私はオニオンペーストソースの方が好きよ。柑橘の酸味で脂身のしつこさを緩和してくれるもの」
夢の様な時間だった。妻との会話も弾み、気付けば僅か30分で完食。
あの恐れすら抱いた巨大な肉は全て胃の中へと消えてしまっている。まだまだ食べる事が出来そうだった。