バベルの島
月曜日 ポカブのとんかつ定食
 私がこの街から街へと海を移動する島に移住してきてから、約3ヶ月が経過しようとしている。
 引っ越しの作業はそこまで大変でも無かったし、この島ですぐにあたらしい職業に就けたのは幸運だった。
 私は今まで勤めていた保険会社を退職し、この島の観光を大勢の民間人にPRする為の会社に就職したのだ。
 正直、誰も挑戦した事が無い未踏の分野だからこそやり甲斐がある。もっと多くの人々にこの島の事を知ってほしかった。

 私がこの島の認知度を上げようと懸命になるのには、1つの大きな理由があった。
 リーズナブルな価格ながらこの島で食べるものが全て美味しいからだ。島全体が美食の都と言っても過言では無い。
 かと言って今の所肥満になる者達が出てきているワケでも無く、この島で取る食事が非常に健康的である事も立証されつつあった。
 今日も私は、仕事が終わった後で御馳走にありつこうとしている。
「へい、いらっしゃい!」
 夜7時。駅から徒歩5分の所にある料理店『炎舞亭』の暖簾をくぐると、料理人達の威勢の良い声が聞こえてきた。
 店内は木材を前面に押し出した昔ながらの質素な作りで、それでいて粗末さは微塵も感じられない。
 埃1つ無い清潔な店内は何時もの様に大勢の客で賑わっていた。
「今日は何にしましょう?」
 椅子に座り、机の上に置かれていたお品書きを手に取って見ていると、店員の1人が気さくに声をかけてくる。
 飾らない。それでいてそこまで馴れ馴れしくも無い。この絶妙な距離感を料理人達は心得ていた。
「それじゃ、この『ポカブのとんかつ定食』を貰おうかな」
「承知致しました!カウンター席5番の御客様、ポカブ定一丁!」
「かしこまりました!」
 今時の定食屋はプラスチック製の洗い易い箸を用いる事が多いが、この店ではしっかりと割り箸が出てくる。
 割り箸を割る瞬間の『さぁ食べるぞ』と言う感覚が実に心地良い。
 そんな事を考えている内に、料理が盆に乗った状態で出てきた。

 ポカブのとんかつ定食 1200円
 
 内容

 ポカブのとんかつ みじん切りのキャベツ
 絹豆腐とモンジャラの触手の味噌汁
 国産のコシヒカリの御飯 大盛
 キュウリの浅漬け

 この値段でこのボリュームか、と思う程に、毎回相当量のとんかつが皿の上に鎮座している。
「いただきます」
 手を合わせて今日の仕事と夕食にありつける喜びに感謝しつつ、まずはみじん切りになっているキャベツに箸を伸ばした。
 胡麻ドレッシングとの相性が抜群だ。一口分を口に運ぶと、みずみずしさとシャキシャキ感が私の食欲を増進してくれる。
 (このさっぱりとした後味と、ドレッシングの濃厚なとろみが上手く調和している)
 勿論、この定食の主役はとんかつに他ならない。ポカブは進化前のポケモンなので、肉が非常に柔らかいのが特徴だ。
 (箸で簡単に切れる程柔らかく、割った瞬間に肉汁がしたたる。何という贅沢)
 元々とんかつの方は包丁でカットされているが、さらに箸で切って正方形に近い状態にしてから口の中に入れる。
 口の中に入れた瞬間、程良い熱さと肉の旨味が私の喉を刺激してきた。
「美味い!」
 食感は上質な大トロを完全に焼いた様な状態と言うべきか。
 豚肉にありがちなくどさもポカブの場合は全く無く、喉の奥に入れるまで味を楽しむ事が出来る。
 衣との相性も実に良い。あっと言う間にとろけてしまう肉のちょっとした物足りなさを衣がカバーしてくれていた。
 (そして、この味噌汁だ)
 とんかつと御飯を一緒に食べ、ある程度食べ進めた所で味噌汁に切り替える。
 濃厚な赤味噌、すっきりとした白味噌の絶妙なブレンドもさることながら、一番のポイントはモンジャラの触手だ。
 触手をちぎり取り、熱湯でくたくたに柔らかくなるまで煮込み、半分ドロドロの状態になった所で味噌汁の中に投入する。
 箸で挟んですする様に口に運ぶと、良い意味でべとっとした食感、粘つく様な喉越しを堪能する事が出来た。
 (とんかつとの相性が考え尽されている味噌汁。触手も絹豆腐を食べる事によって味の濃さをリセットする事が出来る)
 ポカブのとんかつの利点は、肉そのものの保温性が高いので、ゆっくり食べていても肉が冷めて固くならない所にある。
 通常のとんかつであれば、30分も経過すれば肉が固くなってしまうのだが、ポカブの場合は1時間経過しても温度がそのままの状態なのだ。
 (美味しいものをゆっくり味わえると言う所に、美食の良さがある。急いでかきこむ様に食べるのは勿体無い)
 肉が常に上質な旨味を保っているのもポカブならではと言えるだろう。
 流石に冷蔵庫に一晩入れておくと冷たくはなるが、温め直しても味や食感がまるで変わらないと言う特徴を持っている。
 通常の豚肉だと温め直す過程において肉の旨味が若干変質してしまい、味が変化してしまうものだが、ポカブにはそれが無いのだ。
 それ故にこの店では、カツサンドの持ち帰りを所望する客も多い。この店が繁盛している理由の1つだった。
 (味噌汁と御飯の相性の良さ。とんかつと御飯の相性の良さ。とんかつと味噌汁の相性の良さ。味のトライアングルが見事に形成されている)
 定食の美味しさを噛み締めながら、御飯ととんかつをどちらも半分程食べ終えた所で、きゅうりの浅漬けを食べる。
 浅漬けで舌を休ませ、次の態勢を整えていると、店員の方からこっちに近付いてきた。
「茶漬けにしますか?」
 私が頷くと、店員は冷たい緑茶が入っている蓋つきの水差しと小さな箱に入った薄桃色の粉を運んでくる。
「こちらはイッシュ地方の洞窟で採掘された岩塩になります。
 元々とんかつには塩分がございますが、緑茶と一緒だと味が若干薄くなるのでお好みでどうぞ」
 店員が別の器に緑茶を注いでその場を去ると、私は残っていた御飯ととんかつをその器に投入し、岩塩をパラパラと振りかけた。
 (さぁ、至福の時がさらに輝きを増すぞ)
 器を片手に持ち、とんかつを一口食べた後緑茶と共に御飯をすすっていく。
 本当に美味いとんかつと言うものはソースの様な濃い味付けをしなくとも味がしっかりしているものだが、これもそうだった。
 冷たい緑茶がとんかつの若干持っているしつこさを綺麗に洗い流し、アクセントの岩塩で味全体が引き締まっている。
「いやぁ、美味い!2回分の美味さで喜びも倍増だ!」
 器をテーブルの上に置き、自分の幸せを全力で表現した。店員達も私の言葉を聞きながらにこやかな笑顔を作り頷いている。
 勿体無いとは思っていたが茶漬けになってしまうと話は別だ。あまりの美味さにかきこんだ結果、私はものの数分で茶漬けを完食してしまった。
「美味いでしょう、そのとんかつ」
 冷たい水を飲みながら喜びに浸っていると、カウンターの向こう側にある厨房にいた店員の1人が声をかけてくる。
「ええ、本当に美味しいとしか言いようがありません」
「ポケモンの良い所は、良いポケモンと良いポケモンに卵を産ませると必ず上質な肉を持つポケモンが生まれてくる所にあるんですよ。
 色々な配合を試した結果、バクフーンの雄とエンブオーの雌を掛け合わせると理想的な肉質を持つポカブが生まれてくる事を発見しましてね」
 店員はそう言うと、壁に貼ってある広告を指差した。
「この島の中にある牧場で毎日大量の卵を産ませています。卵は産まれた直後に温められ、そうする事によって孵化が格段に早まるんです。
 成長を待つ必要が全く無いのもポケモンの魅力ですよ。産まれた直後からすぐに捌く事が出来ますからね」
 私は頭の中でその光景を想像した。生まれてくると同時に食卓に並ぶポカブの姿を。
 だがポケモン愛護団体が騒ごうが何だと言うのだ。目の前にこれだけの美食があるのだ。食べなければ損と言うものではないか。
 空になった皿をじっと見た。まるで夢の様な時間だった。だが夢ではない。私の腹は満腹感だけでは無く幸福感でも満たされている。
「持ち帰りでかつサンドを2人分頂けますか。それとお会計をお願いします」
「はい、かつサンドはすぐに御用意する事が出来ます!1名様御勘定!」
「有難うございました!」
 威勢の良い店員達の声を聞きながら、私はゆっくりと立ち上がり店内を見回した。

 そこには幸せが溢れていた。
 30代同士らしきカップルがあまりの美味しさに顔をほころばせていると思えば、向こうの席では黙々と食べながらも満足げな顔を浮かべている中年男性の姿もある。
 20代の女性3人がわいわい話し合いながら茶漬けに差し掛かろうとしており、老夫婦は食べきれないからか1つの定食を分け合って食べていた。
 (食べる事そのものが幸せであり、それを分かち合う事で更なる幸福が生まれる。食べ物は人を幸せにするのだ)
 ポカブのとんかつの様に、それが美味であればある程幸せは増幅していく。
 愛護団体が騒ぐ気持ちも解らないではないが、この光景を見た瞬間に、私はこの状態が間違ってはいないと感じた。
「定食1200円、持ち帰り様のかつサンド2人前で1600円、合わせて2800円御代を頂戴致します」
 千円札を3枚財布から出しながら、妻の喜ぶ顔を思い浮かべた。
 私達には子供がいない。だからこそ、人生における食の割合は高く重きを置いている。
「有難うございました、また何時でもどうぞ!」
 入ってきた時と同じか、それよりも大きな声で見送られる。悪い気持ちはしなかった。
 毎日と言うワケにはいかないが、また来よう。そう心に誓いながら店を出た。

 この巨大な島は海の上を移動している為、外に出ると潮風が身体に触れてくる。
 今日は晴れているせいか夜ではあったが少しだけ暑かった。
「帰るか」
 そう呟き、手提げ袋に視線を向ける。袋の中には熱い状態のままのかつサンドが箱詰めにされた状態で入っていた。
 家に帰ってから、妻と一緒にささやかな晩酌だ。ビールの御供としてゆっくりと頂くとしよう。
 残ったら明日の朝ぱくつけば良い。そうやってとりとめも無く考えつつも、家に向かって私は歩き始めていた。
 ふと空を見上げると、満天の星空。プラネタリウムの様な光景が頭上に広がっている。
 移動する島と言う特性上、排気ガスで汚れた空中にいる事があまり無い。
 さらに天候を調べる為の衛星から情報を常に得ている為に天気が荒れている海上を避ける事も出来るらしい。
 (ベランダに出て食べるっていうのも良いかもしれんなぁ)
 明日は放っておいてもやってくる。そんな日々の疲れを癒やしてくれる存在。それがポケモンと言う名の食物であった。

■筆者メッセージ
最初はポピュラーな肉料理、誰もが食べた事があるであろう
『とんかつ』から食べていきます。とんかつは味わい深いだけで無く、
色々な調味料で食べる事が出来る幅の広さも魅力ですよね。
ポケモンでとんかつを作った場合どうなるのかを想像するのは楽しい
作業でした。想像しながら読んでもらえれば幸いです。
夜月光介 ( 2016/10/16(日) 19:51 )