第二章 子どもたちは剣を交わす【2】
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「ねぇ、もしかして、つけられてない?」
スクール対抗大会の一回戦を終えて、アカリと別れたケースケたちは、ホドモエ方面に歩いていた。二回戦まで日が空くから、それに修行を兼ねてのことである。二回戦の会場はホドモエシティで、バトルは広々とした冷凍コンテナを借りて行われる。昔、プラズマ団が一部のコンテナを占領していたせいで、本来の使用ができなくなったコンテナをスタジアムとして改良したものだった。
日も暮れかけてきて、三人はそろそろホドモエの跳ね橋に差し掛かろうといったところ。アイの一言で三人は立ち止まるのだが、後ろを振り向くことができない。ケースケもさっきから背後に視線を感じていたし、注意深く周囲の音を聞くようにしていたら、普通の通行人がたてないような音が聞こえた。三人が立ち止まったことで、後ろで靴を擦る不自然な音がした。正面ではいきなり立ち止まった三人を不審そうな目で見る橋守がいる。
「俺もそう思ってた」
顔を動かさずに小さな声で言う。このままホドモエの跳ね橋に入って、奇襲でもかけられたら逃げ道は正面にしかない。挟み撃ちの可能性もあるのだから、迂闊に橋を渡るのは止めておいたほうがいい。
「どうするの? このまま知らないふりして橋、渡る?」
「正面に敵が待ち伏せしてたら逃げられないよ」
ユウがそう答えると、アイは困ったように唸った。
襲われる心当たりと言えば、やはりあのことか。ケースケの脳裏には、三元院とかいうあまり思い出したくない男の名前が浮かぶ。二人もそれ関連の何かを思い浮かべていることだろう。つけられる理由なんてそれくらいしかない。
「そうだ」
思いついた。
「正々堂々と勝負するってのは? 試し岩のときの下っ端程度なら、十人くらい出てきても余裕だし」
「敵の人数も実力も分からないのに、そんなことする?」
「でも、どうせ追われるなら、早めに対処した方がいいんじゃないか。応援呼ばれたりしたら、面倒だし」
それから少しの沈黙。橋の上で飛び交うスワンナやコアルヒーの鳴き声が木霊する。橋の下には流域面積の広い川が流れていて、涼やかな小波の音がここまで聞こえてくる。
「僕はそれでいいと思う」
「じゃあ、私もそれでいい」
ユウが言って、アイも続く。
「よし、じゃあポケモンを出すと同時に振り向こう。せーのっ」
モンスターボールの開閉スイッチを押して地面に落とした。同時に三人は振り向く。暇そうなトレーナーたちがその辺をうろうろしている。草むらがある。木が立ち並ぶ。隠れることのできる場所は、どこだ。トレーナーの中に隠れるのが一番か。いや、トレーナーなら行きで見たからだいたい覚えている。だから、そこじゃない。だとすれば、木の陰だ。
「エテボース、木の裏を探せ!」
道路を囲うように並んだ木のうち、左の方にエテボースは跳んだ。いないようだ。アイのコジョンドが右に行く。そして、一鳴き。そこに敵は居た。
「え」
アイが消えそうな音で口を開ける。コジョンドが何かに吹っ飛ばされた。ここからだと死角になっていて木の裏が見えない。走りながらも慎重に、敵の居る方へ向かう。回り込むと木の裏には、元々白土色をしていたような、くすんだフードの人間が二人。デスマスを模した仮面で顔を覆って、露出をなくしている。その二人はエテボースとコジョンドを従えていた。
思わず息を呑んだ。エテボースと、コジョンド。それは、まるで――。
敵のエテボースが襲いかかってくる。心臓が跳ねた。慌ててヘッドセットに電源を入れて、左目が別の世界を捉えるのに身構える。
しかしその世界は、ケースケのエテボースがダブルアタックを受けて吹き飛んでも、まだやってこなかった。
敵には能力が通じなかった。
エテボース同士が掴み合う。少し離れたところでコジョンドも同じようにしている。どこか現実から浮いてしまったような光景で、ケースケは固まったまま動けなかった。頭の中が空っぽになる。夢を見ているときのように、何の思考もなく時が進む。
逃げよう。
誰かが言った。アイとユウが視線を向けてくる。そのときになってやっと、逃げようと呟いたのが自分なのだと分かる。
「ケースケ、こいつら、おかしい! 逃げなきゃ!」
何もできないまま、ユウは叫ぶ。同じポケモン同士が取っ組み合っているのに割って入ることはできなかったようだ。だって、二匹があまりにもそっくりだったから。たとえ種族が同じでも、個体ごとに差はあるからトレーナーなら見分けることができるのが普通だ。でも目の前にいるのは、鏡の向こうから出てきたのかと思えるほど、そっくりな外見をしていた。だからどっちを攻撃すればいいのか、分からなくなる。
「逃げなきゃ」
自分が呟いたのだと思ったら今度はアイだった。うるんだ目で不思議な光景から目を離せないでいる。口が震えていた。ケースケも似たようなことになっているかもしれない。
ケースケはボールを出した。エテボースに向けて赤い光線を放射すると、下になっていたエテボースが戻ってくる。
橋の方へ走っていたユウを見つけて、ケースケは追いかける。アイが後ろからついてきた。さらに後方には、フードが二人。悠然と歩いていて、慌てる素振りはまったく見せない。
橋に一歩踏み出したあたりで、橋守が何ごとか叫んでいた。ライブキャスターを持っていたような気がする。
気づくと辺りは暗い。日が落ちて、夜空に負けそうなくらいの小さな灯りが、橋を照らすばかりだ。振り返ると薄闇を背負ってフードの二人が歩いている。どうしてだか距離が離れていかないような気がした。
横に並んで走るアイが細い音を喉で鳴らしている。その音がケースケの恐怖をより一層かき立てた。先を走るユウが振り向いて、チラチーノをフードの二人にけしかける。
「もっと早く!」
汗が頬を伝って、足下の薄暗い橋に落ちる。どんどん闇が深まってきて、ずっと向こうにある橋の終わりがとてつもなく遠い場所のように思えた。
目をこらすと向こうからも人が走ってくる。二人だ。その二人の間には、逃げる人を追うくらいの距離がある。
やはり、挟み撃ちか。
めまいがしてきた。それでも足を止めてしまえば、追いつかれてしまう。振り返る。闇があった。追いかけてきているのは、闇なのか。
「助けてください!」
前方から女の子の声が聞こえた。視線を向けると、女の子が逃げてきている。どうやら追われているようだ。
女の子がユウの元に着くと、ユウは立ち止まった。ケースケとアイの二人もそこまで来て、女の子が誰に追われていたのかに気づく。
フードで、仮面。そいつは後ろから追ってくる二人と違わない外見をしていた。男か女かも分からない。年齢だって分からない。
「お前ら、なんで、追いかけてくるんだ」
息を切らしながら、はき出した声は少し震えていた。せり上がってくる恐怖のせいか、忙しく動く肺のせいか、分からない。前にいるフードは無言のまま立っている。暗闇に溶けてしまうのではないかと思うほど、その存在は希薄に見えた。後ろも追いつかれて、四人は挟み撃ちにされた。
不意に強い光が放たれる。女の子がモンスターボールからポケモンを出したのだ。出てきたのはムーランド。暗めの体毛は夜に馴染むが、足下まで届く白ひげは辺りが暗くてもはっきりと見えた。
それを追うようにして、新しい光が発生する。出てきたのはムーランドだ。背筋を何かが撫でていくようだった。ぞわりと怖気に襲われて、一瞬だけ平衡感覚を手放した。そこには全く同じ外見のポケモンたちがいる。それぞれが向かい合って、ないはずの鏡がそこにあるかのように。
だめだ、と思った。こいつらと戦ってはいけない。能力が効かない上に、得体の知れない格好、持っているポケモンはこっちと全く同じで、ゆっくりと盤を埋めるように追い詰めてくる。
「逃げよう」
ユウが言った。
「ムーランド一匹くらいなら、やり過ごせそうだよ。一斉に走ろう」
フードの三人は、追い詰めておきながら、静観したまま何もしてこない。声を上げるでもなく、ただひたすら夜と供に気配を薄めて佇んでいる。
「行こう!」
ユウが叫んでチラチーノをムーランドにぶつける。三人と三匹はそれに続いて、走り出した。フードの横を抜けて、ホドモエ方面に。何の妨害もしてこないフードに驚いて、ケースケは拍子抜けして後ろを振り向いた。フードの三人は時が止まったみたいに、その場から全く動いていない。姿勢も向きも一切変わらずに立っている。そこには違和感があった。
走っても走っても離れていく気がしなかったフードたちの気配は、こっち側に来てみると全く感じなくなっていた。ケースケは三人がゲートに入ったのを確認して、自分も身体を滑り込ませようとしたが、一度止まった。
恐怖を感じない。振り返ってみようかと思った。しかし、止める。振り返っても、そこにはもう、誰も居ない気がした。
○
「私、ケイって言います」
女の子がそう言った瞬間、ユウとケースケは固まった。
ホドモエシティに着いた四人は、ポケモンセンターに入った。ロビーで休みながら話をしていて、女の子が自己紹介をしているところだった。女の子の黒い長髪がソファの背に流れている。暗い橋の上では気づかなかったが、麦わら帽子を被っていた。色白で目がぱっちりとしていて、桃色の薄い唇で微笑む。こういう子が男子にモテるんだろうなあ、とケースケは率直な感想を抱いた。見るからに清楚だ。
格好は水色のワンピースに、フリンジ付きのモカシンブーツを合わせている。カーキ色の靴が少し汚れているのは、長い道のりを歩いてきたからなのだろうか。長い道のりを歩くのにモカシンブーツのような柔らかい靴は合わないから、どうしてなのだろうと思った。
「一応、ブリーダーをやってて、ちょっと不思議な能力があるんです」
「不思議な能力?」
これにはアイが食いついた。
「はい。ポケモンに触れると、その子を回復してあげることができます。あと、心を通わせれば、ポケモンの言いたいことも分かるようになります」
どうして女の子――ケイは、能力のことを言おうと思ったのだろう。ケースケたちは能力者だから、こういう能力があってもおかしくないと納得できるが、一般人が聞いたら距離を置きたくなるような内容だ。そんな疑問を口にしようとは思わなかったが、ケイは先回りして答えた。
「あなたたちも、能力者ですよね? 私、分かるんです。触ってみると、この人、能力者だなって」
いつ誰に触ったのかは分からなかったが、この子にはそういう能力もあるらしい。
「そうなんだ。ユウは能力者じゃないけど、私とケースケは能力者。ねぇ、もしかして、イオもバトル向きじゃない別の能力を持っていたんじゃない?」
最後の問いはケースケとユウに向けられたものだ。
「あ」と、思いついたようにユウが言う。
「そういえば、イオってポケモンの食べ物でも美味しそうに食べてたよね。ほら、逆立ちしながらパフォーマンスしてた……」
それを聞いて思わず吹き出した。
「そんな地味な能力に、俺の目の能力は相殺されたのか」
つまり、それが本当ならば、派手な能力から地味な能力まで様々あるが、相殺するならどんな能力でも可能というわけだ。
「えっと……」
気まずそうにケイが呟いた。
「あ、ごめん。君、ケイちゃんって言うんだよね?」
そう言ってユウが確認する。
「はい、ケイです」
「そうなんだ……」
呟くとユウが苦笑した。アイは何のことだか分からずにきょとんとしている。ユウに「初恋の相手?」と聞いて、「馬鹿」と罵られていた。ユウには珍しい。
まあ、それについてはケースケもアイを罵ってやりたいところなのだが。
「ケースケってのは、あだ名なんだ。本当の名前はケイ」
そう紹介したら、アイは目をまん丸くしたかと思うと、すぐに声を上げて笑い始めた。
「ごめん、初恋の相手」
「だから違うってば!」
「同じ名前ですね! よろしくお願いします、ケースケさん!」
ケースケさんと呼ばれて、アカリを思い出した。活動的で丁寧な口調にちょっとだけ、仲の良い相手にするような口調が見え隠れするのがアカリ。ケイはおっとりしていて育ちが良さそうな物腰で、丁寧な口調がまったくぶれない。いつの間にか、ケースケは女の子をアカリと比較してしまう癖がついたようだ。顔が熱い。
「あ、ケースケ、顔が赤くなってる。初恋の相手って言われて、満更でもないとか?」
アイがとうとう腹を抱えて笑い出した。
必死になって否定するユウが軽く頭を叩いたら、横腹に蹴りを食らって返り討ちにあっていた。ケースケも何か言おうとしたのだが、それを見て止めておくことにした。
「よろしく、ケイちゃん」
二人を無視してケイと握手した。
「やっぱり、能力者なんですね」
その笑顔にはどこか見覚えがあるような気がした。アイと握手したときと同じように、どこか懐かしい。いったい自分は女の子を誰と重ねて考えているのだろう。思い出そうとしてみても何一つ浮かんでこない。たとえば、三年前の思い出を語って、と言われても咄嗟には出てこないのと同じだ。思い出はふとした瞬間に、何かと関連づけて思い出されて、そういえばあの時はこうだったよね、と言う。思い出そうとして浮かぶ記憶じゃない。浮かんでからそれが思い出なのだと思い出す。そういうものだ。だからいつか、思い出すときが来るのかもしれない。
いつか。思い出したときには、何かが、変わるとでもいうのか。それとも勘違いなのか。能力者同士の潜在的な共感とか?
ロビーのテレビがニュースに切り替わった。
それは、ポケモンセンター連続襲撃事件についてだった。