第一章 旅をする子どもたち【2】
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そんなわけで終業式も終わり、スクール対抗大会の代表選抜戦も終わり、無事に夏休みを迎えたというわけだ。朝っぱらから、外ではマメパトが間延びした鳴き声で会話して、階下では母親がニュースの占いを見て悲鳴を上げている。まさしくその悲鳴で目を覚ましたわけだが、今日ばかりはその悲鳴にもお礼を言いたいくらいだった。時刻は七時。夏休み初日の朝にしては早すぎるくらい。しかし、旅立ちの朝にしてはなかなかに丁度いい時間帯である。
そう、ケースケ、本日旅に出ます。
昨日のうちから準備していた荷物はベッドの横にある。部屋もちゃんと掃除した。けれど気持ちの整理だけは着いていない。覚悟とかそういうのじゃなくて、アカリのこと。何の返事もせずに旅立つのか、なんて赤面のまま走って逃げ出したケースケが格好つけて言えるもんでもない。
思い出しただけで赤くなりそうな昨日の事件は、とりあえず頭の隅にやって、階下に降り、居間に入った。
旅に出ることを親に相談したのは昨日のことだ。もちろんスクールがあるし、まだまだ子どもなんだからずっと旅に出ているわけにもいかない。夏休み中に帰ってくるという条件付きで、旅に出ることが許された。
なぜだかケースケは近場で遊んでくるかのような感覚しか湧いてこなかった。旅に出るなんていう言葉があまりにも簡単すぎて、現実味が少しもない。それに、たった今「行ってきます」と言って出てきたケースケに、親はいつもどおり「いってらっしゃい」と返しただけだった。あまりにもいつも通りすぎる。さらには旅の供までもがいつもどおりなのだ。
「おはよう、ケースケ。君にしては早いんじゃないかな?」
ユウだ。旅に出ると言ったら、ついて行くと言ってくれた親友。もちろん目的は修行。その道中でスクール対抗大会に参加していく。会場は転々と変わるため、交通機関を使わなければ小さな旅くらいにはなるのだ。スクール対抗大会に優勝すれば、今度は地方代表になる。そうして地方代表大会に出られれば、夏休みを丸々有意義に使えるというわけだった。
「おはよう。旅に出るとなれば朝七時でも余裕だぜ」
主に母親の占い結果が悪かったおかげである。
「悪いけど、君の母さんの悲鳴は聞こえたよ。それまで寝てたんでしょ、どうせ。だって、寝癖ついてるし」
「げ」髪を触ってみると確かに寝癖がついている。無造作な髪に寝癖があってもあまり目立たないが、普段から見慣れているユウからすれば違和感があるらしい。
「まぁいいよ、髪くらい。とりあえずさ、まずはライモンだよな?」
「違う。その前に、アカリちゃんの家に」
「はい?」
声が裏返った。目もまん丸くなった。アカリちゃんの家? こんな朝から? 何のために?
「おい、まさか」
「そう、そのまさか。って言ってあげる僕に感謝して」
「アカリちゃんも旅の道連れにするのか!?」
確かに男二人だけじゃ華がない。男子二人に女子一人。旅においてこれ以上の比率はない。でも昨日の今日でそれは……とケースケは勝手に悩み始めた。
「違うよ変態! 昨日の返事してから旅に出るんだよ!」
「変態って何だよ! ってまぁ、そうだよなぁ。旅の道連れにはできないよな」
「落ち込んだ?」
「落ち込んでない! ほら、行くとこ決まったんだから、さっさと行こう」
そう言ったケースケの顔はすでに赤く、それを見たユウがくすくすと笑っている。もちろんケースケは無視を決め込んで、さっさと歩いて行く。
「あ」そこでケースケは気づいた。
「アカリちゃんの家って、どこ?」
○
昨日が初めてまともに喋った日なのだから、ケースケが住所なんて知っているはずもない。ユウの方は前から結構仲が良かったらしく、ちゃんと住所を知っているようだった。ヒウンストリートを少し入ったところの右手に見えたマンションがそうだ。その五階。なるほど、ユウが知らないはずないではないか。ユウはここの六階に住んでいた。所謂ご近所さんというやつだ。恐らくアカリの恋心を前から知っていて、昨日のように告白の手助けに踏み切ったのだろう。ずっと隠してきたのはさすがといったところだ。
さらにユウの準備は周到だった。エレベーターに乗って五階に下りると、エレベーター前でアカリが待っていたのだ。視線をユウに移すとそっぽを向かれた。またしてもやられたようだ。
ケースケの方は全く心の準備ができていなかったので、固まったまま動けなくなった。アカリは真剣な表情で見つめてくる。ほら、とユウが脇腹をつついた。あぁ、と呟きが洩れて、結局何も言えない。
「えっと」
間を取ったけれど、真っ赤になった顔と真っ白になった頭では、次に繋がる言葉を紡ぐことはできなかった。そうしている間にも、アカリの表情は寂しそうに翳っていく。早く何か言わなければ、とケースケは思った。
「あのさ、俺はこれから、旅に出るんだよ」
やっと出てきたのは言い訳めいたそんな言葉だった。
「うん、知ってますよ」
アカリとユウの仲が良かったなら、恐らくずっと前から知っていたのだろう。スクールの代表になったら、旅に出るということを。
「だから、えっと、そういうのはできないっていうか、あぁ、もうさ、一緒に来る?」
ユウが豆鉄砲を食らったマメパトみたいな顔をして、アカリは素直に「え」と驚きを表して、なぜだか言った本人であるケースケが一番びっくりしていた。こんなこと言うつもりはなかったし、まして誘うつもりなんて全くなかったのだ。言ってから後悔の念が押し寄せる。
「ありがとう、ケースケさん!」
すごく嬉しそうにお礼を言ってきた。ここまで来たらもう引き返せない。
「でも、残念だけど一緒には行きません」
それを聞いてほっとするケースケ。なぜだろう、ちょっとだけ残念な気持ちもある。
「そっか。そりゃ、そうだよな」
「違うんです。私は私で、旅に出ようと思ってるんですよ」
「え」と、これにはユウが驚いていた。
「旅に出るの? どうして?」
驚きもそのままに、ユウが聞く。
「私にはね、夢があるんですよ。ほら、これです」
そう言って鞄から取り出したのはカメラだ。焦りすぎていたケースケは、今初めてアカリが鞄を提げていたことに気づいた。カメラはというと、なんだかプロの方が使ってそうな、ごついカメラだ。最近流行ってるデジタルカメラみたいに、持つところは平らじゃなくて、小さな取っ手がついている。それに何より大きさが全然違う。カメラの大きさもそうだし、レンズの大きさも全然違った。
「これ、一眼レフです。私、全国のポケモンを写真に収めたいんですよ。だから、一緒には行きません。私は一人でポケモンスナップの旅に出ます」
ほんのりと頬を染めて、にっこりとほほえんだ。ケースケは何も言うことができなかった。アカリのその決意と、何よりも可愛すぎる笑顔に。
「そっかぁ、アカリちゃんも旅にでるのかぁ……」
ユウが呟くと、アカリは頷いた。
結局、告白の件は曖昧なまま先送りになった。
○
一回戦の会場はライモンシティのビッグスタジアムを借りて行うことになっている。一回戦の参加人数が一番多いのだから、イッシュ地方の中心に位置するライモンシティが会場になることも頷けるだろう。
ヒウンシティ出身のケースケとユウにとっては、幸運にも会場は近場であった。まずはヒウンシティを北に抜けて、四番道路へ。左手にリゾートデザートを見ながら、砂埃の被った道を行く。
旅にはトレーナー同士のバトルが付きものである。視線が交差すれば、火花が散る。片方が声をかければ、お互いにバトルの準備をしなくてはいけない。暗黙の了解のようなものがある。
二人の行く手には、女の子がいた。ぱっと見て、同年代ではあるだろうが、背はケースケと同じくらいか、もしかしたら数センチくらい高いかもしれない。足下を見るとおしゃれな白いサンダルで、ヒールの類いではないから身長を高く見せているわけでもないだろう。デニムのホットパンツからは細い足がすらりと伸びる。それと白にワンポイントのノースリーブで、中性的な小顔と軽めのボブカットが服装と微妙にミスマッチ。それでも元がいいおかげで、合わないその取り合わせもファッションに見えてしまうから不思議だ。
目が合った。どこかきつそうな視線に、ケースケは思わず怯んでしまう。かと思いきや、その女の子は二人に向かって歩いてくる。周りを見渡しても、二人しかいない。やはりケースケとユウに用があるらしい。
「ねぇ」
素っ気ない声がかけられた。反応するよりも早く、女の子は先を続ける。
「あんたたち、トレーナーでしょ? バトル、しない?」
女の子はトレーナーだった。小さなウエストポーチを腰に巻いている。恐らくボールはそこに入っているのだろう。
「いいけど、俺たち結構強いよ?」
「いいよ。強い方が好都合。そっち二人だから、二対一でいいよね?」
ケースケとユウは顔を見合わせた。いくらなんでも二対一は無謀だ。強い弱いに関わらず、そんなバトルは普通にするもんじゃない。
「ハンデよ、ハンデ。私、すごく強いから」
「言っておくけど、俺たちも弱くない。俺はヒウンスクールの代表だし、こいつは代表戦こそ出なかったけど、俺の練習に付き合ってるから、結構強い。お前、そんなに強いなら俺が相手になるけど」
ふぅん、女の子は値踏みするようにケースケを見る。
「わかった。じゃあ、あんたが相手になってよ。三対三のシングルバトルでいいよね? 私、三匹しか持ってないし」
「それでいい。えっと、お前、名前は? 俺はケースケで、こっちはユウだけど」
ユウがよろしく、と付け足した。
「私は、アイ。よろしく」
○
夏休みの初日くらいだと、まだ四番道路あたりを歩くスクール生は少ない。これがもう少し日が経って、そろそろ街から出ようという気になってくると、リゾートデザートで遊ぼうとする子どもたちがちらほら足を運び始める。
朝が早いこともあって、四番道路は人通りもほとんどなく、シングルバトルには打ってつけの戦場になった。
向かい合うケースケとアイ。ケースケがボールを投げると、アイもボールを投げた。エテボースが光を突き破って道路に降り立ち、対するアイのポケモン、コジョンド。相性では圧倒的に不利。だが、ケースケの戦術では相性などほとんど関係ない。攻撃も当たらなければ意味がないのだから。
「ジャッジは僕がするね。それじゃ、バトル開始!」
ユウの掛け声で二人のバトルが始まった。
ケースケは戦術通り、手始めに「ねこだまし」で攻撃する。相手のコジョンドも同じように「ねこだまし」で攻撃しようとしたのだろうが、素の速さではエテボースが勝る。攻撃のぶつかり合いは、まずエテボースが制した。それから二匹とも一端退き、にらみ合う。
ケースケの場合、次は回避行動だ。回避から相手の隙をついてのカウンター攻撃。まずは動いてもらわないと始まらない。
が、相手は一歩たりとも動かなかった。
「どうした? もう怖じ気づいたのか?」
ケースケには珍しく、挑発で相手を誘う。
「そっちこそ、怖くて攻撃ができないんでしょ?」
アイも挑発に挑発で答えた。
再びにらみ合いが続く。やがて、しびれを切らしたアイの方がコジョンドに指示を出した。とびひざげり。その技は当たってしまえば、ノーマルタイプのエテボースには致命傷だろう。走り出したコジョンドの後から砂埃が追いかける。かなり速い。けれど、ケースケの前ではそれも無意味。そのはずだった。
「なっ、エテボース、避けろ!」
慌てすぎてまともな指示が出せなかった。その理由はただ一つ。どういうわけか、いつものようにケースケの不思議な能力が発動しない。
何が起きている?
エテボースが間一髪のところでコジョンドの攻撃を避ける。これが当たりにくい技じゃなかったら、まともな指示を受けられなかったエテボースは倒れていたかもしれない。
とにかく今はチャンスだ。マイクに向かって指示を出す。地面に突っ込んだコジョンドに向けて、エテボースがダブルアタックを叩き込む。鈍い打撃音が早朝の空の下に聞こえた。衝撃に波紋のようにして吹き上がる砂埃。耐久力のないコジョンドにはかなりのダメージを与えたはずだが、攻撃を受けたコジョンドは耐えて身を翻し、態勢を整えるために一度アイの元に戻った。
アイを見てみると、驚愕に目を見開いている。避けられることがそんなに珍しいことなのか、と考えるケースケも胸中は穏やかではなかった。いつもの能力が発動しない。戦術が使えない。知らず流れた汗が目に入った。目を擦ってみても、世界は変わらない。普段から能力に頼りすぎていたことを思い知らされた。奥歯を噛みしめる。
「ねぇ、あんた、何者?」
そんなことを言われても、そう聞きたいのはケースケの方だった。
「お前こそ何者だよ」
まさか、と言ってアイは思案し始める。
「あのさ」
それからアイは口を開いた。
「もしかしてあんた、あんたも、あれ、使えるの?」
え、思わず声が洩れた。
あれ。使える。恐らくそういうことだ。ずっと自分は特別だと思っていた。この能力のおかげでケースケは負けなし。無敵だった。けれど、ずるをしているみたいで、ユウ以外には誰にも言わず、ずっと秘密にしてきた能力だった。それが、さっき会ったばかりのアイにあっさり見抜かれた。その能力を使おうとしていたことを、いとも容易く。なぜか頭に血が上る。顔が熱くなる。ぼーっとし始めた。
そしてケースケは呟く。
「ごめん、俺の負けでいいよ」
何に対して謝ったのか分からない。驚いて振り返るエテボースを、さっさとボールに戻して、びっくりして声をかけてくるユウも無視する。
「行こう、ユウ」
ライモンシティの方に歩き出す。これは、逃げだ。分かっている。でも、逃げなきゃ。逃げなきゃ、なにか、なにかが崩れてしまうような気がする。なにかが終わってしまうような気がする。
アイの横を素通り。
「ちょっと待って!」
しようとしたところで腕を掴まれた。
「待ってよ、なんで逃げるの」
「俺の負けでいいって言っただろ? お前の勝ち。それで何の文句があるんだよ!」
頭に上った血は、ケースケから冷静な思考を欠いていた。なんで自分が怒鳴ったのか分からない。でもそうしなきゃいけない気がした。初めての敗戦をごまかしたかったのかもしれない。そうでもしないと、きっと泣き出してしまうのだ。
アイは黙ってケースケを見ていた。ほとんど目線は変わらないけれど、ケースケよりもほんのちょっとだけ背が高いようだ。そんな目で見ないでくれ。ケースケの内心は恐らく顔に出ていただろう。自分でも分かった。顔がちょっとずつゆがんでしまうのが。
「そこの子どもたち」
そのとき、リゾートデザートの方から声が聞こえた。民家からおばさんが顔を出している。バトルの騒がしさと、二人の言い合いが聞こえたのだろう。三人の視線は民家のおばさんに移った。
「とりあえず、休んでいきなさい」
おばさんはにっこりと笑った。一筋の涙がすっと頬を伝った。慌ててぬぐって、見られていないか確認する。アイもユウもお婆さんの方を向いていて、気づいていなかったようだ。
ケースケの頭からようやく血が下がっていった。
○
「なるほどね。それがあんたの能力なんだ」
ケースケが説明し終えたところでアイは驚く様子もなく、納得したようにそう言った。
おばさんは気を利かして別の部屋にいる。この部屋にいるのは三人だけで、話しながら休むには申し分のない環境だ。
「私の能力について説明するよ」
アイは缶のサイコソーダを一口含んで、テーブルに置き、話し始めようとしたところでむせた。
「お前、炭酸苦手だろ」
「う、うるさい」
むせながら返す言葉には説得力がない。
「あと、お前じゃなくて、そろそろアイって呼んでよ。違和感あるし。……けほっ、私もケースケとユウって、呼ぶから」
「おう。じゃあ、アイ、能力の説明よろしく」
ない胸を叩いて気道を戻して、アイは話し始める。
「私の能力は、バトルの時だけ相手の心が読めるの。読めるっていうか、心の声が聞こえてくる。人間もそうだし、ポケモンも。だから相手の次の行動が読めるし、後攻に回れば、避けてカウンターの繰り返しができた。でも、やっぱりケースケと同じように、さっきのバトルでは発動しなかった。なんでだと思う?」
ふむ、ケースケもサイコソーダを口に含む。
「げほっ、えほっ」
「あんた、炭酸苦手なのね」
むせた。隣ではユウもむせているから、サイコソーダはよっぽどサイコな炭酸なのだろうと思う。ちゃんと治まってからケースケは口を開いた。
「やっぱりさ、能力者同士のバトルだと、能力は発動しないんじゃないか。なんか、こう、相殺するみたいな感じで」
「たぶん、そう。私とケースケがバトルするときは、能力を使わずに戦わなきゃいけないってわけね。ちょっと驚いたけど、考えてみたら納得」
そこでユウが口をはさんだ。
「ねぇ、さすがに長居しすぎじゃないかな? サイコソーダが出てきたあたりから、そろそろ帰れって意味じゃないかと思ってたんだけど……」
確かに。考えてみるとサイコソーダはもっとゆっくりしていきなさい、という意味ではなくさっさと帰れという意味が込められているのかもしれない。なにしろサイコソーダはサイコなのだから、飲めばむせる。休ませてもらって文句を言うのもどうかと思うが、飲み物にサイコソーダを選ぶあたりは、いかがなものかと思う。
「とりあえず、出るか……。いや、その前に、アイはこれからどこ行こうとしてた?」
「別に予定はなかったけど。ケースケは、スクールの代表だから、会場に向かうところ? それならライモンシティよね。一緒に行ってもいい?」
「ん、まぁ、いいよ」
ちらりとユウの方を見るとすました童顔がそこにある。問題はなさそうだ。
「おばさん、ごちそうさまでしたー!」
隣の部屋にまで聞こえるくらいの声で叫ぶと、ケースケたちは民家を後にしてライモンシティに向かうことにする。