第五章 子どもたちが視た幻想【2】
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歪んだ空間にライチュウを放り込んだ。トリックルームの中でライチュウがゴチルゼルを相手にするという状況は、あまり楽なバトルにならない。
「さぁ、サイコキネシス」
アイはもはや技名を隠そうともせずに指示を出す。見えない力になすすべなく締め付けられるライチュウ。苦虫を噛みつぶし、マイクを通して指示を出す。ライチュウは苦痛に表情を歪めながらも、力を振り絞って念力の束縛を抜け出す。ゴチルゼルの横に転がりでて、天に向かって咆哮。電気が空中に飛び散り、歪んだ空間を突き抜けて弾けた。鼻を刺激するような焦げ臭いにおいが辺りに立ちこめる。
その場で跳び上がったライチュウは力の限り両手を振り上げ、歪んだ空間を切り裂くかのように振り下ろした。
一瞬の発光。追いかける轟音。ろくに防御もできないゴチルゼルを「かみなり」が貫いた。
「これくらい、予想はしていたから」
歓声に掻き消されそうでも、アイがそう言ったのをしかと聞いた。いかにも計画通りにいかなかったかのような、悔しそうな表情だった。
歪んだ空間は続く。ぐにゃぐにゃと波打つ気持ち悪い空間に向けて、アイはボールを放った。
そういえば、とケースケは考える。
アイの三匹目のポケモンは何だろう。コジョンドとゴチルゼルしか見てこなかった。今さらだけれど、三匹目の存在を知らなかったことで、不利になってしまのではないだろうかという不安が過ぎる。
「不安なんでしょ?」
ケースケはどきりとした。胸中を当てられて驚きが表情に出てしまったかもしれない。アイは意地悪そうに微笑んだ。
「私の三匹目は、これ」
瞬間、地面にボールが落ちて、光が弾ける。生まれた白い光は背の高いポケモンを形成していく。ケースケは大きめに形作られていく光を見て、素直にまた負けてしまうかもしれないと思った。現在のフィールドはトリックルーム。恐らく速さがなくても力ばかりは強大、そんなポケモンが出てくるのだろう。そいつが歪んだ空間の中では、光のように動き、厄災のようにその強大な力をふるうのだ。
案の定、と言ってもよかった。およそ人間の背丈ほどの高さだが、幅は広く、しかし体躯は細め。大きな翼に鋭い爪。硬質な青い身体と、毒々しい赤のトゲ。クリムガンが宙に炎を吐き出した。スタジアムに響く音が大きくなっていく。目に垂れてきた冷や汗を袖で拭って、ケースケは打開策を考え始めた。
「トリックルームが終わる前に片付けなきゃ」
アイがそう言った、次の瞬間にはもうクリムガンが動き出している。消えたのかと思うくらい一瞬にしてライチュウの眼前に現れた。見えたかと思いきや後ろに振りかぶってためを作っていた右手が、視認できないような速さでライチュウを突き飛ばす。「ドラゴンクロー」だった。その一撃でライチュウは歪んだ空間を通り抜けて、壁まで吹っ飛んだ。スタンド席下の広い壁に叩きつけられて、動けなくなり、それと同時にトリックルームは消えていった。
「あらら、残念」
まったく残念じゃなさそうに言うアイを無視して、ライチュウをボールに戻すと、電光掲示板の表示が変わるとともにスタジアムも盛り上がりを見せる。
そして、ケースケにとっては最後の一匹。最高の切り札。最強の相棒。アイに対抗する、その一手。
「エテボース!」
ずっと一緒に戦ってきたこいつなら、なんとかしてくれるんじゃないかと思った。確かに戦い方はワンパターンだったろうし、ただひたすら先の見えた行動をとるだけでよかったかもしれない。でもこの戦いは、今までとはまったく違ったものになる。ワンパターンでは先を読まれるし、いつものように未来を見ることはできないから、状況ごとの判断が求められる。それでも、なんとかしてくれるんじゃないか、そう思った。
エテボースが動きの鈍いクリムガンに向かっていく。まずは一撃、ねこだまし。それから空中に跳び上がって、二つの尻尾を力強く叩きつけ、ダブルアタック。すかさず「とんぼがえり」で攻撃して距離を取る。小技の連続かもしれないが、受け続ければ結構なダメージになる。
「こっちは一撃当てれば勝ちなんだから! ばかぢから!」
あぁ、確かにそれが当たってしまえば、このバトルは終了してしまう。エテボースが縋るような目で見つめてきた。違う、違うだろう。お前が見なきゃいけないのは、こっちじゃなくて、クリムガンの方なんだ。もちろん心の中で呟いたその言葉は伝わらなくて、エテボースは視線を向けたまま離さない。前にもこんなことがなかっただろうか。そうか、あれも大会中のことだった。アルとの一戦。そうだ、エテボースは、ずっと指示を待っているんだ。
――――刹那の未来を視てきた俺の指示を、信じて。
途端、何かが吹っ切れた。もっと大胆に戦ってもいいのではないかと思った。どうせ作戦なんてほとんどない。でも、今それに気づいたとして、何ができる?
「えっ、どうして」
だからアイがそう呟いたのも、クリムガンがまったく動けなくなったのも、ただの偶然だったのだ。
「もしかして、ライチュウの特性で……」
クリムガンは麻痺していた。ライチュウの特性「せいでんき」によって自由を奪われていた。
それは、奇跡だった。残された最後のチャンスだった。
「ギガインパクトだあぁぁぁ!」
ヘッドセットのスイッチが入っているにも関わらず、クリムガンに向けた一撃を力の限り叫んだ。
エテボースが笑った。
向き直って疾走。普段よりも軽快な動きに見えたのは錯覚か。あっという間に肉薄したエテボースが、二つの尻尾を背後で構える。動けないクリムガンに向かって、最強の一撃。空気の圧縮された音が聞こえて、尻尾が同時に撃ち出される。クリムガンの身体を叩いた瞬間に爆音がスタジアムを震わせた。衝撃が床を穿ち、飛んだ破片がケースケの足下に転がり、弛緩したクリムガンは体躯を床に擦らせ、意思を無視してそのまま壁に叩きつけられる。ぐったり、動けなくなった。
途端にスタジアムが歓声に沸く。色んな音が混ざって次々にケースケの耳に入るが、まだ終わっていないのだと自分に言い聞かせて、目眩に襲われそうになる頭を制御する。
「まさか、やられるなんて」
アイが奥歯を噛みしめていた。
「結局、最初のバトルと同じ組み合わせになるんだね」
スタジアムの中央に出てきたコジョンドと、ケースケのエテボースは向かい合う。あの時も能力は使えなくて、今も当然使えない。純粋な力と力のぶつかり合いだ。相性は悪いかもしれない。でも、負けるつもりはない。
「負けないからな。俺は、絶対に勝つんだ!」
宣言した直後、観客席にユウの姿を見た気がした。
はっ、と脳裏をかすめたのはあの言葉だ。
―――――ぼくたちはこんなふうにして大人になるんじゃないだろう?
今でもそう言うかのように、一瞬だけ見えたユウの表情は、曇っていたような気がする。つまり、チャンピオンになるというケースケの夢を否定し、バトルで勝って成長していくのを否定しているということだ。
違う。否定されていいはずがない。これが、俺の夢なんだから。負けたりなんかしない。勝って認めさせてやる。あの手紙は、間違いだったんだろうって!
「コジョンド、ねこだまし!」
アイが攻撃の口火を切った。
それに対応してケースケの方でも「ねこだまし」の指示を出す。エテボースもそうくるだろうと分かっていて準備はできていたようだ。すぐに反応して、コジョンドよりも速く動いて攻撃を当てた。それから怯んだ相手にダブルアタックを当てるのだ。
「甘いね」それはアイの声だ。
怯んでいるはずのコジョンドが動き出した。ダブルアタックを繰り出そうとして振りかぶっているエテボースは、空中でバランスのとれない不安定な状態だった。そこに叩き込まれるのは「とびひざげり」だ。
受け身の一つも取れずに、エテボースは鞠のように突き飛ばされて床を弾んだ。
「なんでだ」そんな端的な問いにアイは得意気に答える。
「私は初めて会った相手とのバトルで、コジョンドに演技を命じたんだ。本当はひるまないのに、ひるんだふりをさせるの。もう一度戦うかもしれないその時に、バトルを有利に運ぶため。それと、あんたの驚いた顔を見るためにね」
それから「せいしんりょく」と言った。怯ませる攻撃を受けても怯まない特性の名前だ。
「くそっ!」叫んでもエテボースはスタジアムの床で小さく動くだけだ。これくらいではまだ倒れないんだ。ヨプの実を持たせているから。ケースケはそう言ってやりたかったけれど、現実には、エテボースがまだ立ち上がれていないのだ。立ってくれ、頼む。立ってくれよ。マイクを通じて呟く。涙が出てきそうだった。そろそろ勝負を決する判定が出てしまうだろうか。ジャッジを見ると、まだ動く気配がない。恐らくエテボースが立ち上がることを分かっているのだろう。こんな一撃で終わるようなポケモンじゃないと、パートナーじゃない赤の他人ですら、信じてくれている。
「それなら、立つしかないよな」
ぼろぼろの身体はすごく重そうだった。全身を小さく震わせて、なんとか起き上がろうと頑張っている。スタジアムの歓声が倒れたエテボースに降り注いでいた。
そうして、エテボースは起きた。震える足を尻尾で支えて、スタジアムに立つ。
「そうこなくっちゃ」
余裕の笑みでアイはコジョンドに指示を出した。コジョンドがエテボースとの距離を詰めてくる。真っ向から立ち向かうだけでは、当然勝算なんてあるはずもない。
ケースケはスタジアムを見渡した。せいぜいあるものと言えば、プテラを相手にコジョンドが使った「いわなだれ」の残骸くらいなものだ。大きな岩が少し離れたところで転がっている。
なんて場当たり的だろう。作戦がないにもほどがある。でも、勝てる可能性があるならそれに賭けてみるのも悪くない。ケースケにとってはたった今思いついたそれが最後の手段だった。マイクに向かって小さな声で指示を出す。
「あとは、エテボース。お前に任せたよ」
ケースケは見守るだけだ。
迫ってきたコジョンドを避けて、エテボースは岩が落ちている方へと走る。岩の大きさはエテボースが隠れるくらいの背がある。作戦を遂行するには十分な大きさだった。
「逃げるの!?」
とびひざげりを仕掛けていたコジョンドが、たった今までエテボースが居た場所に勢い余って突っ込んでいる。一瞬にかけるしかない。比較的大きな岩の陰に隠れた。
攻撃を仕掛けるとするなら、岩の両脇か上、どれか三方向のうち一つを選ばなければいけない。そのうちの一つに賭けて攻撃を繰り出すというのも悪くはない。しかし、それじゃあ結局運任せだ。もっと勝率を上げなければいけない。
もしも、三方向のうちのどれか一つを選んだとして、コジョンドが顔を出すタイミングはどれくらいの距離に迫ったときだろうか。まだ岩の近くまで来ていないところで、コジョンドが一つの方向に決めて動いていたら、エテボースはタイミングよく迎え打つことができる。だから、それは先読みされないギリギリの距離まで、岩の陰になる正面を走ってくるのではないか?
そうしてくれることが大前提だった。
「もう諦めてよ! あと一撃で終わりなんだから!」
そう、あと一撃で終わりだ。お互いに。コジョンドには耐久力がないのだから。
ヘッドセットから最後の指示を出した。「今だ」そのたった一言。凄まじい音をたてて岩が粉々になった。その正面にはコジョンドがいて、砕かれた岩の破片を浴びてたじろいでいる。勢いをつけたエテボースの両尾がそのままコジョンドの細い体躯を叩いた。鈍い音が歓声を割って轟いて、同時にコジョンドを空中に打ち上げる。スタジアムの中央で風が生まれて、ケースケの髪を後ろにさらった。砂埃のような臭いがして、突風の空気を切る音が聞こえた。思わず目を腕でかばう。岩が粉々になったせいだろうか、スタジアムには細かな砂埃が舞った。
「嘘でしょう……」
語尾の震える声で呟いたアイの眼前では、コジョンドが倒れていて、それを肩で息するようなエテボースが見下ろしていた。割れんばかりの歓声と拍手がスタジアムを包み込み、ジャッジはケースケの勝利を宣言した。
勝った。ついに、勝った!
地方対抗大会のイッシュ代表がここに決まった、とジャッジは高らかに叫んだ。
その時、アイと目が合った。けれど、アイの表情は人形みたいで、目には光が宿っていないかのようだった。そうして思い出した。
アイが勝ったら、何かを言いたいのではなかったか?
しかし、ケースケが勝ってしまった。それでは聞けないことになる。果たして、アイは何を言いたかったのだろう。
ジャッジがもっと全身で喜びを表現してもいいじゃないですか、とケースケに言った。そうだ、自分はスクール対抗大会に優勝し、地方対抗大会の代表になった。もっと喜ぶべきだ。アイのことは、本人に聞けばなんとかなるじゃないか。
笑顔になったケースケは、両手の拳を高らかと天に突き上げ、叫んだ。
――俺が勝者だ!