第四章 転回【1】
第四章 転回
1
「人質なんていないよ!」
アジトに入ってすぐ。レパルダスやワルビルがトレインの死骸の影から飛び出してきた。かつて車輌基地だったアジトは、一階のほとんどがトレインを収容するための広々とした空間になっている。バトルをするには格好の場所で、侵入者を袋だたきにするには申し分のない環境だった。
たった今アイが叫んだのは、能力を使って敵の内心を読んだからだ。最初からその可能性はあった。人質なんていない。けれど、ここまで来たのだからみなの心は決まっている。
「関係ない! サンゲン団を潰そうぜ!」
イオが楽しそうに叫ぶのを、ケースケはエテボースとライチュウの二匹に指示を出しながら聞いていた。もちろん同意だ。こんな罠をしかけるような相手を野放しにしておくわけにはいかない。
相変わらず芸がない。能力にばかり頼っていた頃のケースケよりも芸がない。ひたすらワルビルとレパルダスの人海戦術ならぬポケモン大海戦術。いい加減、学習しろというものだ。
ワルビルとレパルダスがエテボースを襲う。エテボースは一度後退。そこに再び別のレパルダスが襲い来る。さらに後退。既に見た光景だ。ケースケも数歩下がって対応する。
「危ない! 逃げ――――」
不意に緊張したアイの声が聞こえ、すぐに途切れた。振り返ろうにもエテボースには例の二匹が迫ってきている。景色が反転した。白と黒の色が左目に満ちる。アイの叫び声が耳に残っていた。世界は停止して、ゆっくりと未来を映し出す。レパルダスが跳んで、ワルビルは直進してくる。エテボースが退くと、深追いはして来ない。そして、視界は急降下した。
世界が元に戻る。
「な、なんだ、これ」
レパルダスが跳んだ。
「大丈夫か、アイ!」
アルの声が近くから聞こえて、目の前ではワルビルの直進が見えた。思わず一歩後ずさる。
「いてっ……どうしたの、ケースケ」
背中がユウにぶつかった。振り返ってみると、いつの間にか、部屋の中央に五人が集められている。少し離れたところに倒れたアイがいて、その周りでコジョンドとゴチルゼルが防戦していた。ワルビルとレパルダスが一斉に後退し、それから敵のトレーナーたちがほくそ笑んだ。
急に足場がなくなった。唐突な浮遊感に息が止まる。仲間たちの叫び声を聞く間、ケースケは冷や汗を浮かべながらも状況を冷静に分析していた。負けると分かっていながらも繰り返される敵の攻撃。さすがに敵も馬鹿ではない。
すべての攻撃は、大きな一撃への伏線だったのだ。
○
暗い。目を開けたはずなのに、広がるのは閉じていたときと同じ光景で、夢の中にいるようなぼんやりとした感覚に陥る。周囲で小さな物音が聞こえた。自然と息を殺して身を縮める。 急に後ろで光が灯り、ケースケは瞬時に前方へ転がり、身体をむき直してから後ろに跳んでさらに離れる。手が自然とモンスターボールに添えられていた。
「ケースケさん、私です」
暗闇に馴れてしまった目を擦ってよく見ると、そこにいたのはケイだった。一緒にシャンデらがいて、急に明るくなったのはシャンデラのおかげだったのだと分かる。
思わず安堵のため息が洩れた。
「みんな、いる?」
「いるみたいです。と言っても、まだ起きてないみたいですけれど……」
シャンデラが火力を強めて周囲を照らした。倒れたイオがいて、重なるようにユウ。それからアルが俯せに倒れていて、その下にムーランドの長いひげが敷かれている。ポケモンたちも何匹かいるようだ。
「ちょっと待って」
もう一度、見渡す。いない。もう一度。やはり、いない。
「アイがいない」
ケイもそれに気づいて苦い表情になった。
「私たち、落ちたんですよね。アイさんは上に残されちゃったんでしょうか」
そう、落ちた。敵の罠にはまって見事に落とされてしまった。周囲には壁しかなくて、どうやら出口はどこにもないようだ。
「たぶんそうだね。完全にしてやられた」
肩の力を抜いて、ため息を吐いてたところでアルが動き出した。呻いて起き上がる。
「アル、大丈夫か?」
ちょっとの間を置いて、大丈夫だ、と返ってきた。
「どういう状況だ」
「落ちた。閉じ込められた。どうしようもない。こんな感じ」
頭を掻きながら周囲を見渡している。確かに何もないことを確認するとため息をついた。
「これは、やられたな」
万事休すというやつだった。ケースケたちは、閉じ込められた。
○
恐らく一時間くらいは経った気がする。イオもユウも起き出して、なんとか脱出する手段はないかと考え出す。壁を叩いたり、天井を見上げてみたり。石の壁に囲まれた地下は、物一つない密室だった。もちろん何も見つからない。
「くそっ!」
イオが壁を蹴った。さっきアルが同じことをしていた。本当に抜けられる気がしない。
「冷静に考えてみれば、罠でしかなかったんだ……。人質がいないと分かった時点で帰ればよかった」
「ケースケの言うとおりだよ。ぼくたち、ここで死ぬのかもしれない」
ユウの不安が全員に伝わっていく。密室の中に沈黙が流れ始めた。それから諦めたようにアルが座り、続いてイオも大の字になって天井を仰いだ。
本当にどうしようもない。最初は天井を破壊してケースケのプテラで上がっていくことを考えたが、もちろん天井を破壊すれば瓦礫の下敷きになってしまう。だからこれは却下。壁を破壊することだって考えた。これだって危険だ。通路に繋がっている壁があるなら、そこを破壊すればいいのだけれど、壁しかないのなら全方位を破壊する途中で天井が崩れ始めるだろう。そうなればやはり瓦礫と一緒に生き埋めになる。
ケースケは苦虫を噛みつぶして、石の壁に凭れて座り込んだ。
「あ」ケイが声を洩した。
「もしかしたら、出られるかもしれません」
「本当か!?」
イオが勢いよく起き上がった。
「本当です。でも……かなり危険な賭けになります」
「いいよ。言ってみて」
先を促すとケイは言いにくそうに切り出した。
「要は、通路に繋がっている壁が分かればいいんですよね。石だから叩いても音の違いがない。だったら……火はどうでしょう」
「火?」
「はい。壁を熱して、少しでも空気の流れがあるなら、壁を燃やす火の色は変化するはずです」
「ちょっと待ってくれ」
アルが口をはさむ。
「もしもなかったら、酸素がなくなって窒息死だぞ。それに、たとえ空気の流れがあったとしても、そんなのは針の穴程度だろう。ぱっと見て判断できるようなものじゃない」
「そ、そうですよね……ごめんなさい」
謝らなくていいけど。アルがそう言って話は終わった。今回の策も、どうにもならなそうだった。
「……いや」アルが小さな声で言う。
「いけるかもしれない。俺の能力ならなんとかなるぞ!」
顔を輝かせて立ち上がる。
「物を焼けば微量でも臭いが出るんだ。針の穴程度ならどうなるか分からないけど、空気穴があれば臭いは流れるだろ。俺の異常な嗅覚ならその方向を特定して壁を破壊することができる!」
うーん、とユウが唸った。
「ぼくは同意できないな。だって熱されるってことは、空気は熱くなるってことだよね。最近授業でやらなかったっけ。上の方では暖かい空気が冷たい方へ。下の方では冷たい空気が暖かい方へ。ここは地下なんだよ……。それだとむしろ、こっちの部屋に空気が流れてくるんじゃないかな」
そういえばそんな勉強をやったような記憶がある。けれど、そんなことよりも、この作戦には重大な欠陥があるように思えた。アルの能力は臭いで場所の特定が可能、というのは聞いていたが、そんなに細かい範囲まで特定できるのだろうか。人間の能力としては限界がある気がする。異能力ならば可能なのだろうか。
「たぶん、地下は関係ない」
口を挟むと、皆の視線がケースケの方へ向いた。
「部屋の天井近くでは暖かい空気が冷たい方へ、床の近くではその逆ってことだと思う。だからアルの能力が、本当に細かい範囲まで特定できるなら問題ないと思う」
「範囲の特定なら問題ない。どうしてだか分からないが、臭いの違いで位置まで脳裏に浮かぶんだ。そういう能力だから、空気がちゃんと流れてるんなら特定できる!」
「でもリスクが高いのは同じことですよね」
ケイの一言に全員が黙った。
「誰か、水タイプのポケモン持ってませんか?」
「水タイプ? それならぼくが持ってるけど」
「そうか、鎮火しながらやるのか」
「それだと、何もしてないのと同じですよ」
だったら、どうするんだ。というアルの問いにケイは答える。
「壁一面に放水して、ケースケさんのライチュウで電気を流せば確実じゃないでしょうか。これなら酸素は簡単になくならないでしょうし」
「それだ! 確かにそれならリスクも少ない。ケースケのプテラと俺のウルガモスで空中に飛べればなんとかなる」
ついに打開策が決まった。皆の顔に光が灯る。イオだけは「さっぱり分からん!」と叫んでいるが、安心してほしい。実はケースケにも少し難しい内容だった。
「それでは皆さん、まずポケモンをボールに戻しましょう」
ライチュウとプテラを出してエテボースを引っ込めた。ユウのスワンナと、アルのウルガモスが出てきて、他のポケモンはボールに戻っていく。灯りの役割はシャンデラに代わってウルガモスが引き受けた。
「じゃあ、スワンナ。壁一面に放水!」
指示を受けてスワンナがとにかく念入りに放水を始めた。みるみるうちに壁は湿っていき、床にも水が少したまる。部屋の中が寒くなったような気がした。
「プテラに二人。ウルガモスに二人ってとこだな。さすがにスワンナに二人乗せるのは無理があるだろ」
ポケモンの大きさを見ればそれしか方法はない。それぞれに指示を出して、五人は飛び上がった。天井は落とされて気を失うだけあって、さすがに高い。五メートル以上あるだろうか。そんな高さから落とされたのかと思うと、改めてぞっとする。下手すれば打撲で済まないような怪我をしていた可能性もある。恐らくポケモンたちが助けてくれたのだと思うけれど、不幸中の幸いというやつだった。
アルが能力を使うために目を閉じて集中する。
「さあ、ライチュウ。十万ボルト!」
湿った室内に電気が流れた。ばちばちと跳ね回る電気は空中にも飛んできて、危うく当たりそうになる。イオは悲鳴を上げながらもどこか楽しそうだった。いや、どう考えてもこれは本当に危険だ。ユウなんかは泣きそうになっている。
目を閉じていたアルが口角を持ち上げて、思いっきり目を見開いた。
「頼むぜケースケ! そこだ!」
アルが九十度反転して壁を指さす。プテラを向き直らせた。
「プテラ、はかいこうせんだ!」
指示を受けたプテラが翼を動かして、大きく胴体を反らせる。空気の収束する細い音が聞こえて、密室に静けさが増したかと思うと、その静寂は一気に敗れ去った。
轟音とともに極彩色の光線が放射され、空気を焦がし、床の水を波立たせて、一直線に一点へ向かう。そして、一瞬で破壊。
崩れた壁の先には、通路があった。