第二部 超速の空間 後
◇ ◇ ◇
通路を叫びながら走るというのは最悪なマナー違反だ。おかげでムカイの微睡み始めていた頭は中途半端に活動を再開して、寝不足のような気持ち悪さが残った。今日は心から嫌いなロケット団に遭遇したり、あまり調子の上がらない日ではある。だというのにタマムシ・ヤマブキ間のゲートの担当に回るよう指示が来た。なんでも担当だった人がサイコソーダわさび味を飲んで運ばれたとか。自然公園は大会が終われば暇だから、ちょうどよくムカイくらいしか回れる者がいなかったのだろう。ちょっとした災難だった。
ムカイはうっすらと目を開けて、ぼんやり車内のどこか一点を見つめていた。シートに深く座り込み、肘をたてて頬杖をついている。時おり天井から騒々しい音が聞こえてくるのだが、飛んできたものがぶつかっていたりするのだろうと思って気にしないことにする。さすがリニアはトレーナー同士のトラブルに備えて丈夫に作られているだけある。そんなことを考えているときのことだ。一号車に繋がる自動ドアが開き、スーツを着た男が現れた。
胸元を大きく開いて、そこには赤いアザが覗いていた。
寝ぼけ眼だったムカイは完全に覚醒する。その男に覚えがあった。意図せずにびりびりと冷え始めた頭が間違いないことを伝えている。
スーツの男はムカイなど視界の端にも止めずに歩いてくる。ポケットに手を突っ込み、猫背のままムカイの横を通り過ぎた。
ムカイがまだトレーナースクールにも上がらない頃のことだっただろう。それは二十年前のとある日の記憶であるにも関わらず、未だ鮮明なまま褪せる気配のないトラウマだ。
ムカイの父親はシルフカンパニーに勤める研究員だった。父は仕事のことについて詳しく語らない性分だったため、ムカイはあまりよく知らなかった。だから知っているのは研究員だということだけで、それ以上のことはよく知らない。それでもシルフカンパニーをロケット団が占領したとき、父を含む研究員は動物のように扱われていたに違いない。
ムカイ自身もその事件が起こった日は不幸だった。幼いムカイにとっては何でもない休日であるはずだったのに。
家が近いからという理由と、シルフカンパニーがそれほど厳しい社則ではないことから、休日になると決まってムカイはシルフカンパニーのロビーに繰り出していた。ロビーのソファに座って大人しく本を読む。休み時間になると顔なじみの社員や父親とお話をする。けれど、その日だけは違う。顔なじみの社員でも父親でもなくて、話しかけてきたのは全身を地味な制服で包んだ男。本から目を離して周りを見てみると、似たような男たちが物騒な得物を手にして何事か叫び声を上げている。その場は騒然としていて、ムカイには何が起こっているのか理解ができなかった。
どすの利いた声が話しかけてくるのを無視して、ムカイは慌てて非常階段に走り出した。幼い子供だからなのか、追いかけてくる者は居ない。必死で階段を駆け上り、父親がいる研究室の階に辿り着く。そこでもロケット団が占拠していて、研究員はみな両手を挙げて部屋の隅に追いやられていた。息を切らしたムカイが部屋に入ってきたのに気づいて、ムチュールが駆け寄ってくる。父がいつも連れているポケモンだった。父はムカイの姿を見て、一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに目をそらした。嫌われてしまったのだと思って駆け寄ろうとすると、ロケット団の男に捕まる。そこで父親の叫び声が聞こえたけれど、今では何を喋っていたのかなんて覚えていない。覚えているのは、その時に何やら物騒なものを父に向けた男の容貌。
一人だけ下っ端の制服じゃなくて、胸元を大きく開けた改造制服を着た若い男。そこには真っ赤な傷痕があった。
父と数人の研究員がその男によって連れて行かれる。捕まえられて、持ち上げられていたムカイは、じたばたともがく。待って、行かないで、そんなことを叫んでも父は悲しげな表情を向けてくるだけで、立ち止まることも、何かの言葉を発することもなかった。エレベーターが開き、乗せられ、扉が閉まる。涙で視界がぼやけて、全身の力が抜けた。泣き叫ぶことはなかった。
その日から、ムカイの父親は消えている。
「待ちなよ」
思わず零れた言葉は自分のものではないかのようだった。いつの間にかやり場のない怒りが頭に上っている。
父親が消えた事件に、この男も関わっている。けれど、ここでやつを止めてどうなる? 二十年前の悲劇がないことになって、父親が帰ってくるとでもいうのか?
スーツの男は猫背のまま静かに振り返った。頬杖をついたまま目線を後ろにやっているムカイと目が合った。
「なんだぁ、お前」
細めた目を見てもムカイは怯まない。そんなものに怯えるような感情は、すでに怒りで焼け付いていた。
「ロケット団だろ、あんた。あたしの敵なんだよ、ロケット団は」
そうは言ったものの、男はスーツ姿であり、ロケット団の制服を着ているわけではない。もちろん白を切られればそれで終わりなのだが、男は律儀にもちゃんと答えてくれた。
「元、だ。今の俺はロケット団じゃねぇよ。つーか、なんで知ってんだ」
睨みつける細目は、猫というよりは蛇のような凶悪さだった。負けじとにらみ返す。
「あんたに教える義理はないね。とにかく、ロケット団なら生きて通らせるわけないだろ」
「かはは! 元だっつーの! まぁ、俺は好戦的な女ってぇのも嫌いじゃないぜ?」
不敵な笑みをその顔に浮かべて、スーツの男はモンスターボールを取り出した。反射的にムカイもボールを取り出し、男よりも早く放る。光がポケモンの形を作り上げていく。続いて男もボールを放り、追いかけるように白い光が形になる。
ムカイが出したのはルージュラだった。父親の残したムチュールが、今では進化してルージュラになっている。自分と同じように子どもから大人になった。家族が一人欠けた生活を続けてきたのだ。それを糧にして生きて、果たして強くなれたかどうかは分からないけれど、自分のトラウマを引き起こす人間を目の前にして、少なくとも泣きはしなくなった。強さはこれから証明すればいい。
「あたしが勝つ!」
自分自身を鼓舞する。ここでこいつを止めてどうするか? 簡単な答えだ。積年の恨みを晴らしてやればいい!
「ルージュラ、れいとうビーム!」
「かははっ、威勢がいいな!」
男が従えるポケモンはサンダースだった。針のように鋭い黄色の体毛が全身を覆っているポケモン。白いたてがみからは電気が流れる。
「守れ、サンダース!」
男が指示を出した。サンダースの前には光で作られた壁が現れる。しかし空を駆ける攻撃的な冷気は、サンダースと男の横を通り、一直線に彼らの後方へと突き進んでいった。
明らかに目標をサンダースから外した。不意を突かれた男はしばらく状況に頭が追いついてこなかった。
「くそっ、そういうことか」
ようやく気づいたところでもう遅い。
ルージュラの放射する冷気が、車内の至るところを凍りづけにしていく。連絡通路に続く扉はもちろん、分厚い窓も、整然と並ぶ座席も。
あっという間に車輌は凍り付き、束の間の密室が出来上がった。
「あたしとルージュラの氷の世界だ。逃がさないよ」
低下する室温に反して、ムカイの全身は寒さよりも暑さに親和を見いだす。あらゆる感情で熱くなった全身は、氷の世界でも冷えてくれそうにはなかった。
「おもしれぇな! 逃がさないってことは、逃げられないってことだ。もしかすっと、裏目に出るかもしれないぜ?」
「そういうことは勝ってから言いな! ふぶき!」
車内に風が起きた。舞い始めた雪が敵意を以ってサンダースに襲いかかる。男が咄嗟に指示を出した高速移動で、受けるダメージは最小限に抑えたが、それでも大技なだけあってかなりの消耗を強いられる。
「こんな狭いところで、えぐいことしてくれるな……」
男が呟き、続けて指示を飛ばす。吹雪がやんだ頃を見計らって、サンダースは十万ボルトで反撃に出た。
攻撃から防御に移る余裕もなく、ルージュラはまともに電撃をくらってしまう。
ムカイが舌打ちをした。ルージュラは元々耐久力に自信の無いポケモンだから、何発も攻撃を受けることはできない。特にサンダースのような攻撃力に優れたポケモンなら、持ち堪えられるとしても二、三発だろう。もしもルージュラの弱点を突くような攻撃がくれば――
「シャドーボールだ」
サンダースに指示が下った。
その技はルージュラの弱点を突くゴーストタイプ。食らえば一撃で沈む。
機敏な動きで、サンダースはルージュラの背後を取った。空中に生み出される影色の球体。空気を巻き込んで膨れあがる小さなブラックホールが、ルージュラを再起不能に追いやろうとしている。
技が放たれるその直前、
「まもれ!」
見えない壁でシャドーボールをなんとか防ぐ。間一髪のところで危機は逃れたが、まだ次の攻撃がある。シャドーボールを一度でも受ければ瀕死だ。状況はなんら変わっていない。
「かはは! 精一杯あがいてみせろ!」
再びサンダースは高速移動でルージュラの背後に回る。
後ろに回ってくるだろうということは、ムカイにもルージュラにも予想はできた。すぐに振り向き、臨戦態勢を取る。しかしサンダースはまだ脚を止めない。床を蹴り、座席を蹴り、凍り付いた網棚を蹴った。
「終わりだ! シャドーボール!」
男が声高に命令を下す。
ムカイは天井を見上げた。ルージュラは天井に向けて両手を掲げる。
サンダースが天井すれすれまで飛び上がった。
◇ ◇ ◇
走るリニアの屋根の上。
体力をかなり消耗したガラガラはミヤナギの手持ちで、たった今ケンタが出したのはヘラクロス。二匹にクラボのヘルガーとバンジのキリンリキが対峙する。
トリックルームが作り上げた空間はバリヤードが居る限り崩れたりはしないだろう。
緊張に包まれた空気を壊すかのように、ミヤナギが「はー」と大きなため息を吐きつつ伸びをした。
「ケンタ、そろそろ本気出そう」
戦えるポケモンが残り二匹のミヤナギにとって、その言葉はハッタリでしかない。そんな虚勢をさらに飾るように、ケンタも冷や汗で首筋を濡らしながら、「仕方ない、本気で行くかっ!」わざとらしく返事をする。
まるで舞台上の演技だ。ロケット団の二人を少しでも怯ませることができれば、策を練るための時間が稼げる。そう思ってミヤナギが安堵しかけたとき、二人はバンジの一言に凍り付いた。
――嘘。
何も飾らないたった一言だ。殊更に真剣なバンジの眼差しが、ミヤナギとケンタを見据えている。二人は咄嗟に反応ができなかった。慌てて開いた口が震えて言葉を紡げず、動揺は隠しきれない。隣のケンタは唇を噛んで、残りのモンスターボールを手で確認していた。
ハッタリは見破られていた。
「分かりやすいっすね! こっちこそ本当に手加減しないっすよ!」
不意を打ってキリンリキに指示を出してくる。慌ててガラガラで向かい打とうとするが、一瞬の遅れがそれをさせなかった。
走るキリンリキの先にはヘラクロスがいる。気づいたケンタがヘラクロスに指示を出す。ケンタは唇を噛みながらも勝機を知っている表情をしていた。ヘラクロスが走り出す。進行方向を遮るように、ゆがんだ空間がねじ曲がった。キリンリキの放つサイコキネシス。虫・格闘をタイプに持つヘラクロスの弱点を突いた大技だ。
「ハッタリじゃない」
ケンタが呟いた。
ねじ曲げられた空間、ヘラクロスは両手で身体を支えながら、持ち堪えていた。崩れない。そしてサイコキネシスを抜け出し、再び走り始める。
「……沈まない!? まさか、きあいのタスキっすか!」
「虫取り少年をなめるなぁ! ヘラクロス、インファイト!」
直後、バンジはキリンリキに守るの指示を出した。
ケンタは笑った。うまくいった。本当にそう呟いて笑った。走るヘラクロスはキリンリキの横を素通りする。その先にいたのは、ガラガラとにらみ合うヘルガー。防御体勢に入れていなかったヘルガーは、インファイトを無抵抗でたたき込まれて、勢いよく宙に舞った。
「容赦ねぇのか!」
クラボが空中のヘルガーをモンスターボールに戻した。危うくトリックルームの外に出てしまうところだったのだ。外に出てしまえば、本来の速度を取り戻した世界が、躊躇うことなくヘルガーをさらっていく。それくらいはあっさりと予想ができた。
「ホネブーメラン!」
しかしだからといって手を緩める必要などない。クラボが次のポケモンを繰り出さないうちに、ミヤナギがすかさず技をしかける。
間を開けずにミヤナギが指示を飛ばした。
投擲された骨の棍棒がキリンリキに向かっていく。気づいたバンジが何か指示を出そうとしたところで、ケンタのヘラクロスも攻撃に参加しようとする。
キリンリキは避けようとしてリニアの屋根を蹴ったが、ゆがんだ空間の中では思うように動けない。それでもガラガラとキリンリキの間には距離があって、骨の棍棒が到達する前に間を遮るものがあった。
クラボがめんどくさそうに舌打ちをする。
新しく生まれた光によって、ヘルガーに続くポケモンが繰り出される。そいつは赤く大きな鋏を振りかざして骨の棍棒を止めにかかる。いくつもの光の粒子が赤い鋏を這うようにして包んでいた。飛んできた棍棒を簡単に弾き返し、そこに守るの技が成立する。
「キングラー、か」
ガラガラとは相性が悪いとみて、ミヤナギは苦虫をかみつぶすように呟いた。
ミヤナギの隣でケンタが声を張り上げて、ヘラクロスに指示を出す。その叫びは窮地に追いやられた自分たちを鼓舞するものであり、攻撃に向かうヘラクロスを激励するものだ。戦局はどう見ても不利で、ケンタが慌ててしまうのも無理はなかった。
ヘラクロスがキリンリキに向かっていく。しかし気合いだけで優劣を覆せるほど甘くはない。ゆがんだ空間の中に薄紫のもやが現れて、ヘラクロスを巻き込んだ。サイコキネシスがヘラクロスを締め上げ、体力を奪っていく。その場に両手・両足を突き、全身が崩れて、もう立ち上がれない。
ケンタは焦りを隠せないままモンスターボールにヘラクロスを収め、次のボールを投げた。
二匹の攻防に気を取られていたミヤナギは、クラボの指示を出す声で敵に向き直った。キングラーが大仰な鋏を上段に構える。ガラガラが返ってきた骨の棍棒で一度空を斬って、低い姿勢のまま懐に飛び込んだ。振り下ろしたクラブハンマーとガラガラの骨棍棒がぶつかり合うが、下から振り上げたガラガラの方が分は悪かった。重力に負けて骨棍棒が弾き飛ばされ、勢いもそのままに水をまとったクラブハンマーがガラガラに打ち下ろされる。
骨のお面を擦る甲高い音、続いて肉を打つ鈍い音。青空の下には不釣り合いで嫌な音だった。思わず目を瞑ってしまったミヤナギは、数秒の後に目を開く。瀕死のガラガラが転がっていて、口にあぶくを溜め込んだキングラーが笑っている。ミヤナギは悔しさを噛みしめながら、ガラガラをボールに戻した。
一方で、ケンタとバンジの方でも戦いが続いている。ケンタの出したヤンヤンマはトリックルームの下で苦しみながらも、なんとかキリンリキを地に伏せたところだった。バンジが倒れたキリンリキを見下ろしたまま、次の行動にうつらない。その表情はどこか悲しそうで、悔しそうで、ロケット団らしくなかった。ミヤナギが次のポケモンを繰り出して間もなく、バンジは口を開いた。
「すみません、クラボさん。負けちまったっす」
そう言ってキリンリキをボールに戻す。つまり、バンジの手持ちはもう残ってないということなのだ。
「あとは任せろ。俺がなんとかする」
言ったものの、二対一でのバトルを強いられれば楽に勝てる道理なんてどこにもない。
ケンタが冷や汗を浮かべながら、ミヤナギに向かって微笑んでくる。ミヤナギも微笑み返して、最後の仕上げと言わんばかりに、数の利を最大限に活かして畳みかけた。
クラボは数分と保たなかった。
そして、屋根の上のバトルが決し、どこか清々しい表情のロケット団二人と、勝利に小さく喜びを見せる少年が二人。
ゆがんだ世界から見上げた空は、いつもより少しだけ綺麗に見えた気がした。
◇ ◇ ◇
人間サイズのピンクは不思議だった。ピッピ人形を抱えたモノマネむすめはそう思う。ピッピ人形なんか抱えているのがいけなかったんだ。変な合言葉を教えられるし、変な踊りまで見せられる。しかも一緒に踊らされた。モノマネむすめの前で踊るなんて卑怯だ。踊りたくなるに決まっているじゃないか。そんなわけでピクシー踊りを何回か踊って四号車を後にして、連絡通路に出る。なぜか天上に向かって梯子が伸びていて、しかも天上がぽっかりと四角に切り取られている。この超速の中でも景色はぶれないで、いつもより不思議な色をした空が見える。恐らくトリックルームだ、そう予想をつけたところで、関わったらめんどくさいことになるだろうと判断する。
三号車に続く扉の前に立った。けれど自動ドアは何の反応も示さない。
あれ?
自動ドアのセンサーに嫌われているのか。仕方なく手動で開けようとして取っ手に手をかけてみたら冷たい。しかも開かない。冷たさで手が取っ手にくっついた。
三号車が凍っている――。
上方はトリックルーム、前方は凍結車両、後方は人間サイズ。詰んだ。
かと思われが、テイミは一瞬で閃いた。上も前も後ろもダメなら、下に行けばいいんじゃないか?
さすがに車輪の分だけ隙間はあるだろう。車両が地面に近すぎれば摩擦で焼けてしまうし、損傷も尋常じゃない気がする。問題はどうやって下から進むかということだ。
梯子のかかっているところまで戻る。天上を見上げてみると、やはり空間は歪んでいた。
これしかないか。そう呟く。
「メタちゃん」
パートナーの名前を呼ぶと、抱えていたピッピ人形がぐにゃりと形を変えて床に落ちた。メタモンが不思議な笑みをたたえて見つめてくる。
「上でトリックルーム使ってるポケモンに変身してきて」
それを聞いて、メタモンが一度だけ上限に伸び縮みをして、承知の意を告げると、梯子をするすると上り始めた。ちょこっと、天上から外に顔を出して、トリックルームを使っているポケモンを視認すると、また元の場所に戻ってくる。そうして顔のパーツがばらばらと散って、全身が膨張し始める。ぐにゃぐにゃと形を変えながら、ラベンダー色の身体は次第にバリヤードの形を取り始めた。大方の形が決まると、バリヤードと同じ色の身体になる。顔のパーツが変わり切らないのはご愛嬌だ。
「よし、じゃあトリックルームを……いや、待って」
よく考えてみて指示を止めた。このまま下方にトリックルームを作ってしまえば、車輪まで巻き込んでしまう。それだとリニアは蟻のような速さになるだろうし、何より隠密で行動しようとしているテイミがあっさりと認識されてしまう。そうならないためには変則的な形のトリックルームを作らなければいけない。
「えっと、車輪だけよけてトリックルームつくれる? 下の隙間と、リニアの側面」
声をかけるとできそこないのバリヤードは首を振った。まあ、無理か。
「やっぱり部屋の形してないとダメなのかぁ。しょうがないね……メタぴょん」
もう一匹のパートナーの名前を呼ぶ。すると、腰に巻いていた赤いマントが一瞬で崩れてラベンダー色になった。再びメタモンが現れる。
下から通るには……と考えて、もっといい方法があることに気づいた。
窓から出て側面に張り付いて進めばいいじゃん。まさしくその通りだった。でもそのためにはやはり、トリックルームを作るバリヤードと、テレポートをするバリヤードが必要だ。幸いなことにこのバリヤードはテレポートも覚えている。テレポートの技マシンはカントーにしかないから、このバリヤードの持ち主はカントー出身ということだ。テイミはちょっとだけ親近感を覚える。恐らくミヤナギがそうなのだろう。
「じゃ、メタぴょん、バリヤードに変身して!」
テイミは嬉しそうな表情でメタモンに指示を出した。
◇ ◇ ◇
二人とも普段は寡黙で、バトルの時になるとだんだん熱くなってくる。ユキオは相手のスーツの男を自分に似ているという判断した。きっと自分みたいに普段は無口で、あまり思っていることを口に出さなくて、捻くれているから恐らく戦局を一転二転させる戦い方が好きなのだ。カクレオンによる破壊光線などは完全にその典型だ。敵は見事に策に嵌ってくれた。しかし、油断してはいけない。熱くなってきている時こそ、冷静になるべきだ。
「行け、ナッシー」
ユレイドルに続いて繰り出したナッシーで攻撃をしかけてくる。
空中に鋭利な葉っぱが舞いだした。ユレイドルのストーンエッジの時と似ている。ユキオは一目見てそんな感想を抱いた。
はっぱカッターが風を切りながらカクレオンに向かっていく。到達する前にカクレオンはれいとうビームを放った。鋭利な葉は氷の塊となって床に落ちる。ごとごとと硬い音が足音のように車両内に鈍く響いて、二人の間にいくつもの氷の塊が転がる。
不意にナッシーが攻撃の方法を変えた。密集した頭頂の草の中からタマゴを飛ばして攻撃してくる。タマゴ爆弾。中にはすぐに爆発せず、時間差で破裂するものもある。爆発した跡は床の色がちょっとだけ変わった。万が一に行われるポケモンバトルを想定して、丈夫に作られているリニアだけに、床の色を変えるというのはなかなかに強力な一撃だということだ。
ユキオの股の間をタマゴが転がっていった。連結扉に背を向けていたユキオは、タマゴが扉に当たるコツンという音を聞いて慌てて前に出る。直後、小さな爆発が背後から起き、冷やりとした汗を流した。前方からは再びタマゴが飛んできている。それをカクレオンがれいとうビームで撃ち落とすと、凍ったタマゴは床に落ちて割れた。
「カクレオン、はかい――っと、待って」
最後まで言い切らずにユキオはあることに気づいた。ここで破壊光線を打つのはまずい。ナッシーが破壊光線を無事に防いでしまった場合、あるいはナッシーにうまく破壊光線をあてられなかった場合、ユキオに残されている最後のカードが失われてしまう。そこまで考えて一度カクレオンをボールに戻す。
「カイロス!」
続いて繰り出したポケモンはカイロス。友人の影響を受けて、過去に虫取り大会で捕まえたポケモンだ。ナッシーが相手ならば虫タイプのポケモンで行く方がいい。その上、カイロスの攻撃力だ。一撃でも当てれば勝てる算段である。
敵のスーツ男は少しだけ口元を歪ませた。タイプの相性は向こうも承知しているところなのだろう。これは一気に決着がつくかもしれない。
そして敵はタマゴばくだんを選択した。ナッシーの投げるタマゴがカイロスに飛んでいき、カイロスの動きに一瞬の隙が生まれる。まともに食らったとしても一撃で崩れるカイロスではないと判断して、ユキオは一か八か賭けに出る。
「シザークロス!」
「サイコキネシス!」
二人の声が重なった。敵はカイロスが動きを止めると想定していたのだろう、驚いた表情を隠せていなかった。
カイロスが飛んできたタマゴばくだんを走りながら頭の鋏で豪快に割る。爆発を浴びながらも走り、ナッシーに肉薄して、袈裟懸けに鋏を振る。もちろん弱点を突かれて立っていられるはずがない。ナッシーはその場に伏せた。
しかし何か納得がいかない。こうもあっさりやられるのは何故だ。そういえば、サイコキネシスはどこに行った?
その疑問に答えを返すかのように、ユキオのすぐ耳元で風切り音が聞こえた。それは空を切る。冷や汗が出た。その瞬間、ユキオの耳は幾重にも連なった鋭い音を捉え、瞳にはカイロスに吸い寄せられていく礫が写っていた。はっぱカッターが凍った塊、ユレイドルが放っていたストーンエッジ、車両に残っていた技の跡が次々に甦っていき、カイロスを襲い始める。
――やられた。
ユキオは唇を強く噛んだ。サイコキネシスは直接カイロスを締め上げるために放たれたのではなく、周囲のモノを動かすために放たれていたのだ。何かしてくるという予想はあった。相手だって自分と同じように捻くれた策士で、普通のバトルにならないことは一言交わした時点から分かっていたことなのに。自分がしてやられたことを思って頭に血が上る。カイロスをボールに戻して、先ほど引っ込めたカクレオンを出す。相手も同じようにモンスターボールに手をかける。
「どうした」
声をかけてきた敵の顔を見ると、笑わなそうな顔で小さく笑っていやがる。渋面を作ったユキオを見て、奴は余裕綽々の表情でいるのだ。ユキオは頭にますます血が上っていくのを感じて、努めて冷静であろうとした。
「別に」
ユキオが短く返す。
「いいことを教えてやる」
こんな時に喋る内容は決していいことではないと分かっていても、ユキオは反射的に目が動いてしまった。敵はそれを見ながら続ける。
「俺はこのポケモンで最後だ」
確かにそれはユキオにとっていい情報に違いなかった。しかし、まだ話は終わっていない。
「どうしてこんな情報を教えるのか。簡単なことだ。お前の奥の手は、このポケモンには通用しないからだ」
その言葉はユキオの感情を逆撫でした。この上ないほどの侮辱。完膚なきまでに馬鹿にした言葉。上った血が沸騰するようだった。
敵はボールを放る。白い光の中から出てきたのは、光とは反対の闇色をしたポケモンだ。空中に影が浮いたのかと思ったらそんなことはない。そいつは赤い目をして、避けた白い口を持っている。ゲンガーだった。
なるほど、これならノーマルタイプの破壊光線は効かないだろう。確かに絶対的な不利ではあるが、ゲンガーの姿を見て、ユキオはむしろ冷静になることができた。
「お前のカクレオンも決してレベルは低くない。だが、俺のゲンガーに比べれば大人と子供ほどの差がある」
寡黙なスーツの男が饒舌になっている。やはり自分と似ている。似ているからこそ、この先に起こり得ることが予想できる。
「破壊光線さえ当てられれば、勝機はあっただろう。しかし俺のゲンガーには効かない。お前の負けだ」
熱くなりすぎて、冷静な状況判断ができなくなる。それが自分の悪い特徴だとするならば、似ている相手も同じくそうに違いない。事実、喋りすぎた情報は確実にユキオを有利にし、自分を不利へと追いやっている。一見してユキオの方が不利な状況だから、熱くならずに冷静でいられる。
まだ、終わっていない。
「カクレオン、れいとうビーム!」
「無駄だ、そんな小技では何発撃っても崩せまい」
その事実を知らしめるように、手をかざして技を受け止める。確かに全然効いていない。
「破壊光線が効かないってことは、そっちも得意技を当てられないってことだよ」
「だからどうした? 確かにシャドーボールを当てることはできない。だがな、ゲンガーにはこんな技もある。見せてやれ」
言葉に従ってゲンガーが空中で空気の塊を抱くような動きを見せる。空気が目に見えて圧縮されていき、それは明るい色の球体になった。きあいだま。しかし、これだけ構えが長い分だけ当てるのは難しい技だ。カクレオンに当たれば勝負を決する技でもある。
ようやく上っていた血が降りてきた。この状況でありながらユキオにも余裕が生まれる。
「ぼくも教えてあげるよ」
きあいだまが放たれた。
「ぼくの最後のポケモンも、カクレオンなんだ」
放たれたきあいだまがカクレオンに向かっていくが、守るによってあっさりと防がれる。
「どうしてこんな情報を教えるのかって? 簡単さ、ぼくは絶対に負けないからね」
意趣返し。相手に余裕のある言動をされると、腹が立つ。頭に血が上る。分かっている、奴は自分と似ている。だから熱くなって冷静を欠いている相手から、さらに冷静さを奪うにはこういうことを返してやるのが一番だ。そうしてユキオはほくそ笑む。敵は口の端を痙攣させて苛立ちを抑えている。
「カクレオン、れいとうビームだ」
「無駄だということがまだ分からないのか!」
敵は叫んだ。ゲンガーがさっきと同じように手で受ける。冷静さを失った相手ならば、余裕を見せつけるためにれいとうビームをあえて受け止める。それをユキオは予測していた。この時に技を出されていたら恐らく負けだった。そのことに敵は気づいていない。
「はかいこうせん!」
はっ、とうとう敵は声に出して笑った。熱くなりすぎだ。寡黙だった表情はどこに行ったのやら。
「気でも触れたか、ゲンガーには食らわないということを忘れたのか!」
ゲンガーも勝ち誇ったように笑っている。れいとうビームと同じように受けようとして、片手を掲げた。
破壊光線はゲンガーの身体を通り抜ける――はずだった。
掲げた片手は強力なエネルギー波を受けて、止めきれずに身体ごと吹っ飛ぶ。ゲンガーの身体が敵に向かっていき、通り抜けるだろうと思っていた幽体は何故だか敵を巻き込んで転がり始めた。
敵は驚きを隠せず、何の対応もすることができない。
「さあ、はかいこうせんで畳み掛けろ!」
ユキオの勝利を確信した掛け声が車両内に響く。
「む、無駄だ! はかいこうせんには反動が――」
確かにカクレオンは反動で固まっていた。動く気配もない。だが、その攻撃は予想外の方向から放たれていた。座席の上にかけられた荷物を置くための網。そこにエネルギーは収束し、すぐに強力な攻撃が放たれる。それも最初放たれた破壊光線とは比べ物にならないくらいレベルの高い――。
床に伏せていたゲンガーを極彩色の光線で叩きつけ、さらに敵を巻き込んで放射されている。一人と一匹が上から押し付けられる圧力に弾かれて、座席の方に吹っ飛んで勢いよく叩きつけられた。吹っ飛ばした後の破壊光線はしばらく床に当てられ続け、止んだ時には丈夫であるはずの床がへこんでいた。
確認するまでもなく、ユキオの勝利だった。
座席の上の網から二匹目のカクレオンが姿を現す。そいつはふわふわと空中を浮遊してユキオの元までやってきた。ユキオの所持するポケモンはこれで全部。確かに最後のポケモンはカクレオンに違いなかった。ただし、二匹目ではあるが。
ふぅ、とため息をついて、崩れた敵を確認するために重い足を動かし始める。
やはりユキオの戦術は捻くれていた。最初からカクレオンは二匹隠れていたのだ。一匹目を仰々しく繰り出して、二匹目の存在の可能性から目を逸らす。これは完璧だ。そこから敵を見て戦略は変わる。ゴーストタイプのポケモンが相手になったときはちょっと面倒だ。隠れている二匹目がこっそりとスキルスワップを行い、カクレオンの特性である変色を押し付けやる。この特性は受けた技のタイプによって、自らのタイプが変わってしまうものだ。つまり、れいとうビームを受けていたゲンガーは氷タイプになってしまっていたのだ。二匹目のカクレオンが浮いているのも、交換したゲンガーの特性が浮遊だったことによる。こうして、ゴーストタイプを打ち破ることに成功したのであった。
重い足でようやく敵が倒れている前に辿り着く。本当に確認するまでもない。一人と一匹はぴくりとも動いていなかった。
ふと、窓に目を向ける。そこにあるものを見て、ユキオは驚きに腰を抜かした。
「うわあっ!」
悲鳴まで上げるなんてらしくない。いやでも、それだけの光景がそこにある。
窓にはバリヤードに掴まったケンタが張り付いていたのだ。あまつさえ手まで振っていやがる。にやにやと笑っているケンタの顔を見て、殴ってやりたくなったが、その腹立たしい笑顔は驚きへと変わり、驚きすぎたケンタは焦ってバリヤードから手を放して、水の中を降下していくかのようにゆっくりと落ちていった。
ケンタが驚いた元凶を見ようと、ユキオも振り向いてみる。
窓の外だ。そこにもバリヤードに掴まった少女がいた。ユキオは驚いて再び飛び上がった。
なんだこいつら!
驚きを抑える間もなく、少女がテレポートで横に現れる。
「びっくりした?」
「してない」
「してない。いや、してたよね」
してた。柄にもなくびっくりしていた。
「ねぇ、そこのスーツ男、使ってもいいかな?」
使うという表現がよく分からなくて、ユキオは首をかしげた。
「ってうわ、ちょっと待って、そういえばケンタのこと忘れてた」
そうだ、ケンタが落下したのだ。思い出して振り返ってみると、ぐったりとした格好のままヤンヤンマに引き上げられる友人の姿が見えた。大丈夫らしい。バリヤードもそそくさと屋根に戻っていく。
「君の友達おもしろいね」
「あなたも十分おもしろいと思いますよ」
「そう? さすがにリニアから飛び降りてまで笑い取ろうとは思わないけどなぁ」
で、と少女は話を区切る。
「そこの男使いたいんだけど、知り合い?」
「いや、全然知り合いじゃないけど」
「どういう関係?」
「関係? 人間と負け犬かな」
伸びている男の名前がイヌだという事実に気づくのは、まだ少し先のことである。
「なんだ。じゃあちょっと借りるね。よろしく、メタちゃん、メタぴょん」
直後に両脇のバリヤードがメタモンに変わった。一匹が寝ている男にべたべたと張り付き、しばらくしてから戻ってきて、そして少女にまとわりついていく。ぐにゃぐにゃと変形を繰り返して、背が伸び、がたいもよくなり、格好も服装も、完璧にスーツの男を再現していた。
「さあ、これで完了」
「うわっ」
声まで低く変わっている。恐らく喉を触って形まで真似てきたのだろう。
ユキオが驚いているところに、ケンタがテレポートでやってきた。
ケンタはぐったりと床に伏せったまま呟く。
「あ、トイレ行ってねぇや」
◇ ◇ ◇
ムカイは天井を見上げていた。ムカイだけじゃない。改造スーツの男も、ルージュラも、天上を見上げたまま次の戦局に移ろうとしている。天井のすれすれにサンダースが飛び上がっていて、今まさに放たれようとしているシャドーボールを受ければ、ルージュラはやられてしまうだろう。それはすなわちムカイの敗北を意味している。もともと耐久力のないルージュラだが、耐久力以前に相手とのレベルが違いすぎていた。放つ攻撃はほとんど回避されて、まともに当てることはできないし、当てたとしても倒すのに数発はかかるだろう。
だから、ダメ元だった。負けを覚悟したうえでムカイはルージュラに吹雪の指示をくだした。ルージュラが大きく息を吸って、天上に向けて最大出力の吹雪を繰り出そうとするが、恐らくサンダースの速さには適わないだろう。そんな悪あがきを見て、敵は「かはは」と笑ってみせた。怒りの感情を生み出す神経に直接響いてくるような声で。
だが、その余裕たっぷりの表情はすぐに崩れた。
先に行動できるはずだったサンダースよりも速く、ルージュラは技を放っていた。これには指示を出したムカイ本人どころか、その場にいた全員が驚きを隠せなかった。
冷気を乗せた突風が天井目がけて放たれ、サンダースの体温を奪っていく。
「どういうことだッ!」
完全に余裕を失った敵が雄叫びを上げて、それでもなおルージュラは吹雪をやめない。苦しそうに歪んだその顔を見て、ムカイは思わず「がんばれ」と叫んで励ました。昔は指示の出し方が分からなくて、ひたすら「がんばれ」と叫んでいた。今ではそんなことなどないけれど、敵を倒すために必死で、それ以外の言葉が出てこなかった。
ルージュラが応えて最後の力を振り絞る。ここまでしなければ倒すことのできない相手。吹雪に姿が見えなくなっても、ルージュラは相手の戦意を感じ取っているのかもしれない。
やがて吹雪が止んで、天上に分厚い氷の塊ができている。サンダースがゆっくりと降下し、ほんの数秒後には重力に従って一気に落下する。まるでトリックルームを抜け出す瞬間のようだった。
「くそっ、何しやがった……。まあいい、一匹くらい――」
敵がサンダースをボールに戻す。そして、次のポケモンを出そうとして腰に手をかけた時、ムカイはルージュラに新たな指示を出した。
「甘ったれんなよ! ルージュラ、奥義だ!」
まだポケモンを出していない敵に向かって、ルージュラが走り出す。
「おい待て、何しようとしてんだよ」
「何かって? 奥義さ。対男性用最終奥義」
跳躍して、敵の数センチ先に着地。気温が二度下がった。敵は二歩さがった。
「来るなッ!」
後退しようとする敵の懐に入り、下から両手を伸ばして肩を掴む。敵の肩にルージュラの骨ばった指が食い込んで、そのまま力を込めると敵は堪えきれず床に崩れた。すかさずルージュラは馬乗りになって、敵の両手を床に押さえつける。
敵の全身がガタガタと震え始めた。それは寒いからなのか、それとも――。
ルージュラが敵の眼前に顔を突き出して、首を傾げる。それに対して敵は全力で首を振り、抗議の意を表した。ルージュラは頬を真っ赤に染めて、諭すようにゆっくりと首を振る。大丈夫、迷わないで、私を信じて。まるでそう言っているかのようだった。
「ぎゃあああああ! やめろおおおおお!」
「魅せてやれ! 奥義、マウス・トゥ・マウス!」
敵が思いっきり顔を背けて抵抗する。ルージュラが目にも止まらぬ速さでその両頬を挟み、正面に向けさせる。そこにあるのは蕩けるような恍惚の笑顔。二人の距離は徐々に縮まり、やがて、ゼロになった。
ルージュラの下で敵はじたばたともがいている。
「ふぅ、決まった。さて、どうすっかな」
何かをものすごい勢いで吸引している音を聴きながら、ムカイは腰に両手を当てて周囲を見渡した。どこもかしこも凍りづけ。もちろん扉も凍っている。
「……溶かすか。ルージュラ、もういいよ」
スーツを引きはがしいる途中で、吸引をやめて立ち上がったルージュラは満足そうな顔をしていたが、逆に寝ている男からは完全に生気が失われていた。酸素を吸い取られれば気絶もするだろう。あと、精神的ショック。
ルージュラをボールに戻して、代わりにブーバーを出す。
「さすがに燃えたりしないよな。じゃあ、大文字」
リニアはポケモンバトルに備えて丈夫に作られていると聞くから、大技を当てても壊れることはないだろうと予測する。
命令に従ってブーバーが大文字を天井に放つと、凍っていた天井は大の字に溶けた。本当に傷一つ付かない。おもしろくなったムカイは次々と指示を出して、あっという間に車両を元通りにした。若干気温が上がっている気もするが、気にしないことにする。
「ブーバー、ちょっとそいつ持ってきて」
ブーバーは頷いて、はだけたスーツの男に歩み寄り、片手でがしりと顔面を掴む。そのまま引きずってムカイの元に持っていく。ムカイは動かない自動ドアを無理やりこじ開けていた。
「はい、そこ投げて」
指示通り、ブーバーは振りかぶって上手から思いっきり投げた。主人もポケモンもいい性格をしている。スーツの男がバウンドして連絡通路に投げ出された。
よし、と一言。扉を手動で閉めて、座っていた席まで戻り、ため息交じりにどっかりと腰を落とした。バトルは決し、ムカイの勝利に終わった。仇討とまではいかないだろうが、嫌いなロケット団にかかわる人間、それも相当に強いやつに勝ったのだ。それでも、心の底にはもやもやとしたものがわだかまっていた。
――結局、何も変わってないな、アタシ。
何故だか頬には涙が伝っていた。
◇ ◇ ◇
ミヤナギが四号車に続く自動ドアを開いた時、通路にぼっきゅと飛び出してきたやつがいた。
言うまでもなく人間サイズである。ぼっきゅぼっきゅと跳ねながら天真爛漫な笑顔をピンクの隙間から振りまいて、ミヤナギに手を振る。思わずため息をついて、ミヤナギは歩いていく。心底めんどうだった。
「ミヤナギくん! 合言葉は? って聞いて!」
合言葉は確かジェネラル・ピクシーとかいう意味の分からないワードだった、ミヤナギはそう思い出して、さらに面倒だなと思いつつも聞いてやることにする。
「……はいはい。合言葉は?」
「ジェネラル・ピクシー!」
すかさずポーズ付きでその言葉は返ってきた。にしてもジェネラル・ピクシーとはどういう意味だろうか。普通に考えてみてもピクシー将軍くらいしか思いつかない。これは聞いてみてもいいものだろうか、悩んだのは一瞬だけで、めんどくさがりなミヤナギでも好奇心が勝った。
「あのさ、ジェネラル・ピクシーの意味知ってる?」
「知らない! 響きがかわいい!」
かわいい、のか?
「たぶん、ピクシー将軍って意味だと思うけど……」
それを耳にした人間サイズは口元を思いっきり歪ませて残念そうに大口を開けている。瞳にはあからさまに嫌そうな色が映っていた。よくぞ言ってくれましたと言わんばかりに、何かの腕らしき形が着ぐるみの足あたりをびにょんと伸ばした。
「がーん、かわいくない……」
今時「がーん」なんて言う人久しぶりに見たし、よっぽど落ち込んでいるのだろう。ミヤナギは笑い出しそうになったが、目の前にいたのが人間サイズのピクシーだという驚愕の気持ち悪さを思い出して無表情になった。
「じゃあ、エンジェル・ピクシー! なんてどうかな!」
「天使ピクシー? 悪くないんじゃない?」
「ピクシー天使! かわいい! これからの合言葉はエンジェル・ピクシーだからね!」
えへへ、と笑う人間サイズ。いったい何のための合言葉だろう。ミヤナギには見当もつかなかった。
「ミヤナギくん! 合言葉は? って聞いて! はやくはやく!」
そろそろ本当に面倒になってため息をついた。
「はああああやあああああくううううう!」
あまりにも勢い込んで急かしてくるので、ミヤナギも仕方なく応じる。
「…………はいはい。えっと、合言葉」
「エンジェル・ピクシー!」
最後まで言い切る前に遮られた。ピクシー天使、ということらしい。
◇ ◇ ◇
とりあえず戻るぞ、クラボの提案に沈んだ気分のままバンジは生返事をした。
二人が三号室を通り抜けようと自動ドアの前に立ったところで、なぜだか自動ドアは二人を認識してくれない。
「おいおい、壊れてんのかよ……」
「今日は災難続きっすね。かっこ泣き、って感じっすよ」
「まったく、その通りだな。物資は掻っ攫われるし、ガキと偽物のセットに負けちまうし」
クラボが自動で開かない自動ドアを無理やりこじ開ける。
「それに、鬼のような女にも襲われたっす」
「あぁ?」
その声は開いたドアの先から聞こえた。
「やばっ、すっかり忘れてたっす……」
その女は座った状態で鋭い視線を後ろに飛ばしてくる。そこにいた二人を確実にその場で釘付けにし、クラボに至ってはトラウマを呼び起こされて全身を震わせる始末だった。
「……かっ、勘弁してくれ」
クラボの呟きを聞いて女は答えた。
「安心しな。今アタシは疲れてんだ。静かに通るんだったら見逃してやるよ」
その言葉に二人は安堵のため息を洩らして三号車に足を踏み入れた。
「あ、ドア閉めて」
瞬時にクラボが動いて、静かにドアを閉める。
「音たてんなよ」
「は、はい」
「黙れ」
……。
クラボの額には汗が滲んでいた。それほどまでに恐ろしいことをされたらしい。バンジは女を警戒しつつ歩を進める。なぜ女は腰のモンスターボールに手をやっているのか、疑問に思いつつも疲れている彼女、いやモンスターを刺激しないようにゆっくり歩く。
「なんて上手くいくと思うなよ!」
女が怒声を上げた。
モンスターボールが通路に転がった。前方にルージュラが現れて進路を阻まれる。纏う冷気と冷え冷えとした美しさに目を奪われ、クラボの全身は尋常ないくらいに震えていた。バンジは冷静に事を考える。
「クラボさん、俺にいい考えがあるっす」
「なななな何だよ、さっさと言え、殺される、前に、早く」
よっぽど恐れているらしい。逃れられる術を持つバンジは冷静でいられた。これなら間違いなく自分に被害はないと踏んでいる。
「簡単なことっすよ」
「だから何だって!」
「囮作戦っす!」
おい、とクラボが不平を洩らす。
「ちょっと待て、前にもそんなことがなかったか! 当然、囮役はお前が――」
「そういうことで、任せたっす! ロミオさん!」
バンジが足払いからの背面蹴りでクラボをルージュラの方に押し出し、自分は二号車の方へと駆け出した。
「誰がロミオさんだ!」
そのクラボの前に毒々しい気品で仁王立ちをするルージュラ。今こそ人とポケモンの垣根を越えて相まみえん、その二人の間に身分という壁は存在しないらしい。ルージュラが両手を広げて相手を受け入れると見せかけて捕獲しようとする態勢に入る。表裏一体の殺気と愛を目の前にしてクラボは叫んだ。
「ジュリエットおおおおおおおおおおおおお!」
バンジの作戦は大成功だった。
◇ ◇ ◇
全身が痛かった。上半身を覆っていた改造スーツもなぜかボタンが飛んでいる。何があったのか思い出そうとしても、まるで鍵のかかった箱に仕舞われたかのように記憶が飛んでいた。
「おい、大丈夫か、ネコ。随分派手にやられたようだな」
相棒のイヌだ。顔にも服装にも乱れた部分は一つもなく、足元のトイレスリッパだけが浮いている。
「かはは、これが大丈夫に見えるかよ! サンダースがやられたとこまでは覚えてんだけど、それから先が全く思い出せねぇぜ」
ここまで完膚なきまでにやられたのは初めてかもしれねぇ、心の中で呟いて立ち上がり、壁に背を預けた。思った以上にやばいらしい。全身の悲鳴が聞こえてくる。
「イヌの方は楽勝だったみたいじゃねぇか」
「あぁ。相手はガキだったからな。造作もない」
ちらりと足元に目を向けるとやはりトイレスリッパだ。動きにくいだろうが相手にしたのが子どもなら問題はなかったのだろう。
「あ、そういや、トイレには行ったのか?」
「お前が寝てる間にな」
「どうだったよ? お目当てのもんはなかっただろ」
「あ、あぁ、なかった」
バトル以外で感情を表に出すのが珍しいイヌにしては、らしくない動揺が見えた。
「向こうに着いたらさすがに新調しねぇか」
「そうすることにしよう」
イヌが持ち上げてかわいい、なんて評価をしたスリッパだ。それをこうも易々と提案に乗ってくるのか?
ふぅん。ネコは壁から背を離し、ポケットに両手を突っ込み、イヌに背を向ける。それから一瞬で向き直った。
イヌがモンスターボールに手をかけている。
相手の動作よりも早く、ネコはボールを取り出して放った。それに続いてイヌもボールを放ってくる。ネコが出したニョロボンに少し遅れて出てきたのはナッシーだ。
「かはは! てめぇ偽物だな! イヌが最初に出すポケモンはユレイドルなんだよ!」
ちっ、イヌの偽物が舌打ちをすると、全身がぐにゃぐにゃと形を変え始める。背が低くなり、格好も細くなっていく。薄紫色の塊が床を這い出し、そこに現れたのは二匹のメタモンと少女だった。
「モノマネ少女がなめたことしてくれるぜ!」
「見破られたところで、負けたりなんかしないよ」
かはは、ネコは笑った。
「果たして、それはどうかな」
そう言ったところで二号車の自動ドアが開き、開閉音に気づいたモノマネ少女は振り返った。歩いてくるイヌを見て、少女は驚きを隠せない。
「座席に縛り付けていたはずなのに……!」
その言葉を冷徹な仮面が受け止める。
「甘かったな。組織の人間をそんなもので出し抜けると思うな」
少女が歯がみする。
「さぁ、二対一だぜ? 今の俺は気分が悪いんだ、覚悟しとけよ」
蛇のような視線が少女を襲う。そのままニョロボンに指示を出そうとしたところで、ネコ、とイヌの呼ぶ声がした。その目を見ると言いたいことは何となく伝わってくる。
「そろそろ着くぞ」
本来の任務を優先しろということらしい。
「イヌ、お前の手持ち、あと何匹だ」
「三匹だ。不覚にも三匹やられてしまった」
どうせガキ相手に余裕ぶってたのだろう。三匹しか持っていないという嘘までついたに違いない。本当に不覚だ。
「じゃあ、ここは任せたぜ。俺は五号車に行かせてもらう!」
「させない!」
少女の怒声が連絡通路に響く。ネコがボールからネイティオを出して、少女はメタモンが変身したと思われるナッシーに指示を下す。はっぱカッターが飛んでくるのをニョロボンに受けさせて、ネコはネイティオにテレポートを命じた。
「お前の相手はこっちだ」
イヌが指示を出すと、ニョロボンはネコのポケモンであるにも関わらず忠実に従う。
テレポートで瞬間移動をするその刹那、モノマネ少女の悔しそうな表情が印象的だった。
◇ ◇ ◇
「あら、いつの間に一枚になっていたのかしら」
簡易テーブルの上で規則的に並べられているカードを見て、シルビアはわざとらしくそう言った。
「シルビア様、その言葉は三度目です」
「そうだったかしら、おほほ」
つまり、三度目の負け際ということだ。簡易テーブルの向かいにはSPの一人が座っていて、ポケモンカードの相手をしてくれている。
「さて、このコインが表なら私の勝ちです」
シルビアは頷いた。
シルビアの場にはダメージカウンターが乗っていないHP90のホイーガいて、対するSPの側にはギギギアルがいる。既にギアソーサーの一枚目のコインが表になっていて、80ダメージは決したところだった。二枚目のコインが表になった瞬間、ホイーガはトラッシュに送られ、最後の一枚であるサイドカードが引かれて、シルビアの負けは決定する。
ルールを知っている者が見れば、勝負の行方は明らかだった。
「ですが、このコインがもし裏になるのならば、まだシルビア様にも勝機はございます」
SPの言うとおり、コインが裏になった場合はチャンスもある。シルビアのサイドカードも一枚だったから。勝負は拮抗していた。
「それでは、弾きます」
慣れた手つきでコインが天井すれすれにまで弾かれる。垂直に弾かれたコインは、高速で走るリニアの中で少しもぶれず、慣性の法則とSPの技量によって綺麗に宙を舞っていた。
シルビアが両手を合わせ、祈るような仕草をしたとき、連絡通路に繋がる自動ドアが開いた。そこに立っていたのは胸元を大きく開いて、改造スーツを着た猫背の男。胸元には生々しい痣が覗いている。足元には外を見張っていた二人のSPが倒れていた。シルビアはそこから視線を外すことができなかった。
すかさず車両内に居た二人のSPが銃を構える。
「動くな!」
その警告を無視して、スーツの男は車両内に足を踏み入れた。不安と恐怖がせり上がってきて、シルビアは微かな悲鳴を上げた。SPが引き金に手をかけたとき、その動作を遮るような声が聞こえた。
「動くな、それはあなたたちが言っていい言葉じゃないですね」
シルビアの正面からだった。いつの間にか銃口がシルビアの頭に突き付けられている。たった今までポケモンカードをやっていた相手だ。追いつかない理解と理解できない事態に、シルビアは何の言葉も出てこなかった。
「……何をしている!」
SPの一人が叫んだ。どういうことですか、シルビアは無意識のうちにそう言っていた。
「かはは! まだ分かんねぇのか! そいつは、スパイだったんだよ!」
まさか、本当に――。
皆まで考えずにシルビアの全身から力が抜けた。当然、敵の狙いは自分だ。
「シルビア様」
この期に及んでまだシルビア様などと呼んでくる。そのスパイは銃を持っていない方の手をシルビアの眼前に持ってきた。手の甲を上にして。
「残念ながら、表です」
◇ ◇ ◇
ヤマブキシティに近づくにつれて、高速のリニアは徐々にそのスピードを落とした。操縦者がいなくなっても、プログラムされた自動操縦がぴたりと車体を止まるべき位置で停止させた。そうして物語は新たな舞台を探し始める。
連絡通路に空のボールが転がった。口を開けたまま天井を仰いでいるボールの横に、力なく少女が倒れ込むと、触れずともボールは転がって下に向いた。少女の方はそれきり動かなかった。
「君の負けだ、モノマネ少女」