第二部 超速の空間 前
シルビアはもうすぐ還暦を迎える。
別に還暦を迎えるからといって、今の地位がどうこうなるわけではないし、日常のどこかが丸々変わってしまうことはないので、大した問題はないと思っている。
いや、それは強がりだ。
実際、加齢から来るであろう体力の低下には頭を抱えている。特に今日のような日には、その現実をまざまざと突きつけられて、年甲斐にもなく落ち込んだりするのだ。
シルビアは週に一度――土曜日だけは、オーキド博士のポケモン講座にゲスト出演している。生放送のため、わざわざヤマブキシティからコガネシティにまで足を運ばなければいけない。
オーキド博士に比べれば相当若い方であるといっても、移動が億劫なのは否めない。そもそも普段はシルフカンパニービルの最上階で、左うちわの絢爛な暮らしぶりにあって、体力は低下する一途。いい加減、番組の降板も考えなければいけない時期だろう。
窓ガラスに薄っすらと映った自分の姿。薄ぼやけた世界の中でも、綺麗に整えた白髪は目立つ。コガネの街にひどく不釣合いだった真っ赤なドレスは、老いに抗うようで見苦しいかもしれない。
いつも帰りのリニアでは、そんなことを考えていた。
発車準備を終えたリニアが、スタートラインに立ったケンタロスのようにぶぉんと唸った。ホームの中に発車を告げるベルが鳴り響く。
どうせ発車確認をするまでもなく、このリニアは貸切になっている――はずだった。
最後列の車両に乗っているシルビア一行からは、ホームの様子がほとんど見られるし、少なくとも人の行き来くらいなら余すことなく見ることができる。どうせ誰も来ないと分かっていても、なんとはなしに眺めていたのだが、そこに躍った二つの影を見て、シルビア一行はあっけにとられた。
「シルビア様、いかがなさいますか」
SPの一人がつぶやいた。それはつまり、今入ってきた少年たちをどうするか、ということなのであろう。シルビアが目を閉じて思案していると、少年たちの声が聞こえた。
――ケンタ、駆け込み乗車はよくないよ。
――これだから田舎者は! リニアはベルが鳴ってすぐ発車するわけじゃないんだよ!
――えっと……ヤマブキの方が田舎だよね。
ケンタ? ……ふむ。
「少年二人でしょう? よいではございませんか、二人くらい。私たちのスケジュールに、支障を来たすわけでもございませんでしょう?」
「はぁ、しかし、貸切料金を払っているのですから、他人が乗ってこられると――」
「あなた」シルビアが遮る。
「新入り? 私を誰だと思っていますの? そんな小さなお金を気にするような人間だと思いまして?」
話していたSPは言葉を呑み込んで、深々と頭を下げた。
「申し訳ございません。ですが、せめてこの車両には入れないように、見張りを付けておきますので」
そんなことしなくても、少年二人が襲ってくるわけでもないだろうに。そう思いながら、シルビアは視線をSPからホームに戻す。
どうも疲れがたまっているのか、口調の端々が荒っぽくて、普段のような上品な物言いにもトゲがある。これも老いのせいだろうか。ため息をつこうとして、しかしシルビアはそれを押し戻した。
エスカレーターから黒服を着た二人が駆け下りてくる。胸には赤字のR。おおよその見当からして、物好きなコスプレイヤー。なんてことはなく、当然ロケット団である。
それにはさすがのシルビアも、心臓が確実に一秒は停止した。
「シルビア様」
もちろん、何が言いたいのかは痛いほど分かる。
さて、どうしたものか。考え始めるうちに、ロケット団の会話が聞こえてきた。
――クラボさん、まったく、何してたんすか! これに乗り遅れたら本格的にクビっすよ!
――わかってらぁ! さすがにズバットだけで乗り込むわけにはいかないだろ。だからポケセン寄って、ボックスからポケモン借りてきたんだよ。六匹借りたから、三匹はお前にやる。団員用IDで借りたから、たぶん使えるはずだ。
――おぉ、助かるっす。……って、それはどうせ、シャワーのついでっすよね。キスマークがなくなったのは、ちょっと寂しいっす。
――黙れ。
キスマーク? ……ふむ。なんだか馬鹿そうだ。
「あなたたちに任せます」
了解致しました、隣に立っていたSPが頷いて、小型無線機を手に取る。いくらか言葉を交わしているのを見て、どうやら問題はなさそうだと思って胸を撫で下ろす。
ちょっと落ち着こう。目を閉じて、深呼吸。ゆっくり目を開ければ、もう大丈夫、なんてほど世の中上手くは回ってない。
エスカレーターを物凄い勢いで降りてくる人間サイズのピクシーを見た時、シルビアはいよいよ眩暈がしたのであった。
◇ ◇ ◇
「おい、イヌ」
「なんだ、ネコ」
これはイヌとネコの会話であって、別にニャースとガーディの会話というわけではない。もちろん、ヨーテリーとチョロネコの会話でもない。
イヌと呼ばれた方は、髪をオールバックにして、真っ黒なスーツを着ているくせに、履いている靴はスリッパだ。それも普通のスリッパではない。リニア駅に設置されている化粧室あたりで普及している代物であろう。なんだか黒い男とピンクの女の棒人間がプリントされている。
「お前いつからそんなもの履くようになったんだ。かはは、趣味か?」
表情を変えないまま、イヌはのっそりと足元に目をやる。その立っている場所はどういうわけかリニア先頭車両、屋根の上である。小刻みに震動する屋根の上で、スリッパもちょっとぶれている。
「いつの間に……」
かはは、ネコは切れ長の目をますます細くして笑い出す。
「気づかなかったのか! イヌらしいな! かはは!」
ネコの服装もだいたいスーツだ。だいたいというのは、なぜだか胸元が物凄く開いていたりするので、真面目なスーツと言うよりは夜の帝王的なスーツである。ちなみにまだ正午を回ってちょっとくらいだから、露出が過ぎるというものだ。しかも露出した肌には胸部のほとんどを埋める赤いアザ。怪しい雰囲気は拭いきれない。
名前の通りに、ネコは癖の強い猫っ毛をわしゃわしゃと掻き回し、猫背をさらに丸めて笑っている。
「どうすんだ、靴、取りに行くのか」
笑いが止んで、ネコは猫背をちょっとだけ正した。それでもイヌとの身長差は相当で、子どもと大人くらいの差はある。あるいはイヌの方が高すぎるだけなのかもしれない。
イヌは黙ったまま足元に手を伸ばし、スリッパを掴んで目の前に掲げた。天井の隙間から覗いた太陽に照らしたりしてみる。もちろん何も起こらない。たっぷり色んな角度から見た後、ようやくイヌは呟いた。
「かわいいな」
はっ、ネコは笑う。
「やっぱりイヌはおもしれーな! こんなもんが可愛いなんて、どういう神経してやがんだ! お前の目は便器の蓋か!」
なんだか開閉しそうな目である。
「ところで、だ」
ネコは声を潜めた。リニアが発車準備に入っているホームの中では、雑音にかき消されてしまいそうな声量であるが、幸いなことにイヌの聴力は相当なものだ。
イヌの視線がネコに向く。
「なんでこのリニアにガキだとか、ロケット団だとか、意味のわからん着ぐるみなんかが乗ってくんだ? 貸切じゃなかったのかよ、おい」
舌打ちをして、空を蹴る。二回蹴った。やり場のない感情を空に散らす。
「それは、ネコが改札の駅員を倒したからじゃないか」
感情のこもらない声が答えた。
空を蹴った足を下ろさずに一回転。ホームしか見えない。
「駅員、倒した? かはは、鳩尾に蹴り食らったくらいでオネンネする駅員がいるかよ!」
かはは、かはは、喋ってる内容は真っ黒いくせに、すごく楽しそうにネコは笑う。口は裂けそうなほどに吊り上げられている。
ふむ、イヌはその低い声で相槌を打っただけだ。
「いいさ。任務遂行すりゃあ、なんだっていいさ! まずは操縦室の制圧だな! 行くぞイヌ!」
操縦室では、屋根を蹴る軽やかな音が聞こえた。二回聞こえた後、その足音は操縦席のすぐ背後に移ったという。
◇ ◇ ◇
ミヤナギはめんどくさがりな奴ではあるが、車両間の狭い連絡通路で人にすれ違えば、軽い挨拶くらいはちゃんとする。前方には赤い腰巻きマントを着用した少女がいる。ショートカットの髪に中性的な顔で、愛おしそうにピッピ人形を抱えている。
ども、ミヤナギは口の中で呟いて軽く会釈した。相手も同じ動作をする。が、どこうとする方向が同じですれ違うことはできなかった。
逆の方向に避けようとする。そうすると少女も同じように動くため、ぶつかりそうになった。
すみません、ミヤナギが頭を下げると、相手も返す。
今度は避ける方向が被らないように、足の動きを見ながら待つことにしたのだが、相手は一向に動かない。耐えかねて、ミヤナギから動いてみたら、またしても少女は同じ方向に動いた。
二人は同時に顔を上げる。
「どうぞ、通ってください」ミヤナギは笑った。
「どうぞ、通ってください」少女の方も笑った。
さすがにミヤナギもなんだかおかしな事態だということに気づく。
「もしかして、真似してます?」ミヤナギだ。
「もしかしなくても、真似してませんよ?」こっちは少女。
ミヤナギは困り果てた様子で、頭を掻く。少女の腕の中には、のっぺりとした顔のピッピ人形があった。ミヤナギが見つめていると、その口はにゅるんと両端が上がったように見えた。
目をこする。恐らく気のせいだろう。けれど、ピッピ人形で思い当たる人物がいた。
「モノマネむすめ?」
目の前の少女は微笑んで、一言、正解、とだけ答えた。
「どうぞ、正解したから通ってください」
そういえば、ヤマブキシティにはこんな人もいたなぁ、そんなことを思うミヤナギの出身はヤマブキシティ。
もちろん聞いたことがある。リニア駅からほど近いところに家を構えていて、騒音などものともせずに物まねに耽っている一家がある。ガマゲロゲの子はガマゲロゲという言葉があるように、親がモノマネ好きならば、子もまたモノマネが好きだった。ヤマブキシティに住んでいる人ならば、もれなく知っている人物であろう。
「ありがとう。じゃあ、通るね」
ミヤナギはモノマネむすめの横に踏み出す。
「なんてね、意地悪しちゃうよん」
いきなり進行方向をふさがれた。意表を突かれて、静止できずにぶつかってしまう。慌てて止めようとしても、転がり始めたマルマインは急に止まれないもので、前にかかった重心は戻らない。
「うわっ、ごめん!」
悪いのはどう考えてもモノマネむすめの方だが、勢いでミヤナギは謝ってしまった。
その時、ぼっきゅという効果音がした。
「月よりの使者、ミラクル・ピンキー! 合言葉は、ジェネラル・ピクシー!」
突然、月よりの使者の登場シーンが始まった。そいつは横っ飛びで華麗にリニアに乗り込むと、連絡通路に躍り出て、ミヤナギと少女に背を向けて決めポーズをとった。そして、振り向く。
「荒ぶるピンクはイヤァァァァァァァァァアアアア!」
絶叫が響いた。
「みみみみみミヤナギくんがあああ、にゃんにゃんしてる!」
倒れたミヤナギの下では、少女が悪戯っぽく笑んでいる。
◇ ◇ ◇
リニアがもう一度発車のベルを鳴らした。車輪が沈んで、リニアはいよいよ動き出す。
――本日もリニアをご利用くださいまして、ありがとうございます。
男の声でアナウンスが始まった。語尾が心なしか震えているようにも聴こえる。
――この便は、ヤマブキシティに向かいます。途中の停車駅はございません。
普段ならそこでアナウンスは終わるのだが、放送時の微細なノイズは途切れない。つまりまだマイクが入っているということだ。操縦室の物音がした後、別の声がマイクを通して全車両に届いた。
――ご乗車いただいた皆様に、良い旅を。一生記憶に残るような、素晴らしい旅になることを約束します。さあ、このリニアに乗り合わせた数奇な運命を楽しみましょう。
男の癖に演技じみた高い声と、およそ車内放送には相応しくないような台詞で締めくくられる。
一号車に乗り合わせていたケンタは、怪訝そうに操縦室へ繋がる扉の方に視線を向けるが、磨りガラスの小窓が見えただけだ。誰かが向こう側からこちら側を見ているのではないかと思えて、ケンタは思わず身震いをする。その時に気づいた。
「トイレ行きてぇ」
――トイレに行きたいということに。
「え」対面にした座席の正面に座っていたユキオが反応する。
「サイコソーダ、飲みすぎたかも」
リニア駅の自動販売機には、もちろんサイコソーダがあった。クエスト進行中のケンタにしてみれば、自動販売機の中で蛍光灯に照らされたサイコソーダが、後光を射した回復薬に見えたことだろう。勇者たる者、回復薬なくして旅をするほど愚かであってはいけないのである。当然、素通りすることなどできずに購入。乗り込むまでには二本も飲んだ。
「トイレって、どこにあるんだっけ」
無表情のユキオが、丸メガネを煌かせて、口の端だけを器用に伸ばした。
「あっれー、ケンタってもしかして田舎者なのかなー? トイレの場所も知らないなんて、虫アミのない虫取り少年みたいなものだよね」
間違いない、リニアに乗る前の仕返しだ。しかも虫アミを持たない虫取り少年とは、現在のケンタそのものであって、比喩でもなんでもない。
トイレの場所くらいアナウンスで教えてくれるだろうと思って、無視を決め込む。しかしよく考えてみろ。勇者の冒険がそんな都合のいいものであっていいのだろうか。否、攻略本の飛び交う冒険なんて勇者失格もいいところである。村人Aでもそんなことはしないだろう。
「自分で探すか。よし、探すぞ!」
勇者は決意した。封印されし宝石を臨む選ばれし者のように、勇ましい立ち姿で宣言する。
「二号車から三号車の連絡通路だよ」
対面には丸メガネの攻略本がいた。
「てめっ、ユキオ! うわー最悪だわ、ゲーム開始直後に魔王の城が見えるくらいに最悪だわ」
肩を落とした勇者は、とぼとぼと操縦室とは逆の方向へ歩き出すのであった。
◇ ◇ ◇
「クラボさん、金持ってきたっすか?」
対面に座っているこいつは、何を当たり前のことを聞いているのだろう。金がなかったらまずリニアには乗れないし、もしも金が必要になるような非常時になってしまえば万事休すだ。いくら下っ端だからといって、金を持ってきたかどうかを聞くなんて馬鹿にしすぎというものだ。
一応、確認のために財布を開く。高級そうに見えて実は安い黒の長財布だ。
「ああ、ない」
「ないんすか」
どうやらリニアに乗ったせいで金は尽きてしまったらしい。帰りの切符代も含めて、いくらかバンジから借りなければいけないとは、我ながら不覚であったとクラボは思う。マンキーも木から落ちるってやつだ。あるいはヒヒダルマもウソッキーに登るとか。
「すまねぇが貸してくれねぇか。そのうち返す」
「いいっすよ。トヨンでどうっすか」
トヨンというのは十日で四割の利子が付くという、歴とした悪徳金融の手口である。実にロケット団らしいが、身内にトヨンで攻めるとは最低な奴だ。もちろん借金はギギギアル式に増えていく。
何か文句の一つでも垂れてやろうとしているところに、扉の開閉音が聴こえた。
「お弁当に、サイコソーダ、ポケモンフーズに、モンスターボール、きずぐすりは、いかかがですかー?」
カートを押しながら、間延びした声を響かせて、車内販売のお姉さんが入室する。
「車内販売っすよ、クラボさん。ちょうど喉渇いてたんすよねー。クラボさんも何か買いますか?」
「いいのか?」
「もちろん、トヨンで」
まあ、トヨンと言っても十日経たなければ問題はないのだろう。クラボはため息をついて、車内販売のお姉さんを呼ぶ。
「サイコソーダ、二本くれ」
「じゃあ、同じく。二本くださいっす」
お姉さんはどこぞの係員とは正反対の微笑みで合計金額を告げ、その代わりにバンジの財布からはサイコソーダ四本分のお金が消え、二人の手元には二本ずつのサイコソーダが渡る。
この二号車に乗っているのはクラボとバンジの二人だけなので、お姉さんは早足で通り過ぎていった。車両を移るときに扉の前で、すみません、と言っていたので乗客とぶつかりそうにでもなったのだろう。
「ったく、ロケット団の給料ってもうちょっとどうにかならねぇのか。これじゃあリニア弁も食えねぇ」
「そうっすねー。これじゃあタウリンも買えないっす」
「タウリンってお前、給料いくらだよ」
「給料っすか? クラボさんが言うなら言ってもいいっすよ」
「分かった。ちゃんと言えよ? 月十万だ」
「ぷ」
「おい、笑ったか! 今笑いやがったか! ちきしょー!」
その時、横を少年が通り過ぎた。
「あれ、今の、どっかで見たことないっすか?」
「あ? ガキか?」
バンジがクラボの後方に視線を向けているので、クラボも通路に身を乗り出して振り返ってみる。少年も会話が聞こえたのか、視線に気づいたのか、足を止めて振り返った。
「あ」
それは三人のうち、誰が洩らした声だったろう。三人が同時に洩らした声なのかもしれない。
とにかく三人とも動きを止めて、場の空気は固まった。
ロケット団の二人が思い出したのは、どこか遠い世界の凄惨な記憶。地獄絵図を背にして地に光臨なすったおぞましい魔王の姿だ。一方、少年の方はといえば、シゼーンコーエンに設置されたゴミ箱がまず浮かんだ。次にコスプレの男を思い出して、目の前のそいつらには欠片もオーラがないことに気づく。陣雲の下で飛んでいったズバットは二匹だっただろうか。その下に立っていたのは……ゴミ箱、じゃなくて、こんな感じの二人だったような気がして顔をしかめる。
「あー!」
ロケット団の二人は少年を指差して叫んだ。少年はきょとんとしている。
「このガキ……、他人のポケモンを使って悪さする俺たちをなめるなよ――!」
二人はサイコソーダの替わりにモンスターボールを手にして立ち上がった。
「お、おい、ロケット団のお兄さん、さすがに子ども相手にそりゃないよ……」
「うるせぇ! 自然公園での借りはここで返す!」
少年があからさまに嫌そうな顔をして走り出した。遅れて二人は追いかける。
「おとなしく捕まりやがれ!」
自動ドアをほとんど蹴破るかのような勢いで少年は突進していく。開くのを待つ分だけ時間は浪費される。少年が連絡通路に飛び込んで、二人も続く。逃げ場はどこにもない。見失いさえしなければ、どこかで捕まるだろう。
少年は三号車に入った。通路を駆け抜ける。二人も遅れて三号車に入り、追いかける。三号車には早速眠っている女がいた。
「クラボさん、今の女……」
後ろからバンジの声が聞こえる。
「わざわざ眠れるサザンドラを起こす必要はないだろう……」
「ごもっともっす」
目を覚ました女の姿を想像して、車内の温度が二度は下がった。そして二人は加速した。
◇ ◇ ◇
ミヤナギの隣には不機嫌そうな顔の人間サイズが座っている。二席が並んでいるうち、窓側が人間サイズで、ミヤナギは通路側だ。座席の幅が狭いせいか、人間サイズの席では横からピンクの塊がはみ出していたり、中でもぞもぞと何かが動いていたりする。座席回して前に座ればいいのに、そうは思っても口を開こうものなら意味深な天使の微笑みが待っている。
とりあえず、女難であった。
モノマネむすめはケラケラと笑いながら修羅場を抜け出して、連絡通路に残ったのはピクシーの着ぐるみの女の子と、ロケット団のコスプレの男の子。いったい自分が何をしたのだろうか、疑問が駆け巡る頭を思いっきり殴られて、続けざまに頬を蹴られた。満足そうに微笑んだ女の子は四号車に歩いて行き、とうとう残ったのは状況を理解できないミヤナギだけだった。こうなるまでに二人の間では何があったのか、それはミヤナギ本人にすら分からない。そして、今に至る。
「ねぇ」
ミヤナギが口を開く。睨まれる。が、奴はすぐに微笑んだ。
「なあーにぃー?」
ピンクのお腹あたりでもぞもぞしていたモノが激しく動き出す。そこにミカは視線も向けずに拳を叩き込んだ。一応、ミカというのは、人間サイズのピクシーに付いている人用の名称である。
「あのさ、いったいぼくが何をしたっていうんだ」
それから三秒くらい表情を変えずに微笑んでいるミカ。
「合言葉は?」
合言葉を聞かれた。これに答えられなかったらどうなるんだろうか。偽者とかに見なされて、また破壊光線でも食らうのだろうか。思わず身震いする。
登場シーンだ。人間サイズがぼっきゅと現れた時に言った意味の分からない言葉は何だったろうか。……もちろん覚えているわけがない。
「ごめん、わすれ――」
「ジェネラル・ピクシー!」
ミヤナギはすかさず両手で顔をガードした。殴られるかと思った。しかし、さすがに女の子はそこまで乱暴ではない。
「じぇ、じぇねらる、ぴくしー」
「うん、じゃあ、答えてね。あの女は何? また会おうねって、言ってたよね? カノジョ? カノジョなんでしょ! このっ、特性うわきのウワキモノ!」
そいつは進化したら一ターンおきにナンパでも始めるのか。
「彼女じゃない。あの女の子とは、さっきが初対面で、また会おうねって言ったのは……え、そんなこと言ったんだっけ」
「言った! 都合よく忘れようとしてっ! このっ、ウキワモノ!」
ウワキモノにもウキワモノにも成りたくなかったミヤナギが、ヤマブキシティにおけるモノマネむすめの知名度、それとここまでの経緯を一通り説明して、ようやく理解を得られたときに、ピンクのお腹の中から安堵のため息が聞こえた。
「じゃあ、あのふにゃんとにゃんにゃんは事故だったってこと?」
ふにゃんとにゃんにゃんが何を表しているのかは置いておいて、事故であることは間違いないので、素直に頷く。
ミカはピクシーのくせにオタマロみたいな顔をしてあっけにとられている。
「えへへ、な、なんだ、勘違いか、えへへ」
かと思えば今度は、ヒヤップに替わってサルの仲間になれそうなほどの笑顔になった。
なんだか気分が優れなくなってきたミヤナギは、いよいよ席を立つ。
「トイレ、行ってくる」
なおもピクシーの顔はヒヤップだ。
トイレの場所は確か三号車と四号車の間。ここは四号車だから、三号車側の連絡通路に出ればトイレがあるだろう。にやにやと笑い続けるミカをちらちらと見ながら、扉の方へ歩く。
連絡通路の自動ドアが開いて、向こう側にある三号車のドアも開いた。もの凄い勢いで少年が駆けてくる。少年は、叫んだ。
「へるぷみいいいぃぃぃぃぃぃいいい!!」
切羽詰った表情で、恐らく何かから逃げている。ミヤナギは脱力しきった顔を引き締めて、手持ちからモンスターボールを取り出し、バリヤードを呼び出す。生み出された光が形を作り上げる前に、ミヤナギは指示を出した。
「バリヤード、バリアー」
別にシャレじゃない。
少年がミヤナギの近くまで来たところで、バリヤードは連絡通路の真ん中にバリアーを張った。遅れて走ってきたロケット団の二人が、透明な壁に気づかず思いっきりぶつかった。
「あれ」
そこでミヤナギは気づいた。ロケット団の制服の文字が正規のものである。首から上に視線を移してみると、そこにはつい数時間前に知り合ったばかりの顔がある。ミヤナギの傍らには逃げてきた少年。いくらなんでもコスプレイヤーが、少年を追いかけて悪事を働くはずがないだろう。さすがのミヤナギもここまできて、とんでもないことに気づいてしまった。
「お前ら、本物のロケット団か……?」
透明な壁にかじりついていた片方が答える。
「ばれちゃあしょうがないっすね……。力ずくでも物資の在りかを聞き出してやるっす!」
と、壁の向こうで申しております。
その場の空気が異様なものになった。
今の内に状況を冷静に考えてみる。バリヤードのバリアーがなくなるのも、時間の問題だ。そんなに長く続くものではないから、あと数分もすればなくなってしまうだろう。そうじゃなくても、ポケモンの技で壊せることに気づかれたら、数十秒もかからずに突破される。
ミヤナギの後ろには、少年がいて、ミカの乗った車両もあるし、四号車の後方にはさらに五号車もある。ここを通してしまったら、それらの人全てがロケット団の脅威にさらされてしまうのだ。いくら馬鹿でも、腐っても、ロケット団はロケット団。何をしたって不思議ではないし、野放しにしておいたら危険である。となると、ここは通してはいけない。
「なぁ、兄さん」
傍らの少年が言った。何かに驚いたロケット団の二人が、壁の向こうから視線を送ってくるので、少年は声を潜める。
「あいつら、たぶんオレを狙ってるんだ。だから兄さんは、自分の席に戻った方がいい」
「でもさっき、助けを求めてただろ?」
「さっきね。今はこれだけ態勢が整ってるから、オレのポケモンで戦える。あいつらは一度倒したことがあるんだ」
周りを見渡してみる。連絡通路は乗車口とゴミ箱が置かれている分、車両の扉周辺は若干のスペースがあるけれど、バリアーを張った通路の真ん中には、トイレや洗面台があるくらいで、人がすれ違う分のスペースしかなく、どう見てもポケモンを出して戦う場所ではない。
「だめだ。こんな狭い場所じゃ戦えない」
「でも、ポケモンを出さなきゃ、大人になんか適わないじゃんか。兄さん一人で、大人二人を相手に喧嘩なんかできないだろ?」
確かにそれは無理がある。ロケット団ともなれば、多少の訓練くらい受けているだろう。そんなやつらに、コスプレイヤーのミヤナギが適うはずもない。
――ポケモンを使えばいいじゃないか。
ロケット団の二人がバリアーの壊し方に気づいた。遅いくらいである。
バリアーが壊れた瞬間を狙って、攻撃するか? そんなことをしたらリニアが壊れるかもしれない。トレーナー間のトラブル時のために、リニアはポケモンの技に対応して丈夫に作られているらしいが、こんな密集したところでの技の応酬はあまりいいものじゃない。もしもリニアが吹っ飛んだら、想像もつかないような速さで空気の塊がぶつかってくる。そんなことになれば、ただじゃ済まないだろう。
「仕方ない。オレもポケモンで――」
少年が呟いた。
「ダメだ。ここでやり合ったら外に投げ出されちゃうだろ」
投げ出されてしまったら、その時はバリヤードで――。
「あ」
ミヤナギは策を思いついた。
しかし、それを実行するにはある物が必要だ。もう一度、周りを見渡す。普通のリニアなら絶対にあるはず。その時、バリアーの向こうで光が生まれた。
あった。
「君、そこの壁についてるやつ開けて!」
少年に指示を出す。
「これ? 鍵かかってるけど……」
「……鍵。バリヤード、念力でこじ開けてくれ」
壁に薄紫の光が集まり、鍵付きの整備用具入れは開いた。ミヤナギは上を見た。そこにも似たような鍵つきの小窓が取り付けられている。
「バリヤード! 上も!」
「えっ、兄さん、それはまずいって!」
外に出るなら問題もあるが、開いているだけなら大した問題もない。ミヤナギはそう判断した。薄紫色の光が小窓に集まり始める。
連絡通路の真ん中で、甲高い音が響いた。バリアーはとうとう壊された。
ミヤナギは急いで整備用具入れから梯子を取り出す。伸縮性の梯子が、縮まった状態で入っていた。手動で伸ばしてたら間に合わない。
天井の小窓が押し開けられ、高速の世界に出された小窓は、空気にむしり取られて吹っ飛んでいった。人間があそこから顔を出せば、首から上が同じことになる。
「バリヤード、梯子をそこまで伸ばして」
ロケット団の二人がポケモンに指示を出す。
梯子が天井にかかった。
「君は逃げて! ぼくがロケット団の二人を屋根の上に誘い出すから」
「はっ!? 兄さん何言ってんだよ! 死ぬぞ! そうじゃなくても、あいつらの狙いはオレだって!」
二匹のズバットが飛んでくる。
少年が舌打ちをしながらハッサムを出した。ズバットの口が開いて、超音波を放つ。それをハッサムがまもる≠ナ防いだ。
ミヤナギがバリヤードを左腕で脇に抱えて、梯子を上り始める。
「しょうがない、君もついてきて!」
「いやだから、死ぬって!」
「バリヤード、屋根の上にトリックルームをかけるんだ!」
少年が目を見開いた。すぐに納得した表情で梯子に手をかける。
小窓から見えた空は、少し歪んでいた。ミヤナギはバリヤードを屋根に出して、自分も外に出る。リニアの屋根の上だけが、ぽっかりと長方形の部屋に切り取られている。周りでは景色が飛ぶように流れていた。足を踏み外してしまったら、景色と同じようにどこかへ流れていくだろう。
少年が屋根に這い出て、その後をハッサムが続いた。二匹のズバットは外に出ようかどうか、躊躇しているようだ。
屋根の幅はお世辞にも広いとは言えない。内装の幅に加えて、外郭の部分が少しあるくらい。ここでポケモンバトルをするとなれば、それなりの制約がかかってしまう。
車内から二匹のズバットが飛び出してきた。
「さあ、どうする。兄さん」
ミヤナギの視線の先には、好戦的な目つきがあった。ハッサムの赤い外殻に手をかけている少年。
その時、ミヤナギの脳裏には虫取り大会の光景が浮かんだ。結果発表で一人だけ異彩を放っていた少年がいた。両手に破れた虫アミを持って、ハッサムを携え、ミヤナギの欲しかったストライクを捕まえていた、あの少年。
「君、強いの?」
虫取りの少年と、目の前に立つ少年の姿が重なって、ミヤナギは確信を持って疑問にならない問いを投げる。
少年は、ちぎれた雲が一つ流れてしまうくらいの間をたっぷりと空けて、答える。
「あぁ、強いよ。最強だね」
少年は笑っていた。
◇ ◇ ◇
操縦席では二人の運転手が眠っている。自動操縦だから暇になった、それが理由だとしたら、首についた赤い痕の説明がつかないだろう。取り付けられた椅子に浅く腰を乗せ、脱力仕切った両足を投げ出し、ぐったりと頭を垂れている。
その後ろには、スーツの男が二人いた。片方の背が高すぎるせいで、もう片方が低く見えてしまうが、実際はそれほど低いわけでもない。そのすぐ横では、ネイティオが斜め上に虚ろな視線を向けている。
「うっし、とりあえず最初のミッションは終わった。次行くぞイヌ!」
「待て、ネコ」
一号車に続く扉に手をかけようとしていたネコが振り返る。
「操縦室からスーツの男が出て行くのはまずいんじゃないか」
あぁ、ネコは頷いた。
「そりゃあそうだな。じゃあ、連絡通路に出るか。ネイティオ、テレポートだ」
ネイティオが正面を向き、翼を広げた。
スーツの二人は、一号車と二号車の間にある連絡通路に飛んだ。売店があり、ちょうど車内販売のカートが戻ってきたところだった。お姉さんがびっくりして、怯えながら売店のカウンターに入った。
リニアの走行音がやけに静かで、普通の会話は筒抜けになりそうだ。
「さて、どうすっかね。まだヤマブキまでは時間があるぞ」
乗車口の前にあるスペースに入り、ネコは普段から大きい声量を極力抑えて話し始める。
「邪魔者は放っておいていいのか」
答えたイヌは、いつも通りの響かない声だった。
「邪魔者ってぇのは、ロケット団のことか? それともガキか?」
「あんまり目立つことはやらない方がいいと思うが、ロケット団がいるのは厄介だろう」
ふむ、ネコはポケットに両手を突っ込んで、壁にもたれかかっている。
「まぁ、ガキは放っておいていいだろうな。時間もあるし、ロケット団の目的を探ろうぜ」
「でもスーツの男が二人で動くのはまずくないか」
言われてみて、ネコは自分の服装を確かめた。胸があほみたいに開いていて、わざと赤いアザを見せるような格好になっている。このアザは二十年前の事件で、ネコがまだ子どもだった頃に負った傷だ。どれだけ時間が経っても、アザは小さくなることなんてなく、むしろ大きくなっていて、消えてくれる気配はない。そのアザが事件を忘れさせてはくれない。
ネコは視線をイヌの足元に移した。何よりもまず、トイレ用のスリッパが異常に目立つ。あとはオールバックの髪だろうか。ネコのぼさぼさの髪とは対照的で、整いすぎていてむしろ怖い。
スーツよりも他の要素で自分たちは目立っている。
「そうだな。一人でも目立つのに二人で居るのはまずいかもしれねぇ。二手に分かれてみっか」
それがいいだろう、イヌは頷くでもなく、口だけを動かして答えた。
「俺はトイレに行きたいから後方車両に向かう」
ネコが顔を上げる。
「あ? イヌが自己主張なんて珍しいな。あれかお前、まさかスリッパを見たいのか?」
イヌの反応がなくなった。
「かはは、図星かよおい! リニアのトイレにスリッパなんてあるわけねぇだろ!」
「そうなのか? それなら別に後方車両じゃなくてもいいが」
無口でおとなしいはずのイヌだが、どうやらトイレのスリッパが相当お気に入りらしい。かはは、という笑い声が連絡通路に響いて、売店のカウンターでは女声定員の肩が跳ねた。
「イヌはとろいからな。俺が後方に行ってやるよ。一号車見てからイヌも後方に来い」
声を抑えるのも忘れて、ネコは声を響かせる。
「分かった。そうする。それじゃ、また適当なところで落ち合おう」
「おう、ロケット団見つけたら、潰しといていいぜ」
ネコはネイティオをボールに戻して、後方車両に歩いていく。売店をすれ違う時に店員の反応を横目で楽しみながら、ポケットに手を突っ込んで歩いていく。
イヌが一号車に入っていき、車内販売のカートを一号車に運ばなければいけなかった店員は、あきらめたふうにカウンターの椅子に腰を落とした。
◇ ◇ ◇
二匹のズバットが赤い光によってボールに戻された。
リニアのちょうど真ん中、三号車の屋根の上で、四人が二陣に分かれて向かい合っている。
「君、名前は?」
ミヤナギがロケット団の二人を睨みながら、すぐ横で立っている少年に聞く。
「ケンタ。兄さんは?」
「ミヤナギだよ。よろしく」
ロケット団の二人がボールを投げて、中からは二匹のポケモンが現れた。
漆黒の肌に骨のような白い装飾をして、先が矢印状になった尻尾を振り乱す四足のポケモンと、毒々しい紫の身体に、いくつもの棘を背中から生やした二足のポケモン。
ヘルガーとニドキングが屋根の上に降り立つ。この二匹を出すのなら、車内の広さでは不十分だったろう。ズバットを出したのも頷けた。
「バリヤード、下がってて」
珍しく真剣な面持ちになっていたミヤナギは、トリックルームを維持するためにバリヤードを後ろにやって、二つ目のモンスターボールを投げる。解放された光はガラガラの形になった。
「トリックルームパーティってとこか」
ロケット団の片方が呟く。トリックルームで戦うのはミヤナギの得意戦法だ。この場に出ているポケモンの中ではガラガラが一番速く動けるし、それに次いでケンタのハッサムが速いはずだ。ロケット団二人にとっては圧倒的不利な状況である。
「一応、自己紹介でもしておいてやるっす。おれの名前はバンジで、こっちがクラボさんっす。さぁ、お前らも名乗――」
「ハッサム、シザークロスでヘルガーを攻撃だ!」
「どわぁっ! ひでぇっす!」
ハッサムが地を蹴り、歪んだ空間で紅い鋏が宙を舞う。クラボが指示を出して、ヘルガーはかえんほうしゃ≠放った。空を走る炎がハッサムを捉える瞬間に、赤い斬光が斜め十字に輝き、技のぶつかり合いで爆発が起きる。空中を回転してハッサムがケンタの傍に戻った。
走り出していたニドキングが角を突き出して、着地したばかりのハッサムに突進する。それに反応したのはガラガラだった。すかさずほねブーメラン≠ニドキングに投擲。攻撃態勢だったニドキングは避けることもできず、まともに弱点の技を食らった。
屋根に倒れ伏すニドキングに替えて、バンジが新しいボールを放る。
ヘルガーが遠距離からのかえんほうしゃ≠ナ、再びハッサムを攻撃する。その隙を突いて、ガラガラは加速した。火炎がハッサムの生み出した透明な壁に防がれて空に霧散する。ハッサムの勝ち誇った笑みを見たヘルガーは、ガラガラが向かってくるのにも関わらず呆気にとられていた。
振り下ろされる骨の棍棒。しかし、棍棒が漆黒の肌を打つことはなかった。ガラガラの腕に蔓が巻きついている。その蔓の先にはウツボットがいた。
ガラガラの足が宙に浮く。じたばたともがくガラガラを振り回すウツボットに向けて、詰め寄っていたハッサムの紅い鋏が振り下ろされた。
その瞬間、三匹を業火が包み込んだ。
ヘルガーのオーバーヒート。味方のウツボットもろとも焼き尽くし、ガラガラを残して二匹は起き上がれなくなっていた。ポケモンを戻す。
「やるじゃん。一度やられてるくせに」
最大のパートナーであるハッサムが倒れて、ケンタの背中には少しだけ汗が滲んでいた。口に出した言葉も強がりの部分が強い。
「なめない方がいいぜ。自然公園で会った時のおれたちじゃないからな」
ミヤナギがケンタに視線をやって、腰に付けた三つのモンスターボールを見つけた。つまり、ケンタの手持ちは残り二匹。ミヤナギもバリヤードを除けば、ガラガラともう一匹しか残っていない。対するロケット団の二人は、あと何匹のポケモンがいるのか分からない。
トリックルームによって作り出された形勢は一気に逆転したように思えた。
屋根の上でポケモンバトルになれば、ロケット団くらい簡単に倒せる、そうミヤナギは思っていた。それだけの実力があると、自負していた。現状はどうだろう。自分の驕りが招いた現実に直面している。
ケンタとバンジがボールを放った。
虚ろな目が、流れていく景色を見つめていた。
◇ ◇ ◇
「ジェネラル・ピクシー!」
ぴっぴ人形を抱えた少女が通りかかったものだから、人間サイズのピクシーは思わず声をかけた。恋敵ではないと分かれば、目の敵にする必要なんてない。ミヤナギが言うにはただの事故だったんだから、どちらが悪いというわけではないのだし。
「あ、さっきの」
モノマネ少女がぴくりと反応した。たぶんピクシーの美しさを再認識したのだろう。腕の中にピッピ人形がいるのだから間違いない。再認識なんてミカにとってもよくあることだから、今ここに共感が生まれたのである。
桃色の丸い手で、ミヤナギが座っていた座席をぽんぽんと叩く。モノマネ少女は後ろをちらりと確認して、ピッピ人形を抱えたまま腰を下ろした。
「なんでそんな変な格好しているの?」
座ってすぐにモノマネ少女は変なことを言った。
ナンデソンナ変ナ格好シテイルノ?
どのあたりが変だと思われてしまったのだろう。ミカは慌てて全身を確認する。
荒ぶるピンクは正義の証。お腹のあたりが微妙に膨らんでいてミカは目を開いた。すぐさま自分の身体を抱きしめるように両手を組んで、思いっきり絞める。苦しそうなうめき声が聞こえてくるけれど、そんなはずがないのでさらに絞めて、無事にほっそり。
「変なところなんて何もないよねっ」
ミカの表情は天使になった。
隣に座っている少女が露骨に嫌そうな顔をして、身を通路側に引いている。俗に言うドン引きというやつである。
「い、いいや。何でもない」
きっと少女は見なかったことにしたのだ。可愛いピクシーに違和感なんてあるはずがないのだから、最初からなかったことにすればいい。そういうことだ。
「ところで、ピクシーの格好なんかして、ヤマブキまで何しに行くの? ヤマブキに住んでるわけじゃないでしょ?」
今まで着ぐるみなんて見たことなかったし。と、少女は続けた。
「ミヤナギくんを追っかけてきたの! 君が居ないと生きていけないって言うから、仕方なく!」
後半部分は脳内補完である。
お似合いのカップルだね、と言うように少女はにやにやと笑っている。少なくともミカにはそう見えたし、それ以外の意味がその笑顔に含まれているはずがない。だって二人は両思いでお似合いのカップルに違いないのだから。
「へぇ、君は彼のことが好きなんだ?」
――スキ。
なんて甘美な言葉だろう!
その瞬間、ミカの脳内に花畑が広がった。テーブルがあって、椅子があって、ケーキがあって、コーヒーカップがあって、そして十人のミヤナギがいる。大きな円卓を囲んで十人のミヤナギとピクシーの姿をしたミカが座っていて、それぞれが思いのままにくつろいでいる。一人のミヤナギがコーヒーカップをテーブルに置いて、呟いた。
スキ。
「きゃあ!」
その声にモノマネ少女の肩が跳ねた。
魔法の言葉を呟いたミヤナギの背後で、色とりどりの花が舞い始める。続いて、隣のミヤナギが、スキ。
「きゃあああ!」
ぴっぴ人形がゆがんだ。
今度は、また隣のミヤナギ。
「きゃあああああああ!」
少女がピッピ人形を落とす。
そして、十人のミヤナギがコーヒーカップを同時に置くと、一斉に呟いた。スキ。
「きゃああああああああああああああああああ!」
真っ赤な顔の人間サイズが飛び上がって叫ぶ。跳ねる。踊る。
十人もミヤナギがいたら普通は気持ち悪いものである。しかし、ミカにとっては天国だった。スキという言葉は天に上れる魔法の言葉。頭の中でスキが回っている。
ふいに現実に戻って、目の前には何とも言えない表情をした少女と、溶けたピッピ人形がある。
「ジェネラル・ピクシー!」
嬉しさをにじませて合言葉を叫んだ。
「ジェネラル・ピクシーって……何?」
モノマネ少女が座席から立ち上がりつつ、聞いてくる。
合言葉だよ! 答えると、不思議な言葉だね、って返ってきた。
ミカは嬉しくなって、座席の上に立ち上がって奇妙な踊りを始める。命名、ピクシー踊り。そのまんまである。
口元を引きつらせた少女が踊りを見て何を思ったのかは知らないけれど、今のミカは最高に気分がいい。ぼっきゅぼっきゅと回って、跳ねて、最後に決めポーズ。左手を腰に当てて、ピースの右手は目元に当てた。
それから叫ぶ。
「あぁ! ミヤナギくんトイレ長いなぁ!」
◇ ◇ ◇
トイレに行けないミヤナギがバトルをしている頃。一号車にいるユキオは、天井のぼんやりとした電灯を眺めながら思っていた。
ケンタ、トイレ長いな。
ケンタも実にトイレが長かった。かれこれ何十分が経ったのか分からない。ケンタが座っていた隣の座席に置かれた木箱を、何度開けようと考えたかも分からない。それと何故か一号車の中をスーツの男が行ったり来たりしていて、ユキオの横を何度通ったか分からない。あぁ、分からないことだらけだ。
不意にスーツの男が立ち止まり、逡巡しているような素振りを見せつつも声をかけてきた。
「お前、ロケット団を見てないか」
ロケット団と聞いて、ユキオが思い出したのは木箱を狙う意味の分からない二人組だった。自然と木箱の方に視線が移る。スーツの男はユキオの目線が移動したのを見逃さなかった。
「やけに作りの良い箱だな」
無表情で冷たい視線を木箱に注いでいた。背筋の伸びた高身長が、ユキオと斜向かいの木箱を見下ろしている。
「豪華版のサイコソーダだからね」
ユキオは素っ気なく答えた。ロケット団を探す男がスーツを着ていたら、普通は何かの組織の人間だと思うだろう。もちろん治安を守る組織だって考えられるわけだし、必ずしも悪い組織ではない。けれど、スーツの男がユキオの目線を追ったように、ユキオの視界の端にも男が首を動かすのが見えたのだ。言葉からも木箱を気にしている様子が分かる。
「ねぇ、ケンタ知らない?」
帰ってこない友人のことを考える。
なぜこんなにも遅い?
そこにロケット団を探すスーツの男だ。こうした人間が単独でリニアに乗ってくるだろうか。
「ガキの片割れか」
ぼそりと呟き、それから男は低い声で至極当然のように言う。
「俺の相棒にやられてるだろうな。あいつはガキが嫌いだ」
まるで普段歩き慣れている道にたまたま雨が降ってきたかのように。予想しうる範囲の出来事で、遭遇したとしてもいとも簡単に対処できる程度のこと。いいや、ケンタは弱くない。たとえ敵に遭遇したとしても、やられているはずがない。ユキオはそう思う。
「あんたは?」
ユキオは立ち上がって、男と対峙した。
「興味ない。ガキなんて大した可愛げもないからな」
男が一歩踏み出した。木箱に手を伸ばす。ユキオが間に立ちふさがった。
「なんか用なの?」
「木箱の中身を確認させろ」
「友人に危害を加えたやつの仲間に、そんなことさせると思う?」
それもそうだな、男は呟いて、納得したふうに右手で拳をつくった。
咄嗟にユキオが反応する。シートを蹴って飛び越える。木箱は無防備だが触れられる前に仕掛けてやる。
腰につけたボールを通路に放ると、飛び出してきたのはアーマルド。そのまま紺色の尻尾が容赦なくスーツの男を襲う。
「人間を攻撃するのに躊躇いを見せない、か」
スーツの男は呟いて後ろに跳んだ。空を切る鋭い音がユキオの耳に届く。標的を捉えられなかった尻尾がシートを叩き、さっきまでユキオが座っていた座席はなくなってしまった。
「アーマルド、ストーンエッジ」
最初から手加減などするつもりはなかった。全力で潰しにかかる。当然だ。ケンタだって逆の状況ならそうしただろう。ケンタが戻ってこなくて、代わりにスーツの男がここにいる。手を抜かない理由はそれだけで十分だった。
鋭利な石のナイフが放出されるのと同時に、スーツの男はボールを放っている。飛んでくる石にも冷静な表情を崩さずに、感情のこもらない瞳でただ対象を見つめているだけだった。
生まれた光がストーンエッジを遮って、跳弾した石のナイフが周囲のシートを貫通した。
光の後に現れたのはユレイドル。アーマルドと対を成すポケモンだった。
「気が合いそうだね」
ふん、スーツの男がつまらなそうに返事をする。
「残念だが、俺もこいつもアーマルドは嫌いなんでね」
「それは本当に残念」ユキオはちっとも残念じゃなさそうに言う。
「アーマルド、シザークロスだ」
会話を断ち切るようにユキオが指示を飛ばす。アーマルドが姿勢を落とした。地を這うような格好でユレイドルに肉薄し、石の爪を斜め十字に打ち付ける。
ユレイドルは防御の構えをとらなかった。かと言ってシザークロスの衝撃に吹き飛ばされたわけでもない。
ユキオの表情に焦りの色が見えた。一撃で落ちないのか。虫タイプのシザークロスはユレイドルの弱点を突いているのに――。
恐らくユレイドルが微動だにしないのは特性のおかげだろう。きゅうばん、だっただろうか。厄介な特性だ。近接したアーマルドが触手によって捕らえられていて、動けない状態になっている。
その時、ユレイドルの周りを花びらが舞っているように見えた。枯葉色の花びらだ。浮遊する無数の花びらは軽そうで、それだけを見ると美しい光景と言えなくもなかった。花びらがひとひら、シートに落ちた。勢いのまま、花びらは質量を持って床に転がり落ちる。
ことん、と小さな音がした。
花の乱舞が一斉に降下を始めた。優雅な動きを捨てて、風切り音を伴ってアーマルドに突き刺さる。
ユレイドルはもがくアーマルドを押さえつけたまま、花びらを生み出し続けた。
やがてぐったりとして動けなくなったアーマルドが床に倒れ、舞っていた花びらは同じようにすべて床に散った。
枯葉色の花びらが転がってきて、ユキオの靴に当たって止まった。それはよく見ると花の化石だった。ユレイドルが繰り出したのはストーンエッジだったのだ。
完敗だった。やられるまで技の種類さえ見抜けなかった。
顎を冷たい滴が伝って、花の化石に落ちた。ユキオは自分が冷や汗をかいていることに気づいた。スーツの男は強かった。
「所詮、ガキの戯れだ」
スーツの男がアーマルドをまたぐ。ユレイドルを連れて向かってくる。ユキオは通路を後ずさった。
一歩下がるごとに冷や汗が頬を伝って落ちた。自分は何をそんなに焦っているのだろう。汗が噴き出してくるくらいに焦るその原因は何だ。まだやられたのは一匹だけじゃないか。
また一歩、後退。
ユレイドルが怖いのだろうか。それともスーツの男か。確かに強いのは間違いない。それでも無敵なはずがなくて、ユレイドルを攻撃したシザークロスは確実にダメージを与えているはずだ。畳みかければ勝てないこともない。
もう一歩下がったところで、ユキオは何かを踏んだ。
バランスを崩し、踏んだものを蹴り上げて尻餅をつく。花の化石が前方に転がっていった。その格好のままユキオはさらに後退を続けて、ついに背中が壁にあたる。後ろは操縦室だ。
男が近づいてきて、ユキオを見下ろしてくる。
「案外あっさりと終わったな」
背の高い無表情を見て、ユキオはほくそ笑んだ。メガネの下で再び闘志に火をつける。あまり感情を表に出さないユキオが、この時ばかりは誰よりも不気味に口角を上げていた。それは狂ったピエロの微笑みか、墜ちた天使の自嘲か、あるいは。
――ねぇ、知ってる?
ユキオにしては感情を含んだ声音だった。その声は静かな車両によく響く。
「賢者の必殺技、知ってる?」
スーツの男が怪訝な顔をしてみせた。予想も付かなかった言葉を受けて、男には迷いが生まれた。その隙をついてユキオは言葉を続ける。
「教えてあげるよ」
そう言って言葉を区切る。
「はかいこうせん。理不尽な、ね」
直後、スーツの男は慌てて振り返り、ユレイドルの足が数ミリ床から離れた。通路には倒れ伏したアーマルドがいて、それ以外の変化は何もない。男は安堵しかけたが、そこに一切の余裕も与えず、技が死角から放たれた。
凄まじい爆発音が一号車に響いた。
放たれた破壊光線が無防備なユレイドルを撃つ。きゅうばんが床を掴めずに離れ、そのまま男の背中にユレイドルが勢いをつけてぶつかり、一人と一匹は衝撃を抑えきれずに跳ねながら扉まで転がっていった。
男がうめきながら立ち上がったところで、ユレイドルは既に再起不能だった。
「……くそっ、カクレオンか」
ユキオの横で景色に身を隠していたポケモンが現れる。不思議な模様をした緑色のポケモン、そいつは確かにカクレオンだ。
「さぁて、ガキの戯れに付き合ってもらおうかな。立ちなよ、おじさん」
賢者が笑う。