第一部 選ばれし者の集う場所 後
地獄を現世に引き戻すための号令がかかった。
虫取り大会が終わったのだ。ミヤナギは狂喜乱舞する子どもたちを気にせず、一人で黙々とストライクを追いかけていた。たまにキャタピーとかビードルとか、大してポイントの高くなさそうな虫ポケモンが、捕まえてくれと言わんばかりに飛んできたけれど、ストライクが欲しかったミヤナギはことごとく無視してきた。その甲斐虚しく、ストライクを手にすることはできなかったが、虫取り大会っていうのはたぶんこういう雰囲気を楽しむイベントだったのだ。そう思うことにして悔しさをごまかす。
「あー、ストライク欲しかった」
陣雲の晴れた空に向かって呟いてみる。そうすることでストライクが手に入るわけでもないし、余計虚しくなるだけだが、そうと分かってても、呟きたいんだから仕方がない。
自然公園の中央に参加者たちが集まって、今回の大会の優勝者が決まった。優勝者の捕まえたポケモンは、ミヤナギが大会中に追い求めていたストライク。逃がしたあいつを捕まえれば、優勝したのは自分だったかもしれない。そう思うとやり切れない気持ちになる。悔しい。
優勝した少年は、傍らにハッサムを携えて、少年にして歴戦をくぐり抜けた猛者のような雰囲気をかもし出していた。両手には網の破れた虫アミを持っている。いくらビギナーズラックがあってもあれには敵わないだろう。
参加賞を貰って、あとはカントー地方に戻るだけ。ミヤナギはコガネシティ側のゲートに向かって歩き出した。
そして気づく。草むらだったはずのところにミステリーサークルが出来ていた。いったいこんなもの誰が作ったのだろう。ちょっとだけ不思議に思う。でもそれ以上のことは考えられない。今はストライクどころか一匹も虫ポケモンを捕まえられなかった悔しさが、頭の中を占拠している。
ミステリーサークルを抜け出して、また草むらに入る。
「ん」
何かを蹴飛ばした気がする。草むらの中に手を突っ込んでみると虫アミがあった。誰かの落し物だろうか。まあ、気にしないことにしよう。虫アミを元に戻して、再び一歩踏み出す。
「ん、ん?」
今度は何かを踏んづけてしまった気がする。草むらの中からは、またもや虫アミが出てきた。まあ、虫アミだって草むらに入りたくなることくらいあるだろう。
そういえば自分も小さい頃には、草むらに入ってポケモンを追っかけまわしていた時があった。その時は虫アミを持っていたわけではないけれど、手に収まった子ども用の小さな虫アミは、なんだか懐かしい気持ちにしてくれる。虫アミを元に戻そうとして、やめた。ちょっとくらい借りても、いっぱい落ちてそうだし、誰も困ったりはしないだろう。
ミヤナギは虫アミを片手に、草むらを掻き分ける。
◇ ◇ ◇
話にならなかった。
泣く子も黙るロケット団の二人は、凶悪な虫取り少年とおまけの丸メガネによって完膚なきまでにやっつけられた。ベンチがあった場所に二匹のズバットと一緒にのびている。
大文字に寝ているバンジが、清々しいまでの青空を見ながら口を開いた。
「クラボさーん、なんであいつ、返せなんて言ってたんすかね」
もっともな疑問である。物資は本来ロケット団が任務で運んでいたものであり、虫アミで人を殺せるような奴は一切関係なかったはずだ。
「そういえば、そうだな。あ、あれじゃねぇか。俺たちの偽者の手下とか」
「偽者の手下っすか。有り得るかもしれないっすね」
どうやら虫取り大会が終わったらしく、帰路に着いた子どもたちが横を通っていく。ゴミを見るような目で見下ろしてくるのがひどく不快だ。
「まあ、普通の推理だろ。てか、この格好は色々まずい。こんなんじゃ泣く子にすら嘲笑される」
そうっすね、バンジはよろよろと起き上がってズバットをボールに戻した。クラボも同じ動作をする。
「そうだ、手下だ! 奴は自然公園に来てるんだろ? つーことは、あんな怪物少年を相手にしなくても、物資が偽者の手に渡ったところで叩きゃいいんだ」
クラボは得意げに口笛を吹き始めた。
「偽者が弱いとは限らないじゃないっすか」
「いや、考えてもみろ。奴はバンジに敵意を持っていたか? そんなことはないはずだ。持っていたらさすがのお前だって物資を渡したりなんかしない」
「さすがのお前だって、って何すかそれ」
「つまりだ、奴は何かを勘違いしてるんだ。何かは分からねぇけど、お前がもう一度会って、指令が変わったから返してくれって言えば、普通に返してくれるんじゃねぇか?」
「どうせ流されると思ってたっす。んー、それ意外といけるかもしれないっすね」
「このまま腐ってても俺たちの首が飛ぶだけだからな! よし、奴が帰る前に探すぞ!」
上機嫌になって口笛を吹きまくる。バンジが嫌そうな顔をしているけど、そんなもん気にしない。とりあえず自然公園の中央に行こう、そう提案して歩き出そうとする。
不意に視線を感じた。クラボは立ち止まって口笛をやめる。
前方には自販機がある。毒入りの飲み物なんか売るんじゃねぇよ、とか思っていた馬鹿な時代もあったが、そんなことはどうだっていい。問題は別にある。
自販機の後ろに半身を隠して、なんだかよく分からない奴がいる。しかもそいつは、ばれてないとでも思ってるのか、じーっとクラボとバンジに熱視線を送っている。バンジもそれに気づいて、怪訝な顔をして立ち止まった。
「なんだあれ」
ピンクの色をしている。なんか耳も生えてる。耳の先は黒だ。一見かわいらしくも見えるのだが、よく見るとやたらでかい。自販機の大きさと比較してみると、明らかに人間サイズである。
「ピクシーじゃないっすか?」
ピクシーというのは月から来たと言われている妖精ポケモンだ。どう見てもあいつは、月から来たというよりは追放されちまいましたって感じだが。あんなのが手を振っていたりしたら、泣く子も全力疾走で逃げ出すかもしれない。
「あ、動いた」
ちょこちょこっと自販機の後ろにピンクが隠れる。
「いや、もう遅いし」
かと思いきや、顔だけ出してこっちを見つめてくる。
「よく見ると、あれ人間の顔じゃねえか?」
「うわ、本当だ。気持ち悪いっすねぇ」
突然、凄まじい音がした。自販機のある方向だ。ていうか自販機から音がした。自販機がびーびー警報音を鳴らし出す。
「え、もしかして、今あいつ自販機殴った?」
「みたいっす。気持ち悪いって言ったのが気に食わなかったんすかね……」
人間サイズのピクシーは、自販機の警報音にびっくりしたらしく、ぼっきゅぼっきゅと逃げていった。逃げてるポケモンを見かけたら、追いかけたくなるのがロケット団。あいつはたぶん、というか絶対、ポケモンじゃあない。けれど逃げるからには追いかける。でも、何故逃げる? このタイミングでの偵察。そして逃亡。つまり、
「あいつも偽者の手下かもしれねぇ! 追いかけるぞ!」
クラボは走り出した。
自販機が相変わらずけたたましい警報音を上げているが気にしない。バンジも後ろに続いていた。
自販機のあたりまで来た時に、クラボは思いっきり転んでしまう。後ろでは、なぜかバンジも転んでいる。
あれ、なんかごく最近に似たようなことがなかったか?
クラボは考えてみる。あぁ、警報音がうるさい。はて、なんだったか。自販機うるさい。うぅ、さみぃ。ん、寒いな。
寒い?
「おい、まさか」
恐る恐る後ろを向いてみる。バンジも同時に振り返っていた。そこには一万年と二千年前から愛していたと言わんばかりの凄絶な微笑みがあった。
「いや、待て。自販機を壊したのは、俺たちじゃない」
笑みは崩れない。
「ロケット団が困っていたら、どうする?」
そいつは世間話でもするかのように聞いてきた。
「助けるだろ」
「助けるっす」
なぜか気温がさらに下がった。
「コロス」
瞬間、微笑みが般若の面に変わる。
溢れ出す殺気を浴びて、慌てて逃げようとする二人だが、やっぱり足は地面にくっついて離れない。特にクラボの靴は遥か昔に殉職なさった気がする。もう脱ぐものがない。服でも脱いでみようか。
「クラボさん、おれはあんたの屍を越えていくっす!!」
なぜだかバンジは嬉しそうだった。振り返ってみると、そこにはもう靴しかない。
「お、おい、バンジ! お前、俺を置いていくつもりか! 助けろ馬鹿野郎!」
「囮作戦っす! それに一応、任務が最優先っす!」
その声はずっと遠くから聞こえた。あの薄情者が!
次会ったら殴ってやる。けれど今はそもそも生きて帰れるかどうかが問題だった。相変わらずめちゃくちゃ楽しそうに微笑む悪魔が後ろに居る。
「デッド・オア・アライブ」
地獄の門番が低い声音で呟いた。
「あ、あらいぶ」
クラボが一縷の望みにかけて答える。
「ルージュラ、あんたの出番よ」
なぜだかルージュラは頬を紅潮させた。それすなわち、デッドであった。
「前言撤回!! でででデッドデッドデッド!! あらいぶ違う! デッドデッド!」
あろうことか、必死の抵抗を微笑みで受け流して、奴は死に際の人間を静観していやがる。頬を染めたルージュラがくるくる踊りながら走ってきた。辺りは恐ろしく寒いというのに汗が止まらない。汗が止まらないというのに顔面の温度は急速に下がっていった。
クラボは悟る。これが、死というやつか。
そして、ルージュラが両手を大きく広げて跳躍。
「や、やめろおおおおぉぉぉぉぉぉ!!」
自然公園に断末魔の悲鳴が響いた。
◇ ◇ ◇
ピクシーはかわいいのである。
まず第一に、月から舞い降りた妖精さんだからだ。妖精さんは文句なしにかわいいものだと相場が決まっている。決して気持ち悪くなんかない。
第二に、全身はぷにゃっとしたピンク色。ぷにゃっとしたピンク色、それすなわちかわいいキャラクターの鉄則である。たいていのぷにゃっとしたピンクは流れ星に乗ってやってくる。それと同じように恐らくピクシーも流れ星に乗ってきたのだろう。そういうキャラクターは根拠なんて必要ないくらいかわいい。大丈夫、気持ち悪くなんかない。
そして極めつけは、鳴き声だ。
たとえば、ピッピの場合。
ぴっぴー!
ぴっぴー!
あの甲高い鳴き声は、戦地で狂喜乱舞する少年少女の戦意を喪失させる。ピッピのかわいさは鳴き声一つで世界を救う。気持ち悪いなんて誰が言うものか。
ピクシーの場合だったら。
ぴくしー!
ぴくしー!
なぜかピッピと大して変わらない鳴き声である。ていうか鳴き声でなんのポケモンか丸分かりだ。そこもかわいさの一つ。ピッピと違うのは、外見がすらっとしていて、ぶにゃっとしたピンクのキャラクターにありがちな丸っこさがないこと。ミカはピクシーのそんなところが好きなのだ。
もちろんこれだけかわいいピクシーの格好をした自分は、どのポケモンのコスプレイヤーにも負けないかわいさを持っていると自負している。それなのに。
「どおおぉぉぉぉぉしてえぇぇぇぇぇぇ!!」
草むらに突っ伏して、人間サイズのピンクが嘆いている。
自販機がうるさいとでも言うかのようにびーびーと警報を鳴らしていた。ふん、悪いのはロケット団だ。そう思っているあたり、ロケット団にも劣らないくらいのロケット団精神を持っている気がする。
そもそもなんでこんなことになってしまったのだろう。
かれこれ数時間前のこと。コガネデパートでロケット団のコスプレをした男の子に一目惚れして、追いかけようとしたのに、不幸な出来事が重なってストーキングに失敗。急いで外に出た頃には、時既に遅し。辺りを見回したところでそれらしき影は一切なかった。街行く人々の視線を浴びながら、聞き込みを繰り返して時間が過ぎる。ほとんどの人が話しかけるだけで逃げる中、ようやくまともに話を聞いてくれたおじいさんによって、男の子が自然公園に向かったことを知ったのだ。なぜかおじいさんは「またかよ」って感じの表情をしていた。その時は自分以外にもピクシーの姿をしたコスプレイヤーがいるのかと思って期待したが、エレベーターに乗っていた少年の件がある。きっと何かの勘違いだ。そしてたどり着いた自然公園。受付には綺麗なお姉さんがいて、その綺麗な笑顔で公園の入口を通せんぼしていた。虫取り大会をやっている最中は参加者以外入れないらしい。タイミングが悪かった。それでようやく虫取り大会が終わり、公園に入ってみてこの通り。
自販機が未だにびーびー悲鳴を上げている。
単純にロケット団の服装をしている人がいたから、気になって遠くから眺めていただけなのだ。胸のRは正規のもので、どうやら本物のロケット団らしいと、気づいてすぐ自販機の裏に隠れたけれど、なんだかだめみたいだった。気持ち悪いという呟きが聞こえて思わず自販機を殴りつけて――。
「ピクシーかわいいのに……」
うん、気持ち悪くなんかない。絶対にかわいい。
あの男の子はもう帰ってしまっただろうか。虫取り大会が終わって、結構な時間が過ぎてしまったように思う。今を逃したら話す機会はなくなってしまうだろう。そう考えると、嘆いているままではいけない気がした。
よろよろと起き上がって、ぼきゅっと立ち上がる。まだ自販機の鳴き声が聞こえる。
「あ」
ロケット団の制服を着ている人が歩いている。なぜか靴は履いていない。どうやらさっきの二人組みの片割れのようだ。歩く先には、なんとミカの追い求めるあの男の子がいるではないか。
「お、おおぅ! ぴくしー!」
思わずかわいい鳴き声を上げてしまい、えへへ、と頬をかく。いや、照れている場合ではない。あのロケット団は本物なのだ。きっとコスプレイヤーを装って男の子に近づき、悪の道に引きずり込まんとしているに違いない。
これはピンチでありチャンスだ。見守っていれば、男の子は無事にピンチを迎えるだろう。悪の道に踏み出す直前に、ピクシーの格好をした女の子が助けに入ったらどうだろうか。助けてくれた嬉しさと、ピクシーのかわいさ。この二つの要素が化学反応を起こして、ロケット団の男の子は恋に落ちるという算段である。我ながら完璧な計画。思わず笑みがこぼれた。
這うようにして草むらに潜り、ほふく前進で近づいていく。途中でなぜか虫アミが落ちていたり、ビードルが伸びていたり、自販機の警報音に混じって壮絶な悲鳴が聞こえたりしたような気もするけれど、今はそれどころじゃない。男の子がピンチになるのだから。すごくわくわくする。考えるだけで胸が躍る。タイミングを見計らって突入しなければ。
どうやら男の子の方も歩み寄ってくるロケット団に気づいたようだ。ロケット団の男は親しげに片手をあげちゃったりなんかしている。まさしく読みどおり、コスプレイヤーのふりをして近づくという、なんとも許しがたい行為だ。でもここは、ぐっと堪える。
まだ、まだだ。――よし。
歩み寄るロケット団が会話する位置に入って、立ち止まったまさにその時、すかさず人間サイズのピクシーは草むらから飛び出すのだ!
「近づかないで!」
ぼきゅっと音を鳴らして草むらから飛び出すピンクのポケモン。否、人間。
唐突に割って入ったせいで、二人は驚き注視してくる。
今こそ、見せ場!
「月よりの使者、ミラクル・ピンキー! 荒ぶるピンクは正義の証! 悪者の未来をごっそり根こそぎぶち壊しちゃうぞっ!!」
左手を腰に当てて、右手はピースで目のあたり。ふっ、決まった――。
自販機がびーびー鳴っている中、なぜか二人は口をぽっかりと開けたまま固まっていた。しかもしばらくして自販機まで鳴り止んだ。決め台詞のつもりだったんだけどなぁ。ミカは思う。
なぜだか周囲が凍り付いていた。ここでそれ相応のリアクションを期待していたミカは、ちょっとがっかりした。
「え、えっと」
耐えかねて、男の子が口を開く。
「悪者の未来をぶち壊すって、なんだか悪者より怖いよね」
なんてつまらないリアクション。そうか、男の子は自分の未来がぶち壊されてしまうのではないかと思っているのだ。そんなテレパシーを受信した。このご時勢、ピクシーだってテレパシーくらい使わなきゃやっていけない。
「違うの、違うの! 悪者は、そこのお兄さん。ね?」
「ね? じゃないっすよ! おれのどこが悪者なんすか!」
そう言って全身を眺めている。頭の先から靴の先まで、欠片も余さず完璧に悪者だった。
「くっ……。悪者にしか見えないっすね……」
泣く子も黙るロケット団が、なんだかちょっと落ち込んでいるらしい。相手は完全に油断仕切っている。叩くなら今しかない!
さあ、ミラクル・ピンキーの本領発揮だ。荒ぶるピンクは正義の証!
「てえぇぇぇぇぇぇい!」
ぼきゅっと跳躍。すぐさま相手に近づくと、ミラクル・ピンキーは着ぐるみの大きな足を掴む。そして、思いっきり横に開いた。
「え」
ロケット団の格好をした二人が目を見開く。
左足のすぐ横には隙間があった。決して見てはいけない中の人の姿。いや、顔が見えているから心底どうでもいい。
けれど、隙間から見えるのは人の姿ではない。そこからはピンク色のポケモンが這い出ようとしていた。めちゃくちゃ頑張ってピクシーが着ぐるみから出ようとしている。スリムなピンク色のポケモンは、どういうわけか詰まっていた。
び、びくじー。
苦しそうな鳴き声が聞こえる。
「頑張って! ピンキー!」
「モンスターボールに入れてあげなよ」
ごもっともである。
果たしてピクシーの体が太いのか、それとも中の人の体が太いのか、もしかしたら着ぐるみが小さいという可能性もある。
「ダイエットしたほうがいいんじゃないっすか?」
ぶちっ。
その時、ミカは何かがぶち切れる音を聞いた。
ダイエット? それは、つまり、誰が、太ってるって? ピクシーはスリムなのだ。
ミカの左足が一瞬で中に引っ込み、勢いもそのままに中からピクシーを押し出す。
びぎっ!
またもや苦しそうな鳴き声が聞こえた。やっとのことで抜け出すことが出来たピクシーは、よろよろと立ち上がって戦闘態勢に入る。
「まったく、このおじさんは、気持ち悪いだとかデブでブスで甲斐性なしとか、散々言ってくれちゃって!」
「お約束っすけど、そこまで言ってないっす! ていうか、おじさんじゃないっす!」
「問答無用! 手加減無用! 本領発揮の最大出力大放出! ピンキー! 破壊光線!」
風が吹いたような気がした。
指示される前から構えていたピクシーは、何の躊躇いもなく破壊光線を撃ち放つ。
ミカはとんでもない光景を見ていた。一瞬で冷や汗をかく。むっとした空気がこもる着ぐるみの中でも汗なんてかかないのに、今年最大の大失態のようなものを目の前に突きつけられたせいで、容赦なく嫌な汗が噴き出てきていた。
目の前の景色がひどくゆっくり動いていく。それはあのコガネデパートで、男の子と目が合ったときのような感覚だった。周りの景色がぼんやりと霞んでいって、ミカの視線の先には男の子しかいない。手を伸ばせば届くのだろうか。なんて声をかけてみよう、そんなことを考えていた自分はもういない。結局、こんな登場の仕方しかできなくて、すごく変な人だと思われてしまったかもしれない。それでもこんなに近くまで来れたのだ。本当は、この後どっかに誘ったりなんかして。ハッピーエンドを迎えるはずだったのに――。
破壊光線が撃ち放たれる直前、男の子がポケモンを出したのを見た。
ていうか、そうじゃなくて。そんなこと、どうでもよくて。そっちじゃ――
ギラギラと光輝く極彩色の破壊光線が、ぶれることなく空を走る。
そして世界は動き出し、破壊光線は――男の子に向かっていった。
「そっちじゃないのおぉぉぉぉぉ!!」
二人の距離は破壊的なまでに広がった。
◇ ◇ ◇
空の青は澄んでいる。綿アメみたいな雲が空にほとんど食べつくされて、千切れた雲のかけらが色んなところに浮いていたりする。虫取り大会の終わった自然公園は、だいたい平和なのである。
「決戦の後のサイコソーダは格別だ」
ベンチに座っていたケンタは、空を見上げながらのほほんとサイコソーダをすすっている。
隣にはユキオがいた。一口飲むたびに強すぎる炭酸に顔をしかめている。ケンタにとってはこんな炭酸、水を飲むのと変わらない。ユキオはお子様だなぁ、そう思う。
「一応これ、おつかいで頼まれたものだよね」
おつかい?
あぁ、クエストのことである。
ベンチの端っこに置いた豪華な木箱のふたは開けられて、ふかふかとした布の上に並んだサイコソーダが顔を見せていた。二本分のスペースが空いている。
「はて、なんのことやら」
箱の中で密着するサイコソーダの缶を、少しずつずらしていって、等間隔に並べてみた。最初からこんなふうに並んでいたのではないかと思うほど、そこに違和感はなくなっている。仕上げに豪華なふたを閉めて、留め具でぱっちり、元に戻せば証拠はどこにも残らない。
「うわ、チクってやろ」
「もしかして、まだメガネ壊されたこと怒ってる?」
ユキオはメガネのことになると端整な顔をあっさりと崩すのだ。いつも無表情なユキオが嫌な顔をするというのは、ナマケロが陸上選手に混じってハードル走をしたり、サイクリングロードを自転車より速く走破するくらいに珍しいものである。きっとナマケロだって走りたくなることがある。そう決意したナマケロがヤルキモノに進化するのだろう。ユキオもそれと同じで、無表情から嫌な顔になるのは、ナマケロがヤルキモノに進化するという、進化前と進化後ではおよそ見た目で判断のつかない状況になるのだ。
やっぱりユキオはむっとした表情をしていた。世も末である。
「別に怒ってないよ。だからチクるだけで許してあげる」
怒ってんじゃねえか。
かといって口に出して突っ込むのも煩わしい。決戦が終わった地では、当たり前のように平和を謳歌しなければいけないのだ。決戦を制した英雄が決めるのだから絶対だ。そう、いつものことすぎて忘れてはいたが、ケンタは今日で通算420回目の優勝であった。サイコソーダくらい飲んでもいいし、ユキオが怒っていても許してやるし、なんか今平和な空を遮って人間のようなものが飛んできたけれども、それだって気にしないでおいてやるのである。平和、平和だ。
「今、何か飛んできた」
ユキオには何かが見えてしまったらしい。賢者たるもの、それくらいで心を動かされてしまってはいけない。ユキオは賢者失格だ。これからは塾帰りで通してもらおう。
背後で木がばきばきと凄まじい音を立てている。今日は自販機が警報音を鳴らしていたり、色々と騒々しい日である。平和を邪魔するやつは――今日だけ許す。
「あー、空は青いーなー大きーいなー月はのぼるーしー日はしーずーむー」
「それ、たぶん空じゃなくて海だけど。じゃなくて、今、人が」
何も聞こえない。なんてたって、空は青いし大きくて月も昇って日は沈まないのである。
ユキオもとりあえずサイコソーダを飲んで落ち着いたほうがいい。これだからガキってやつは面倒だ。
「あ、もうねぇや」
飲もうと思ったサイコソーダは空になっていた。横に振っても、ぴちゃんともすちゃんとも言わない。
ユキオはベンチの背から乗り出して背後の立ち並ぶ木を見ていた。正確には木の群れに突っ込んだ得体の知れない何か。いや、ケンタにとっては何も知らないことであるが、ユキオが見ているから一応確認のために後ろを振り返ってみる。ちらり。ロケット団の格好をした何かと、バリヤードが落ちていた。いや、ケンタにとっては何も見えなかった。
「さあって、出発だ!」
缶を上に放って、足元にある虫アミを拾って、すかさずフルスイング。サイコソーダの缶は弧を描いてゴミ箱に収まった。ついでに虫アミは草むらに投げて、みぎゃという変な声が聞こえたけれど聞こえなくて、豪華な木箱を持って、何かぶつぶつと呟いているユキオを無視して歩き出す。
決戦の後の戦場は、だいたい平和なものである。
◇ ◇ ◇
見てびっくり。こんなこと誰が予想したであろうか。
なんと、ロケット団の偽者をやっているあの男は、少年二人組みの手下だったのである!
嘆き悲しむ人間サイズを残して、飛んでいった偽者を追うバンジは、その事実が突きつけられた現場を草むらに身を潜めて目撃した。
直前にバリヤードを出していたせいか、破壊光線の威力は光の壁か何かで軽減されていたが、勢いもそのまま林の中に突っ込んだのだから無傷ではないだろう。バンジが現場に着いた時、ぶっ飛んできた仲間を無表情で眺める丸メガネと、空を見上げながらサイコソーダをすする虫取り少年がベンチに座っていた。駆け寄る気配なんて微塵もない。虫取り少年に至ってはぶっ飛んできた事実すらなかったことにしようとしている。その証拠に、山に捨てられた粗大ゴミでも見るかのように一瞬だけ振り向きはしたが、またすぐに向き直って、出発の号令をかけやがる。
そのまま缶を人間離れしたコントロールでゴミ箱に突っ込み――
「みぎゃ!」
バンジはみぎゃと言った。
お前が隠れていたのなんて最初から分かっていたのだ、そう言うかのように飛んできた虫アミは、バンジの眉間を狙い済ましたかのように打ち抜いた。しかも突っ伏していたバンジに、だ。
今の一撃で虫取り少年は満足したのか、物資を手に持って歩き出す。片割れの丸メガネが名残惜しそうな目を林に向けていたが、役立たずの部下には用がないのか、捨て置いて虫取り少年を追いかけた。
なんとも恐ろしい光景である。
使えない部下はあっさりと切り捨てられ、ゴミになるのだ。それは今のクラボとバンジのような状況と何が違うだろう。このまま任務に失敗したとなっては、無能な部下として容赦なく切り捨てられてしまう。それだけは何としても防がなければ。
幸いなことに一日は長く、まだ何とかするだけの時間はある。とりあえず尾行開始だ。あんなバケモノ二匹の前に丸腰で出て行くなんて考えられない。
バンジは立ち上がり、一歩を踏み出した。
「っと、おぉ?」
落ちていた虫アミを踏んでしまい、靴を履いてなかった足はバランスを失った。
バンジは思いっきり草むらに眉間を打ちつけた。
とりあえず虫取り少年と丸メガネは自然公園から出て行こうとしているらしい。コガネシティ側のゲートへと向かっている。
バンジは尾行を続けていた。
途中で何かを発見する。黒くてどろどろの変な物体が落ちていると思ったら、かつて一緒に行動していた同僚の姿に見えなくもなかった。あまりにも汚い見た目なので、本当にクラボだったらさすがに可哀想だと思い、近づいてみることにする。
「クラボさんっすか?」
声をかけてみた。汚い物体はゆっくりと動き出して、ごろりと仰向けになった。顔にはおびただしい数のキスマークがあり、制服の上半身はぼろぼろに引き裂かれていて、前から見たらほとんど肌が露出した状態だった。なぜか靴下がかたっぽしかない。
「ひ、ひどいっす。誰がこんなことを……」
クラボらしき物体は何かを喋ろうとして口を開いたが、声にならないかすれた音だけが鳴っている。それほどまでにひどい仕打ちを受けたらしい。
「み……み、ず」
やっと出てきた言葉はミミズだか水だか分からないけれど、要するに何か飲み物が欲しいらしい。
「待っててくださいっす。今自販機から貰ってきます」
やかましく鳴っていた自販機は正面からだと、一見なんでもないように見えた。けれど後ろに回ってみると、イシツブテあたりが体当たりしたような惨状だ。使えるかどうかはかなり怪しい。苦しんでいる同僚のため、バンジはお金を入れてみる。300円の表示が出た。瀕死の自販機はなんとか使えるようだ。
おいしいみずか、サイコソーダか。
もちろんサイコソーダは、おいしいみずよりも高い。死にかけとはいえあんなやつに300円出すのは嫌だ。そして、死にかけの人間に炭酸はどうだろう。しかもサイコソーダは普通の炭酸飲料水よりもサイコなのだ。よく分からないけれどサイコらしい。だから炭酸はかなり強い。飲んだらむせる。刺激でいよいよ死ぬかもしれない。だとすれば常識的に考えられるのは――
「サイコソーダっすね」
日頃の恨み。否、日頃のお礼である。日頃と言ってもたった半日の付き合いだが、クラボがどういうやつかはよく分かった。かなりうざい。そんなクラボにちょっと奮発してサイコソーダを買ってあげるバンジである。すごくいいことをした気分だ。
ガタン。
缶が落ちてきた。手を突っ込んで缶を引き抜く。
なぜかそれは、おいしいみずだった。
「ちっ」
バンジは露骨に嫌そうな顔で舌打ちをした。どうやら正常に動いていると思われた自販機は、どこかしら異常な部分もあるらしい。クラボの元に戻ろうとした時、壊れた自販機は暴走を始めた。
がったんがったん喚きながら、物凄い勢いでおいしい水を吐き出している。
「お、ラッキーっす」
サイコソーダが落ちてこないものかと、しばらく眺めていたのだが、ひととおり吐き出し終わった後でも、そこにあるのはおいしいみずだった。ていうか、ただの水である。
おいしいみずに300円も払ったんだから五本くらい持っていってもいいだろう。バンジはそう思い、五本ほど抱えてクラボがどろどろしているところに戻った。
相変わらず天を仰いでどろどろしている。
もうとっくに虫取り少年と丸メガネはゲートをくぐったはずだ。二人を逃してしまった恨みも込めて、バンジはおいしいみずを二本開ける。
「さあ、飲めっす」
クラボが口を開けた。
そこに容赦なく二本分のおいしい水を流した。絶対飲めずに溢れると思っていたのだが、どういうわけか、こんな姿でも人間をやめないこいつは、それこそ流すように水を飲み込んでいく。とうとう缶が空になった。
バンジは唖然とする。
「お前、飲ませる気なかっただろ」
その上、お礼ではなく恨み言を吐き出しやがった。
「そんなことないっすよ。五本も買ってきたおれに感謝するっす」
「サイコソーダ買うつもりだっただろ」
うっ、図星だった。
「どうせ自販機が壊れててサイコソーダが買えなかったんだろ」
「あああ、物資! 早く取り返さないと取り返しのつかないことになるっす!」
「図星だな」
「聞いてくださいっす! 実はあの偽者、ガキどもの手下だったんすよ!」
クラボはいよいよ真剣な表情になった。と、言っても顔中キスマークだらけである。真剣な表情をすればするほどおもしろい。
「ぷ」
「笑うなボケ! で、あのガキどもはどうしたんだ」
笑いを堪えながらバンジは答える。
「もうゲートくぐって行きましたからね。さあ、早く追いかけるっす」
残った三本のおいしいみずをどうしようか考える。どうせただで入手したものではあるけれど、荷物になるのは面倒だから置いていくことにした。コガネシティ側のゲートに向かって歩き始める。
数歩だけ歩いてみて、クラボのついてくる気配がなかったので振り返ってみると、蒼白な表情にキスマークをつけまくって固まっていた。
「お前、本気で行くのか?」
気が強いはずの同僚には、トラウマができていた。
◇ ◇ ◇
どうしようどうしようどうしよう。
人を殺してしまった。しかもよりにもよって愛すべきあの人を!
ピクシーが嘆き悲しむいたいけな少女の前でぴょっこぴょっこ楽しそうに跳ねれてるけれど、それどころじゃなくて。
どうしようどうしようどうしよう。
とりあえず、死体に泣きつく悲劇のヒロインになってみるしかない。
どうしようどうしよう。どうしよう――。
◇ ◇ ◇
むくり。
ミヤナギは起き上がった。
「よくやったよ、バリヤード」
傍らで目を回しているポケモンを撫でてやる。
破壊光線が撃ち放たれる直前にバリヤードを出せなかったら、確実にミヤナギはあの世行きだったろう。光の壁が破壊光線の威力を抑えた上、バリヤードがミヤナギをかばってダメージを受けてくれた。吹っ飛ばされた後も木の幹に当たれば致命傷だったが、運よく木の枝が重なるところに飛んできたらしい。しかも地面には柔らかい土があった。もう運に助けられたとしか言いようがない。そもそも破壊光線を撃たれる時点で運は悪いのだろうが、不幸中の幸いというやつだった。人間に向けて破壊光線を撃ち出すとは、あの人間サイズのピンクも相当な悪である。
はぁ、さすがのミヤナギもため息を吐く。
ミヤナギと同じ格好のコスプレイヤーは、何を言いに来たのだろうか。偶然見つけたから声をかけただけか。
「あ」
ミヤナギはあることに気づく。すっかり忘れていた。なんで忘れていたのだ。ストライクを追いかけていたときも、これだけは忘れまいとずっと思っていたのに。そういうことばかり考えてるから、取り逃してしまったのかもしれないのに、忘れてしまっては取り逃した言い訳にもならない。
あぁ、なぜ。
「あのコスプレ衣装は結局どこで手に入れたんだろう……」
空を見上げながら、そんなことを悩むミヤナギである。
実にいい天気だ。ストライクを取り逃した悔しさなんて忘れてしまいそうなほど、清々しい青空が広がっている。草むらがあって、木があって、ベンチがあり、壊れた自販機もあるけれど、すごく自然に満ちた公園だ。しかもピンクまである。
ん、ピンクがいる。
吹っ飛ばされた方向を見てみると、そこにはピンクがいた。人間サイズと、その横を走る本物のピクシー。着ぐるみのくせにめちゃくちゃ速い。ピクシーはなんだか楽しそうに笑っている。あいつは本当に妖精か。
ミヤナギは走り出した。自然公園から抜け出して、その後に速攻でリニアに乗り込む。それで何もかもが解決だ。ていうか向かってくるピンクが怖すぎる。
走りながら、追ってくる敵を確認していると、奴らはホーミングミサイルのようにぐいんと軌道を変更しやがった。どうやらそこまでして息の根を止めたいらしい。
ミヤナギは汗を浮かべたままゲートに駆け込んだ。
◇ ◇ ◇
「あれ、今の偽者じゃないっすか?」
怖がって動かないクラボを説得していたら、すごい速さで駆け抜ける偽者の姿を見た。
「げ、あのピクシーまでいるぞ」
その後ろをでかいピクシーと小さいピクシーがぼきゅぼきゅ追いかけている。バンジがいるのを見つけると、すごく嫌そうな顔をして立ち止まった。
「うお、立ち止まったな」
手でピストルの形を作って二人に向けてきた。
ちょ、それは、まさか――
「クラボさん、逃げるっす!」
きょとん、としているクラボのすぐ横をぎらぎらと乱反射する光線が突き抜けた。クラボは固まった。
人間サイズのピクシーは舌打ちをして、反動で動けなくなったピクシーを抱え込み、偽者が入ったゲートへと走っていった。
「おい、なんだ今のは」
「今日は人生最悪の日かもしれないっす」
バンジはというと、ちゃっかり腰を抜かしていた。置いておいたおいしいみずの所まで這っていき、一本だけ開ける。果たして200円分の価値があるかどうかには、疑問を呈したくなるような味と量である。要するにただの水だ。
「とりあえずクラボさん、腹をくくるしかないっすよ。首が飛ぶのと、人生最悪の日にもうちょっと不幸を付け加えるの、どっちがいいっすか」
「クビになるほうがましだ」
「何言ってんすか! ここでクビになったら本格的に人生最悪の日っすよ! ほら、どうせ最悪の日なんだから、って思ってれば不幸なことにも耐えられるっす」
「ポジティブなのかネガティブなのか微妙な考え方だな」
まぁいいか、クラボは言った。
「こんなところで腐ってんのは、やっぱロケット団らしくねぇ。行くか」
悪魔のキッスに毒された顔に爽やかな笑みを浮かべる。
「ぷ」
ゲートに入るなり、そいつはキスマークだらけの顔を見ていやらしく笑いやがった。
頬をぱんぱんに膨らませて、唇を両手で上品に押さえながらむかつくほど笑っている。カウンターの上には、どうやら二人のものらしいモンスターボールがいくつか置いてあった。
バンジはカウンターに手を伸ばす。
地獄の門番がその手を弾いた。
「んふふ、返してほしい?」
こいつは返す気がないらしい。バンジもクラボも唯一残っていたズバットは、ガキ二人によってずたぼろにされてしまったため、何がなんでもそのモンスターボールを取り返さなければならない。
返せ、クラボが言った。
「ただで返すわけないでしょう? そうね、じゃあとりあえず、あたしのルージュラと――」
そこでポケギアの着信音が鳴り響いた。
「くそっ……はい、ムカイです」
最悪な条件を突きつけようとしていた地獄の門番は応答する。
何を言おうとしていたのか、そんなもの想像もしたくない。ルージュラと――。この先に続く言葉は何だろうか?
何が続いたとしても最悪に違いはなかった。ルージュラと食事。ルージュラとデート。ルージュラとおいしいみず。ルージュラとクラボ。ルージュラと自然公園。
世界のあらゆるものは、ルージュラと――、に続けられるだけで最悪なものに成り下がる。
「えっ、今からですか? ……虫取り大会は終わりましたけど。もちろんそれって、残業代出るんですよね? ……私くらいしか暇な人がいないって。まあ、虫取り大会は一日中やってるわけじゃないですけど」
なんだか仕事を押し付けられているところらしい。ざまあみろ。
その隙をついて、クラボとバンジはカウンターに置いてあったモンスターボールを奪い取った。
「よし、逃げるぞバンジ!」
応答していた地獄の門番の顔が鬼になった。
「調子に乗んじゃねぇぞゴミども! ……ああ、いや、今のは違います。私じゃなくて、あの、えっと、双子の妹? ……あ、いえ、間違えました。弟です」
ざまあみろ! ざまあみろ!
泣く子も黙るロケット団の二人は、笑い泣きの表情でゲートを抜けた。
◇ ◇ ◇
どういう状況だろう、これは。
コガネシティにフワンテがふわふわ浮いているのはいい。それからコスプレコーナーが新設されたってのもいい。コガネシティを歩く人の半分くらいがコスプレをしている。それはむしろ喜ばしい。
でも、だからと言って、隣を歩くのがピクシーのコスプレをした女の子、を装っている破壊光線の化身。それはどうだろう。
受付にポケモンと一緒に物資も預けていたせいで、必要以上に時間がかかってしまい、手間取ってるうちに女の子は横で笑っていた。そして今、その時以上に凄絶な笑みでついてくるという、あまり喜ばしくない状況である。
「どこ行く? コガネデパート? ゲームコーナー? ち、地下通路とか? 育て屋!? きゃっ!」
妄想の世界に浸っている人間サイズは、ピンクの全身から突き出した顔を赤く染めている。
例えばこのぼきゅぼきゅピクシーと、どこかに行くところを想像する。
コガネデパート。エレベーターが悲鳴をあげて硬直しそうだ。
ゲームコーナー。スロットは恐ろしさのあまりコインを吐き出し続けるだろう。それならちょっと行きたいかもしれない。
地下通路。いや、それはダメだ。
育て屋。いったい何を育ててもらうというのだろう。
「結論、とりあえず着ぐるみは脱いでほしい」
「え、えええ、ぬ、ぬ、ぬぬ脱ぐの!? ででででもまだ私たち会ったばっかりだし! ほらそのなんていうの心の準備とかとか、えへへ」
着ぐるみを脱ぐのに心の準備が必要らしかった。
とんでもない勘違いをしてないといいけれど、ミヤナギはそう思いながらリニア駅に入るのだ。
向かうはタマムシシティだ。
◇ ◇ ◇
「ケンタ。さすがに寄り道しすぎだよ」
「いいか、ユキオ。ヤンヤンマが飛んでいるのに追いかけなかったら、そいつは虫取り少年じゃない」
「うん、だってぼく賢者だもん」
「いいや違う。ユキオは塾帰りだ」
「はかいこうせん出すよ」
「PPが足りない」
「ピーピーエイドあるし。出そうと思えば出せるよ」
「分かった、オレが悪かった。まぁ、まだ時間はあるけどさ、夕飯までには帰りたいし、さっさとリニアの乗車券買っちまおうぜ。タマムシまで行くなら、時間に余裕は持ってなきゃな」
そんな少年二人の会話を聞いて、バンジはとある仮説を立てることにした。
実はあの二人は子どもながらにしてロケット団なのだ。たぶんロケット団ジュニアユースとか、そういった感じの部署だろう。そしてあの偽者も、実はロケット団。けれど、そいつの場合はただの下っ端だ。今回の指令というのは、実は名ばかりで、ロケット団の組織内で行われている昇進をかけたサバイバルゲーム。だから少年たちはタマムシシティに向かうし、偽者と最初に会ったときも、騙そうとしてチョウジタウンなどと口走るのである。バンジもクラボもどういうわけか、そのようなサバイバルゲームの話は手違いか何かで全く聞かされていない。けれど、ルールや目的を知っている参加者の面々は、顔を鬼にして物資の奪還を図る。期待のジュニアユースである二人の少年には、既に部下となる者が存在して、それがあの偽者だったのだ。たぶん下っ端すぎて制服が足りなかったのだろう、着ているものはコスプレ衣装だった。
そもそも話がうますぎた。物資を届けるだけで出世? それだったらガキでも昇進できるではないか。最初からこのような裏があったというわけだ。
「と、推測するんですけど、どうっすか?」
キスマーク顔が真面目に考え始める。
「それだったらジュニアユースの昇格試験ってところじゃないか? 俺たちの指令を横取りして、無事達成できたら昇格。みたいな感じで」
「あはは、ジュニアユースってなんすか」
「お前が言ったんだろ!」
確かにクラボの説だったら、偽者が死に物狂いで参加していないことへの説明がつくし、逆に少年二人が恐ろしいくらいに本気だったことへの説明もつく。それだけじゃなくて、バンジやクラボに詳しい話が全くされていないというのも理解できる。
「なんにせよ、ガキに物資取られたまんまじゃあ、俺たちはクビだろうな」
「そうっすね。おれたちは与えられた指令をちゃんとこなすだけっす」
二人はお互いに笑った。相変わらずキスマークの顔は気持ち悪いけれど、もうあんな恐ろしい地獄の門番とは会うこともないだろう。意外と「どうせ最悪の日だから」という考えはポジティブなのかもしれない。結構前向きになれている。
そして、ロケット団の二人は、コガネシティに向かって歩を進めるのであった。
そこには、タマムシシティまで運んでくれるリニアがある。
◇
――役者は揃い、物語の舞台は超速の密室へと移される。