第一部 選ばれし者の集う場所 前
せっかく遠出してコガネシティまで来たのだから自然公園くらい行っておこう、などと思っているミヤナギの出身はカントー地方である。
ロケット団のスタイリッシュな制服に憧れて、カントーやジョウトの街を駆け回ったのはいつのことだったか。本日をもって、長く望んでいたことをようやく達成できた。ポケモンセンターのガラス越しに見える自分の姿。色のない鏡面の世界でも、黒と灰に包まれたロケット団の衣装は映える。その上、胸のRは鏡に映った時にこそ読めるようになる鏡文字。ミヤナギは最高の気分だった。
このままリニアに乗って故郷に帰るのもつまらない。コガネシティと言えば、と考えて思い浮かぶものは大してないけれど、北に行けば自然公園があって、本日土曜日、なんだか誇大広告の感が否めない虫取り大会を開催している。
曰く、週に三度のビッグイベント、虫取り少年の聖典、選ばれし者の大決戦。
要するに、虫取り大会に参加するだけで名誉なことらしい。ちょっとした英雄気分になれそうだ。
腰に付けたモンスターボールを手に取ってみる。三つあるうちのどのモンスターボールにも、虫タイプのポケモンは入っていない。それならば、一匹くらい虫ポケモンが居たって困ることはないだろう。
コガネデパートを後にしたミヤナギは、観光がてら自然公園へと目標を定める。
真直ぐ北に向かってコガネの街を歩いていた時だった。
不意に肩を掴まれ、振り返る。
そこには自分と同じ格好の男が立っていた。黒と灰の上下にRの文字を躍らせて、腕にはおしゃれな木箱を抱えている。
ミヤナギは直感した。コガネデパートの地下二階に、新設コスプレコーナーが出来るとあって、全国のコスプレイヤーたちは狂喜乱舞。コガネシティでは様々な衣装に身を包んだトレーナーたちが、自分を見てくれと言わんばかりに威風堂々と街を歩く。そんな中、自分と同じ格好の人が居たならば、声をかけたくなって当然というものではないだろうか。そこから悪乗りしちゃったりなんかして、キャラになりきったやり取りとか、電波なやり取りとか、考えるだけで楽しそうだ。
「これ、例のブツっす」
今時三流映画でも言わなそうな台詞を吐いて、ロケット団の格好をした男は木箱を突き出してくる。
まさか本当にこんな芝居をやらされるとは思わなかった。ミヤナギも内心ノリノリで、けれどそんな表情を一切顔に出さず、役者みたいな真剣極まる表情で受け取る。
「確かに預かった。こいつはぼく……いや、俺が責任を持ってチョウジタウンに届けてやる」
頭上をフワンテが流れていった。ロケット団の男は視線をフワンテに移して、またミヤナギに戻す。
「ま、待て。こっちだって出世がかかってるんだから、そんなジョークやめてほしいっす」
「ははは、悪い悪い。じゃあ一応、確認だ。このブツを持っていく先、もちろんお前も分かってるんだよな?」
頭上を二匹のフワンテが流れていった。男はふわふわ流れるフワンテに視線を移す。あのフワンテ、誰のポケモンだろう……。そんなことを呟き、物欲しそうな眼差しで風船のようなポケモンを眺める。確かにジョウト地方なら珍しいポケモンではあるが。
「おい、聞いてんのか」
「ん、あぁ、申し訳ないっす」
男は我に返って視線を戻す。
「はん、馬鹿にしないでほしいっすね。そのブツの行き先はタマムシシティの新アジト! そんなことも分からずして出世の話ができようか!」
「うるさい、うるさいって」
どうやらブツの行き先はタマムシシティという設定らしい。
「……申し訳ないっす。と、とりあえず、確かにブツは渡したから、おれはこれで!」
言うが早いか、男はフワンテが流れていくのを追いかけるように走り始める。自然公園とは逆の方向だ。おしゃれな木箱だけが残された。
ミヤナギは考える。
これ、マジでタマムシシティまで届けなきゃいけないの?
あまりにも手のこんだ設定に、ロケット団ファンのミヤナギですらさすがに困惑してしまう。
しかし、不幸中の幸いというやつか、ミヤナギの家はカントー地方のヤマブキシティにあるのだ。タマムシだったらどうせ隣だし、帰るついでに行ってもいいかなと思う。
ま、いっか。それがミヤナギの出した結論だった。
北に向かって歩き始める。木箱をしっかり抱えて、数歩進んだところで立ち止まる。
「あ」
思わず声に出して、振り返ってみる。
「さっきの人、Rの文字が逆じゃなかった! 正真正銘のロケット団の制服ってことか!?」
何度思い返しても、ミヤナギが着ているコスプレ衣装とは違ったもの。
それは、つまり――
「レアモノじゃんか! どこで手に入れたのか聞かないと!」
とかなんとか。世界広しといえど、ここまで楽観的な性格をしているのは、ミヤナギくらいなものである。
フワンテが浮いている辺りを目で追ってみるけれど、ロケット団の格好をした男は見当たらない。
追いかけてみようか。
腕の中を見てみる。木箱がある。これはロケット団のコスプレをした男から預かったもの。だとしたら、今追いかけていってコスプレ衣装を買った場所について聞くのは野暮ってものじゃないだろうか。芝居だかなんだか知らないけれど、設定から脱線するのは興ざめってものだ。
ミヤナギは勝手に自己解決して、やはり自然公園に向かって歩き出すのだった。
◇ ◇ ◇
降りてきてくれないかな、こいつ。
自分の任務を終えたバンジは、コガネシティの空中で自由気ままに泳ぎまわっているフワンテを追いかけていた。
観察していて分かったことだが、風に乗って流されているかと思いきや、決してそんなことはなく、フワンテたちも自分の意思で各々好き勝手に動いている。足みたいにぶら下がっているところには、新設コスプレコーナーの宣伝文句を引っ提げた垂れ幕が浮かぶ。フワンテにもバイト代とか出たりするのだろうか、バンジはそんなことを考えた。
泳ぎ回るフワンテを一匹に絞って追いかけている。もう結構な時間が経つけれど、こいつらの移動に規則性なんてかけらもない。
とうとうフワンテは、コガネシティを南側から出て行こうとする。いったいどこまで行くのだろうか。あまりにもコガネシティから離れるようだったら、捕まえて自分のポケモンにしてしまうのもいいかもしれない。
バンジはコガネシティから外に一歩踏み出す。
口笛が聴こえた。
振り返ってみる。空耳だったかな、バンジは視線をフワンテに戻して、再び歩き始める。
ひゅーい。
また聴こえる。今度は身構えていたので、ちゃんと位置まで分かった。
コガネシティの南側に立っている大きなアーチ。その右側の足に背を預けて、ロケット団の格好をした男が立っている。
バンジは立ち止まった。瞬間、フワンテにぶら下がっていた垂れ幕を思い出す。あぁ、そうか。つまり、これは――
「コスプレっすね」
「んなわけねぇだろ!!」
口笛の男が鋭い突っ込みを入れた。
コガネシティでロケット団の下っ端に会うのは珍しいことではない。かつて、ロケット団はコガネシティで事件を起こしたこともあり、未だに残党がその辺で居残っていたりするのだ。だから会ったら挨拶くらいするし、世間話の一つや二つしていたって、それはありふれた光景なのである。いや、今はそれどころではない。こうして無駄に時間を使っている間にも、フワンテはどんどん流れていく。
「申し訳ないっすけど、おれ、忙しいんで茶番に付き合ってる暇ないんす。そういうわけで」
再びフワンテを追いかける。
それを見て、口笛の男は慌ててアーチから離れ、バンジを呼び止めた。
「おいおいおいおい、待て、待てって」
相当な慌て様である。バンジは顔をしかめて振り返る。
「こっちだってな、出世がかかってるんだ。いいか、サカキ様が直々に下した命令だぞ? そんな大役を任されてるんだ。そこんとこ、分かってるのか?」
慌てながらも、なぜか男は口笛を吹いた。
バンジもそれに対抗して口笛を吹こうとするが、吹きかたの分からないバンジは思いっきり唾を吹いた。
「お前、馬鹿にしてんだろ」
「いやいやいや、そんなことないっす。それにしても、あれっすか。新しいジョークとかですか」
口笛の男はきょとんとした表情になった。
どうも話が噛み合っていないようだ。
「バンジ、だよな? チョウジタウンから来たとかいう」
「ん? なんでおれの名前知ってるんすか?」
さすがに口笛を吹く余裕もなくなって、男は冷や汗を浮かべている。
フワンテはもうかなり遠くまで飛んでいったようだ。
「まず、俺の名前はクラボだ。チョウジタウンからサカキ様の命で物資が届く。それを受け取って、俺はタマムシシティの新アジトに持っていく。そうすることで、出世への第一歩を華々しく踏み出すっていうお得な任務だったはずだ」
クラボ?
あぁ、そういえば受け渡す相手の名前はそんな名前だったような気もする。だとしたら、さっき木箱を渡した相手は、いったいどこのどいつだったのか――。
バンジはいよいよ自分がしてしまった失敗に気づき、嫌な汗が止まらなくなった。もはやフワンテに視線を向ける余裕すらない。それほどの大失態である。汗が頬を伝って顎に流れた。
「やばいっす」
コンクリートに滴った汗が、小さく染みを作る。妙に全身が冷え始めた。
「ど、どうした?」
ただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、クラボと名乗った男も焦ったふうだった。何より今のバンジは、見ての通り例のブツ≠持っていないのだ。
「物資、取られたっす……」
クラボが目を見開く。
フワンテが頭上を流れて、コガネシティに舞い戻った。
◇ ◇ ◇
選ばれし者の集う場所。
本日、土曜日。虫アミを担いだ少年少女が集まり、自然公園は形容しがたい空気に包まれている。天気は快晴。渦巻くオーラは赤黒い。その辺に魔王城でもあったなら、集った勇者たちは虫アミ一つで堂々と乗り込みに行くだろう。誰しもが鬼気迫る顔つきをしていた。そこら中で雄たけびが上がっている。
「これが俺たちに与えられた宿命だ」
ケンタも例にもれず、真剣極まりない表情でエア虫アミを構えている。その大上段に構えた勇ましい姿は、虫アミスラッシュを繰り出すための布石。一たび空を切り裂けば、辺り一面の草が刈り取られるほどの斬撃を生む。
「ところでケンタ、なんでサイコソーダ持ってきちゃったの? 受付に預ければよかったのに」
一方、ユキオはというと、一人だけ別世界の人間ですと言わんばかりに落ち着いていた。全くと言っていいほど有用性のない丸メガネ。防御力はおなべのふた以下とも言われている丸メガネ。そして、装備するだけでなんだか弱そうに見えてしまうという丸メガネである。自分が選ばれし者だという自覚なんて一切ないようだ。
「勇者たる者、HPを回復するアイテムなくして、決戦の地に立つほど愚かであってはいけないのである! HPが減ったらサイコソーダで補給だ!」
勢いのままエア虫アミでユキオを横一文字に薙いだ。ユキオは片手を使って塵でも払うかのように受け流す。ちなみに、豪華版サイコソーダは近くのベンチに置いてきた。豪華な外装が安っぽいベンチには不釣合いだ。
「それ、おつかいじゃなかったの」
「おつかい? なんだそれは。ここは決戦の地、シゼーンコーエン。俺たちは今、戦うためにここにいる!」
だめだこりゃ、ユキオが無表情で手をひらひらさせた。
虫取り大会が始まるまであと五分くらいだろう。この神聖なる場に、異世界の概念なんてものは持ち込んではならないのだ。
ケンタは周りを見渡す。
強そうなやつはいるだろうか。いや、どいつもこいつもガキばっかり。にじみ出てるオーラは大したこともなく、せいぜいレベルで言うと二十五くらいだろう。こんなもの魔王城の手前で倒れっちまう。ちなみにケンタのレベルは五十だ。ユキオも五十。けれどメガネ補正で四十。
へん、ケンタは不適に笑った。敵なんていないいない。
「ねぇ、あの人強そうじゃない?」
ユキオが指を差す。
あの人って、どの人だ。指差す先に視線を向けてみると、ロケット団の格好に身を包んだ男の姿がある。どうしてだか見落としていたようだ。確かに強そうではある。ケンタが見逃してしまうほどなのだ。
気配を消してやがる。こいつ、できる。
「やるな。あいつが今日のライバルになる」
ケンタは虫アミスラッシュの構えを取った。
◇ ◇ ◇
色んな人に嫌な顔をされながらも、バンジとクラボの二人はコガネシティで聞き込みを繰り返していた。それも数分前のこと。
なんとかちゃんと話を聞いてくれそうな爺さんを捕まえて、やっとのことでロケット団の格好の男が向かった先を聞き出した。同じくロケット団の格好をしていると、悪者に見えてしまって色々と不便である。
そして、二人は自然公園のゲートをくぐった。
受付がある。自然公園では虫取り大会が定期的に開催されていて、どうやら今日はその開催日らしかった。けれど、今はそんなもの無視だ。
走って自然公園に入ろうとするが、やっぱり受付のお姉さんに引き止められてしまう。
「本日は虫取り大会の開催日でぇす。大会中は公園内に入れません」
実に素っ気無い言い方だった。
受付の奥でラジオ番組が流れている。オーキド博士のポケモン講座。その功績もさることながら、いったいこの爺さんは何歳まで生きれば気が済むのか、そんなことを囁かれている生きた伝説、あるいは生きた化石である。本日は土曜日ということもあり、ゲストでシルフカンパニー社長のご令室が来ているらしい。上品な言葉遣いのおばさんが、オーキド博士と喋っている。
ロケット団の二人はラジオが流れているのも気にせず、ちょっとだけ相談をする。やっぱり参加者として公園に入るべきだろうか。それしかないっす。
というわけで、二人は虫取り大会に参加することとなったのだ。
「お荷物預けやがりますか?」
「あ? あずけやが、や、え?」
受付のお姉さんを見てみると、めちゃくちゃ営業スマイルだった。聞き間違いだろうか。
「聞こえてなかったんですか? 荷物、預かってあげましょうか?」
偉そうだった。どうやら聞き間違いじゃなかったらしい。こんな言葉を聞いた後だと、満面の笑顔がひどく恐ろしいものに見えてしまうから不思議だ。
「え、いや、大した荷物とかないし……」
「じゃあさっさと手持ちのポケモンを、よ、こ、せ」
これで悪魔みたいな恐ろしい表情をしていれば、こっちだって何かしてやることはある。けれど、そこはかとなく笑顔なのだ。声さえ出さなければ天使かと思えるような素晴らしい笑み。まったく、言葉とは恐ろしいものである。
「早くしろ。あと一分で虫取り大会が始まるんだから、は、や、く」
二人は悪の組織に強奪されるかのような勢いで、モンスターボールを持っていかれた。ルールに沿って、持って行けるポケモンは一匹だけなのである。
二人はなんだか憂鬱な気分になった。そして、自然公園に入る時には、受付のお姉さんが地獄の門番にしか見えなくなっていた。
そこには地獄絵図が広がっていた。
目をサザンドラのように鋭く吊り上げ、怒ったヘルガーのように犬歯を剥き出しにし、火炎放射でも吐かんばかりの勢いで踊り狂う少年少女。草がばっさばっさと宙に舞い、キャタピーがか細い鳴き声をあげて月面宙返りをし、ビードルが悲鳴をあげながらきりもみ回転でぶっ飛んでいった。
自然公園の上空にはいったいどこから沸いてきたのか、ぐるぐると陣雲が渦巻いていて、まるでこれから世界がどうにかなってしまうのだというように、現実からかけ離れた様子が展開されている。
バンジが呟いた。
無理っすね。
何が無理なんだ。クラボはそう思う。けれど、この光景を眺めてみると分かる。〇から百まで何もかもが無理だ。何かしてやろうとか、そういう気も起きないくらい無理だった。
「どうするんすか」
バンジがため息をつく。
「ここは、どこだ」
規則的に立ち並ぶ木々で囲われたここは、本当にあの自然公園なのだろうか。
急に色んな疑問が沸いてくる。
ここの自動販売機で売られている飲み物は、本当に飲めるのか。飲んだらあっさり死んじゃったりとかしないだろうか。
行われているのは、本当に虫取り大会なのだろうか。実は虫とか言っておいてとんでもないポケモンが襲い掛かってきたりするのではないか。
物凄い剣幕で草むらを駆け回る少年少女は、本当に人間なのだろうか。実はポケモンだったりして、近づいた人間を片っ端から八つ裂きにしたりしないだろうか。いや、仮に人間だとして、襲い掛かってこない保障は一切ない。
「たぶん、自然公園っすね」
今、隣で答えたこいつは本当に味方なのだろうか。実は首の後ろあたりにチャックがついていて、中からゴーストポケモンあたりがにゅっと出てくるかもしれない。
ひゅう、口笛を吹いてみた。
「やってくれるぜ」
「何がっすか?」
分からない。誰に何をしてやられたのか全く分からない。どうして何の変哲もないただの自然公園が自然じゃない状況になっているのか、全く分からない。
「そうだ、ここは自然公園だ。そして、虫取り大会。だとすれば、俺たちのやることは、ただ一つ」
「何言ってんすか? 物資の奪還するんすよ?」
物資の奪還。そうだ、今自分たちはどんな状況におかれているのだったか。
周りを見渡してみる。なんだか余計分からなくなる。
「……分かってる。物資の、奪還だ。そうだ、こうしている間にも物資が遠くに運ばれてしまうかもしれない」
バンジが隣で頷く。
二人は地獄の奥へと歩を進める。
まずは自分たちと同じような格好をした男を捜そう。そう思って歩き出したのだが、意外にもあっさりその人物は見つかった。
一人だけ妙に浮いている。それもそのはずで、周りの少年少女より一回り大きくてすごく目立つ。そのうえ、そいつは虫取り大会に慣れていないせいか、どこかぎこちない動きで草むらを回っていた。
「おい、あいつ物資持ってないじゃねぇか」
そう、持っていない。とても清々しいくらいの手ぶらで、地獄の中を走り回っている。
「あれ両手で持たなきゃいけないっすからね。どっかに置いてるんじゃないっすか?」
こんな状況でどっかに放置されたら、物資も赤黒い物体になってしまいそうである。さすがに直接地面に置いたりはしないだろうから、あるとしたらベンチの上あたりだろう。
その推測は的中して、またしてもあっさりと目的のブツが見つかった。
バンジも頷く。
周りの人かどうかも怪しい生き物に気づかれないよう、なるべく縮こまって木箱が乗ったベンチまで歩いていく。相変わらず草むらの方では、ポケモンたちの悲痛な鳴き声が聞こえていた。
突然、きりもみ回転で飛んできたビードルがクラボの腹部に当たる。
冗談じゃないくらい痛くて、思わず舌打ちをする。
「ってぇな……あ?」
ドスをきかせた声で唸って、いかにも悪者といった雰囲気を纏って、ビードルが飛んできた方に視線を移す。
近くで暴れまわっていた少年少女が、その視線に気づいて一斉に動きを止めた。
そして、首だけをこちらに回し、ニャースみたいな猫目でぎょろりと見つめてくる。すごく気味が悪い。
ふしゃーと威嚇してくる様子は、本当に人間じゃないみたいだった。
「な、なんだ、あいつら」
あまりにも恐ろしくて、思わずたじろいでしまう。足元では目を回したビードルがくねくねしていた。下手したら自分もこんなふうにされてしまうかもしれない。息を呑んだ。
「くそっ、い、行くぞ、バンジ」
そういえば、気づかないうちにクラボはバンジの上司みたいな態度を取っている。失態を犯したのはバンジだし、当然といえば当然だったが、バンジの口調が弱っちい感じでもあったからだろう。しかし、その弱っちい口調の返事はない。
「おい、どうした」
恐ろしい形相の少年少女を注視していたクラボは、やっとのことで視線を外して、バンジに向き直った。
そこにいるのは確かにバンジである。けれど、目はすごくニャースだった。
「ふしゃー!」
「お前もか!」
クラボはなんとなく蹴りを入れた。
◇ ◇ ◇
「ねぇ、ケンタ」
丸メガネをきらりと煌かせて、無表情のユキオは狂いに狂った親友を見つめる。
「ふしゃー!」
返事はふしゃーだった。虫取り大会に情熱を捧げる少年少女は、だいたい一様にしてみんな狂い始める。たぶんモーモーミルクに目のない人間が、砂漠でモーモーミルクを見つけたときと同じような現象なんだと思う。そのモーモーミルクは結局蜃気楼で、またすぐに消えてしまうのだ。際限がない。虫取り大会だって同じ。よりよいポイントを稼ぐために、高ポイントのポケモンを捕獲しまくる。そこに最高はない。システムが単純なだけに、どこまでも熱くなれる競技だった。
「ケンタ」
もう一度呼びかけてみる。草むらでブレイクダンスを華麗に披露していたケンタが止まった。
ユキオを見つめてくる目は、なぜかニャースの目に良く似ていた。犬歯を剥き出しにして、お前いつ人間やめちゃったんだよ、って感じである。
「ふしゃー!」
やっぱりふしゃーらしい。
いつの間にかケンタは虫アミを二本も持っていた。どこから調達してきたのか知らないが、すぐに返してきた方がいいような気がする。それはきっと窃盗ってやつだ。
その虫アミ二刀流で何をやらかすかと思いきや、どうやら虫アミスラッシュを超越する必殺技が見られるようだった。両足を思いっきり開いて、腰を落とし、腕を交差させて、頭を伏せる。周囲にいたポケモンが慌てて逃げ出す。月面宙返りをしていたキャタピーが空中で反転して、着地と同時に泣きながら逃げ、きりもみ回転をしていたビードルが、重力を無視してどこまでも飛んでいく。どれだけファンタジーになれば気が済むのだろうか。ユキオはそんなことを思った。
直後、ケンタは空気を切り裂いた。
竜巻でも呼んだのではないだろうかというほどの暴風が起こり、草むらにミステリーサークルが出現し、その衝撃に耐え切れず二本の虫アミは無残にも爆散し、極めつけにはユキオの丸メガネにひびを入れた。
「ぼ、ぼくのメガネが……!」
自分でも思ってないほどの狼狽ぶりである。すかさず右ポケットから替えのメガネを取り出した。傷一つない新品同様の丸メガネだ。しかし止まない暴風は狙い定めているかのように、丸メガネをさらっていく。
「ぼ、ぼくの、メガネ!」
普段であるならば、たとえ気味の悪い人面ピクシーが手を振っていたとしても、驚きはしても無表情を崩すことはなかった。目の前では暴風に舞い上げられた丸メガネが、バリンバリンとかき混ぜられている。きっとコンボ数は異常な数値だ。
ビードルが飛んできた。キャタピーも飛んでくる。どうやらケンタの起こした技に吸い寄せられているらしい。ポケモンたちは目を回しながら宙を舞い、風が掻き消えると同時にまたどこかへぶっ飛んでいった。そこに残ったのは、レンズを失ったボロボロのフレーム。丸メガネの骸骨だった。
「あ、あぁ……」
しゅばっ。
危険が去ったところで左ポケットから替えのメガネを取り出す。
「まだまだ甘いね」
丸メガネが誇らしげに煌いた。
そうして辺りが静かになった頃には、ケンタもちゃんと落ち着いていた。
「今のは相当疲れたな。名づけて、虫アミナディン。その斬撃を見た人々は口を揃えてこう言う。世界の竜巻は全てここから起こっていたのか、と」
「ごめんね、全く意味がわからない」
そろそろはかいこうせん≠ナも出してやろうかと思うけれど、運がよかったな、今のユキオはPPが〇なのである。
「ところで、俺のこと呼んでた? ずっと遠くでユキオの呼ぶ声が聞こえてた気がするんだ……」
「隣で呼んでたけどね」
「そうかそうか! まぁいいよ。とりあえず今は体力補給! 今こそサイコソーダを飲もうじゃないか!」
「あっさりスルーしたね。ていうか、そのサイコソーダなんだけど。持っていかれちゃったよ?」
は? ケンタが間抜けな顔をした。豪華な木箱が置いてあるはずのベンチを見てみると、確かにさっきまであったはずの箱はない。代わりに目を回してくねくねするビードルが置かれいるだけだ。
「え、どういうこと」
「いや、だからね。ロケット団が持ってっちゃった」
「え? ユキオ、それ見てたの?」
うん、頷いてみる。
「何で捕まえなかったの?」
そりゃあ、
「PPが足りなかったし」
「そうかそうか、それなら仕方ない……って、んなわけあるかぁ!」
両手を突き上げてケンタは吠えた。
確かに考えてみると、ケンタはおつかい――いや、クエストの途中なのである。これを失敗してしまったら夕飯抜きだとか。たぶんそれだけじゃなくて、あの恐ろしい母親から悪魔の制裁が下されるに違いなかった。
「来い、ユキオ」
ケンタがユキオの手を取り、ミステリーサークルを出て、草むらに入っていく。
「勇者の行く手を阻む者は、成敗するのみ!」
そうしてケンタは、草むらに手を突っ込んで二本の虫アミを取り出した。
◇ ◇ ◇
「完璧だ。物資は取り返したぞ。あとはタマムシに行くだけだ!」
物資を無事奪還したらしいロケット団の二人は、地獄と化した自然公園を出ようとする。あとはゲートを通り抜けて、コガネシティに入ってしまえばもう障害はないだろう。
二人はゲートに足を踏み入れた。
そこにはしかめっ面の門番がいた。
まさか人が来るとは思っていなかったのか、あんなに笑顔だった受付のお姉さんはちっとも笑っていない。頬杖をついて、ラジオをつまらなそうに聴いている。けれど二人が来たことに気づくと、取ってつけたように綺麗な微笑みを作った。
「どうかしやがりましたか?」
さすがに二度目ともなると、このむかつく口調も気にならない。慣れとは怖いものだ。
「俺たちは帰る。モンスターボールを返してくれ」
お姉さんは声に出して笑った。
「んふふ、だめです」
「は?」
ひゅう、クラボは無駄に口笛を吹く。いや、まさかこんなところに障害があるなんて、クラボもバンジも思っていなかったはずである。目の前にいる偽りに満ち溢れた笑顔の門番は、いったい何をぬかしやがったのか。
「だから、だめです」
「意味がわからねぇ! 俺たちは急いでんだ。早く返してくれ!」
「そうっすよ! こうしてる間にも追っ手が……」
相変わらずお姉さんの表情は痛いほどの笑顔だ。攻撃的なまでの笑顔である。
「追っ手? それは残念でしたね! おとなしく虫取り大会が終わるまで自然公園に居てください! あはは、私、嬉しいです! ごめんあそばせ!」
二人は開いた口が塞がらなかった。
クラボが口笛を吹く。バンジは口笛の代わりに指パッチンをしてみた。もちろん何も起こらない。
「一応、聞こう。理由は?」
よくぞ聞いてくれました。むしろ、よくも聞いてくれました。お姉さんは口の端を吊り上げて不敵に微笑む。
かと思えば、いきなりカウンターに足を叩きつけた。ハイヒールで勢いよくカウンターを叩き、膝に肘を乗せ、手を口に当てていやらしい笑みを浮かべる。その姿は獲物を見つけたハブネークのようだ。
そして、目を見開いて声高らかに叫ぶ。
「あなたたちの! その格好が! 気に、くわ、ない!!」
「はあ!?」
どうもロケット団が嫌いらしい。
「ついでに死ね!」
「勘弁してほしいっす!」
過去に何かあったのだろうかと思えるほど敵意を持った眼差し。ニャースの目よりもサザンドラの目よりも恐ろしい。全てのポケモンを凌駕して、世界のあらゆる憎悪をそこに集めたかのような、赤く血走った地獄の門番の双眸。二人はあからさまに怯んだ。
落ち着くために口笛を吹く。
なぜか顔の横をシャーペンが物凄い速さで通りすぎていった。
「次に吹いたら、口開けなくても吹けるようにしてやるよ」
豹変したお姉さんは、地獄から響くような低い声で言った。汗が出てきた。隣のバンジを見てみると、足が震えている。
果たして、このお姉さんは本当に人間だろうか。先ほどからなんだか世界がちょっとおかしいように思う。ビードルが飛んでいたり、少年少女らしき生物がニャースだったり、そういえば自販機に入っていた飲み物には毒が入っていたのだったか、あぁ、バンジの背中にもチャックが付いていた気がする。よく見てみると、このお姉さんも人じゃない。
「あたしはな、ロケット団が嫌いなんだよ。もう嫌いなんてレベルじゃあない。憎いね。ロケット団を見ると残らず殲滅したいくらいに、憎い」
お姉さんだったモノは急に語りだした。
「例えばそうだ、ロケット団が困っていたとする。それを見た一般人の反応はどうだ。助けるか? いいや、ロケット団なんだから無視だ。じゃあ、あたしの反応はどうだ。無視する? 馬鹿言っちゃあいけない。ゴミがあったら捨てるように、水が濁っていたら洗浄するように、問答無用に、コロス」
「逃げるぞ、バンジ!」
慌てて走り出そうとしたせいか、思いっきり転んでしまった。なぜか隣のバンジも転んだ。
「逃げられると思うなよ、ゴミども」
なぜだか寒い。相当に寒かった。床を見てみると、なんと普通のタイルだったはずのものが凍りついているではないか。もうめちゃくちゃだった。コガネシティ方面の入口にはルージュラが立っていた。
「自然公園に逃げるぞ! ゲートはここだけじゃないはずだ!」
ルージュラが投げキッスをしてくる。今ので周囲の温度が五度は下がっただろう。
「てめぇのファーストキッスの相手をあたしが決めてやろうかぁ!!」
最悪の脅し文句だった。地獄の門番か、ポケモン界最凶のブサイクか。死んだほうがましである。バンジが泣きながら自然公園側へと逃げていった。
置いていかれたクラボも続こうとするが、物凄く嫌なタイミングで靴が凍りついている。
「ルージュラ、最高に甘いのを」
頬を赤く染めたルージュラが舞った。
「うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
クラボは靴を捨てた。
今日は厄日だ。もう嫌だ。
クラボとバンジは自然公園に戻り、二人揃ってベンチに座りながら泣いていた。いい大人が肩を揃えて泣く光景の前には、相変わらず地獄絵図が続いている。
バンジが逃げるときにも物資を放さなかったのが、不幸中の幸いというやつだろうか。しかし、不幸とは連鎖するもので、さらなる厄災が二人の身に降りかかるのだった。
ものすごい殺気を感じて、クラボは跳ねるように立ち上がった。地獄の門番とその使い魔が追ってきたのだと思ったが、奴らはどうやらゲートを出ないらしい。さすがに仕事優先のようだ。殺気は地獄絵図が繰り広げられる公園の中央から放たれていた。
凄まじい勢いで何かが迫ってくる。手には二本の虫アミ。低く姿勢を落として地を駆ける。背後では突風が吹き荒れて、自然公園の様子はさらにひどいものになっていた。
「あ、あれは、なんだ」
呟いてみる。バンジはまだしくしくと泣いていた。返事はない。
「おい、逃げるぞ!」
クラボがバンジの首根っこを捕まえて、無理やり立たせてベンチから離れる。
直後、ベンチにそれが突っ込んだ。
「はあ!?」
砂埃が舞い、風が周囲を切り裂いて、空気が悲鳴を上げていた。やがて視界が戻ると、そこに現れたのは一人の少年。二刀流に虫アミを構えて、地獄の門番と相違ない強烈な視線をこちらに向けている。
「その木箱を返せ」
冷え切った声だった。思わずバンジも泣き止み、腕に抱えた物資を見る。木箱といったらこれしかない。
「か、返せって、どういうことだよ」
虫取り侍が刀を振るった。辺りの草が吹っ飛んだ。
「返せ」
立て続けに意味の分からないことが起こっている。理解が追いつかない。いつから自然公園は人間でもポケモンでもないやつらに占拠されたのだろうか。何で自分たちはこんなところに来ているのだろうか。
そして、この状況である。もう生きて帰れるなら何でもいいじゃねぇか。クラボは思う。
バンジを見てみる。木箱を両の腕でがっしりと押さえていた。この後に及んでこいつは、木箱を渡す気がないらしい。
「バンジ、もういいから木箱を渡してやれ」
バンジは首を振った。なぜだ。命が惜しくないのか。
「それを返さないと、冗談抜きに殺されるぞ。あいつはもう人間じゃない」
「何言ってんすか。これはサカキ様直々の指令っすよ。おれたちを誰だと思ってんすか? 泣く子も黙るロケット団っすよ! おれたちには、一匹だけっすけどポケモンがいるじゃないっすか」
言われて気づく。そうだ、自分たちはロケット団である前に一人のトレーナーだった。自然公園の少年少女が虫ポケモンを追い求めるように、自分たちもかつてはポケモンを捕まえるために草むらを駆け回ったことがあったではないか。もしかすると、子供時代の自分たちはこんな奴らよりも、もっと恐ろしい形相でポケモンを捕まえようとしていたかもしれない。きっと子どもたちの熱意が、その想いが、あまりにも強すぎて忌避すべきものとして見えていたのだ。
考えてみれば簡単なことではないか。最初から戦えばよかったのだ。ロケット団とは悪だ。女だって子どもだって関係ない。どんな奴が相手だろうと力でねじ伏せ、ポケモンを奪い、道具を奪い、そうして泣き叫ぶ相手を見ながら高笑いするのがロケット団ではなかったのか。
口笛を吹いた。クラボは笑っていた。
「はは、ははは! そうだ、何やってたんだよ俺たちは! そうだ、俺たちは泣く子も黙るロケット団だ! 子どもが居たら泣かせりゃあいいんだ!」
「それを忘れてたのはクラボだけっすよ。おれは最初からロケット団であることを誇りに思ってるっす」
「呼び捨てにすんな」
「うい、すんません」
腰のモンスターボールに手をかける。それを見た虫取りの少年は、虫アミを放って、同じく腰に付けていたモンスターボールに手をかける。どうやら正々堂々とポケモンバトルで決着をつけることになるらしい。
「二対一。勝てると思ってるのか?」
「いいや、二対二だよ」
不意にもう一つの声が割って入った。丸メガネを付けた弱そうな少年が現れる。温厚な雰囲気の少年だ。
「まだいたか。ガキのくせに、大人に歯向かったことを後悔させてやるよ!」
クラボがモンスターボールを放る。同時にバンジも放った。
それに一呼吸遅れて、二人の少年が空にボールを放る。
一足先に放たれたロケット団の二つのボールは、神秘的な光を周囲に振りまいた。地獄絵図の中に生まれたひどく場違いな光は、二体のモンスターの形を成してそこに現れる。
骨ばった二対の翼。悪魔のような耳。光を忘れて失われた瞳。牙を剥き出した口。といっても単なるズバットなのだが。
そして、もう一体。骨ばった二対の翼。――以下略。
「お前もズバットかよ!」
「ズバットは漢のロマンっす。ロケット団なら二匹は手持ちに欲しいとこっすね」
一方、遅れて放たれたボールから飛び出す輝きは、気のせいだろうか、クラボの目には美しい輝きというよりは、地獄絵図の延長のような赤黒い光を放ったように見えた。疲れているのかもしれない。
黒い光が同時に二対のポケモンを形成していく。
「おいおいおいおい」
クラボが唸った。そこに現れたのは紅き装甲。
「な、なんなんすか」
バンジも焦っている。研ぎ澄まされた硬い全身は紅に染まっていて、両腕から生えたモンスターの口みたいな鋏には、目のような模様まで付いていた。どこか持ち主である虫取り侍に似ている。
「……冗談だろ」
丸メガネが出したポケモンもなんだか仰々しい。重量感のある鋼鉄に身を包んだ外装。大きな尻尾の先には、カッターの刃先みたいな突起が数枚ついている。紺色の甲殻の側面からは、決して柔らかくはない赤い羽根が飾っている。真紅の機械的な瞳がこちらに向いた。
「……」
二人は言葉を失った。
「俺はハッサムもアーマルドも虫ポケモンとは認めないぞ!!」
二匹のズバットが一瞬でぶっ飛んだ。