第六話「“学園”ってどんなとこ?」−1
その学校のことを学校内部の人間は皆一様にして
“学園”と呼んでいた。名前が無いわけではない。正式名称には長く仰々しい名前があるのだが、生徒はもちろん教員でさえその名を使わないし略称でさえ呼ばれることはなかった。創立されて百年以上の歴史を刻み続けているが、誰が最初に言い出したのか分かっていないがいつのころからかただ“学園”とだけ呼ばれ、長い月日の中でその呼称のみが口から口へと伝わり定着していったのだ。要因としては様々なものが挙げられるが、この学校が文字通りの“学びの園”と呼ぶにふさわしい様相であるからだろう。人によってはその“学びの園”という喩えもこの学校を表すには不十分という。“学びの園”ではなく“学びの城”だと。
教室に到着するなりイレナのカメラを彼女の机の中につっこんでおいた。いつもシュナは始業よりもだいぶ早い時間に登校する。理由は単純。屋敷から毎朝頼んでもいないのに高級車で送迎されるのをなるべく見られたくないからだ。高等部の難関進学クラスでは既に早朝授業が始まるところだが、中等部ではそれも無いので学年全体でもまだちらほらとしか人が見受けられない。
早朝の誰もいない教室とは不思議なものだ。朝の絹のように柔らかい透き通った空気が満ち満ちて、ひとたび風が吹けば石の廊下を吹き抜け、教室の木の床のにおいと混じり合いながらまた過ぎ去っていく。
シュナは鞄から今日の授業で使用する教科書やノート類を机の棚に入れ、最後に取り出したメモ帳のような少し小さめのノートを開いた。
青い表紙のこのノートは昨夜寝床に入る少し前につらつら書いてたものだ。記憶を失ったアルスについて何か分かったことがあったらその都度箇条書きにして書き留めるようにしようと思い立ったのだ。
表紙を開き一枚めくると七つの項目が一行ごと空けて連なっている。
・アルスはカイリューというポケモンだ。
・なぜか人間の言葉を話せる。
・自分か、あるいはよく似た人に会ったことがあるらしい。←自分は知らない。
・「アルス」という名前は彼が思いだした言葉からつけた。
・モンスターボールを拒絶する。
・ニーアという女性(?)となんらかの関係がある。
・食べることが好きのようだ。
ニーア。彼女が口にしたその名を、今再びシュナは口の中で唱えた。アルスについてはまだまだ分からないことだらけだ。こうして箇条書きにした項目もとても「分かった」と言えるのか怪しい。殊にニーアのことについては本当になんの想像もつかない。昨夜もリストを書くに当たり、あの女性のことを何度も考えた。何者なのか、そもそも人間なのか。操っているように見えたあの黒い小さな文字のような集まりは何なのか。アルスとはどんな関係なのか。誰かと交わしたという約束とは。疑問ばかりで答えはおろかヒントとなるようなことすら掴めない。シュナはため息をこぼしながらノートを閉じて鞄の中にしまった。
始業時刻が迫ってくるのに比例して教室へとやってくる人間も増えていく。シュナが来た始業四十分前にはほとんど人影もなく閑散としていた教室が、十分前となるともうほとんどの席に生徒はついてがやがやと朝のにぎわいを見せていた。
「よッ! 今日も早えーな」
くあっとあくび混じりに教室へと入ってきたラギが、シュナと目が合うなり片手を挙げた。
「おはよ。昨日はほんとありがとね」
「いいっていいって。途中でぶっ壊れたりしなかった?」
「全然。ちゃんと家まで帰れたから」
「そりゃ良かったヨかった」
日焼けしたラギの顔からニカっと白い歯がのぞく。あれからずっと練習に励んでいたのか、その白い歯の際だちようが昨日よりも増している気がした。
「そういやさ、シュナはもう聞いた?」
「聞いたってなにを?」
「高等部に転校生が来るって話」
「いや、初耳ね」
かぶりをふりながら目線を窓の向こう、“学園”の正面玄関である円形広場を破産でさらに向こうの急な斜面の上に建ちそびえる校舎へと移した。中等部も同様であるが、王国時代の建造物を一部移築しつつ復元させている校舎。台形の青屋根をうえにかかえ、もう何世紀も前からずっとそこにあったかのような風体をたたえていた。
「なんでも双子なんだってよ。珍しいよな、高等部に転校生が来るってだけでも珍しいのに」
『転校生』という言葉の響きに不思議な非日常感やきらきらとした魅力を感じるのは、どこも同じなのか。ラギは期待をこめたようなまなざしを高等部の校舎へと注いでいた。
「でも『青の館』のことでしょう? わたしたち『白の館』の人間にはあんまり関係ないんじゃない?」
そんな風に水を差すシュナにラギは肩をすくめた。
「ったくおめえはよお、人間好奇心ってのを失っちゃ世の中ツマんねえよ」
おどけたようにべえっと舌を出すラギに、シュナは思わずクスっと頬をゆるめた。そのとき教室の後ろの方で男子の一群がラギの呼んだ。「んじゃ」とだけのこすと彼はその一群の方へと飛んでいった。シュナはその後ろ姿を目で追いかけたが、ほかの男子の姿が視界に映りそうになると興味を失ったように前へと向き直った。
始業のチャイムが鳴る直前になってイレナがいそいそと教室へと入ってきた。見るからに不機嫌そうに目元をつり上げている。せっかく長時間かけてセットしているのであろう髪もこれでは台無しと言う他ない。シュナと目が合った。一瞬気圧されるようにドキンとした。イレナは大股でこちらに向かってカツカツと迫り口を開きかけた。が、折しもそのとき始業を告げる鐘が鳴り渡り、ほとんど同時に担任の教諭が入ってきた。そのためイレナは出鼻をくじかれたようにますます眉間をぐにゃりと歪ませながら渋々と自分の席へと戻っていった。席へと着いた彼女が机の中にカメラが入っていることに気づいてどんな反応を示したのかは、シュナはわざと見ないようにした。
ホームルームから引き続いて一限目の授業が始まる。教師の話に耳を傾けつつ、ときどきちらりと窓のずっと向こうに静かにたたずむ青の館を眺めた。転校生か……双子と言ってたけどどんな人たちで、どんな事情で“学園”にやって来たのだろう。シュナはさっきラギに「わたしたちには関係ない」と言い捨てたはずのその誰かへ思いを馳せた。同時に自分が初めてこの“学園”へと足を踏み入れた日のことを目の奥で再現させた。
初めて“学園”の壮大な伽藍を前にしたとき、まるでとおの昔に終焉を迎えた王国時代にタイムスリップしたような奇妙な感覚におそわれた。灰色の石畳が放射状に敷かれた円形広場。四方向から伸びた道が広場の中央にある噴水に帰結し、ここを俯瞰するときっと丸に十字という形状をとっているのだろう。
“学園”の建物群は丘が川の方へと大きくせり出した斜面を大きく抉るように立ち並んでいる。そのため校舎や施設ごとにそれぞれ高低差が異なり、丘そのものが“学園”なのだという印象を受ける。これから通うこととなる中等部と建物は円形広場から正面に向かって右側の道をたどった先にあり、斜面を削った地形のために幅が広く高い階段を登らなければならない。登った先には瀟洒な赤煉瓦の城の如き建物が堂々たる様相で鎮座する。これが中等部教室棟であり、三階建ての煉瓦の巨人が白塗りの屋根を支えている。一方でその反対側、中等部からちょうど対岸に位置する場所に同じように赤煉瓦の建物が坐り、内部は細々とした設備等の違いはあるが外見だと両者はちょうどシンメトリー構造を描いていた。この対岸の巨人が高等部で、中等部の白塗りの屋根に対してこちらは青い屋根を抱えていた。
あの日、中央の円形広場に初めて立ったシュナはまるで自分が舞台の役者になったような気がした。ちょうどこの広場の円形と周囲をぐるりと取り囲む斜面とそれぞれの建物へおもむくための大階段が、いつか歴史の授業で習った古代の円形劇場を連想させたからだ。右側の中等部、左側の高等部、そして正面にたたずむ中央大講堂。実際ここで演劇をしたらかなりの雰囲気が出るのではないかとシュナは考えたものだ。
案内役の教師が出迎え、シュナが最初に案内されたのは大講堂の向こう側にある学園長室だった。へと向かう道すがら、案内のために先導する女性教師は施設や建物について簡単に説明をしていた。
あなたがこれから通う中等部はあの白屋根の校舎よ。みんな『白の館』と呼んでるわ。対するあっちの青屋根が高等部で『青の館』ね。大きな建物ばかりで圧倒されるでしょ。アタシもここに赴任が決まって初めてやってきたときは、まるで知らない国に迷い込んじゃったんだと思ったわ。あなたポケモンは持ってる? ここは基本的にポケモンを連れてきてもいいことになってるの。ほら、あそこを歩いている男の子みたいに、屋外や屋内でも許可されてる場所だったら連れ歩きもOKよ。中等部、高等部それぞれに専用のバトル場だって用意されてるんだから。
女性教師は努めて明るく振る舞っていたが、シュナには彼女がどこか遠くを見て、それでいて薄い膜のような壁を隔ててしゃべっているような印象を覚えた。中央大講堂を横に過ぎ、林を抜けた先にある小さな家へと案内された。扉には学園長室と書かれてある。女性教師はそこで自分の役目は終わったと見るや否や、そそくさとその場から退散していった。
心細さを抱きながらノックをすると扉の向こうから「どうぞお入り」とハスキーな女性の声が返ってきた。中へと入ると、しっとりとした暖色の照明でぼんやりと室内が照らし出されていた。黒壇の重量感あふれる机には電話のみが置かれ、机の隣には応接用のテーブルとソファがあった。机の椅子にはソバージュの髪をした女性が一人腰掛け、ソファには男性が座っている。男の方は既に写真を見せてもらっていたから誰なのかはすぐに得心した。シュナの叔父であり、“学園”の理事長であるユリウス・バーンズロウ。ユリウスはすっくと立ち上がるとゆっくりと、かつ大股でシュナへと近づいた。
「きみが兄の娘さんだね。初めまして私はユリウス。ティバルトの弟だ。よろしく」
自分よりも三十センチ近くも高い目線からの自己紹介は、相手にその意思が無くとも抑えつけられるように威圧的だった。シュナは生返事しか出ず、首がかくんと上下に揺れるばかりだ。そんな二人の様子を見てか、くすくすという小さな笑い声が部屋の奥から聞こえてくる。
「いけませんよ理事長。ただでさえその子はいろいろと生活の環境が変わって緊張しっぱなしでしょうに、そんな見下ろすような自己紹介では。ほら、すっかり固まってるじゃありませんか」
学園長の席についていた女性はユリウスとは対照的にもったいぶった調子で鷹揚に立ち上がると、なまめかしく机に手をつきながら歩み寄った。
「初めましてシュナ・バーンズロウ。私は学園長のリン・コールドウェル。あなたを歓迎するわ」
官能的で耽美的でさえある女性の声にシュナはぼうっと頭が火照るような気がして、なかば夢見心地となった。美しい女の人だ、とシュナは思った。歳はどのくらいなのだろう。きっと学園長の座に収まっているからにはそれなりに年齢は重ねているのだろうが、しかし見方やある瞬間での表情から覗く雰囲気によっては四十どころかまだ三十代半ばにも達していないような若々しさを感じる。なんとも年齢不詳だった。
コールドウェルはシュナのすぐ前にまで歩み寄ると、ぐっと顔を近づけた。瑞々しさに富んだ薄化粧の頬にシュナは目が引き寄せられる。そのとき学園長の細いながらもふくよかな白い指がシュナの唇に触れた。
「なっ……」
言葉が詰まり、かあっと頭が上気する。
「かわいらしい顔ね」
ふるふるとした唇からその言葉は発せられる。声をあげようにもまるでポケモンの技の【金縛り】を受けたようにシュナは身じろぎ一つ出来ずにいた。
「私、かわいい子は好きよ。男の子でも、女の子でもね」
「やめてください!」
とうとうシュナは絞り出すように叫び、顔を横へそらした。そのとき、壁際に設けられている本棚とそこに納められている本とが、なにかの影の形をかたどるようにぐにゃりと歪んだ気がした。
ごほんと、大きめの咳払いが聞こえた。ユリウスだ。
「コールドウェル君、悪ふざけが過ぎるぞ。この子は生徒であると同時に、私の姪であるということもお忘れなく」
「申し訳ありません理事長。ただこの子の緊張を解いてあげようと思っただけなのに、ふふ……私ったら悪い癖ですわね。つい調子に乗っちゃって」
コールドウェルはくるりと身を翻して学園長の席へと戻った。ユリウスから座るように促されると、シュナはへなへなと風船から空気が抜けるようにソファへと倒れ込んだ。そして目線を上げ、席についた学園長を見上げると、そこには今し方の誘惑的なやりとりを見せた女性ではなく、堂々たる風貌の“学園”の長の目をした女性リン・コールドウェルがどっしりとした構えで座っていた。
「さてと、きっと気になってることでしょうから先に言っておくわね。あなたが理事長の姪、あるいは“学園”の代々の功労者であるバーンズロウ家の人間だからと言って私たちはあなたを贔屓したり、なにかと特別扱いすることはない。こうして転校して来たからにはバーンズロウ家もなにも関係ない一生徒、ただのシュナとして扱うからそのつもりで。シュナ・バーンズロウ、改めてようこそ“学園”へ。あなたをこれよりここの生徒としてお迎えします」
あの学園長との対面を今日来た転校生も体験したのだろうか。特別扱いしないと宣言したからには、あの対面も自分だけに用意された特別な場ではなかったはずだ。双子だというその転校生は学園長のあの耽美的でハスキーな声と、ふりまくように発せられる女性的な魅力にどう反応しただろう。シュナの場合だとあの後毒気に当てられたようにぼうっと頭が
熟れていた。
同じ転校生という立場であるためだろうか。関係ないと思っていたその二人に対していつのまにかシュナは関心を募らせ始めていた。とはいえ、その転校生は円形広場を隔てた向こう側、青の館の人間。少なくとも今の自分には直接の関係はないのだろう。
そんなふうにぼんやりと物思いに耽っているうちに、一時限目終了の鐘がカランコロンと歌った。