第三話「友達」−1
コロンには見張りならぬ、“聞き張り”になってもらうことにした。部屋の外から誰かが近づいてくる足音を聞き、明らかにこの部屋へと向かっているようであればすぐにシュナに知らせるという手はずだ。コロンはこの役目をしっかりと引き受けて扉の前に座っているものの、どこか不満気に見えた。既にシュナも気づいていたが、どうもコロンはアルスのことが気に入らないようだ。それもそうよね、と胸の内で呟きながらシュナはコロンをじっと見つめた。出会ってからずっとシュナを独り占めしていたはずだったのに、青天の霹靂、突如として現れた巨大な来訪者によってその独占権を剥奪されようとしているのだ。小さなコリンクの目から見れば、カイリューは自分の中の秩序を壊す異邦者のように映るのかもしれない。
シュナはコロンからその“異邦者”へと視線を滑らせた。同時に溜息が漏れた。ようやくまともな食事にありつけたアルスはまさに水を得たトサキント。開幕にりんごを一つ鷲掴みにすると、りんごは異空間へつながってるような大口へと芯ごと吸い込まれる。皿に載った料理は皿ごと飲み込んでしまいそうなところをシュナが慌てて制止する羽目になったりした。それからもアルスはとり憑かれたように黙々と手当たり次第に食べ物を手にしては次々に口の中に放り込むのを繰り返した。かくしてワゴンから溢れ落ちそうなほどの量の食べ物は、ものの十分足らずで綺麗さっぱりアルスの胃袋に収まったのであった。
「あぁ食った食った。生き返ったぜ」
アルスは膨れた腹を軽く叩いてご満悦といった風体だった。
「もう満足した?」
「食おうと思えばまだいけるぞ」
「勘弁してほしいわね」
アルスの腹の虫をどうにか大人しくさせることが出来て、ようやく昨夜からの一連の出来事が一段落したように感じる。
それによる心理的な余裕が生じたためか、シュナはかねてよりの疑問をようやく今一度口にした。
「ねえ、アルスはどうして人間の言葉が話せるの?」
藪から棒だと感じたのか、アルスは一瞬顔をしかめる。
「うーんなんでだろうな……。俺みたいなのが話すの、そんなに変か?」
「変っていうか……。少なくともわたしの知る限り、君みたいに当たり前のように人間の言葉をしゃべるポケモンなんて知らないから」
もちろん自分が単に知識不足なだけで、世界中をくまなく調べてみれば、あるいはそんなポケモンも存在するのかもしれない。
考えれば考えるほどにアルスは“変”なカイリューだった。人間の言葉を話せることは言わずもがな、記憶まで失っている。『記憶を失う』という感覚がシュナには分からない。昔のことを思い出せない、とはどういうことなのだろう。アルスに会ってから何度か想像もしてみた。そのたびに腹の中に異物を放り込まれたような気分になる。それは純粋な恐怖。自分が誰であるということすら思い出せない、ということはそれはまるで真っ黒な水の深みにずっと漂っていて必死に足のつく場所を探しているような、そんな想像だった。
どうしてアルスは記憶を失ったのだろう。失う前はどこでなにをしていたのだろう。
そんな時、一つの思いつきが頭の中で生じた。
「ひょっとするとアルスが喋ることができるのと記憶を失くしていることは何か関係があるのかもしれないね」
シュナには記憶喪失と人語を話すことが何か間を挟んで結ばれているような気がした。どちらか一つだけでも大変なことだというのに、二つが同時に起こっているとなると、これは偶然ではなく何か関連していると考えないほうがおかしい。とはいえ、その二つの点がどのように結ばれるのか、今の段階ではまるで見当もつかない。
「うーん、分かんねえなあ」
アルスは腕を組んで首をひねった。
「最初にお前にしゃべった時は、べつにお前が人間だから人間の言葉で話さねえと、って思ったわけじゃねえしなあ。ただ気がついたらしゃべってたっていうか……」
考えがまとまりきれないようにアルスの語尾は曖昧に濁る。挙句「あーくそ、わかんねえ!」と頭をガリガリかき回した。そこで一旦沈黙が降りる。
本当によく分からない。どうしてこのカイリューは人間の言葉をしゃべるのだろう。扉の前に座って“聞き張り”に徹してくれているコロンと、カイリューと何が違うんだろう。もちろん種族としては全然違っていることは分かる。体の大きさはカイリューのほうがずっと大きい、持っている属性だってコロンは電気でアルスはたぶんドラゴンのはず。専門的に見ればさらにもっと多くの違いはあるだろう。しかし結局のところコロンもアルスも同じポケモンなのだ。カイリューだからといって言葉を話せることには全く繋がらない。そういえば同じ学年の誰かがペラップとかいう人間の言葉を真似してしゃべるポケモンを連れているのを思い出した。しかしアルスのそれはとてもっても真似という枠組みに収まるものではなく、きちんと考え話したいことを自在に話しているのだ。
結局今のところは自分ごときがこれ以上考えたところで思案に余ると結論を出し、シュナはこの問題についてはここで撃ち切ることにした。
「ねえ、君はポケモンなんだから、ポケモン同士の言葉はわかるの?」
アルスが人間の言葉を話すことについて考えるのはこれでおしまい、と宣言するようにシュナはまぶたを広げた。
「そりゃもちろん。さっきもそこのチビと話してたしな」
アルスはコロンを顎で指した。
「チビとは心外ね。この子にはコロンっていう名前があるんだから」
腰に手を当ててシュナは唇をすぼめる。コロンもまた「チビ」なんて呼ばれたためか、苦虫を噛み潰したような顔でアルスをにらみつけ、しっぽをパタパタと床や壁にぶつけた。一方のアルスは聞いていないように先を続ける。
「ところでオイ、俺こいつに何か悪いことしたか? こいつ俺がなにか話しかけてもそっぽ向きやがって、ほとんど答えてくれねえんだぞ」
シュナはなんと答えるべきか悩むが、やがてゆっくりと言った。
「きっと色々戸惑ってるのよ。だって急にこんな大きなポケモンがやってきたんだもの」
「そうなのか?」
アルスは訝るようにコロンを覗きこむ。コロンはコロンでいよいよ不機嫌が募ってきたらしく、尻尾の先から僅かな放電が始まった。このまま喧嘩でもされたら目も当てられない。シュナはコロンに「おいで」と手招きした。たちまちぴょんぴょんと跳ねながらコロンはシュナの膝の上に収まる。主の膝の上で幾分安心したのか、コロンは牙が見えるほどに大口を開けてあくびをした。
「わたしがこの家に来てからずっとこの子と一緒だったからね」
シュナはそっと手のひらをコロンの背に乗せ、ゆっくりとさすった。コリンクは気持ちよさそうに前足を伸ばし、喉をゴロゴロと鳴らす。
「ん? ここはおめえの家だろ。『来てから』ってどういうことだよ?」
「そうね。難しいのよ、人間ってのは」
シュナはおもむろに視線を窓の外へと向ける。初夏せまる温かい春の日差しがずっと向こうの山を新緑に染めていた。
「わたし、元々この家の人間だと知らずに育ったから……」
言葉を終えてから、シュナは言ってしまったことを少しだけ後悔した。胸の底がにわかに熱を帯びた。どうしてアルス相手にこんなこと言おうと思ったのかが分からず、内心当惑する。アルスが人間の言葉を話し、言葉も理解するからなのか。それともアルスが人間ではなくポケモンだからあまり深く気兼ねする必要がないと感じたためか。
ゆっくりと視線を窓からカイリューへと移す。アルスはどういうことなのか分かりかねるように目玉を上に向けていた。
「よく分かんねえ」
「そうね、気が向いたその内話すわ」
そしてシュナは膝の上のコロンをそっと降ろすと、腰掛けていたベッドから立ち上がった。
「ねえ、悪いんだけどまたちょっとひとっ飛び乗せてくれないかな?」
「構わねえよ。どこ行くんだ?」
「ヒース湖、ゆうべの湖よ。自転車を取りに行かなきゃ。それに調べておきたいこ
ともあるしね」
*
一夜明けたヒース湖は夜とは打って変わって人影もちらほら見受けられる。しかしやはり人数はそこまで多くない上に、そのほとんどが駐車場付近に整備された公園やボートハウスからボートに乗ってたりしているため、少し離れた遊歩道の方には相変わらず閑散としていた。とはいえそれでも空から飛来するというのはなかなか目立つもので、シュナはまず人目につかない場所にあるすを誘導するのに一骨折った。
自転車は昨夜隠しておいた茂みの奥にそのまま横たわっていた。陽の下で改めて全体をくまなく調べるが、やはり前輪が外れている意外に特にこれといった破損は見受けられず、シュナは小さく安堵の息を漏らした。自転車はひとまずここに置いておくこととし、シュナは膝を立てた。アルスがそのままスタスタと歩き始めるシュナを呼び止める。
「おい、コレ取りに来たんじゃねえのか?」
「その前にちょっと調べたいことがあるの。悪いけどついてきてくれない?」
日中のヒース湖の森のなかは夜とはまた違った顔を見せる。空の上に煌々と輝く太陽は木々の枝の間、葉の隙間から光を差し込み、森の鬱蒼とした暗がりを切り拓いている。湿った地面は太陽から水分を奪われ、空気は湿気と土の匂いとでむっとしていた。鳥の声があっちの枝からこっちの枝から歌声を飛ばし、絶妙な多重唱を築いている。しかしうまく葉の陰などに身を隠し、その姿は見えない。
シュナは遊歩道を歩きながら、時折チラリと後ろに視線を投げた。アルスは何も言わずついて来ている。のっしのっしと歩いて顔は相変わらずの仏頂面。シュナの言う「調べたいこと」が何なのか分かっていないらしく、仏頂面に更に不機嫌さがプラスされている。シュナは前へ向き直り別段隠すことでもないなと考え、歩む速度を少し落としてつぶやくように言った。
「アルスのことよ」
「俺の? なにがだ」
「だから調べ事よ」
「なんのことだよ」
調べ事というのがまさか自分のことだとは考えていなかったアルスは、思わず素っ頓狂な声を漏らす。
「アルス、まだ過去のこと何も思い出せてないんだよね?」
「ああ、そうだな……」
アルスの声がわずかにくぐもった。
「ゆうべのことをもう一度最初からおさらいしようと思って。そしたら何か手がかり……までは行かないにしてもヒントの一つくらい分かるんじゃないかと思うの」
「なんでわざわざお前がそんなことするんだよ」
ピタリとシュナは足を止めた。つられてアルスもそれにならう。彼女はゆったりとした動きで振り向く。黒い髪が風で舞った。口は堅く結ばれ、目は熱を帯びた色を湛えている。そして一瞬言葉を発するのを躊躇するように口が開きかけてまた閉じた。しかし空白は長くは続かず、シュナは改まるように視線をアルスの目に向けた。両者の視線が宙空で交差した。
「わたしも知りたいのよ。アルスの記憶を」
一陣の風が吹き抜け、木々がざわめいた。