第二話−3
このカイリューの巨体をどう隠しておくか。ユリウスに存在が知られそうになった先ほどの一件で、シュナは改めてこの問題を目の前につきつけられた気がした。二メートルを軽く越している上に、横にも大きい。いくらこの家が大きいと言っても限度がある。今になってシュナは連れてきたことを悔やみ始める。おまけに昨晩軽はずみに「食べ物ならいくらでもある」なんて言ってしまったことにも後悔を覚えざるをえなかった。
確かに食料ならいつでも切らしていない。屋敷を出入りする使用人が有難いことに常に買い足してくれているからだ。しかし同時にそれら食料は使用人たちがいつ何の料理に使ったかを、ある程度チェックしていた。勝手に持ち出せば、すぐにはバレることはないだろうが、いずれ怪しまれるに違いない。
「とりあえず、これを食べててくれない」
そう言ってシュナが差し出したのは小さな皿に盛った焦げ茶のスナックのようなものだ。
「なんだこりゃ?」
アルスはひと掴みして針の穴を覗きこむようにまじまじと目を凝らす。
「いわゆるポケモンフーズってやつね。本当はコロンに食べさせるものだから口にあうかどうかはわからないけど」
アルスは次にそれを鼻先に近づけて、ひくひくと鼻孔を動かす。それから特に抵抗を覚えた様子もなく、シュナの頭がまるまる入りそうな口を開けてひょいと投げ込んだ。このあたりの感覚はやはり人間とは違うのだな、とシュナは思った。ぼりぼりと咀嚼の音が耳をつく。
「悪かねえがうまくもねえな」
「贅沢言わないの」
思わず溜息が漏れた。
それからアルスは皿を持ち上げてそのまま中身を一気に口の中へと掻きこむ。コロンなら数分かけて食べる量が、たったのふた口で皿から消えてしまう。
咀嚼音に混じってアルスの文句つく声が聞こえた。
「たったこれだけかよ?」
「待ってて。すぐなんとかするから」
まったくこのデカブツは! と毒づきたいのを必死にこらえながらシュナは腰を上げた。間もなく朝食の時間だ。ソフィアが呼びに来る前に部屋を出たほうがいいだろう。どうにかしてアルスの食料を調達するしかない。その結果カイリューを隠している事実が明るみになろうとその時はその時だ。
半ば自棄な気分でシュナは扉へ向かう。そしてノブに触れようとした所でくるりと身を翻し、釘を差すようにアルスに指を突きつけた。
「もう一度言うわ。くれぐれも物音を立てないで大人しくしててね。さっきは本当に心臓が止まるかと思ったんだから」
「分かった分かった」
鬱陶しそうに飛んでくるアルスの言葉を背中に受けながら、さっさと扉をくぐった。
*
食堂への道すがら、シュナは深呼吸を数度繰り返し、気を落ち着けた。ようやくユリウス伯父にアルスの存在がバレそうになった先ほどの一件の残滓が払われた気がした。そして歩きながら、改めて昨夜から今に至るまでの出来事を振り返る。
噂になっていた幽霊探しをしていたら謎の男に襲われた。男から逃げる途中でその噂の幽霊と思しきものを見つけた。しかし幽霊だと思っていたのはニーアと名乗る謎の女で、さらに彼女は何処からともなく人の言葉を話すカイリューを出現させる。カイリューは男の放ったポケモンを撃退してくれたが、直後にすべての記憶を失っていることが判明。本当の名前なのかどうかはわからないものの、彼の放った「アルス」という言葉を名前として呼び、今に至る。
「謎」という言葉がやたらに多くなってしまったが、本当に謎なのだから仕方がない。
おさらいするなかで改めて思う。ニーアやアルスの存在に影に隠れがちになって忘れてしまっていたが、自分は命を狙われたのだ。
途端に悪寒が走る。まるで背に氷を当てられたように。もしあの時あのまま男に連れ去られていたら、どうなっていたのだろう。
――ただ人に頼まれただけだから。
――悪いがそれは会ってからじゃないと。
男の言葉が頭の中で反芻され反響する。ある人物が自分に会いたくて男に依頼して連れてこさせようとした。その人物が誰なのか今のところは検討もつかないが、あんな人目の付かない機会を狙って強引な手段を講じた以上、真っ当な目的ではないことはもはや教えられるまでもない。
このことを誰かに相談すべきか、と考えた所で葛藤の壁にぶつかった。昨夜の出来事を正直に話すなら、おのずとカイリュー――アルスのことを言及する必要に迫られる。アルスのことは黙っておくか、しかしそれで湖から自分とコロンだけでなんとか逃げてきたで納得してもらえるだろうか。
あれやこれやと考えあぐねる内にいつの間にか食堂の前まで差し掛かっていた。両開きの扉をくぐると暖炉の前を上座とした長いテーブルが横たわる。高山の銀雪のようにシミ一つない純白のテーブルクロスにカザニアや薔薇を活けた花瓶が載っていた。
そして上座手前の席にユリウスが腰掛けている。彼はシュナが入ってきたことに気づくとおもむろに席を立った。シュナに近づき笑いかけるが石のように堅い笑みだった。
「突然邪魔して悪かったね。そろそろ行こうと思う」
片手に仕事で使う鞄を提げている。
シュナは自分もなにか一言言わないと、という気持ちでどぎまぎしながらつと浮かんだ言葉を口にした。
「あの、伯母様はまだ……良くないのでしょうか?」
「それは君の心配する必要のないことだ」
堅い笑みから鋭い声をユリウスは放った。シュナは思わず萎縮してたじろぎそうになる。そんな姪の様子を見てしまったと感じたらしく、ユリウスはすぐに思い直したようにかぶりを振り、大きな筋張った手をそっとシュナの方に置いた。
「いや、すまない。また私の姿が見えないからと喚いて方々に電話をかけて探しまわったそうだ。今日もこれから病院に行ってから仕事へ戻るつもりだ」
そう言うと彼はシュナから手を離し、壁のハンガーにかけてあった上着に袖を通した。そしておもむろに花瓶に活けてあったピンク色の薔薇を一輪手にとった。
「これはもらっていくよ。それじゃ、また」
彼は玄関へとつながる扉へと手をかけた。その瞬間、シュナの中で何かがこみ上げる。思わず知らず、シュナは一歩二歩ユリウスへと歩み、「叔父様」と声が押し出された。
ピタリとユリウスの動きが止まる。彼は肩から振り向き、呼ばれたことが意外だったかのようにはにかんだ表情を見せた。
「どうしたんだね?」
しかしシュナはすぐに後を続けなかった。
よっぽど言おうと思った、実はゆうべ見たこともない男の人からさらわれそうになったんです、と。しかしユリウスが振り向いた途端にその言葉は喉の奥へとしまい込まれ、所在なげな沈黙が流れた。代わりの言葉を模索し、シュナは目線をちらちらと四方へ泳がせる。
「あの、伯母様に『早く元気なってほしい』って伝えてください」
とっさに拾った言葉だが、同時に素直な気持ちでもあった。しばらくユリウスは何も言わなかった。食堂の上座の向かい側にある柱時計の振り子の音だけが、時間が流れ続けていることを伝えていた。
「ありがとう、きっと伝えておくよ」
唇の端にそっと上げて彼は扉をくぐった。シュナはその後姿に軽く頭を下げ、やがて伯父が閉じていく扉の向こうに消えていくのを見届けた。バタンという音と同時に、足音が遠ざかっていく。
それからシュナはそっと適当な席に腰を下ろすと、間もなく運ばれてきた朝食に口をつけた。河のよどみに生まれる泡沫のように次々と考え事を移しながら食べ物を口に運ぶため、味もよく分からない。しかしこんな気分だというのに食欲だけは正直で気が付くとスープの注がれた皿も、サラダの盛ってある皿も、スクランブルエッグとトーストの載った皿も、いつのまにやら平らになっていた。
食後に出された紅茶を啜る。すると食事を運んで側に控えていたソフィアがおずおずとした様子で話しかけてきた。
「あのお嬢様、どうかなさったのですか?」
思わず手元が狂い、カップを取り落としそうになるのをなんとか回避する。ゴクリと口に含んでいた紅茶を喉の奥に流し込み、ソフィアへと振り向いた。
「どうしてそう思うの?」
「朝の挨拶の時から何かヘンでしたし、部屋にユリウス様がいらした時もなんだかおかしかったですよ。もちろんお嬢様がユリウス様を苦手としてることは承知のうえですけれど、それを差し引いてもどうもいつものお嬢様と違う気がしたんです」
そこでソフィアは一旦言葉を切り、言うべきか否かを逡巡するようにシュナから目をそらした。しかしここまで言った以上終わりまで言わなければと思ったのか、やがて再び口を開いた。
「まるで何か隠してるみたいで」
凍りつくような沈黙が流れた。シュナは顔をぴくりとも動かさないように努めたが、実際うまくいっているのか知れない。
大正解、さすがよソフィア。と、いっそのこと言ってしまおうかと思ったが、すぐその案を頭の外へと押しのける。
時々ソフィアはこんな風にやたらに鋭いことがあった(尤も、今回の場合シュナの態度があまりにあからさまだったという要因も大きいが)。彼女の宿直日の夜に一緒にミステリーもののドラマを見ていると、解決パートよりも先に犯人やトリック、時に動機に至るまで言い当てるということは少なくなかった。
「ねえソフィア」
おもむろにシュナは椅子に座ったままソフィアを見上げた。「はい」と畏まった返事が発せられる。
改まったようなシュナの様子に戸惑いを覚えつつソフィアは両手を前に重ねた。シュナはそっと腰を上げると、周りに他に誰も居ないのを確認しつつ使用人の耳元で囁いた。
「頼みがあるの。何も言わずに食品庫から食料を少し多めにわたしの部屋に持ってきてくれない? できれば調理せずにそのまま食べられるものね。お願い、わけは訊かないで。とにかく誰にも言わず、誰にも見られないように……ね!」
早口で半ばまくし立てるような勢いで言い切ると、シュナはソフィアの両目に視線を注ぎ込んだ。勢いに気圧されてあっけにとられたソフィアは、その頼みが意味するところを深く吟味する暇も無く、ただこくりと頭を垂れた。
お願いね、と念を押すようにソフィアの肩を叩くと、シュナは食堂を後にした。
結局はこうするしかない、とシュナはその結論を己に言い聞かせた。そしてこれからソフィアに取るであろう態度を予測すると、我が事ながら気が滅入る。
シュナは昔から、自分がいわゆる「良い子」だとはあまり考えられなかった。
初等部学校の高学年になったころに読んだ印象に残った本が二冊ある。どちらも昔から読み継がれている少女文学の古典で、一方はのびのびと育った純粋無垢な少女の話で、様々な困難に見まわれながらも、その持ち前の天真爛漫さ純真さで真摯に事態一つ一つ向き合い成長していくストーリーだ。もう一方は同じく少女の話なのだが、こちらの主人公の少女はどこか狡猾さを含んだ表現が少なくなく、またかなりの負けず嫌いだった。
また前者の物語の女の子は、延々とおしゃべりを続けられる。どうしてこんなに次から次へと言葉が生まれてくるのだろうと不思議なくらいだ。友達の少女たちと同じクッキーを口にし、同じ本を回し読みし、同じことで泣いたり笑ったりする。
しかし後者の少女は、口数が少なく、しかし言いたいことはハッキリと口にする。決して周囲から好かれるような子ではなく、自分のやりたいことがあれば、周囲がノーと言おうとも突き進む。
初めて後者の本を読んだ時の衝撃が忘れられない。こんな性格の子が主人公になっていいものなのだろうかと反感を覚えると同時に、読み終えてしまうとかえってこの少女に共感を覚え、また自分の中にこの物語の少女と同じような部分が確かにあることを気付かされ慄然とした。
そして後者の本を読んだ後に前者の本を読みかえした時、前者の主人公に小さな嫌悪感を覚えた。この子は純真無垢と世間では評価されてるが、本当にそうなのだろうか。周囲に合せ、同じクッキーを食べ、同じ本を回し読みし、同じことで泣き笑いする。そこにはどこにも後者の少女にあるような本当の意味での「正直さ」が無いような気がして、楽園の住民の如く幸福そうに描かれている本の描写に反して「この子はこんなことして本当に幸せなのかな」と疑問を抱いたものだった。
やがて部屋にたどり着くと小山が現れた。部屋の中央でアルスはうつ伏せで横になり不機嫌そうに、入ってきたシュナをぎろりと睨みつけた。やっぱり怖い顔だ。
「遅せえぞ」
「はいはい、申し訳ありませんよっと。その代わりもうすぐお待ちかねのものが来るから」
その言葉通り、それから十分と待たずして扉をノックする音が響いた。
シュナはまず、細く小さな隙間を作りそこから覗き込んだ。上から白い布をかぶせたワゴンと緊張した面持ちのソフィアの顔が見えた。
「お待たせしました」
そう言いながらソフィアは周りに誰もいないか確認するように視線を左右へ振る。
「誰にも見られてないわね?」
「はい、誰にも言ってませんし、誰にも会いませんでした」
「そう、ありがとう。もう下がっていいわ。本当にごめんね」
「いえ、お気遣いなく。それでは失礼します」
ドアの隙間の向こうからソフィアは丁寧にお辞儀する。遠ざかっていく足音を耳にしながらシュナはちょっとした罪悪感に苛まれた。ソフィアはきっとシュナが何を隠しているのか身悶えするほどに気になっているだろう。しかしあくまでシュナのソフィアは主従の関係、シュナが見せるのを拒めばそれに従わない訳にはいかない。
遠ざかっていく足音に謝罪の言葉を心のなかで浮かべながら、これでどうにかアルスの食料を確保できたことにほっと胸を撫で下ろす。ワゴンを中に引き入れるとドアを閉め、かぶせてある白い布を取った。りんごを始めとする果物類に皿に載った作りおきの料理が所狭しと置かれている。これだけあればきっとアルスも満足してくれることだろう。そう思ってくるりと振り向く。そこには毛細血管が一本一本見えるほどに目を血走らせ、今にもワゴンに向かって突進でもやらかしそうな勢いのカイリューがいた。
「もう食っていいんだよな?」
そう尋ねたカイリューの口の端からだらりと垂れるものが。ぼとんと汚らしい音を立ててカーペットにシミを作った。
「いいわよ」
もはやなげやり半分にシュナは言った。
これから先のことを考えると胃潰瘍患者の気持ちが分かるような気がした。