第二話ー2
心臓が早鐘のように鳴る。まるで心臓がシュナを胸の中から激しく叩いているように。
ぽかんと開いた口が乾いていることに気づき、思わず唇を中へ引っ込めた。どこに目を向けても目立った皺ひとつ見当たらないスーツで歳の割にがっしりとした身を包み、ゴツゴツと骨ばった輪郭に溝を掘ったように起伏の激しい顔。そんな叔父ユリウスの炯々とした瞳がシュナをとらえている。
どうしよう。なぜ今日に限っておじさんが。
そう考えるシュナの胸の内を見ぬいたように、ユリウスは口を開いた。
「仕事のほうが一段落してね。ほんの数日だけだが休暇をとったのだよ。たまには姪の顔を見に来るのも悪くないだろう」
そしてユリウスは両腕後ろに回し、覗きこむように腰を傾けた。
「元気でやっているかね?」
「はい。ここでの暮らしにもすっかり慣れましたし」
シュナは出来るだけ明るく努めるが背中に力が入ってしまっていることが自分でも分かる。
「そうか。それならなによりだ。なにか変わったことなどは無かったかね?」
胸と背中の両方から氷を当てられるような気がした。無意識に視線が横の方に逸れていくが、すぐにそんな自分に気づき慌てて向き直る。
「いいえ、なにも」
愛想笑いが浮かんだ。対するユリウス叔父は眉一つ動かさずシュナの顔を穴が開くように見下ろしている。突然の来訪といい、今の質問といい、まるで昨日あった出来事を知っているのではないかという錯覚さえシュナは覚えた。
正直に心情を吐露してしまえば、早く帰ってくれないかと祈るような気持ちだった。しかし次の瞬間、そんなシュナの心を全く裏切るような事態となる。
――ゴン。と何かがぶつかるような音が鳴った。シュナは胃がひっくり返る衝撃を受けた。音の出処は言うまでもなく、クローゼットから。
たちまちユリウスの厳格な目の視線が初めてシュナから離れ、部屋の中へと向けられる。
「今の音はなにかね?」
後に続いてソフィアが首をかしげた。
「お部屋の方からでございましたね」
この時ばかりはソフィアまで悪魔のように見えた。シュナの頭がカァっと熱くなる。
「きっと風か何かで窓が鳴ったんだと思いますよ」
シュナは目を白黒とさせながら、頭に浮かんだでまかせを口にする。
「そうかね? そういう音のようには聞こえなかったが」
シュナのごまかしも虚しくユリウスは怪訝そうに眉をひそめ、部屋の奥へと視線を移した。
一体どうすればこの場をやり過ごすことが出来るだろうか。シュナはコンピュータさながら、高速で考えを巡らせる。しかしどうにも上手い案は浮かんでこない。もし部屋に入ってもいいかと迫られ、無理に拒否しても不可解さに拍車をかけるだけだろう。
しかしそんなシュナを助ける機会を与えたのは他ならぬユリウスだった。
「まあいい」
ユリウスはそう発し、興味を失ったように小さく息を吐いた。左腕をピンと伸ばすと顔に近づけ、手首にある腕時計を覗きこむ。シュナは心底救われたような心地だった。思わず大きくため息を漏らしそうになるが、寸でのところでぐっとこらえて息を止める。吐き出そうとしたい気を又無理に呑み込み、咳き込みそうになった。
「君のコリンク。コロンという名前だったかな? 彼とはうまくやってるみたいだね」
叔父の視線が次にシュナの足元で、好奇心を湛えた目を向けているコロンの方へと移る。自分の名前が発せられたことに気づいたコロンはガゥと元気よく吠えた。
「はい。こう見えてとっても頼りになる用心棒なんですよ」
声のトーンがにわかに上ずる。
「それは心強いな」
ユリウスは膝を曲げて屈み込み、コロンの目線のなるだけ近くになるように上体を低くすると、やや粗雑な手つきでコロンの頭に手を当ててさすった。コロンは乱暴に撫でられたがかえって気分がいいのか、喉のグルグルと鳴らした。クローゼットからの物音からうまく話題がそれて安心の余りというものである。しかしコロンのことを気にかけてくれていることも素直に嬉しかった。
シュナは父の弟にあたるこの叔父がどうにも苦手であった。平時より決して崩さぬことのない厳格で半ば高圧とも言える態度、そして何事も全て見透かしているような刺すような目つきには会う度に気圧いを覚える。そして叔父が兼ね備えているそれらの特性とも言えるものは、“あの時”以降より一層顕著になったような気がしてならなかった。しかしそんな叔父も極稀にだが今目の前で繰り広げているような振る舞いを見せることがある。
やがてユリウスはコロンから手を離し腰を上げると、低い声で言った。
「そう、コロンと言えばだね。トールキン先生から連絡があって、今夜少し屋敷に寄られるそうだ」
「グラハムの小父様が?」
シュナは顔をパッと明るくしたが、同時にしまったとも感じる。しかしユリウスはそんなシュナの反応にも頬ひとつピクリともさせない。その代わりに眼の奥に威圧的な光を宿したように見えた。
「何の用なのかは聞いてないが、まあ粗相のないように気をつけたまえ」
“グラハム”という名前を聞いたせいか、コロンが嬉しそうにしっぽを振る。尻尾の先の星からパチパチの小さな放電が見られた。
「部屋は綺麗に使っているようだ。良ければ少し拝見させてもらえるかな?」
えっ――とシュナは腹の底が寒くなった。今は部屋に、特にクローゼットを見せる訳にはいかないというのに、どうしてこんな時に限って。しかしかと言って拒絶するにもっともな理由も見つからない。シュナはしどろもどろとした。そんな姪の様子を妙に解釈したのか、ユリウスは薄く笑った。
「なに、妙な真似はしないつもりだよ。その手の趣味持ち合わせていないからね」
はぁ、とシュナは視線を床に落とした。コロンがどうしたのかと慮るようにシュナを見上げているのが視界に映る。
「どうぞ」
すぐに終わらせてくださいね、という気持ちを言外に含ませながらシュナは扉の前から下がった。「すまないね」と小さく頭を下げ、ユリウスは中へと足を踏み入れる。
右手の奥にベッドが置かれ、真っ白な布団が敷かれている。その手前には本棚が立ち、学校で使う教科書や色分けされたノート、他は小説やエッセイ、それに少量の雑誌や漫画といったものが整然と並べられている。ベッドの頭の方から手の届く一には電気スタンドの載ったシンプルだがしっかりとした作りのテーブルが配置され、そちらには辞書や読みかけの本などがあった。
部屋の左側は基本的に開けてあり、丸いカーペットが敷かれてその上にクッションが転がしてあった。そして、今シュナが最も見られたくない場所、クローゼットの扉も左側だった。シュナは無意識的にその戸の前に立って遮っていた。窓はバルコニーへと続く南側、そして東側の小窓。それらの窓には落ち着いた萌黄色のチェックのカーテンで統一されていた。
ユリウスはしばらく部屋の様子をゆっくりと見回していた。シュナの額が汗で湿ってくる。ユリウスの一挙手一投足を固唾を呑んで凝視し、彼の視線がクローゼットに近づく度に肩に力が入った。やがてユリウスはシュナの願いどおりに姪の部屋の視察を終わらせて言った。
「いい部屋だ。ここに住んでいて何か不便なことはないかな?」
「いえ、なにも」
「なら結構だ。悪かったね、急に部屋に入り込んで」
くるりとユリウスは身を翻し、部屋を出ようと足を前に出す。なんとかやり過ごせたとシュナは安堵の溜息をつこうとした。その時だった。
獣の唸り声のような、あるいは鋸でも弾くような鈍い地鳴りのような音がクローゼットから漏れ、部屋中にあまねく満ち渡った。
思考がぐるんと白濁するシュナ。泣きたいような気分だった。昨夜も耳にしたこの音。カイリューの腹の虫が騒ぐ声。案の定、ユリウスもソフィアも動きをピタリと止めたと思うと、今度こそクローゼットの方へと身体を向けた。
「何の音でしょう?」
「中になにかいるんじゃないだろうね」
血の気が引いた。もうダメだ。ユリウス叔父もソフィアも今度こそクローゼットの戸の向こう側へと興味が行っていた。もうこうなれば仕方がない。なるようにしかならない。シュナは中に隠れているカイリューについて、どう説明すれば良いかを既に考え始めていた。
ユリウスが戸に伸ばす。ゴクリと苦い唾を飲み込むシュナ。
スーツの先から出ている叔父のゴツゴツとした手が戸に触れる。そして彼は手に力を込め、戸はゆっくりとその口を開き始める。
シュナは思わず目を瞑り、気持ちを天に仰がせた。
その時硬い音が廊下の方から三度響く。部屋の扉がノックされた音だ。叔父の手がピタリと止まった。
シュナは藁にもすがる思いでこの瞬間にかけた。
「どうぞ」
とっさに、しかしできるだけ丁寧に声を上げた。部屋の扉が開き、その向こうから白髪頭の初老の男が姿を現した。ユリウスと同じく上は黒のスーツに身を包んでいるが、襟先を黒い蝶ネクタイで飾り、白い手袋にねずみ色のスラックス。どれもユリウスの服装に負けず劣らず皺ひとつ見受けられず、扉から姿を現すの動作だけで洗練された流麗さを醸し出していた。
「ユリウス様、奥方からお電話がかかっております」
ゆっくりと言葉一つ一つを大切に発音するように男は言った。
ちらりとシュナは叔父を一瞥する。ユリウスの表情にサッと雲がかかったのが見え、彼女は思わずそのまま目線をあさっての方向へと泳がせた。
一つ溜息を漏らすユリウス。そしてクローゼットの戸から手を離し、スーツの襟を正した。
「分かった。出よう。どうせまたあちこち電話をして回ったのだろうな」
ユリウスは男の脇をすり抜けて部屋を出て行った。続いて初老のバトラーはソフィアに視線を刺す。
「ソフィア、君は厨房を手伝ってきなさい」
傍目から見ると穏やかそうだが、向けられた者が見るとその眼の奥に突き刺すような厳しさが滲むその視線に、ソフィアは思わず背筋を伸ばした。
「はい分かりました、ケルターさん」
「それではお嬢様、失礼しました。もう間もなく朝食も出来上がりますので」
二人の使用人はシュナに向かって深々と礼をする。後から来た男――ケルターの方がまるで機械のように動きが洗練されていた。
そして二人も扉の向こうに消え、それぞれの足音が次第に廊下の向こうへと遠のいていく。一度に三人の人間が去り、部屋の中はガランと沈黙が闊歩した。
シュナは足元へ視線を落とす。その時になってようやくシュナは足が震えていることに気づいた。へなへなとまるで風船がしぼむように力が抜けその場にへたり込む。クローゼットを横目で見やると、ユリウスが開きかけたとがそのままになっていた。その開きかけの隙間から声が聞こえた。
「もういいか」
「いいわよ」
吹き飛ばんばかりの勢いで乱暴にとが開き、中からまるで束縛から開放されたようにカイリューが背を伸ばし翼を伸ばし這い出てきた。
「ったく。せめえし腹は減るしで大変だったぜ」
アルスは部屋の中央でへたり込んでいるシュナを見て怪訝そうに首を傾げた。
「なにやってんだ?」
「誰のせいだと思ってるのよ」
それ以上何も言う気になれず、崩れ落ちるように床板に背中を預けるシュナであった。