第二話「バーンズロウ家の人々」−1
前の晩がどんな奇怪で奇天烈な夜であろうと、朝はやっぱり朝だった。太陽は東に横たわる連山の峰から顔を出し、谷間に広がるフィッツの街をあまねく照らしだす。夜の空気が風と一緒に吹き飛んだ。
のそのそと布団から這い出るシュナ。起き上がり、上に引っ張るように腕を伸ばすとベッドから降り、バルコニーへと続く窓へと向かう。サッとカーテンの駒が軽快にレールを滑った。いつのまにやらコロンも目を覚まし、モンスターボールから出ている時は寝床としている木を編んだ籠の中で大口を開けてあくびをした。
「コロン、おはよ!」
シュナがコロンに笑いかけると、コリンクはがぅんと元気よく返事をした。シュナはバルコニーへと繰り出す。ふわりと乾いたひんやりとした風が頬をなで髪の毛を揺らす。前の日に引き続き、よく晴れた空だった。輝く太陽からの朝日をいっぱいに飲み込み、目を閉じておもいっきり全身を伸ばす。体中で血液が巡り始めるのを感じた。どんなに目覚めの悪い朝であっても、この小さな儀式によって頭の中のもやもやとした霧は、大概きれいさっぱりに【霧払い】された。
気持ちのいい朝ね。あら、コロンが唸っている声が聞こえるけれどどうしたのかしら。こんなに爽やかな朝なのに。
と、シュナは手を降ろし眼を開く。そこには逆さま向きにアップされたドラゴンポケモンの顔があった。
「よう起きたか」
慌ただしいノックの音。何度か繰り返されると扉の向こうから若い使用人がひょっこりと顔を出す。
「お嬢様、いかがなさいましたか? なんだかすごい声が聞こえましたけれど」
カーテンは閉じられ、窓の向こう側に向かって睨むコロンを両足で隠しながら部屋の主は立っていた。使用人に向かっておはようの挨拶を交わし、後頭部を掻きながら歩み寄った。
「なんでもないのソフィア。ちょっと嫌な夢見ちゃっただけだから」
なんて下手なでまかせだろう、と内心苦笑しながらシュナは手を振る。
「そうなんですか」と、若い使用人――ソフィアはどことなく腑に落ちないような顔をで返す。
「ああ、悪いけどお水持ってきてくれないかな?」
実際水を一口飲んでおきたいのあったが、やはりソフィアを遠ざけるための方便である。シュナの望み通り、「かしこまりました」というお辞儀とともにソフィアは扉から離れた。シュナは静かに戸を閉め、ソフィアの足音が遠ざかっていくのを聞き届けるとほっと胸を撫で下ろす。くるりと体を百八十度翻すと大股でバルコニーの窓へと歩み一度閉じたカーテンをもう一度開いた。床から天井まである高い窓の片側ほぼ一面を占めるようにカイリュー――アルスはバルコニーに立っていた。
シュナが窓を開くとアルスはおかしなものでも見るように目を細める。
「なんだよお前、変な声出したと思ったら中に引っ込みやがって」
「なんでもいいじゃない。とにかく、中にはいって」
カイリューの片腕をしがみつくように握るとシュナは中へと引っ張った。当然ながらシュナの力程度ではカイリューの体はびくともしない。ガクンと前につんのめり危うく転倒しかけた。
そんなシュナよそ目にバルコニーと部屋との敷居をアルスは悠々と跨いだ。ミシミシと床が悲鳴を上げた。思いがけずこんな大きくて思い来客にこの家もびっくりしたことだろう。一瞬、床が抜けるのではないかとシュナは胸をひやりとさせる。しかし床板は最初の驚愕のみであとは何も言わなかった。
シュナは足元にコロンを籠ごと引き寄せ、ベッドに腰を下ろした。カイリューは窓の横の壁にもたれかかって座り込んでいた。
「狭いな」
「あなたが大きいんでしょ」
言いながら、シュナもまた改めてアルスの体の大きさに思わず目が泳いだ。大岩が歩いているようだ(実際に岩から手足が生えて歩くようなポケモンがいるというのを耳にしたことがあるが)。歩くだけならまだしも、その背中から生えた翼で自在に空を飛翔するのだから恐れ入る。
同時に、昨夜起きたことが夢でも幻でもなく、ちゃんとこの身体の五感で感じたまぎれもない現実だったのだと思い知った。
*
昨夜、あの後シュナとコロン、そしてアルスは湖を後にしたのだが、その際に困った問題が二つ生じていた。
一つはシュナが湖までやってくるのに乗ってきた自転車が使えなくなっていたことだ。ネジを外され、前輪がフレームから外れていただけで破損していたわけではない。しかし工具もないその場ではとても直せそうにはない。誰がこんなことをしたのか、その犯人の目星はついていた。襲ってきたあのサングラスの男に違いない。おそらくは万一シュナがなんとか逃げ延びて自転車まで辿り着いた時のために、乗って逃げられることの内容あらかじめネジを外したのだろう。
そしてもう一つの大きな問題。イレナたちだ。シュナは彼女らを心配するよりも先に呆れてしまった。何のためにこっそりここへやって来たのかは理解したくもないが、目星がつくだけにますます情けなくなってしまう。イレナたちは男の言っていた通り、ゴーストの【催眠術】によってぐっすりと眠りの世界へと落ち込んでいた。三人でわざわざやって来ており、お互いが寄り添い合うように横になっている。ぐるりと回りから覗き込んだところを見ると、とくに外傷は無いようでその点においてはシュナは安堵した。それから三人をどうしようかと頭をもたげる。放っておくわけにはいかず、かと言って起こせばまた面倒なことになるのは火を見るより明らかだった。
それにこれからどうやって家まで変えるかの問題も立ちはだかっている。なにせ屋敷からここまで自転車で三十分ほどかかるのだ。徒歩で帰るとしたら短く見積もっても三倍の時間がかかると見て良い。夜もふけていて、真っ暗な道を歩いて帰るのはちょっと心もとない。とりあえず自転車は茂みの奥に隠しておき、どうしようかと考えあぐねている時、横から声がかかった。
「乗るか?」
ぶっきらぼうなその言い口にシュナは一瞬男と言われたのかよく分からず、聞き返した。
「だから、俺の背に乗るかってきいてんだよ」
それでも言われてから三秒ほど要してようやくシュナは意味を理解し、ゆっくりと首をうなずかせる。同時に目を丸くした。
「わたしを乗せて空を飛ぶってこと?」
「他に背に乗ってやることでもあるのかよ」
何わけわからないこと言ってるんだコイツは、とでも言いたげな目つきでアルスは首をかしげた。
「大丈夫なの?」
「当たり前だろ。お前らくらい乗ったところでどうってことねえよ」
アルスは自信たっぷりに肩をいからせた。
ポケモンに乗って空を飛ぶ。それは世間では決して珍しいことではないが、シュナにはまるで未知のことがらだ。テレビなんかではしばしば鳥ポケモンに乗ったカメラマンが上空から地上を文字通り鳥瞰する映像が流れたりもするが、シュナにはどこか非現実的なものに思えてならなかった。ポケモンが人間を乗せて飛ぶ姿は稀に目にする。その姿に憧れたり、羨むこともあった。しかしそのためにはある程度の使い手、いわゆるトレーナーとしての熟練が必要とのこと。時々見聞きするトレーナーと呼ばれる人たちのようにバトルの「バ」の字も知らないようなシュナには土台縁のない話だった。
しかし今、そのポケモンの方から背に乗れと迫ってくる。まるでお伽話に出てくる小さな鳥ポケモンに乗って旅をする小人のお姫様のような気分だ。
――さあお姫様、どうぞ私の背中にお乗りください。あなたの行きたいお花の国まで私の翼でひとっ飛びですよ。
物語の中でそう言って背中を明け渡したのは確かスバメだったかな、それともムックルだっただろうか?
しかし、今現実にシュナの前で背に乗るよう迫るのは、そのような可愛げもメルヘンちっくさも埃粒ほどにも無いような目付きの悪いカイリューだ。ほら、今わたしが考え事して少し時間が経ったものだから、あの大きな口からまた文句が出てくるわよ。
「おい、なにボケっとしてんだよ。乗るのか乗らねえのか?」
ほらね、予想的中。
アルスはただでさえ悪い目つきを演出している目尻をますます吊り上げた。
「じゃあせっかくだから乗せてもらうね。あ、でもちょっと待ってて」
シュナは面倒くさそうに後ろを見やる。その視線の先には深い寝息をたてて眠っているイレナたちの姿。夜の空気がそろそろ凍てついてくるような時間になり始めたというのに、三人は依然として目を覚ます気配すら見せない。
「あいつらも乗せるのか?」
「いや、ここに置いて行くわ。でもさすがにこのまま放っておくのは忍びないから」
シュナは湖畔に降りるための階段を駆け上がり、その先に整備されている駐車場へと向かう。たしかここにあるはず。シュナがキョロキョロと見回すと、すぐにそれは視界の中に入った。公衆電話である。シュナは受話器を上げると、非常用外線ボタンを押しゆっくりと短いプッシュをした。
――はい、こちらフィッツ警察署通信指令センターです。いかがなされましたか?
電話の向こうでオペレーターの女性がゆっくりと、しかしきびきびとした口調で話しかける。
「すみません。ここ、ヒース湖の駐車場なんですけれど、ちょっと様子のおかしい女の子が三人いまして。ちょっと来てもらえませんか?」
出来るだけ大人の女性のような声に聞こえるよう、努めて低い声でしゃべる。
――女の子ですか。年齢はどのくらいですか?
「たぶん十四、十五くらいでしょうか」
――ではその子たちの詳しい状況について教えて下さい。
「なんだかふらふらしてたと思ったら、三人とも倒れこんじゃいまして。それからぐっすりと眠りこんで動かないんですよ」
ふらふらしていたというのは嘘だが、こう言った方が信憑性が増すかもしれないというささやかな策略だ。
――分かりました。すぐにそちらに伺いますので、最後にあなたの名前を……
シュナはそこで適当に思いついた偽名を名乗り、あとの会話を適当に流すと受話器を置いた。
「もういいのか?」
「うん。おまたせ」
ようやく承諾の返事をもらったアルスはまるで待ちくたびれたとでも言うように、大儀そうに屈み込み四つん這いになった。シュナはコロンをモンスターボールに戻す。ボールのボタン部から伸びた光が、コロンのみを包み、たちまちボールの中へと吸い込まれていく。続いてカイリューの背中を改めて視界の中央に据えた。広い、と思った。
妙に緊張するが、ここでボヤボヤしてまた声を荒らげられても面白くない。意を決してシュナはカイリューの背に足をかけた。手が翼の付け根辺りに触れる。意外だと感じたのは見た目は滑らかなカイリューの皮膚は、実際はザラザラとした肌触りで極小の鱗で全身が覆われているのだと分かる。おかげで滑ること無く思っていたよりも楽に乗ることが出来た。ちょうど座りの良いポジションに落ち着くと、アルスが首を上げて覗き込む。
「言っとくが、落ちるんじゃねえぞ。拾いに行くのがメンドーだ」
「努力するわ。そっちこそ落っこちちゃうような乱暴な飛び方はやめてね」
返事の代わりにフンと鼻を鳴らすアルス。
夜風がふわりと吹きすぎていく。草と土、そして水の匂いがそれぞれ渦巻くように融け合っていた。その風を捕まえようとするように、アルスは畳んでいた両翼を広げた。翼はしっかりと空気を掴み、ゴウという低い音とともに大きく羽ばたかれた。落ち葉や枯れ草が舞い上がり水面に生じる波紋と同じように、カイリューを中心として円形の空気の輪が描かれる。二度、三度と羽ばたきが繰り返され、そのたびに空気の輪は大きくなった。
そしてシュナはアルスの背を通して直感した。――上がる!
まさにその瞬間、カイリューの小山のような身体が地面を離れた。
思わず漏れる感嘆の声。地面を離れたカイリューの身体は羽ばたく度に少しずつ高さを増す。本当にお伽話のお姫様のような心地だ。
やがて木々が眼下に海を作り、地上にあるものがことごとく小さくなっていく。まして今夜は青白い月光の降り注ぐ満月の夜だ。世界がまるでジオラマ模型のようになっていく。湖まで来るまでにたどった道が山の斜面にそって蛇のように曲がりくねっている。その道を赤い警告灯を瞬かせながら湖畔に向けて走る車が二台ほど。
「風邪ひかない内に見つけてもらいなさいね」
地上を見下ろしながら駐車場で未だ寝息を立てているであろう三人に、シュナは言い捨てる。
「で、どこ行きゃいいんだ?」
アルスは星降る空をゆっくりと左方向に旋回しながら問いかけた。ええと、とシュナは地上をぐるりと見回す。その時山間の開けた盆地となっているあたりから、街のあかりが灯っているのが目に入った。すっかり夜もふけて明かりのついた建物は少ないが該当やまだ幾ばくかの家などから星のように光が灯っていた。
「あっちよ。フィッツっていう町なの」
身を乗り出してアルスに見えるように指差す。アルスは「へえ」と興味ないような返事をすると、翼を羽ばたかせた。ふわりとまた少し上昇するのを感じた。風に乗ったんだ、とシュナは思った。
*
昨夜のことに思いを馳せつつ、改めてシュナはカイリューをまじまじと見つめた。座っていてもやはりその高さはシュナが見上げる必要があるほどである。切れ長の目は好意的に言えば勇ましいとも取れるのだが、シュナにとっての感想はハッキリ言えば「目付きが悪い」である。そういえば……、とシュナはずっと前にポケモンの百科事典か何かでカイリューのページを見たことがあったのを思い出した。とは言え、適当にパラパラと目を通したに過ぎなかったので種族の詳細な解説は言わずもがな、どんな技が使えるかとか、経金的な大きさや体重なども何一つ記憶に留めていない。ただそこに掲載されていた容姿だけは憶えている。その写真のカイリューは今自分の目の前に座るカイリューよりもずっと優しくて愛らしい目をしていた。そう、このアルスとはまるで真反対な。というよりも、アルスのほうが真反対なのだろう。
「なんだよ、俺の顔になんかついてるのか?」
「いや、なんでもない」
シュナは小さく手を振る。
「なあ、なんでもいいが腹が減ったんだよ。お前言ったよな、『食べ物くらいいくらでもある』って」
アルスは催促するように腹をさすった。
「分かってるわ。もうすぐソフィアが来るか……あっ」
なんてまぬけなシュナ! 心のなかで叫んだ。そう、さっき自分はソフィアになんと言ったか。「お水を持ってきてくれないかな」何を呑気にカイリューと話しているんだろう。もう間もなくソフィアが戻ってくる。もしソフィアにアルスを見られたら、彼女になんと説明すればいいのか。
思っているソバから部屋の外より規則正しい足音とワゴンを転がす音が近づいてきた。シュナは弾けるように立ち上がる。すぐにちょうどよい場所が目に止まり、跳びつくようにその場所への扉を握り、そして開けた。
「ちょっとここに入ってて」
シュナは相手がカイリューであることを忘れたようにぞんざいにアルスを立たせ、扉の向こうへと押しやる。
「なんだよ、おい」
「いいから早く」
アルスは転がり込むようにクローゼットの中へと追い立てられた。
シュナに一言文句を言ってやろうと口を開こうとするが、それよりも早くシュナが顔をぐっと近づけ指を立てた。
「お願いだからわたしが『いい』と言うまで絶対に音を立てないで」
懇願するようにそれだけ言うとシュナはピシャリとクローゼットの戸を閉ざした。クローゼットとは言うが、中は物置も兼ねておりうまく屈み込めばカイリューも十分に入れるほどの広さは確保されているはずだった。少し窮屈を強いるのであるが。
足音がほとんど部屋の扉の前まで近づいた。おや――とシュナはわずかに首を傾げた。ソフィアの足音とは別にもう一人別の足音が聞こえる。誰だろうと考える日間もなく、ゆっくりとしたリズムで扉が三度ノックされた。
「お嬢様、お水お待たせしました」
はぁいと返事するかたわら、クローゼットに一瞥を投げどうか物音を立ててくれるなと念じた。扉へ近づいた時、ひらりとコロンが籠から降りてシュナの足元にぴたりとくっつく。ノブに手をかけ、開くと間もなくソフィアと、水差しとグラスの載ったワゴンが扉の隙間から現れた。
「申し訳ありません。少し時間がかかってしまいまして」
そう言ってソフィアはペコリと頭を深く下げた。そういえばただ水を持ってくるにしては妙に時間がかかったように思える。そして頭を上げたソフィアの表情はなんとなく堅い。なぜ、という疑問は氷解するのに時間はかからなかった。扉を開ききると、ソフィアの後ろにもう一人別の人物が立っていることに気づく。その人物の顔を見上げた瞬間、シュナは息が詰まった。
その人物はスラリと背が高く、背筋が竹の棒で出来ているかのように足先から顱頂に至るまでまっすぐに立ち、糊の効いたクロのスーツがさらにそれを際立たせていた。浅黒い顔には壮年期に入っていることを示す皺やシミが見受けられる。オールバックに固められた髪の毛にも白いものがちらほらと見受けられた。しかしそれらは彼の頑強さを少しも損なうことなく、むしろ年齢による貫禄と相まって見事な調和を醸し出していた。
「久方ぶりだね、シュナ」
穏やかだが芯のしっかりした威圧的な声だった。シュナは気圧されるように後退り、こくりと頷きつつ返事する。
「こちらこそお久しぶりです。ユリウス叔父さま」
ギラリと男の目が鋭く光った。シュナはその視線から無意識的に逃れようと思わず目をそらした。
男の名はユリウス・バーンズロウ。シュナの叔父であった。