第一話−4
今夜という夜はどういった運命の元に用意されていた夜なのだろう。
シュナは両の目の焦点もまちまち、顎の神経が無くなってしまったように空いた口が塞がらなかった。
ちょっと待って、たんま、ストップ。さっきからいろんなことが起きすぎたせいで耳が腐っちゃったのかしら?
それともこの場にまだ知らない誰かがいるのか。シュナはきょろきょろと周囲を見回す。しかし辺りはさっきまでの大騒動が嘘であったかのように文字通り森閑とした空気に支配されていた。シュナと、コロン
と、そして眼前で少女をじろりと睨むドラゴンポケモン、カイリューだけだった。切れ長な両目から発せられる視線は威圧的で怖気づいてしまいそうだ。しかし不思議と何か危害を加えられるような恐怖は覚えなかった。
なかなか口を開かないシュナに業を煮やしたのか、カイリューはさらにズイっと一歩シュナに詰め寄った。
「お前、誰なんだよ」
その時コロンがシュナの足元で低い唸り声を絞った。明らかにカイリューに対して敵意を剥きだしている。シュナはもしコロンがカイリューに果敢に跳びかかりでもしたら、という危懼でようやく夢現な状態から解き放たれる。そしてコロンをなだめつつ、唾をごくりと飲み込むと、ようやく口を開いた。
「わたしは……シュナって言うの。そしてこの子はコリンクでコロンって名前」
あれこれ考えても仕方がない。やはりこのカイリューが人間の言葉を喋ったのだ。喋ったからにはしょうがない、質問に答えない訳にはいかない、そんな考えだった。
「さっきはありがとう。危ないところを助けてくれて」
これは素直な気持ちだった。実際このカイリューが居なかったらいったいあの後自分がどうなっていたか、想像もしたくない。
ところがカイリューは今のシュナの言葉がまるで聞こえなかったかのように、じっと穴が空くように依然として睨んでくる。
「シュナっていうのか?」
低い声で問われ、シュナは黙って頷いた。
「どこかで会ったことないか?」
今度は首を横に振った。どういう意味でそんな質問を投げかけてくるのか、胸中をはかりかねた。
「会うも何も、わたしはカイリューなんて初めて見るんだから」
そしてカイリューは「そうか」とぶっきらぼうに返すと、黙って首を傾げて考えこむような仕草を見せた。太い両腕を組んで、人間の言葉をしゃべっているせいもあって妙に人間臭く映った。
足元で唸り声がする。コロンはまだ全身の体毛を逆立てていた。シュナは腰を降ろして、コロンを逆立った体毛をそっと寝かせるように撫で、そっと抱きかかえた。
そしておずおずとカイリューの顔をのぞき込んだ。
「ねえ」
「なんだ」
カイリューの目が細く開いた瞼の奥でぎらりと光った。
「あなたはどこから来たの? それにどうして人間の言葉を話せるのかな」
「ん……」
するとカイリューは自分の頭に手を当てる。そしてそのままのポーズでカチンと固まったように身じろぎもしない。月が出ているとはいえ、木々の葉に遮られてその表情は見えなかった。
ひときわ強い風が吹き過ぎていく。黒黒とした森がユクリと体を蠢かせ、大気が咆哮を上げた。その時、揺れた木々の間から月の光が溢れ、カイリューの顔にまるでスポットを当てるように照らした。
カイリューは驚くような、困ったような色をその顔に滲ませていた。
「分からねえ」
えっ、と思わずシュナはそう返してしまう。
「思い出せねえんだよ」
「それってひょっとすると、記憶喪失ってやつ?」
「キオク……なんだって?」
「記憶喪失よ。自分が誰だとか、どこに住んでいたか、誰を知っているとかを全部忘れちゃうことよ」
いろんな事が次々と起こるせいか、シュナはカイリューが喋ることに比べれば記憶喪失があまり大した事のないように思えた。しかしすぐに頭を振って全然そんなことないと考え直す。
なんて自分は無神経なんだろう。シュナは自分が軽々と口にしたことに慄然とした。相手が陥っている状況をハッキリと口にしてしまうなんて。これで相手が気にしてしまったら……。思わず口を手で覆った。
しかしシュナのそんな不安を他所にカイリューは妙にあっけらかんとした。
「そうか。俺、キオクソーシツってやつなんだな」
シュナは面食らった。まるで肩透かしでも食らったような気分になる。
「ねえ君、もっと驚いてもいいと思うんだけど。だって何も憶えていないって大変なことだと思うんだけど」
「んなこと言ったって思い出せねえことをいつまでも考えたってしょうがねえだろ」
なんという性格だろうとシュナは目をクルクルさせた。ポケモンである故なのか、それともこのカイリューの固有の性格のなせる技なのか。驚くやら呆れるやら、シュナは心配したことがバカバカしく感じた。
その時、カイリューが再びシュナをぎろりと睨みつけた。威圧的で気圧されるような感じは先程よりは影を潜めたものの、やはりこう何度も睨まれるのはあまりいい気分とは言えない。
「シュナとか言ったか。お前、本当に俺と会ったことないんだな」
「ええ、そうよ。ねえ、どうしてそんなにわたしに会ったかどうかが気になるの?」
シュナの問いにカイリューはすぐには答えなかった。カイリュー自身なぜ目の前の人間の少女と会ったことがあるかどうかが問題であるのか、いまいち理解できていないようだった。カイリューは鼻先を軽く掻く。ハッとするほど鋭く光る爪で器用に掻く姿を目にするのはなんともハラハラした。
十秒ほど沈黙が流れた所でようやくカイリューは口を開く。探しているものの手がかりの切れ端をようやく探し当てたように。
「誰かに似てる気がするんだ」
「『誰か』って誰に?」
「それが分かりゃ苦労しねえよ」
でもそれは少なくともわたしじゃないと思う。という考えをシュナは口には出さず、そのまま喉の奥へとしまいこんだ。実際今までの自分の記憶の箱をどうひっくり返して中身を掻き出そうとも、カイリューと直接会うのはこれが初めてだし、進化前だというポケモン(たしかミニリュウとハクリューとかいう種だったかな?)もやはり同じだった。カイリューを連れているような知り合いにも憶えがない。
その時になってようやくシュナは、このカイリューが今さっき会ったニーアと名乗った見知らぬ女によってこの場に出現させたことを思い出す。何もない所から現れ、どこへともなく消え去った。まるで夢でも見ていたようだが、目の前にいるこのカイリューがあの女の存在が確かなものだったと何よりも証明していた。
「ねえ、ニーアって知ってる?」
「なんだそれ?」
「ええっと、黒い服を着て、背がスッと高くて、……それから黒い帽子をかぶった人間――だと思う女の人」
カイリューは再びを腕を組み、十秒ばかり首を傾げる。しかしやがて振った首の方向は横だった。
「知らん。そいつがどうかしたのか?」
その時シュナは胸の内に小さな火傷のような戸惑いが走った。
「ううん、なんでもないの。分からないのならいいわ」
シュナは小さく一歩下がってかぶりを振る。コロンが腕の中でこちらを見上げるのが分かった。きっと自分が嘘をついたのだと気づいたのだろう。ニーアがカイリューを何もない宙空から突如として出現させたかと思うと、沈むように消えていったあの状況をどう説明すればいいか、シュナ自身さっぱり理解できていなかったからだ。
そろそろ腕が痛くなり始め、シュナはコロンを優しく降ろした。コロンはもうすっかりうなり声をひそめ、逆立てていた体毛も収めていた。しかしカイリューに対してはまだ心を許していないところがあるらしく、小さな抗議としてそっぽを向いていた。シュナはそんなコリンクに何も言わずにただ静かに微笑むだけだった。そしてシュナはコロンからカイリューへと視線を滑らせる。
「ねえ君、これからどうするつもり?」
「さあ、どうすっかなあ」
カイリューはふと空をみあげてポツリと返した。シュナがその視線の先をなんとなく追いかけると、夜空に浮かぶ丸い月があった。しかし実際に月を見上げているのか、それともどこか別の、遠い場所を見つめているのかは知れない。
「やっぱり本当に何も思い出せないのね」
「そうだな」
そんな返事をふられた時、急にシュナは胸の奥に痛みが走ったような気分になった。実際に痛みを感じたように胸に握りこぶしをぶつける。何も憶えていない、何も思い出せないという者に向かって質問ばかり投げかける自分が、無神経で浅ましく思えた。シュナは思わず知らず「ごめんね」という言葉を漏らしていた。
「何も思い出せないのに、いろいろ質問攻めにして」
「なんでそんなことで謝ってんだよ」
カイリューは本当に不思議そうに目を白黒させて人間の少女を見下ろした。
「だってさっきからわたしったら、無神経にあれこれ言ったりしてさ」
思わず目をそらす。それを誤魔化すように膝をかがめてコロンの背に手のひらを滑らせた。数秒の間、風の音しか聞こえてこなかった。
やがてカイリューは首を傾げたまま言った。
「お前、ヘンなことで謝るんだな」
「ヘンってそんな――」
なぜかムッとした。わずかに湧き起こった反感を口に続けようとしたその時、岩と岩とが擦れ合うような、低い唸るような声が鼓膜を震わせた。
「なに今の?」
反射のようにシュナは身構える。また何かが近くに潜んでいるのかと胸をどぎまぎさせた。ところが次いでカイリューの大きな顔がヌッと迫る。
「腹がへった。なんか食うもんあるか?」
急に何を言い出すのかと思わず言葉に窮した。しかしすぐに今の音の正体をつかむ。それはカイリューの腹の虫の鳴き声。歩いていもないのにシュナはすべって転んでしまうかと思った。思わず見上げたカイリューの顔は月明かりのもとでぼんやりと青白く映った。その目は真剣だった。
そう思った途端、急に可笑しくなった。可笑しくなるなんておかしいな。ついさっき自分への反省でちょっと暗い気持ちになってたはずなのに。
しかしそうして抑えようとすればするほど、そして直前まで気持ちが沈んでいればいるほど、笑いはまるで噴火のようにのどの奥に溜め込まれ、やがて爆発した。
静かな湖畔で急に響いた黄色い笑い声に、周囲の木々の枕で眠っていた鳥ポケモンが逃げるように飛び立った。
今のがっ――お腹がっ――鳴る音だなんて――
ようやく笑いが収まった時には、沈んだ気持ちはどこへやら。なんだか馬鹿馬鹿しくなってシュナは言った。
「それならわたしの家に来たら? 食べ物くらいならいくらでもあると思うよ」
「ホントか?」
カイリューの顔がパッと輝いたように見えた。切れ長で鋭い目が幾らか丸みを帯びる。自分をさっきの男から助けてくれたこともあり、そして今思いっきり笑ったことも手伝って、シュナの中からはカイリューに対する警戒心はきれいさっぱり消え去っていた。このカイリューについて気になること、わからないことは山ほどあるが、難しいことは後に回して今夜はもう早く帰りたいという気持ちが心中を席捲しつつあった。この先どうするかも明日になってから考えても遅くはあるまい。
「じゃあ、一緒に来て――」
続けるべき言葉に空白があることに気づき、シュナは口をつぐむ。
カイリューのことをなんと呼ぶべきだろうか? 「君」とか「あなた」というのではなんだか他所他所しい。かと言って結構多くの人たちが使っている、ポケモンをその種族の名で呼ぶ――例えばこれはカイリューだから「カイリュー」と呼ぶ――のは人間を「ニンゲン」と呼ぶのと同じような気がしてシュナは好きではなかった。
名前。そう、名前だ。
「ねえ、君のことはなんと呼べばいいのかしら?」
「どういうことだ?」
「名前よ、名前。誰かから君だけの呼び方で呼ばれたこととかなかった? 例えばわたしはこの子をこの子だけの名前、『コロン』と呼んでる」
シュナはもう一度コロンを抱き上げ、見せるように前へと出した。コロンと言えばこのカイリューに対してどうしても反感のようなものを感じているらしく、わざと目を合わせようとしなかった。
「ごめんもう一つだけ訊くわ。本当に何も思い出せない? なんでもいいの、ふと頭に思いついた言葉とか」
巻き尺がないと測れないほどの身長差で、シュナはカイリューに顔を近づけた。案の定まるで届いていないが、シュナの勢いに気圧されたのかカイリューは小さくたじろいだ。促されてかカイリューは、再び腕を組み首を傾げる。この仕草はこのカイリューが考え事をするときの癖なのかもしれない。うんうんと頭をひねること二十秒近く。
突然カイリューはピタリと石のように動きを止める。ふわりと周囲が明るくなった気がした。月の傾き具合のせいだろうか、湖面に反射する月光が林の奥まで届き、上と下の両方から光が包み込むのだ。
「――アルス」
天啓を受けたように、その言葉はカイリューの口からこぼれた。カイリューが言ったというよりも、言葉がカイリューの口から現れた、と表現するほうが正しいように感じた。
「アルス」
シュナは今しがた耳にした言葉を一音一音確かめるようにゆっくりと復唱する。
「それが君の名前?」
しかしカイリューはかぶりを振った。
「分からねえ。でも今、なんか頭ん中で急に出てきたんだ」
「意味とかは分からない?」
「知らん」
ぴしゃりとはねつける。
「そっかあ。じゃあアルスって呼ぶね。君の名前はアルス。うん、素敵な名前よ」
――そうよ。だからこの言葉はあなたの胸の奥でしっかり握っていなさい。
え? ……。いつか聞いた声。それは頭の片隅にほんの一瞬、閃光のように過った。そして流れ星のように、もう浮かんでこなかった。
なんだったんだろう、今の感じは。
しかしそれ以上の思索はカイリューから帰ってきた言葉によって断ち切られた。
「アルスか。いいな、じゃあそう呼んでくれ」