第一話−3
幽霊、と言うには女の姿には明らかな実体が感じられた。背丈は先ほどの男と比べれば幾分低いがそれでもシュナよりは高く、女の顔を見るにはシュナは軽く首を上げなければならなかった。先程から日常とはとても思えないような事態が続いているせいか、シュナはおもむろに発せられた女の言葉に「『僥倖』ってどんな意味だったっけ」とこの場にそぐわないようなことを頭に浮かべるのだった。
シュナが返事せぬ内に、そもそも返事など最初から待っていなかったように女は再び口を開いた。
「どうやら、なかなかに危ないことになっているようだな」
ドキンの胸を軽くつかれた。思わず驚きの声が漏れる。足元のコロンが警戒の唸り声を上げる。女はコリンクのことなど最初から視界に入っていないかのように続けた。
「ちょうどいい時に約束が果たせる」
「約束?」
シュナはいったいこの女は何の話をしているのか、全くとっかかりが掴めなかった。イレナが言っていた青白い光とともに現れたこの女性こそが、噂の湖の幽霊の正体であることは疑う余地もなかった。しかし、幽霊の正体であるこの女は、まるで自分に会うことが目的だったような話をする。シュナは頭がぐるぐるとしながらもそのことを口にした。
「約束って何ですか。わたし、あなたのことなんて知らない」
「お前との約束ではない」
それ以上の説明は無用であるとでも言うように女はピシャリとはねつけた。そして女は片手を肩より少し上の位置にまで持ってくると、人差し指を立ててくるんとまるで空気を混ぜるような仕草を見せた。
その時、背後で木が激しく揺さぶられる音がした。木の中で休んでいた鳥達が強起するとともに一斉に飛び立った。慌てて振り向くと、ついさっき根本で座り込んでいた木の上に、夜闇を切り取ったように黄色く輝く巨大な蜘蛛が太い枝に糸を巻き付けてぶら下がっていた。蜘蛛は二つの大きな目とその間にある四つの小さな目を一つ残らずシュナの方へと向けていた。
「なにあれ?」
「ほう、デンチュラだな」
デンチュラは糸を伸ばして体を地面に降ろすと、体の節々をまるで機械のように動かす不気味な音を立てながらこちらへと近づきはじめた。
「かえって好都合だ。彼にはいい目覚ましになるだろう」
また一体何を分けのわからないことを、と思ってシュナは女のほうに向き直ろうとした。そのとき再び青白い光が溢れキィンと耳を突く高音が響いた。シュナは思わず手で目を覆う。やがて光は女が現れた時のように小さく収斂し消え去った。そしてシュナはここに来てさらに非現実的な一幕を目にする。
女の横、つい今までそこには何もなかった。しかし、今そこに浮かぶのは それは二メートルを裕に越す巨大なカプセル。いや、というより寧ろ卵と言った方が印象的には正しいかも知れない。その卵は黒く半透明で中に入っている"それ"の輪郭をハッキリと映し出していた。卵はよく見ると、不思議な文字のようなものが周囲に纏っていた。見たことのない文字だ。一つ一つ形が違うものの、全て文字に共通する特徴があった。それはどれも目のような大きな丸が描かれて、そこから線が伸びているのだった。
その卵の中にポケモンはいた。巨大な岩を思わせるような巨体を持ち、卵の中でまるで胎児のような体勢で丸まっており、眠っているらしく体躯には力は感じられず瞼は閉じられていた。背中から生えている特徴的な巨大な翼も小さく器用に閉じられていた。
「これは……」
「見ての通り、カイリューだ」
「カイリュー……」
聞いたことはあるが、実際この目で見るのは初めてだった。
「伏せろ」
まるで紙に書かれた文字を読むようなぶっきらぼうな声だったために、シュナは一瞬きょとんとした。その時コリンクが大きくひとつ吠えてシュナは後ろを振り向いた。デンチュラが四本の足で器用に跳び上がり、こちらに向かってその牙を振り上げる。思わずコロンを抱き寄せるように伏せるシュナ。だがその時、女が手で軽く振り払うような動作をすると次の瞬間、何が起こったのかデンチュラの体がふわりと動きを止め、何が何やら理解せぬ内に大きく跳ね飛ばされた。デンチュラは夜空に大きく放物線を描いて、元来た小道も越えて木々の向こうに落ちていった。
シュナが呆気にとられて何も言えずに居る所に、女は続けて言った。
「私からの手出しはこれまでだ」
パリン、とまるでガラスが割れるような音が響く。女のほうに向き直るとカイリューの体を覆っていた卵の殻のようなものが粉々に砕けていた。そのとき、再びカイリューが現れた時に響いたキィンという音がシュナ耳を聾した。すると音に紛れて不思議なのようなものが聞こえる。その音の中で何かたくさんの叫びのような声を聞いた気がした。
そしてカイリューは支えを失ったように地面に力なく崩れ落ち、胎児のような姿勢のまま横向きに倒れこんだ。
「あとはお前たち次第」
女はまずカイリューに、そして続いてシュナに視線を移しながらさながら演説の口上のように言った。
「これからお前たちが困難にどう向き合い、対処していくか、楽しませてもらうぞ」
「ちょっと待って、あなたさっきから何を言ってるの? 全然わかんない、説明してよ」
シュナはこれ以上の我慢ができず、女に食って掛かる。 そのとき女が見せた表情にシュナは思わず息が詰まった。感情がないような、あるいはひたすら事務的だった女の顔に、何か柔和で温容な色が宿ったように見えた。女の目は相変わらず月の光を遮るつばの広い帽子の影で見えない、しかし確かにそう感じた。それはまるで近しく親しい者の行く末を憂慮するような……。
「こういう時、どんな声をかければいいやら」
誰にともなく女はポツリと漏らすと、くるんと再び中空で指を回した。すると何か小さく黒いものが上空から降ってきた。それも一つや二つではない、何十、三桁にも手が届いて余りある数だ。そして黒く小さな物体の群れは女の周囲を囲い込むように飛び回り始めた。根拠はないが、シュナは女が間もなくここから姿を消そうとしているんだと思った。果たしてそのとおりだった。女の周りを浮遊していた物体は、再び噂の中にあった青白い光を放つと、足元の方から女とともに消え始めた。
「待って!」
「案ずるな。これから何度も会うことになるだろうからな」
女の姿がもう腹のあたりまで消えかかっていた。思わず知らず手が伸びた。いったい全体何が起きているのか、何をしようとしているのか、訊きたいことは山ほどあった。その幾つもの問いが頭のなかでミキサーに掛けられ、最後に残った問いがシュナの口から発せられた。
「あなたは……誰?」
意外だと思ったのか、女の口が一瞬小さく開いた。しかしそれはまた無機質な笑みにかき消され、やがて女は言った。
「私はニーア。また会おう、シュナ――」
最後まで言い終えぬ内に、ついに女の姿は光の最後の一片とともに消えて無くなった。最初からそこには誰も居なかったかのようにぽっかりとした空間が広がった。
シュナは芯棒を失ったかのように冷たい土の上にへたり込んだ。たった今までのことが現実だったのか夢だったのか判断がつかなかった。頭がぼんやりとして眼の焦点がうまく合わなかった。いつの間にやら上向きになっていた視線を次第に地面の方へと降ろす。そしてやがて視界に侵入してきたものに気づき、ドキリと肩を震わせた。確かに今のは現実だったのだ。
地面の上に丸まって目を閉じている小山があった。頭から二本の触覚のようなものが生えている。背中から小さく折りたたまれた翼が生えている。太い腕の先、足の先から鋭い爪が光っている。丸い鼻面に首から腹、尻尾の先まで続く蛇腹。そして全身を覆う薄褐色。ああ、間違いない。やっぱりさっきのは現実だったんだ。
カイリューがいた。
呆然としているシュナの元からコロンが飛び出し、眼前に横たわるドラゴンポケモンの周りをうろうろと探った。少し近づいては鼻を近づたり、前足でチョンと触れたりする。よく目を凝らすと一定のリズムで身体がわずかに上下していた。生きている、とシュナは思った。
するとその時、小山がぐらりと揺れびっくりとしたコロンは思わず主のもとへと駆け戻る。シュナも胸が高鳴る。コロンを抱きかかえ、まだ足元が浮遊感にとらわれながらも立ち上がる。
そしてカイリューの両の瞼がゆっくりと開いた。
思わず後ずさったシュナは、ドンと背中を後ろにあった木にぶつける。カイリューは低い声とともにまるで周囲の空気を全部吸い込むかのように大きなあくびをすると、ゆっくりと座った体勢で上体を起こした。まだ寝ぼけまなこらしく、両の瞼はとろんと開ききっていない。後ろから背中を押してやったら倒れこんで再び眠ってしまいそうだ。
シュナはなぜか音を立ててはいけないと思い、その場で動けずにいた。カイリューはうつらうつらと頭が揺れ、まだシュナたちの存在に気づいていない。どうしよう声をかけるべきだろうか、とシュナは逡巡する。
そのとき、シュナの後方より何かが蠢く音を立てた。振り向くと同時に、何かが眼前に迫った。シュナは小さく悲鳴を上げ、バランスを崩して後ろに倒れこむ。結果的にそれが吉となった。高速で迫っていたそれは寸での所でシュナの頭上を通過する。そして反対側に立っていた木の幹へとぶつかった。見上げると、それは黄色く光を帯びた蜘蛛の糸だった。糸は時折ピリピリと細かい稲妻を放出する。触れれば冬の日に静電気に弾かれるようなものではおさまらないことは明らかだった。シュナは自分を取り巻くもう一つの重要事項をようやく思い出すのだった。ニーアと名乗った女からのあまりの常軌を逸した出来事の連続ですっかり意識の外に追いやられていたが、自分は追われているのだ。
コロンがシュナの腕の中から飛び出す。すると茂みからまた隣の茂みへとデンチュラは高速で移動する、後ろから【エレキネット】を引きながら。そうしてシュナたちの周囲を半径にしておよそ七メートルほどの囲いが形作られた。電気の糸はシュナの背丈から、くぐるのにも上を越えるのにも難儀しそうな絶妙な高さに張られている。
そうして囲いを完成させて得意げとなっているデンチュラの隣に、いつの間にやらあの長身の男がゴーストを侍らせて立っていた。その手にはシュナが逃げる際に落とした懐中電灯が握られていた。
「忘れ物だよ」
男はニコリと口角を上げ、手に持った懐中電灯をシュナに向かって放る。懐中電灯はくるくると回転しながらシュナの足元に転がった。
「さあ、大人しくこっちに来てもらえないかなあ、シュナ・バーンズロウ」
男は変わらず軽い口調で馴れ馴れしく話しかける。しかしシュナは賭けてもいいと思った、そのサングラスの下に隠された目は決して笑っていない、と。
「わたしを連れて、いったいどうするつもり」
精一杯気丈に振る舞ってシュナは訊いた。
「俺は別にどうともしないよ。ただ、人に頼まれただけだから」
「じゃあ、その人って誰?」
「悪いがそれは会ってからじゃないと。俺の口からはちょっと教えられないな」
男は肩をすくめた。
いったい誰がこの男をけしかけて自分に会おうとしているのかシュナには見当がつかない。しかしこんな手荒な手段で自分を連れ去ろうとしていることからして、真っ当な目的があってのこととはとても考えられなかった。
シュナが何も答えられずに黙っていると、男は呆れるように一つ溜息を漏らした。
「まあ、この際君にその気が無くとも、来てもらうけどね」
そして男はサングラスの下からゴーストへ目で合図する。ゴーストは心得たとばかりに裂けそうなほどに大きな口を吊り上げると、片方の手を閉じていた状態から蕾が膨らむように広げた。すると耳の奥から何か音が聞こえ始めた。それはまるでどこからか聞こえてくるのではなく、直接鼓膜を震わせているような奇妙な感覚。右耳と左耳とで微妙に音の高さが異なる音叉を鳴らしているような。それが数秒続いたかと思うと、突如シュナはまぶたが急激に重くなっていくのを感じる。【催眠術】だ、と気づくのに大した思考は必要なかった。体の力が風船がしぼむように抜けておもりを背負わされたかのように体が重い。イレナたちもこうやっていつの間にやら眠らされたのかもしれない。このままでは何らの抵抗もすることなく、男の手に落ちてしまう。
だがそう思った矢先、物陰から飛び出し、ゴーストに迫るものがある。コロンだった。コロンは体中に電気を纏い、そのエネルギーとともにゴーストへ体当たりをかました。不意をつかれて後方へと弾き飛ばされるゴースト。そしてシュナは自身を襲っていた猛烈な眠気から解放される。【催眠術】が途切れたのだ。よろめいて何とか体のバランスを保ち、頭をぶるぶるとふるった。そうして顔を上げたその時、ふらついたことで体の向きが変わっていたのか。
カイリューと目が合った。
カイリューはまだ意識がはっきりしていないらしく、まぶたも半開きだった。しかしシュナと目が合った瞬間、その眼に何か小さな光が宿る。シュナにはそう見えた。時間にして一秒にも満たない瞬き二回ほどの間だっただろう。いったいどうしたんだろう、とシュナは考えたが、すぐにその思考はかき消される。
ギャン、とコリンクの悲鳴が耳に入り、思わずシュナはコロンが突進していった方向へと視線を移した。同時に、地面に体を擦りながらコロンがシュナの足元へと転がってくる。コロンの名を叫び、シュナは駆け寄った。しかし手を触れようとした瞬間、パチンと鋭い衝撃が指先を弾いた。
「あッ」
よく見るとコロンの体にはデンチュラの【エレキネット】が絡まっていた。糸から続く放電でコロンは苦しそうにもがいている。
「悪いが、依頼はあくまで君を連れて来い、とのことなんでね」
男は冷たく言い放った。その言葉の意味をシュナが考える間もなく、デンチュラが再びコリンクに向かって【エレキネット】を飛ばす。男のデンチュラの攻撃は強力だった。たったこれだけの糸が絡まっているだけでも、同じ電気タイプのはずのコロンがこんなに苦しそうにしている。それに加えてこれ以上の糸がこの子を絡めてしまえば、いったいどうなってしまうのか。シュナは自身への危険を省みる暇もなく、コロンへと覆いかぶさって叫んだ。
「やめて――!」
刹那、鋭い放電の音が鳴り渡る。
シュナは体のしびれを感じる。最初はきっとデンチュラの攻撃を自分が受けてしまったのだと思い、目を開けられないでいた。しかし一秒、また一秒と時間が経つに連れて違和感を覚える。しびれは予想していたものよりずっと弱いものだった上、どうやら自分の腕の下から感じる。そして気づく。それはコロンに絡んでいた糸によるものであった。確かに強力な放電だったが、コロンへの放電で糸そのものが含む電気はだいぶ弱まっていたのだ。では、今デンチュラから放たれた糸は? シュナはおずおずと顔を上げると、何かに視界を遮られた。たった今までこんなところに壁なんて無かったはずなのに……?
壁? いや、違う。それは背中だった。口がぽかんと開いた。カイリューがシュナとコロンの前に立っている。デンチュラの【エレキネット】をカイリューは片腕で受け止めていた。あまりの突然の出来事にシュナもコロンもデンチュラも、そして長身の男さえも呆然と固まっていた。糸からの放電でカイリューはわずかに顔を歪めていた。
しかし次の瞬間、その両のまぶたが勢い良く開いた。もう一方の手でカイリューは糸をつかみ、それを渾身の力で引き寄せる。糸はデンチュラへと一直線にピンと張り、まだ口から糸を切断していなかったデンチュラは勢い良く引っ張られて体が宙に浮いた。そのとき最初に男が我に返り、デンチュラに叫んだ。
「糸を切れ、【シグナルビーム】だ!」
デンチュラは優秀で、すぐに口から糸を切ると【シグナルビーム】を撃つべく体勢を整えようとした。しかしそれよりもカイリューが早い。どちらにせよ引っ張られたエネルギーによってデンチュラはその勢いを止めることが出来ない。そして構えようとした瞬間、カイリューの頭がデンチュラの六つの目玉のすぐ前にあった。響く硬い音、弾ける火花。デンチュラはカイリューからの頭突きをまともに受けた。ぐるんと白濁する意識。そのままデンチュラの体は見事な放物線を描き夜空を舞うと、男のすぐ後ろの地面に転がり、そのまま動かなくなった。常に飄々と笑っているようだった男の顔が初めて狼狽に歪んだ。
「おいおい、こんな隠し球がいるとは聞いてないぜ」
一方のシュナはようやく我に返る。いったいなにが起きているのか分からないけれど、あのカイリューは確かに今、自分を守った。なぜ、と思いつつもこの機にコロンのまとわりついた糸の残りを剥がした。
「ゴースト、【影分身】だ」
男の声に応じて、ゴーストの体が二つ、三つと分かれる。最終的に本体を含め、六体のゴーストがカイリューの周囲を取り囲んだ。ゴーストとその分身は付かず離れずの距離を維持してカイリューの周囲をまるでメリーゴーラウンドのように回る。カイリューは至極落ち着いているようだが、ちらちらと目線を動かしている。やはりどれが本体が分かっていないのだ。
いけない、とシュナは感じる。何か手助けできることはないだろうか。そう思った矢先、足先が何かに触れた。さっき男から投げ渡された懐中電灯だ。シュナは思わずそれを手に取る、果たしてそれでポケモンの【影分身】を破れるだろうかとは考えずに。確かこの懐中電灯には照射範囲の調整機能がついているはず。シュナは照射範囲を最大にし、スイッチを押す。が、懐中電灯はなんの反応も示さず、電球は暗い様子を保ったままだ。先に気づくべきだった。男から返される前に比べて懐中電灯は中身が抜けたように軽くなっている。いや、実際そのとおり、シュナが後ろの蓋を開けると電池が抜かれていた。
「さて、君にも眠ってもらおうか。ゴースト、【催眠術】だ」
ゴーストと分身たちはメリーゴーラウンドのような動きをピタリと止めると、中心のカイリューに向かって腕を開いた。しかしそれは次の瞬間だった。
昼間の太陽の如き眩しい光が、カイリューとゴーストたちを呑み込んだ。それは時間にしてほんの二秒にも満たなかった。間もなくボンッと何かが破裂する音と同時にその太陽のような光は消えた。
「後ろよ! あなたの右後ろ!」
その声に導かれるように、カイリューは素早く振り向く。その方向にいて目が合ったゴーストは明らかな狼狽の色を見せる。間違いない、これが本体だ。ゴーストはこうなれば、と【シャドーボール】をぶつけようと構える。が、その刹那目の前にカイリューの拳のように握られたカイリューの右手が迫っていた。
顔面にめり込むこと数センチ。その一瞬が過ぎ去った時、ゴーストはまるでレール上を走るように一直線に吹き飛び、その先に合った木にまともにぶつかると、地面に崩れ落ちた。
男は繰り広げられた光景に目を疑うが、すぐに冷静さを取り戻し、ゴーストをモンスターボールに戻した。
「まったく油断しちゃったな。君に懐中電灯を返したのは失敗だったね。第一、まさかこんな大きな用心棒くんがいるとは」
男は参ったと言わんばかりに片方の手首を頭に当てて首を振り、溜息一つ漏らす。
「いや、今日のところは降参だよ。大人しく尻尾を巻いて引き下がるとしよう。じゃあ、またそのうち」
そしてくるりと背を向けると、片方の手をポケットにもう片方を別れの挨拶のように頭の上に挙げながら夜の林の奥へと消えていった。足音が遠ざかっていく。
脅威は去った。湖畔の林に元の静けさが帰ってくる。よろよろとシュナは力なくその場に座り込んだ。腕に抱きかかえたコロンのしっぽが懐中電灯の電池パックの中に突っ込まれている。電球は中からはじけ飛んで真っ黒になっていた。
あの時シュナはコロンの電気で懐中電灯に光をともせるかもしれないと咄嗟に考えたのだった。結果的にその試みは成功した。コリンクの全力の放電で電球はわずか二秒の間、どんな闇だろうと切り裂かんばかりの光を発し、電球が破裂するまでの二秒間ゴーストの分身を消滅させたのだった。
シュナはすっかり腰を抜かして体に力が入らなかった。腕時計が午前〇時二十分を指している。まるで一年分の驚きをわずか二十分に凝縮してもなお足りないほどのことを体験したみたいだった。
やがてぼんやりとしていた焦点が定まってくる。その定まった視界の中にカイリューが映った。カイリューは【エレキネット】を受けとめた腕に残っていたデンチュラの糸を乱暴に払い捨てていた。
「あ……あの……あのさ……」
何か話しかけるべきだとシュナは口を開くが、何を言えばいいやら混乱してしまう。シュナの声に気づいたカイリューが、彼女を方へと体を向けた。
「あのさ……君、ありがとう。助けてくれて」
ようやく喉の奥から絞り出した言葉がそれだった。声が裏返ってしまっている。シュナは小山のようなカイリューの姿を見上げる。その時シュナは初めて目を覚ましたカイリュー顔を目にした。確かカイリューは穏やかで優しげな目をしていると聞いたことがあったが、このカイリューの目は切れ長で正直に言えば少し怖い印象があった。黒い双眸がシュナの顔を穴が空くほどに見つめている。しばらくするとカイリューはなにか疑問を覚えるように首を傾げた。
どうしたんだろう、とシュナは考える。するとカイリューはまたヌッとシュナに顔を寄せて――。
確かにそれはハッキリとシュナの耳に届いた。
その瞬間、シュナは驚きの凝縮を一年分から一気に二年分ほどに改めなければならなくなった。
「お前、だれだ?」
カイリューは人間の言葉でそう言ったのだった。