第一話−2
コロンが側にいるとはいえ、やはり少し心もとない。やっぱりイレナたちのことなんて無視を決め込んでおいて、こんな所までわざわざ足を運ぶ必要なんて無かったという気持ちが芽生えてくる。十分ばかり歩いて湖畔のボートハウスのあたりまで差し掛かる頃には、何やってるんだろうわたしは、というやるせなさが胸にもたれかかってきた。コロンはそんな主の胸中を知ってか知らずか、こんな暗闇へっちゃらだとでも言うように軽い足取りだ。
「ねえ、ちょっと休もうか」
まださほど歩いていないのだが、元々ここまで自転車を漕いできた疲れと、馬鹿馬鹿しい気分とが相まって歩くのも嫌になってきた。シュナはボートハウスの桟橋上まで来ると、床板に座り込んで両足を水面上にぶら下げた。コロンがシュナの腰のあたりに寄り添って、不思議そうにこちらを見上げつつ座り込んだ。
懐中電灯の明かりを落とすと、便りとなる光が全て消え、暗闇があたりを包み込んだ。しかしその暗闇も完全なものではない。空に昇る丸い月が世界を薄く淡い光を投げかけているからだ。耳を澄ますと空気の流れが林の木々を揺らす音が聞こえる。風と水の流れによって起こった波が、桟橋の柱を小さく打つ。波打ち際には岸に上げられたボートが裏返しに並べられ、月明かりに照らされる中で異様な光沢を放っていた。
首から提げたカメラを見やる。いっそのこと湖に向かって投げ落としてしまいおうかという考えがちらちらよぎった。
そしてシュナは肺が空っぽになるほどの深い溜息をつくと、両足をだらりとさげたまま桟橋にごろりと寝転がった。
なにやってんだろうな、自分は。
イレナたちのことなんて最初から相手にしなければよかったものを。こんなことを出汁に自分を笑いものにしようとする彼女らに腹が立つとともに、なにか企んでいると分かってそれを突っぱねないばかりかノコノコとこんなところまで律儀に出向く自分にはもっと腹が立った。
おもむろに腕時計を横目で見る。月明かりに照らされて時計盤と針がハッキリと見えた。
「あっ」
時と分を表す長針と短針がちょうど「12」の刻印上で重なり、秒針がその先を進んでいるところだった。幽霊が出る時刻という午前〇時。シュナは上体を起こし周囲をぐるりと見回した。コロンはいつの間にかうとうととしていたらしく、主に続いてびくりと起き上がって警戒のポーズを取る。にわかにシュナの胸が鼓動を早める。腕時計の秒針が駆ける音が妙に色濃い輪郭をもって聞こえてくる。
そのまま、いつの間にか二分以上が経過した。
しかし、夜の湖は相変わらず夜の湖のままだった。風は静かに木々と水面を揺らして、湖面はゆらゆらとした月の写し姿をたたえている。何かが起こった様子も、これから起こる気配も無い。そう思うと一気に全身が弛緩した。
「やっぱり所詮噂は噂ってことね」
シュナは大儀そうに立ち上がり、背中やお尻についた服の砂埃を払うと再び空を仰いだ。
何かが変わるといい。誰かが変えてくれるといい。
実を言ってしまえばわざわざここまで来たのは何もイレナたちの企みに乗ってやっただけではなかった。もし本当に幽霊がいるとするのなら、その幽霊によって何かが変わらないだろうか、そんなことを期待していた。実際幽霊に会ったとして何が変わるのかと尋ねられたら答えに窮するだろうが、なんでもいいからきっかけがあれば。しかしやはり噂というのは宛にならない。宛にした自分が馬鹿だったというわけか。
自嘲気味にうすら笑いを浮かべ、元来た道を引き返そうとしたその時。
ぐうううぅぅぅ。
突然コロンが進行方向に向かって低い唸り声を上げた。
「コロン、どうしたの」
コロンは牙を剥き、全身の毛を逆立てて数多の木々で月の光も遮られた暗闇の向こう側を睨みつけていた。そして次の瞬間、枝を踏みしめる音とともに、見上げるような人影が揺れたのをシュナは目にした。まさか、噂の幽霊かと思って後退る。恐る恐る懐中電灯に明かりを灯す。すると闇を貫く光が示したものは、幽霊といったこの世ならざるものではなかった。
それは少なく見積もったとしてもシュナよりも二十センチは高い背丈の人間の男だった。カーキ色のスーツを着用しているが、前のボタンは閉めず、カッターシャツも襟のボタンをだらけるように開けていた。そしてレンズの大きいサングラスをかけ、まるで顔を隠しているかのようだった。
「だ、誰ですか」
シュナはすぐにその男のただならぬ雰囲気を悟り、全身が粟立つのを感じた。こんな時間にこんな場所で(人のことを言えた義理ではないが)何をしているというのだろう。都合よく、きっと自分と同じように幽霊の噂を確かめに来たんだ、という考えも浮かぶがすぐにかき消された。
男はすっとぼけるように首を傾げて周囲を見回すような素振りを見せる。
「んー、お譲ちゃんこそ、良い子は今頃ベッドで寝息を立てている時間のはずだがな」
男が半歩こちらに寄った。
「おおかた、最近町で流れてる幽霊話に興味を持ったってところかな。さっきそこで会った君の友達もそう言ってたし」
ぎくりと何かが胸をついてくるような感触を覚えた。
「友達って……ひょっとしてイレナたちのこと?」
「んん? さあ、名前までは知らないれどね。友達というには首を傾げるところあったけれどね。当の君には近づかず遠くから双眼鏡で覗いているなんて。まあ今は静かにしてるだろうけど」
「静かにって……何をしたの」
「いやあ誤解しないでくれ。少し眠ってもらっただけだよ。朝にはちゃんと起きるだろう。もっとも、夜風を浴びて風邪をひくかもしれないけどね」
シュナは全身を強ばらせて思わず倒れるように後ずさった。イレナたちのことなんてどうだっていいはずなのに、その身を案じる自分が妙なものだと感じる。やはりこの男は異常だった。見た目や口調は
磊落としているが、「危険」という言葉をプラカードに書いて首からさげているほどに危うげな気が伝わってくる。
そして男が一歩こちらに近づこうとしたその時、いっそう高い唸り声を上げたコロンが全身に電気を纏って男に向かって飛びかかった。反射的にシュナは届きもせぬのにコロンに向かって手を伸ばした。「駄目ッ」と言おうと口を動かしかけた時、男の眼前まで迫ったコリンクに音もなく影が割り込む。すると突如ブレーキでもかかるようにコリンクの動きがピタリと中空で止まると、何かに突き飛ばされるようにコリンクは元の放物線を遡りシュナの足もとに弾き返された。
シュナはコロンの名前を叫び抱き上げると、そのまま守るように胸に寄せた。コリンクは痛みに加えて自身の不甲斐なさを嘆くように細い声を漏らす。
コロンを弾き飛ばした影。それはまさしく影だった。毒々しいガスの塊が輪郭を成し、頭の左右は猫かあるいは狐のように尖っている。両の手は中央のガスの塊から分離し、好き勝手な位置を自在に浮遊している。そしてギロリとしたつり上がった目がこちらを鋭くにらみ、主である男と似たような不気味な薄ら笑いを浮かべている。すべての霊型のポケモンの代表のような名前を冠する、それはゴーストというポケモンだった。
シュナはさらに二歩、三歩と後ずさり震える声で尋ねた。
「わたしに、いったい何の用なんですか」
「単刀直入に言えば一緒に来てほしい、だね。案ずることないさ、大人しくしてくれれば悪いようにはしない。さあ、シュナ・バーンズロウ」
言葉を言い切ると、男はゴーストとともに、シュナとの距離を少しずつ詰め始める。
まるで悪い夢でも見ているのかとシュナは思わずにいられない。そうだ、これは夢なんだろう。自分はあの桟橋で横になったまま、そのまま眠り落ちてしまっていてこれは夢の世界の出来事。目を覚ましたらきっと世界は何も変わらずに、少し夜風を浴びて体が冷えてしまっている自分に気づくんだ。ねえ、そうでしょう?
パチン、と何かが腕の中で弾け、シュナは我に返った。コロンが呆然として動けないシュナに向かって小さなスパークをぶつけたのだった。その時、真っ白になっていた頭が急にハッキリと色を帯びる。そして次の瞬間にはその頭が一つの司令を全身に下す。
逃げなければ。
シュナはコロンを胸に抱いたままくるりと背を向けて走り始めた。何かが腕からこぼれ落ちる。懐中電灯だったが、もはやシュナは落ちたということも分からずに林の奥へと駆けた。
男はゴーストに向かって肩をすくめると、少女が消えていった方向に向かってにやりと笑みを浮かべた。
「まったく、こういう時人間ってのはどうして無駄に抵抗しちゃうもんなんだろうかね。怪我でもして後で後悔が増えるだけだってのに」
そして男は首筋をガリガリと掻くと、駆けていったシュナとは対照的に悠々と歩きはじめた。逃げられることはない、林の方には既に別のポケモンを放っているのだから。そのことが彼に余裕を与えているのだった。
*
林には歩行者専用の小道が整備されている。この湖をぐるりと一周する散歩道を形成しているのだ。とはいえ、それは申し訳程度のものであって、きちんと地面は舗装されているわけではなく、街灯の一つもない。今夜のように夜空の月が道を照らしていなければ、真っ暗で何も見えたものではなかった。夜はいよいよ深まり、月はやがて天空の頂点にまで昇ると、そこから今度は少しずつ西に向かって傾き始めた。
時折シュナは後ろを振り向きながら走る。少しでも駆ける足の速度を緩めたらたちまちあの男の手に落ちてしまう。そんな強迫観念めいたものに囚われているようだった。
しかしいきなりの全力疾走で道も悪いこの中、ただでさえこの湖まで自転車を漕いできた疲れがまだ少し残っていた体はやがて悲鳴を上げた。気がつくと両足は棒のようにガクガクと震え、肺は破裂しそうなほどに空気を求める。
そしてシュナは男もゴーストの姿もどこにも見えないのを確認し、小道を外れて茂みの中へ分け入った。やがてうまい具合に根っこが入り組んでやってきた方向に対して壁のようになっている樹木を見つけると、崩れるように座り込んだ。腕の中のコリンクが一つ小さく鳴く。
「ああ、ごめんね。息苦しかったでしょ」
シュナはコロンをそっと地面に降ろす。コリンクはぷるぷると全身を震わせると、先の己の失態を詫びるようにシュナに頭を擦り付けた。シュナはそんなコロンの頭をそっと撫でる。息を潜め、身を縮めた。そして落ち着いて今置かれている状況を分析しようとつとめた。
あの男はいったい何なのだろう。ただの変質者とは思えない。(男の言葉を信じるとすれば)イレナたちには眠らせる以外の手を出していないところを鑑みると、やはり狙いは自分一人。男がシュナの名前をハッキリと口にしたことがそれを裏付けている。
両腕を組んでぎゅっと肘を握る。
どうして自分が狙われるのか、シュナは一つだけ思い当たる節がある。そのたった一つの理由でシュナは頭をもたげ、目も開けたくないような思いにとらわれる。
なんにしても、あの男と男のポケモンから逃げなければならない。しかしこの湖はシュナが自転車を停めたあの一角以外は道路から離れた場所に位置し、周囲は深い森に覆われている。森と山とを越えることに耐えるのでなければ、どうしても自転車を置いた元の場所へと戻らなければならなかった。
どうしようどうしよう、と頭の中がぐるぐると堂々巡りを繰り返していたその時、シュナの視界の端に映るものがあった。この月明かりも届かぬ真っ暗な茂みの中で明らかにそれはこの場にそぐわないものを思わせた。顔を上げ、それが目に映った方向へと視線を動かす。
小道からさらに離れて茂みの奥の方に、何か青白い光が見えた。それはシュナとコロンが今座っている位置から十メートルと少しばかり離れたところだ。ぼんやりと青白い光が輪郭がはっきりせぬまま縦長にうねっているようだった。
噂の幽霊。
すぐにその言葉が降りてきた。そういえば――、と今になってイレナたちが言ってたことを思い出す。幽霊が目撃された時間というのは〇時ちょうどではなく、「〇時前後」とのことだったはずだ。するとあの光が噂の幽霊ということなのか。
謎の男から追われているというこの状況のためか、不思議と視線の先にある幽霊とされている光への恐怖感は無かった。
そっと音を立てないように立ち上がり、そろそろと光へと近づいていく。そうしてあと五歩ばかりの距離にまで近づいたその時だった。光は突如として一つの形へと収斂しより一層輝きを増した。思わずシュナは顔に手をかざす。そして光は明らかな人型の輪郭を形作ったかと思うと、消えた。
何が起きてるんだろう、と状況が理解できないまま、かざしていた手を戻す。ハッと息を呑んだ。たった今まで光が浮いていた場所に一体の人影が立っていた。木々の隙間よりこぼれてきた月のあかりがその人影の顔を照らす。
それは一人の女と。真っ白な肌に細い思われた顎、そして薄い唇。しかし目深に被った防止によって目元がよく見えない。おおよそ現実離れしている状況に呆然としていると、帽子の下で女は柔和な笑みを浮かべた。
「
僥倖だな」