第一話「湖の幽霊」 1
記憶というものがどの瞬間からはっきりした形で始まるのか答えられるものはいないし、ましてや“彼”の場合はなおさらだった。意識は常に眠りに包まれ、身を包み込むのは常に深い闇。自分は今夢を見ているのか、それとも夢が自分を生み出しているのか、なにもかもが曖昧。上が下なのかもしれないし、右が左なのかもしれない。そんな深い深い闇の大海をもうずっとずっと長い間揺蕩っていた。このまま出口のない洞窟で諦観の中でひっそりと住み続けるように眠り続けるのかもしれない。
しかし何かが呼んでいる。それはこの長い闇の中でほんの時折聞こえてくるものだった。たいていは聞こえた気がしてもそれはまた深い闇の奥に紛れ込み、最初から何も聞こえなかったようにかき消されていく。だけどそれは何度も何度も回を増していくたびに輝きを強めていく。そしてまた声が聞こえる。
――アルス……
*
ふと窓越しに空を見上げるとそこに光があった。
「綺麗な月……」
シュナ・バーンズロウは荷造りする手をふと止めてぽろんと呟いた。月、そういえばおばあちゃんが言ってたっけ。あたしが生まれた日はこんな風にまあるいお月様が見守ってくださってたって。
事実、今夜は隈ひとつない雲ひとつない満月だった。いくつもの星々を背後に従えて夜空に煌々と君臨する。それはまるで夜の世界を支配する女王のようだった。
そうやって夜空を見上げてぼんやりしていると側にいるコリンクがガゥと一声諫めるように鳴いた。星のような尻尾の先が左右にゆらゆら揺れる。
「ごめんごめん、ちょっとぼんやりしちゃった」
シュナは傍らにちょこんと座るコリンクの頭に手を差し伸べた。コリンクは気持ちよさげにその手に甘えてまたガゥと鳴いた。
そしてコリンクが満足するようなそぶりを見せるとシュナは手を離して荷造りの続きへと戻る。あと足りないものは……と首を傾けてあッと手を叩いた。懐中電灯が必要だ。真夜中の世界にこれから繰り出そうという所にその足元を照らす物を持たないというのはなんと愚かしいことだろう。コロン――これはシュナが与えたこの雄コリンクの名前だ――電気タイプである彼ならば【フラッシュ】という技を覚えさせることによって灯火となるらしい。しかしあいにくコロンはその技を覚えていない。
懐中電灯はどこにあったかな? シュナは口元に指を当てて考える。すると思い当たるところが一つ二つ。物置か、あるいは使用人控え室だろう。となると行き掛けに回収するのが効率がいい。
あと他にもう忘れ物は無いか。シュナはリュックの中に入れたものを改める。ノート、筆記用具少々、コンパクトカメラ、タオル、その他諸々役に立ちそうな物、そしてコロンが入るモンスターボール。
「うん。全部大丈夫ね。じゃあ行こっかコロン」
ガゥとコリンクが元気よく返事。それに合わせるようにリュックのボタンをぱちんと留めるとシュナはリズムよく背中に背負い込む。電灯を消す。途端に部屋は暗闇に包まれる。窓から差し込む月明かりだけがぼんやりと薄い光をそっと投げかけていた。部屋の扉に手に手を伸ばすと、シュナは息を潜めてそっと戸板を押した。普段から使用人たちの手入れが行き届いているおかげで蝶番は何の音も漏らさずゆっくりと開いていった。十センチ弱ほどの隙間を作り、そこから向こう側をまずは覗きこむ。がらんとした暗闇が口を開け、しじまがそこにあった。何の物音もしなければ、誰かがいるような気配もない。よし、とシュナは確信して扉の隙間を大きくする。コリンクのコロンに振り返り、しぃーっと合図。暗がりの中でコロンの顔はよく見えないが、たぶんこれからやろうとしていることにわくわくしているんだろうな、とシュナは思った。
そして一人の少女と一体のコリンクは扉を抜けてそそくさと裏口へと向かう。抜き足差し足、廊下をぬけ、階段をそろそろと降り、居間と厨房を一気に抜けてそこにある裏口の扉へと差し掛かった。ドアノブを回して軽く戸を押すと、自室の扉とは打って変わって蝶番がぎぎぎと叫びさっと腹の底が冷たくなった。思わず後ろを振り返る。暗闇にだいぶ慣れた目はうっすらと厨房を映し出す。少しの間そこで佇んでいたが、誰かの声もこちらに向かってくるような足音もしない。ほっと胸をなでおろし、シュナとコロンは扉をくぐった。
夜の庭の空気はひんやりと静謐だった。そんな中をシュナは駆け足で進む。後ろからちょこちょことコリンクが付いて行く。月の光に照らされて、静かな庭園を駆け抜けるその様子はまるでおとぎ話の一場面のよう。そしてシュナは庭の隅に在る物置小屋の前に立つと、その扉をやはり音を立てぬように開けた。
黴っぽい臭いがむわんと鼻を突く。懐中電灯は確か物置の壁にある紐でかけるための釘にかかっていたはず。シュナは壁伝いを手探りに腕を這わせる。すぐにそれは手にあたった。
「あった」
取っ手についているスイッチを試しに押してみる。カチリと乾いた音とともにオレンジ色の光の輪っかが足元にある箒を照らした。よし、と頷くとスイッチを切りリュックのポケットの中に収めた。くるりと屋敷の方へと振り返る。その時目に入ったものでシュナは慌てて生垣の影に隠れた。屋敷の窓に淡い赤い光がゆらめく。使用人の誰かが見回りをしているのだ。今日の控え室への宿直は誰だったかなと思い出しながらシュナとコロンは息を潜める。
それから一分ほど経ってからシュナはゆっくりと生垣から頭を出した。右、左と周囲を見回す。見回りをする使用人の誰かの影は見えなくなっていた。生垣は屋敷の敷地をぐるりと囲繞し、誰にも見えないどこかで虫がろろろんと鳴いている。シュナは生垣に隠れるように身を縮めながら裏手の門へと回った。
鉄の格子扉に取り付けてある南京錠に、あらかじめ拝借しておいた鍵を差し込む。かたんと錠が外れ、音が鳴らないように細心の注意を払いながら扉を開き、すぐに向こう側へと潜り抜けた。
ぱたぱたと小道を抜ける。屋敷の敷地に沿って正面へと周る。そして下道へと抜ける坂道を下ると茂みに隠していたものが準備した時のままにあるのを見てシュナは二ッと笑う。ワインレッドで角ばったフレームの自転車が静かに横たわっていた。ガレージからあらかじめ引っ張りだしておき、ちょっと目を通したくらいでは見つからないような位置に隠しておいたのだ。ハンドルに手をかけてよいしょと立ち上げる。
「じゃあコロン、ボールに入っててね」
シュナはモンスターボールのボタンをコロンに向ける。赤い光がまっすぐコリンクに伸びて彼の身体はその光に包まれてやがてボールの中へと収斂されていった。コロンの入ったボールをリュックのサイドポケットへと収めると、シュナは自転車へとまたがる。そして一度だけ屋敷の方へと一瞥を投げかける。夜の中に佇む屋敷はしんと静まり返り、シュナがこっそり抜けだしたことに誰も気づいた様子はなく眠り続けている。シュナはペダルに足をかけ、ぐっと漕ぎだす。坂道を下り、次第に速度を増す中で夜の空気を頬に滑らせながらシュナは屋敷から遠ざかっていった。
*
シュナがその噂を耳にしたのは三日ほど前のことだ。
――西の湖に幽霊が出るんだって。
バーンズロウ家の屋敷はエノーラと呼ばれる地方のフィッツという町にある。周囲を緑深い山に囲まれた地方の小都市で屋敷は中央の市街地から少し外れた山間にあった。バーンズロウ家は古くはこのフィッツの街の領主で、数十年前にエノーラを統べる王国が無くなるまで伯爵の位を国王から賜っていた。王国が終りを迎え、領主という地位を失ってからも街の大部分の農場や工場はバーンズロウ家の所有だったし、町への影響力は変わらず絶大なものだった。
シュナが通う街の学校の現在の校舎もその昔バーンズロウ家の莫大な額の寄付によって造られたものだ。王国時代当時の首都レマルクの建築を模倣した赤レンガの瀟洒な校舎。男女共学で制服は明るめの茶色のブレザー。これが生徒からなかなか好評で、この制服の袖に腕を通したいがために周囲の街からはるばるこの学校まで通うという者までいる。
噂を耳にしたのはその学校でのことで時間は放課後でシュナは帰り支度を済ませて席を立ったちょうどその時だった。
「ねえ、バーンズロウさん」
同じクラスのイレナという女子生徒が猫なで声でシュナに話しかけてくる。「ねえ」の「え」の発音を異様に上げながら。その時点でシュナはもう嫌な予感しかしない。普段滅多に話さないこの女子生徒が向こうから話しかけてくる時は大抵碌でもないことしか待っていないのだ。内心うんざりしながら――この「内心うんざり」も相手は見透かした上だろうなと思うとますます辟易する――できるだけさり気なさを装って「どうしたの?」と返す。
「知ってる? 西の湖に幽霊が出るんだって」
「幽霊?」
この時点でイレナの話のオチが読めた気がしてシュナはため息をつきそうになった。特に仲良くする必要もないこんな相手に上辺を繕う必要性なんて全く感じられないけれど、そんなことをすればしたでまた面倒なことになるのも確実なのでシュナはなんとか顔色を変えないようにするのにやたらと気力を振り絞らなければならなかった。ちらりと教室の扉の方に一瞥を投げる。案の定だ。イレナといつもつるんでる数人の女子生徒がこちらに向かってニヤニヤとした嫌らしい視線を注いでいた。
「そうそう。湖の畔のあちこちで。なんか日によって場所がまちまちらしいんだけど、とにかく出るんですって」
それからイレナは隣のクラスの誰が夜釣りしている時に見ただとか、高等部の某というカップルが夜にボート上でデートしている時に見ただとかその噂の確実性を肉付けするような話をいくらか繰り広げた。
「時間はいつも夜の〇時前後らしいの。ぼんやりと青白くてね。明らかに人型でもちろんゴーストポケモンみたいな類とはぜんぜん違うんだって」
キンキンとした声が耳をいちいち突付く。どうせ何か碌でもない事を企んでいるのならさっさと言えばいいのに。だからシュナはイライラしてつい邪険な言葉を投げてしまった。
「それで?」
イレナの眉間が露骨に歪んだ。普段の彼女ならシュナからこんな態度を取られたら即座に取り巻きとともに絡みに来るところだが、この日はそれがなかった。
「アタシたち今週の休日に噂を確かめに行こうと思ったんだけど、ちょーっと都合が悪くなって行けなくなっちゃったのよお。それでね――」
そこでイレナはおもむろに鞄から使い捨てのコンパクトカメラを取り出し、シュナの手をとってそれを渡す。シュナは自分の予想があたってしまったことに小さな達成感を得ると同時に、それを軽く飲み込んでしまうほどの嫌悪感を抱かずにいられなかった。
「これパパからこっそり借りたカメラなんだけどバーンズロウさん、アタシの代わりに湖まで行ってくれない? ほら、バーンズロウさんのお屋敷は湖からそこまで遠くない距離だし、なによりあなたにはこんな頼みでも高級車で送り迎えしてくれる素敵な召使さんたちがいっぱいいるじゃない。こんなこと頼めるのはバーンズロウさんしか居ないのよー」
そしてイレナは最後に一言二言何か話した後「よろしくね」と語尾に星印が付きそうなほどのかわいこぶりを振りまいて扉に向かった。回廊から覗いていた仲間たちと合流すると何がおかしいのか全員でトライアングルを下手くそに掻き鳴らすような笑い声をあげながらどこかへ行ってしまった。最後にこっちに向かって小馬鹿にしたような横目が流れてくるのにもシュナは無視した。
何が「バーンズロウさんしか居ないのよー」だ。イレナたちの企みくらいシュナにはお見通しだ。都合が悪いなんて大嘘で彼女らも湖に向かってることだろう。そしてシュナが湖の周辺で有りもしないものに向かってパシャパシャ写真を撮ってる姿を影で覗き見て笑いのタネにするのだろう。彼女らのことだからその話を学園全体に言いふらすに違いない。しかし馬鹿馬鹿しいと考えて行かなかったら行かなかったでこれも向こうの望むところだろう。その場合イレナはきっと声高に「酷い! 約束したじゃない」とでも吹聴して回ってシュナを悪役に仕立て上げるだろう。イレナたちが行ってしまった後でカメラを突き返すことに考えが及ばなかった自分が情けなく感じた。
しかしその日屋敷に帰った後、あまりに馬鹿馬鹿しさに一番年少の使用人のソフィアにそのことを漏らすと意外なことを彼女は話した。
「あら、湖の幽霊の話なら私も聞きましたよ?」
てっきり湖の幽霊なんてイレナたちの作り話だと思っていただけに、まさかソフィアまでイレナたちの回し者なんじゃないかと疑いそうになるほどだった。
ソフィアが話してくれた噂の内容もやはり同様に午前〇時くらいにぼんやりとした人型の青白い影が目撃されたというものだった。遭遇した人の話にはイレナが言ったものと被る内容のものもあったが、同時に彼女が話さなかった人物のものも含まれている。噂話が存在することそのものは事実なんだなとようやくシュナは認識する。
それからシュナは前日になるまで行こうか行くまいかと迷った。そして当日の朝になってからシュナはようやく決心する。どちらを選択しても結局イレナたちの思う壺だというのならいっそ行ってやろう。コリンクのコロンにも付き合ってもらってあわよくば周囲に隠れているであろうイレナたちをなんとかして逆に驚かしてやる。
そういうわけでシュナは湖へと赴く選択をした。
*
こんな真夜中に一人で(コロンも居るけれど)出歩くなんてことは初めてのことで、シュナの胸にはもやもやとした背徳感が影を落としていた。バーンズロウ家の屋敷に身を置いてからは言うに及ばず、母方の祖母の家で暮らしていた頃もこんなことは考えたこともなかった。しかし背徳感と同時に、どこか何かに期待する思いが顔をのぞかせるのは今日がきっと満月だからというのもあるかもしれない。
生まれて初めて夜更かしした日のことを思い出す。貰ったか、あるいは誰かから借りた本がとても気に入り、時間も忘れて脇目もふらず読んでいた。そして読み始めたその日の内に読了し、ふと時計に目をやると時刻は真夜中の二時を指していた。その瞬間本を読み終えた達成感と読後感はどこへやら吹き飛んでしまい、代わりに禁忌を犯してしまったような罪悪感と初めての夜更かしに対する妙な高揚感が胸中を闊歩したものだった。
今日の夜もやはりあの日に似ていた。しかしそれがある意味イレナたちによるものだと思うとどこか癪に障る。
屋敷を出発してからかれこれ半刻ほど自転車を漕ぎ続けた。月の光に照らされた世界は昼間とは顔色を変えて、まるで彫刻のようだ。何かの鳥の声が聞こえる。ほー、ほー、とフクロウなのかあるいはポケモンのホーホーなのか判断はつかない。
やがてシュナは自転車を降りる。夜の静かな風がふわりと汗ばんだ顔と髪を撫でた。シュナの目には目的の場所が映る。月が二つあった。大空から見下ろす一つ、そしてどこまでも続いていく湖面から見上げる一つ。月の輝きを映しだした広い広い湖。水と岸の境は黒黒として曖昧でぼんやりと月明かりに晒される中でちゃぷんちゃぷんと波の音が流れていた。
自転車を止め、しっかり鍵を掛けたことを確認するとシュナはボールからコロンを出した。ボールから出てきたコリンクはぶるぶると顔を振って背筋をいっぱいに伸ばす。シュナはコロンの頭を軽く撫でてやると拝借した懐中電灯のスイッチをオンに入れた。懐中電灯のオレンジ色の光が暗がりを切り裂き、黒地に丸を描く。
「とりあえずぐるっとまわってみようか」
シュナはコロンにそう投げかけ、コロンもがうと返事する。
少女とコリンクは湖の岸に沿って懐中電灯で闇を切り開きつつ歩きはじめた。