第五話「夜に」
バーンズロウ屋敷を正面から全体を視界に収めると、林の茂った丘を背後に抱えている。この丘はやはりバーンズロウ家の所有の土地で、屋敷と隣接した区域はちょっとした裏庭になっている。表庭と違ってささやかな花壇がしつらえている程度の裏庭には、今の季節は甘酸っぱい薄紫の鈴のようなムスカリや破顔したようなマリーゴールドの鮮やかなオレンジなどが顔を並べていた。この花壇の列は奥へと歩いた所で林の入り口によって断ち切られており、そこから先は鬱蒼とした暗闇が口を開けていた。花壇に沿って敷かれた道は石畳でしっかりと舗装されたものだが、林へと入ってしまうと道は今にも両側から手を伸ばす草や木の枝や蔓に呑み込まれそうになる。もう何年もまともに人の手が入っていないのだ。
昼下がりごろにシュナが足を踏み入れた時も、ひんやりと森閑としていたが、すっかり日の暮れた今の時間は暗闇にすっかり取り囲まれて物陰から今にも何かが飛び出してきそうだった。一歩一歩進む度に体のどこかに草木が触れ、まるで先に行こうとするのを阻もうとするかのようだった。手に持ってるレモン色の包に入った四角い箱のようなものがずっしりと重い。そのような妨害にもめげずに三分ばかり歩みを進めると、突如として視界が開け降って湧いたようにすっかりくたびれた建物が姿を現した。
それは屋敷と同じくレンガ造りの平屋建て。静黙としたほの暗い林の中に佇むその様は、まるでお伽話に出てくる魔法使いの家を彷彿させた。周囲にはぼうぼうと草が建物を呑み込もうとするかのように生い茂っていたが、午後にやって来た時にとりあえず入り口付近の草を刈っていたため出入りするのに支障はない。丘のふもとにむかってテラスが張り出しており、樫の木を組んだものだったが、そこは今や蔦に覆われ床にはあちこち朽ちて穴が空いている。まさしく廃墟の様相を呈しているが、建物本体はレンガ造りでしっかりしたものだった。蝶番が歪んで少々斜めに傾きペンキが剥がれている扉を開けると、すぐそこは広間になっている。未だに明かりが灯ることが奇跡のようなくすんだ白熱灯をつけると、テラスに面した高い窓のそばで誇りだらけの床にも頓着せず、そこにアルスが横になっていた。
彼はシュナがやって来たことに気づくと待ちかねたと言わんばかりに上体を起こした。
「待ちくたびれたぞ」
「うん、厨房がなかなか空かなくて……。でもその分いっぱい持ってきたから。口に合わなくても文句言わないでね」
そう言ってシュナは手に持っていたレモン色の包を勿体ぶった手つきで丁寧にほどいた。三段重ねになっている重箱を開くと同時にアルスが歓声を上げた。
開かれると同時に立ち上る湯気。ひまわりの花びらをそのまま大きくしたようなオムレツ。ふるふると揺れる玉子の上からきのこと玉ねぎを十分に煮込んだデミソースが絡み合う。オムレツの隣にはほうれん草とベーコンのソテー。ほうれん草の落ち着いた深い緑にちょっぴり焦げ目のついた刻みベーコンが色を添えている。その下の段にもさまざまなおかず類がところ狭しと並び、一番下の段には程良い色加減に焼きあがった丸パンが整然と並べられてあった。
「すげえ! お前が作ったのか?」
「半分は今日の夕飯の余りだけど、上の段はわたしが作ったの。元々屋敷に来る前は自分で料理することもそれなりに多かったから」
「へえ、うまそーだな」
身体は見上げるほどに大きいというのに、その嬉しそうな反応はまるで少年のようだ。開いた口からはギザギザに生えそろった牙がきらりと光り、今にも唾液が滴り落ちそうな薄い紅色の舌がのぞいている。食事を前にこんなにも嬉しそうにするのだから思わずシュナも顔がほころんでしまう。それに自分の料理を『うまそー』なんて言われるのは少し照れくさかった。そんなシュナをよそ目にアルスは早速手をのばそうとする。その時ハッと我に返って慌てて彼をを手で制止をかけた。そしてにこりと微笑んで鷹揚と手を降ろす。
「なるべく散らかさずに食べてね」
毎回今朝の朝食のように好き放題に食い散らかされてはたまったものではない。そんなシュナの意図を汲み取ったのか否か、アルスは出鼻をくじかれたことに幾分不満そうに口元を曲げつつ「おう」と首を縦に振った。
「ならよし」
そのシュナの声が言い終わるか終わらぬかのうちにアルスは重箱の一番上の段を持ち上げ、大きな鼻面を重箱に突っ込むのだった。シュナはにこりと微笑んでいた顔をそのまま嘆息へとシフトさせる。アルスが顔を上げた時、口の端からオムレツの黄色い玉子の膜がはみ出しており、次の瞬間にはそれもまた完全に口の中へと吸い込まれていった。
「うまーい」
*
「そういやさ、ここはいったいなんなんだ?」
丸パン一つを口の中へと放り込みながらアルスが尋ねた。
「わたしもソフィアから一度だけ教わっただけなんだけど、ここは絵が趣味のバーンズロウのお祖父様のアトリエだったらしいの」
それを裏付けるようにホコリまみれの部屋の隅にはボロボロになったイーゼルや筆をすべらせることのないまますっかり黄ばんだカンバスといったものが転がっていた。
「祖父母はわたしがが屋敷に来るずっとまえに亡くなって、以来ずっと放置されてたんだって」
シュナはテラスへとつながる背の高い窓を開けた。長い間管理の手が入っていなかったせいですっかり建付けが歪み、うんと力を込めなければならなかった。ガタガタと音を立てながらどうにか窓は横に滑り、上から埃が落ちてきた。
パクリとアルスはデザートに入れておいたオレンジを丸々ひとつ皮もむかずに頬張る。
「林のずっと奥だから普段は誰も来ないし、なかなかいい場所だと思わない?」
「んだな、外で寝るよりずっとマシだ」
「でも中も外も少し掃除しないとね」
シュナがテラスに目を落とすと蔦が木の板に絡みついている。外もやはり背の高い草がぐるりと建物を取り囲むように生い茂っている。もうあと一二年ばかりこの状態が続いていたらすっかり侵食されて使い物にならなくなっていたかもしれない。今度の休日にでももっときちんと掃除しなきゃ、とシュナは手についた埃を振り払いつつ心に決めた。
窓の外へと目をやると生い茂った草木の間から屋敷を見下ろすことが出来る。さらにその向こう側にフィッツの街の明かりが人の営みを演出していた。元は屋敷は全体を見下ろすことが出来たのであろうが、長い間に生い茂った植物のために建物の姿はすっかり隠され、東側にせり出した窓とその周囲の壁や屋根が目にできるにとどまっている。そこはちょうどシュナの部屋の反対側の回廊の窓だった。昼間にそのことに気づいた時、思ってた以上に好都合だとシュナは心のなかでガッツポーズを取ったものだ。
祖父はおそらくここから見渡せるフィッツの街並みや屋敷の姿をカンバスに収めていたのだろう。元は屋敷からもこのアトリエを目に出来たのであろうが、少なくともシュナは初めてこの場所を見つけるまで全く気づかなかったし、気づいてからも樹木がうまい具合に重なって屋敷側からは全く見えなかった。それに使用人がここへ来ることは皆無に等しい。いつまで持つかは分からないがある素が隠れておく場所にはうってつけだった。
「……っにしても、人間ってのはつくづくメンドーなもんだなあ」
最後の一つとなった丸パンをゆっくりと齧りながら、アルスは首を傾げた。
「どうして?」
「だってよ、今日のお前見てたらいちいち息がつまりそうだったぜ。狭いところに押し込められたりしたしな」
たしかに、今日一日を振り返ると緊張と冷や汗の連続だったことに気付かされる。朝からソフィアに見られそうになったり、苦手なユリウス叔父が訪ねてきたり、クラスメイトのラギに出くわしてしまったり、そしてグラハムからは『なにか変わったことはなかったか』と尋ねられたり、なんとも長い一日だったと改めて思い知らされた。思わず苦笑いが溢れる。今日一日の言動から改めて自分の家の異常さをシュナは苦味のように感じていた。
開いた窓から風がふわりと通り抜ける。舞い上がっていた埃が外へと流れていく。
「たしかにね」
シュナは自嘲気味に漏らした。
ごくんとアルスの喉が鳴った。最後の一口が無事に胃袋の中に収まった音だ。考えてみれば本当に奇妙な話だ。今までポケモンといったらコロンと、それから屋敷に来る前まだジェラルドの村で祖父母と母と住んでいた頃に家族の一員だったイチゴという名のフシギソウくらいにしかまともに触れたことがなかった。おまけに世に言うトレーナーと呼ばれる人々とは違ってシュナには本格的な育成経験もバトル経験もほぼ皆無。そんな自分の元にこんな強そうなーーいや実際に強いということは昨夜、あの男のポケモンを楽に撃退したことから見ても明らかだーーカイリューがいるということがまるで信じられない。さらに信じられないことにはそのカイリューは人間の言葉を話し、そして自分の記憶を失くしている。
シュナはしばらくぼんやりと視線をアルスの顔の上に這わせ、おもむろに話しかけた。
「やっぱりまだなにも思い出せない?」
アルスは一瞬きょとんとした表情を見せたが、すぐにかぶりを振って頭をボリボリと掻いた。
「ああ。……ったく情けねえ話だぜ、自分のことだってのになんもわからねえって」
「ねえ、アルスはもし記憶が戻ったらどうするつもり?」
今までそのことを考えてなかったのか、アルスはハッと言葉を失い、難しい顔をして首をひねらせた
「そうだなあ。元々いた場所とかが分かったら、やっぱそこに帰るかもしれねえな」
「そっか……。うん、そうだよね。わたしもそれがいいと思う」
そう言いながらシュナは残念だと思う気持ちをよぎらせるとともに、そんな気持ちを抱く自分を浅ましく感じた。アルスにだってきっと本来いるべき場所、生きていくべき場所があるはずだ。それらを思い出した後にアルスがなにをどう選択するかは、自分が口を挟む領域じゃない。
「早く記憶が戻るといいね。わたしも出来るだけ協力するから」
「ありがとよ、頼りにしてるぜ」
その瞬間シュナの視界ががくんと上下した。アルスがぽんとシュナの背を軽くたたいたのだ。軽くとはいえカイリューの太い腕と熊手のように大きな手を以てすると思わずシュナはよろけてしまう。
「ちょっと痛いよ」
「ああ、悪りぃ悪りぃ」
アルスは大口を開けて朗らかに笑んだ。まったく、とぼやきつつシュナもその笑顔につられて口角が上がる。
「じゃあわたしそろそろ屋敷に戻るね。誰かが見回りに来て部屋にいないのに気づかれたら面倒だから」
「おう、じゃあな」
シュナは「おやすみ」と答えようと口を開きかけたその瞬間、重大なことを失念していたことに気づき、ハッと口を手で覆う。
「ごめん、まずいこと忘れてた。明日から学校が始まるの」
「ガッコウ? ってなんだ?」
「わたしくらいの年齢前後の子供がいろんなところから集まって様々なことを勉強する場所と言えばいいかな。朝から夕方くらいまでわたし、そこにいるの」
「へえ、なんでまたそんなところに行かなきゃならねえんだ?」
「なんで、って言われてもそこに行って勉強しなきゃいけないからよ。トレーナーみたいに旅をしてるわけじゃないしね。それで、うちの“学園”の場合だと自分の力では扱えなかったり、モンスターボールに入ってないポケモンは連れてきてはいけないことになってるの。だから……悪いんだけどわたしが“学園”に行ってる間はアルスはどうする?」
シュナは申し訳なさそうに肩をすくめた。
ふん、とアルスは腕を組んで目を細めた。口はしっかりと閉じているが、おそらく人間の表情にすれば「へ」の字形に曲げているのかもしれない。
「しゃあねえな。じゃあ適当に好きにさせてもらうよ」
「ありがと。でもちょっと約束してほしいことがあるんだけど」
「なんだ?」
シュナはアルスの顔の前に右手を出し、人差し指を立てた。
「まず一つ、なるだけ人前に出ないこと。カイリューってのはとっても珍しいポケモンなの。少なくともこのあたりの地域じゃまず目にすることはない」
シュナは次に中指を立てピースの形を作った。
「二つ目。もしも人前に出たとしても絶対にしゃべっちゃだめ。これだけは絶対に約束して。カイリューがいるってだけでも珍しいのに、その上しゃべるなんてことが周りに知られたら大騒ぎになるわ。どうかしたらそんな珍しいカイリューを捕まえようなんて人が出てくるかもしれないよ」
シュナは不安な思いを込めてアルスの目に視線を注いだ。しかし当のアルスはことの本質が飲み込めていないらしく、得意げに両の手を握りこんで互いにぶつけ合わせている。
「んな奴ら俺がテキトーにのしてやるよ」
「そーじゃなくて!」
結局その後アルスをどうにか納得させるのに喩え話を交えたり迫るように念を押すなどして、幾分の気力と数分の時間と費やす羽目となった。それから部屋に戻ったシュナは明日の学校の準備ややり残してた宿題を済ませるなどをして時間をつぶした。
シャワーを浴び歯を磨いた後、寝る前に例の自室の前の廊下の窓からアルスが隠れているアトリエのある方向を眺めた。日の光の注ぐ昼間ならともかく、心許ない月明かりのみが照らす窓の外の世界にアトリエの姿はちらりとも見えない。
その後ボールから出したコロンと一緒にベッドに横になったシュナは自分の胸が異様に高鳴っていることに気づいた。トクントクンと肋骨の内側から心臓がノックをする。シュナは隣で寝息をたてているコロンをぎゅっと抱き寄せた。眠りを妨害されたコリンクのまどろんだ顔に向かってシュナは笑いかけずにはいられなかった。
「ねえコロン。これからどうなると思う?」
そう問いかけつつ、シュナは既に自分の中で答えを出していた。たしかに不安なことが山積みだ。自分を襲った男のこと、その男を雇ったという誰かのこと、謎の女ニーアのこと、そしてアルスの失われた記憶のこと。だが、それらの懸念を今だけでも忘れさせてくれるような感情が波紋のように全身に広がり、そして胸をたかぶらせていた。
ふと何か思い立つところがあって、シュナは身を起こした。ナイトテーブルのスタンドに明かりを灯し、縁にアラベスク模様の意匠が施された二段の引き出しの上の方を開ける。引き出しのほぼ中央にまるで古来より伝わる宝物を安置するように置かれるそれはペンダントだ。その奥には写真の入った小さな額縁。ペンダントの菱形のふちには宝石がはまっている。電気スタンドの明かりに照らされたそれはきらきらとまるで中で万華鏡のような反射を繰り返し、見つめているとその光の奥の奥へと吸い込まれていきそうだった。シュナはそのペンダントを手に取り、もう片方の手で写真の入ったを持ち上げた。一人の女性が矩形の縁取りの世界に収まっている。名をエルザといい、シュナの母親であった。呼びかけてこちらを振り向いたその瞬間にシャッターを切ったものらしく、きょとんとした表情を浮かべている。。白い肌にすらりとした輪郭。目元や鼻、口のラインはシュナの母親であることを思わせる共通性がある。ふわりとした栗色の髪の毛は娘には遺伝されなかったらしく、シュナはいつもそのことで母親を羨ましく思っていた。
――わたしもお母さんみたいな髪が欲しかったなあ、
そんなことをぼやいていたことが思い出される。そのたびにエルザはシュナの黒くさらりとした髪の毛に触れ、こう言ってとろんと微笑むのだ。
――わたしはシュナの夜空みたいな黒くてさらさらした髪が羨ましいなって思ってるのよ。
記憶の中の母を胸に、シュナは写真とペンダントに向かってまるで秘密を打ち明けるように語りかける。
「聞いてお母さん、素敵なことが始まったの。きっと……とってもいい友達になれると思う」
写真の中の母は何も言わず、みじろぎもしない。それでもシュナはその表情の端っこがほんの少しだけこちらに笑いかけてきたように見えた。遠い世界へと往ってしまった母、それでも今際の際に受け取ったこのペンダントを手にしてると母が近く居てくれるような気がした。
コロンが眠らせてよと抗議するようにくぁっとあくびをした。シュナは謝罪するようにまどろんだコリンクの顔をそっとなでると、写真とペンダントを引き出しの中へと戻し明かりを消した。ごろんと再び横になるとコリンクの喉元に手を回しながらその顔ごしに窓の向こうへ視線を流した。空には昨夜よりほんの少しだけ端の欠けた月が柔らかな光を地上へ注いでいた。
第二章へつづく