第四話−3
日が暮れた。西に傾いた太陽が世界を臙脂に染めていく。屋敷の庭園は既に夜への支度を始め、虫達のロロロと鳴く声が暮れゆく世界を演出している。庭を彩る花々は夕日の色にくすんでいく。
バーンズロウ屋敷の南東のバルコニーからシュナは身を乗り出して頬杖をついていた。欄干にもたれかかるシュナの横には、うまい具合に柵の上に乗るコロンの姿があった。欄干上のコロンは前後の足を丸めて尻尾をゆらゆらとさせながら、主人にそっと身を寄せていた。シュナはどこか消沈としている。コロンはそれを敏感に感じ取って身を寄せているのだった。
明日からまた学校が始まる。そのことを考えるとなんとなく憂鬱が頭をもたげた。別段成績が悪いわけでもないし宿題をサボっているわけでもない。“学園”の教育システムは少々特殊なところがあって各地から人が集まってくる。その中でシュナの成績は全体で中の上辺りで、なかなかに検討していると言えた。各科目の中では数学が少々苦手なくらいであとの科目はわりと上手くいっている。だというのに明日の接近が物憂く感じるのは、つまりは人と人との関係でのことだ。
欄干に背を預けて窓越しに机の上に目をやった。そこにはポケットサイズのカメラが一台。イレナのカメラだ。厳密に言うと彼女の父の。たしかに噂の幽霊なるものは実在した。だけど彼女たちが求めた写真は一枚も撮ってないし、はじめから写真のことなんてどうでも良かった。昨夜、あれからイレナたちがどうなったかなど知ったところではないが、明日どんな風に自分に絡んでくるだろうかを想像すると、それだけで胃もたれしそうだ。
イレナたちのことだけではない。昼間にラギが口にしたように(彼が悪意を含んだ意味で言ったのではないと分かっているが)、シュナは他のクラスメイトから一歩引いた位置に居た。ラギの言葉を借りて「ミステリアス」だとか「群れたりしない」と言えば好意的に聞こえるが、裏を返せば孤立気味だということだ。原因は複合的で一概に一つだけの理由を求めることは出来ない。その中で大きなピースの一つにやはりシュナがユリウスつまり「理事長の姪」だということだ。特に女子相手だ。たまに話しかけてくることはあってもあくまで儀礼的なもので、心から仲良くしていこうという意志はシュナにも相手の方にも無かった。このことが誰が意図したものでなくともシュナが「特別な生徒」であることを周囲に認識させ、なんとなく近づきがたい存在のように仕立て上げているのだった。そしてもう一つ大きなピースがあった。あるいはこのピースこそが最大の要因かもしれない。
シュナははぁっと肺の底から息を吐いた。おもむろにコロンへと手を伸ばす。ふわふわとした柔らかいコリンクの体毛が手をくすぐった。そのまま首もとへと指の腹を滑らせて軽く掻いてやると、コロンは心地よさそうに喉を鳴らしつつ丸くなった。
太陽が西の山によって輪郭を欠け始めた頃、屋敷への来訪者を告げるチャイムがリンゴンと声を鳴らした。訪れたのは壮年期というおもむきの男性だ。口と鼻の間にはいかにも紳士然とした整えられた立派な灰色の髭がたくわえられ、やせぎすで身長は百七十センチ弱といったところだ。肩幅がやや広く今でこそ痩せているが、若い頃はきっと今よりもがっしりとした体格だったのだろうとうかがえる。ブラウンの生地でチェック柄の模様の入ったややカジュアルなスーツ・ジャケットを羽織り、右手には歩行の補助よりもむしろインテリア的要素のためのステッキを持っていた。客人はケルターから応接室のソファへと案内され、差し出されたコーヒーを啜っていた。暖色の明かりを柔らかに投げかける電球、その傘には埃一粒積もっていない。ソファの前に置かれたテーブルは天板にモダン硝子を用いたもので、それを支える樫の木材はダークブラウンに塗られ表面がつややかに光を反射させていた。
そこに応接室の扉が開き、その向こうから一人の少女が頬を緩ませながら一体のコロンとともに入ってきた。
「グラハムさん!」
コーヒーカップをソーサーに戻したグラハムと呼ばれた彼は、にこりと優しく微笑み手をあげた。
「やあシュナさん、お元気にしていましたか?」
「はい、おかげさまで。小父さまこそお変わりありませんか?」
「有難いことに風邪一つひいていないよ」
ホッホと穏やかに笑うグラハム。シュナはそんな彼のテーブルを挟んだ向かい側に腰掛けた。同時にシュナの足元からひょっこりと顔を出すのはコリンク。コロンはグラハムの姿を認めると、テーブルへと跳び移りさらにテーブルから彼の膝の上へと跳び乗った。
「おおっと急に跳びかかってこられちゃびっくりするじゃないか」
「コロンだって久しぶりにグラハムさんにあって嬉しかったんだと思います」
このイタズラものめ、とグラハムがコロンを抱きかかえる。そのときの光の角度よって胸につけてある弁護士バッジがきらりと輝いた。
グラハム・トールキン、それが彼の名前だった。グラハムはシュナの父の顧問弁護士でまた知古の友人でもあった。弁護士としての仕事ぶりはまさしく敏腕で、これまでバーンズロウ家ことにシュナの父に向けられた訴訟やいざこざはほとんど彼によって、双方にとって最も良い形そうでなければバーンズロウ側が有利となる形で片付けられていた。
コロンは元々グラハムの家のコリンクであった。突如としてバーンズロウ家に迎えられ何もかもが変わってしまった環境に耐えられず、塞ぎこんでいた一年前のシュナ。そんな彼女にポケモンといっしょに住んでいればいい方向へと向かうきっかけになるかもしれない。そう提案したのがグラハムで、当時彼の家で飼っていた雌のレントラーが産んで数ヶ月ほど経過していたコリンクをシュナの元へとやったのだった。
結果的にこの試みは功を奏し、塞ぎ気味だったシュナはコロンのおかげで少しずつ笑顔を取り戻したのだった。
「グラハムさんが初めてコロンを屋敷に連れてきたのがまるで遠い昔みたいです。まだ一年しか経ってないのに」
弁護士の腕から降りたコロンを今度は自分の膝の上に招き寄せたシュナが感慨深げに言った。
「“もう”一年と見るか“まだ”一年と見るかだね。いやはや時間の流れとは不思議なものだ。私としてはシュナさんと初めて会ったのがまるで昨日のことだというのに」
グラハムはシュナの膝で丸まったコロンにそっと微笑みを投げかけながら宙を仰いだ。
運動不足解消にと学生時代に励んでいたテニスを久しぶりにやったら心臓が爆発するほどに息切れして改めて歳を取ったことを実感させられたとか、ベス(トールキン家にいるコロンの母親である雌のレントラーのことだ)が最近やたらと甘えてきて擦り寄ってくるため冬でもないのに静電気がしょっちゅうパチパチして困るだとか。シュナの方も最近“学園”であった話を二、三報告した。シュナとグラハムは年齢では親子どころか孫と祖父と言って差し支えないほど歳が開いている。赤の他人の初老の男相手となると、普通ならなんの共通する話題もないし、どう接すればいいのか分からないものだろうが、不思議とシュナとグラハムは初めて会った時から気が合うところがあった。グラハムがなにかとシュナの生活について気にかけてくれるおかげでもあるが、なによりも人柄が親しみやすかった。
シュナが屋敷へとやって来る少し前に初めてグラハムと対面した時はいかにも弁護士という風に堅苦しい雰囲気を全身から醸し出していた。それまでそういった生業の人間とは縁遠い日々を過ごしていたシュナでさえ思わず背筋が伸びた。その後屋敷へと住み始めた頃、仕事としては別にプライベートの用事で彼が訪ねてきた時があった。その時の彼は最初に対面した時と本当に同一人物なのだろうかと疑わずにいられないほどに朗らかで、気さくにそしてシュナが呆然としているのを理解した上で丁寧に言葉を紡いでいった。長年弁護士としてあまたの難しい事情を抱えた人間と接してきたことで培われた部分もあるだろうが、それだけでなく元々の彼の天性のものがあると言わざるをえない。
「さてと……」
二人の会話が一段落した頃、一息入れるようにそう漏らすと、グラハムはコーヒーを一口啜った。すっかりぬるくなっていたらしく、味わうでもなく特になんの感慨も表情に示さぬまま喉の奥へと流し込んだ。そして彼の目は不意に遠くへと向けられた。
「ティバルトが……お父上様がいなくなって、もう半年になるんですねえ」
シュナは自身の背後になにか暗いものがよぎるのを感じた。その名前が話題に登ることは最初から予想していた。しかしいざ口に出されると思わず表情をこわばらせずにはいられなかった。グラハムはそのシュナが無意識的に見せる素振りを見逃さない。
「シュナさん。あなたはやはり、お父上を恨んでいるのですね」
しばらく経ってから、シュナはこくりと頷いた。頷いたというよりも、首の力が思わず抜けて前へと倒れかかったと言ったほうが正しいかもしれない。
時を刻む置き時計の、針の音が異様に大きく聞こえる。やがてシュナは視線を床に落として口を開いた。
「ごめんなさい。グラハムさんには悪いんですけど、わたしは父を許せません。たしかに……ここに来てからは暮らしに不自由することもありませんし、“学園”では本当に良い教育を受けさせてもらってます。でも……」
一旦そこで言葉を切った。自分の中で怒りの感情が昂ぶり沸騰していくのを感じる。暴れ馬のように言うことを聞かず、ただその感情によって言葉が生み出されるままにシュナはまくしたてた。
「だったらどうしてお母さんを捨てたまま十年以上もほっといたんですか。わたしはずっと父親は自分にはいないものだと思ってた。なのにあの人はお母さんがなくなったと思ったらまるで見計らったようにやってきて……、いまさら父親ヅラして『迎えに来た』だなんて……。結局あの人はわたしになんの説明もしないまま――」
シュナはそこで我に返ったように口を手でおさえた。そして思わず声を荒らげた自分を振り返り、浅ましく感じ奥歯を噛み締めた。
「いいのですか? もう何も言わなくて」
意識的に口をつぐんだシュナを慮るように弁護士はそっと語りかける。ピクリとシュナはわずかに頬を痙攣させる。ぎゅっと膝の上で拳を固くし、かぶりを振った。そのときぴょんとグラハムの膝の上から飛び出したコロンが、今度はシュナの隣へと跳び移った。今の主人であるシュナの身体のそばへ、そっと身を寄りそえて気遣うように彼女へと顔を上げた。シュナはそんなコロンに思わず口元を緩ませ、お礼を投げかけるようにそっとその背中に手をそえた。
「いいんです。ごめんなさい、グラハムさんは父の親友だったんですよね」
「いや、気にしなくていいよ。私も悪かった」
なだめるように掌をこちらに向けグラハムは肩をすくめた。
さてと、とグラハムは腕時計を一瞥するとおもむろに立ち上がり、壁にかけておいた上着を手にとった。
「そろそろ私は行こうと思う。要件もシュナさんが来る前にケルターと済ませておいたからね。いろいろ気を遣わせて申し訳なかったね」
慌ててシュナもソファから腰を上げた。同時にコロンもテーブルに跳び移った。
「わたしこそ、勝手に機嫌悪くしちゃって……。グラハムさんにはいつも親切にしていただいてるのに」
「いいんだよ。コロンも元気そうでなによりだしね。……あ、それと」
扉のノブにまで手をかけようとしてグラハムはピタリと動きを止めた。そしてくるりと身を翻してシュナへと向き直った。
「肝心なことを尋ねるのを忘れるところだった。いやはや、歳を感じるね」
自嘲気味に笑いつつ、コホンと一つ咳払いをした後グラハムは口を開いた。
「最近、なにか変わったことはありませんでしたか?」
ドキンと何かが胸を強く打った。シュナはパリパリに引きつったように顔の筋肉がこわばった。変わったこと? 変わったことっていったいどんなことだろう? わずかに開いた口から水分が抜けていく感覚を覚えながら、その唇の間から漏れたのは嘘だった。
「いいえ」
続いて疑問が言葉になって喉から押し出された。
「どうしてそんなことを訊くんですか?」
「まあ君の後見人として尋ねたまでだよ。何もないならそれで結構だ。それじゃあまた、コロンも良い子にしてるんだよ」
なんとなくその答えを発するときにグラハムが目をそらしたように見えた。そしてグラハムは扉をくぐり玄関ホールへと抜けていく。そのまま見送るためにシュナも外へと出た。門の前にあらかじめ呼び出されていたタクシーが停まっており、最後に彼はケルターと一言二言言葉を交わし乗り込んだ。行動へと続く坂道をタクシーが降りて見えなくなるまで、シュナはグラハムから目を離さなかった。
タクシーが去ってしばらく経ち、ケルターが間もなく夕食になる旨をシュナに告げた。ケルターも中へと引込み、すっかり暗くなり紺色に衣を変えた空の下にシュナは一人取り残された。
あれはいったいどんな意味で言って来たんだろう。そして嘘をつかずに本当はなんと答えるべきだっただろう。アルスのことや湖で襲われた話を伝えておくべきだっただろうか。でも彼の言った通り、本当に特には深い意味はなかったのかもしれない。単に後見人として“学園”での生活や普段のことについての近況を知っておきたかっただけだったのかもしれない。
そのような様々な想像や想いにとらわれつつ交錯させつつ、シュナは小さな歩幅で屋敷の中へと戻っていった。