第四話−2
ゆるやかな上り下りが交互に繰り返す山沿いの道を、シュナは自転車で辿っていた。切られていく空気が全身を伝う。やがて道は長い下り坂へと差し掛かった。後輪がカラカラと軽快な音を鳴らす。ここまでずっとペダルを漕ぎ続けて上気した息を忘れるほどに爽快なスピード感が肌を刺激した。
坂道を下りきったところに広くスペースを取られた路肩でブレーキをかける。一息ついて空を仰ぐと太陽をちょうど隠すようにカイリューの影がこちらに向かって落ちてくる。ぶつかるような気がして思わず目をつむると、寸での所でアルスは翼を広げエアブレーキを効かせてふわりと弧を描いた。そしてその巨体にそぐわぬほどに静かに両の足が地面に触れた。着地するなりアルスは抗議するような目でシュナを見下ろす。
「ったく、置いてくなよ」
「ごめんごめん。でもああしないと彼から離れられなかったから」
「さっきのニンゲンのことか?」
「そう。“学園”でのクラスメイトだから。アルスと一緒にいるところを見られちゃ困るし」
そりゃそうだなと軽く納得しながら首肯するアルス。
「それで、これからどうすんだ? 屋敷に戻るんだろ」
しかしシュナはすぐには答えない。何か思案するように顎に指を当てて「うーん」と小さく唸った。
できればこのまま屋敷に戻りたいのはやまやまだ。しかしこのまま屋敷の者に内緒にしたままアルスを置いておくのは無理があると言わざるをえない。コロンのような小さなポケモンならともかく、アルスのように上にも大きく幅も大きく、おまけに気性もやや荒いと言えるドラゴンポケモンを隠しておくのは困難極まる話である。
そうだ、と一つ思いつきシュナは鞄を開けて中に手を伸ばす。
「ねえ、ちょっと提案なんだけど」
「なんだ?」
アルスの返事と同時にシュナの手に探していたものが触れ、鞄から取り出した。それはポケモンを扱うものにはおなじみ、赤と白のツートンカラーで丁度に分割するようにラインが入り、そのライン上に丸い開閉ボタンのあるボール、すなわちモンスターボールだ。コロンの入っているボールはサイドポケットに収まっているので、これは宿主の居ない空のボールである。シュナはそのボールを、かがんでこちらに顔を寄せているアルスに近づけた。
「アルス、この中に入ってみない?」
アルスは差し出されたモンスターボールに、穴が開くほどの視線を注ぐ。
「これに、俺がか?」
「うん。そうすれば屋敷の人たちには誰にも気づかれないし、わざわざ隠れ続けることもないから」
「だがよ、どう見たってこの中に俺が入るわけねえじゃねえか」
ちょんちょんとアルスはモンスターボールを爪の先でつつく。無理もない反応だとシュナは可笑しくなった。
「それが入れるのよ。ほら、コロンが出入りしているところだってもう何度か見てるでしょ。この通りなんだから」
シュナは今度はコロンの入ったボールを取り出すと、開閉スイッチを押す。たちまちボールは口を開け中から赤い光が飛び出し、やがてそれがコリンクの姿へと変化した。改めてそれを目にするとあまりにも奇っ怪に映ったのか、アルスは訝しむように人間なら眉間に当たる部分をぐにゃりと歪ませる。
「いったいどうなってんだこりゃあ?」
「うーん、詳しい仕組みはわたしも知らないけど、とにかくポケモンならみんなこの中に入れるみたい」
シュナは出てきたコロンを抱き上げて首のまわりを軽く撫で回した。
ちっぽけなボールから出てきて今目の前で満足そうに喉を鳴らすのは、確かにあのチビコリンクだ。アルスはまだ納得いかずに首をかしげていた。しかしいつまでも疑ってばかりじゃいけないと思い直したのか、アルスはため息をつくと背を伸ばし、シュナの手にあるモンスターボールを爪の先でつついた。
「わかったよ。で、どうすりゃいいんだ?」
ところがアルスがようやく首を縦に振った所で今度はシュナのほうが声を返さなくなった。彼女はコロンをボールに戻した後、アルスが入る予定の空のボールを難しい顔をしてじっと見つめていた。ぼんやりと何かを勘案しているようだった。下唇を軽く噛み、自分の顔にボールを寄せ、その光沢を帯びた丸い表面に自分の目の焦点をなぞらせる。
「おい、聞いてるのか」
ワッと驚かすようにアルスは声を大きくし、そこで思わずシュナは我に返った。
「あ、ごめん。――うん、それでね。アルスはそのままじっとしているだけでいいの」
そしてシュナはボールをアルスに見せつけるように掲げる。一方でアルスは怪訝と不安が入り混じったようにまだ目元を歪めていた。しかしやがて観念したように両のまぶたを閉じて、事が進むのを待った。
いくよ、とシュナは掛け声高くボールをアルスへと投げる。ボールはまっすぐアルスの頭に向かって飛んだ。コンと軽い音がして「イテッ」と思わず漏らすアルス。その次の瞬間にはカイリューの二メートルを軽く越えた巨体はボールから放たれた赤い光りに包まれ、あっというまに中へと吸い込まれていった。
一瞬ボールは宙空にとどまったかと思うと、そのまま地面へと落下し二三度弾んで止まると、中央の開閉スイッチが赤く点滅を始めた。通常の野生のポケモン相手であれば、この間は抵抗しようと中から力が働くためにボールが激しく揺れる。しかし今、このボールの中の者はその意思がないため、まんじりともせずただスイッチの点滅だけが繰り返されているだけだ。このまま抵抗によって中からボールが破壊されること無くあと五秒も経てばスイッチの明滅は終わり、アルスはこのボールの宿主となるのだ。
しかし――とシュナは再びボールの前で固まっていたあの表情を浮かび上がらせた。本当にアルスをこのままモンスターボールに入れてしまっていいのだろうか。確かにボールに入ってくれれば、屋敷の人たちに存在を悟られる危懼はずっと減る。だけど何か違う気がする。アルスをボールに入れることは何か違う。そんなことを頭によぎらせた。
嫌な感じがしたのは最初だけだった。身体が大きな流れのようなものの中にさらされ、何かが頭の中に呼びかけてくる。呼び声のようなものが耳に入り込み、それが彼の中で不快感を生じさせた。しかしそれは長くは続かずそれっきり。やがてフワフワとしたものが被さり、全身を覆っていく気がしてそれはとても心地良いものだった。
なんだ、そんなに悪くねえな。彼はボールの外にいる少女に向かって伝えるように、ポツリと頭の中でつぶやく。あのコロンとかいうチビがこの丸いものに出入りするのを目にした時は、こんな窮屈なものの中には入りたかねえなと思ったが、中はこんなふうになってたんだな。
ふわりと柔らかいものが足先から包み始め、それが少しずつ頭の方へ向けて登ってくる。この感覚がこのまま全身を覆い尽くしたらこの中に居られることになるんだろうな、と本能的に彼は直感した。意識はまるで浜辺の渚を揺蕩うように茫漠と揺れ、全身が弛緩していく。どんな仕組みになっているのかなんてもはや瑣末な問題に思えた。
フワフワとした感覚が胸のあたりにまで達した。さらに勢いを増して身体の中に液体のように注がれ、間もなく頭まで達しようとしていた。
その刹那だった。何か叫び声のようなものが最初胸の奥底の隅のほうでほんの小さく生じた。しかしそれは一度生ずるとそのまま意識の中でかき消されること無く、まるで全身を反響材として増幅共鳴し、ついに雷撃のごとく彼の頭から全身を串刺しにするように貫いた。
――駄目だ!
爆竹を一度に破裂させたような乾いた爆発音が鳴り渡り、山肌にこだました。あたりが白い煙に包まれた。驚きの叫びを上げるとともに、後ろに倒れこんでシュナは尻餅をつく。
もくもくとその場を充満している煙がやがて晴れると、アルスがそこに立っていた。片手で顔を押さえて頭を振っている。しばらくの間シュナは呆然として尻餅をついたまま竦んでいた。しかしハッと我に返り腰を上げて砂埃を軽く払うとアルスの元へと駆け寄った。
「どうしたの……大丈夫?」
「……ん」
アルスは堅く閉ざしていたまぶたをゆっくりと開き、一瞬目を白黒とさせた。ぼんやりと白濁としていた彼の視界にやがて色が差し、自分を不安げな表情で見上げるシュナの姿を結ぶ。すると安心したようにため息をつき、強ばっていた全身が氷が溶けるように緩んだ。
「悪りぃ。やっぱそん中に入るの……なしだ」
「どうして……?」
するとアルスは目を細め、うーんと唸って首を傾げた。
「なんか、感じたんだよ。『駄目だ』ってな。なんだかな、途中まではこのまま入っても悪くないって思ってたんだけどよ。……んー、とにかくそれには入れねえ」
アルスが目線で示した先には粉々になったモンスターボールがあった。無数の破片になって散らばっている。アルスの説明がいまいち要領を得ないためか、どういうことなのかとシュナは未だ呑み込めずに居た。
二人はなんとなく押し黙った。姿の見えぬ鳥や虫たちの声ばかりが流れていく。シュナはそれ以上アルスに問いかけるのは憚られた。本当ならモンスターボールを拒絶した理由をもっと教えて欲しかったが、昨夜に初めて会ってから質問ばかりしている。見た様子ではアルスの方も急にボールを拒絶したことに戸惑っているように映る。あんまり質問ばかり投げつけるようではアルスの混乱を余計に助長させてしまうような気がした。
シュナは自転車にまたがった。彼がモンスターボールに入ることを拒絶した以上、別の方法を案を考えなければならない。ボールが駄目だとなるとどうすればいいだろう。
「とりあえず、屋敷の裏手に森があるからそこに隠れててくれない? あとで迎えに行くから」
分かった、とだけ言ってアルスは翼を広げた。そして何歩かの助走をつけつつ同時に空気を叩きつけるように羽ばたくと、その巨体に似合わずあっという間に舞い上がった。遠くなっていくその姿を見送りつつ、シュナは今アルスに投げかけた言葉を口の中で反芻していた。
――屋敷の裏手の森、確かその奥には……
漫画で何かを閃いた表現のように、頭の中で電球が灯った。そうだ、たしか裏手の森の奥にはうってつけの場所があるじゃないか。どうして今までそのことを忘れていたのだろう。あそこなら使用人の人たちの目も届かないはず。
うってかわって心を有頂天に弾ませながらシュナはペダルを踏み入れた。気分によって周りの景色や音が違って見える聞こえるというのは本当だ。なんとなく薄暗く感じていた日陰の道はさわやかな木漏れ日が投げかけられる道となり、寂寥としていた鳥や虫の声は嬉しそうに歌っているようだった。