第四話「モンスターボールにゃ入れない」−1
自転車の置いてある茂みにまで来るとシュナはアルスに奥の方に身を隠しておくように指示した。湖畔の公園付近であるため、誰かの目にとまる危険性が高いと判断したためだ。シュナはコロンというパートナーはいるものの、バトルというものにはめっぽう疎く、これまでそういったことに参加したことは一度もなかったし興味をいだいたこともなかった。そのシュナがカイリューというおそらくはトレーナー上級者が扱うようなポケモンを連れていると誰かに、特に“学園”関係者に見られでもしたら面倒なことになるのは火を見るより明らかだった。
シュナは鞄の中から屋敷から持ってきた工具セットを取り出し自転車の前に屈みこんだ。外れた前輪をフレームに取り付ける作業を始める。部品が欠けているわけではないし、すぐ終わるだろうとシュナは高をくくっていた。ところが開始して一分と経たぬ内に眉間に皺を刻む。始める前の甘い考えなぞ、既にどこへやら吹き飛んでしまっていた。
「まだかかるのかよ?」
始めてから十分ほど経過した頃、アルスがしびれを切らして茂みの奥から顔を出した。無理もない。始める前にシュナは「すぐ終わるから」と豪語していたからだ。後先考えずに軽口叩いた己を自嘲気味に苦笑いしつつ、シュナは肩をすくめる。
「ごめん、なかなか思ってたより難しくて……」
いつの間にか汗が額に玉を作って流れ落ちていた。
「ねえ、ものは相談なんだけど、アルスこれ持ってさらにわたしを乗せて飛べる?」
シュナは降参するように前輪が外れたまま修理出来た気配すら見受けられない自転車を腕で示した。アルスは何も言わずしばらくワインレッドの車体を見下ろす。そして太い手の片方でフレームを掴み上げる。もう片方は前輪を持ち上げ天秤のように胸のあたりで止める。その姿に流石というべきか自転車ほどの重さのものを持っているような素振りは全く見受けられない。
「なんだ、これくらい軽いもんだ」
「ホント? なら悪いけど――」
――それで屋敷まで乗せてってよ。と言おうとしたシュナの口が不意に勢い良く戸を閉めるようにふさがった。公園の広場の方から何か丸いものが両者の足元にはずみをつけて転がってきたのだ。六角形の網目模様で白地に規則的な黒が混じったその丸いものはサッカーボール。
サッとシュナの顔から血の気が引く。反射的にアルスへ向けて叫ぶように言葉をぶつけた。
「隠れて、奥に。早く!」
おう、とアルスは気圧されたように返す。返事をしなくていいのに、と心のなかで叫びつつシュナは茂みの奥を指さして促す。カイリューの大きな身体がドタドタと左右に揺れながら遠ざかっていく。見届けるほどの余裕もなくシュナは転がってきたサッカーボールを拾い上げた。
間もなくしてボールが飛んできた方から軽快な駆け足の音が近づき、やがてその本人が木の影から姿を現した。その時、シュナもボールの持ち主もほぼ同時に「あっ」と声を揃えて口を開ける。一瞬沈黙が流れるが、先に口火を切ったのは相手の方だった。
「あっれえ、シュナじゃん? こんな所でなにしてんの?」
現れたのはシュナと同じ年頃の少年で痩せぎすで、背丈はシュナより頭一つ分高い。ぼさぼさの黒髪で汗の滲んだ顔は健康的な褐色に焼けている。上下ともに藍色の地に白いラインの入ったスポーツウェアを着用し、使い込んでいるらしく膝や腕のあたりが擦れて破れかかっていた。
「ラギくん、君こそどうしてここに?」
「オレぇ? そりゃ決まってんじゃん」
と、ラギと呼ばれた少年はシュナが拾ったサッカーボールをひょいと取り上げ、くるんと漫画のように右手の指先で回してみせた。
「サッカーの自主練。校庭でクラブの奴らとやるのもいいけどサ。ちょっと一人で技の練習とかしたい時はよくここに来るんだ」
言葉の尾でラギは横目で後ろの広場を指し示した。確かにヒース湖の駐車場を降りたところにある広場はスペースの広さに反して利用者が少なく、高い位置にある駐車場のため、コンクリートの壁があった。球技を一人で練習するにはうってつけの場所といえるだろう。
「それでこんなところまで?」
目を丸くして問うシュナ。
ひょいとラギの右手人差し指の先からサッカーボールが飛ぶ。落下するボールを彼は首の後で受け止め、そのまま流れるように右手に滑らせ、やがてボールは彼の右手のひらに収まった。
「うん、それにこの湖を一周する遊歩道でランニングするのもいいしな。――それよりさ、オレはともかくなんでシュナがいんの?」
不意な反撃のように質問を返されてシュナは思わずたじろぐ。至極もっともな話だ。サッカーの練習という実に正当な理由を持ち合わせているラギに対して、シュナは堂々と説明できるような言い分を用意していない。一応いくつか作り話の案を考えてはいたのだが、ラギの返しで一気に頭から吹き飛んでしまっていた。
しどろもどろに答えに窮しているシュナを前に、ラギは観察するように彼女を見回した。そして一つ何かを閃いたらしく、いたずらっぽくニヤついて左の手で顎をさすった。
「ははーん、当てたろっか?」
そしてその手を今度はシュナに向けて貫くように指差す。
「ズバリ、噂の幽霊を探しに来たってところだろ?」
えっ、とシュナは一瞬固まる。その反応を図星を突いたのだと解釈したらしく、ラギは意地悪そうに笑い、続けた。
「やっぱなあ。うん、シュナも女の子だもんな。そういうの好きなんだろ」
一瞬ぽかんと口を開けるシュナだったがすぐに我に返り、そういうことにすることとし笑ってごまかした。相手がそう解釈してくれるのならことさら否定することもない。幽霊探しというのもあながち間違っているわけでもなかった。
彼は正式な名前をラドルギスと言い、シュナと同じく“学園”の生徒でクラスメイトである。シュナと同じくフィッツの外からやってきた人間で異なるところはシュナがバーンズロウ屋敷という『家』が用意されていることに対し、ラギは“学園”の寄宿舎に入って暮らしている。成績は全体的に見れば良くもなく悪くもない、だが科目ごとの得手不得手が極端で得意科目では毎回のテストで学年のベストテンに食い込むほどだが、不得意科目では赤点ギリギリで溺れかかっているという有様だった。
「で、どうだった? オバケは見つかったか?」
「ううん」
シュナが首を横に振ると声を上げて闊達な笑いを咲かせるラギ。
「やっぱりオバケなんているわけないよなあ」
ニッカリと笑った口から白い歯がのぞいた。日焼けした顔と相まってその白さが際立つ。去年もラギとは同じクラスだったが、このように“学園”の外でしかも他に誰もいない場で対面するのは初めてのことだ。彼が普段から明るく飄々としていることは自他ともに認められているところだが、こうして二人になると彼の勢いに流されそうになる。
その時ようやく笑い声を収めるとラギは今更になってシュナの足元で横たわっているものに気づく。
「うん? どうしたんだよその自転車。前輪が外れてんじゃん」
「ああこれ……。なぜか急に外れちゃって、さっきから修理してるんだけどなかなかうまくいかないの」
ラギは悲愴的に倒れている自転車を値踏みするように眺め、時折へぇっと漏らす。彼の視線がシュナの手に持つ工具に移った時、同時にシュナは自分の手が自転車のグリス等によって黒く汚れていることに気づいた。なんとなくきまり悪く感じ、シュナは空いている方の手を後ろに隠す。すると彼はサッカーボールをぽんと足元に放るとシュナが手に持っている工具に手を伸ばした。
「貸してみ。オレこういうの得意だから」
言われるままにラギに工具を手渡すと、彼はほとんど押しのけるようにシュナにどくよう促し、横たわる自転車の前で屈みこんだ。
前輪の中心の金具にフレーム、泥除け、ワッシャーの順に取り付けていく。迷いのない慣れた手つきにシュナは舌を巻いた。
「すごーい! いつもこういうのやってるの?」
「オレのじいさんがアウトドアが趣味でさ、“学園”に来る前はよく一緒にあちこちサイクリングにも連れてってくれたよ。チャリの手入れや修理も教えてもらったりしてな」
言いながらも作業は進む。ナットを取り付けて軽めに締めると逆側も同じように施す。そして両側を交互に少しずつ強く締めバランスを取っていく。
「それにしてもさ、やっぱシュナも女の子っぽいところあるんだなあ」
「なによそれ」
むっとしてシュナは思わず肩をいからせた。
「ごめんごめん、男まさりとかそういう意味じゃないんだ。ほら、シュナってどことなく他の女子たちと違う感じがするじゃん? ミステリアスっていうか、あんまり群れたりしない所とかさ。理事長の姪だから気取ってるなんて言う奴もいるけど、オレはそうは思わないね」
理事長の姪。文脈からラギがそれを皮肉る意図は無いと分かっているが、それでもシュナは胸を押さえつけられるような思いに捕らわれる。伯父のユリウス・バーンズロウは自身の会社の社長であるが、同時に“学園”の理事長も務めていた。“学園”は元々バーンズロウ家の資金によって創設され、現在も多額の援助を受けている。そのためバーンズロウ家の家長は創設当初から理事の座に腰掛け、時には理事長へと選任されることもあった。そして現に今ユリウスは理事長の座についている。そのことをよく思わない人間がいることは必然というものだった。
「うっし終わり!」
そんなシュナの胸中を知ってか知らずか、ラギはことさら大きくした声で叫んだ。
そこには外れていた前輪がしっかりと元のフレームに収まった自転車がワインレッドの光沢を輝かせていた。シュナは思わず感嘆の声をあげる。ラギは自転車を起こし、得意げな視線をシュナに送る。
「ちょろいもんだよ。ちゃんと出来てるかちょっと試し乗りしてみなよ」
そう勧められシュナはコクリと頷くと、なぜかガラス細工を扱うようにおそるおそるとした手遣いでサドルに跨った。整備された遊歩道に出てペダルに力を込めると、自転車は何事もなかったかのように両の車輪で地面を滑り始めた。少し広い場所でカーブする。前輪はきしみ音ひとつ立てずにシュナの身体をしっかり支えつつ、彼女の意図した方向へと曲がる。そのままラギの立っているところまで戻り、ブレーキペダルを握った。
「すごい! なんともないよ」
「へへ、感謝しろよ」
彼は得意気に鼻をこすった。直後、二人は同時に「あっ」と漏らす。ラギの手に付着していた黒い油が彼の鼻を黒く染めたからだ。そしてお互いに顔を見合わせると申し合わせたように吹き出すのだった。
ようやく笑い声が収まると、シュナはちらりと茂みの奥へと視線を投げる。思わぬ形で自転車は直ったが、またしてもアルスを待たせてしまっている。これ以上待たせるのも気の毒だ。シュナはラギに視線を移すと改めて礼を述べた。
「じゃあわたし帰るから。自転車、ほんとありがとね」
「いいっていいって。じゃあ、また明日“学園”でな」
「うん、また明日。練習頑張ってね」
そしてシュナは自転車を走らせた。
遠ざかっていくシュナの姿を視界に収めつつ、ラギは足元に転がしておいたサッカーボールを拾い上げた。
やがて彼女の姿が見えなくなると、今頃になってふと疑問が頭の中で生じ小首を傾げた。
「うん? シュナのやつ、工具をいつも持ち歩いてんのか?」