*
いつの頃からか、何度も見ていた夢がある。
よく夢というのは今置かれている現実が象徴的に表されたものだと聞く。あるいは過去に起きた出来事の再現とも言われる。でも今から語る夢はそのどちらも違うと思う。
それはこんな夢だ。
始まる場面はいつも同じ。わたしはひんやりと澄んだ夜空を仰いでいた。天頂には青白く透き通った光を放つ月が世界を見下ろし、その家来のように無数の星々が侍りまたたいている。吸い込まれそうな空。どこまでも行けそうな空。世界中とつながっているこの空を飛んでいけたら。そんなことを思っていた気がする。
そして夢の世界にはいつも誰かが側に居た。そうだポケモンだ。いつもわたしの側にはポケモンがいた。だけどそれがどんなポケモンだったかどうしても思い出すことが出来ない。大きなポケモンだったのか小さなポケモンだったのか、どんな色で、どんな顔をしていたのか、全て霧に包まれているかのように曖昧模糊。
視線は夜空からそのポケモンの方へ、そしてポケモンから地面へと順番に降りていく。途端に夜の底が白くなった。雪原のように一面を白く染めるのはオーニソガラムの花。大地を視界の限り覆うその光景はまるで水面のようだ。夜空と白い海の間は丘陵によって切り分けられ、ひとつ風が吹く旅に大きなうねりを伴った波が起こる。風の中に吹き飛ばされた花びらが揺蕩い、あてもなく彷徨してく。わたしとポケモンたちがいるのはその白い花畑のほんの入り口だ。夜の冷たい空気の底に広がるむせ返るほどの香り。ゆるやかな丘にそって咲き乱れる花たち。風とともに流れてくるさわさわとした鼓膜をくすぐる音はまるで花同士が囁き合っているかのようだ。
――これがわたしの世界のすべて。
夢の中のわたしはいつもそこでこんな独白をするのだ。
この夢を見るのは半年かあるいは一年に一度か、そのくらいの頻度だと思う。そうなるとこの夢をこれまで見た回数は決して多くない。それなのにどうしてわたしが長い間この夢のことを印象深く心に刻んでいたのかというと、いつも起きた後に不可思議な気分に胸が詰まったからだ。ザワザワとし、懐かしいようなあるいは不安のような気持ち。どうしてこんな気持ちになるのか、わたしには分からなかった。だけどそのヒントのようなものはその先にある。そう夢にはまだ続きがあるのだ。
雪のように白いオーニソガラムの花々、そのむせ返るような香りの中でわたしはポケモンたちと遊んでいる。それがわたしの世界の全て。これまでも、そしてきっとこれからも私の世界はここにしか無い。丘の上に一本だけぽつねんと佇む樫の木のように、寂しいことに慣れてしまっている。
そんなとき、横のほうで花たちがざわめいた。しゃん、と草を踏みしめる音が風が吹く中で不気味なほどはっきりと聞こえる。わたしは音のした方向へと振り向いた。まるで導かれるように視線が促される。そこに誰かがいた。わたしたちだけの世界に踏み込んできたその人は誰だろう。その誰かのイメージもポケモンたちと同じようにぼんやりと曖昧、まるで水の中で目を開けるように全てがぼやけて見える。だけどわたしはそこにいる誰かに向かってこう問いかけるのだ。
――あなたはだぁれ?
そしていつもその場面で朝の日差しがわたしを夢の海から引き上げる。
本当にこんなことがあったのだろうか。螺旋階段のような記憶にこんな場面があったのだろうか。どこまでも登ったと思っても上から見れば進んでも退いてもいない。下を見下ろすとかつてに辿った古い時間が重なって影の縁のように口を開け、そこをたどる過去のわたしに手を振ることも出来る。
だけどこの夢はわたしの辿った螺旋階段の中にはない。あの場所がどこなのか、あの時がいつなのか、そしてあの人が誰なのか、わたしは知らない。
ひょっとするとこれまでわたしが読み、触れてきた物語の中にそんな場面があったのかもしれない。
思えば人より少しだけ多くの本を読んできたと思う。わたしが生まれ育った村には大きな図書館というものは無かったけれど、学校の図書室には生徒の人数に見合わないほどたくさんの本が置かれていた。そこでいろんな物語に触れ、そして様々な世界の空気を吸い、そこで生きているかのような心地良い錯覚を感じてきた。
様々な思いを胸にコンパートメントに集まった四人を乗せて力強く蒸気を吹き上げ動き始める機関車の動輪。自分のせいで幼なじみの少女を失ってしまった少年の流す涙。まるで棺のような黒く高く聳える神殿と宇宙そのものを思わせるような壮大な伽藍。ずっと子供のことを憎んでいたのだと思ってたけれど本当は不器用に愛し方が分からず苦悶していた母親。様々な困難を乗り越えついに故郷へと帰ってきた青年の精悍でそして達成感に満ちた笑顔。記憶を混同させて空想の世界を自分の記憶としてしまうことさえあった。たとえば、わたしは小さいころ自分はお姉ちゃんのいる二人姉妹なんだと思い込んでいる時期があったりした。そして母に「お姉ちゃんはどこいったの?」と尋ねると軽く一笑に付されてかえって狐につままれるような気分になったものだ。原因はその当時読んだ本で、その本では二人の仲の良い姉妹が主人公で妹のほうを自分とあまりにも重ねあわせ過ぎていたのだった。
だけど夢の中の花畑の光景をやはりわたしは知らない。何度も夢に出てくるほど深く記憶の石版に刻まれているのなら作者や題名ならまだしも、どんな話だったかくらい憶えていそうなものだ。
螺旋階段はどこまでも伸び、どこまでも下に続いていく。思えばどれくらいわたしはこの螺旋階段を登ってきたのだろうか。
そのとき感じた思い、そのとき目にした光景、そのとき聴いた言葉。登って行くに連れていろんなものが残され、そしていつしか消えていくのだろうか。だけどずっと残っているものもある。
わたしはきっと忘れない。張出窓に座って遠くを見つめるラギの澄んだ瞳を、ウインディのたなびく鬣とその背の上に乗るトレニアの姿を、舞踏会の日に踊った下手くそなワルツを、父の部屋で見た写真を。
そしてあの、プルースティにたどり着く前の夜にアルスと交わした会話を。
――なんで今そんなことを言うんだよ。
困ったような、彼の顔が浮かぶ。
そしてわたしは隣に座っている彼の顔から、わざと視線を空に向けて言うのだ。
――ごめん、なんとなく今ちゃんと言っておいたほうがいい気がして……。
今でもどうして急にあんなことを言い出したのか、よく分からない。結果論で語ることはいくらでも出来るだろうが、“そのときになぜ”と問われると曖昧な答えしか返せないだろう。
なんとなく沈黙が降りてしまって、わたしはこれ以上言うべき言葉を見失っていた。あたりの茂みの中で虫たちが歌う声が異様にハッキリ聞こえていた。ずっとずっとこの空虚な間が続くように思われた。
だから彼の声がその白くとがった牙の光る大きな口から帰ってきた時、わたしは思わず彼の方を振り向いた。
――わかった……。約束するよ。
星々がまたたく中で、見上げた空で今にも消え去ってしまいそうな弓張月が名残惜しそうに空に細い筋を刻んでいた。