鳴らない鐘が響く時
 窓を開くとほどなくして星の瞬く空から、海から吹く風に(いざな)われるように真っ暗な影が飛来した。人の大きさほどもある巨躯を伴った鳥はその容姿に似つかわしくないほど静かに舞い降りる。窓枠に足をかけ翼をたたむと睨むようにテレーゼとイレーヌの姿を視界に収めた。
「ラフト、あなたに会うのも久しぶりね」
 イレーヌが微笑みながら近づき、黒々とした翼の羽毛を撫でる。そのイレーヌに促されてテレーゼもムクホークの前に立った。二日前の夜、探偵事務所を抜け出す時に相まみえ、その背に載せてくれたものだが、あの時は事態が事態だっただけにこうしてゆっくりと対面する暇がなかった。改めてその目を見つめると、テレーゼは全身が粟立つのを感じる。
「あの時は助けてくれてありがとう」
 テレーゼはイレーヌと場所を代わり、同様に羽毛に手を当てた。柔らかな感触が手のひらに滑る。ボングリから出してあげたルナが嬉しそうに鳴いてラフトの顔の側に近づいた。ルナは怖がりではあるが、相手が危険なものではないと分かると喜んで側に寄るような性格だった。
 やがてふわふわと漂うムンナは己の額をムクホークのそれにコツンとぶつけた。その様子を目にしたテレーゼは声をたてて破顔した。
「ルナがこんなに懐くなんて、よっぽど気に入ったのね」
 ムクホークは一見そんなムンナを歯牙にもかけない様子だったが、つれなく顔を背ける仕草がなんとなく照れくさそうに見えた。やがてラフトは何かを訴えるように嘴をカチカチと火打石のように鳴らし始める。
 イレーヌは「はいはい」とまるで子供に世話を焼くように返すと、用意した紙を縦に細長く折り曲げる。そしてフィットチーネ状にした紙をラフトの足に丁寧に結びつけた。
「ロビンによろしくね」
 結び終わったイレーヌが最後にもう一つ翼を撫でると、鳥獣はくるりと背を向けて翼を広げる。そうして窓枠からぴょんと飛び立つと、来た時と同じようにほとんど音も立てず夜闇の虚空へと姿を消していった。
「まったく。ロビンに似て用が終わったらさっさと行っちゃうんだから」
 見えなくなるまで見送っていたイレーヌが腰を手に当てて不服そうに漏らす。
「ラフトって恥ずかしがり屋さんなんですね」
「でしょう? あたしがロビンと再会した時はあの子まだムクバードだったけど、その頃から褒められたり誰かから懐かれたりしたらつれない態度を取るのよね」
 イレーヌはその当時のことを思い出すように目を細めて微笑む。ランプの明かりがそんな彼女の頬を淡朱に照らした。
「女王陛下にも無事あなたのお手紙届いたかしら」
 すっかり手持ち無沙汰になったイレーヌはベッドに腰掛けながらポツリとそう呟いた。その言葉を受けたテレーゼもイレーヌの隣に腰を下ろしつつ、囚われの身となっている母に思いを馳せる。そもそもロビンはどうやって手紙を届けるのか二人には何も話さなかった。もし手紙が届いていなかったら、手紙が届いたことを侯爵たちに気づかれたら。そんなことはできるだけ考えないようにしても、どうしても脳裏にちらついてしまう。
「きっと届いてます。今頃はどう返事を書こうか頭を悩ませてるに違いありません」
 そう返す言葉は、あたかも自分自身に言い聞かせるかのようだった。まだ何の連絡もない以上、信じるしか無いのだから。
 ふわふわと漂っていたルナを促し、揃えた膝の上に降ろした。何よりも己の主人が好きなこのムンナはその主人の膝の上で思いっきり甘える。テレーゼもまたそのムンナの求めに応じ、白い手のひらを丸い体の線形をたどるように撫でた。
 そんなこの国の王女の様子を微笑ましく眺めながらイレーヌが話しかける。
「ねえ、テレーゼ」
「なんでしょう?」
 テレーゼは話しかけてきた下宿のお上に顔を向ける。しかしイレーヌは自分から話しかけてきたものの、言おうとしている言葉を呑み込もうか呑み込むまいか迷うように目線をチラチラとあちこちに向ける。やがて腹を決めたようにテレーゼに向かって身を乗り出した。
「あなた、この国は好き?」
 語気は至って穏やかなものだったが、その口から漏れた言葉はテレーゼの胸に何かしこりのようなものを生じさせるに十分なものだった。イレーヌがこちらに向ける眼差しは真剣そのもの。絶対に嘘は言えない、そんな気がした。
「ええ、好きです」
 多少言葉を吃らせながらテレーゼは頷いた。
「生まれ育った祖国ですから」
「そしてあなたはやがてこの国の王になるわ」
 テレーゼは思わず目を見開いた。
「そんな……! 私が王だなんて」
 戸惑うテレーゼをよそに、イレーヌは構わず続ける。
「国中の人が囁いてるわ。シェルストレーム家の他の家流がこれまで男児を残せなかったり、子に恵まれなかったりという不幸続きで断絶しつつある今、次の王位を継ぐのはテレーゼ様、あなただって」
「やめてください」
 思わず声を荒げた。テレーゼの叫びにも似たその音が終わると、冷たい静寂が影を落とす。
「ごめんなさい、でもさっきあなたが言った言葉がどうしても気になって」
「さっき言った言葉?」
 テレーゼは首を傾げ、記憶をたどる。何かイレーヌの気を悪くしてしまうような事を口にしてしまったのだろうか。
「さっき――あなたがあたしに『普通の態度で接してくれ』って頼んだ時、あなたこう言ったわよね。『王女だからってなにも偉くないし、なにか出来るわけじゃない』って」
 無言で頷く。イレーヌに向かってそう訴えたのは確かだ。今回の件で自分の無力を痛感したし、王女という立場は今や何の約にも立たないのだと思った。
「先に謝っておくわ、また気を悪くさせちゃうだろうから。でも言わせて」
 そこでイレーヌは一旦言葉を切り、ごくりとつばを飲み込んだ。
「そういうことあまり口にすべきじゃないわ」
 思わず目を白黒させるテレーゼ。
「どうして……」
 口に出さずにはいられなかった。
「あたしは政治にはてんで疎いけど、あなたがきっと次の王になるということは分かるわ。あなたが王位を望もうと望むまいとね。そこでちょっと自分が王族でも何でもない民の一人だと想像してみて」
 テレーゼはこくりと頷き、言われた通りに想像を巡らせる。王族でない自分、ただの平民の子である自分。これまでずっと王宮の中で過ごしてきた彼女でも民の暮らしは何となくだが分かる。
「自分たちを統べる王様がいるとするじゃない? 自分たちを束ね、慈悲を持って守ってくれる王様。その王様はある日突然『自分は無力だ、自分は何もできない』と口にしたら守られてる民はどう考えると思う?」
 その場面を想像する。王宮、式典の間で開かれる新王即位の議。母レオノーラが即位した時、テレーゼはその儀式に立ち会った。楽団が高らかに奏でるファンファーレ。王の威光を称える讃歌を歌う合唱隊。赤く分厚いマントを纏い綺羅びやかな法衣に身を包み、神具と伝えられる宝杖を掲げる母の姿。参列した千にも万にも数える人々。そして大教会の司教により王冠が戴かれると同時に起こる空間そのものを割らんばかりの拍手と歓声。「新王即位万歳」「女王陛下万歳」の大合唱。
 そんなとき最後の新王から賜る言葉の場で即位した王は民に向かってこぼす。
――自分は何もできない、無力だ。
「不安になります」
 いつの間にか細めていた瞼をゆっくりと開けながらテレーゼはポツリと呟いた。その通りよ、テレーゼ言葉を受けたイレーヌは中空を仰いだ。
「国の行く末に関わるお方が自らを貶める事を口にしたら民は不安になるわ。例えそれがただの謙虚にしろ、本当に卑下しているにしろね。『王でさえあの調子では自分たちはどうすればいいのか』ってね」
 そしてイレーヌは軽く息を吐き、再びテレーゼに視線を注いだ。目にはようやく元の優しげな眼差しが戻り宿っていた。
「謙虚になるのは大事だけど、殊更にそれを口にしない方がいいと思ったの。むしろね、『自分は王だ。だから自分の言うことを聞け』、それくらいの気概でちょうどいいと思うわ。もちろん傲慢になりすぎて暴君になっちゃっても困るけどね」
 イレーヌはそれからテレーゼに深々と頭を下げた。
「ごめん。王族でも無いあたしがテレーゼの気持ちも考えず好き勝手言って」
「そんなことないです。私、今までこういうこと考えたことなかった……」
 自分が王になる、という可能性を考えなかったわけではない。父王であるアルベルトと母レオノーラの間には男児がいない。そして祖父もまたアルベルトしか男児を儲けなかったため、嫡流男系の王族は自分しか居ない。傍流から引っ張るにしても王位継承順位は大幅に下る。これまでも母――本物の――や周囲の側近や官吏たちもテレーゼを行く行くは王に迎える意思があることをそれとなく伝えていた。
 今年十六歳になったテレーゼはこの建国記念日の式典が終われば、これから本格的に帝王学や政治学を学ぶ手はずとなっている。しかしこれまでたくさんの人間から王になるということをそれとなく伝えられても尚、自分が国王になるのだというイメージが湧かなかった。いや違う……
「私、たぶん考えないようにしてたんだと思う。王宮で何も不自由すること無く生活して、政治とか難しいことは無縁に過ごせるんだって」
 するとそのときテレーゼは徐にイレーヌの手をとった。突然手を握られたイレーヌは吃驚して目に狼狽を浮かべる。しかしテレーゼはさらにその狼狽の色を濃厚させるようなことを口にした。
「イレーヌさん。此度の騒動が無事解決できたら、王宮に入る気はありませんか?」
「えぇ?」
 テレーゼからの仕返し、と意図したものではなかったのだが、結果的に今度はイレーヌが目を白黒させる番だった。
「私にはまだ知らないこと、知るべきことがたくさんあります。だからもし、イレーヌさんがよければ私の相談役になって欲しいんです」
「私が――テレーゼの相談役?」
 この国では、それはただの平民が国王にお近づきになる唯一の手段にして最大の誉れだった。側近の一種でありアルゴス侯爵が狙う王室顧問のように政治に直接口を出せる立場ではないが、物事に対しての提言をすることは出来る。
「お母様の相談役にもデジレさんという方が居たんだけど、その方なんて元々孤児だったんですもの」
 今は罷免されちゃってるけど、という言葉を呑み込んだのは、デジレが姿を消したのも母の様子が変わり始めた前後だったから。そもそも、母が最初に取った異常な行動がデジレの罷免だった。あれだけ互いに信頼しあっていたのにどうして、というのが最初に疑問に思ったことだった。今から考えるときっとこれもアルゴス侯爵が一枚噛んでいるに違いない。
「でもあたしさっきも言ったように政治とかそんなの全然分からないのよ」
「大丈夫です。相談役というのは政治的な知識を求められるような役職じゃありませんから。私、本当に何も知らないからイレーヌさんのような方からの助言があればすごく安心できると思うんです」
 身を乗り出そうとした勢いで膝に乗っていたルナが転げ落ちそうになり、慌てて体勢を直した。詫びの言葉を述べつつテレーゼはルナの頭を撫でる。そして再びおずおずとイレーヌへと顔を向ける。
 イレーヌはかぶりを振った。そして言う。「駄目よ」
 呆けた表情をするテレーゼにイレーヌは顔を近づけた。
「また『自分は何も知らない』って口にしたでしょ。……でもそういう謙虚なことを述べるのも大事だと思うから……んー、難しいわね。そう、あなたは未来の女王。もっと女王らしく堂々と言ってみて」
 思わず「えっ」と漏らす。そんなテレーゼにイレーヌは「今あなたが王様なんだっていう気分で」と付け加えて軽くウィンクした。そして目を閉じて想像する。
 想像の中に浮かべるのは再び式典の間、即位の議。儀式の主役が母だったのを今度は自分に置き換えてみる。割れんばかりの喝采が自分に向けられる。そして目の前にひれ伏すのは式典の場にふさわしい礼服に身を包んだイレーヌ。参列者の中からロビンも顔をのぞかせる。神具である宝杖の先をイレーヌの左肩に当てる。
 コホンとテレーゼは一つ咳払いした。
「そなたには余の相談役になってもらいたい。余の目指す国づくりにはそなたの持つ知識が不可欠、是非その力を余の側で存分に役立てて欲しい」
 シン、と水を打ったような沈黙が流れていく。二人はお互いの顔を見合わせ、じっと動かないでいた。しかしやがて喉の奥から抑えられぬものが圧力を持って押し上がり、やがて二人はほぼ同時にその圧力に負けて口を爆発させた。
 その二人の笑い声にもう一方のベッドで横になっていたラッフルが驚愕して跳ね上がった。
「テレーゼ、あなたほんとにいい王様になれるわ。あたしが保証する」

わたぬけ ( 2012/08/04(土) 20:22 )