鳴らない鐘が響く時
 暫くの間誰も口を開かなかった。テレーゼは呆気にとられてどぎまぎし、イレーヌは現実感の無い表情でポカンと口が開いたままになり立ちすくみ、そしてロビンはというとそんな二人を全く意に介する様子もなく、荷物を荷物をまとめたり持ち物のチェックをしていた。そしてようやく思い出したようにテレーゼがイレーヌに向かって軽く、それでもって恭しい仕草でお辞儀をする。
 イレーヌはまだ今しがたロビンが何を口走ったのか理解できていないように、ロビンとテレーゼとに視線を交互に移らせる。
「えぇっと今の……本当?」
 ようやくイレーヌがおずおずとした様子で軽く腰をかがめながらテレーゼに問いかけた。自分の正体をイレーヌに伝えようか伝えるまいかとこれまでずっと悩んでいたテレーゼであったが、こうなっては仕方がない。
「ずっと黙ってて申し訳ありません」
 そしてテレーゼは肺に溜まっていた空気を吐き出すと、背筋を正し両の手を腹の上で丁寧に重ねる。
「ロビンが今おっしゃった通りです」
 イレーヌは何度か瞬きし、ようやく事の重大さが飲み込めたように眼の焦点をテレーゼに合わせる。そして何かを言おうと口をモゴモゴとさせるがそれらは意味の掴める言葉にならない。荷の準備を終えたロビンが呆れるようにそんなイレーヌを制止するとこれまでの経緯を掻い摘んで話し始めた。

 今王宮にいる女王が何者かと入れ替わっているかもしれないこと、その助けを求めてテレーゼがロビンの元に尋ねてきたこと、この件にはアルゴス公爵という人物が関わっている可能性が高いこと、二度目の訪問時に謎の集団に襲われて王宮に帰るわけにはいかなくなったためここに連れてきたこと。

「そういうことだったんだ。……いや、だったんですね」
 ひと通りの説明が終わるとイレーヌは漏らすようにそう言って、思いつく限りの上品さを意識する動作でテレーゼに向かって深々とお辞儀をした。その仕草を目にしたテレーゼは申し訳なく思う。同時に、なんとなくショックを受けた。
 するとロビンはイレーヌの視界の前に立ち所在なげに頭を掻く。
「それでさっき言ったようにお前にはこの王女様を連れて適当な宿に潜んでいてもらいたい」
 その意図を両者の外で耳を傾けるテレーゼは気取(けど)る。
「悪い、ここを宿にさせてもらったのは少し浅はかだった。もし奴らがここを嗅ぎつけたらイレーヌ、お前の身も危ない。幸い街は今二日後からの建国記念の式典や祭りのために国中から人が集まってる。宿もさぞ繁盛している時期だろう。奴らの目を欺くことには困らないはずだ」
 テレーゼはイレーヌの様子に目を向ける。イレーヌの顔には狼狽の色が浮かんでいる。それと同時に躊躇している念が漂って見える。
 テレーゼは改めて痛感する、自分の置かれている立場を。もしアルゴス侯爵の手の者たちがこの下宿を嗅ぎつけたとして、イレーヌが自分たちを庇い「そんな人知らない」と返したところで「はいそうですか」と引き下がってくれるとは到底考えられない。更に考えれば例えイレーヌが大人しく自分たちがここに居たという事を話したとしても、そのまま去ってくれるとも思えない。関わったというそれだけの理由で危害が及ぶ恐れがあった。
 やがてイレーヌの表情は時間がそうさせているのか泰然としていく。しばらく消えていた色が取り戻されていくのが見えた。
「じゃあ、テレーゼ様が良ければ」
 またしてもテレーゼの胸が小さく疼く。どうしてこんなに遠いんだろう、そんなことが過ぎっていく。ロビンはイレーヌの返事を受けて、次を言おうと口を開きかけた。そのロビンを押し退けるように早くテレーゼは声を漏らした。
「あの、イレーヌさん」
 ロビンとイレーヌ二人の目がテレーゼへと注がれる。だが声をかけてみたものの、テレーゼは今思っていることを口にしていいものなのか逡巡した。かえって余計に気を使わせることにならないだろうか。それでも王女は自分の思いを裏切ることが出来ない。
「私が王女だからって……そんな言葉遣いやめてください。今朝お話(はなし)してくれたように」
 イレーヌは目を丸くした。
「ロビンも私が王女だからって全然態度を変えてないじゃないですか。私、最初はそういう態度にすごくびっくりしました。でも不思議と嫌じゃなかったんです。だから今まで普通に接してくれてた方が、そんなふうに急に態度をひっくり返されたら、嬉しく……ありません」
 テレーゼは俯き加減になっていた顔を上げる。イレーヌとロビン、それからラッフルの姿が目に入った。
「だから……私が王女だからってそんな慇懃にならなくていいです。私、王女だからってなにも偉くないし、なにか出来るわけじゃないってことがよく分かったんですから」
 淀みなくテレーゼは言い切る。しばらくの間イレーヌは呆けたような表情をしていた。しかしやがてその顔に浮かぶ微笑。下宿のおかみは足元のラッフルと顔を合わせる。互いの笑みを交わし合うと、イレーヌはテレーゼに向かって歩を進めた。
「分かった。あなたが望むなら、あたしもそうする」
 イレーヌの話し方はまだ少しぎこちなかったが、それはテレーゼを破顔させるには十分だった。
 ようやく話がまとまったことを見て取ったロビンが咳払いする。
「さてと、そろそろこっちの話にも耳を傾けてくれないか」
 その言葉を聞くと、テレーゼとイレーヌは互いに顔を見合わせて笑いあった。だが次に口にした言葉によって二人の顔は一転して凍り付く。テレーゼに至っては一瞬ロビンが何を言ったのか理解できなかった。
「お前たちには女王陛下に直接連絡をとってもらう」



――こんな状況がいつまで続くのか。
 窓辺に置かれている椅子に腰掛け、外へとぼんやりと目を向けながらレオノーラは独りごちた。しかし外が視界に入っても女王は決して“見て”はいなかった。外と言っても所詮は中庭。中央に池があり、その畔には東屋。その東屋へと続く道が整然と屋敷の本宅へと続いている。生垣や並木が石畳に沿って置かれ、道の一本はこの離れにも続いている。庭の周りには全体を囲むように石壁が築かれており、その高さはこの離れの二階の窓の高さをゆうに越している。

 ふた月前の夜、あれはあっという間の出来事だった。あまりの事の進行の急さ、そして目の当たりにした信じられないモノ、女王はここに軟禁されてからもあの晩の出来事だけは未だに現実感を覚えることが出来ないでいた。
 先王であり夫であるアルベルトの命日の儀式を終えた後、人目を忍び最小限の側近だけを連れて夫が葬られている墓地に向かい、墓標の前で祈りを捧げる。儀式で捧げられるのは建前上あくまで先王への祈り。決して死別した伴侶への祈りではない。だからレオノーラは毎年儀式を終えた夜はお忍びで墓地へと向かい、夫の墓前で“妻として”の祈りを捧げていたのだ。それだから馬車には近衛兵一人すらも連れていない。
 そしてあの晩、祈りが終わり王宮へと帰る途上、襲撃されたのだった。周囲に人家の無い寂れた道へと差し掛かった直後、車を引いていたポニータが悲鳴を上げ、馭者が何者かと争うような声が聞こえた。馭者は最後に「陛下、お逃げください!」と叫んだ直後、断末魔を轟かせる。
 そして馬車の扉が破らんばかりに開かれ、声を立てる暇もなく外へと引きずり出された。地面へ引き立てられたレオノーラは周囲を見回し、自分の置かれている状況を悟った。周りを囲む黒い影の壁。しかもその壁は今にもレオノーラに向けて雪崩れ込まんとするような雰囲気さえ漂わせていた。空には雲がかかり、周囲の影が完全は闇に溶け込んでいる。しかしそれはなにも夜闇だけの仕業ではなく実際に黒ずくめの服装をしているからだと分かる。
 馬車からさらにもう一人の人物が引き出される。引き連れていた世話役の女性だ。女は引き立てられても、周囲に臆すること無く牙を向ける。
「何者です。一体この御方がどなたと心得ての狼藉であるか!」
 本人も、恐らくこの言葉が今や何の効力も持たないことを自覚した上での叫びだっただろう。その直後、取り囲んでいた黒壁から一つの影が歩み寄った。その時だった。雲が晴れ月光がその人物の顔に降り注いだ。
 レオノーラは一瞬、鏡を見せられているのかと錯覚した。なぜなら月に照らされたその人物は背の高さ、服装、髪型、髪の色、顔のシワ、それ以外にも枚挙にいとまがないほどにレオノーラと瓜二つ――いやその言葉すら足りない、レオノーラと全く寸分の狂いもなく同じだったのだから。
 その人物を前にして二人が呆けていると、背後から何かハンカチらしき布を口に押し当てられ、レオノーラの意識は一旦そこで途切れる。
 
 そして目を覚ました時、レオノーラはこの部屋のベッドに寝かされていた。傍らには椅子が一脚置かれ、そこにあの世話役の女が神妙な面持ちで腰掛けていた。
 お互いに目覚めの挨拶を軽く交わすと、自分たちが囚われの身に堕ちてしまったことを聞いた。そして女は今にも泣き出しそうな顔で体が折れてしまうのではないかと思うほどに深々と頭を下げた。
「陛下、此度の事態は全て私めの責任です。私めがこのような事が起こる可能性を考慮して、兵を連れて行けばこんなことには……」
 それは兵を連れて行くのを嫌がったレオノーラを暗に批判しているのではなく、本当に純粋に謝罪しているのだと感じた。世話役の女は名をデジレと言った。王宮入りして以来ずっと側に仕えていた彼女は言いたいことを遠まわしに伝えるようなことはしない。相手が王妃だろうと、また王位を受け継いで女王になろうとそれは変わらなかった。しかし、だからこそ余計に申し訳なく思う。
「面(おもて)を上げなさい。貴方のせいじゃありません。そもそも兵を連れるのを嫌がった私自身の責任なのですから」
 そうしてお互いを慰めあっている時、閉ざされていた部屋の扉が開き一人の男が入ってくる。囚われの二人はその顔に見覚えがあった。
「セルゲイ・アルゴス侯爵。此度の事は貴方の企てであるか」
「ええ。その通り。女王陛下におかれましては、あのような手荒な手段を用いての歓迎となり、深くお詫び申し上げます」
 言葉こそ丁寧であるが、その語調は低く重い。明らかにこちらに向かって敵意を示している声。デジレが「この下郎!」と吠える。
 牙を剥く女を宥め、レオノーラは目の前に立つ男にゆっくりと問いかけた。
「侯爵、あなたがやった事の意味を自身でお分かりであるか?」
「言うに及びません」
 その響きには注意して耳を傾けずとも分かるほどに憎悪と蔑みの念が含まれていることが分かる。
「ではなぜこのようなことを? 今頃王宮は私が行方をくらましていることで大騒ぎになっているはず。悪いことは言わない、今すぐ開放しなさい。そして罪を認め然るべき場で申し開きをすれば減刑も(やぶさ)かではありませんよ」
 朗々と語気でレオノーラは言う。しかし次の瞬間セルゲイは押し込めるような笑いを漏らし始め、やがてそれは耳障りな高笑いへと変貌した。
「サン・シュモール宮から陛下がいなくなったことに関してはお気遣いなく。なぜなら宮殿からあなたはいなくなってませんから」
「何を寝ぼけたことを――」
 その時女王はハッと息を呑む。思い出した。気を失う直前に見たものを。自分と全く違(たが)わぬ姿で現れたあの人物。自分が双子だったなどという話は聞いたことがない。田舎の両親もそんなことがあったというようなことは少しも匂わせたことがなかった。
 しかし実際にあの人物は頭のてっぺんからつま先に至るまで何から何まで同じ姿だった。もしあの人物が何食わぬ顔で王宮に戻ったとしても、周囲の誰もまさか女王が別人と入れ替わっているなんて夢にも思わないだろう。
 アルゴス侯爵はようやく笑いを鎮めるとまっすぐに視線をレオノーラへと向ける。その眼差しからはもはや憎悪や蔑みを隠そうともしない。
「『罪を認めれば減刑も吝かでない』か……。その言葉、そっくりそのままお返しする」
 再びデジレが吠え立てようとした所でレオノーラが「およしなさい」と喝をいれる。
「それは一体どういうことであるか。あなたとは何度か会ったことはあるが、あなたに対し何か罪を犯した覚えはない」
「罪の告白をするのは俺に対してではない」
 そして侯爵は突き放すようにくるりと背を向けた。
「思いだせ。思い出さず、のうのうと玉座に居座り続けること、それが貴様の罪だ」
 そう吐き捨てると、勢い良く扉を閉めた。
 少し間を置いて、ここでの間の世話係と称する男が何人かの女中を引き連れやって来る。そしてここはアルゴス侯爵の屋敷中庭にある離れであること、この離れの中でなら自由に行動できること、何か困ったことがあれば女中に申し付けよとのこと、そして庭は周囲を高い壁で取り囲み複数の獣が常に目を光らせているから逃げようとしても無駄だということが伝えられた。

 そして始まった軟禁生活。世話事態はよくやってくれるものの、必要な時以外は女中たちは決して口を利かない。用を済ませたら彼女たちは逃げるようにそそくさと姿を消すのだった。そして一週間に一度、セルゲイがやってきて「罪を思い出したか?」と問いかけてくる。だがレオノーラは答えようがなかった。思い当たる節が何一つ無いのだ。何か少しでも関係の有りそうなことを話しても毎回首を横に振られる。
 更に気がかりなことは一人娘テレーゼのことだった。セルゲイがやってくる度に問えば、「王女殿下はあなたが偽者と気づかず恙無く御暮らしだ」と蔑むように言う。レオノーラにはその言葉を信じることしか出来なかった。
 それでもなんとか耐えられたのはデジレの存在が大きい。最初は気丈に振舞っていたレオノーラが時間とともに次第に弱音を吐くことがあっても、デジレが必死に励ましてくれた。
 しかしそれももはや限界に近い。自分はどうなるのか、国はどうなるのか、そして何より娘はどうなるのか、それらの不安とこれまでずっと戦ってきたが、もはや抗う力も弱まり押し潰されそうだった。
 夕日はとうに監獄の如き――いや実際監獄なのだ――石壁の向こう側へと沈み、空には星が舞い始める。
 その時だった。
 中庭に潜んでいたヘルガーたちが何かに向かって一斉に吠え始めた。そのこと事態は特に珍しことではない。箱庭とは言え、自然のあるこの場所へ時々野生の獣が迷い込んでくる。そのたびにヘルガーたちが追い立てて追い出していくのだ。そういう事が起こる度に、レオノーラはひょっとして助けが来たのではと期待を抱くのだが、やはりその度ごとに折られてきたので今回ももはや期待はしない。
「今日はラッタの親子みたいですね」
 いつの間にか窓辺に寄ってきたデジレが言う。その声にはやはり期待の色は無い。ただのここに居続ける毎日のせいで、ほんのちょっとした出来事にも興味を抱かないことにはやっていけないのだ。
「ほら――あそこです」
 レオノーラにも見えた。東屋付近の茂みから何か影が飛び出す。やや大きいものが一つ、そのあとに続く小さいもの二つ三つ。まだわずかに残る夕日の残光でそれがラッタとコラッタの親子であることが分かる。そしてその親子を追うヘルガーたち。
 それっきり二人は興味を失う。またもう少しすれば完全に追い出されるか、運が悪ければ噛み殺されるかするだろう。そんなことを考えてしまうほど二人の心は疲弊を重ねていた。だからその時、カリカリと何かを削るような音がベッドの裏で鳴っても二人は少しの間気にも止めなかった。外ではまだラッタの親子を追い立てる吠え声が轟いている、その吠え声にかき消されていたせいもあるかもしれない。しかしやがて気づく。最初に気づいたのはよりベッドに近い位置に居たデジレだった。大きな声を出そうとしたが彼女はぐっと声を押し殺す。そしてまだ窓の外に目を向けていたレオノーラの耳元で囁いた。
「陛下、あれを」
 レオノーラはその方向へと目を向ける。すると床に付くほどにまでかかっているベッドのシーツの下から一匹のネズミが顔を出していた。コラッタだ。
 コラッタはきょろきょろと当たりを見回すと二人の側にちょこちょこと音を立てないように近づく。レオノーラもデジレもそんなコラッタを不審を抱きこそすれ、誰かを呼ぼうとはしない。ベッドの下から体の全体を出した瞬間にそれが見えたからだ。コラッタの背に丸めた羊皮紙が乗っており、それが紐でしっかりとその背に繋がれていたからだ。二人はなるだけごく自然を装い、コラッタと同じように音を殺して近づくと、コラッタに繋がれてた紐を解き、羊皮紙を拾い上げる。
 レオノーラがそれを開いた瞬間、感謝した。神に、このコラッタに、そしてあの世へ先立った夫に。
 そこに書かれていた文字はもはや疑う余地もない。この二ヶ月間ずっと身の安全を案じ続けた娘、テレーゼの筆跡だった。

わたぬけ ( 2012/07/29(日) 21:52 )