5
イレーヌは値踏みするように中空と目の前にいる少女の顔とに交互に視線を移す。その素振りに何となくテレーゼは緊張を催した。王宮では毎日のようにたくさんの人間と顔を合わせる。召使、王家と親交のある貴族、官吏や官僚たち。だから、テレーゼは人から視線を注がれていることには慣れている。しかし今テレーゼはイレーヌからの視線になんとなく気圧されてしまっている。これは初めてロビンの元を訪ね、彼と対面した時も同じだった。
「そうね。じゃああたしの分も持ってくるから、先に食べてて」
イレーヌはそんな風に微笑するとパタパタと部屋を出ていった。部屋に一人残されるとテレーゼはまだベッドの上で転がっているムンナを抱き上げた。それから今しがたイレーヌがカーテンを開いた窓へと近づく。この部屋は二階に位置していた。窓から外を見下ろすとそこは石畳の道路に面している。人々が頻繁に右から左へ、あるいは左から右へと行き交う。道の向かい側にはきちんと整列するように同じような造りの家々が並ぶ。窓を開けて洗濯物を干す者もいれば、扉から外に出て行き交う人々の中に混ざりゆく者もいる。規則的に響く乾いた音が近づき、ポニータの引く馬車が通りすぎていった。幌のない安い辻馬車だった。
王宮に居る時には全くと言って良いほど目にしない光景。ここは王都のどのあたりに位置するのだろう。テレーゼはふとそんなことを考える。
テレーゼはルナを椅子の上に座らせ、窓の鍵を解く。それから両開きの窓を外側へと押し開けた。まだ少し冷えているが、少しばかりむんわりとした外の空気がテレーゼの頬を撫でた。その空気には付近の家で作っていると思われる料理の匂いを始めとする王宮では嗅ぎ慣れないものを含んでいる。
「ほらルナ、こっちにおいで」
訳もなく心が昂ぶりようやく残っていた眠気を払った様子のムンナを呼ぶと同時だった。重々しい鐘の音が頭上から降ってくる。驚いたテレーゼは思わず窓から身を引く。ふわふわと浮かんできたルナも思わず己の主の肩に乗るように身を寄せた。
窓から身を乗り出し、よく見えていなかった空の方へと目を向けるとすぐにその正体が掴めた。
「セントラル教会があんな近くに……」
王都のシンボル。セントラル教会の大時計塔が向かいの建物の屋根越しに聳える。大時計の針は長針がXII、短針がVIIIを指しているのがハッキリと見て取れた。
「どう、驚いたかしら?」
後ろから声がしたので振り向くとイレーヌがスチールの盆に自分の分の朝食を載せて入ってきたところだった。よく見るとその後ろにもう一体、影が付いてきている。イレーヌが部屋に入ると、その影も続いて入ってくる。イレーヌの腰元に届くか届かないかほどの大きさで、その容姿は頭から大きな花が生えているのか、あるいは大き花から顔以下の身体が生えているのか分からないような姿。一見頭が重そうに見えるが、その者は意に介する様子もなくトコトコと歩く。藍色の体色に小さな目がこちらを向いていた。
「紹介するわね。この子はラフレシアであたしはラッフルって呼んでるわ」
へぇ、とテレーゼもルナも興味深げな視線を歩く大きな花へと注いだ。互いの視線が合うと、ラフレシアは珍しい来客にはしゃぐようにぴょんぴょんと跳ねながら鳴き声をあげた。
イレーヌの喋り方は実に闊達なものだった。その点ではロビンと正反対の印象を受ける。「お話しませんか」と呼び止めつつも何から切り出そうかと迷っていたテレーゼにイレーヌは他愛のない話から始め、いつの間にか自分のペースに巻き込む。テレーゼは始め彼女のことを「リドレイさん」と呼んでいたが、そんな他人行儀は嫌だからと「イレーヌ」と名前で呼ぶよう言い聞かせた。
「そうそう、朝食のパンに塗ってた蜜、どうだった?」
すっかりお互い空になった皿に視線を置きつつイレーヌは尋ねた。
「すごく美味しかったです。なんだか不思議な味、……色んな香りがして」
まだ口の中に残っている味の余韻を反芻させながらテレーゼは感想を述べる。その言葉に勿体ぶるようにイレーヌは小さく笑った。
「ありがとう。何の蜜だと思う?」
「さあ、……こんな味初めて」
そう答えるとイレーヌは側に控えていたラフレシア――ラッフルと顔を見合わせ、示し合わせるようにして揃ってテレーゼに向けて視線を流した。きょとんとするテレーゼにラッフルは自信ありげに腰に手を当てる。
「ひょっとして、ラッフルの……」
「その通り。知り合いで養蜂をやってらっしゃる方のミツハニーに時々この子の蜜を集めてもらってるの。ちょっとこの子の花に近づいてご覧なさいよ」
言われるままにテレーゼはラフレシアの大きな、肉厚な花弁に顔を近づけてみた。見た目は暗い色がかかった赤で、少しばかり不気味とも言えた。するとその大輪を形作る花から鼻孔をくすぐる香りが漂い、それはさながら燦々と太陽の光の降り注ぐ花畑に横になったような心地である。
「ほんとだ。パンの蜜と同じ香り」
その時テレーゼはこの香りと同じ蜜が王宮の朝食でも出されたことがあったことを思い出した。確かに同じ味と香り。しかし不思議な気分だった。王宮で出される食事は国中の最高の食材を集め、最高の料理人を雇っての、一品一品がさながら瀟洒な建築物であるかのような超一流の料理であるはず。だというのに、パンに塗る蜜一つ取っても例え同じ食材であっても今しがた口にしたものには遠く及ばない、そんな気がした。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもありません」
不思議だ、テレーゼは思う。その気持ちがどこから端を発するのかはまだわからない。テレーゼは連れてきたムンナに目をやる。ルナは自分と似たような生き物であるラフレシアのラッフルの周りを興味深げに飛び回っている。その顔にあるストローのような鼻で赤く大きな花弁を嗅いでみたり、頭の上にある花の中心である穴を覗きこんだり。
ヒョイとラッフルが頭をあげると、今まで花弁に隠れて見えなかった顔がルナの前に現れ、お互いの黒々とした目の視線が中空でぶつかる。――驚愕。ムンナはドッキリとたじろいだ。
「まあ、ラッフルったら。その子が気に入ったみたいね。……ええっと、この子は――」
「ムンナです。名前はルナ」
「ルナ。いい名前ね。テレーゼさんが名付けたの?」
「はい。十歳の誕生日にお母様から頂いて」
「そうなんだ。あなた今、何歳?」
「十六です」
十六――。イレーヌはその数字を口の中で復唱する。
「初めてあいつに会ったのと同じ歳だわ」
「あいつ……?」
「あなたが今頼ってるあいつよ」
はっと息を呑んだ。思わず飛び出したクインズ探偵の話題。テレーゼが思わず見たイレーヌの目は樹の幹のように深い蘇芳を湛えていた。
「イレーヌさんも確か、ロビンにお世話になったとか」
「そうね、二度もね」
二度も? テレーゼは思わず繰り返した。
「一度目はあたしが今の貴方と同じ十六歳の時。あたしのお父さんの身にちょっと面倒な事が降りかかっちゃってね。その時頼ったのがまだ名を上げる前の彼。そして二度目は――」
その時イレーヌが目を細めた。その眼差しには深い水の中から水面を見上げるような寂寥が見え隠れする。しかしその眼差しはすぐに消え、底からの微笑みが湧き上がる。
「四年前にね、あたしの旦那が亡くなったの。おっと、あなたが気に病むことないわ」
そう言われたものの、やはりテレーゼは胸の内に冷たいものが闊歩していくのを止めることが出来なかった。『夫人』とは言ったがその伴侶の姿が見えないと思ったらそういうことだったのか。
「道を渡るところで急ぎのギャロップを走らせていた馬車にはねられてね」
「それって――」
「ああ、勘違いしないで。あれは何の事件性もないただの事故。その時の馭者はその場で出頭したわ。ただ、その直後からあたしの身の回りでちょっとおかしなことが相次いでね。どうすればいいのか分からなくて右往左往しているところに、ロビンと再会したの」
再びイレーヌは目を細めた。今度は先のような寂寥は湛えていない。当時のことを思い出して楽しんでいるかのようだった。
それからイレーヌは当時の事件とその顛末をかいつまんで話してくれが、やはりその様子には事件での嫌な思い出や伴侶を失った悲しみはおくびにも出ていなかった。事件のことは彼女の中で既に過去のものとして昇華されているのだ。
ふと、テレーゼは母のことに思いを馳せた。母もまた夫に先立たれた、言ってしまえば未亡人だった。母の立場は元より王はもちろんのこと、王族の妃に迎えられることさえ憚られる立場だった。それが当時は王子であり後に王となる父に見初められ、未だ語り草となる大恋愛を演じた末の結婚。生涯の伴侶を失い、その指輪を片時も手放さないと誓った母の心情は如何程のものだろうか。改めてテレーゼは今王宮にいる母が本物の母であるはずがないと確信する。
「ま、そんなこんなで以来あたしはロビンに何かと協力してるってわけ。今回みたいに空き部屋を宿として貸すこともあれば、街の噂話を集めたりね。全く、両親からは喪もとっくに開けたんだから再婚したらどうだとか言われてるのにね」
その時テレーゼは何となく悟った。ロビンのことを語るイレーヌの楽しげな様子。イレーヌはロビンのことが好きなのかもしれない。それがいつからなのかは分からない。しかし始めに見せたあの寂寥をたたえた眼差しから考えると、前の夫もきっと心の底から愛していたに違いない。ロビンと再会して事件を解決した時からだろうか。それともロビンに協力していくうちにだろうか。
「ロビンとは一緒になろうとか考えないんですか?」
口にした後で後悔する。いくらなんでもなんて不躾な言い草なんだと。だがしかしイレーヌはその言葉にも全く気にしていないようだった。寧ろ自分の胸の内を見透かされたかと、頬を僅かに紅潮させて苦笑いした。
「そうね。そんなことを考えたこともあったわ」
その時、イレーヌの表情が俄に曇った。それは亡くなった夫のことを話した時と似たように見える。
「でもね、駄目なのよ。二年前にあいつのラフトとは別の……もう一体の相棒が居なくなった時から」
イレーヌはぼんやりと宙に視線を注ぐ。それは目の前にあるものよりもずっと遠くを見渡しているようだった。テレーゼが竦んで口を閉ざしていると、「さてと」という声と共にイレーヌが勢い良く立ち上がった。
「久しぶりに話し込んじゃったわね。喉も乾いたわ」
そう言うとイレーヌは空になったお互いの皿やカップをカチャカチャと重ね、持ち上げる。
「あなたが良ければまたお話しましょう。ただ……今の話の続きは出来れば遠慮して欲しいかな」
やっぱり触れてはいけなかったんだ。思わずテレーゼの口から謝罪の言葉が漏れる。しかしイレーヌは微笑みながら首を横に振った。
「気にしないで。ああ、それと……。あいつにもあたしが今の話をしてたこと、内緒にしておいてね」
そしてイレーヌはラッフルと一緒に部屋の外へと出ると、ゆっくりと扉を閉めた。無意識の内に椅子から立っていたテレーゼは、ゆっくりと元の椅子に腰掛ける。
豹変――とまでは行かないが、イレーヌの態度の急変はやはり普通とは言い難いものがあった。
「二年前かぁ……」
一体何があったんだろうと思いつつ、これ以上踏み込んではならないという気持ちが鬩ぎ合う。同時にテレーゼは別のことを考えた。
二年前というのはちょうどテレーゼの父、そしてレオノーラの夫であるアルベルト王が病に倒れ、崩御した時期だった。
あの時は父を失った悲しみに自信が支配されていたのを思い出す。治療の甲斐無く日に日に弱っていく父の姿を見ておられず、ずっと部屋に閉じ篭っていた。そして崩御の知らせが届いた時も現実感が無く、まるで演劇の一場面を見ているかのような心地だった。周囲が葬儀に向けて慌ただしく動き、またその葬儀も王葬であるため遺体を棺に入れること一つにおいても仰々しい儀式を執り行っていたことも遠因となっていたのかもしれない。
しかしそれでもやがて悲しみは胸に突き刺さり、暫くの間は一日中泣き明かすこともあった。
しかし今頭の中にチラつくのは母の姿。レオノーラは決して周囲に対していたずらに涙を見せることはなかった。しかしテレーゼは知っている。出棺の直前、最後の別れの折に見せた母の涙を。まさかあの時、母が指輪を抜き取っていたとは思わなかった。
「お母様……きっとお助けします」
目の前にまるでその母が居るかのように、誰もいない宙に向かってテレーゼは呟いた。
桶に貯めた水に皿を浸しながらイレーヌは思慕する。
「あいつ、ほんと馬鹿なんだから。もう無理しなくていいのに……」
桶の水面に移った己の顔には、碧雲の如き微笑が浮かんでいた。