41 【23時55分】
ゆらりと"ロビン"は立ち上がった、右手で傷ついた左肩を押さえながら。呼吸のたびに肩が上下する。ぴちゃり、ぴちゃりと肩の傷からは赤黒い血が流れ落ちていた。倒れている間に血は色違いゾロアークとしての持ち前である青い鬣の一部もどす黒く染めていた。
対するギデオンは疲弊した"ロビン"の姿を視界に収めているのがただただ愉快であるらしかった。憚る風もなく牙と牙の間から嗤い声を漏らしている。
「さぁてと、もう一度訊こうか。オレのやってることとオメエのやってること、いったいなにが違う? オメエはいったいなんのためにずっと探偵のふりをしていた?」
わざとらしい口調で煽るギデオン。ギデオンの目的が"ロビン"には透けて見えるようだった。挑発し、怒らせた上で完膚無きまで叩きのめし、相手の矜持をへし折り切り刻んだ上で殺す。女王としての幻影を剥ぎとられたギデオンの怒りの程を感じる。しかしだからといってこんな安い誘いに乗るつもりはなかった。ただこれだけを口にする。
「おまえには分からんさ」
傷口を押さえていた右手を離し、全身の力を抜く。『こうそくいどう』を発動させる。次の瞬間、"ロビン"の輪郭は曖昧となり、猛烈な速度でギデオンの周囲を残像で囲んだ。ギデオンは一歩後ずさり、文字通り目に留まらぬスピードで動き回る"ロビン"に言った。
「へぇ、まだ十分元気じゃねえか」
右へ左へ、後ろへ前へ、近づいたと思ったらまた遠ざかる。それを高速で不規則に繰り返し、"ロビン"はギデオンを翻弄する。まだ残っている三本の柱の側面に乗っかるように足をかけ、そのままギデオンの背後から迫った。すんでのところでギデオンが気づく。しかし"ロビン"の方が早い。ザン、と"ロビン"の爪はギデオンのわき腹あたりを切り裂いた。しかし手応えが甘い。ギデオンがすんでのところで回避行動を取ったのもあったが、やはり『こうそくいどう』と併用しての攻撃は制御が難しい。
ならば、と"ロビン"は止まることなく、次の攻撃に移る。ギデオンが攻撃を受けて一瞬ふらついたことで生じた隙を逃さない。瞬時に今度は正面に対する位置へ移動する。右肩を張り出すように体を丸め込み、そこから一直線にギデオンへと突進。そして接触。
「うおっ」
ギデオン息漏れの声が響く。"ロビン"の張り出した肩はギデオン胸を貫くように命中。勢いでギデオンの体は宙に浮き、二メートルほどとばされたところで転がりながら仰向けに倒れ込む。しかしすぐに起き上がり、まるで攻撃されたことさえ楽しんでいるかのように笑い声をあげた。
「いいぞ。やるじゃねえか」
口の中を切ったのか血の混じった唾を吐き捨てる。
"ロビン"は追撃の手を緩めまいと、さらに突進し爪を振り上げた。そしてギデオンに向かって振り下ろそうとしたその時だった。ギデオンは"ロビン"の腕を掴み、攻撃を完全に受け止めた。両者はどちらも牙をむいていたが表情はそれぞれ異にしている。ギデオンは勝ち誇ったような笑みを浮かべ、"ロビン"のそれは狼狽の色であった。
「どうしたぁ? 動きがはじめに比べてだいぶ鈍ってきてるぜ」
そしてギデオンは"ロビン"の右腕を自身の左手で抑えつつ、もう片方の手に力をためる。
――まずい。
咄嗟に後ろへと引き下がろうとする。だがそれよりも前にギデオンが"ロビン"の右腕を押さえ込む。それによって動きが一瞬遅れた。
ズン、という鈍い衝撃が波紋のように全身に広がった。ギデオンの右手より放たれた『ナイトバースト』がゼロ距離で"ロビン"の鳩尾に直撃した。ぐるんと意識が散り散りとなる。声にならない呻きを上げ、"ロビン"の体は勢いよく宙に浮く。空を仰ぐが夜の闇に染められているはずの空は、白濁とした意識で白く見えた。もし、"ロビン"を受け止める者がいなければ、彼は塔の頂きから真っ逆様に百メートル近く底の地上へと落下し、そこで体のあらゆる部分を飛び散らせていただろう。しかし、塔の柱が彼を受け止める、それも乱暴に。
背中から柱に叩きつけられる"ロビン"。全身がバラバラになるかと思うような衝撃。なにかの破砕する音が聞こえる。それが柱に施された彫刻が砕ける音なのか、あるいは"ロビン"のどこかの骨が砕ける音なのか知れない。
そしてうつ伏せに崩れ落ちる。ケタケタと嘲笑の声ばかりが耳につく。"ロビン"は顔を上げる。ただそれだけの行為ですら重く感じた。
「まだ死んでねえよなあ? それでいい。オレの怒りはこれくらいじゃ収まらねえんだ」
立ち上がろうとひじをつく"ロビン"にギデオンは恰もゴミをあしらうように蹴りを入れる。しかもそこは今の"ロビン"にとっての最大の急所、切り裂かれた左肩だった。
肩ごと引きちぎられるような痛みが駆けめぐる。目が潰れるほどに瞼を押し閉じ、せめて叫び声をあげぬように抵抗する。それがのどの奥から声ならぬ声となって漏れた。
それが収まるのを待たずさらに追撃が襲った。
今度は"ロビン"を腹から突き上げるように蹴飛ばす。内蔵がねじれるのを感じ、たまらず中のものを吐き出した。ビチャリと吐瀉物がまき散らされ、胃酸のツンとした臭いが漂う。出せるものを出して"ロビン"は激しくせき込んだ。四つん這いになるその姿をギデオンは見下ろす、垂涎の狂喜をその目に湛えながら。
「あーあ、様ァねえなあ」
痛覚が全身を蝕み、意識が散漫になる。水の中に入ったように周囲の音が輪郭を失っているようだった。だからギデオンがなおこちらに何か言ってきても認識が曖昧となって意味がとれない。頭を上げても上手く焦点が定まらない。
「もう死ぬか?」
それだけが聞き取れた。
ギデオンはやおら右腕を構えると、そこから今一度『ナイトバースト』のための気を溜める。月明かりのもとで夜の闇よりもなお暗い闇色の丸い弾が、ギデオンの右手の中で膨れ上がる。中に詰まっているエネルギーが外に漏れるのか、時折パチと空気が爆ぜた。"ロビン"は立ち上がろうとするが体が言うことを聞かなかった。すでに塔の端まで追いつめられている今、あの『ナイトバースト』の直撃を受ければその衝撃で地上へ落下することは免れない。そうでなくとも、全身にダメージが蓄積しているなかでこれ以上攻撃を受ければただでは済まないだろう。
『ナイトバースト』をまとわせた右腕を、ギデオンは天高く振り上げる。
「落ちて死ぬまでの間に俺に恥をかかせたことを詫び続けろ!」
そして腕を振り下ろす。そのとき、何か別の音が聞こえた。耳鳴りのような甲高い風切り音。
ギデオンの手から闇色の弾が放たれた。本能的に"ロビン"は堅く目をつむり、歯を食いしばる。
だが『ナイトバースト』は"ロビン"の体からわずかに逸れ、そのまま夜の闇の向こう側へと消えていった。なにが起こったのか。"ロビン"は思わず目を見開く。
依然としてギデオンはそこにいた。しかしさっきまでと様子が違う。体をだらりと前に屈め込み、肩越しに後ろに向かって刺すような視線を送っているように見えた。背後より何らかの攻撃を受けたのか、背中から細い煙がいくつかの筋となって漂っていた。そのギデオンよりさらに向こう側に立つ影がある。
「テレーゼ……?」
思わず立ち上がろうとするが体の痛みで思わず呻き膝をつく。
テレーゼは視線を"ロビン"へと移す。しばらくじっと見つめた後、謝罪するように軽くこうべを伏せると、意を決したようにギデオンを見据えた。
「"ロビン"から離れて」
「戻ってきやがったか」
ギデオンが攻撃を受けた背中をさすりながら人間の言葉に戻した。
「ちょうどいい。王女様にも訊いてみるとしようじゃねえか」
「よせ。近づくな」
"ロビン"が言い終えるのも待たず、風の如き早さでギデオンがテレーゼの前まで迫る。
テレーゼは気圧されて後ずさった。自分よりもはるかに体の大きい獣。さきほど自分が受けた振る舞いを思い出し、恐怖が口を開けた。ルナがテレーゼを助けようと近づく。
「待って。ルナ、手を出しちゃだめ」
自身の恐怖を振り払うように声を挙げた。ギデオンの冷酷な嗤いが耳についた。
「いい判断だな。さあてと、王女様に訊きたいことは一つ。オレがやっていたことと、奴がやっていたこと。いったいどこに違いがある?」
さきほどの"ロビン"への問いかけを、ギデオンはテレーゼに投げつける。
「あなたと、"ロビン"の違い?」
テレーゼは反芻した。
風が吹き荒れる。空気が、まるでなにか巨大な生き物の彷徨のように唸った。
「なんにもねえよなあ? 所詮、どっちも幻影で他人を騙してたに過ぎねえからよ。王女さん、オメエさんもあいつに騙されてたんだぜ?」
ギデオンはそれが唯一絶対の答えであるかのように高らかに言い放つ。
ロビンはことの趨勢を見守りつつも歯噛みしていた。一瞬でいい。ギデオンが一瞬でも隙を見せれば一撃を食らわせる自信があった。しかし相手は背を向けつつもその意識を片時もこちらから放していない気配を感じる。あたかもギデオンの背中に第三の目があり、こちらに常に睨みを利かせているかのようだった。
「さあ、王女様。さっさと答えてもらおうか。オレは化けてないときは我慢強くねえからよ」
ギデオンが爪の一本を立て、カミソリを当てるようにそれでテレーゼの首筋から顎にかけてを撫でた。
テレーゼが顔を伏せた。それをギデオンは恐怖に竦んでのことと解釈する。
「そろそろ時間切れ……」
「違うわ」
ギデオンの言葉に、テレーゼはそう一言覆いかぶせた。
一瞬の沈黙。
「んだと?」
ギデオンは目を丸くして言った。
すると顔を伏せていたテレーゼが、顔を上げた。同時にギデオンの手を振り払う。
「全然違うわ。"ロビン"は誰かを傷つけたくてクインズ探偵になりすましていたんじゃない。上手く言えないけど、わたしには分かる」
すると王女は目に月の光を宿して"ロビン"に視線を注いだ。
「"ロビン"。あなたはずっと本物のロビン・クインズが帰ってくるのを待ってた。クインズ探偵に何があったのか知らない。けど、いつでも彼が帰ってきていいように、彼の居場所を守り続けるために、ずっと彼のふりをしていたんだよね」
「テレーゼ……」
そしてテレーゼはギデオンに視線を戻す。今度はそこに厳然とした怒りを宿して。
「"ロビン"は大切な人の場所を守るために力を使い続けてた。誰かを騙して傷つけるためじゃない。たくさんの人を傷つけ、たくさんの人を弄んだあんたなんかとは違う。あんたなんて、ただ自分の力に酔い知れてるだけじゃない。あんたなんて、あんたなんて……」
恐怖を必死に撥ねつけているのと、感情の高ぶりとが同時に押し寄せる。目尻が熱くなり、声が掠れるのを感じた。
「"ロビン"の足元にも及ばないわ」
言い終えたとたんテレーゼは体に衝撃を感じ、後ろ向きに倒された。ギデオンがテレーゼを突き飛ばしたのだ。
「図に乗るなニンゲンがァ!」
倒れたテレーゼに追い打ちをかけるべく、ギデオンが爪の光る腕を振り上げた。
しかしその瞬間、吹き荒れる風を切り裂くように近づくものが、ギデオンを左から切り裂いた。ギデオンの顔が苦悶にゆがんだ。"ロビン"だった。怒りの感情に駆られたことによってギデオンから背中の目が消えていたのだ。その好機を"ロビン"は逃がさなかった。奇しくもギデオンが受けた傷の場所は"ロビン"と同じ左肩。
「テメエ……」
倒れようとした体を立て直し、俊敏な動きでギデオンは距離をとる。
「ルナ」
立ち上がったテレーゼが叫び、両腕を差し出した。。名を呼ばれたムンナは、己が呼ばれた意味を悟る。テレーゼの次の言葉を待たずして、ルナは彼女の腕の中に収まる。
「お願い」
それを合図にルナの体が青白く光り出す。それはまるで塔上の月だった。ルナは己の力を振り絞り、光を強める。
ルナ、がんばって。わたしもがんばるから。テレーゼはルナやさしく抱きしめる。その腕を通して自分のいのちを注ぎ込む。やがて青白い光がルナから離れたかと思うと、中空でひときわ強く輝き、そして収斂して消えた。
なにも起きない。空には本当の月が浮かぶがらんどうの闇だけが際限なく広がっている。
ギデオンが動いた。石の床を蹴り、テレーゼへと迫る。しかし"ロビン"がその間に割って入る。ロビンの爪がギデオンの爪を弾く。火花が散った。ギデオンの悪態が漏れた。
「テメエはさっさとくたばりやがれ」
ロビンとギデオンが戦っているそばで、テレーゼは固唾を飲んで見守るしかなかった。腕の中ではルナがぐったりとしている。ルナは精一杯やってくれた。あとは結果がどうなるかだ。
半歩ほど後ろに下がったとき、からんと乾いた音がした。ハッとして後ろを振り向く。そこは塔の四つ角の内、床ごと崩れ落ちた箇所。まだ床が続いていると思っていたらそこで途切れ、ななめに断崖のようなごつごつとした断面を晒している。夢中になっていて気づかなかった。もう半歩大きく後ずさっていたら、足は床を踏み損ない真っ逆様に落ちていただろう。サッと肝に冷たいものがよぎり、崩壊面から離れようとした。そのときだった。
まるで大気そのものが彷徨するかのような吼え声が轟いた。思わずテレーゼはその場にしゃがみ込む。ギデオンの『バークアウト』。"ロビン"を見る。彼はギデオンから少し離れたところで耳を頭ごと押さえ込んでいた。
「"ロビン"!」
彼女が呼びかけた時、視界が突如下にずれた。"ロビン"がこちらを振り向く。駆け寄る。
「そこを離れろテレーゼ!」
さらにガタンという振動が足下で起こり、直後テレーゼの足は重力を感じなくなった。
テレーゼの体が宙を泳ぐ。"ロビン"が飛び込む。落下するテレーゼの胴に、"ロビン"は腕を回し込みしっかりとつかむ。ガクンと衝撃で肺の中の空気が押し出さた。落下が止まった。しかし明らかに足は床も地面もついていない。押し出された分の空気を吸い込み、おそるおそるテレーゼは瞼をあけた。おもわず漏れた息が声ならぬ声を作った。
テレーゼの体は塔からはずれ、百メートル以上の高度で宙づりになっていた。先の『ナイトバースト』のぶつかり合いによって石の床、とくに崩れ落ちた柱あたりを中心に無数のひびが入り脆くなっていた。そこに『バークアウト』が伴う振動によってテレーゼが立っている場所が重量の限界を迎え、崩れ落ちたのだった。
落ち行くテレーゼを宙に留めたのは"ロビン"であった。彼は右手を崩壊の断面のでっぱりを掴み、そして左腕でテレーゼを抱き抱えていた。
「絵に描いたような最悪な事態だな」
苦しそうな声で"ロビン"が悪態をついた。荒い息づかいをテレーゼは耳にする。テレーゼは腕の中のルナに呼びかけた。
「ルナ、ルナ!」
ムンナはまどろみから醒めたようにふわりと浮き上がる。
「『テレキネシス』でわたしたちを上まで運んで」
ルナが瞑想するように目をつむり、二人は重力の束縛から解放された。"ロビン"が大きく肩で息をし、掴む必要のなくなった右手で左の肩をおさえた。
「ごめんなさい」
それだけをテレーゼは口にする。左肩の傷も厭わず、"ロビン"はテレーゼの体を支えていた。
「逃げろと言ったのに、なぜ戻ってきたんだ」
「あなたを、死なせたくなかったの」
自嘲気味に"ロビン"は鼻で笑った。
「俺は――」
「待って」
"ロビン"の声をテレーゼが遮る。おかしい、と思った。ルナが『テレキネシス』をしてくれているはずだのに、二人の体は中空を浮かんだまま上がろうとしない。テレーゼがルナを見やる。そこには辛そうな表情で己の力を使うムンナの姿があった。
テレーゼは悟る。さっきの"アレ"で思っていた以上にルナは消耗している。もはや『テレキネシス』だけでは二人を上に運べず、空中で維持させるのに精一杯であるようだった。ルナがテレーゼに申し訳なさそうな表情を向ける。そんなルナにテレーゼは首を横に振ってねぎらいの言葉をかけた。
「いいの、あれだけ頑張ったんだもん。気にしないで」
そして今一度上を見る。こうなればもう選択肢は一つしか残っていない。
「"ロビン"聞いて。あなたの幻影の力を貸してほしいの」
突拍子もない質問に"ロビン"は目を皿にした。
「どういうことだ?」
「ルナも力を使い果たしかけている。時間がもう無いの。手短にさっき思いついたことを話すわ」
そしてテレーゼは話した、下層の機械室で自分が思いついたことを。とはいえ、あのときはまさかこんな状況になろうとは思いもしなかった。
内心、本当に上手く行くだろうかという懸念がつきまとった。だけどこの手は"ロビン"でなくては決して成功しない。
話が終わったとき、"ロビン"の返事は分かりやすいものだった。
「分かった。その手に賭けてみよう」
「でも正直、本当にそれが起こるかどうか」
「大丈夫だ。お前がやり遂げてくれるんだろう?」
"ロビン"が再び石材のでっぱりに手をかけつつ笑いかけた。
「おおっと、なんか話し声が聞こえると思ったらまだくたばってなかったか」
見上げるとギデオンが塔の上からこちらを見下ろしていた。いや、『見下し』ていた。そして笑っていた。
「だがもう終わりだな。ニンゲンの言葉で言う『万事休す』って奴か」
ギデオンは再び『つめとぎ』を始めた。シャッシャッシャと鋭い音が鳴る。そのたびに彼の爪が輝いた。
いよいよ行動にでる。
その矢先にまたギデオンの声が降ってきた。
「さてと、もういっか。死ぬか」
そう言ってギデオンは腕にまたしても『ナイトバースト』を放つための気を溜め始める。いまここであの技を受ければ、いや、もはやあの技でなくとも落下は免れない。ルナは間もなく『テレキネシス』に使うための力を使い果たす。どちらにしてもこのままでは訪れるのは死のみである。だから賭けにでる。
そのとき、下の方から轟音が響いた。四つの音にきれいに調律された鐘の音。ついに時鐘が鳴り始めた。下層の四つの鐘が順に鳴るのは、各時刻〇分の三十秒前。まだ離れているとは言え、あまりの音に耳鳴りがした。
「ねえ」
テレーゼが"彼"にだけ聞こえる声でささやいた。
「なんだ」
「名前、教えて」
「どうした。こんなときに」
「こんなときだからこそよ。わたし、まだあなたの本当の名前を知らない」
下層の鐘が前半のフレーズを鳴らし終えた。ここまで十秒。
「あなたが本当に名乗りたい名前、本当に呼んでほしい名前があるのなら。教えて」
後半のフレーズが始まる。このフレーズが鳴り終えてさらに十秒後に〇分となる。
そのとき、"彼"がわずかにこちらの方に首を回した。金色に輝く瞳が見えた。
「一度だけ言う。ジーマだ」
「ジーマ……」
不思議な気持ちだった。今はじめて"彼"に会った気がする。その名前の響きを何度か口の中で繰り返したあと、テレーゼはキッと天を仰いだ。
「行こう、ジーマ」
鐘の音がとぎれた。後半のフレーズが終わったのだ。余韻がこだまする。そのときずっと空の上で何かがきらりと光った。
青のゾロアークの目に金色の光が帯びる。それと呼応するかのように空の上の光は姿を消す。そして足と手に掛けているでっぱりに力を込めた。体がふわりと浮き上がる。
その瞬間、ルナの『テレキネシス』がついに力を失う。
――ありがとう、ルナ
心の中でいたわりの言葉を述べ、テレーゼはムンナをボングリのなかへ戻した。
最初の勢いが衰えぬ内に、青のゾロアークは断面を駆け上がる。そして大きく跳躍し、ギデオンの遙か上から落下に任せて腕を振り下ろす。
しかしギデオンの方が早い。ギデオンの腕にまとっていた『ナイトバースト』を放つ。闇色のエネルギーの固まりが二人を襲う。だが、その瞬間ギデオンに向かって降ってくるその影が消えた。しかし、ギデオンは狼狽えない。
「だろうと思ったよ」
すかさずギデオンは爪を構える。そのためにさっき念入りに『つめとぎ』をしたのだ。はじめに落ちてくるはずだった影に遅れて、今度こそ青のゾロアーク、そしてその背に負ぶさるテレーゼの姿が降りてきた。ギデオンは腕を振り上げた。こっちは『つめとぎ』を積んだことで殺傷力は向こうのそれより遙かに上回っている。たとえ向こうが同じ『つじぎり』で対抗してきたとしても、それを撥ねのけ王女もろとも真っ二つに出来る自信が彼にはあった。『つめとぎ』で洗練された爪が赤い光を帯びた。
しかしそのときギデオンは違和感を覚えた。落ちてくる青のゾロアークの目だった。異様に細まっている。同じ化け狐だから分かる。幻影を使っているとき、使う者の目はまるで残月のように細まる。だとしたらいったい何に幻影を使っているのか。だが、それにもう幻影があろうとなかろうと関係ない。落ちてきた瞬間この爪によって真っ二つにされる運命なのだから。ギデオンは勝利の確信でほくそ笑んだ。
実際ギデオンには彼が何に幻影を使っているのか、それを探るにはあまりに時間が無さすぎた。
テレーゼは青のゾロアーク、ジーマの背の上にいて、心の中で叫んだ。
――やり遂げる。必ずやり遂げる。たとえわたしが出来なくても、この街の人が、この国の人が必ずやり遂げる。だから……
ギデオンの勝利への雄叫びが聞こえた。
「死ねええええぇぇぇ!」
――だから響け、鐘よ
そのとき、ジーマの細まっていた目が元に戻る。
ギデオンは二人の方へ見上げていたから気づかなかった。自分のすぐ後ろに何か巨大なものが瞬時に現れたのを。ルナが全身全霊を賭けた『みらいよち』によって、いつとも知れぬ未来から呼び出したものを。
ゴトン。下の時計盤で、時針と分針がついに頂きでお互いの体を重ね合わせた。
――鳴らない鐘よ