40 【23時50分】
セントラル大教会前の円形広場にもやはり人の集まりがあった。広場の円周に沿って様々な露店が建ち並び、中央では流れの楽人たちがフィドルやギターを鳴らして地方ごとの民謡を唄い、周囲の人々はそれに合わせて手拍子を打ったり一緒に口を合わせていたりした。そんな円形広場の人々をまるで見守るように、大教会の門前に建つものがある。始祖王、イェーガー・ダン・ジオノのブロンズ像である。大教会の建設に併せて作られたもので能書き文の銘が彫られた台座にギャロップに乗った姿で表されていた。左手は手綱を持ち、右手にはある霊山の頂上でエノーラ平定の誓いを立てた際に天より授かったとの伝説のある槍を高々と掲げていた。人々はもうすぐ打ち上がる花火を今か今かと待ち構えている。ジオノより発せられる視線はまるで何も知らぬ人々に何かを訴えんとしているかのようだった。事実として円形広場にいる人々は王宮で起きた騒ぎなど知る由もなかったし、その当事者たちが今時計塔の上にいることなど考えにも及ばなかった。
「何が言いたい?」
"ロビン"が問い返す。
「別に深い意味はないさ。たしかにオレはいろんなニンゲンに化けて好き勝手してたよ。化け狐の種族として俺のやってたことは間違いだろうよ。だがそれはテメエの言えたことか?」
ギデオンの突き刺すような視線とともに発せられた言葉。"ロビン"の胸に何かが殴打する。その感触は蝕むようにじわじわと全身へと広がっていく。だが同時に彼はその感覚を圧し殺す。一瞬焦点の揺らいだ視界で、ギデオンが何かを仕掛けんと足をぐっと低くかがめて力を溜める姿が映ったからだ。
刹那、ギデオンの爪の光る腕が迫る。あたかも弾丸の如き速度だ。下手に避けるよりも受け止めたほうが良いと即座に判断を下し、動作へ移る"ロビン"。両の手の爪を胸の前で合わせ、盾のように組む。目前まで迫ったギデオンの腕が振り下ろされる。爪は決して鋼ではない。しかし誰かがこの瞬間を目にしていたら、火花が飛ぶのを幻視するだろう。金属音が歌い、虚空へと吸い込まれる。次瞬、"ロビン"は組んでいた爪を開きギデオンの腕を振り払う。一瞬顔を覗かせた隙を逃さず、"ロビン"はそのまま足をバネにしてギデオンへと飛びかかり頭からぶつかりかかる。ドンと胸に頭突きをくらい、背を下に倒れ込んだ。だが、ギデオンはその勢いを利用して後転し、体勢を立て直す。その時見せた顔には攻撃が失敗したばかりか反撃をくらった悔しさは微塵も見えない。あるのはまるで獲物をゆっくりと追い詰めんとする楽しみに満ちた笑みである。
「オメェ、あの探偵にずっと成りすましてたってことだよな。本物のクインズ探偵はどうした?」
「お前には関係ないことさ」
「そうかい」
言葉に合わせるようにギデオンは再びその両手に闇色のエネルギーを溜める。咄嗟に相殺すべく、"ロビン"も『ナイトバースト』の構えを取る。そして両者が腕を振り下ろしたのは同時。二つのエネルギーはぶつかり合い、互いを押し合う。最初の数秒は両者の力は均衡していた。だがその時、一方の攻撃がもう一方を圧倒し次の瞬間破る。そのとき発生した衝撃波で一方のゾロアークは体が浮き上がりそのまま数メートル飛ばされた。"ロビン"だった。セメントの床に体を打ち付けた"ロビン"はすぐに起き上がる。しかしぐらりと視界が揺れる。思っていた以上にこちらの体力の消耗が激しい。"ロビン"が方々に走り回っていたこの数日間、他方でギデオンは王宮で女王になりすまし悠々と過ごしていたのだから当然のことだと言えた。"ロビン"は牙をギリリと噛み締めた。
「じゃあ質問を変えようか。探偵に成りすましてるとき、どんな気分だった?」
喋りながらもギデオンは攻撃の手をやめなかった。『ナイトバースト』のエネルギー体を今度は細かなボール状に分け、それを"ロビン"に向けて放つ。右に、後ろに、そして柱の上に。"ロビン"は跳躍を繰り返し次々と迫るエネルギー弾を避けた。弾は床に当たり柱に当たり、また空へと放たれそのまま消えるものもあり。細かな破裂があたりに砂埃を舞わせる。その中から"ロビン"は跳躍し、四隅の柱のうちの一本の上へと陣取った。同時に砂埃の中からギデオンが飛び出し、ちょうど"ロビン"と対角線上の柱へと降り立った。
「来る客みんなオメェを本物だと思ってたんだろ? もちろんあのお姫様もな」
挑発の笑い声をあげながらギデオンは両手の爪を互いに擦り合わせる。爪同士がこすれる度にシャッシャと刃物を打ち合わせるような音が鳴る。そして一回一回の擦り合わせのごとに月明かりからの反射が強くなってた。
相手が『つめとぎ』に興じる間に"ロビン"は改めてこの場をぐるりと見渡した。
「お前と俺の違いか」
"ロビン"は己に問いかけるようにしてポツリと漏らした。そして自嘲気味に僅かに口角が上がる。金色の瞳を夜空へ走らせた。
「確かにやってることはあまり変わらない。どう取り繕ったところで、ずっと師匠のフリをしてたことはその通りなんだからな」
「ヘェ、認めるんだな。何がテメェをそうさせたのやら」
「それこそお前には関係――」
姿勢をグッと低くし、力を溜め込む。
「――ない!」言葉と同時の跳躍。それはギデオンもほぼ同時だった。両者の影は流麗な放物線を描く。各々があたかもあらかじめ申し合わせていたかのように同じ攻撃の構えを見せる。『ナイトバースト』。すでに幾度となく放たれてた技は、しかしそれまでと比較にならぬほどのエネルギー量を伴っていた。そして放物線の頂点で両者は衝突。ぶつかりあったエネルギー体はしばらくの間、宙空での拮抗を経た後、バランスが瓦解したかのように下へと落ちる。塔の床面へ触れる。そして破裂。二つのエネルギーの塊は主から離れたことで制御を失い、凝縮から開放されて強烈な衝撃とともに四方八方へと拡散される。それは爆発となった。
床に亀裂が稲妻のごとく入り、それはまるで生き物のように脆くなっていた部分を探って走り抜ける。海側を向いていた角のほうに亀裂は集中した。そして唸る轟音。四つの石柱の一つが沈み込んだ。床がその重みに耐えきれなくなったのだ。柱の彫刻に描かれた人々や獣が何かを訴えかけるように天を仰ぐ。そのまま柱はバランスを完全に崩し、石材が砕ける悲鳴を轟かせながら遥か地上に向けてこの場から姿を消した。
地上では人々が時計塔の上の異変に気付いたところだった。直後、頂から柱の一つが崩れ落ち、頭上へと落ち始める。叫び声が上がる。「逃げろ」「危ない」。倒れてくる柱は落下の途中で壁面の装飾に当たるなどして、空中の時点でバラバラに形を崩しつつ地上に落下した。飛び交う怒号。それすら掻き消す轟音。広場を覆う砂塵。建国記念の日による祝いの喧騒は、恐怖と混乱による金切り声へと塗りつぶされる。
一方で二体のゾロアークが衝突した塔の頂は激しい砂埃に覆われていた。
"ロビン"は片膝を床につけ、上体を低くしてじっと周囲の気配を伺っていた。聞こえてくる物音は柱の崩壊部から小さな石材の破片がなおも下へ落ちる音ばかり。息を殺しつつ神経を研ぎ澄ませる。ギデオンもまたこの砂塵のなかで機会を伺っているのだろう。時期にこの風が視界を開かせてくれる。それまでにどちらが先に動くか。
やがて頭上の砂塵が晴れてその向こうに月が顔を覗かせた。そのときだった。"ロビン"の視界の右端になにかがゆらりと動いた。
いる――まだ相手はこちらに気づいてないのか、動きを見せる様子はなかった。"ロビン"は自身の爪に『つじぎり』を繰り出すための気を纏わせる。そしてなるだけ音を立てず影に飛びかかった。同時にはじめて相手が動きを見せる。しかし"ロビン"のほうが早い。『つじぎり』の一撃のために構えていた腕を振り上げた。その時、影が初めてこちらへと振り向く。同時に砂煙がはれ、その顔があらわになった。
その姿は紛れもなくついさっき下へ逃したはずのテレーゼ。救いを求めるような不安げな表情で"ロビン"へ視線を注いでいた。
"ロビン"は両目を見開き、まるでその場に縫い留められるが如く動きを止めた。
「テレーゼ、なんでお前ここに……」
――いるんだ?――と言い終えぬうちに脳裏によぎった、「しまった――」と。
引き下がろうと足を踏ん張った。その一瞬。左肩のあたりに鋭いものが通り抜けた。
「うぁ」
その『つじぎり』は"ロビン"の左肩の肉を抉り、それだけでは飽き足らず衝撃で彼の体を吹き飛ばす。"ロビン"は宙空で上体のバランスを完全に失い、横向きに床に叩きつけられた。勢いはそれだけで収まらず何度も体を打ち付けながら転がり、もうあと一、二回転していたら塔の端から真っ逆さまというところでようやく止まった。うつ伏せの"ロビン"のすぐ後ろで石の破片がころんと夜の闇に呑まれた。床のきわを転がった音を最後にもう何も聞こえてこない。
"ロビン"は全身に痛みを覚えながらも起き上がろうとする。しかし左手を床につくと同時に焼きごてを押し付けられたような強烈な痛覚が走り抜け、呻き声とともにまたしても倒れ込む。全身が空気を渇望している。呼吸が浅くなった。
痛みに耐えて薄っすらと開いたまぶたの向こうにテレーゼがこちらを見下ろしているのが見えた、悪巧みに溢れた哄笑浮かべながら。口は耳のあたりまで裂けたかと思うと一気にその正体が明らかとなる。
「馬ァァァァ鹿!」
その声を発する過程で王女の声から野太い獣の声へと変化した。
「オレたちがナニモノかまさか忘れてたわけじゃあねえよなぁ。え?」
"ロビン"は歯を食いしばる。痛みに耐えるためではなく、己の迂闊さへの怒りと悔みのためだった。
少しばかり時間を遡る。
まるで雷のような轟音。同時に地震が起きたような揺れが襲った。テレーゼは思わず壁に寄り添って腰を落とす。そして音と揺れとが収まるとそれに隠されていた別の音が下から聞こえてくる。人々の悲鳴と怒号だった。
何か大きなものが上なら下に向けて落下した。まさか"ロビン"が……? と冷たい感覚のある考えが一瞬よぎるがすぐに否定する。しかし上で何かが起きているのは確かだ。
ここは下層の鐘楼で毎時零分の時鐘に先駆けてメロディを鳴らす四つの鐘が天井から吊り下がっている。また、同時にここは時計塔の四面それぞれにある時計盤の裏側でもある。そのため歯車やピストンのような多くの機械が複雑に入り組んでおり、フロアには機械音や金属音が一定の感覚で響き、四面それぞれの針に時の流れを伝えていた。
テレーゼは足を止め、天井を仰ぐ。その視線は天井を突き抜け、頂上にいる二体のゾロアークへと向けられていた。
――このまま"ロビン"に言われた通り逃げていいの?
たしかにあの場に留まり続けたところで"ロビン"の足手まといにしかならないことは火を見るより明らかだった。ギデオンと名乗ったあのゾロアークはある意味でティトゥス以上に直接的に自分へ手を掛けようとしていた。恐ろしかった。ギデオンのあの理不尽とも言える暴力を思うと足が竦んだ。壁に押さえつけられ、絞めつけられた感触がまだ生々しく首に残っている。戦う力を持たぬ自分はひとまずあの場を離れ、助けを求めるのが正しい判断だろう。しかし――
「本当にそれでいいの?」
テレーゼは己の胸のうちを確かめるように独りごちた。"ロビン"の消耗を漂わせた背中が頭に浮かぶ。
"ロビン"はなぜ己の正体を晒してまで、ずっと守ってきたものを捨ててまでこの事件を追ったのか。それは相手が同族だったからだ。自分と同じ能力を持った、同じ種族。その過程として彼はこの国を、母を、そして自分を救ってくれた。思えばもうこの件だけで何度命の危険に晒されたろうだろう。そして、そのたびに"ロビン"は自分を救ってくれた。
――助けたい。
まだ塔の頂では"ロビン"がギデオンと死闘を繰り広げているのだ。"ロビン"が勝てることを疑っているわけではない。しかしどんなに隠そうとしても滲み出ていた疲弊の姿がテレーゼの後ろ髪を引く。自分に何ができるか分からない。ただ単に足手まといにノコノコ戻るだけかもしれない。
それでも、放っておけない。今度は自分が、彼を助けたい。そう思った。所在なげに胸に当てていた手を、テレーゼはぎゅっと握った。
でも、どうすればいいだろう。テレーゼは考える。そうすると不思議なもの全く気にしていなかった周囲の物音が急に存在を主張し始めるのだった。
――カチカチカチカチ……
――キリキリキリキリ……
――チチチチチチチチ……
――カタカタカタカタ……
歯車、アンクル、カンギ車、もろもろの機械音。テレーゼは今更のようにここは時計塔の内部なのだということを再認識する。そして月明かりの差し込む巨大な時計盤へと目を向けた。ゴトンという重々しい音を立てて分針がひとつ動いた。中から見る時計盤は鏡写しのように本来の時刻の左右反転した時を指している。あと十分と経たぬうちに午前〇時だ。それは日付の変わる境目。
「時計……」
何かを求めるようにテレーゼはひとりごちた。
そのときテレーゼの脳裏になにかが駆け抜けた。それは一瞬のイメージ。自分に訪れるであろう将来。
もう一度天井を仰ぐ。今度はその先にいる"ロビン"のことを案じての視線ではなかった。天井に吊り下がる四つの時鐘。
天啓が降った気がした。自分がやるべき事。"ロビン"を救うために自分がやらねばならぬこと。
テレーゼはボングリを手に持ち、その蓋を開けた。ポンという柔らかな破裂音と白い煙とともに、その中からルナが姿を現す。現れるなりテレーゼはやさしく、且つしっかりとルナの体を掴んで自身の額を寄せる。
唐突ともいえる行動だったが、ルナはそんなテレーゼへ驚きの色は示さない。むしろ自分が呼ばれることをずっと待っていたかのように、そのつぶらな瞳は澄みきった輝きを湛えてた。
テレーゼとルナ、お互いの額が触れる。触れ合ったところに淡い白い光が温かに灯る。
「ルナ、わたしが考えてること、分かるよね?」
返事をするように、白い光が一瞬強く明滅する。
「うまく行くかどうかわからないけど」
それでもこれが自分のできる事なのだ。
また、額の光が強くなった。その時だった。
テレーゼはルナの言葉を聞いた気がした。
――大丈夫。きっとうまくいく。
ただの自分の妄想なのかもしれない。たとえそうだとしても構わない。同じことをルナは考えているはずという確信があったから。
「絶対、絶対にやり遂げるから。あなたの力を貸して」
――うん。
ゴトンと重い音が響く。分針がまたひとつ動いた。それを合図にしたかのように、王女はくるりと踵を返した。
まもなく時刻は一日と一日の境界、午前〇時を迎える。